第4話 第4Q:Dark & Light
1
おれはエンジンをかけたままバイクから降りた。ライトが照らす範囲にはまだ人影はなかった。
電話の主が指定した場所は代々木公園だった。渋谷の近くにありながら、広大な土地を誇る都内有数の公園。いつもは人通りが多いこの公園も、夜になると一気に人気はなくなる。
落ち合う場所は雑木林に囲まれた一画だった。周りが木で覆われているため、何か不測の事態があっても逃げやすい。後ろ暗い連中が落ち合うには打ってつけの場所、というわけだ。
空は夕暮れを徐々に夜が侵食し始めていた。そろそろ夜行性の獣共が起きだす時間だ。あたりは昼間とは違った顔を覗かせ始めている。
気配――バイクのライトが照らす暗闇の奥で影が動いた。
「誰だ」
おれはバイクのハンドルを動かし、ライトをその影に向けた。
光に照らされた雑木林の中で、影は眩しそうに手で顔を覆った。
「…久しぶり…だな、蘇我」
影は疲弊感漂う弱々い声で言った。
「……五代…」
おれは言った。
おれに電話をかけてきたのは五代だった。あの抗争以来の再会だ。かかってきた電話が非通知設定だったのは、おそらく飛ばしの携帯だからだろう。
こちらに歩いてくる五代の姿がはっきり見えるにつれ、おれは思わず息を飲んだ。
五代の顔は傷だらけだった。大きく腫れた右瞼。紫色に変色した眼窩。大きく避けた唇。顔中所狭しと無数に点在している痣と擦り傷。五代の顔には僅かな街灯の光でもわかるほど容赦ない暴力の痕跡が刻まれていた。ご自慢の伊達メガネも着ている服もボロボロだった。紺色のツナギにおころどころある黒いシミは、おそらく血が染みたものだろう。
なるほど。道理で暗くなる時間にこんな場所を指定してきたわけた。こんな面で出歩いてれば即座に通報されるに決まってる。
「バイクのエンジン、切ってくれ。目立つとマズい」
五代に促され、おれはバイクのエンジンを切った。うっかりしていた。ここは渋谷――くそったれ刑事山添の管轄だ。迂闊に目立つと狂犬に嗅ぎつけられる。
エンジンを切ると急に静寂が闇夜とセットでその場を支配した。時折吹く風が騒がしく葉を鳴らす。
「…随分派手な面になったな、五代。廣瀬にやられたのか?」
おれは訊いた。五代は一瞬躊躇ったあと、ぎこちなく首を振った。敵味方入り乱れたあの抗争の中だ。誰にやられても不思議じゃない。
「まあ何にせよ、無事でよかったな。お前もパクられてるんじゃないかと思ってたぜ」おれは言った。「それで『蛇狩』は……藤堂はどうなった?」
最後の記憶 死屍累々の血煙舞う中にずぶ濡れで佇む藤堂の姿。次におれの意識が戻ったのは逃げるタクシーの中だった。事の顛末をおれは知らない。だから知りたかった。『GARDEN』が――藤堂がどうなったのかを。
五代は答えなかった。様子が変だった。五代はずっと俯くように地面に視線を落としたまま動かなかった。微かにだが、身体が震えているように見えた。
「おい……五代? 聴いて――」
「日比野の居場所は知っているか?」
おれの言葉に被せ、切羽詰まった口調で五代は言った。
「連絡先でも構わない。なんでもいい。あいつに連絡を取れる方法はないか?」
「おい、五代どうしたんだよ、落ち着けって」
おれは言った。迫り来る五代は妙な迫力があった。剥いた眼が血走っている。
「連絡先は知らねえが…日比野ならさっきまで一緒にいたぜ」
「本当か? さっきっていつだ!?」
「…お前が電話をかけてくる1時間ぐらい前…かな」
「くそっ!」五代は吐き捨て、舌打ちした。「タイミングが遅かったか…!」
「…あいつがどうした?」
不穏な空気を察し、おれは訊いた。五代は眉間に皺を寄せた苦悶の顔をおれに向ける。
「…藤堂さんが………あいつを、狙ってる」
「なん…だと…!」おれは愕然とした。「警察が捜しているこの状況下で、あいつは日比野を追っているっていうのか?」
信じられない思いで訊いた。藤堂の日比野に対する執着――いや、もはや異常なほどの執念に全身が粟立つ。そんなリスクを犯してまで藤堂が日比野に拘る意味がまったくわからなかった。
だが、五代はそんな藤堂の行動がわかっているとでも言いたげに頷く。
「関係ないさ。警察がいようがいまいが、あの人には…。それはお前も知っているだろう?」
五代は言った。今度はおれが頷かざるを得なかった。
やるといったら、藤堂はやる。たとえそこにどんな障害があっても。蛇の王は狙った獲物を決して逃さない。
「…オレが『GARDEN』に戻った時、まるで地獄みたいだったよ……」
五代の口から、言葉が漏れる。その光景を思い出したのだろう、声が微かに震えていた。
「そこかしこから悲鳴が聴こえて、足元には血溜まりができていた。歩くたびに血が跳ねた。足の踏み場もないほど人が倒れていた。興奮と血の臭いが残虐性を高めたんだろうが…今まで抗争は何度もしてきたけど、あそこまで凄惨な抗争は初めてだった。その中でオレは藤堂さんを捜した。スプリンクラーの水と発煙筒の煙で視界は最悪だったが、おかげで尋常じゃない景色を見なくてすんだ」
五代はそこで一旦言葉を切った。寒さに耐えるように自分で自分を抱きしめ、何か思い出したように身震いをする。
「一際大きい悲鳴と、激しく肉を打つ音が聴こえて……その音の方向に近づいた。藤堂さんがいた。『蛇狩』も『SPIKY』も関係なく、藤堂さんは近くにいる奴らを片っ端から殴り倒していた。視界に入るものはすべて壊す。そんな感じだった」
五代はその光景を打ち消すように、堅く眼を瞑った。五代がここまでビビるとは、その時の藤堂の狂態が相当なものだったと容易に想像できる。
そこで天啓のように気づいた。
「まさか…お前、その傷…」
錯乱状態の藤堂と満身創痍の五代――導き出される答えはひとつしかない。
「殺されるかと思った…! 本当に殺されるかと……!!」
五代は震える声で吐き出すように言った。死に直面した圧倒的な恐怖――見栄もプライドさえも、その恐怖の前では意味を成さない。
「…藤堂さんがオレに訊いたんだ。日比野はどこだって。ここにはいない、外へ逃げたのは見たが、それ以降は知らないと何度も言ったよ。でも聴いてくれなかった。殴られ過ぎて、意識が朦朧として…何も答えられなくなった。そのあと藤堂さんは……日比野を追いかけるように、外へ出て行った。
オレもなんとか後を追った。その直後に警察が『GARDEN』に乱入してきた。非常ベルを鳴らしたせいで近隣から通報されたらしい。『蛇狩』も『SPIKY』もほとんどの奴らがパクられた。おれもちょっとタイミングがズレていたらパクられていた。そのせいで両チームとも事実上壊滅状態さ」
おれは頷いた。ほとんどの連中が警察にパクられたのはニュースで知っていた。
「…廣瀬もか?」
「いや、奴はおそらくまだ捕まっていない。そういう情報も入ってきていないしな。幹部連中はどんどんパクられているらしいが…」
『蛇狩』と『SPIKY』、そして『GARDEN』の壊滅――藤堂は落とせなかったとはいえ、ほぼ黒ツナギの狙い通りになっている。
おれはその顛末に盛大な舌打ちする。
「わかっただろ?」五代は言った。「だから一刻も早く日比野を保護する必要がある。今の藤堂さんが日比野を見つければ、何をしでかすかわからない。オレも捜そうと思ったけど、さすがに携帯も何もない状態じゃどうしようもなくて…。今日ようやく飛ばしの携帯を手に入れられた。お前に連絡するのが遅くなってしまったけど、日比野の無事は確認できた。藤堂さんに見つかる前に早く保護したほうがいい。なんなら警察でも構わない」
五代は必死におれに言う。日比野を助けたいというより、藤堂を守りたいのだろう。もし鉢合えば、藤堂は日比野を殺しかねない。そんな危惧すらある。
「わかった」
おれは言った。安堵したように息を吐く五代に、「……が、どうにも腑に落ちないことがある」と続けた。
「……なんだ」
警戒した硬い声で五代は言った。
「シンプルな疑問だ、五代。なんでと藤堂はそこまで日比野に拘るんだ?」
痛いところを突かれた、というように、五代は身を硬くした。
そう、藤堂は異常なまでに日比野に拘っている。藤堂は日比野を潰すことに全身全霊をかけている。最初は自分の庭を荒らしに来た――自分に喧嘩を売った荒らし屋野郎の骨の髄まで恐怖を刻みつけるためだと思った。だが、数々の日比野に対する藤堂の対応を見てきて、おれは根本的な勘違いをしているような気がしていた。藤堂を駆り立てているもっと別の何かがある。直感がそう告げている。それは一体何なのか。五代ならば知っているはずだ。
「それは……」
そこまで言って、五代は逡巡するように言い淀んだ。眼が泳いでいる。おれの質問に明らかに動揺していた。
「おい、五代?」
「――同族嫌悪ってやつだよ」
おれの声と同時に、別の角度から声が割って入ってきた。
このくそったれた声――聞き覚えがある。いや、忘れられるわけがない。
おれは声がした方へ憎悪を込めた眼を向けた。
「ハーイ、久しぶり」
場違いなほど朗らかな声で、黒ツナギはそう言った。
☠
「黒ツナギ…!」
「榊…!」
おれと五代が同時に口を開く。
「二人揃ってそんな恐い顔で睨まないでよ。まあ元気そうで何よりだけど」
黒ツナギは戯けたように肩を竦め、おれに眼を向けた。
「もう怪我はいいのかい、蘇我?」
旧友に呼びかけるような馴れ馴れしさに舌打ちが漏れる。思い出したように肋に鈍い痛みが広がった。
「…お前、どうしてここがわかった?」
警戒を露わに、五代は訊いた。
「忘れちゃった、五代? オレはすごく耳が良いんだ」
黒ツナギは戯けた仕草で両耳に手を添えた。今度は五代が忌々しそうに舌打ちする。
「てめえ、よくもおれの前にノコノコと現れたもんだな…! 自殺志願なら今すぐにでもブチ殺してやるぜ…!」
おれは声を荒らげた。おれの身体の中で憤怒がガスのように充満していく。この男に散々虚仮にされた屈辱を、おれとおれの身体はきちんと覚えている。
「落ち着け、蘇我! 今こいつに構っている場合じゃないだろう!」
今にも襲いかかりそうな剣幕のおれを、五代が制する。
「相変わらずだねえ」
黒ツナギはおれの威嚇もどこ吹く風で返す。
「いやね、あんたら二人が会ってるって耳にしたからさ。折角だからオレも混ぜてもらおうと思って」
黒ツナギはそう言って、おれに同族に向けるような眼差しを送った。
「それに蘇我、オレはどうしてもあんたにもう一度会いたかった。あの状態であの修羅場を潜り抜けるなんて、あんたはやっぱり最高だよ。あんたはいつもオレに予想以上をくれる。改めてファンになっちゃったよ」
「願い下げだクソ野郎。ふざけてんじゃねえぞ…!」
「ふざけてなんかないさ。じゃなきゃ復讐される危険があるのに、こうしてわざわざ会いにきたりするかい? ……そんなに警戒しなくても大丈夫だよ、五代。オレは一人だ」
おれに話しかける一方で、黒ツナギは視界の隅で周囲に眼を走らせている五代の動きも把握している。抜け目がない野郎だ。
「お前の言葉は信用に値しない」
五代は言った。黒ツナギは嗤った。
おれも周囲を見渡した。確かに他に気配は感じられなかった。この2週間ばかりの間におれのセンサーが鈍っていなければ、の話だが。
「廣瀬は一緒じゃないのか」
おれは言った。
「廣瀬?」黒ツナギはわざとらしく少し考える振りをし、言った。「ああ、あの
用済みの玩具のことなどどうでもいい――黒ツナギは言外にそう言っていた。
