第3話 第3Q:Crime & Punishment

 愚かな獣は地に伏せる。己の罪深さに怯えて。

 

 愚かな獣は視界を隠す。雨粒と同じくらいの己の罪の数に畏れて。

 

 愚かな獣は嘆く。そんなつもりはなかった、と。己の罪深さに耐え切れずに。

 

 濡れそぼった身体が震える。寒さか。あるいは別の何かか。

 

 愚かな獣は知っている。それは己の罪に対する恐怖なのだと。

 

 神とやらがこの腐った世界に吐き捨てた唾は、銃弾となって地上にのさばる愚かな獣たちを撃ち抜く。

 

 愚かな獣は空を見上げ、願う。叶うはずのない願いを祈る。


 雨――どうかおれを赦してくれ。

 雨――どうかおれの罪全て洗い流してくれ。 

 雨――どうかおれをこの世から隠してくれ。

 

 くそったれなおれの存在を掻き消すほどに、もっと強く。強く。

 


 雨よ、降れ。


  






                   1



 『SPIKY』による『蛇狩』襲撃事件のあと、おれは怪我のダメージとそれによる高熱で寝込んでいた。

 泥水に沈んでいくような、それでいて火炙りにされているような感覚。酷い発熱でうなされる毎日。

 そこでおれは夢を見た。真っ黒い夢。そしてその世界の住人である黒い影たち。

 影たちは手に持った鉄パイプでおれに襲いかかる。おれの右手や足を執拗に狙ってくる。おれの全てを奪いにくる。夢でありながら現実――これはおれの過去の出来事だ。

 おれは無我夢中で影達を殴る。影を殴っているのに、何も手応えがないのに、おれの拳は血で赤く染まっていく。殴られた影は霧散し、また別の場所で影を形作る。その繰り返し。おれは遮二無二影を殴り続ける。

 お前のせいだ――ひとつの影が声を発した。あるはずのない口から、仄暗い穴の底から響くような声が聞こえてくる。

 お前のせいですべてが台無しになった――また別の影が声を発した。

 おれたちが3年間積み上げてきたものを、お前が滅茶苦茶にした――周りの影が声を合わせ、不協和音を奏でる。

 ふざけるな!――おれは叫ぶ。おれは悪くない。お前らが口ばかりで練習しなかったからだ。お前らが下手すぎておれのレベルについてこれなかったせいだ。お前らがいとも簡単に気持ちを切らして試合を諦めるせいだ。

 狂おしいほどの怒りと同じくらいの絶望感がおれの中で混じり、弾ける。

 お前らが弱いから。お前らが口だけだから。お前らが。お前らが。お前らが。

 ――じゃあ、お前に何も非はないというのか?

 背後の影がおれに絡みつき、囁く。振り返ったおれの隙をつき、背後の影たちがおれを飲み込み、組み伏せる。強引に押さえつけられ、生贄のように差し出された右手。眼の前の影がゆっくりと鉄パイプを振り上げる。

 やめろ! やめろ! やめろ!!

 おれは叫ぶ。声は影に消える。右手めがけて容赦なく鉄パイプが振り下ろされる。悪意の固まりが俺の右手を打ち砕かんとするその瞬間、頭の中でおれではないおれの声が谺する。

 ――こいつらも同じ目に遭わせてやれ。

 叫び、飛び起きる。夢と現実の狭間で、しかし身体を覆う痛みに夢だと気づき、また気を失うように眠る。そして同じ夢を見る。その繰り返し。

 何度も何度も何度も、おれは夢の中で右手を砕かれる。飽くことなく夢の世界で影に襲われる。顔のない影。昏い声を発する影、昔のチームメイトの声を発する影。夢の中でおれは無限に嬲られ続ける。

 朝を貪り、闇に包まれ、死んだように眠り続ける。いっそこのまま死んでしまいたかった。眠っていても目を覚ましても、おれが見るものは悪夢でしかない。

 2週間が過ぎた。まだ脇腹に痛みは残るが、身体は動けるまでに回復した。皮肉なものだ。気持ちとは裏腹に、身体は生きることを止めない。

 空腹を感じ、適当に飯を腹に詰め込んだ。切れた口が傷んだ。構わず食い続けた。身体が貪欲なまでに栄養を求めていた。

 ひとしきり食べ、脳味噌に栄養が届き始めると、思考がゆっくりと回り始める。

『GARDEN』はどうなった? 藤堂は? 黒ツナギは? 廣瀬は? 五代は?

