07.

「ところで流羽? なんで昨日は毛髪集めに躍起になったの?」

 昨日は速攻で帰ったために、そのことを聞き忘れていた。一通り話し終えて落ち着いたところで後学のための質問をしたというわけだ。

「ふむ。おまえは、髪の毛の構造を知っているか?」

「いや、知らないけど」

「そこからか」

 軽くため息をつきつつも嫌だとか面倒だとかいう感じはない。

「内部の芯をなす『髄質』、それを取り巻く『皮質』。それらを覆う『表皮』からなっている。そうだな、鉛筆を想像するとわかりやすいか。そして重要なのが髄質の部分だ。髄質には髄質指数というものがある。髄質指数とは髄質の幅と毛の軸全体の幅との比率だ。それで見分ける」

「見分けるってなにを?」

「人間の髄質指数は、通常〇・三未満だが、大概の動物では少なくとも〇・五以上だ。そして、ここが重要なのだが、獣人系の超越種の毛は〇・四になる。だから犯人の特定に用いられるってわけだ。わかったか?」

「うん、わかったよ。すごいんだな、科捜研て」

「いや、科捜研に送る仕事じゃない。それに、下手に科捜研に送って超越種の存在を喧伝するはめになったら面倒だからな。光学顕微鏡でできる、我々鑑識班の仕事さ」

「え? じゃあ、流羽が眠そうにしてるのって、その捜査のせい?」

「ああ、そうだよ」

「なんで、僕を呼ばなかった? 僕は君の相棒じゃなかったのか?」

 仕事はしたくなかったし、時間も惜しかった。だけど、なにかが腑に落ちない。

「ふん、時計ばかり気にしてたくせによく言う。しかも、修羅場に電話する趣味はない」

「趣味かそれは。まあ、ありがたかったけどね、あはは」

 乾いた笑い声が口をつく。

「そうか」

 流羽はいつもと違って軽口を叩かず、眠そうな目でコーヒーという名のジュースに口を付けた。

「いいんだよ? 罵ってくれて。ああ、僕は仕事も満足にできない不出来な警察官さ」

「人の本気の不幸を笑いのタネにするほどネタには困っていないつもりだ」

 そう、千香には本気で惚れていた。だけど、仕事があるとなると不思議と休みたいとは思わなかった。

「ありがとう」

「礼は要らない。人間が仕事を営むというのはそういうことも含まれる」

 今の世の中において甘いと言われればそうなのかもしれないがこういう考え方には助けられる。

「今日の夜は空けとけよ。仕事だ」

「仕事? 今からはできないの?」

「できない」

 夜絡みの仕事でまともな仕事は想像できない。なにせ、相方が吸血鬼なのだ。思わず、固唾を飲み込んでしまう。

「正義に迷う、そんな憐れなおまえに、心苦しいプレゼントだ。ああ、これは本当に心痛む」

 一から十まで芝居がかった言い回しに、大きな手振り身振り。

「な、なにさ。吸血鬼相手のおとり捜査とか?」

「あたしらは、鑑識だぞ。そんな前線ばりばりの仕事なんて回ってこない」

「じゃあ、なに?」

 聞くのも怖いが、だけど覚悟する時間くらいは欲しい。

「大したことじゃない。ほんの一つ、会議に出るだけだ」

「会、議?」

 なんとなく、強ばった肩から力が抜けるような気がした。

「そうだ、会議だ。世にも恐ろしい会議だぞ」

 そういえば、警察官を拝命してからすぐに鑑識に回されたので捜査会議に出たことがない。本当に裏方の仕事なのだ。本部を含めての会議だと確かに少し緊張するかもしれない。でも、恐ろしい?

「僕らが出て良い会議があるなんて知らなかったよ」

 「鑑識に回せ」「鑑識にやらせろ」「鑑識を呼べ」こういう言い回しが多く、そこからは刑事課との使う使われるの関係が見えてくる。重要な仕事にありながら花形の影に甘んじ続ける仕事。別に目立ちたいとも思わないが、でも思うところもある。

