第2話 始まりの朝

 朗らかな朝。城館の自室にてナタリアは、前世ではすっかりと少なくなってきているらしいが今世では驚くほどに多い鳥の鳴く声を聞いていた。

 蒸気機関が異常発達している為に晴れることのない雲に覆われているとはいえ、前世と変わらず今世でも朝は変わらず朗らかなものだ。


 更に言えば、もう働く必要もないということもあってその清々しさは並みのものではない。これが自由という感覚かと思うほどに。

 朝の霧立つ頃、大窓を開けるとふわりと風が吹き込む。街を支える機関工場から香る排煙の匂いがした。春先の少しだけ冷たい風に身を震わせながら、テラスへと踏み出す。


 少しだけ湿った、夜のうちに煤で汚れてしまっている石の床を裸足のまま歩いて、ナタリアはテラスの欄干までやってきた。

 やってきたは良いが背が足りないので隙間から目を凝らす。


「おぉー……」


 そこに広がっていたのはわずかな霧に覆われた幾重にも城壁が張り巡らされた石造りの街だった。記憶で知ってはいたが、実際に見るのでは印象が違う。

 広大だった。前世の町と比べればあちらの方が大きいし広いのだろうが、背の高い建物が少なくただ唯一街を見下ろせる城館の一番高い部屋からの眺めは前世の町よりも広く見えて壮観の一言に尽きる。


 どこまでも広がっているように見える石造りの街。朝霧が覆うような早い時間なのだろうが、朝の静けさに交じって動きだし人々の音が聞こえた。

 耳を澄ませばカーン、カーン、と朝の鐘が鳴っている。平民は働き始める時間だ。これが農村ならばもっと早い。そんな街の神父が話していた知識が思い出された。


 ナタリアはそこから街を見ていた。街に複数ある大機関が駆動し、街外れでは工場が動き出したのかもくもくと排煙が上がり始めていた。

 遠いが目は良いらしく、人々が行き交っているのが見える。大勢に人々が通りを行き交う。傘を差した婦人や帽子を被った紳士、元気の良さそうな子供まで様々な。


「ふはは、見ろ! 人がゴミのようだ!」


 それらを見てつい、そんなことをナタリアは言ってしまう。金曜日のロードショー定番のあの映画の台詞。


「良く娘を膝にのせてあいつと一緒に見ていたなぁ」


 それと同時に思い出されるのは、娘と妻との家族団らんの思い出だ。幼い娘を膝にのせて映画を良く視た物だった。

 ぽろりと涙が一粒流れる。


「おっとと」


 もう泣かない。一晩中泣いたのだから、泣くのはもういい。


「それに、いつまでもくよくよしているとあいつに殺されるからな。あの鉄拳を避けられるようになるまでしんどかったなぁ、おっととまた泣いてしまうところだ。いかんいかん。なんだかこの身体になってから泣きやすくなったな。うん……うん、大丈夫大丈夫」


 流れそうになる涙を止める。もう泣かない。大丈夫。それにいい加減恥ずかしい。誰にも見られていないが、気恥ずかさがある。

 うるんだ目をこすってなかったことにして、


「良し。さてと、二度寝をしよう」


 それから二度寝をしようと部屋に戻る。昨日はほとんど寝ていないので二度寝もなにもないのだが、せっかく働かずにぐうたら過ごすと決めたのだ。誰かが起こしに来るまでゆっくりと眠ることにする。

 企業戦士時代は、一時間睡眠とかザラであった。それが今では学生時代にしか行えないという伝説の二度寝をしようという。あまりの背徳感に息が荒くなってしまうほどだ。


 寧ろその背徳感があるからこそ二度寝というのは甘美なのだ。春先とはいえ、機関を冷却させる機関が働き始めたとあって肌寒い。

 それでも、天蓋のついた豪奢な寝台に潜り込みシーツを被ってしばらくすると温かくなる。そうするともうそこは天国だった。


 枕を抱えて丸くなればそれはもう信じられないほどの幸福感を感じられる。もうベッドから出たくなくなる。

 中学校に入学した娘が朝、ベッドから中々出て来なくて良く遅刻しかけていたことを思い出す。確かにこれほどに幸せな気分になるというのならベッドから出られないのも当然だとナタリアは思った。