 日比野はどうなった?

 家にテレビはない。新聞なんかもっての外だ。手元の携帯を乱暴に掴み、検索した。ネットに落ちているニュースをいくつか斜め読みした。

【渋谷のど真ん中で抗争。暴走する若者たちの闇】――センセーショナルでクソのお手本のような見出し。奴らはおれたちのことなんかこれっぽっちもわかっちゃいない。その通り、書かれている内容はどれも中途半端な憶測と情報でしかなかった。

 ネットニュース曰く、死者は出ていないが怪我人は重軽傷を含め40人以上。逮捕者は30人を超えた大捕り物劇だったようだ。怪我人や逮捕者の中には抗争の中心人物とみられる人物がおり、回復を待って事情聴取する予定。また、現場から逃走した人間も大勢おり、付近の住民に注意を呼びかけるとともに現在その行方を追っている――ざっとそんなところだ。要は警察とアウトロー、クソ同士のプライドを掛けた追いかけっこが続いている。

 中心人物――藤堂ではないだろう。ヤツはそんなヘマはしない。黒ツナギも、あの強かさを見るにそうやすやすと捕まらないだろう。廣瀬、あるいはその周りか。

 おれは携帯を放り投げた。ここでまごまご考えていても埒が明かない。直接現場を見に行こうと決めた。

 見たからといって、何がわかるわけでもない。それもわかってる。ただ、じっとしていられない。現場をこの眼で見るまでは。

 身支度をし、靴を履く。履き慣れたはずのコンバースのスニーカーが、どうも足にしっくりこなかった。昔から碌なことが起こらない日は、必ずこの感触があった。絶不調の前触れ。身体のキレも悪く、シュートも入らない。何かがおれを弄んでいる、そんな感覚。

 くそったれた過去のジンクスは、まるで呪いのように未だにおれを縛りつける。舌打ちが漏れる。苛立ちをぶつけるように靴紐を固く結び、ドアを叩きつけるように締める。

 ふと空を見上げた。久しぶりに見た空は、重苦しい鉛のような色で、世界を押し潰そうとしていた。


                   ☠


 渋谷はいつもと変わらない喧噪に溢れていた。だが、ランブリングストリート――取り分け『GARDEN』周辺の空気はいつもと異質だった。

 平日とはいえ普段なら若い連中で賑わい始める夕方だが、今日は代わりに制服警官の姿がそこかしこに見受けられた。そのせいだろう、いつもより明らかに人が少なかった。やけに物々しい雰囲気の原因は、警官どもが蟻の動向すら見落とさないと言った鋭い視線を周囲に向けているせいだ。無関係の人間でさえその迫力に萎縮し、足早に通り過ぎていく。

 薄暗くなり始めていてよかった、と内心安堵した。この痣だらけの顔じゃ、明るければさすがに一発で職質確定だ。せっかく逃げ遂せたのに自分から捕まえてくれと宣伝しているも同然だ。おれは物陰に隠れながら、慎重に移動した。

