14.

 相葉は、消化不良のまま非番の午後に目を覚ました。結局、沙織に話を聞いてもらったが、流羽に対する恐怖心は拭えないままだ。

 峰流羽という吸血鬼を知っていた? それは大きな勘違いだった。吸血鬼というものをまるで理解していなかったように思える。現実的な認識として。

「くそ」

 相葉は、流羽を信じたい心と、怯える心が拮抗して結局どっちつかずとなっていた。信じていると口に出すことは嘘ではなくできるし、だが反面顔を合わせるにはいささか抵抗もある。

 平日の午後。広い部屋。千香と住むことを考えてちょっと無理して借りていた。それにしても、この時間になるととても静かだ。寒い印象を受けるくらいに広く虚しい。

 引っ越しを考えたいところだが、今の仕事の合間を縫うのはとてもじゃないが可能とは思えない。

 雑然とした思いを抱えたままベッドから足を降ろした。今日もまた暑い。寝汗をたっぷりとかいた相葉はシャワーを浴びることにした。着替えを持って、風呂場へと向かう。

 脱衣場には、積まれた洗濯物がある。以前は、休みの日に千香がやってきて相葉がいなくても洗濯をしてくれていた。それに随分助けられていた。でも、今は昨日見た洗濯物の山は昨日と同じ姿で積まれている。

「今日は洗濯日かな」

 それらの上に、寝間着代わりのシャツと短パンを重ねた。

 シャワーは良くない。考えごとを始めると、余計なことまで考えてしまい自己嫌悪の無限回廊に突入してしまう。それでも、普段より深く物事を考えられるので今は好機と捉えるべきだろう。

 少しぬるめに設定したお湯を浴びた。とりあえず沙織に言われたように、物事を単純にしてみようとする。

「単純、単純にねえ」

 今一番引っかかっていることはなにか。それは、流羽の正体が分からなくて戸惑っていることだ。それに恐怖を感じている。じゃあ、それから逃れる方法はなにがあるだろう。簡単なのは警察を辞めること。だけど、それは本質的に問題は解決していないと思う。

 さらに言えば、仕事を辞めれば千香との復縁もありえるかもしれないという甘い見通しもついてきている。千香のことは千香のこととして区別すべきだ。警察を辞めることも流羽の問題とは密接だが別問題だと考えられる。

 流羽のことを解決する方法。ヒマリアには、自分で聞けと言われているし、流羽には今はまだ話せないと言われている。二つ思いついたが、気の進まない方法だ。だが、他の方法を思案するが妙案は思いつかない。

 一つ目は、ごり押しで本人から聞き出す。辞職をちらつかせれば、もしかするかもしれない。

 シャワーから流れるお湯は、相葉の頭を撫でて排水溝に流れていく。

 二つ目は、正体が分からなくて怖いなら、分かるまで行動を共にすること。この方法が良いのかもしれないが、時間がかかりすぎるのが難点だし、そもそもそれが出来るなら悩んだりしていない。

 なにかこう流れるような妙案は浮かばないものか。

「あー、やめやめ」

 相葉はシャンプーを手にとって、少し乱暴に頭を洗い始めた。



 夕方。相葉は、流羽のマンションの前にいた。今日は、別に満月ではない。きっと、会ってくれるだろうという期待でここに来た。

 手には、お土産もなくただ焦りと恐怖に滲んだ汗だけ。気を回してる余裕もないし、その方が率直で良い気もした。

 セキュリティの高いマンションのエントランス。流羽の部屋の番号を入力しチャイムを押す。もしここで反応がないなら、引き返すつもりだった。合い鍵は公務以外では使わない。それが、親しき仲にも礼儀あり、だ。

