悪役令嬢に転生したおっさん

梶倉テイク

第1話 転生

 大陸西方域中央部に存在する蒸気煙る国エストリア。かつて蒸気王と呼ばれた蒸気機関の始祖チャールズ・バベッジが作り上げた大機関と巨大階差機関を有する世界有数の重機関王国。

 黄金の時代を行くこの国で今、ある一つの運命が決した。世界基盤に存在する運命の歯車に刻まれた定めが今、破却された。


 そして、最後の締めとなるべく、決闘が今行われようとしていた。この国における王族の結婚の為の儀式。

 それは決闘だった。始祖の時代。蛮族との戦いにあけくれていた小国エストリアでは、王族も戦場に立つことが日常であったとされる。


 ゆえに、王族は戦えねばならない。そこで、決闘を行い、互いが互いにふさわしいかを決めるのだ。

 その風習が今も残っており、結婚に際し王族として夫婦となるものは互いに決闘することが義務付けられている。


「エストリア王国第一王子ヴィルヘルム・エストリアは、アルゲンベリード公爵が一人娘ナタリア・アルゲンベリード、貴女に決闘を申し込む」


 金髪碧眼の容姿端麗な王太子殿下が中空に魔法文字を浮かび上がらせる。それは契約文。軍神アゲラタムと武術神オーニソガラムに捧げられた契約の証。

 お互いにそれへ手を伸ばす。青く輝く魔法言語による契約文は、二つに分かれ互いの手首へと契約の証として巻き付く。


 これにより決闘は承認された。これよりはお互いだけの世界だ。挑戦し、挑戦された二人の問題だ。


「本当に手加減などなくても良いのですわね?」

「ええ、これより夫婦になるのですから。あなたと、愛する人全員を幸せにする。その覚悟を見せたいと思います」


 そう、これはそのためのものだ。このままでは王太子殿下の覚悟がはかれない。これから先何があろうとも愛する者を守るという覚悟。

 それを知る必要がある。ならばこれはとしての我儘だった。エゴだろう。だが、それでも確かめずにはいられない。だから――。


「覚悟を示しなさい」


 王子が抜いたままの剣に合わせるようにナタリアもまた剣を抜いた。これはもう風習などではない。

 王子がどんな人間かはわかるし、その人柄、財力、何もかもが申し分ない。あとは、大切な女を何があろうとも、どのような厄災があろうとも守れのか幸せにできるのかをナタリアは確かめなければならないのだ。


 だからこそ、全力の証として、その背から輝く魔力の翼を広げた。この王都を覆い尽くす排煙煙る雲を引き裂いて失われた青空を見せつけるほどに巨大であり、何よりも力強い己の魔力。世界へと羽ばたく翼を。

 それだけで、力の差がわかる。誰であろうとも圧倒し、跪かせるような覇気の奔流。太陽の光を浴びたナタリアは誰よりも輝いて見えている。


 隔絶した力の差があるのが誰の目にも明らかだった。だが――、


「ああ、示そう。私の覚悟を!」


 王子も引かぬ。歯車機関と共鳴オルゴール機構を備えた魔法機関の剣を構える。それこそが覚悟であると。

 谷のように深く、山のように高い超えることすら不可能に思えるほどの壁が立ちふさがろうとも退きはしないという不退転の覚悟。


 命すら燃やしてでも、勝つ。燃えるように輝くその瞳はただ真っ直ぐに、魔力をその身に纏い、極光を放つ複雑な歯車機関を内包した機構剣を構えたナタリアを捉えて離さない。


「ならば、来なさいな」

「オオオオオオォォォォォオ!!」


 突っ込んでくる王子。それに対して、剣を合わせる。莫大な魔力がはじけ、衝撃が吹きすさぶ。ただそれだけで世界を覆う雲を引き裂いて青空と太陽を覗かせる。

 美しいと言えるほど王子に余裕はない。なぜならば、一歩でも引けばただそれだけで細切れになるからだ。それでも王子はひかない。


 そんな歴史に刻まれるであろう剣戟の円舞を奏でながら、ナタリアは思っていた。思えば遠くに来たと。ただぐうたら過ごせればそれで良かったのが、いつの間にか王子と決闘している。