廣瀬――哀れな玩具。その愚かさのせいでどこに行っても弄ばれ、打ち棄てられる。
「そんなことよりさあ、今おもしろい話してたね。続けなよ、五代」
いつの間にか黒ツナギが主導権を握っている。やつのペースに飲まれるな――警戒心が囁く。
「お前に指図される謂れはない」
余計なことを言うなと言わんばかりに五代は黒ツナギを睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「冷たいなあ。知らない仲でもないのに。まあ別に頑なに言いたくないって言うならいいよ。オレも鬼じゃない。代わりにオレから蘇我に話してあげてもいいよ」
黒ツナギは人差し指を立て、おれに向かって囁くように言った。
「なぜ藤堂は日比野に拘るのか――あんたの知りたいこと、その1」
「途中乱入でしゃしゃり出てんじゃねえよ。てめえは黙ってろ」
おれは憎悪に燃える瞳で黒ツナギを睨んでいる五代に身体を向けた。
「話せよ、五代」
有無をいわさない口調で言った。
少しの逡巡――五代は諦めたようにため息を吐いた。
「……あの人は…」
五代は意を決するように一呼吸置いたあと、言葉を続けた。
「…藤堂さんは元々、東京で有名なプレイヤーだったんだ」
☠
五代は語る――藤堂は高校1年の頃から東京で注目を浴びる将来有望なスター選手だった。
五代は語る――藤堂が高校2年の時、チームは快進撃を続け、全国への切符をほぼ手中に手中に収めていた。誰もがその才能が全国で旋風を巻き起こすと疑っていなかった。
五代は語る――しかしそれは叶わなかった。決勝戦目前のある日、藤堂は見知らぬチンピラどもに襲われた。命は無事だった。だが、左足のアキレス腱を断裂するという大怪我を負い、選手生命は絶たれた。プレイヤーとしての藤堂はその日死んだ。
五代は語る――藤堂が抜けたチームは決勝戦で敗れ、念願のI・H出場は叶わなかった。藤堂はバスケ界だけでなく、高校からも姿を消した。
五代は語る――その数カ月後、藤堂が通っていた高校の3年生で元エースだった男が半殺し状態で発見された。同じ現場で藤堂を襲ったチンピラも虫の息で発見された。
五代は語る――藤堂襲撃の犯人はその3年の元エースだった。藤堂にその座を奪われた元エースは、藤堂がいなくなれば己の王国が復権すると思い込み、金で雇ったどこぞのチンピラに藤堂を襲うように命令した。それが事件の真相だった。
五代は語る――公になった過去の事件。当然当時の被害者である藤堂が疑われた。しかし元エースもチンピラも、入院中警察に何も語らなかった。仲間内で意見違いから喧嘩になった、ムキになってやり過ぎたと言い続けた。陰湿なやり口が周囲にバレた元エース、は退院後一家ごと行方知れずになった。チンピラたちも姿を消した。
五代は語る――その後、表の世界で藤堂を見たものはいない。
☠
「……才能だけなら、藤堂さんはは日比野よりも上だったと思う。それぐらい、当時の藤堂さんは抜きん出た存在だった」
五代は補足するように言った。
おれは呆然としながら五代の話を聴いていた。
どこかで聴いたような話――誰の話だ? 藤堂の話だ。
でも、これはまるで…。
「そっくりでしょ。誰かさんの人生に」
おれの内心を読んだように、黒ツナギは言った。
お前はオレに似ている――藤堂の声が脳裏に蘇る。
いつも藤堂がおれにかけていた科白。あれはこういうことだったのか…!
「もうわかるよね? 藤堂が日比野に拘る理由」
お前はオレに似ている――おれは奥歯を強く噛み締める。
おれと藤堂。似た境遇だから似た思考になるとは限らない。しかしそれでも、おれと藤堂の思考が似ているというなら、藤堂が日比野に拘る理由はひとつだけだ。
それはおそらく、嫉妬。
過去に奪われたものが、ある日突然眼の前に現れた。類まれなる才能を持った男――藤堂はそこに昔の自分を見たのだろう。すべてを奪われる前の自分を。羽根があった時の自分を。見たくもないものを無理矢理眼を開けさせられ、様々と見せつけられた。そんな気分だったに違いない。消し去ったと思っていた記憶は、僅かなきっかけですぐに復活する。
さぞかし傷口が疼いただろう。そしてその疼きは人を狂わすには充分だ。赦せるはずがない。特におれたちのような人間には。疼きを消すためには、その元の存在を否定するしかない。
おれはゲームで勝つことでそれを否定しようとした。
藤堂は潰すことで否定しようとした。
思えば、藤堂の日比野への対応はおかしなことだらけだった。いつもは冷静な藤堂がこと日比野に関しては想像できないほど取り乱し、冷静さを欠き、判断を誤った。藤堂らしからぬミスを連発した。その理由がようやくわかった。
激しく燃える嫉妬の炎が、藤堂の眼を眩ませてしまっていたのだ。
「…怪我は……もう治っている。ただ、前のようにプレイすることは、もう……できない。長時間全力で動けないんだ、藤堂さん。…それ以上に、心に根づいたトラウマはそう簡単に拭えるものじゃない。だから……余計に刺激してしまったんだと思う。思い出させてしまったんだと思う。そんな現実を…日比野を見たせいで……」
五代は歯切れ悪く言った。
厭な過去を思い出すには、日比野の存在は充分過ぎる。
おれは動揺を見せまいと、わざと大きな舌打ちをした。
そう、おれは正直動揺している。知られざる藤堂の過去を聴き、血がざわつくほど動揺してる。
「ついでに言うと」
それまで黙っていた黒ツナギが口を開いた。
「なんで五代がこの話に詳しいかって言うと、藤堂と五代は同じ高校で、五代は藤堂の1つ下の後輩だからだよ。まあ、言ってみれば五代も間接的に事件に巻き込まれた被害者ってことだね」
おれは驚いて五代を見た。五代は舌打ちして「榊!」と鋭い声で言った。余計なことを言うな――言外の恫喝。黒ツナギは素知らぬふりで嗤っていた。
五代が経験者だということはあの時に聴いて知っていた。しかし、まさか藤堂も経験者で、そして五代と先輩後輩の関係だとは微塵も考えなかった。道理で藤堂と五代の関係は他の『GARDEN』にいる藤堂崇拝組とは違うわけだ。
五代と眼があった。五代は後ろめたそうに視線を逸らした。
「…まだ何かあるんだな、五代?」
直感――おれは言った。
眼の逸らし方が不自然すぎた。おれの追求に五代が小さく息を呑むのを見逃さなかった。
「この際だ、お前が知っていること洗いざらい吐けよ」
「そうだよ、五代」
いつの間にか横に来ていた黒ツナギが、馴れ馴れしくおれの肩に手を廻して同調する。
「蘇我はこんなに知りたがってるじゃないか。話してやれよ。ここまで話したんなら全部話しても一緒さ。それに、彼も言ってみれば当事者の一人じゃないか」
廻された手を振り解こうとしていたおれは、その言葉に動きを止めた。
「…おい、どういう意味だ?」
「ねえ、蘇我、また藤堂にお友達がやられちゃったら、どうする?」
黒ツナギは言った。
「やめろ榊!」
五代が叫んだ。その様子を寒気がするような薄嗤いで眺めながら、黒ツナギはおれの耳元で「あんたの知りたいこと、その2」と囁く。
「なぜ、オレがあんたのお師匠さんのことを知っていたのか」
黒ツナギから発せられる言葉は呪詛のようにおれの鼓膜に絡みつく。思いがけず出た荒木さんの話に、心臓が一度大きく跳ねる。
「……続けろ」
おれは横目で黒ツナギを睨みながら言った。五代は何か言おうとして――止めた。もう止められないと悟り、一人その場で歯噛みする。
「荒木って言ったっけかな、あんたのお師匠さん」
歌うように軽やかな口調で黒ツナギは言った。その名前が黒ツナギの口から発せられることに、反吐が出そうなほど嫌悪感を覚える。
そんなおれの心理を意にも介さず、黒ツナギは顔に満面の笑みを湛えて言った。
「その荒木って人をあんなメに遭わせたのは、藤堂だよ」
☠
あまりに突飛な発言すぎて、聞き間違いだと思った。そんな馬鹿な話があるか――鼻で笑い飛ばそうとした。できなかった。視界の隅に、顔面蒼白な五代が映った。その顔が、それが真実であると言っていた。
「あんたの師匠が賭バスケをしていた賭場」黒ツナギは廻した手でリズムを取るようにおれの肩を叩く。「実はオレが作った賭場だったんだよね。つまりあんたのお師匠さんはオレの客だったってわけ」
「なっ…!」
爆弾はいきなり放り込まれる。おれは弾かれたように黒ツナギに振り向いた。黒ツナギは嗤うでもなく、じっとおれの瞳の奥を覗き込むように見返す。
至近距離で見た黒ツナギの双眸は真っ黒い穴でできているようだった。その覗いた深淵から、何者かがおれを覗いているような気がした。
「その賭場で藤堂とそこにいる五代…この二人は掃除屋としてプレイしていたのさ。『GARDEN』でのあんたと同じくね」
追い打ちの二撃目――深淵からおれを覗いていた何かが不穏に蠢く。それはおれが知らないもうひとつの現実だった。そいつがこっちに向かって手を伸ばしてくる。おれは思わず身体を引いた。黒ツナギは廻した腕に力を込め、離れようとしたおれを制する。
「興味が出たかい? もう少し話そうか」
真っ黒い穴の中のそいつが、そう言う。
黒ツナギは破顔し、おれの肩から手を離すと、まるで映画の演説シーンのように歩きながら話し始めた。
「賭場は本場仕込みがわんさかいる横須賀で開いていた。そこに藤堂はいた。五代の話のとおりアキレス腱をやってたから長時間のプレーはできなかったけど、短時間で決着がつく賭バスケでは最強のプレイヤーだった。だからオレが掃除屋にスカウトしたのさ。
あの当時の藤堂は底知れぬ昏さと危うさを持った男だったよ。しばらくして五代が合流した。今でこそこんなだけど、賭場に始めてきた時の五代はそれはそれは純朴少年で、周りの異質さにオドオドしててさ……かわいかったなあ。街でたまたま藤堂を見かけて、行き先が気になってついてきたって。そりゃそうだよね。音信不通になった尊敬する先輩を見かけたら誰だって追いかけるよね」
顔に嘲笑のような嗤いを浮かべ、黒ツナギは五代に眼をやった。五代は吐き捨てるように舌打ちした。
「関係ない話はどうでもいい。本題を話せ」
おれは逸る気持ちを抑え、言った。黒ツナギは肩を竦めた。
「…まあそんなこんなで玩具も手に入って楽しくやってたある日、あんたのお師匠さんが現れた。しばらくは普通の客だった。何度か通いプレイしたあと、胴元であるオレに直接勝負を持ちかけてきた。かなり切羽詰まった様子だったよ。表の人間らしかぬ退廃的な雰囲気を纏っていたのが印象的だった。よほど金に困っていたんだろうね。その雰囲気が気に入って、オレはその勝負を受けた。
勝負の結果は言うまでもないよね。あんたのお師匠さんは藤堂に敗けた。善戦したけど、あと一歩届かなかった。アキレス腱を切ったはずの藤堂に、あんたのお師匠さんが敗けるなんて信じられないかい? 蘇我。この世の中はね、信じられないことだらけでできているんだよ。それが現実ってやつで、ひいてはこの世界の構成なんだ。
話が逸れたね。藤堂とあんたのお師匠さんのゲームは賭場始まって以来の金額になった。あんたのお師匠さんも相当なレベルだったからね。客にとっては注目のカードだった。結果、予想以上に大きな額が動いた。賭けていた連中はそりゃ必死になるよね。あんたのお師匠さんに賭けた連中は、当然結果にぶち切れた。さらに最悪なことに、あんたのお師匠さんは賭けをふっかけたはいいが、実際には金を持っていなかった。これがどういうことかわかるよね、蘇我?