 押して十秒。反応がないかと、背を向けた瞬間声が聞こえてきたので振り返った。このとき、反応がないことに安堵していた自分がいたことに気付く。

「はい。って、相葉か。どうした?」

 セキュリティの機械にはカメラがついているので、向こうには誰だかが視認できるようになっている。こっちは声の感じだけしか分からないが、怖い感じはしない。

 相葉は、すぐに返事が出来ず言い淀んだ。

「まあ、入れ」

 その言葉と同時に、入り口の自動ドアが相葉を迎え入れるために開いた。

 エレベーターに乗ると、目的の階のボタンだけ点滅している。用のない他の階には行けないように出来ている仕組みだ。いつもなら住人と同じく鍵を使って入るので、どこにでも行けるが今日は客なのでそれに従う。

 部屋の前まで来ると、最後の呼び鈴を押した。

「開いてるよ」

「やあ、こんにちは、流羽」

 すっかり開け慣れたドアを開けると、玄関先で流羽が待っててくれた。しかも、ゆったりと着崩している寝間着のシャツにショーツ一丁という格好で。もし、訪問者がロリコンだったらどうするつもりなんだろう? まあ、人間が勝てるとも思わないけど。

「ん? ヒマだから寄ったという顔ではないな。なにか用事か?」

 あくびしながら、右足で左足を掻くな。おっさんじゃないんだから。それにしてもすべすべしてそうで、きっと女から見ればうらやましいことこの上ない肌なんだろうな。ロリコンの気はないけど。

「ああ、ちょっと話があって……」

 いろいろ飲み込んでそう言った。飲み込まなければ、空気が緩んでしまう。そうしたら自分はどこまでも逃げていきそうだった。

「まあ、上がれ。散らかってはいるが魔窟と言うわけではない。とって喰いはしないよ」

 冗談にしては、厳しい言葉。今まさに相葉が抱えている問題の根幹にある問題そのものともいえるからだ。

 慣れた感じで、廊下の奥にあるリヴィングに入る。やはり本が溢れるくらい置かれていた。そして、暗い部屋。生地の厚いカーテンで完全に遮光してある。これではまるで伝承にあるドラキュラのように陽光を避けているようにしか見えない。相葉の背筋に冷たい汗が伝った。

 食卓も食卓として機能していないのではないかと思えるくらい雑然としている。そこの一角は流羽が使っているのだろう、空間が確保されていた。その対面には本がうずたかく積まれ客をもてなす雰囲気ではない。だが、そこにある本を根こそぎどけてくれた。

「まあ、そこの席についててくれ」

 雑然としているにも関わらず、食べ残しや片付けられていない食器があるわけでもない。

 キッチンは清潔に保たれているというよりかは、あまり使用されていない感じである。でも、水垢はなくや腐臭がするわけでもない。少し大きめのごみ箱が目に入ったくらいだ。

「ねえ、流羽。普段はなに食べてるの?」

「あん? コンビニ弁当だな」

 流羽は、インスタントのお茶を入れながら答えた。

「そんなんで、警察官の仕事に耐えうる体力が得られるの?」

「あたしをなんだと思っている? 栄養素がそろっていれば体調など崩さない。野菜ジュースと血液パックがあれば万全だ」

 コンビニ弁当が入っていない。とにかく、今は話をしよう。流羽のことを知ろう。そのために押しかけてきたのだから。

「吸血鬼って、病気にならないの?」

「まずならんな。人間の罹る病気には異常なまでの体力で抵抗するし、吸血鬼しか罹らない病気というのもあるらしいが、どれも即死級らしいし」

 流羽は、お茶を入れたカップを持ってきてくれた。

「なんだ、相葉? なにを聞きたくてこんなところまで来てくれたんだ?」

 単刀直入。

「うん、流羽と話がしたくて」

「話? なんの話だ?」

 流羽が訝しむ。

「とりとめのない話」

 一見重要そうに見えないだろうが、とても大事な時間になるはずだ。

「ふーん。要は家庭訪問か」

「いやいや。そんな調べるとか、そんなんじゃなくて。流羽のことをもう少し知りたいんだよ」

「知りたいのは、吸血鬼について、じゃないのか?」

 流羽の涼やかな視線に、相葉は思わず固唾を飲み込んでしまう。

「図星か。まあ、いいがな」

 流羽は肩をすくめて、お茶に口をつけた。その唇は肉が薄い代わりに形が整っていて美しいと言える。顔も大人になったらヒマリアや松澤のように鋭い感じの美人になるのが容易に予想できた。ただ、今の方があどけなさがあって可愛らしいと思う。ロリコンの気はないが。