 それに対して後悔はない。ただ思うことは、


――酒飲んで、ぐうたらしたい。


 これだった。

 ひたすら真面目な場面でこの女ナタリアはそんなことを考えていた――。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


――約12年前


「――へ?」


 男が気が付いた時、全てが変わっていた。匂い、身体の動き、色、音。身体の感覚というありとあらゆるものが違っていた、変容していたのだ。

 慣れ親しんでものは何一つなく。全てが知らないものだった。見慣れない景色。嗅ぎ慣れない匂いに、聞きなれない音。何もかもが違う。


 その差異は目覚めと共に男を苛んだ。当然のように生じるのは混乱。その最中で、状況を知るべく思考の迷宮を駆けまわり、脳は稼働する。

 肉体の分を越えて稼働する脳。抜けられない思考の迷路に、ただただ混乱だけが深まりそれを打開すべく思考は更に積み重ねられていく。肉体の分を越えて。


「――ぐっぁ」


 その時、強烈な痛みが頭を貫いた。生じる高熱。脳が溶けるかのようなそれに視界が歪み、立っていられなくなる。膝をつく。記憶にある己のものであり、記憶にある己のものとはまったく違う小さなそれ。

 それがなんなのかに考えが及ぶ前に、意識は漆黒の闇に沈んだ。その最中、誰かの声が聞こえていた。誰の声か。いいや、自分の声か。


(だれ、……だ。いや、私は、私、は…………)


 混濁する記憶。そこに感じられたのは、二つの存在。自分のものと。自分のものではない、されど、自分のものと思える二つの記憶。

 二つのそれは、痛みと熱をあげながら混ぜ合わされ整理されていく。それに伴って熱もひいていく。


「――っ」


 気が付くと数日が過ぎていた。見知らぬ、されど見慣れた天井が視界いっぱいに広がる。それと覗き込む女の顔も。

 その顔は、目覚めたことに気が付くと、即座に声をあげた。


「お嬢様! お目覚めに慣れたのですね。お、奥様! 奥様ー!」


 それから紺色のスカートが視界を横切って行く。バタンと扉が勝手に閉まる。それくらいに強く、慌てながら誰かが部屋から出て行ったのだろう。

 どたどたと、階段を駆け下りていく音が聞こえていた。


「っぅ――」


 身体を起こすと頭の奥が微かに痛む。数日前ほどではない。確認するように声を出す。


「あー」


 声が枯れていたが、その声はやはり記憶にある自分もものよりも格段に高く、それでいて可憐であり鈴の音のように聞いた誰もが虜になるかのような声だった。

 手に視線を落とせば、そこにあるのは、小さな子供の手。自分のものではないが、やはりこの手は自分のものでもあった。


「ナタリア! 良かったわ! 大丈夫? 数日も熱が下がらなかったのよぉ。教会の神父様を何人も殺しちゃったわ」


 その時、一人の女性が部屋の中へと入って来る。豪奢なドレスを身に纏った美しい女性だった。


「ええ、大丈夫ですお母様」


 知らないが知っている女性。口を突いた言葉は自分の意志で発したものだった。ただそれだけで、信じられないような事象が起きていることを理解するのに時間はいらない。


「無理は駄目よ。良い? もうすぐ日が暮れるから、今日はこのまま眠ってしまいなさい」

「はい、そうします」


 そう言って身体を横たわらせれば、女性と彼女に着き従っていたメイドは部屋を出ていく。ぱたんとドアが閉まり、部屋の中には己ただ一人となった。

 月明かりが部屋を照らす頃、誰もが寝静まった頃にゆっくりと起き上がる。


「…………」


 調子は問題ない。むしろ、良すぎるほどだ。部屋を見渡し、目当てのものを見つける。大きな鏡。その前にゆっくりと歩いていく。

 絨毯の敷かれた上等な部屋。貴族のようなそんな部屋を歩く。足音もならない。そして、最後の一歩。少しだけ躊躇って、意を決し鏡の前に立った。


「ああ……」


 そこに映っていたのは、思わず溜め息が出るほどに美しい少女だった。六歳くらいだろうか。未だ成熟していない蕾も蕾な花だというのに、可愛らしく美しい。将来は、おそらく誰もを魅了してしまうのだろう。

 髪は金糸のようにさらりと流れ、月明かりを受けて発光しているかのように輝いている。さらりと風に揺れるだけで煌びやかな粒子が舞うようであった。


 瞳もまた美しい。エメラルドのような色。されどその澄んだ色は、宝石と遜色がなく光の加減では深い蒼穹の碧のようにも見えた。

 肌には染みなどなく、すべすべ、柔らかな弾力と生命力にあふれている。そして、限りなく健康的に白く美しい。白磁を思わせるそれ。


 少女は美しく可憐だった。歩けば香る華の香り。幼いながらも均整のとれた黄金の肢体。まさに究極。美しい以外に形容する言葉はない。

 いいや、美しいという言葉すらも鏡に映った少女には分不相応にしか感じられなかった。今まで生きた中で少なくとも、こんなに美しい少女は見たことがない。そう感じる。


 自分という存在など、こんなに美しい少女に比べればなんと矮小で醜いことか。そう思わずにはいられなかった。

 なぜならば、自分は四十代後半の禿かけた、憐れなおっさんだからだ。醜いという言葉以外に形容する言葉はない。いいや、ありとあらゆる汚い言葉により形容することが出来る。


 髪は少ない。固く短い黒い髪は、年齢と共に少なくなり、白髪すら混じっている。加齢臭がきついと言われるし、痛みも酷い。

 長年の労働生活で夢を忘れた瞳は黒く濁っている。生きがいがあったとはいえど、美しいとは到底言えない男の目。宝石とは程遠い。黒曜石すら分不相応。


 肌は黄色人種特有の色。ただ、仕事ばかりで日の光をあまり浴びない生活をしていた為、病的な青白さをしていただろう。

 腕が上がらない四十肩にハゲ、顔面崩壊と言われて憐れまれるほどのブサイク、ゾンビと言われるほどの加齢臭に悩みブラック企業の企業戦士として休日返上で働きまくった憐れなおっさんだった。


「それが、どうしてこうなった」


 目の前にあるのは鏡。つまり、そこに映っているのは、自分のはずだった。だが、そこに映っているのは自分とは思えない可憐で幼い少女だ。

 日本人であったおっさん。それが人種すら変わっている。少女自分のはっきりしない穴喰いだらけの記憶すらも持っているのだ。


 混乱しすぎると逆に冷静になるらしい。働くばかりで娯楽エンタメなどほとんど知らないおっさんだった者は冷静に推測する。

 一つは夢。寝落ちした自分が見ている夢なのだと思うこと。しかし、頭の奥に残る鈍痛とひっぱった頬の痛みがそれを否定する。


 二つ、荒唐無稽なことであるが、憑依とかそういったこと。幽体離脱して誰かに憑依しているという推測。

 しかし、外を見ればそれも否定できるだろう。自分のいるのは貴族の城館。おぼろげな少女の記憶にあるのはアルゲンベリード領のシルフェリナ。そんな地名は聞いたことがなく、そもそも幽体離脱などできた覚えはない。


 それにだ、少女の知識の中に当たり前にある聞いたこともない言語と、魔法という技術、それから異常発達した蒸気機関。それが三つ目の推測を形作る。

 三つ目の推測。それは転生、生まれ変わりといったこと。うすうすわかってはいたが、最悪なことに、信じたくもなかったが死んだという記憶はあるのだ。


 過労で階段から滑り落ちた記憶が今になって浮かび上がってくる。まるでこれが正解だよとでも言わんばかりに。

 しかも、ただの生まれ変わりではないようだった。記憶にある技術体系からして、前世とは明らかに違う。


 異なる世界なのかもしれない。遠い昔に読んだハードカバーの本のような世界。魔法や異常発達した蒸気機関があったりするファンタジーの世界。

 まるで御伽噺だ。だが、事実だった。その事実に至って、深い悲しみが心の中に充ちていく。若者ならば喜ぶのだろうか。


 しかし、まったく喜ぶことは出来なかった。綺麗になっても、魔法のような夢の技術があってもまったく喜ぶことなどできない。

 男であった少女の中にあるのは、残してきた者に対する思いだ。


「…………」


 妻はどうなっただろう。娘は、どうなっているだろう。悲しませただろうか。死ぬまで働けと言われて文字通り死ぬまで働いた結果、こんなことになろうとは想像だにしていない。

 死ぬときは、少なくとも娘の結婚を見届けられた後だろうと思っていたし、妻にみとられて死ぬだろうと勝手に思っていた。


 それが、これだ。誰にも看取られず、娘の晴れ着姿すら見ることは叶わず、妻と娘を残して死んだ惨めで憐れな何もなせなかった塵屑だ。

 そんな自分が嫌になった。その事実に打ちのめされる。醜く憐れな自分を愛してくれた妻と可愛い娘を誰よりも何よりも愛していたのだ。


 それに、この身体の持ち主であったはずの前途ある若者を踏みつぶしてしまった。そんな自分がどうしようもなく嫌になった。

 だからか、容易く瞳から零れ落ちた涙が頬を流れる。もう止められない。止めようと思っても止まってはくれない。ぽろぽろと、涙はその綺麗な瞳から流れ落ちていく。


 拭っても、拭っても止まってはくれない。鏡に映る少女は、何度も何度も流れる涙をぬぐう。拭った先から涙は零れ落ちて、しゃくりあげる声が部屋に響く。

 せめて誰にも気が付かれないようにしゃくりあげるのをおさえて、声を押し殺して泣いた。今生の母やメイドたちに迷惑をかけないように。ただただ涙を流し続けた。


「…………これから、どうするべきだろうか」


 ひとしきり泣けば落ち着くことが出来た。泣いたのはいつぶりだろうか。つい最近でもあるし、ずっと泣いていなかったようにも思える。

 ただ落ち着けば、これからどうしようかと考える余裕も出てきた。だが、こんな状況でどうするかなどマニュアルには載ってないし、わからない。


 死んだ手前、妻や娘に会うことはできないだろう。世界が違うのだから、どうしようもない。泣くほどにその事実は悲しい。それゆえに、これからどうすればいいかがわからなかった。

 死ぬ前は、働いていればよかった。何も考えずにただノルマだけを考えて、必死に必死に。わずかな家族との憩いの時間を糧にただ家族の為に。


 それがなくなった今、何もする気は起きなかった。ふと、淡い光が雲に覆われて晴れることのない空を白みさせる頃、ふとわずかな光が降り注いできた。


「あ、そっか」


 その時、気が付いた。何もしなければいいのだ。生まれ変わってまで何かをする必要なんてない。幸いなことに生まれ変わった先は貴族だ。

 色々としがらみもあるだろうが、裕福な家系にかわりはなく、あくせく働く必要はない。自由なのだ。嫌味な上司はいない。ノルマを課す会社もない。


 もう頑張らなくてもいいのだ。そのことに気が付くと、すぅっと、心が身体が軽くなったようだった。卿は雲が薄いのか雲越しでもわかる昇ってきた四つ子の太陽のように晴れやかな気分になる。


「ぐうたらしよう」


 残してきた妻や娘、もともとのこの少女には悪いかもしれない。けれど、きっと大丈夫だ。気の強く頼りになる妻ならば、娘と二人でもきっと大丈夫。

 もうとっくに再婚くらいしているかもしれない。そうだとへこむが、それでも彼女たちが幸せならば良い。もう祈ることしかできないが、それでも彼女たちを信じている。


「それに、死んだ自分がこうやって転生できたのなら、あいつらもいつかこっちに来るかもしれない」


 もし会えたら何を言われるだろうか。怒られるだろうか? 泣かれるだろうか? わからない。けれど、精一杯生きよう。

 踏みつけにしてしまった少女の為にもだ。彼女は自分。その意識は統合されているが、6年と40年以上の差は大きすぎてもはや残滓すらも感じられない。


 だから、せめて彼女や家族に恥ずかしくないように精一杯生きることにしよう。誰よりもぐうたらしながら。


「だから、私は……」


 かつての自分の名前。それはもう使えないからそっと心の中に仕舞って、今の名前を雲に覆われた空に向けて言い放つ。


「私は、ナタリア・アルゲンベリード。公爵令嬢だ」


 これが、ナタリア・アルゲンベリードの新たなる始まり。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 これは、数奇な人生を辿ることとなるとある令嬢の物語。

 悪役令嬢といつかどこかの世界でうたわれる少女の物語。

 そして、そんな女の子に転生したおっさんの物語である。

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