胴元に勝負をふっかけておいて金がない。そんな戯言は赦されない。人を信じない連中と場所だからこそ、裏切らない金っていうルールは絶対なのさ。それを反故にしたとあれば、どんな扱いを受けたとしても文句は言えない。
そう、例え殺されるようなことになったとしても――ね」
黒ツナギの口から紡がれる過去の話――おれは堅く眼を瞑り、折れそうなほど歯を喰い縛った。そうしなければ叫びだしてしまいそうだった。
おれの知っている現在とおれの知らない過去が混ざり合っていく。交わることのないはずだった現実が境界線を超えて交じり合っていく。
「その件があったせいで、警察の介入は免れなかった。結局その賭場は閉めることになったんだけど、そこにしか生きられないような連中ってどこにでもいるじゃん。あんたもそうだし、藤堂や五代もそうだった。だからオレは居場所をなくした連中のために、新しく居場所を作ってやった」
――それが『GARDEN』。
畳み掛けられるおれの知らない事実の連続に、おれはただ聴くことしかできない。融合していく過去と現在から立ち込める腐臭に、おれは今にも目眩を起こしそうだ。その腐臭はどんなドラッグよりも、おれをバッド・トリップさせる。
「『GARDEN』は藤堂に丸ごと譲った。いい加減管理にも飽きてたしね。一国一城の主になった藤堂は、それ以来プレイをしなくなった。代わりに力に――暴力に魅せられていった。もともと米兵の荒くれ者どもを相手に掃除屋やってたくらいだからね。腕っ節もそこいらのガキじゃ相手にはならないよ。そのせいかアンダーグラウンドで有名になるのも早かった。藤堂を潰して名を挙げようとする奴らが現れ始めた。だから、そんな藤堂を守るために、五代は『GARDEN』の初期メンツと『蛇狩』を作った。ちょうどその頃のから…かな。藤堂はたまに言ってたよ。頭の中で誰かの声がするって。そいつが言うんだとさ。全部ブチ壊せってね」
黒ツナギはこめかみを中指でとんとんと叩き、「あんたもそうなんじゃないの?」とおれに言った。
お前はオレに似ている――同じフレーズがしつこくリフレインする。
おれじゃないおれの声をおれは聴くように、藤堂も藤堂ではない藤堂の声を聴いている。
似ている。まるで分身のように、おれたちは何もかもが似過ぎていた。
「気づいたら胸に蛇のタトゥーなんか入れちゃってさ。それから藤堂は『コブラ』って呼ばれるようになった。『コブラ』率いる『蛇狩』が東京のアンダーグラウンドを支配するのに、そんなに時間はかからなかった…と、まあこんなところかな?」
黒ツナギは話の区切りの合図のように、一度手を叩いた。
繋がっていた。すべての出来事は繋がっていたのだ。藤堂、五代、日比野。そして――おれ。黒ツナギが引いた歪な線の上に、おれたち4人は、いた。
視線を感じた。五代が何か言いたそうにおれを見ていた。
「……知って…いやがったのか…」
自分の声が遠くに聞こえた。鼓膜の奥でごうごうと音がする。怒りで血が逆流しているのがわかった。
おれの声が届いたのか、五代は苦虫を噛み潰したような顔をした。怒り――悲しみ。綯交ぜになった名状しがたい感情が、おれの身体を貫く。
「最初から全部知ってやがったのか、五代!」
衝動が口を突く。五代に向かって叫んだ。五代は言い返すこともなく、黙って何かに耐えるように拳を握り締めた。
「一応言っておくけど」背後から黒ツナギが呑気な声で言った。「五代はあんたのスカウトにはずっと反対してたよ。あんたとお師匠さんの関係は誰にも言ってなかったから、どっかから情報仕入れて気づいたんだろうね。でもあんたを知った藤堂がえらく気に入っちゃって、結局スカウトすることになったんだけどね」
居場所が欲しいか――藤堂はそう言った。スカウトされた時のことは、昨日のように思い出せる。
駒沢公園のフープでハッタリ野郎どもを蹴散らし、余計に溜まったストレスを解消するために煙草を吸っていた時だった。陸橋の上から、藤堂がそう声をかけてきた。
――お前の居場所をオレが与えてやる。だからオレと一緒に来い。
「藤堂はあんたの素性は知っていたけど、あんたのお師匠さんとの関係は知らなかった。なんでか五代は藤堂には言わなかったみたいだしね。だから、あんたたちの関係を藤堂はまだ知らない」
おれは肩越しに振り返り、黒ツナギを睨みつける。
「…おれのことを知ったのは…」
「お察しのとおりだよ。あんたのお師匠さんはオレの客だった。客の背景は当然調べるよ。相手がどこの誰だろうが・ね。そこであんたの存在を知った。あんたのお師匠さんが、あれだけ金に固執した理由がわかると同時に、藤堂と似た境遇のあんたに興味を持った。もしその二人を引き合わせたら――そう考えただけでぞくぞくした。これは間違いなく面白くなると確認に似た直感があった。一人の人間を再起不能にした男と、その人間を慕っていた男。似て非なる二人が出会ったらどんな一体どんな素敵なことが起こるんだろうと思うと、期待で胸が高鳴ったよ」
耳の奥で軋む音を聴いた。自分の奥歯を噛み締める音だった。無意識に強く握った拳は白く変色していた。
「…期待には添えたかよ?」
「もちろん!」黒ツナギは顔を歪めた奇妙な嗤い顔をして、おれに言った。「何も知らない同士が仲間ぶって一緒にいるのって、最高に面白い見世物だったよ」
黒ツナギは高らかに嗤った。狂ったように嗤った。すべてを知っている黒ツナギは、何も知らずにのたうち回るおれたちの滑稽さを嘲笑っていた。
「黒ツナギィ!」
腹の底で怒りが爆発した。おれは身を翻し、黒ツナギに襲いかかった。突如赤いツナギを来た男が素早くおれの前に立ち塞がった。続けざまに同じく赤いツナギを来た男が2人、鉄パイプを持った連中が5人茂みから現れ、おれと五代を挟むように陣形を取った。
「どこから湧いて出やがった…! どけ! 邪魔するならてめえらからブチ殺すぞ!!」
おれは叫んだ。獣のような叫び声だった。おれの剣幕に眼の前の赤ツナギAはすぐ身構え、戦闘体制に入った。
「ごめんごめん、ちょっと調子に乗って話しすぎちゃって本筋から逸れちゃったけど」
おれと赤ツナギAの不穏な空気さえもそよ風のように、黒ツナギは言った。
「そういうわけで、藤堂が日比野に執着する理由があるように、日比野もまた、藤堂に会う理由があるんだよ」
含みのある言い方――天啓に打たれたように、おれは気づく。
「まさか…」
「ご・明・察」黒ツナギは指を鳴らし、おれを指差す。「今まさに、藤堂と日比野が会っているよ」
全身が総毛立つ。最悪の想像が現実化する。焦燥感が背中を駆け上がっていく。
「どうやって藤堂さんを見つけた!?」
五代が勢い込んで黒ツナギに問う。無理もない。にわかには信じられない。警察はまだ藤堂を見つけられていない。それを出し抜いて、黒ツナギは藤堂の居場所を特定したのだ。普通じゃありえない。
「何度も言わせるなよ、五代。オレは耳がいいんだ」
黒ツナギは物覚えが悪い子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「ちょうどあんたと日比野のが別れたあとだね。彼から藤堂の居場所を知りたいと連絡があった」
おれと日比野が会っていたことも知っている。黒ツナギの情報収集能力に、今更ながら戦慄を覚える。
「なんで教えた!?」
五代が後戻りが効かない状況に悲痛な声で叫ぶ。
「面白いから」
こともなげに黒ツナギは言う。
「藤堂と日比野はどこにいる」
纏わりつく怖気を振り払うように、おれは語気を強めた。
「教えると思う?」
間髪入れずに黒ツナギが返す。
「お互いが望みあったせっかくの逢瀬なんだ。邪魔しないでそっとしておいてやんなよ。この瞬間を誰よりも望んだのは、他でもない日比野自身なんだから」
そんな気がしていた。おれは歯噛みする。日比野の後ろ姿が脳裏を過る――あの背中に滲んだ決意は、そういうことだったのだ。おれと会った時にはもう、日比野は覚悟を決めていた。藤堂と対峙する覚悟を。忌々しい過去とケリをつける覚悟を。
てめえ一人で何もかも背負い込みやがって、あの馬鹿野郎が…!
「もしかしたらオレのことも気づいていたかもね、彼。あわよくばオレの首も狙おうとしてた節があった。だけど残念。利用されるだけされて、ポイ」
黒ツナギはシュートを放つようにフォロースルーしながら、喉を鳴らして嗤った。
頭の血管が何本か切れる音を、おれははっきりと聴いた。
「てめえは…」喰い縛った歯の隙間から唸り声が漏れる。「てめえはどこまで人を虚仮にすれば気が済むんだ…!」
「決まってるじゃないか、蘇我。オレの気が済むまでだよ」
黒ツナギは再び声を出して嗤った。心の底からこの状況を楽しんでいる。悪意の塊がそこにあった。
「どうしても知りたいんだったら、力尽くで吐かしてみなよ。それがオレたちだろう?」
黒ツナギは挑発するように言った。
こいつをぶち殺せ――頭の中で声が響く。おれではないおれが喚き散らす。黒いおれが主導権を握りだす。
「いいぜ…望み通り力尽くで吐かせてやる…!」
こいつらをぶち殺せ――声はどんどん大きくなる。視界が赤く染まっていく。
こいつらをぶち殺せ――五代がおれに向かって何か叫んだ。その声すらもうおれの耳には届かない。
こいつらを一人残らずぶち殺せ!
