11.
その日の夜。鑑識資料二班だけが、呼び出しを受けた。電話は、流羽が受けているのでどういう呼び出しなのかはわからない。ただ、いちさん係の会議に向かうために署を出ようとしていたタイミングだった。もう少し遅ければ、バスに揺られ、道具もなにもないところで呼び出しを受けるところだっただろう。
わずかばかりの僥倖というべきか。いや、事件があったのだ、僥倖というのは被害者に失礼すぎる。
「相葉、コロシだ」
流羽は真剣な顔でそう言って踵を返した。
「……っ、はい」
思わず息を飲む。吸気が少し引きつったのが自分でもわかった。
「総務課行って、車借りといてくれ!」
「はい」
流羽は、相葉のつなぎと道具も持って鑑識課から戻ってきた。流羽は既につなぎ姿だ。
「ねえ、流羽? そのつなぎどうやって持ってきたの? 鍵かかってたでしょ?」
些細なことだが気になった。ロッカーには鍵がかかっている。
「企業秘密だ。それより急げ」
相葉は、借りた覆面パトカーを玄関に回し、流羽を乗せると同時に車を走らせた。赤色灯を回し、急ぎをアピールする。
「本当に急いで良いの?」
「ああ」
相葉は、無言で三速に入れて急発進する。夜の美作といえど、まだ車通りの多い時間であるにもかかわらず、相葉の車は平均時速八十キロを記録し、普通なら四十分の道を十五分で走破した。
「お、おまえに急げという言葉を使うときはもっと気をつける」
さすがの流羽も、びっくりしているようだ。確かに、運転中には短い悲鳴以外言葉を発していなかった。
「でも、早く着けたから良いじゃない」
相葉は、つなぎを着ながら言った。ここからは、まだ現場は見えない。だが、生ぬるい風に乗って、生臭いにおいがしてきていた。靴にカバーをつけて準備は終了だ。
「相葉、丹田、へその下に力を込めろ。この現場はおまえには早すぎるかもしれん。覚悟だけしろ。この前とは訳が違う」
「……うん」
今まで、運転に集中して考えないようにしていたことが現実になろうとしている。狭いところに集合しているパトカーを始めとする車両たち。その向こうにはブルーシートに囲われた現場が存在している。
「いいか?」
「ああ」
流羽がシートをめくると、そこには阿鼻叫喚の地獄とも言える状況が広がっていた。狭い路地を形作る高い塀には一種のアートではないかというほど血が飛び散り、元人間だったなにかが何個かに分割されて落ちている。あまりに変形しすぎて、ここが殺人現場だというのをすぐには認識できなかった。
ただ、落ちている頭の無残に見開かれた眼と眼があった瞬間、それが人だったことを悟った。茫然自失とし、動きが止まる。相葉の感覚も止まった。これ以上この場から情報を得てはいけないといわんばかりに、聴覚視覚嗅覚が認識をやめる。
流羽に小突かれて自分を取り戻した。
「無理すんな。こんな凄惨な光景、あたしでも久しぶりに見た。車に下がっていろ」
流羽は気を使ってくれているのだろう。だけど、邪魔者扱いされたような気分になって、車には戻らないことに決めた。
現場を酸鼻たらしめているその赤いものは、良く見れば自分の足下のすぐ側まで流れてきている。思わず飛び退きそうになるが、丹田に力を込めてとどまった。
写真係と足跡班がせっせと自分の仕事をこなしているのがわかる。その中には、伊吹鑑識長の姿もあった。流羽も、足跡班に合流し、血まみれの足跡を採取し始める。相葉も今まで培った技術を総動員し、手伝いを始めた。どうもここでも、資料班としての役割を担いそうだ。
「おい、峰」
「はい、なんですかイブさん」
伊吹鑑識長に呼ばれ、流羽が血を踏まないように寄っていく。この状況で踏まないのはどだい無理な話ではあるが、努力は怠らない。相葉もそれに倣って近づいていく。
「検視官がまだだから、断定は出来ないが、これなんの歯に見える?」
伊吹は、死体についてる歯形をライトで照らしながら流羽に尋ねた。相葉も良く見てみる。このとき、良く見てもなんともなかったのは、もはやどこの部位だかわからなかったからだ。
「これは……」
「ほう、相葉。見覚えが?」
「ええ。これは犬の歯形じゃないですか?」
「なるほど。経験が?」
「昔噛まれたことがあって、そのときの傷にそっくりです」
「では、この犬の歯形はどうしてついたと思う?」
「野良犬が喰いついたのでしょうか」
「この犬の体長はどれくらいだと推測する?」
「これだと、あれ? 二メートル近い気がします」
「それは犬でなくて、熊だろう」
「そうですね」
困った。そんな大きな犬がいたら間違いなく通報されているサイズの野良犬だ。
「授業中に悪いが、もっと現実を教えてやれ」
伊吹が、冷静にすっぱりとした口調で言った。
「そうですね。おまえの指摘は良いところをついている。だけど、いまいちいちさん係のことを理解できていないと見える」
「それはどういう?」
「これは、犬ではなくて狼だ」
「そんな、この街に狼なんて……。あ!」