「はぁ~、幸せ」


 枕を抱えてごろごろと転がってみる。それだけで幸せを感じられる。このまま寝てしまおうかとも思うが、それで眠れるかは別問題。

 昨夜は眠っていないが、長年の社畜生活のおかげで眠らなくてもさほど問題なく動ける為眠くならないのだ。更に染みついた習慣というのは怖いもので、起きてしまえば眠ってはいけない。仕事があるのだから眠ってはいけないと思ってしまう。


 仕事などないし、起きていいとわかっていても魂がそうさせてくれないようだった。それにはナタリアも苦笑してしまう。そして、社畜ダメ、絶対と思った。もし部下を持った時は徹底させようとも。

 それでも、温かいベッドの中でごろごろしているのは幸せを感じられる。前世ではそんなことが出来たのは、小学生くらいまでの頃だ。中学生の時、高校生の時もこんな風にだらけることはできなかったのだから。社会人時代は言わずもがな。


 そんな風にごろごろしていると、四度のノックと共に、


「お嬢様、おはようございます。入ってもよろしいでしょうか」


 そんな許可を求める女の声が聞こえてきた。幸せな時間が終わりかと思うと途端に名残惜しく思うが、誰かが部屋の前で待っていることを思えばそうもしていられない。


「ええ、良いわよ」


 即座に枕を元の位置に戻して、ベッドに腰掛けてそう返事をする。この時間にやってくるのが誰かは統合された記憶のおかげでわかっている。


「失礼いたします」


 予想通り見事な所作で数人のメイドが入って来る。足首まで届くようなロングの如何にもなエプロンドレスにホワイトブリムを身に纏った完全無欠のメイドさんたちが入ってきた。

 あまりにも見事な作法と如何にもなメイドさん。そんな存在の登場に思わず感心して、ナタリアは感嘆の吐息を吐いてしまった。


(やはり、知っているのと実際に見ているのは違いますね。これは、早々にその差を埋めるためにも、今日は街に出てみるのもいいかもしれない)


 ぐうたら過ごすのが目的だがやはり転生という誰も体験したことがないような体験だ。楽しまなければ損であろう。

 なにもぐうたらしたいだけであって、何もしたくないというわけではないのだ。無論、積極的に何かをしようという気はないが。


「おはようございますお嬢様。まずは、こちらでお顔をお洗い下さい」

「ええ」


 寝巻の腕をまくり、メイドたちを引き連れてきたメイドが指し示した水盆を持ったメイドの前へ行って顔を洗う。

 冷たい水が心地よい。何度か掬って顔を洗うと綺麗な布を持ってきていたメイドが顔を拭いてくれる。優しく、撫でるように。しかし、水気をきちんと拭きとる。そんな熟練された技は気持ちが良かった。


「ありがとう」


 素直な謝辞に顔を拭いたメイドは恭しく礼をした。口を聞くことはない。彼女らはこうやってナタリアの世話を任せられてはいるものの低級使用人ロワー・サーヴァントなのだ。主人筋であるナタリアと口を聞くことは許されない。

 唯一、口を聞くことを許されるのは、メイドたちを引き連れてこの部屋に入って来た上級使用人アッパー・サーヴァントであるマリアーヌだけだ。


「では、お嬢様、お召替えを行いますので、どうぞこちらに」

「ええ、よろしくお願いするわ。そうだわ、今日は動きやすい服が良いわね」

「畏まりました。では、そのように」


 言われた通りにメイドたちはてきぱきと動きだす。服の用意が出来るまで椅子に座り、乱れた髪を櫛で撫でつけていく。

 綺麗に手入れが成された髪は実にするりと櫛を通し、少し癖のある髪は綺麗なウェーブを作る。長い髪だ。切ってしまいたいとも思うが、光を受けて輝く様を見ると勿体なくて出来そうもなかった。


 そうやっているうちに準備が出来れば召替えが行われる。寝巻を彼女らの手で脱がされ、肌着も脱がされる。恥ずかしいが、すまし顔を維持。辛くても辛く見せないという企業戦士の特技が活かされた形である。

 まず着せられるのは、上質な素材で作られた袖と襟もとと裾に刺繍を施した肌着。脛丈のブレーを着て長靴下を履いて、漏斗のように大きく広がった袖口の床丈のワンピースドレスを着せてもらう。