声が弾ける。おれは雄叫びを上げ、黒ツナギ目掛けて突っ込んでいく。
おれの意識は真っ赤な何かに覆い尽くされていく。
☠
ぶち殺せ――拳に肉の潰れる感触が広がる。
ぶち殺せ――悲鳴と嗚咽と血の臭い。オレの中の獣が歓喜の咆哮をあげる。
ぶち殺せ――誰かがおれの腕を押さえつける。耳元でおれの名を叫ぶ。
ぶち殺せ――押さえつけている手を振り解こうと、おれは強引に腕を振り回す。
「蘇我! もうやめろ!! 本当に死んでしまうぞ!」
その声に我に返った。
朦朧とした意識で声がした方に顔を向けた。すぐ横に五代の顔があった。必死の形相でおれの腕を掴んでいた。
五代が何をしているのか一瞬わからなかった。足の下に感触――赤ツナギCがおれに組み敷かれていた。顔は原型を留めていないほど潰れていた。おれの手はドス黒い血で塗れていた。
ようやく状況を理解した。
おれは握っていた拳を解いた。脱力したおれに抵抗の意志がないことを確認し、五代は掴んでいた腕を離した。
力なく周りを見渡した。赤ツナギAとBを始め、その場にいた全員が血だるまになって転がっていた。
これはおれがやったのか…?
襲いかかったところまでは覚えている。そこから先の記憶がなかった。自分の拳に纏わりついた血の臭いに動機が激しくなる。
お前の存在自体がチームにとって悪なんだ――不意にフラッシュバックする記憶。あの時も声が聴こえたと思ったら、そこからの記憶は途切れ、気づいたらチームメイトたちが血塗れで転がっていた。
「止めなきゃ本当に殺してたぞ…!」
五代は叱責するように言った。おれはこめかみを押さえた。五代の言う通りだ。もし五代が止めていなければ――考えるだけで背筋が寒くなった。
手を叩く音が聞こえた。黒ツナギがおざなりに拍手をしていた。
「素晴らしい」
「榊…!」
五代が嫌悪感とともに吐き捨てる。
「人はそうそう変われやしないね、蘇我」
黒ツナギはおれと血塗れの赤ツナギを交互に指差し、言った。
「それがあんたの本性だ。その裡に秘めた獣の本性と、本当に折り合って生きていけると思ったかい?」
まるでおれと日比野の会話の内容さえも知っているような口振りだった。いや、実際知っているのかもしれない。黒ツナギの言葉ででき上がった逃げ場のない空間に追い込まれたような、そんな感覚に陥る。
「……蘇我、聴く耳持つな。こいつは完全にいかれてる。ただのサイコ野郎だ」
眼を黒ツナギに据えたまま、五代は言った。
「いかれてる? オレが?」
黒ツナギは不思議そうに言い、嗤った。
「だとしたら、そのオレの存在を許すこの世界が一番狂ってるよ、五代」
黒ツナギの深い穴のような双眸に見つめられ、五代は気圧されたように後ずさった。
「オレはね」黒ツナギは続けた。「ただ自分の気持ちに忠実なだけなんだ。やりたいことをやりたいようにやる。シンプルだろ? 人間の本来あるべき姿だ。だけどみんな頼まれてもいないのに建前と本音を使い分け、その狭間で藻掻き苦しむ。勝手に作った枠の中で我慢してるんだ。もどかしいよね。自分の本当の声は確実に聞こえているはずなのに。これはあんたにも通ずる話だよ、蘇我」
黒ツナギの双眸がおれに向く。呪いをかけるようにおれの眼をまっすぐ見据える。
「あんたも我慢している。ずっと我慢している。その獣の本性が何よりの証拠さ。あんたの中にはあんたでも抑えきれない獣が住んでる。憎いんだろう? 悔しいんだろう? 自分を唾棄した世界が。自分を弾き出したこの現実が。本当は何もかもブチ壊してやりたいんだろう? だったらブチ壊してやれよ。奪い取ってやれよ。欲しいものは遠慮なく力尽くで手にいれてやれよ」
黒ツナギはおれを受け入れると示唆するように、大きく手を広げた。
「オレならあんたの望むものを何でも与えてやれる。覚えているかい? あの時約束したよね? 居場所ならおれが提供してあげるって。他に何が必要? 対戦相手? 金? ドラッグ? 好きなモノをいいなよ。何ならあんたに『GARDEN』に代わるものを作って、譲ってあげてもいい。あんたがあんたでいられる場所をオレが作ってあげるよ」
黒ツナギはおれに向かって手を差し伸べる。その姿に、欲望に忠実な黒いおれの姿が重なる。
獣は囁く――これがあっちに戻れる最後のチャンスだ。お前も本当はまだ未練があるんだろう? さあ、おれの手を握れ。あっちの世界で楽しくやろうぜ。
「あんまり蘇我を見くびるなよ、榊」
おれに発せられた呪いを断ち切る声――五代は言った。
「お前の思い通りになるほど、こいつは簡単なタマじゃねえよ」
「随分信頼してるんだねえ、五代。この間まであんなに蘇我のこと毛嫌いしていたのに」
黒ツナギは鼻で嗤い、揶揄するように言った。
「だからだよ」五代は言った。「こいつのことは、ぶつかったオレが一番よくわかっている。傲慢で不遜で心底気に入らない野郎だけどな…てめえみたいなイカれたクズとは違う」
五代は黒ツナギに言い放ったあと、「いい加減に立て、蘇我!」とおれに言った。
「いつまでそうやって座り込んでいるつもりだ。こんなところで足りない脳みそ使ってごちゃごちゃ考えたって、答えなんか出るわけがないだろう。馬鹿は馬鹿らしく、今は本能に従って動け!!」
いつものような命令口調で五代は言った。その言葉が、尻込んだおれのケツを激しくぶっ叩く。
そうだ。今はゴチャゴチャ考えている場合じゃない。
「…誰が馬鹿だ三下。偉そうにおれに命令するんじゃねえよ」
だからおれもいつもの調子で返した。立ち上がったおれを見て、五代が口端を上げる。
「生憎だが、てめえの誘いになんざ死んでも乗らねえよ」
差し伸べられた手を振り払う代わりに、おれは中指を立てて言った。
「後悔するよ?」
黒ツナギは首を傾げて言った。
「知ってるよ。それがどうした?」
おれは言った。わかってる。自分の中の抑えきれない衝動の存在も。鬱屈した感情も。この世界がおれを必要としていないってことも。すべてわかってる。
それでも、おれはここで生きる。そう誓ったのだ。
「うーん、やっぱダメかあ」
黒ツナギは差し出した手でそのまま頭を掻いた。
「日比野に会って絆されちゃったかなあ。オレの知っているあんたは、もっと狂気的で厭世的で、すべてをブチ壊したくて仕方がないって感じの人だったんだけどね。まあどうしようもない現実ってヤツをもう一度見れば、また考え方が変わるかもしれないけど」
黒ツナギは確信めいた口調で言い、指鉄砲でおれを撃つ真似をした。
お前はきっとこっちに戻ってくる――黒ツナギの眼は言外にそう言っていた。
「勝手に期待してろ」
おれは言った。黒ツナギは肩を竦めた。
「さて、約束だったね。藤堂の居場所を教え――」
「いらねえよ。もう見当はついた」
おれは黒ツナギを遮って言った。
「本当か、蘇我?」
五代は言った。おれは頷いた。
ちょっと考えればわかるはずだった。黒ツナギにすっかりペースを乱されて見落としてしまっていた。警察に追われるこの状況下で、誰にも邪魔されずに目的が果たせる、そんな場所――その条件でおれならばどうするか考えれば、藤堂が行き着く場所はひとつしかない。
この世界で唯一おれの居場所であり、おれたちの因縁が始まった場所――「『GARDEN』にいるんだろ、藤堂は」
黒ツナギは楽しそうに口笛を吹き、「さすが似た者同士だね」と言った。
「まさか…」
五代は唖然とした顔でおれを見た。
「でもあそこは今警察の監視下のはずじゃ…」
「抜け道なんていくらでもあるよ、五代。逆にその思考が盲点になる」
わかってるだろう? と黒ツナギは五代の言葉を打ち消す。
「わかったなら、早く行った方がいいんじゃない? 手遅れになる前に、さ」
黒ツナギは親指で『GARDEN』の方角を指しながら言った。
「…これもお前が描いた画の通りか?」
黒ツナギがべらべらと喋ったのも、これから集う3人の因縁を明らかにしたほうが面白いと思ったからだろう。あと、日比野と藤堂の逢瀬におれが早々と乱入するのを防ぐ意味もあったのだろう。根っから性根が腐っていやがる。
「さあ、どうだろうね。考え過ぎじゃない?」
黒ツナギは薄く嗤い、肩を竦めた。おれは唾を吐き捨てた。
「…いいぜ、乗ってやろうじゃねえか。お前の描いた画によ。だが、誰もがお前の思い通りに動くと思うなよ。お前のくだらねえ思惑なんかおれが全部ぶち壊して、そのニヤけ面を必ずぶっ潰してやる…!」
「期待してるよ」
黒ツナギはと口端を上げ、言った。
おれは舌打ちして五代に「いくぞ」と声をかけた。反応がなかった。振り返った。五代が荒い息を吐きながら膝をついていた。
「おい、五代!」
「…だ、大丈夫だ…」
五代は立ち上がろうとしたが、足腰が耐え切れず、再び地面に膝をついた。
「…ちくしょう、こんな時に…!」
五代は声に悔しさを滲ませた。叱咤するように何度も拳で自分の足を殴打するが、それでも足は言うことを聴かないようだった。
「無理もないね」
そんな五代を見ながら、黒ツナギが言った。
「藤堂に半殺しにされて、その身体で今まで警察から逃げてたんだ。肉体的にも精神的にもとっくに疲労はピークを超えている。むしろ今までよく持ったほうだよ」
おれはしゃがみ込み、五代の背に手を置いた。背中が汗で湿っていた。顔が土気色になり、脂汗が浮いてた。明らかに身体に変調をきたしている。
「…先に行け、蘇我…!」荒い息の合間に、五代は言った。「急げ…! 今ならまだ間に合うかもしれない。動けるようになったら、オレもすぐに追いかける」
「でもよ…」