相葉は、流羽を見て一つ失念していたことに気付く。
「やっとわかったか。つまりはそういうことだ。これは、人狼もしくは狼男に因るものだよ」
流羽の苦々しい顔。なぜかそれはこの被害者に向けられていない気がする。なんとなくだったが。
その晩は資料収集と現場の復帰に時間をとられ、鑑識の人間は誰も会議に出られなかった。
次の日の夜、いちさん係の会議に参加するために、本部へと向かっていく。不思議なことに、ここに参加するようになってから鑑識の仕事が激減していた。なにかしら大きな力が働いているのがうかがわれる。
「現場に落ちていた毛髪から、先日起きた、三日月区のマンション刺殺犯と同じDNAが検出されました。経緯は不明ですが、同一犯と見て間違いないと思われます」
伊吹鑑識長からの言葉で会議は始まった。
「被疑者は、
会議の冒頭の方で、松澤エリ特別心理捜査官がそういった。長い女性らしい黒髪をひっつめているのがまた似合う、怜悧な感じのする美人である。だが、同時にその怜悧さは取っつきにくそうにも見せた。
「孕月状態? 誰か、説明を」
マイクを通して生瀬が疑問を投げかけた。すっと、流羽が手を上げる。
「峰巡査部長」
「はい。孕月状態は、ムーンナイズとも呼ばれ、主に月に関係する超越種に起こりうる問題です。その中でも、特に影響を受けやすいのは吸血鬼と人狼です。孕月状態になると、狂気に取り憑かれたようになり、人や獣、果ては仲間の血といった血液に飢えるようになり、衝動的に生きものを殺し喰います」
「それは、人間の発狂と同じものと捕らえても良いものですか?」
生瀬が追の問いを発し、それを流羽ではなく松澤が受ける。
「それがどのような理由による発狂を意図しているかはわかりませんが、人間の発狂の一形態と似ていることは間違いありません」
「そうなってしまったものは、元に戻ることは?」
松澤は流羽を見た。流羽は、再び立ち上がりきっぱりと言う。
「前例はありません。これは、一族に孕月状態者が出たときは必ずその一族が処分してきました。ですが、この街には流浪のものやこの街生まれの新参者が多く、その一族が機能を果たしていないと見るべきだと思います」
「そうですか、わかりました。全員に銃の携行命令を発布します。所属に関係なく容疑者の捜索をしてください。容疑者は、見つけ次第捕縛。拘束して研究所送りとします。いじょ――」
「あの!」
流羽が異論を挟む形で、意見を言う。
「なんですか、峰巡査部長?」
「その状態の被疑者を捉えることは人間には無理です。射殺を提案します」
「我々は、孕月状態のことについてあまりにも知らなさすぎます。もっと、研究をする必要があると判断します。他には? なければ、解散」
みなが続々と出ていく中、流羽は立ち尽くしていた。
「流羽、捜査に行こう。僕らも銃を装備しなくちゃ」
使えるモノならば鑑識でも使う。今は、それくらい緊急状態だった。
「……けんなんだ」
「え?」
「孕月状態に堕ちたやつはきわめて危険なんだ。捕縛なんてことをしてたら、仲間に危険が及ぶ。そんなことを指をくわえてみてるわけにはいかない」
「どうしたんだい、流羽? なんかおかしいよ?」
「おまえは、あの恐ろしさを知らないからそうやって言えるんだ!」
流羽は、相葉の襟をとって高みから引きずり下ろした。そして、顔を近づける。酷く興奮しているのがわかった。でも、相葉にはどうしていいかわからない。
完全縦社会の警察においてリーダーが決めたことには逆らうな。それは、流羽も言っていたはずだ。
「なにが、あったの? 流羽?」
相葉は締められて苦しいところ、無理して声を出した。
「孕月状態の犯人を野放しになんて出来ない!」
流羽は、質問にも答えず生瀬係長の元に行くと、きっぱり言った。
「あたしは、犯人を殺します。係長は孕月状態のことを甘く見すぎです」
それだけ言うと颯爽と部屋を出ていった。生瀬は一言も言葉を発しない。
相葉は、どうして良いかわからず行動できなかった。だけれど、流羽についていくのが今は正解なような気がする。流羽の側には誰かが必要だ。そう感じた。
「なあ、生瀬係長?」
二人が出ていった会議室内でのことだ。
「なんです? 槐巡査長?」
「いいのか、若い連中に好き勝手言わせて」
「我々は、あのような若者たちの情熱をうまく使う側にいます。大丈夫です。あなたでも、この歳まで刑事をやれたんですから」
「か。こりゃまた一本取られました。じゃあ、オレはバックアップに回ります」
「彼らは恵まれている。こうして伝説の刑事の援護を得られるんですから」
「伝説の刑事ね。こりゃまた、酷い蔑称を付けられたものだ」
「鋼鉄の仮面と取り替えましょうか?」
「あー、いや。伝説で我慢しとくわ」
「はい。では、よろしくお願いします」
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