『GARDEN』が見えた。おれは近くの曲がり角に身を隠し、様子を窺った。

『GARDEN』の入り口には立入禁止のテープが張り巡らされていた。その脇に制服警官が二人。阿吽像のように険しい顔で立っている。

 警察が出入りしている様子はなかった。あの騒動から2週間――警察の連中は周囲の聞き込みも含め、さすがにあらかた調べ終わっているだろう。

 正直に言えば、おれも警察の興味は『GARDEN』から離れて誰もいないと予想していたが、見事に外れてしまった。あわよくば中に入りたかったが、仕方ない。

 これだけ警官がウヨウヨしていると、外で誰か――『GARDEN』に出入りしていた連中と偶然出会う、というのも考えにくい。

 出直しだ。おれは乗り捨てたままのバイクを取りに行くことにした。

 曲がり角を離れようとしたその時、いきなり後ろから襟首を捕まれ、強引に後ろへ引き倒された。アスファルトに腰を強打し、妙な呻き声が出る。

「なにしや――」

 怒鳴ろうとして振り返った。相手の顔を見た瞬間、怒鳴り声は喉の奥で潰れた。

「もしやと思ったら、やっぱり蘇我じゃねえか」

 煙草で嗄れた濁声。ヤニに黄ばんだ歯。人を見下すことにしか喜びを見出だせないくそったれた眼。常に恫喝するように丸められた姿勢。似合いもしないくたびれたトレンチコート――忘れもしない。忘れられるはずもない。

「山添…」 

 潰れた声の残滓が口から溢れる。

 眼の前に立っている薄汚い中年の名は山添――おれをブタ箱にぶち込んだ刑事だった。


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「久しぶりじゃねえか、蘇我。え? もう出てきていたのか」

 おれをぶち込んだ当本人のこの男が、おれの出所状況を知らないはずがない。山添はわざわざわかりきったことを口にして、嫌味を言いたいだけだ。そういう男なのだ、このクソ野郎は。

 不穏な空気を感じ取りおれたちに駆けつけようとした制服警官を、山添は犬でも追い払うように面倒臭そうに手で払った。制服警官は納得いかない様子だったが、しぶしぶといった感じで持ち場へ戻った。

「どの世界でも最近の若いのってのは生意気だな。素直に上の言うことを聞きやしねえ。苦労するぜ、まったく」

 山添は舌打ち混じりに吐き捨てる。制服警官はあからさまに嫌悪感を出した態度だった。身内からも疎まれる嫌われ者――腐った性根は顕在のようだ。

「…あんたかよ」

 立ち上がりながら、おれは言った。

 よりにもよっておれの人生で一番見たくない面とこんなところで出会うとは。己の不運を呪った。

 山添はわざとらしく声を出して嗤った。

「その人を舐めた態度は相変わらずか? ブチ込まれて少しは丸くなって出てくるかと思ったが」

 そう言っておれの胸元を馴れ馴れしく裏拳で小突くように叩き、上目遣いで睨めつける。

「山添さん、だ。言葉遣いには気をつけろよ、蘇我」

 眼を逸らしているおれの顔を、それでもじっと見続ける。執拗なまでの恫喝――昔から国家権力という自分の力を厭というほど見せつける男だった。その卑小さも相変わらずのようだ。

 厄介なヤツに再会してしまった。溜息が漏れそうになるのをギリギリで堪える。

「その顔を見るに、随分と派手な生活を送っているようだな。え、蘇我よ? 一体誰にやれらたんだ?」

 山添は目敏く言った。おれは思わず打ちそうに鳴る舌を堪える。

「あんたに関係ないだろ」

 最小限の返答に留める。会話しているだけで虫酸が走る。

「ほう。反抗的な態度も相変わらずのようだな。また昔みたいに可愛がってやってもいいんだぞ? 今ここでな」

 昔――記憶がフラッシュバックする。

 狭く薄汚い部屋の中で行われた取り調べという名の暴行の数々。質問される。答える。山添が望んだ答えではなければ、却下の代わりに拳が飛んできた。強制的な質疑応答。自白という名の創られたストーリー。更生のための折檻と言いながら、他の刑事が止めるのも聴かず、山添は嬉しそうにおれを殴り続けた。自分の意に沿わない相手は徹底的に蹂躙する。例えそれが未成年であろうが関係ない。それが山添のポリシー。奴の中でのくそったれた聖なる誓い。

 あの時のことを思い出すだけで反吐が出そうになる。眼の前のこの男におれは全てを蹂躙され、そして奪われたのだ。

「お? 今顔が強張ったな」

 山添は公害のようなヤニ臭い息を撒き散らしながら、言った。

「俺の怖さは骨身に染みているようだな。頑張ってポーカーフェイスを気取ってたのに残念だったな、蘇我よ。ぼくちゃんビビっちゃったのー、ってか?」

 目敏さだけは一級品だ。おれの頬をおちょくるように軽く叩き、嗤う。落ち着け――自分に言い聴かせる。現職の刑事と揉め事を起こすほど馬鹿な真似はない。しかも、今このタイミングは最悪だ。何とか誤魔化し、切り抜けること優先しろ。