おれは横目で黒ツナギを見た。黒ツナギがいる以上、五代一人を置いていくのは危険だ。何をされるかわかったもんじゃない。
「オレに構うな、蘇我…!」
そんなおれの逡巡を見抜き、五代は強い口調で言った。
「今、お前がやるべきことは何だ? オレを介抱することか? …違うだろ! お前のやるべきことに集中しろ…!!」
最後の気力を振り絞るように、五代は言った。
「オレをただの足手まといにしてくれるなよ…!」
くそったれ。腹を決め、おれは言った。
「…わかった」
不意に五代に腕を掴まれた。強い力だった。おれの腕を掴んだその指先は、はっきりと震えていた。
「蘇我…お前にこんなことを頼むのは筋違いだってわかってる……でもお願いだ…!」指と同じく、震える声で五代は言った。「あの人を…藤堂さんを止めてくれ。…オレじゃできなかった。オレの声じゃ届かなかった…! 頼む、蘇我…! もうこれ以上、あの人に誰も傷つけさせないでくれ…!!」
雫が地面を跳ねる。五代は泣いていた。慕う人間を救えない己の無力さを悔やみ、声を殺して無念の涙を流していた。
おれは五代の手をほどき、立ち上がった。
「……どんなに遅くなってもいい。あとから必ず来い。いいな」
おれを見上げる五代に向かって、言った。
「お前の声が届くところまで、おれが藤堂を引き上げといてやる。だから、てめえの声はてめえで届けろ」
五代には借りがある。クソでっかい借りが。その借りを返す時は、きっと今だ。
五代は涙で濡れた情けない顔で、一度大きく頷いた。
それを機に、おれは駆け出した。
「あとで落とし前はつける。首洗って待っていやがれ」
黒ツナギとの擦れ違い様に、おれは言った。
「待ってるよ、蘇我」
黒ツナギは嗤った。
おれは舌打ちを置き去りに、全身全力で『GARDEN』に向かって走った。
2
おれは疾走る――アウトローとガキどもが支配するくそったれた街を。
おれは疾走る――煌々と闇夜を呑み込むネオンの渦の中を。
おれは疾走る――人混みを掻き分け、喧騒を貫きながら、おれはひたすら目的地へと足を動かす。
どうか間に合ってくれ。
祈りに似た願いを込めて、欲にまみれた街をおれは駆け抜ける。
『GARDEN』の玄関にはもう警察の見張りがいなかった。おれは螺旋階段を走るそのままの勢いで駆け下りる。
音に気づかれるかもしれない。構わない。どうせ気づかれている。
似たもの同士のおれたちは、互いに相手が来ることがわかっている。
おれは階段の途中から飛び降りる。L字のコーナを曲がる。扉までのストレートな廊下を、埃とカビの臭いがする空気を切り裂き、全力で疾走る。
備えつけのライトは、相変わらず臨終間際の老人みたく明滅を繰り返している。
壁にぶちまけられた自己主張の数々は、飛び散った血と抗争の爪痕で見るも無残な姿になっていた。朽ちた地下のパラダイスは、誰にも気づかれずにひっそりと死んでいく。
廊下の奥に突き当たり、おれは扉に手をかける。
全部終わらせるんだ。今日、ここで。このくそったれた呪いの連鎖を。
おれの命に賭けてでも。
ノー・モア・ベット。
おれは扉を思い切り引いた。軋んだ音を立て、くそったれた楽園の入り口は開いた。
☠
中に足を踏み入れる。少しだけ照明がついていた。薄暗い中に怨念が人の形をして歩いているような錯覚を覚える。カビと生臭い鉄の臭いが鼻腔を突いた。
最初におれの眼が捉えたのは、血塗れで倒れている男の姿だった。
日比野――じゃなかった。顔と服に見覚えがある。『SPIKY』の幹部だった野郎だ。周囲を見渡す。他に2人、同じように倒れている奴らがいた。どれも『SPIKY』の幹部だった。
きっと黒ツナギの差金だろう。藤堂と日比野が会うと、『SPIKY』の幹部連中をけしかけたのだ。弄ばれた人間の残骸に黒ツナギの思念が透けて見えるようで、おれは舌打ちを漏らす。
日比野はどこだ。おれは注意深く周囲に眼を奔らせた。『SPIKY』の幹部連中の奥――コートの間近倒れている人影を見つけた。
「――日比野!」
おれは無意識に叫んでいた。
転がっている幹部連中を飛び越えて、一直線に日比野に駆け寄った。
「おい、日比野! しっかりし――」
日比野を抱き起こそうとして、その姿に思わず息を飲む。
血塗れの顔と泥まみれの身体――刻まれた藤堂の怒り。その中で際立って酷い有様だったのは、その手だった。
日比野の両手は、徹底的に破壊されていた。
指はありえない方向に折れ曲がり、あるいは潰れ、肉は裂けて所々から骨が飛び出ていた。
その凄惨さに、おれは思わず嗚咽に似た呻き声を漏らす。
あの芸術のようなシュートを放っていた手が。魔法のようなパスを生み出していた手が。おれをくそったれた場所から引き上げてくれた日比野の手が…!
今まで経験したことがないほどの絶望感と怒りがおれの中で湧き上がる。どうしておれはあの時、日比野を一人で帰してしまったのか。まだ危険だということはわかっていたはずだ。こうなる可能性は充分に考えられた。なのに…!
己の愚かさを呪うと同時に、藤堂の日比野への執着を甘く見ていたことを痛感する。執拗なまでの両手へ攻撃は、藤堂の怒りの深さを顕して余りある。
「日比野! おい、日比野! 大丈夫か!? 返事しやがれ!」
声を大にして叫んでも、日比野はまるで反応しなかった。背筋が凍る思いでおれは日比野の胸に耳をあてた。弱々しいが、確かに鼓動が聴こえた。
安堵と焦燥感が全身を駆け巡る。すぐに病院へ連れて行かなければ。このままじゃ確実に死んでしまう。おれは日比野の腕を自分の首に回し、抱き起こそうとした。
その時、背後から強烈なプレッシャーを感じ、全身が粟立った。鼻腔がガンジャの臭いを捉えた。背後で扉が軋む音に、おれは振り返った。
閉まった扉の前に、人影が塞ぐように立っていた。薄暗い照明の中で、ガンジャの穂先が炎を湛える。
「ようこそ、我が庭へ」
赤い光の向こう側で、藤堂は言った。
☠
「藤堂…!」
久しぶりにみる藤堂は別人のようだった。薄暗くてもわかるほど乱れた髪に痩けた頬、落ち窪み黒ずんだ眼窩――まるで重度のジャンキーのようだった。この数週間に渡る逃亡劇が色濃く刻まれた風貌は、藤堂から王の風格を奪っていた。
藤堂の顔に点在する痣や切れた唇に滲んだ血は、きっと日比野が抗った証だろう。日比野もただでやられるタマではない。プライドの爪痕はきっちり藤堂に刻まれている。
おれは振動を与えないように、ゆっくりと日比野を床に下ろした。
悪いな、ちょっとだけ待っててくれ――心の裡で日比野に語りかける。
つけなきゃならないケリ、つけてくるからよ。
日比野の様態は急を要する。が、どのみち藤堂を避けて日比野を連れ出すことは不可能だ。ここを出たければ、その主である蛇の王を退治しなくてはならない。
おれは立ち上がり、藤堂に向き直った。
「よう、久しぶりだな」おれは言った。「トチ狂ったんだって? 大将」
不思議だった。こうして対峙しても、藤堂に対して怒りの感情が湧いてこなかった。荒木さんをあんなメに遭わせた張本人のはずなのに。日比野の指を破壊した野郎なのに。さっきまで身体中に渦巻いていた怒りの感情より――どちらかというと哀しみに似た感情を覚える。
おれが辿るかもしれなかった道を辿ってしまった、おれと似た男に。
「よくオレがここにいるととわかったな」藤堂は言った「榊の差金か?」
おれはゆっくりと首を振った。
「…わかるさ。お前が考えていることなら、おれには」
だって、おれとお前は同じだから――続くその言葉は、飲み込んだ。
藤堂はおれの言葉を吹き消すように、ゆっくりとガンジャの煙を吐き出した。
「ここへ何をしにきた、蘇我?」
「お前を止めにだ、藤堂」
「オレを止める?」
藤堂は繰り返し、鼻で嗤った。
「少し会わない間に随分偉そうな口を利くようになったじゃないか。だが遅かったな。お前が助けたかった人間は、そこでゴミ屑同然に転がっている」
藤堂は日比野に向かって顎をしゃくった。
「まだ生きてる」
「虫の息だ。そのうち死ぬ」
「なんでとどめを刺さなかった?」
おれは訊いた。藤堂は舌打ちをした。
「今言った通りだ。その怪我だ。放っておけばそのうち死ぬ。わざわざ止めを刺すまでもない。痛みの中でゆっくりとオレに歯向かったことを後悔しながら死んでいけばいい。それに、よしんば助かったとしても、その手ではもはやそいつはプレイヤーとして死んだも同然だ」
「…やっぱり、そこに拘るんだな」
おれは独りごちるような呟きに、藤堂は眉根がぴくりと動いた。
「聴いたぜ、お前の過去の話」
おれは言った。意識してかしないでか、藤堂に変化はなかった。薄暗い照明のせいで表情もうまく見えない。ただ、銜えたガンジャの穂先だけが赤く明滅する。
「…足の疼きは止まったかよ、藤堂?」
おれは続けて言った。
その言葉は、どうやら蛇の逆鱗に触れたらしい。藤堂の双眸が剣呑な光を湛えておれを射抜いた。
「…くだらんおしゃべりはそれで終わりか?」
藤堂は口に銜えたガンジャを吐き捨て、言った。
その言葉をきっかけに、藤堂のプレッシャーが一気に増した。肌が切り裂かれるように空気が鋭さを増す。蛇の牙のような指から、盛大に骨の音を鳴らす。
おれも拳を握り、構える。
「覚えているか、藤堂…お前がおれをスカウトした日のこと」
お前の居場所をオレが与えてやる。だからオレと一緒に来い――脳裏に甦るあの日の光景。その言葉に誑かされ、あの日おれは大切なものを悪魔に売り渡した。
だから――これはそれを取り戻す戦いでもある。
「あの日お前に売ったおれの魂、熨斗つけて返してもらうぜ」
Are You Ready?
