06.
正直、落ち込んでいる。昨夜は満足に眠れなかった。悲しいのかさえ定かじゃないのに、虚しさだけははっきりと感じている。わかっている、悪いのは自分だ。
その睡眠時間の欠乏から、仕事中なのにもかかわらずぼうっとしてしまった。デスクワークの最中なので眠気もまたひとしおである。
「――ば! きょ・う・い・ち?」
ふっと耳に吐息を吹きかけられた。思わず飛び上がるところだ。だが、辛うじて椅子にしがみつけた。軽く上目遣いで相葉を見てくる流羽。なんだか色っぽく見える。気のせいだろう。ロリコンの気はないのだし。
「な、なにをするんだよ、流羽?」
それでも、心臓は激しく鼓動を刻む。
「なにって、呼んでも上の空だから、ちょっと愛のこもった囁きを試してみただけだ」
「愛って、君に僕に対する愛があるなら見せてもらいたいものだけど?」
「失礼なことを。これ以上ないってくらい愛してやってるではないか!」
「誤解を招くようなことを堂々と言うな!」
「事実だから仕方ない。これ以上ない上司愛でおまえを育ててやっているというのに、なんという恩知らず」
ああ、嘆かわしい。と、流羽は大げさに振る舞う普段ならからかうところだが、そんな気分ではない。出てくるのは、一つのため息だけ。
「はあ。幸せそうでうらやましいよ」
「なんだ、そのこの世の不幸を一人で背負ってますって言う反応は」
「事実そうでもなく、そうでもある。僕らにとっては最高の不幸なんだけど、他人から見れば些事なんだろうね」
流羽は、ぴんと来た顔をしていた。
「おまえ、失恋したのか?」
直球ど真ん中だ。もう少し上司愛というやつがあるならオブラートに包んでくれてもいい気がした。だが、言い方をいくら変えようと現実事実は変わらない。これぐらいの方が流羽らしいのかもしれない。
「……そうだよ」
「ふーん。おまえの彼女って美人だったよな」
「そうだね」
「おまえには高嶺の花だったのかもしれないしな。次。次に期待しよう」
「当分は、いいよ」
「そうか? とびきりの子を紹介してやるぞ」
まさか、早乙女さん? 三浦さん? まさか、流羽? ロリコンの気はないんだけど。でも、千香はそう簡単に忘れられないしな。
流羽は、相葉のデスクに腰掛けてくる。この部屋にいるときはずっとくわえている禁煙パイポをぴこぴこと動かし、本人的にはセクシーな格好で色っぽく決めているようだけど、相葉の心は微塵も揺らがない。
流羽はこうした大人びたポーズとかをとることもしょっちゅうであるが、相葉はその純真無垢な見た目に反した、かなりの背伸びを無理にしているようにしか見えず、特別な感情は湧いてこない。むしろ痛々しささえ覚える。
それでも、まださっきの動悸が残っていた。誰を紹介してくれるというのだろう。
「捜査に恋をしろ」
「――え?」
このときの相葉は、純粋なこれ以上ないくらい素直に驚いた。というか、なにを言っているのかわからない、いや理解したくないというのが正確なところ。今し方打ちのめされているのはそのことについてだからだ。
「捜査に恋しろ、と言った」
それが、失恋して気力を失っていた相葉に二度掛けられた相棒の慰めだった。
「はあ? 生憎、僕は仕事を持ち帰らない主義なんで」
「恋にそんな小難しい理論や哲学はいらん」
「小難しくなんて……」
「人を好きになるのに、家に持ち帰らないとか境界を決めて恋をするのか? 違うだろう? 常に捜査のことを考える。それに、境目などないのだ」
流羽は、手に持ったカップを傾けて、コーヒーメーカーが作り出した液体を口にする。心底苦いという顔をした。そして、すぐに目一杯の砂糖とミルクを投入する。いつもの通りコーヒージュースだ。
「僕は、人間なんで、仕事のことばかり考えて生きていけません」
「吸血鬼だってそうさ。ただな、それぐらいの覚悟を持ってやらねばならない仕事なんだよ。我らの鑑識という仕事は」
そう。なんだって、文系卒の自分が鑑識なんていう部署に飛ばされたのか全くわからなかった。ただ、負けん気の強い自分が恨めしい。それが、しがみついてる理由だから。そうしている以上、こうして偉大なる鑑識官の流羽の講釈を拝聴するのが日課になっている。
曰く、鑑識は日常が勝負らしい。新しい捜査方法の開発だったり、足跡班なら常に靴底を気にして生活するとか、指紋班ならば新しい素材の製品ができたときにどうやってそこから指紋を採るかを考えたりするのが当たり前なのだそうだ。
そんな生活はごめんだ。しかし、相葉は資料二班という部署に回されていた。資料班は、現場から得られる全てを総括し、資料として分析する。しかも、現場では大抵の仕事を手伝う仕事なので、その難易度の高さにはすでにきりきり舞いさせられていた。
いわば、千香と別れるきっかけになった忌まわしい仕事でもある。それに恋をしろ? 無理難題である。千香との恋の敵を許すばかりか、それに恋をしろ? 難易度が高いにも程がある。
「いいか? 今おまえはこの仕事を恨んでるかも知れん。だけどな、それで彼女と別れたというのなら、それこそ乗り越えるために極めるというのも一つの道だと思わんか?」
「毒を食らわば皿まで。ということ?」
「良い言葉だ」
わずかな沈黙。
「……流羽はさ、なんでこの仕事を選んだの?」
「天命、だからさ」
「ふざけてないで、真面目に答えて欲しいんだけど?」
「大真面目だ、阿呆。あたしは、生まれつきの吸血鬼ではない。つまりどこかで転身したわけだ。吸血鬼というのは、体質とは別に超常的な能力を大抵は一つ持つ。それが、この仕事に適していたんだよ」
流羽の能力とやつを未だ見せてもらったことはないが、きっとなんかすごいんだろう。でも、率直に感じたことを言えば。
「それのどこが天命なさのさ」
「天命だろう。あたしは、自分のようなものを増やしたくはない。そのためには、公的な権力が必要で、そこに所属するための能力が与えられた。これを天命と言わずしてなんと言う?」
「それが、流羽の信念なんだ……」
「信念? まあ、そうとも言えるな」
「僕にはそれがない。警察官になるのに、正義感なんてもってなくてもなれてしまった。だから、僕は信念や正義というものを持っていない」
一世一代の告白のつもりであった。これだけ人生をかけている流羽のことだ、怒り出すかと思ったがそうでもないようだ。
「ときに、正義感は警察官に必要なものではない。忠実に任務をこなすことが第一のときが往々にしてある。悲しいが、正義感が足を引っ張るということがしばしば起こりうる」
忌々しいことを言うような顔になっている。きっと、言葉も本当だし、そうではない理想のようなものも本当に彼女の中にあるのだろう。なにより、彼女の言うことなのだ、間違っていないだろう、という確信をこのときも感じた。
「そうなんだ」
なんか後押しされたような気がした。まだ、警察官を続けて良い、と。
その言葉にそこはかとなく喜びと安心感を感じていた。
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