「でも、ちょっと訂正。僕が知りたいのは流羽という吸血鬼についてだよ。一般的な吸血鬼は正直どうでも良いんだ」

「ほう。告白か?」

「いや。僕、ロリコンの気はないから」

「そうだったな」

「なんでそんなに残念そうなんだよ?」

「いやだって、そっちの方が面白いだろう?」

「流羽は、もっと恋を知った方が良いよ」

「経験が薄いのは認めるが、おまえには言われたくないかもな」

「それも否定は出来ないね」

 流羽は、食卓の椅子の上に足を片方乗せた。白い滑らかな膝が食卓の面から顔を覗かせた。今は確実に下ではショーツが絶賛解放中だ。興味はないが、流羽の露骨な仕掛けに眉根を寄せる。

「見ないよ?」

「なにを?」

「パンツ」

「ああ、そういえばこうしたら見えてしまうな。ついクセで乗せてしまった。相葉、意識しすぎじゃないか?」

 しまった。天然の罠だった。流羽は、嬉しそうに口角を吊り上げる。悪女だ。悪女の顔だ。

「こほん。もう少し恥じらいというものを持つべきだと思うよ。仮にも僕は男なんだよ?」

「知ってるさ。ロリコンの気がない大人の男なのだろう?」

「そのとおりだけど、僕の趣味と君の恥じらいのなさは関係ない。僕以外の前でも気をつけるべきだと思うよ」

「安心しろ、おまえ以外は易々と部屋に上げたりはしない」

「それは、告白?」

「そうだといったら?」

「残念ながら、僕にはそれに応えられるだけの甲斐性はない」

「それは知ってる。だが、恋はあばたもえくぼ。惚れたら関係ないじゃないか」

 実に楽しそうだ。

「君は、捜査に恋してるんだろ? 二股はよくないよ」

「ちえ、うまく言い逃れやがって」

 相葉は、ここで自分の喉がすっかり乾いてることに気がついた。出してもらったお茶で口を湿らせる。

「あ、おいしい」

 意外という顔をした相葉を見て流羽がため息混じりに言う。

「まずい茶なんて、どうやったら入れられるんだ?」

「いろいろあると思うよ。まずくなくてもおいしくなかったり、飲みにくかったりって」

「まあ、分からんでもないが。だが、そこで意外という顔をされたことが引っかかる」

「え? いや、その。流羽に家庭科のスキルが存在するとは思ってなかった」

「あたしは、基本に忠実だからな。変なアレンジに挑戦したりしないしな」

「そうだよね。なんで下手な人って自分を入れたがるんだろうね?」

 そういって、笑顔になる相葉。この笑いは素で出たものだ。

「なあ、相葉? おまえはあたしのなにを怖がっている?」

 不意打ちだった。全てを見透かされた質問。

 黙り込む相葉。今あった明るい笑顔も翳っている。

「なあ? 教えてくれないか?」

 請う声色。甘えるような感じでもある。そこにちょっとどぎまぎしそうだ。

「このまえ、流羽が見せた一瞬の表情」

「表情?」

「そう、流羽なのに流羽じゃない感じの顔。それが、流羽の本当の顔なのか、吸血鬼の顔なのかが気になってる」

「……相葉。それは吸血鬼の顔だが、同時にあたしの顔でもある」

「どういう意味?」

「そのままだ。あたしは人間ではなくなった。吸血鬼なんだ。だとしたら、どっちの意味でもあたし、峰流羽の顔だよ」

「……」

「……」

 気まずい時間が流れる。どう答えていいかわからない。そもそも自分はなにを確認したくてここに来たのかも曖昧になっていた。

「流羽、帰るよ」

「そうか」

 沈鬱な雰囲気、暗い表情。

「ごめん」

 相葉は、なにを思って謝ったのかも判然としなかったが、帰り際そんなことを口にしていた。

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