 おれが挑発に乗ってこないとわかると、山添はつまらなさそうに鼻を鳴らし、勿体ぶった仕草で煙草に火をつけた。

「なんだ、随分忍耐強くなったじゃねえか」

 わざとらしくおれの顔に煙草の煙を吹きかけ、言った。

「そんな反応が薄いんじゃつまらんな。…まあいい。で? お前はこんなところで何をしているんだ?」

 山添は質問に切り替える。警戒心を引き締めた。淀んだ鋭い眼がおれの一挙手一投足を見逃すまいと眇められる。

 おれの背中に嫌な汗が滲む。ここが正念場だ。

 山添は刑事でありながらこの世のクソ野郎筆頭のような男だが、決して馬鹿じゃない。刑事が関与するほどの傷害事件があった現場の近くに、昔自分が刑務所にブチ込んだガキがいた。犬の嗅覚はきっと何かを嗅ぎつけ、そして繋げたに違いない。

 シラを切れ、とぼけろ、誤魔化せ――でないと、またブタ箱に逆戻りだ。脳みそをフル回転させ、言い訳を見繕う。

「別に」おれはできるだけ自然に、平静を装って言った。「たまたま歩いていたらヤケにこの辺りが物々しいんで、ちょっと覗いてみただけだ」

「たまたま…ね」

 無精髭の生えた顎をさすりながら、山添は言った。

「お前、誤魔化すつもりならもう少しマシな嘘つけよ」

「あんたに嘘ついて何になるんだ? 本当にちょっとブラブラしてただけなんだ。信じてくれよ」

「許可した覚えはねえな」

「なんであんたの許可がいるんだ?」

「決まっているだろう、お前が犯罪者だからだよ」

 山添は冷水を浴びせるような口調でピシャリと言った。

 口を開こうとしたおれに煙草の穂先を向け、山添は続けた。

「前もちの分際で一丁前に刑事である俺に口答えか、蘇我? お前の身柄をどうするかなんて俺の気分ひとつだ。しょっぴかれたくなかったら大人しく聞かれたことにだけ素直に答えとけ。だいたい俺にしてみりゃ、お前らみたいなクズがお天道様の下をまともに歩いているっていうだけで気分が悪いんだよ。日陰もんは日陰もんらしく、出歩く時も飯を食う時も息をする時も、全てに赦しを乞いながらコソコソと隅っこで縮こまってろ馬鹿が」

 山添は一気に捲し立てる。

 確かにおれはクズだ。それは認める。しかし、他人を貶めて自分の優位性をあからさまに見せつけるこの野郎も、おれと同じくらいクズなのは間違いない。

「ところでお前、あそこが何なのか知っているか?」

 山添は『GARDEN』に顎をしゃくった。何食わぬ顔で当然と言わんばかりに尋問が始まる。おれは警戒心を更に強める。

「…さあ、知らねえ。逆に教えて欲しいぜ。あそこで一体何があったんだ?」

「とぼけるなよ、蘇我? たまたま歩いていた? そんな面した奴が、事件があったこのタイミングでこの辺りをたまたま歩いているなんて、そんなでき過ぎた話を一体誰が信じるんだ? 今日お前が歩いていたのは、本当はあそこが目的だったんだろう? 何をしに来た? あそこに何がある?」

 山添は断定して畳み掛けてくる。確信したような物言いは、裏を返せば確証がないのだ。確証があるならば――何かを握っているならば、それを突きつければ終わりだ。こんなまどろっこしい攻め方はしない。