 本来ならば足まで届く裾を引きずるような長いスカートの衣服が定番であるが、動きやすい服装ということでこのような着付けなのだろう。

 どれもこれも上質なものでとても動きやすい。最後までしっかりと着せてもらうと、良い匂いが漂ってくる。自分のではなく、お茶のようだった。


「今朝のお茶はイマジナリーの魔浴をさせた最高級機関製紅茶をご用意いたしました」


 差し出されるティーカップとソーサー。それを受けとって見る。注がれた紅茶は、そんなに高い紅茶など飲んだことのないナタリアにも良いものであることが知れた。

 知識として飲んだ記憶はあるが、やはり実学として体験してみると色々と感じることがある。特に味などは良くわからないのでが実体であり今のナタリアにとってはやはり初めてと言っても過言ではない。


 匂いを嗅ぐ。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。そこから想像できる味は、すっきりとした甘さだ。ミルクも入っていないのでストレートで飲むのが良いのだろう。

 そのまま一口飲んでみる。その瞬間、口いっぱいに広がる爽やかな甘さ。目覚めに合わせるようなすっきりとした甘さは飲み心地が良い。


 更に、口から喉を通していった瞬間、立ち昇る香りが直接嗅覚を刺激する。イメージされるのは草原だった。爽やかな風の吹き抜ける草原。まるでそこに立っているかのように感じられた。

 実にうまい。恥もなく飲み干しそうになるのを我慢するのに苦労するほどだ。一応、貴族令嬢というのはわかっていたので我慢するくらいは出来る。


「おいしいわ」


 ゆっくりとお茶を飲み干してそう言う。本当、賞賛してばかりだ。富裕層とは本当に良い生活をしているのだなと嫉妬するほど。

 それと同時に、こんな生活を妻や娘にしてやりたかったと思ってしまい思わずまた泣きかけたのを慌てて我慢する。どうにも涙腺が緩くて困るものだった。


「過分な御言葉、恐縮にございます」


 ちらりと彼女らを確認する。どうやら泣きかけたことは気が付かれていないようだった。それにほっとナタリアは安堵する。

 まさかこんな大勢の精神的に年下の女性たちの前で泣くなど男としての矜持が許さない。ナタリアは、女だが、恥ずかしいものは恥ずかしいし、言葉のあやである。


「それでは、礼拝の御時間までしばしお待ちください」


 お茶が飲み終われば、メイドたちは去って行く。ようやく一息ついた。


「はあ、凄いなぁ」


 わかってはいたが、何もかもが違いすぎて疲れるようだった。このままベッドに寝転がりたいが、綺麗な服がしわになるのは少々どころではない罪悪感がある。

 何より、このままぐうたらしていいのだろうかと思ってしまう。ぐうたらすると決めたは良いが前世の記憶はやはり重い。


 数十年の働きずくしの生活は、ナタリアの魂に刻み込まれているレベルだ。そのおかげで、何かしてないと落ち着かないし本当に良いのだろうかと罪悪感で気分が悪くなる。


「早く慣れないと行けませんね」


 早くやることがなくても過ごせるようにならなければと思うが、先は長そうであった。今も、手が何かを求めて勝手に彷徨い出す始末だ。

 それを抑えて、椅子に座って外を眺める。やることがないのは気分が悪いので、窓から見える人や自動車、馬車などを数える仕事をしていると思いながら時間をつぶす。


「お嬢様、礼拝の御時間です。参りましょう」

「ええ」


 メイドに連れられて、ナタリアは城館にある礼拝堂までやってくる。礼拝などしたことない為、その作法を記憶から掘り起こす。

 本当に神様がいるこの世界ではその加護を得る為に毎日の礼拝は欠かせないのである。貴族ならば自前の礼拝堂を使って、平民は教会まで赴くのが朝の風景。


 ナタリアがそんなことを思い出しながらメイドに連れられて礼拝堂に赴くと、既にこの城館に住む者のほとんどが集まっていた。ほとんどが家事使用人。ナタリアはその間を通って一番前の席へと連れて行かれる。

 そこにいるのがこの城館の主たる両親と弟だ。ナタリアが最後であったのか、ナタリアが席につくと礼拝が始まる。誰も彼もが膝をついて神への祈りを捧げる中、ナタリアはこっそりと両親、特に父親の方を盗み見る。


(美形だ……凄い美形だ……)


