04.

 相葉は、呆然と立ち尽くしてしまった。早朝の呼び出し。そして、ようやくの現場への到着。

 紺のつなぎを着た状態で、マンションの一室に広がる酸鼻な光景を目の当たりにして硬直していた。横たわる死体。今まで、散々人の血を見たりとかしてきたつもりだ。だから、死体を見てもなにも思わないだろうと思っていた。だってテレビの死体を見てもなにも感じなかったから。だけど、それは飽くまでつもりでしかなかったことが判明した。

「おい、ぼうっとしてんな」

 流羽に小突かれ、ようやく自分を取り戻す。

 周りに目をやった。死体から目を逸らすように。

 とじかけの本、書きかけの書類、飲みかけのコーヒー、なにもかも途中で止まっている。昨日死ぬとは思っていなかった証だ。ここには、あまりにも生活があり、生々しいまでの生の跡がそこにはある。

 それに、相葉は当てられた。自分の部屋も、脱ぎっぱなしの寝間着に、帰ったら洗おうと思っている食器類、読みかけのままの新聞。生きている途中がにじみ出た部屋をしている。この部屋もそうだ。これが、現場。

「これが、見たいといってた現場の本性だ。これはまだマシな方だ。新鮮なホトケさんに、きれいな部屋。虫もまだたかっちゃいない。まあ、なんだ、なれろ。無理なら辞めてもらってもかまわないぞ」

 流羽は、相葉の方をまったく見ずにそんなことを言ってきた。言葉に抑揚はない。

 相葉は、急に気分が悪くなった。死体が気持ち悪いからではなく、単に息ができない。どっちかというと現場そのものが気持ち悪い。生々しさが、空気や視界を介して自分に染み込んでくるようだ。

 半ば呼吸困難に陥りながら、部屋を飛び出した。喉をなにかで絞められたようになって、喘息の音がする。上手く息を吸えない。

「あちゃ、やっこさん初めてか?」

 加賀係長の声が聞こえてくる。

「なに、いずれは乗り越えなくちゃいけない壁です。がつーんとぶつかっといた方が良いですよ」

 流羽は、そんな風に答えた。多分、彼女の言うことだ、間違いはないんだろう。でも、今回ばかりは乗り越えられる自信がない。

「そうだな」

 加賀係長もあっさりと引っ込んだ。警察官としてはきっと最低限乗り越えなくてはいけない壁なのだろう。

「僕は、警察官だ。目を逸らしちゃいけない」

 そう小声で自分に言い聞かせる。これに根拠はない。ただ、情けない自分を鼓舞するためだけに言い聞かせているだけだ。流羽に事あるごとに辞めろ、辞めてもらっても構わないと言われてきた。今回だって乗り越えられるか確信は持てないが、だけど、流羽は乗り越えられないことで辞めろと言ってきたことはない。

 それが根拠と言えば根拠だ。だから、今回もきっと自分には乗り越えられる課題なのだろう。自信はないくせに、流羽の言葉に説得力を感じるとは。自嘲気味に思った。

 それに、自分はまだ刑事課、鑑識係、ひいては警察からなにも学び取っていない。ここに一年弱配属されているが、その対価を得ていない。相葉は、そういう思考の持ち主だった。しかもそれらは技術や事務処理の方法とかいうものではなく、相葉が「それ」と感じるものであり、非常に漠然としてる。だけど、すとんと自分の中で落ちるときがあるのだ。それをまだ体験していない。

 でも、確かにこれは紛れもなく、人の無念であり、妄執の名残のように感じる。

 相葉は、もう一度現場に戻った。そこには、充分な数の鑑識官たちがいる。恐らく、本部の機動鑑識というやつだろう。殺人事件などにいち早く駆けつけて状況を保存するプロフェッショナルたちだ。