おれは気合の雄叫びをあげ、地面を蹴り、一気に距離を詰める。最初からフルスロットルだ。あとのことなど考えない。今、この瞬間にすべてを賭ける。
突進するおれに向かって藤堂の右ストレートが放たれる。素早くダッキングで躱す。鉛の塊が通り過ぎたような風圧がこめかみを掠めていく。驚愕に瞠られた藤堂の眼とおれの眼が絡みあう。
全力で握り締めた右拳を、下から思い切り振り抜いた。
おれの渾身の右アッパーが藤堂の顎を撃ち抜く。
全ての因縁にケリをつける戦いの最終ゴングが、今鳴らされた。
☠
右フックが空を切る。首を捕まれた瞬間、藤堂の膝が鋭くおれの鳩尾を抉る。激痛に息が止まる。肺が押し潰される。
顔が上がったところに鋭くフックを左右から打ち込まれる。最後に回し蹴りを側頭部に打ち込まれた。
見事過ぎるコンビネーション。一瞬意識が飛ぶ。コンクリートに叩きつけられる。胃液を吐き出し、激痛に腹を抱えて呻く。
「最初の威勢はどうした、蘇我? オレを止めるんじゃなかったのか?」
藤堂は言った。
渾身のアッパーが入って勢いに乗れたが、時間が経つに連れ徐々におれと藤堂の地力の差が出始めていた。
わかってはいたが、やはり藤堂は強い。一筋縄ではいく相手ではない。
だが――。
「この程度の力量でオレに挑んでくるとはな。日比野ごときに惑わされて、己を見誤った罪は重いぞ、蘇我」
起き上がりざまに追撃の右フックが飛んでくる。頬の肉を押し潰される。視界が揺れる。おれは再びコンクリートを転げる。
藤堂がにじり寄ってくる。おれは口内に溜まった血を吐き捨て、声を出して嗤った。
「…何が可笑しい?」
苛立ちを声にまぶし、藤堂は言った。
「……別に。ただ、口を開けば日比野日比野って、まだ随分とご熱心だと思ってな」
おれの言葉に、藤堂が足を止める。
「日比野を潰してもまだ足が疼くか、藤堂? そりゃそうだよな。足が疼く原因は別に日比野じゃねえ。もっと他にある。お前だってそれがわかっているんだろ?」
藤堂が踏み込んだ。一気に距離が詰まった。爆発的な脚力――本当にアキレス腱を切ったことのある人間の動きか、くそったれ。
藤堂のアッパーが膝立ち状態のおれの顎をかちあげる。脳が揺れる。意識が一瞬途切れる。藤堂の右ストレートがおれの左頬を打ち抜く。歯が折れる感触があった。おれは再び地面を転がった。
「べらべらと五月蝿い野郎だ…!」
藤堂は吐き捨てた。
おれはなおも嗤いながら、床に手をつき、身体を持ち上げる。藤堂が信じられないものを見るような眼でおれを見る。そんな顔をした藤堂をみるのは、長い付き合いで初めてだ。
「……図星だからって、そうムキになるなよ」
おれが立ち上がるのと同時に、藤堂が獣のような咆哮をあげながら右ストレートを放つ。
やっぱりだ。殴られながらも確信する。
藤堂の拳にあの時味わった破壊力がない。いつもの藤堂ならば、最初の一撃で確実に終わっていただろう。長い逃亡生活と日比野が与えたダメージが、藤堂から圧倒的だった力を奪い取っていた。それでも百戦錬磨な分おれより強さは上――だが、絶望的にどうにもならないレベルじゃない。
壊れたビデオのように、同じシーンのリプレイが続く。殴られ、転げ、しかしゾンビの如く立ち上がり、嗤いを漏らす。
そんなおれを、藤堂は喰い縛った歯を剥き出しにして睨んでいた。
「オラどうした藤堂…! こんな日和った拳じゃ誰も殺せねえぞ…!!」
鼻血を流しながら偉そうに言う科白ではない。が、おれは挑発を込めて盛大に叫んだ。
藤堂の怒りのパロメーターが振りきれるのが手に取るようにわかった。藤堂はその拳ひとつでのし上がった男だ。自分の強さには絶対の自信とプライドがある。
しかし今、自分の飼い犬だった人間一匹、黙らすことができない。立ち上がるおれの存在は、藤堂にとって侮辱以外の何物でもない。
おれは喉に流れ込んでくる血を吐き捨て、続けた。
「それとも手加減でもしてくれてるのか? そういやお前いつも言ってたな。おれがお前になれるとかよ。おれがいなくなれば、お前はひとりぼっちになっちまうもんな。それが恐いのか? 自分からこんな穴グラに引き篭もったくせに、お前は一人ぼっちじゃいられないのか?」
減らず口――おれの十八番。藤堂の逆鱗に触れるなんて、似たもの同士のおれには朝飯前だ。藤堂の額に浮かんだ青筋の動きが活発化した。血管がうねる様はまさに怒り狂う蛇そのものだった。
「違うっていうんなら、もっと気合入れて打ってこいよ藤堂!!」
「そんなに死にたいのなら望み通り殺してやるぞ、蘇我ァアッ!」
般若の形相の藤堂は拳を固め、おれに向かって走り出した。
服の上からでもわかるほど隆起した後背筋を発射台にして、ストレートを放とうと踏み込んだまさにその時――藤堂の体勢が、膝が抜けたように僅かに崩れた。
踏み込んだ左足――全体重を乗せた強い踏み込みに耐え切れなかった。
藤堂は咆哮を上げながら、崩れた体制のまま強引に拳を放とうとした。その隙を逃さず、おれは藤堂の右脇腹に全力で拳を叩きつけた。藤堂の身体が一瞬宙に浮く。
骨が折れる覚悟で拳を握りこんだ。普通なら激痛にのた打ち回るはずだ。しかし藤堂はその胆力で無理矢理痛みを押さえつけ、すぐさま反撃に転じてきた。
怒りで大振りになったストレートがおれの顔面めがけて放たれる。
ここだ! おれは藤堂の拳に自ら踏み込んだ。
初撃の時もそうだった。藤堂は頭に血が上ると、僅かだがパンチを打つ際身体を開くクセがある。伊達に殴られ続けたわけじゃない。勝負中の分析はお手のものだ。1ON1でも散々してきた。バスケで培われた能力は、喧嘩にも充分役に立つ。
伸びきる前の藤堂の拳に、ヘディングの要領で額を合わせた。鈍い音がホールと脳髄に響き渡る。おれの頭と藤堂の右拳が同時に後ろへ弾ける。
鉄球とぶつかったような衝撃にブラックアウトしそうになった。歯を喰い縛り、飛んで行きそうな意識の尻尾に噛みつく。
先に体制を立て直したのはおれだった。藤堂は歯を喰い縛り、右手首をおさえていた。骨の中で一番硬いと言われている額と全力でぶつかったのだ。藤堂の拳の骨がイカれててもおかしくない。
千載一遇のチャンス。おれは藤堂の顎に右フックを叩き込んだ。充分な手応えがあった。血飛沫とともに藤堂がたたらを踏み、よろけた。
畳み掛けろ! 脳が発狂寸前のような大声で身体に命令する。
おれは残りの力を振り絞り、全力でラッシュを仕掛ける。殴る、殴る、殴る――息が続く限りひたすら拳を繰り出し、亀のように丸まって防御に徹する藤堂に打ち込み続けた。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。爆発的に身体に乳酸が全身に貯まる。それでも拳を出し続ける。
鳩尾に入った拳の衝撃に、藤堂のガードが下がった。おれはショートアッパーで藤堂の顎をかち上げ、そのまま思い切り身体を廻した。
「これで終わりだ!」
遠心力をたっぷり乗せた全身全霊のソバットが藤堂の顔にクリーンヒットした。
藤堂は血反吐をまき散らしながら吹っ飛び、床を転がった。
おれは膝に手をつき、なんとか自分の身体を支えた。気を抜けばその場に倒れ込みそうだった。体力の消耗が激しい。立っているのがやっとだ。足が震える。過呼吸のようにうまく息が吸えない。かといって鼻血を拭うことすら億劫だ。身体は痛みと疲労でボロボロだった。
しかし手応えは充分あった。もうこれで――顔をあげて見た光景に、思わず呪詛が零れる。
「………マジかよ」
藤堂が立ち上がろうとしていた。口と鼻から血を垂らし、おれと同じく肩で激しく息をし、膝は生まれたての子鹿のように抜けそうになっている。そんな状態でありながら、だが藤堂は立ちあがろうとしていた。
なんて野郎だ。改めて自分が対峙している男の化け物じみた強さに畏怖を覚える。普通のヤツなら間違いなく病院直行コースのはずだ。
アンダーグラウンドの王――そのプライドが倒れることを赦さない。
拳を握ろうとした。指が震えているのに気づいた。疲労はピークだった。うまく握れない拳に、小刻みに痙攣する腕と足。おれも限界ギリギリだ。それでもやるしかない。くそったれ。
味噌っかすの力を集めて、おれはもう一度構えた。
しかし藤堂は立ち上がったまま、攻め込んでこなかった。左手でこめかみを押さえ、獣じみた凄まじい形相で折れそうなほど歯を喰い縛っている。
違和感を覚えた。藤堂の眼はおれに眼を向けているが、おれを見ていない そんな違和感。
突然藤堂が虚空に向かって「やかましい!」と叫んだ。頭を振り、苦しむように悶える。
突然の狂態――何が起こっている?
その疑問は、天啓とも言える直感で答えに思い至る。
声が聴こえるそうだよ――黒ツナギはそう言った。
おそらく藤堂は今、朦朧とした意識の中で聴こえるはずのない声を聴いている。藤堂ではない藤堂の――あるいは胸に巣食った蛇の声に苛まれている。
藤堂同士の主導権の握り合いが、今まさに眼の前で行われているのだ。
不意に、縺れた足取りで藤堂は倒れている『SPIKY』の一人に近寄った。男の手から何かを奪い取った。
漆黒の空間に鈍く煌めく何か――おれに向き直った藤堂の手には、ナイフが握られていた。
おれは舌打ちをした。鬼に金棒――藤堂にナイフ。最悪の組み合わせだ。
刃物はどこを刺されても致命傷になり得る。身体もろくに動かせないこの状況下において、一番危険な武器が藤堂の手にあった。
くそったれ、どうやって距離を詰める? おれが思考を巡らせたその瞬間、藤堂はナイフを逆手に持ちかえ、雄叫びとともに自分の胸と鎖骨の間――蛇のタトゥー部分にナイフを突き立てた。
飛び散る血――眼の前の常軌を逸した光景に、おれは絶句した。
藤堂は自分の胸元に刺したナイフを今度は真横に引き、蛇の刻印が刻まれた皮膚を切り裂いた。
だらりと垂れ下がった手の中の刃を滑って、血がリズミカルにコンクリートを跳ねる。滴る血の音が、蛇の断末魔の呪詛に聴こえた。
藤堂は激しく息を切らしながら、まだ独りごちていた。バッド・トリップはいまだ継続中だ。顔を覆った手の隙間から覗く狂った瞳が、何かを捜して『GARDEN』を彷徨う。
呪詛を吐き出しながら動いていた藤堂の眼が、ある点で止まった。
その視線の先――日比野がいた。
「…お前かァアアアアあッ!!」
藤堂は狂ったように叫び声を上げた。
マズい!!
おれが瞬間的に思ったのと同時に、藤堂が日比野に向かって走り出す。
「やめろ藤堂!」
数瞬遅れておれも走った。膝が笑う。足が縺れて転けそうになる。息が上手く吸えない。殴られた箇所が今すぐ止まれと喚き叫ぶ。肋が軋む。走っても走っても前に進んでる感覚がない。
それでも――走る。
動けおれの脚! 己の脚を叱咤する。このくらいの限界は経験してきた。限界を超える練習だって散々してきた。そうだろ? 今走らなきゃ、死ぬまで後悔するぞ!
藤堂が日比野に迫る。おれは限界を超えて加速する。藤堂がナイフを構える。そのすべてがスローモーションに見える。
もうこれ以上、日比野を傷つけさせるな!
もうこれ以上――おれに誰も傷つけさせるな!!
おれは咄嗟に右手を伸ばした。
どん、という衝撃と同時に、灼熱の塊が捻り込まれていく。
突き出されたナイフはおれの掌を貫き、日比野の顔の直前で止まっていた。
世界がそのスピードを取り戻す。同時に掌から炎が全身を駆け巡るような感覚がおれを襲った。無意識におれは我慢できずに呻き声をあげた。実際は悲鳴を上げていたかもしれない。
「そこをどけ!」
藤堂が獣の咆哮のような声で叫ぶ。貫いた状態のナイフを廻す。ナイフは回転しながら貫いた周囲の肉を刳っていく。ぶちぶちと何かが切れる感触が掌から伝わってくる。
おれは絶叫した。この世のものとは思えない痛みに失禁しそうだった。
「邪魔をするな! こいつを殺して、オレは自由になる!」
藤堂は叫んだ。完全に錯乱している。藤堂にとって胸に巣食った蛇は日比野であり、日比野は蛇そのものと化していた。
「こ…のダァホが…!」
おれは刺された右手で、そのまま藤堂の左手を握り締めた。失神しそうな激痛が掌から脳にダイレクトに奔る。
おれの狙いに気づき、藤堂がナイフごと手を引き抜こうとした。
逃すか! おれは指に力を込めた。犬の牙よろしく喰らいついた指に、藤堂の顔が歪んだ。
まだ指は動く。最後だ、気張れよ右手!