 娘がキャーキャー言っていて良く比べられて落胆されたり、怒られもしたし、何度かライブにも連れて行ったアイドルの数十倍は美形に思えた。

 気を抜けば、思わず溜め息が出るほどの美形だ。どこか武人的でもあり、腰には剣があった。かつての自分と思わず比べてしまうが、もはや差がありすぎて落ち込むことすら忘れてしまう。


(何をやっても許される顔というのはこういうものなのだろうか。ここまで差があるとどうにも思わんものだなぁ。まあ、今は、私もそんな美しい人という分類にいるのだがな)


 それに今生では、ナタリアも美人の部類である。何か思う方がおかしいのかもしれない。嫉妬などもってのほかだ。

 何度も言うがナタリアは美人だ。


(絶世の美人、いいや、傾城の美人、いやいや、もしかすれば傾国の美人かもしれん。成長すればもっと美しくなるだろうしな。うんうん)


 と、親の視点で妙な自画自賛をしているナタリアは次に母親に目を向けた。


(美人だな。それに胸も大きい。なんだあのくびれ。すごいな。ああ、コルセットという奴か? うむ、正面から見れないのが残念だな。きっと谷間は見事だろう)


 そんなことを思うくらいにはかなりの美人だ。ナタリアも容姿が良いのだから当然なのだろう。気品あふれており、ナタリアの将来を保証してくれているようでもある。

 宝石をじゃらじゃらとつけており、煌びやかだ。妻と思わず比べてしまって、殴られるところまでナタリアは想像して思わず笑いかけた。


 無論、前世の妻の方が良いことにかわりはないが美人を見ると反応してしまうのは男として当然のことである。今世では女だが、意識はおっさんなのだ仕方がない。

 寧ろ、女なので反応してしまう某部位がない分バレないしポーカーフェイスは得意なので前世以上にじろじろと見れるだけ得なんじゃないかとすら思う。


 そんな考えは神聖な礼拝中なのでなんとか自重して、


(で、弟か)


 最後に弟に視線を移す。前世でも弟がいたナタリアにとって違和感はさほどない。前世よりも可愛らしい弟で好感が持てるほどだ。

 前世の弟と言えば、生意気でまったくもって可愛げのない弟であった。憎くらしく思ったこともある。なぜ弟ばかり良い思いをするのかとも何度も思ったほどだ。


 しかし、こうやって別れてみると、それでも兄として弟のことを大切に思っていたことを自覚してまた涙腺に響く。

 声を大にして言えないが、憎からず思っていたのだと認めたくはないが思っていたのだ。


(あいつは、俺が死んで何を思ったかな)


 もはや知ることはないが、おそらく涙を流してくれることはないだろう。ざまあみろと笑われることもないだろうが、どう思っているかを知ることは永遠にない。


(…………)


 それは、少しだけ悲しい。もっと一緒に酒でも飲んでおけばよかったと思う。できれば、自分の分まで長生きしてほしいものだ。

 そのうちに礼拝は終わり、父と共に朝の見回りに出る。屋敷の中を巡り、それから食堂へ。どこで従者たちがどこで何をしてるのかを確認しているようだ。馬屋でも何も特に問題はないようなので朝食となる。


 一家そろっての朝食とそれに加えて従者たちも合わせた食事となる。そこでは昨日の夜から今までにかけてとこれからのことが報告される。

 父が領主である以上、それを継ぐことになるはずなので、しっかりと見ておくことにする。 


 報告会が終われば本当に食事。一応は、マナーもあるらしく面倒くさい。

 まだ子供なので少しばかりの粗相は問題ないだろうが、子供だからと見逃されるのは癪なのでナタリアはそれなりに気を使った。


 それでも食事はうまい。朝から豪勢な食事だ。多種多様なパンやスープ、ケーキなども出た。どれもこれも味は美味い。

 朝は食べられない派だったナタリアからすれば、この違いは本当に贅沢で平然と食べているように見えて内心では本当に食べていいのだろうかと戦々恐々としている。


 しかし、そんなことはまったくなく、ナタリアは朝食を終えることが出来たのであった。


「あの、お父――」


 それからナタリアは父親に街に出て良いかと聞こうとすると、その前に父親が口を開く。


「今日から、家庭教師ガヴァネスをつけることとする。お前ももう6歳だ。倒れていた遅れを取り戻さねばな。しっかりと励むのだぞ」

「え――?」


 彼の口から飛び出したのは、勉強しろという言葉だった――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る