「あるところにはある、夢のような会議だぞ」

 恐ろしいのに、夢のような会議? 上手く想像できない。

 結局、今日は特別出動もなく、ひたすらに事務手続きに追われて過ごした。

 夜の八時を回ったところで流羽がおもむろに書類を閉じ始める。休憩やトイレとは違う、引き上げの雰囲気だ。

「どうしたの、流羽? 帰るの?」

「いや。九時から会議だからな今から向かう」

「え? ここでやるんじゃないの?」

「違う。本部でやるんだよ」

「うえ! マジで?」

「そういうわけだ、ちゃっちゃかと準備しろ」

 本部。美作方面中央署を始めとする、五つの方面署を統括する場所。警視庁に並び、その独立性が高い場所でもある。

 要は、エリートばかりが集まる場所というイメージが強くて、あまり行きたくない。所轄の、しかもただの鑑識官には敷居が高すぎる。流羽が呼ばれるのまではわかるのだ。なんせ、吸血鬼だ。彼女にしか解けない難問というのあるだろう。だけども、自分が呼ばれる理由がいまいち思い当たらない。

「なんで、僕が呼ばれるの? なんかした?」

「あたしの相棒はおまえだから、だ」

 少し、頬を赤らめて恥じらいながらそういった。かなり可愛い。ロリコンの気はないが。だけど、その言葉だけで流羽を一人でいかせるわけにはいかないと思った。なにせ、向こうから相棒と言ってくれたのは初めてだからだ。それに応えずしてなにが男か。

「仕方ない、付き合うよ」

「付き合うんじゃない。おまえも一人の警察官として参加するんだよ。あたしのおまけという考え方は今のうちに捨てておけ」

「う、わかったよ」

 実際問題、自分のようなぺーぺーの鑑識官に発言力があるのかははなはだ疑問だ。だけど、流羽に恥をかかせないようになだけはしないと。そんなことを思って相葉も外出の準備を始めた。



 非公式なのかわからないが、車が使えなかったので、バスで中央区まで出ていく。三日月区は数少ない地下鉄のない地域なので、いろいろ不便なのである。

 流羽は出勤時のスーツ姿になっていた。

「うー、なんか緊張してきた」

 揺るバスはまるで、ドナドナのように感じられる。

「そんなに硬くなることはない。むしろ、普段通りでいけ。実力だけが問われる世界だ。階級なんて言うのも飾りに過ぎなくなる。実力があるなら、ため口を利いたって許される。だが」

「実力ないやつは即刻排除ってこと?」

「まあ、即刻っていうことはないにしろ、発言権と仕事はなくなる。それだけだ」

「それ、排除よりきついよね」

「そんなことはない。慣れれば、良い場所だ」

 それっきり、バスが停車するまで、会話はなくなった。

 神宮通四丁目前のバス停で下車する。本部は目と鼻の先だ。相葉は、心臓が早鐘を打つように鼓動しているのを感じている。

 実力が問われる世界。

 相葉にとって想像するのが困難な世界。むしろ絶する世界かもしれない。

 相葉はこの歳になるまであまり実力で計られる世界に身を置いた経験がない。高校も大学も、実力的に難関なところを選ばなかった。唯一警察官になるときに、勉強をしたくらいだが、命がけで取り組んだわけでもない。本人もさほど苦労したという思いはない。

 のらりくらりと嫌なことを躱してきた人生。今初めて、階級による縦割りではなくて、警察官として、ひいては人間としての実力が求められる世界に行こうとしている。そこで、自分が試される。なんという場に連れて行かれるのだろう。

 だが、ただ面倒とかの意味で嫌だから躱してきたわけではない。本気になった自分が怖かったからだ。のめり込むといろいろ失うを知っている。今回千香を失ったのもそれが原因の一部だと考えているくらいだ。

 それでも、どうせやるならやることに意味がなければ人生の無駄と考える相葉は、それなりの道を通って生きてきた。目標を立てたわけではなく、今やるべきことをこなして生きてきたら、割と優秀な過程を経てきた。

 本来ならば、東大辺りも狙えたし、国家公務員一級だって、一、二度挑戦すれば通ったかもしれない。それぐらいの優秀さはあった。だけど、東大を狙って失敗し私立に行くことや、国家公務員一級に落ちて自信というか矜持を傷つける意味を見つけることができなかっただけだ。

「おまえは、もう少し人に評価されることに慣れるべきだ」

 心を見透かしたような言葉。多分、流羽にはばれているのだろう。そうとしか思えない。

「だけど、なんで今日?」

 よりによって今日、振られた翌日。自分はなにか悪いことしただろうか。いや、確かに千香を傷つけた。それに相応しい罰かもしれない。それでも。

「昨日起きた事件の帳場だからな。致し方ない」

「そっか。全部、昨日の事件のせいか」

 千香と別れたのも、今置かれてる状況も、考えてみれば全部昨日の事件がきっかけだ。

「馬鹿やろう。気持ちはわかるが、私情を挟むんじゃない」

「でも、事実だろう?」

 流羽は、足を止めて、相葉の方をじっと見つめる。

「なにかのせいにする人生は楽かもしれないが、そんな無責任はない。自分の人生の責任はおまえ自身によってしか取れない」

「そうは言うけどさ……」

「おまえは自分がおかれている現状から逃げたいだけだ。それは、おまえになんの結果ももたらさない。意味を全て砕くぞ?」

 意味を砕く?