「離せェッ!」
藤堂は両手で握っていたナイフの柄から右手を強引に引き抜き、遮二無二おれを殴る。微動だにしないおれの指に更に苛立ちを募らせ、発狂したように殴り続ける。
しかしおれは絶対に離さない。知ってるか藤堂? 野良犬は一度噛みついた餌は死んでも離さないんだぜ。
業を煮やした藤堂は、拳をハンマーのように頭や肩に叩き落とし始めた。何度も何度も何度も――おれは降り注ぐ拳の雨に耐える。
単調になった攻撃の隙を突き、拳が叩き落とされたその瞬間を狙って藤堂の右手首を左手で掴んだ。
「…やっと……捕まえたぜ、藤堂…!」
狂気に滲む藤堂の双眸を見据えて、おれは言った。
「貴様…!」
両手の指の力を最大出力にして、掴んだ箇所を握り締めた。藤堂の右手首の骨とナイフを持つ左拳から骨が激しく軋む音がした。前に言った通り、おれの握力は鼻歌混じりにりんごを握り潰せるぐらい、ある。
骨が折れる寸前の痛みに耐えかね、藤堂はナイフから手を離して身体を仰け反らした。
今だ!
おれは掴んだ手首と拳を強引に自分へと引き寄せ、同時に大きく身体を反らす。
「藤堂ォオオっ!!」
「蘇我ァアアアアアア!!」
絶叫が交差する。おれは反動をつけた渾身のヘッドバッドを藤堂の額に叩きつけた。
『GARDEN』中に鈍い音が響いた。
藤堂の額が割れ、鮮血が迸った。
藤堂の身体から一気に力が抜けた。白目を剥き、糸が切れた人形のように倒れていく。
おれは咄嗟に藤堂に左手を伸ばした。
藤堂は強さの象徴だった。藤堂は反骨の象徴だった。アンダーグラウンドの誇り高き王だった。このくそったれた世界でアウトローたちの おれの憧れの存在だった。誰にも何にも屈しない無敵の存在。それがコブラ。それが藤堂だった。
だから――こんなところで倒れてんじゃねえよ!
伸した手――指先が藤堂に触れる。だが、握った掌が掴んだのは虚空だった。
おれの手を擦り抜けるように、藤堂は崩れ落ちた。
くそったれ…!
おれは手を握り締めたまま、現実から逸らすように眼を瞑って吐き捨てる。
後方で扉が派手な音を立てて開いた。振り返った。五代がホールに駆け込んできたところだった。
「大丈夫か、蘇我!」
五代はおれももとへ駆け寄ろうとしたが、しかし眼前に広がる凄惨な光景を認識して茫然と立ち竦んでいた。
「……終わった…」
そんな五代に、おれは力なく言った。
「全部終わったよ、五代……」
おれは顔を上げた。相変わらず息詰まるほど低い天井が、そこにあった。
目的は果たせた。藤堂を止めることができた。日比野も生きている。因縁にケリをつけることもできた――はずだ。
なのに、この手の中にあるのは虚しさだけだった。
右手を貫いたままのナイフから滴る血は、涙のように流れ落ちていく。
「……くそったれ」
勝利の余韻も達成感もなく、くそったれた勝負は終わりを迎えた。
☠
「これで少しはマシだろう」
五代は言った。ツナギの下に着ていたTシャツを破って作った簡易の包帯で、五代は器用におれの手を包んでいた。
「…器用なもんだな」
おれは感心して言った。さすがにナイフを抜く時は悶絶ものだったが、処置するその手際はやけによかった。
「…昔よく藤堂さんの手当をしてたからな…。でも、とりあえずの応急処置でしかない。早く傷口を処置しないと感染の危険があるから、日比野と一緒に一刻も早く病院へ行け」
五代は日比野に眼を向けた。日比野の両手も簡易包帯で応急処置が施されていた。
「…結局……間に合わなかった…な」
後悔に塗れた顔と声で、五代は言った。
「…いいや」問いかけるような眼の五代に、おれは続けた。「……間に合ったさ。日比野は生きてる。…それで充分だ」
「……そうだな…」
五代は言葉を噛みしめるように、何度も小刻みに頷いた。
「……蘇我」
「あん?」
「……色々と……すまなかった。……ありがとう」
そう言って五代は頭を下げた。
「…何だよ急に……気持ち悪いな」
「……結局…お前一人に全部任すことになっちまって……お前の右手…も…」
五代はおれの右手に眼を落とし、悲痛な表情をした。
「ああ…別にお前のせいじゃねえよ。気にすんな。それに…」
おれは右手を持ち上げた。掌を貫かれた痛みのせいか、指に感覚がなかった。
「……ちょうどいい罰だ」
「でも――」
「しつけえな」
なおも何か何か言い募ろうとする五代の言葉を打ち消すように、語気を強めて遮る。
「それに、別におれひとりの力じゃねえよ……」
藤堂が万全の状態だったら、間違いなく返り討ちにされていただろう。おれが藤堂を止められたのも、日比野が藤堂にダメージを与えておいてくれたおかげだ。
あと――。
「どうした?」
急に黙りこんだおれに、五代は言った。
「……いいや。……なんでもねえ…」
おれはゆっくりと首を振り、藤堂に眼を向けた。
藤堂が右ストレートを打とうとして、身体がズレたあの時。
藤堂が踏み込んだのは――左足だった。過去に刻まれた呪いが、文字通り藤堂の足を引っ張った。
藤堂。お前は今でも、過去の呪縛に囚われ続けているんだな。
おれの視線を追って、五代も藤堂に眼を向けた。倒れたままのその姿を見ている五代の眉間には、辛さに耐えるように皺が寄せられていた。止めたい気持ちは本心だっただろうが、同時に自分が憧れたヒーローのあんな姿は見たくもなかっただろう。
「…なんで警察に捕まる危険を犯してまで、藤堂さんは『GARDEN』に戻ってきたのかな…」
五代は独りごちるように呟いた。
「…さあな」
おれも独り言のように呟いた。
本当のことは誰にもわからない。ただ、もしかしたら――おれは思う。
『GARDEN』は、藤堂なりの墓標だったのかもしれない。
藤堂の向こうに見える寂れたゴールボードを眺めながら、そんなことを思った。
「…まあ何にせよ、これであの時の借りは返したぜ」
おれは言った。五代は驚いた顔でおれを見返した。
「何だよその面は?」
「いや…別に…」
そう言って、五代は少し笑った。
「…と。あんまノンビリしている場合じゃねえな。こいつを病院に連れて行かないと…」
立ち上がうとして、身体がふらついた。さすがに少し休んだくらいじゃ、藤堂から受けたダメージは回復しない。
「大丈夫か」
五代が差し伸べた手を、おれは軽く払いのけた。
「…違うだろ」
「……え?」
困惑している五代に、おれは藤堂に向かって顎をしゃくった。
「お前には他にすることがあるんだろ? おれのことを気にしている暇があったら、とっととお前のやるべきことをやれよ」
「…蘇我」
「…あとは任せたぜ。今度こそ、ちゃんと届けろよ」
五代は力強く頷いた。その眼にもう、迷いはなかった。
おれは五代に手伝ってもらい、日比野を背負った。右手側は指がうまく動かないので、前腕部分で支えるようにした。
だらりと垂れ下がった日比野の腕が、力なく揺れる。もう何度目か、五代は後悔を噛み潰し、その苦味に顔を歪める。
「大丈夫だ」
おれは背中の日比野に眼を向けて言った。
「殺したって死ぬタマじゃねえよ、こいつは」
おれの言葉ごときで苦味が薄れるわけがない。だけど、五代一人が味わう必要もない。
「……日比野を頼んだぞ」
五代は言った。おれは五代の肩を軽く叩き、出口に向かった。
『GARDEN』の扉が閉まる直前、おれは振り返り、最後にもう一度だけ藤堂を見た。
羨望、憎悪、そして憧憬――様々な感情が入り混じり、おれの胸を僅かに焦がす。
おれの大切なものを奪った男。おれに居場所を与えてくれた男。おれと似た人生を歩んだ男。
お前といた時間は、悪くなかったぜ。
――じゃあな、藤堂。
おれはもう一人のおれに別れを告げた。
☠
地上に出た。夜が薄っすらと明け始めていた。無駄に高いビルの隙間を抜うように朝日が零れていた。おれは眩しさに思わず顔を顰めた。
大通りに向かって歩く。一歩歩くたび、思い出したように身体中のあちこちに激痛が奔る。血も流し過ぎた。気を引き締めていないと、今にも意識が飛びそうだった。
「…終わったぜ、日比野」背中の日比野に向かって声をかける。「……全部終わった」
日比野は反応しない。静かに眠っている。それでもおれは日比野に語りかける。
「なあ、おれは……おれたちは…何してたんだろうな……何がしたかったんだろうな…こんなボロボロになって、大事なものを……傷つけてまでよ」
一瞬視界がブラックアウトする。思わずたたらを踏む。背中の日比野を落としそうになった。
気を抜くな。自分に活を入れ、持ち上げ直し、また歩き出す。
「…なあ日比野」
身体はふらふら。意識はギリギリ それでもおれは言葉を紡いだ。
「……ほら、見ろよ…明るいぜ。…光だ」
おれは朝日に眼をやった。その光は眼が痛むほど眩しかった。
「悪くねえな。欲しかったんだ…これが。ずっと欲しかった。なあ、今からでも遅くねえかな。まだ掴めるかな。おれは自由になれるかな」
光に向かって、血に染まった右手を伸ばした。
今なら、この光さえ掴める気がした。
その時、視界が揺れた。何かがおれにぶつかった。体力の限界が来ていたおれは、いとも簡単にアスファルトを転げる。日比野も地面に投げ出されてしまった。
くそったれ。おれは急いで日比野に向かおうとした。
しかし力がうまく入らない。立ち上がろうとして、何かぬるっとした感触に足が滑った。
腹に熱を感じた。どこかで感じた熱さだった。その熱が発生している脇腹に手をやった。
生温い液体に濡れた感触があった。触れた箇所に眼をやった。
ナイフが刺さっていた。触った手には赤黒い血がべっとりとついていた。
認識した途端、急激に脇腹に激痛と燃えるような感覚が奔った。下半身から力が抜けていく。おれは地面に仰向けに倒れ、呻いた。
「見つけたぜぇ、蘇我ァ…!」
朝日を背に立ち上はだかる男が叫んだ。廣瀬だった。藤堂に返り討ちに遭い、再び殺されかけた男が怨嗟の炎をまとって再び現れた。異常なまでの復讐心と執着が、ズタボロの廣瀬を突き動かしていた。
「ひろ…せ…!」
声を出した瞬間、また激痛が襲った。呻いた。咳き込んだ。絶え間なく激痛が脇腹で暴れまわる。
「殺してやる! お前も! 藤堂も! どいつもこいつも皆殺しにしてやるァアア!!」
逃げろ 頭が割れんばかりに、脳から最大レベルの緊急避難警報が発せられる。しかしそれに反して、おれの身体は動いてくれなかった。刺された脇腹から血がどんどん流れ出ていく。それはまさに命が流れていく感覚だった。