 流羽、流羽はなにをしている? 相葉は、母親を探す嬰児のように、広くもない部屋に視線を巡らせる。先ほど見た、現実は見ないようにして。

 流羽は、制服の男と一緒に話をしていた。

「ああ、そうだろうな。この包丁の刺さり具合からいって、失血死ではなく迷走神経の抑圧によるショック死だろうな」

 血まみれの死体の脇腹には、深々と包丁が刺さっていた。

「じゃあ、十三係呼びますか?」

 制服の男は、なぜか敬語で流羽にそう聞いた。

「ああ、そうしてくれ」

「あの、峰さん。どういうことですか?」

「おう、相葉。早い復帰だな」

「まあ。正直、訳わからないぐらい混乱してますけど……」

「吐かないだけマシだよ。現場を荒らされちゃたまらんからな」

「それより」

 相葉は、流羽が呼ばれた理由が知りたかった。機動鑑識や本部の刑事が来ているなら、所轄の鑑識が呼ばれる理由は、流羽が吸血鬼だからくらいしか思いつかない。

「ああ、これを見てどう思う?」

「包丁での刺殺ですか?」

「違和感を感じないか?」

「違和感、ですか?」

 相葉には全然わからなかった。なにせこれが初めての殺人事件だ。比べるものがなにもない。

「わからないんじゃないか? 初めてだと、なおさら」

 加賀係長の助け船が入った。

 だが、流羽は甘やかさない。じっと、相葉の顔を見つめる。

 思い出せ。流羽は、なんて言ってた? そう、ショック死だと言っていた。

 テレビの映像しか知らないが、思い出して比べてみる。血まみれの死体の脇腹には、深々と包丁が刺さっていた。それはさっきも見た光景だ。だが、確かに違和感を感じる。刺さっているのはテレビと同じだが、異常なくらい深かった。柄すらめり込もうかというぐらい深い。被害者は痩身の男なので、反対側に突き抜けている可能性も考えられる。

「ほ、包丁が、深く刺さりすぎのような気がします」

 恐る恐る相葉は、流羽に告げる。

「そうだ。良くわかったな。このような刺さり方は人間の力では通常考えられない。骨とか筋とか内臓が邪魔してこんなに深くは刺さらない」

「え?」

 犯人は、人間ではない?

 流羽は、相葉の腕をとると外へ連れ出した。怒られるときは耳か襟首を持たれる。こんな風には連れ出されない。

 現場から充分な距離をとってから相葉に言い聞かせるように言う。

「いいか。これは、一部の人間と超越種しか知らないことだ。この街には、超越種の犯罪を取り締まる係がある。そこが対応する。知らない人間には話すな」

 そう短く業務連絡のような冷たさで言った。

「え、でも。僕も知らない人間だったはずでしょ?」

「おまえは、超越種を知っている。吸血鬼を知っている。そして、あたしを知っている。おまえは充分関係者だよ」

「そ、そんなぁ」

「情けない声を出すな。おまえなら大丈夫だと信じている」

「う」

 人にまっすぐ信じていると言われることになれていない。相葉は、呻くような声を出して事実を受け入れざるを得なかった。

「現場というのはここですか?」

 そういって現れたのは、捜査一課十三係係長、生瀬真司警部だった。身長は百八十センチを越え、すらりとしたシルエットとそのきりりと締まった顔には女性警官から絶大な人気を誇る。

 だが、あだ名は、鋼鉄の仮面。どんな状況、どんな犯罪にも眉一つ動かさないその剛健さから来たあだ名だ。もちろんあまり良い意味では使われない。

「おつかれさまです」

 流羽が珍しく、先陣を切って挨拶をする。生瀬は白い靴カバーを装着すると、部屋に入って現場を確認する。ちなみに、まだ検視官は到着していないので死体を動かすことはできない。

「ふむ。間違いないですね。この後は我々が引き継ぎ、帳場を立てます。鑑識のみなさんは、毛髪に特に注意を払ってください」

 通常検視官が殺人の見立てを行ってから、犯罪性の有無を判じるのだが、今回は明らかな殺人だったため捜査主任が帳場を立てることになった。これはときには行われることで、特筆して驚くようなことではない。

「相葉、聞いてただろう? 毛髪について徹底的に拾い集めるぞ」

「りょ、了解」

 ベッド、ソファ、カーペット、トイレ、風呂場。ありとあらゆる場所から毛髪がかき集められた。もちろん、血だまりの中に落ちている毛まで本当に根こそぎだ。

 広くもない部屋で鑑識が徹底的に洗い出しを行った。それでも、丸一日作業にかかりっきりになっている。相葉は時計を見た。もうじき夕刻の六時だ。一つ憂慮していることがある。それは千香との朝ご飯の約束を反故にしたことだ。

 久しぶりの非番と、それに合わせてした約束。朝ご飯など大した約束じゃないかもしれない。でも、それは他人の尺度だ。自分たちにはなによりも大事な約束だった。それ故に、この約束を破ったという事実はなによりも重い。

 半年前なら、仕方ないよねの一言で済んだかもしれない出来事だが、今の自分たちには礼を尽くさねば関係の悪化が見えている。

 この現場から採れるものは全て採ったと言っても過言ではあるまい。後、残っているとすれば被害者の無念ぐらいだろう。死体も既に搬送され、どうしようもない無念だけが滞留している気がした。それをも拾い、晴らすのが鑑識の仕事なのだそうだ。

 鑑識の人間たちはぞろぞろと一斉に引き上げ始めた。相葉も流羽でさえもその流れに乗る。立ち入り禁止の黄色いテープをくぐってみな自分の所轄へと帰っていく。

 相葉はなにかとてつもなく重いものを背負った気分になりながら部屋を後にした。

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