「なにを言ってるのか、わからないよ」

「おまえが、彼女と別れることも、今日評価されるのも理由があり、意味もある」

「どんな意味だよ」

 少しガラが悪くなっている言い方だった。

「おまえが成長するための大きなステップだ」

「余計なお世話だね。僕は、別にこれ以上成長したいとは思ってない。そんなことより千香を返してくれよ!」

 思わず、大きい声になってしまった。

「子供の言い訳じゃないんだ。そういうところを鍛え直してもらえ」

 だけども、流羽はどこまでも物静かな態度で返事をしてきた。少しの間、じっと相葉の両目を見つめる。どことなく、悲しそうな表情だと感じた。どうして、流羽がそんな表情をするのかわからなかったが、でもそう感じたのだ。

 さすがに相葉は、その目を見てこれ以上文句を言うことも怒ることもできなくなった。

「さあ、行こう」

 死体を見るときも、今までもやることなすことに意味をくっつけてきた相葉は、ここでも内心なにかを見いだそうとする。

 だけど。成長したって千香は帰ってこない。そんな成長なんて意味がない。昨日の今日というのもあったが、それくらい、相葉は千香のことが大切だったし、全てだった。

「彼女は帰ってこない。だが、おまえにはまだ人生が残っている。同じ失敗をしないためにも精一杯学べ」

「意味を感じないよ」

「おまえならできる」

「なにを根拠に……」

 吐き捨てるように言った。

「根拠か。根拠ならある。おまえは優秀な人間だし、なによりも正解を答えた唯一の研修生でもある」

「はあ?」

「おまえが警察学校にいたときを覚えているか?」

 確か、講師の一人として流羽がいたと思う。座学の講師だ。それが、流羽と相葉の初顔合わせだった。

「あたしは、おまえたちにこう聞いた。『ある青年がいる。その青年は、気むずかしくて有名で、いつも難しい顔をしている。だけど、週に一回から二回、赤いジャンパーを着ていることがあり、その日は機嫌がよい。さて理由はなんだったと思う?』と」

「ああ、そういえば、そんなこと言ってたかも」

「みなが、『赤いジャンパーが好きだから、機嫌が良い』もしくは、『機嫌の良いときには赤いジャンパーを着てくる』と答えた。おまえだけだ。『わかるわけがない』と答えたのは」

「だって、そうだろう? その赤いジャンパーがなにに使われるものか判明してないのに、その二つを結びつけるのは短絡的だと思う」

「そうだ。実は、このジャンパーは彼の好きなスポーツをやるときに着用するもので、赤いのはなんの関連もない。まあ、そう言ったら、おまえは『彼がそのスポーツをする際に着るものとして赤を選んだのは好みかもしれない。それもわかっていない』と返したっけな」

 流羽の顔が、思い出された感情によって喜に緩む。

「随分と柔軟な考え方ができるやつがいたものだと、その当時は嬉しかったよ。だから、おまえには是が非でも成長してもらいたいんだ」

「それで、彼女を失ったわけだけどね」

「悪いが、おまえにはそれを乗り越えてもらいたい。というか、できなくてもできるようになってもらわなくては困るのだ」

「でも、僕には彼女が必要だったんだ」

「ある吸血鬼が言った言葉にこういうのがある。本当に必要だったか? そう思い込んでいるだけじゃないか? 案外なくても平気かもしれないし、日常は嫌でも回る。とな」

 相葉は言葉を失った。そうかもしれない可能性がある。現実、今日は仕事に出たし、息もしている。ご飯も食べた。そうやって生きている。

 ツケなのかもしれない。こういう人生を選んできた自分に対する。そのツケをまとめて精算しなくてはいけない時機なのだろう。ならば、敢然と立ち向かわなくては、千香との別れに意味がなくなってしまう。

「君らはなんて残酷なんだ。……いいよ、わかったよ。僕が千香を失った意味を見つけるために行こう」

 そういって、相葉は本部ビルへ悠然と向かっていった。

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