もう声すらも出ない。視界が霞んでいく。四肢から力がどんどん抜けていく。言いようのない寒気がおれを襲う。
廣瀬がナイフを持って迫ってくる。死が一歩一歩おれに近づいてくる。廣瀬が何かを叫んでいた。最早それすら聞き取れなかった。
ちくしょう。おれはここで死ぬのか。ようやく穴から抜けだそうとしたのに。ようやくやらなくちゃいけないことがわかったのに。ようやく――…。
金切り声を上げながら廣瀬がナイフを振り上げた。
その手首に影が絡まった。廣瀬の顔が驚愕に歪んだ。次の瞬間、廣瀬の身体が宙を舞った。影が首投げの要領で廣瀬を巻き込み、投げ飛ばした。廣瀬は背中から地面に強烈に叩きつけられた。間髪置かずに、廣瀬の顔面に鉄槌の如く足が振り下ろされた。アスファルトに骨がぶつかる鈍い音と、肉が潰れる音が同時に響く。
影がゆっくり足を引き抜く。廣瀬の顔は中央から陥没したように潰れていた。折れた歯の隙間からひゅうひゅうと音が漏れていた。
影はおれの傍にしゃがみこんだ。
「意識はあるか?」
影――藤堂は言った。
「と…ど…」
おれは声を発しようとした。が、やはり無理だった。口を動かすことさえ億劫だった。
「喋るな。傷に障る」
藤堂はおれの脇腹を一瞥し、言った。
「蘇我、大丈夫か!!」
五代の叫び声が耳元でした。うるせえよ、五代――おれの意志に僅かだが指が反応した。五代は安心したように息を吐いた。
「抜かないほうがいいでしょう。おそらく出血が酷くなる」
五代は言った。藤堂は頷いた。
「…というわけだ蘇我。痛いだろうが、死にたくなければもう暫く我慢しろ」
断続的に続く寒気に耐えながら、おれは辛うじて頷いた。
「救急車を呼んできます」
五代はそう言い、立ち上がった。
意識の有無を確かめるように、藤堂がおれの顔を覗き込む。ぼやけた視界に藤堂の顔が映る。
なんだよ、お前――おれは心の裡で呟く。
まるで憑き物が落ちたような顔しやがって。
「……どうした、五代」
立ち止まったまま動かない五代に、藤堂は言った。五代の視線の先――藤堂はそれを見て、軽く鼻から息を吐いた。
黒ツナギがバイクに寄りかかり、こちらを見ていた。
「榊か…」
特に驚いた様子もなく、藤堂は言った。
「やあ、藤堂。久し振りだね」
「性懲りもなく……! 何をしに来た、榊!」
敵意むき出しで叫ぶ五代を、藤堂が手で制した。
「まだオレに何か用があるのか?」
「いやなに…あんたに最後のお別れを言いにね、藤堂」
予想外の言葉に五代は眼を丸くし、注意を促すように藤堂に視線を送った。気づいているのかいないのか、藤堂は黒ツナギを見据えたままだった。
「あんたといたこの数年は楽しかったよ」
黒ツナギは思い出を反芻するように、眼を瞑ってそう言った。
「とても刺激的な毎日だった。夢の中のように楽しかったよ。だからもっとあんたと遊んでいたかった。だけど、今のあんたじゃオレはもう楽しめそうもない」
「そうか」
どことなく寂しさを感じさせる声で、藤堂は言った。おれがそう感じたのは、きっと意識が朦朧としているせいだ。
「…今度は何をする気だ?」
藤堂は訊いた。黒ツナギは軽く嗤った。
「さあねえ、まだ何にも考えていないや。次は何をしようかなあ…。でもまあ、ちょっと派手に遊び過ぎたしね。まずは一度リセットするよ」
「…どういう…意味だ……?」
五代が困惑気味に呟いた。黒ツナギは五代に肩を竦めてみせた。
「ねえ藤堂。もしどこかでもう一度会う時があったら――…その時はまた、オレと遊んでくれるかい?」
黒ツナギは言った。絡んだ視線を受け流すように、藤堂はふっと息を抜くように嗤った。黒ツナギも同じように嗤った。
その時、朝の静寂を切り裂く甲高い音が轟いた。
近づいて来る甲高い音――パトカーのサイレン。
黒ツナギ音のする方に顔を向けて「いいタイミングだね」と言った。
「お前が呼んだのか?」
五代が言った。
「幕引きは主催者の最後の責任だよ、五代」
黒ツナギは言った。
「…最後まで喰えん奴だな、お前は」
藤堂は言った。
「餞の褒め言葉として受け取っておくよ」
黒ツナギはバイクに跨り、一度勢い良くエンジンを吹かした。
「蘇我!」
バイクの排気音に負けじと、黒ツナギが叫んだ。
「あんたは本当に面白い男だったよ! オレの予想の斜め上を行く存在だった! 最後は想像していたのと少し違う結末になったけど、結構楽しかったよ! またどこかで会おうね!」
二度とお断りだこのクソ野郎が――思いを視線に込めて黒ツナギを睨みつけた。黒ツナギは満足そうに嗤った。
「じゃあね。…バイバイ、藤堂」
その言葉を最後に、黒ツナギは爆音を響かせながら猛スピードで去っていった。
黒ツナギのバイクと入れ替わるように、サイレンの音がどんどん大きくる。音から察するに、もうそこまで来ている。
「…藤堂さん」
五代の呼びかけには答えず、藤堂はその眼に刻みつけるように空を見上げたまま、動く気配はなかった。
「……煙草をくれ、五代」
藤堂は静かな口調で五代に言った。
その声ですべてを察したのだろう。五代はショックを受けたように顔を引き攣らせたが、何も言わず、俯いたまま藤堂に煙草とライターを差し出した。
藤堂が煙草を受け取り、火をつけた時――数台のパトカーが派手なスキッド音を立てておれたちの前に急停止した。
ドアを勢い良く開け、山添が真っ先に降りてきた。
「会いたかったぜえ…! お前が藤堂だな」
獲物を見つけたハイエナのように、下卑た嗤いを顔に貼りつけて山添は言った。
他のパトカーからも、スーツに収まりきらない屈強な肉体をした刑事どもが次々と降りてきた。装備した警官どもが、瞬時に扇状におれたちを取り囲み、逃げ道を塞ぐ。
「匿名のタレコミがあって来てみりゃ…まさか本当にここに戻ってきているなんてな。俺たちも舐められたもんだぜ…。だが、散々逃げまわってくれたが、ついに年貢の納め時だな? え、おい?」
山添は粘着質な声を擦りつけるように言った。藤堂は無視するように、わざとゆっくりと煙草を吸い込み、煙を吐いた。
そんな藤堂の態度に、山添は不満そうに舌打ちをした。藤堂の震え上がる姿を見たかったのだろうが、思惑が外れて腹を立てている。どこまでも性根の腐った野郎だ。
山添は唾を吐き捨てながら、横柄な態度で脇にいた警官に向かって寄越せとジェスチャーをした。
差し出された紙を引っ手繰り、高々と掲げながら、山添はスピーカーを口に当てた。
「傷害罪、賭博罪、麻薬及び向精神薬取締法違反…おっと、よく見りゃそこにナイフもあるな。銃刀法違反に殺人未遂も追加だ」
おれの脇腹に刺さったナイフを顎でしゃくりながら、山添は嬉々とした声を出す。
「他にもまだまだ罪状があるぜ。ありすぎて読み上げるのもめんどくせえ…! つまるところ、てめえは終わりだこのクソガキが!」
山添の大声に、スピーカーがハウリングを起こした。耳障りなノイズの余韻を残し、山添は乱暴にスピーカーを投げ捨てた。
違う――おれは形にならない声で叫ぶ。
ナイフはそこで寝っ転がっている廣瀬のものだ。おれを刺したのも廣瀬だ。藤堂は関係ない!
だが、そんなことこそ山添には関係ない。この場の混沌とした状況を利用して、藤堂に罪を全て擦りつける腹積もりなのだ。危険人物を確保するために、やむを得ず暴力を行使した――そんな理由がつけられるのであれば、誰がやったかなど些細なことでしかない。
逃げろ藤堂。逃げてくれ――おれは必死の思いで藤堂に顔を向けた。逃げ場所なんてない。わかってる。それでも逃げて欲しかった。あんな糞野郎に捕まってほしくなかった。
「動くな、蘇我」
藤堂は視線を前へ据え置いたまま、足下のおれに言った。
「死にたくなければ、じっとしていろ。何があっても…な」
まるで達観したような口調だった。藤堂が顔だけで振り返り、おれを見た。静かな眼だった。そんな眼をした藤堂を今まで見たことがなかった。まるでこれから起こるすべてを受け入れることを望んでいる――そんな眼だった。
この馬鹿野郎が!
「確保オ!!」
おれの心の叫びと山添の怒号が交差する。
山添の号令で周りを取り囲んでいた刑事と警官が一斉に藤堂を取り押さえにかかった。
藤堂は抵抗しなかった。警棒で殴られ、腕を背中で捻りあげられ、無遠慮にアスファルトへと組み伏せられても一切抵抗しなかった。
やめろ!――声にならない声。おれは叫ぶ。
汚え手でそいつに触るんじゃねえ! そいつはおれなんだ。違う道を選んだもう一人のおれなんだよ! そいつに触っていいのはおれだけだ! そいつを傷つけていいのはおれだけだ!
てめえらの勝手な価値観でそいつを裁くんじゃねえ!!
おれの形なき咆哮は血溜まりとアスファルトに吸い込まれ、あっけなく消える。
視界が急速に黒く染まってゆく。急激に意識が遠のいてゆく。ぼやけた世界で、藤堂がアスファルトに頭を押しつけられているのを捉えた。
藤堂…!
おれは最後の力を振り絞って穴の空いた右手を伸ばした。組み伏せられた藤堂の眼が、ゆっくりとおれに向けられる。
これでいい――その眼はそう言っていた。
ふざけろよ…!
おれがおれの眼の前で蹂躙されている。この世界に殺されようとしている。そんなことを赦してたまるか。助けるんだ。奴らの手からおれを取り戻すんだ――得も言われもない焦燥感だけが、死に体のおれを突き動かす。
おれは必死に手を伸ばす。どんなに藻掻こうが足掻こうが、おれの手は届かない。そこにいるのに。手を伸ばせば届く距離にいるのに。
なんでおれの手は何も掴めないんだ、くそったれ!!
もう輪郭だけしかわからないぼやけた世界の中――なぜか藤堂が小さく笑っていたように見えた。
押さえつけられた藤堂の手に、山添が手錠をかける。金属の擦り合う音は、まるであの時あの世界で聴いた銃弾を装填する音のようだった。
その人だかりのすぐ横で、あいつが高嗤いしている姿が見える。
やめろ!――おれは絶望の悲鳴をあげる。伸ばしたおれの手は、何にも届かない。
視界が狭まっていく。もう何も見えない。
眼の前を黒く塗り潰していく影は、まごうことなく絶望そのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます