03.

 朝、それも日曜の早朝のことだ。未だ、世間はまどろみの中。

 相葉は、一本の電話で叩き起こされる。寝ぼけまなこで携帯電話を手元に引き寄せた。隣には、彼女――千香ちかが眠っている。

 久々に休みが合ったのだ。基本、相葉はカレンダーと無縁な生活を送っているために昨日の様な日はとても貴重である。一緒に食事をし、テレビを見て、つまらない話をして、お互いグチをこぼし合う。そんな時間がなによりも相葉を癒してくれた。

「ふぁい?」

「おい、手伝ってくれ! 峰にも連絡したのだがいつもの通り通じない。連れてきてくれ!」

鑑識係長の加賀さんの切羽詰まった声。相葉は寝ぼけながらも今日は当番ではないと思ったが、確信を持てなかったため戸惑いながら肯定の返事をする。

「は、はい」

 電話はそこで無造作に切られた。

 のそのそと布団を出て、洗面所に顔を洗いに行って、トランクスにTシャツ姿の相葉はパンツだけ履き替えた。まず歯を磨き、洗顔で目を覚ましたら即座にスーツを着る。昨日、彼女がアイロンをかけてくれたスーツとシャツ。

 恋人はなにも知らずに夢の中。起こさなかったのが不幸中の幸いかもしれないと思った。だけど、起きたとき自分がいないことをどう思うだろう? 軽い不安を覚えながら、相葉は静かに部屋を出た。

 テーブルの上にいつもの書き置きをしてきたが、どれほどの効力があることやら。朝食の件を謝っておいた。一緒に食べる約束だったのだ。

「げ。まだ太陽昇ったばかりじゃん」

 こぎれいなマンションのエレベーターの前で初めて腕時計に目をやる。時間は、四時を回ったところだった。

 一度取り出した携帯電話をしまう。ここでの通話は迷惑になるからだ。隣接する部屋同士の防音生は高いが、玄関からの音に対してはほとんど配慮されていない。やってきたエレベーターに乗り込み、一階へと下りていく。

 マンションを出ると、もう一度携帯電話を取りだした。そして、流羽に電話をするが出ない。いつものことだ。ここで電話に出るなら係長の呼び出しにも応じていただろう。

 この時間、バスも地下鉄も走っていない。そもそも三日月区は地下鉄が通っていない。相葉は、大きめの通りに向かって歩を進め、閑散とした道路に行き着く。そこで、タクシーをなんとか拾ってまずは流羽の家に向かうよう、運転手に言った。

 流羽の住んでるマンションは、住宅街ではなく学生街にある。多くの大学生が住んでいて、どうもその若い人間の多いところがいいらしい。おかげで、遊技場も食事処も充実している区画である。その中では、3LDKと格段に立派な部類に入る部屋に住んでいた。

 相葉は乗ってきたタクシーを待たせてマンションへの敷地に踏み込む。小さくため息をついた。

 セキュリティの高いマンションで、オートロックのために易々とは入れないようになっている。まず、効果はないだろうが、下からチャイムで呼んでみた。案の定反応はない。仕方がないので流羽の部屋の鍵を取り出して、自動ドアを開けた。

 そして、エレベーターに乗り込み、部屋のある六階を目指す。六階のフロアに降り立つと、流羽の部屋に向かって躊躇いもなく足を向けた。

 部屋の前につくと、意味をなさないのは重々承知でドアホンを押してみる。反応がない。二度、三度と押してみるが効果はないようだ。軽くため息をついた後、ドアの鍵を取り出して中に入る。

「お邪魔するよ~」

 土間に当たる部分で靴を脱ぎながら、声をかけた。廊下に上がり奥へと進む。流羽は、一番奥の部屋の隣にある和室を寝室に使っていた。

「流羽。流羽?」

 ふすまを開けると、そこに麗しき寝姿の美女がいる……わけもなく。立派なしつらえの棺おけが置かれていた。

 深い赤で色塗られた木製の棺おけ。蓋には『探し求めよ。請い求めよ。やがて自らの問いに答えがないということに辿り着く。真理はその中にある』と刻まれている。

 普通なら面食らっている場面かもしれないが、もう相葉には日常と化していた。鍵を預かっているのもこういう場面があまりに多いので、係長命令で預かっているようなものだ。

 流羽は、人間ではない。吸血鬼と呼ばれる超越種スーペリアの一種である。有り体に言ってしまえば化け物ということになるのだが、彼女にそんな言葉は似合わない。そう、ちょっと犬歯が人より鋭いかな? くらいだ。

 相葉は、吸血鬼という存在を知る前に峰流羽という鑑識官を知り、また峰流羽という存在も知っていた。その姿は別段恐れるものでも、腫れものでもなかった。厳しい姿勢だが、根拠のしっかりした敏腕鑑識官という認識。だから、正体を聞かされてもさして驚かなかったし、拒否しようとも思わなかった。

「それにしても……」

 相葉は周りを見て嘆息する。本や資料、論文、判例集、医学書、様々な分野の本が乱雑に床に積まれていた。どの本にも付箋が挟まれており、驚異的だ。

 女の子なんだからもう少し部屋をきれいにした方がよいと思うのだが、流羽は聞き入れてくれるどころか、そう言うと怒るのだ。自分の部屋をどう使おうと自分の勝手だろうというのがいつもの結論。

 だが、反面、水回りやゴミなどはきちっとしており、汚いのではなく雑然としているだけなので相葉も強く言う権利がないのは自覚していた。不潔で周りに被害を与えているならまだしも、起こしに来たとき足の踏み場がないぐらいのことだ。流羽の言うことは結局のところ正しい。そう、大抵の場面で彼女の言葉は正しいのだ。

 棺おけの蓋を二回ノックする。反応がない。仕方ないので、本当に仕方ないので、蓋を開けた。中には、よくもまあこの狭い棺おけの中でこんな姿勢で眠れるなというような姿勢の流羽。ロリコンの気とかそういうのを考慮せずとも、色気など微塵もない。大きめのシャツにショーツというあられもない姿であってもだ。むしろ、百年の恋を破砕する力を持っているだろう。いや、むしろロリコンはこういうのに反応する連中か?

 そんな流羽の身体を揺すって起こす。

「んん」

 少しむずがってまたすやすやと寝息を立て始める。この姿を見て誰がこの管轄署で一番の鑑識官だと思うだろうか。さらに言うなれば、吸血鬼だと思うだろうか。無垢な少女が棺で眠っているようにしか見えない。

「流羽、起きろ! 臨場要請だぞ!」

「んけ?」

 いきなりがばっと身を起こす。流羽を起こすには事実を伝えてやればいい。寝起きが良いのか悪いのか。

「おはよう。流羽」

「うん、おはよう」

 ぼさぼさの頭で、しっかりと挨拶する。だが油断してはいけない。流羽はまだ起きてはいない。このまま放置すると二度寝に入る。

「おい、流羽。加賀さんの要請だぞ。とにかく出勤しよう」

「ん? 出勤? ああ、臨場要請か」

 んー、と身体を伸ばして眠気を払う。そこで初めて相葉は安堵する。

「さっさと着替えて行くぞ」

「おう、ちょっと待ってろ」

 棺おけから出て、クロゼットに消えてスーツをまとって出てくる。そして、洗面所に消えた。歯磨きと恐らく化粧品だろう小物をいじる音がしてくる。その間、実に一分。いくらなんでも早すぎる気もしたが、気にしない。というか気にしている時間も惜しい。

 その後は、冷蔵庫から官給品の血液パックを取り出して吸い始める。

 そんなことをしてる場合じゃないと言っていた時期もあったが、相葉の朝飯とは訳が違う。存在を保つのに必要なことなのだ。少し、いらいらしながらそれを終えるのを待つ。さすがに、食パンじゃないので食べながら外に出るわけには行かない。

 血液パックに急ぐために懸命に吸い付く様は、子供が半分に折るタイプのアイスを食べるのに一生懸命になっているのと同じ感じがして和みそうになる。ロリコンの気はない。

「ぷはっ。うー、ちょっと量が多い……」

 恒例の文句を言いながら、パックを捨てて玄関へと向かう。

 待たせたタクシーに乗り込んだ。着々と上がる料金メーターを見て、心中でため息をつく。割り増し料金の対象時間というのもまた追い打ちだ。係長に認められているとは言え、また経理にイヤミを言われるんだろう。いくら上に認められているとは言え申請するのは相葉だ。顔を合わせ書類に書くのもそう。

 だけど、度々の早朝出勤の全部を自分の財布から出していては生活が成り行かない。今は千香との結婚も視野に入れており、惜しめるお金は惜しみたいところなのだ。

 同時に、最近のやりとりが非常に気になっていた。昔から見ると随分ケンカが増えた気がする。それも、千香が相葉にかまって欲しくてわがままを言うのだ。相葉としては、なんとかしてかまってやりたいと思うのだが、仕事の忙しさに忙殺されて満足にかまってやれない。昨日みたく上手く過ごせる日もあるが、非常に少ない。それに、今朝は一緒に朝食をとる約束をしていたのにこの体たらくである。

 だが、この先も共に人生を歩むならば理解が必要なところだ。千香には是非とも理解してもらいたい。それに結婚すれば、一緒の時間が増え、また上手くいくようになる。そう信じている。千香のいない人生など考えられない。なんとか、今日のわびを入れる方法を考え出そうとしていた。相葉はそんなことを考えながら、車窓の枠に肘をついて呆と外を眺めている。

「おい、おい相葉」

「え? なに?」

 そこで初めて呼ばれていることに気付き、流羽の方を見た。

「今日の事件はどこで、どんなことが起きたのか知っているか、と聞いた」

「わかんない。加賀さんが流羽を連れて手伝ってくれって言って電話を切られたから」

 流羽は、しかめっ面になる。またきっと大変か凄惨な現場に違いない。そうでなければ流羽の力が必要にならない。他の、特に本来の資料班でも事足りるはずだからだ。

 一度署に着くと、ロッカールームで素早く鑑識の制服を着る。鑑識道具を手にとり、次に係長がどこに出動したのか、残っている鑑識係員に尋ねた。相葉たちは、その署に残っていた係員の運転で、現場へ向かう。

 なぜだか、相葉は嫌な予感しかしなかった。

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