 足りないピース――山添はおれから何か引き出そうとしている。

 シラを切れ。とぼけろ。誤魔化せ――頭の中で急ピッチで作り上げた嘘のストーリーに綻びがないか吟味しながら、おれはそれを口にする。

「本当に知らないんだ。実は昨日道玄坂で飲んでいて、バイクを置いて帰ったから取りにきただけだ」

 これ見よがしにポケットにあったバイクの鍵を見せつける。

「その顔の傷は?」

「お察しの通り、喧嘩だよ。相手がボクシングをやってたっぽくて、いいように殴られた」

「いつ、どこで」

「1週間ぐらい前。新宿で」

 真実と嘘を少しずつブレンドした与太話。調べればすぐに嘘とバレるだろう。構わない。今、この場を凌げればどうでもいい。

 山添は暫く睨めつけるようにおれの顔を見ていたが、「まあいいだろう」と言った。意外な反応だった。もっと執拗に質問してきて粗捜しすると思っていた。

 気を緩めそうになったのも束の間、山添がコートの懐から写真を取り出し、おれの顔に突きつけた。

「こいつを知っているか?」

 写真に写った男――藤堂。隠し撮りされたものだろう、ピンはボケて画像は粗いが、そこには間違いなく藤堂が写っていた。

「いや、知らない」

 おれは言った。考える前に自然に口が動いていた。

「見かけたことは?」

「ないね」

 山添は視線でおれの頬に穴を開けそうな勢いで凝視する。おれ肩を竦めてみせる。山添は舌打ちし、再び藤堂の写真に眼を落とした。その熱い眼差しはまるで想い人でも見ているかのようだ。

 だからか。さっきの山添の態度に合点がいった。山添の興味は今完全に藤堂に向いている。何の悪戯か偶然におれを見かけてちょっかいを出したが、触手は依然藤堂に向けられているのだ。

 山添が捜しているということは、ニュースにあった中心人物はやはり藤堂ではなかった。その事実に少し安堵している自分に驚いた。しかし山添までもが藤堂を捜しているという状況は、藤堂にとっては凶報でしかない。

「こいつを見かけたら俺に連絡をよこせ。いいな」

 山添はそう言うと、しわくちゃの名刺をおれのジャケットのポケットに捩じ込んだ。

「…そいつは何をやったんだ?」

 おれは訊いた。

「お前と似たようなもんさ」

 山添はせせら笑うように言った。

「殺人未遂に傷害、器物損害、薬物保持…その他諸々、だ。クズらしく罪状のオンパレードだな。俺が必ず捕まえてやる。お前も仲間が増えて嬉しいだろう?」

 揶揄するように山添は言った。おれは奥歯を噛み締め、屈辱に耐える。怒りの火種が静かに勢いを増すのを自覚した。

「しかし、お前のその姿を見たら、さぞかし荒木も無念だろうな。あんなマネまでして助けようとした結果がコレじゃあ、な」

 荒木――予期せず山添の口から出た名前に、後頭部をぶっ叩かれたような衝撃を受けた。

「どういうことだ…?」声が掠れた。「なんであんたが荒木さんのことを知ってるんだ?」

 トレンチコートの襟を掴み、山添に詰め寄った。

「あんなマネってなんだ? あんた一体何を知って――」

 山添が忌々しそうに舌打ちした。と同時に足に衝撃がきた。視界が勢いよく回転した。投げられた、と自覚したのは背中から地面に叩きつけられたあとだった。瞬間的に肺が潰され、息が詰まった。

 山添は嫌悪感を露わに「触るんじゃねえよ、穢らわしい」と吐き捨てた。

「…その様子だと何も知らんようだな」

 トレンチコートの襟を正しながら、山添は言った。

「だから、何を…だよ…!」

 咳き込みながらおれは言った。

「めでたい奴だな、お前は。お前が犯した罪の裏っかわで何があったのかも知らんとは」

 おれは弾かれたように顔を上げ、山添を凝視した。おれが犯した罪の裏――なんだそれは? そこに荒木さんが関係しているというのか?

 山添はトレンチコートのポケットからメモ帳を取り出し、何かを書き込んだ。ちぎったそれをおれに向かって放る。

「いい機会だ。自分の眼で確かめてこい」

 山添は破り捨てたメモに向かって顎をしゃくった。

「お前の犯した罪の深さと、その重さをな」

 メモを凝視するおれに「連絡を忘れるなよ」と言い残し、山添は去っていった。 

 山添が残したメモには、住所が書かれていた。記憶のどこかに引っかかる住所――。

 それはあの襲撃の日に、黒ツナギがおれに言った住所と同じものだった。


                   ☠


 アイドリング中のバイクに跨がったまま、おれはある家を見ていた。

 黒ツナギと山添――接点のないはずの二人が口にした住所。そこにはレトロな雰囲気の一軒家があった。川崎の閑静な住宅街の中で、一際大きな家。壁には中村診療所という看板が掲げられていた。個人病院兼自宅、といった外観だった。 

 山添のメモをポケットから取り出し、もう一度確認する。住所は間違いない。こんなところに一体何があるというのか。

 おれはエンジンを切り、バイクから降りた。ここがどこであれ、行けばわかる。とりあえず病院に入ってみることにした。

 黒ツナギ曰く――ここにおれに関わりが深い何かがある。

 山添曰く――ここにおれの罪深さがわかる何かがある。

 空が不穏な音を轟かせる。夜の闇と相まって更に鉛色を深めた空は、今にも地上に鉛球を撃ち始めようと準備を進めている。おれは空へひとつ舌打ちして、病院へ入る。

 病院は中も広かった。入り口のすぐ横にある待ち合い場所は余裕のあるスペースで、ゆったりしたソファが置いてあった。床にはおしゃれなカーペット。リノリウムの床の奥には、2階へ続く階段があった。内装だけで言えば病院ぽくない病院だった。しかし、匂いは病院特有の消毒液の匂いが充満していた。

 入り口の受付には患者もスタッフもいなかった。特に休憩中などの看板もないところを見ると、スタッフは単に席を外しているのだろうか。受付にあるデジタル時計は18時を過ぎていた。

 奥の扉が開く音がした。誰かが小走りで近づいてくる。どうやらおれの気配に気づいたようだった。暗がりに白衣が踊る。駆け寄ってくるのはどうやら医者のようだった。おれはここに来たことをどう説明すればいいのか、何も考えていなかった。どうする? 頭を掻くふりをして、顔を背けた。

「いや、すまんすまん。待たせたね。ちょっと奥で資料を整理――」

 そこまで言って、医者は何かに驚いたように息を飲み、立ち止まって動かなくなった。

 こんな時間に傷だらけの、明らかに堅気とは言えない風貌の男が立っていれば誰だって驚くだろう。不審者に思われても仕方がない。どう説明するべきか全くまとまっていなかったが、警戒心を与えて警察を呼ばれても面倒だ。おれは意を決して顔を医者へ向けた。

 今度はおれが固まる番だった。眼の前にあるその顔を見て、絶句した。

 この顔には覚えがある。いや、忘れるはずがない。おれにとって大切な時間  『ROCKABILLY』で共に汗を流した、おれの大切な仲間の顔。

「…坊ズ……か…?」

 医者――中村さんが確かめるように口を開く。

 おれは息をするのも忘れ、眼の前にいる人の顔を見続けていた。

 遠くで激しい雨の音がした。勢いよく地面を打ち鳴らす雨粒の音が、何かが近づいてくる足音のようにも、誰かが後ろで嗤っているようにも聞こえた。


                   ☠


「…何をしにきた」

真空のような沈黙がこのまま永遠に続くと錯覚しそうになった時、中村さんは静かに口を開いた。

 何をしにきた――辛辣で、強い拒絶を滲ませた声。今のおれと中村さんとの距離を痛感するには充分な第一声だった。 

 中村さんは当時に比べると随分痩せ細っていた。肌からは張りがなくなり、髪も白髪だらけだった。萎んだ、という表現が正確かもしれない。何かに疲れ果て、諦めた人間が醸し出す空気を中村さんは発していた。

 おれが知っている中村さんは小柄ながらに筋肉隆々で、よく通る声で的確に指示を出す優秀なポイントガードだった。荒木さんとのコンビは、『ROCKABILLY』が誇る最強のホットラインだった。そんな面影は――もう見る影もない。

「どうしてここがわかった? 誰かに訊いたのか? 今更何の用だ?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問は、露骨におれへの嫌悪が滲んでいた。拒まれるのも無理はなかった。あの事件以降、おれは『ROCKABILLY』に行かなかった。連絡すらもしなかった。そんな不義理なおれに愛想を尽かす人がいても、犯罪者の烙印を押されたおれを見限った人がいても、何もおかしくはない。

「…ご無沙汰しています」

 おれは頭を下げた。中村さんが口を開く気配がしたが、おれはそのまま言葉を続けた。

「ここが中村さんの病院だとは知らなかったんだ。この場所を知ったのは…」

 どこまで言うべきか迷い、言い淀んだ。これ以上中村さんの態度を硬化させないためにも、なるべく余計なことは言わずにいたかった。

 中村さんは急に黙ったおれに対して何も言わず黙って待っていたが、注がれる視線は針より鋭利で物質的な痛みを伴っていた。急かすような時計の針の音が、やたら耳に障る。

 大まかなことは言わざるをえない。最初から最後まで嘘を突き通すには話が多岐にわたっているし、今のおれの精神状態では突き通すことができないかもしれない。

 おれは覚悟を決めて続けた。

「…山添という刑事に教えられて、ここへ来ました。その刑事がここに行けば、おれの罪の深さがわかるって…」

「なんだと…?」

 中村さんは山添の名前に大きく反応し、思い出したように額に手を当て、「あの刑事か…!」と苛立ちを隠さずに呟いた。しかしその姿は、怒っているというよりは、おれには動揺しているように映った。

「…お前、まだあの刑事と関わりがあるのか」

 更に声を硬くして、中村さんは言った。山添がおれの担当刑事だったことを知っているようだった。そして中村さんの質問は至極当然だった。誰だって今の青痣だらけのおれの顔を見れば、まっとうな道で生きているなどとは微塵も思わない。

「山添とはたまたま出くわしたんだ」

 イエスともノーともつかないおれの返事に、中村さんは眼を瞑り、壁にもたれかかりながら細く長く息を吐いた。吐く息の長さに比例して、眉間の皺が深く刻まれていく。

「……帰れ」

 暫しの沈黙のあと、眼を瞑ったまま中村さんは言った。

「ここには何もない。お前に教えることも何もない。今すぐ帰るんだ、いいな」

 中村さんは捨て台詞的に言い放ち、背を向けて足早に奥へと向かった。

 突然のシャットアウト――馬鹿でもわかる。中村さんも山添と同じく、おれの罪の裏で何があったのかを知っているのだ。

「待ってくれ!」

 おれは鉄の壁になった中村さんの背中に叫んだ。

「知ってるんだろう、中村さん! 教えてくれ! ここに何があるんだ? おれの罪って何なんだ!?」

「うるさい! 帰れ! ここには何もないし、お前に教えることは何もないと言っているだろう!」

「そんなバレバレの嘘で納得できるか!」

「お前の納得なんか知ったことか!」中村さんは足を止め、振り返って叫び返す。「いいか! ここには! 何もない!! 知りたいんなら他所あたれバカタレが!」

 中村さんは一気に怒鳴る。取り乱して息は乱れ、肩も大きく上下していた。

 ああ、昔よくこうやって怒られたな――場違いな郷愁感がおれの中で広がる。しかし、おれに向けられている感情はあの頃と確実に違っていた。

 憎しみと郷愁の間で、お互いの距離を確かめるように、おれたちは暫く見合う。

「…教えてくれ、中村さん」

 おれは声を抑えながら、尚も懇願する。

「おれの罪って何なんだ? あの事件と何か関係あるのか? それ『ROCKABILLY』に関係することなのか?」

 中村さんはおれから眼を逸らさない。歯を食いしばったまま、おれを見つめ続けている。

 おれの過去と『ROCKABILLY』。それがおれの罪の正体に関係するならば、なおさらおれは知らなくてはならない。どれだけ拒否されようとも。それだけ嫌われようとも。おれは確かめなくてはならない。ここに何があるのか――おれの罪の正体とは何なのか。

「お願いします。教えてください」

 おれは再度頭を下げた。

 下げた頭に、大きな溜息がぶつかった。中村さんは精魂尽きたように壁にもたれかかり、諦めたように言った。

「…そういう身勝手なところは腹立つくらいそっくりだな、お前とあいつは…。自分の主張ばっかりで、人の話なんぞ何にも聞きやしない」

 あいつ――荒木さん。チームとしてのバランスを重視する中村さんと、個人能力主義の荒木さん。正反対の考え方の2人。いつもプレイに関して口喧嘩していた。しかしお互いを認め合っているからこそ、忌憚なく意見が言える関係でもあった。そんな二人の関係が羨ましかった。そんな信頼関係が嫉ましくもあった。

 中村さんはもう一度おれを見た。今度は拒絶ではなく、おれの意志を確認するような眼差しだった。

「…知らなきゃよかったと、後悔することになるぞ」

 中村さんは言った。おれは頷いた。後悔は腐るほどしてきた。今更新しい後悔が増えたところで、どうということもない。

「…ついて来い」

 顎を奥にしゃくり、中村さんは足早に歩き出す。おれもその後ろを追って歩く。

 照明が消えているせいか、院内は薄暗かった。まるで洞穴の中を歩いている気分になる。歩く度、リノリウムの床から音がする。それは、体育館の床が鳴る音と少し似ていた。

中村さんと二人で並んで歩いた時のことを思い出す。あれは練習で荒木さんにボロ敗けした時だったか。優しい笑顔で頑張れと励ましてくれた。こうすればもっと疾くドリブルができるとアドバイスをしてくれた。あんな奴はただ身体がデカイだけだと、一緒になって荒木さんの悪口を言い、ケラケラと笑い合ってくれた。

 中村さんは変わった。おれも変わってしまった。過ぎた時間は残酷なほどおれたちから何もかもを奪い去っていた。

「ここだ」

 中村さんは2階のある病室の前で足を止めた。

「この中に、お前の知りたがっていたものがある」

 中村さんは顔だけで振り返り、おれを見る。「本当にいいんだな?」

 覚悟はいいか――言外に問われる。 

 おれはその眼を見ながら、もう一度頷いた。

「…わかった」

 中村さんがゆっくりとドを開ける。

「よく見ろ、坊ズ。これがお前の罪だ」



                   2



 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 振り続けていた雨はいつの間にか止んでいた。長時間雨にさらされた身体は、まるで死体のように冷えきっていた。

 おれは渋谷の美竹公園のコートに座り込んでいた。なぜここにいるのか、どうやってここにきたのか、まるで記憶がなかった。夢遊病者のように、気づいたら――ここにいた。

 このコートは、藤堂に拾われるまでおれが入り浸っていたコートだ。誰を相手にするでもなく、ただ身体の熱を発散するためだけに、ずっと独りでプレイしていた場所だった。

 だからだろうか。意識がなくても、獣の本能よろしく巣への道を辿ったのだろうか。

 小刻みに震えている身体を抱きしめるように手を回す。身体の震えを抑えるためのその手さえ震えている。冷えきった身体――しかし、震えの原因はそれじゃない。

 おれはおれの罪を知ってしまった。おれはおれの愚かさを知ってしまった。おれはおれの無力さを知ってしまった。おれはおれの撒き散らした呪いを知ってしまった。

 おれは、おれの罪深さに震え続けている。


                   ☠


開けられたドアの向こう。広い病室。微かに漂う糞尿と何か腐ったような臭い。テレビで見たことがあるような、たいそれた機械。それらに囲まれ、人工呼吸器をつけて横たわっている男がいた。

 荒木さんだった。

 おれは眼の前で横たわっている男が荒木さんだと認識するのに、暫く時間がかかった。それほどおれが知っている荒木さんの姿から変わり果てた姿だった。

 あるいは、その現実を脳が拒否していたのかもしれない。

 逞しかった筋肉隆々の身体はすっかり痩せ細り、体中からチューブが伸びていた。髪は半分以上が白髪になっていて、光を失くした半開きの眼は、虚ろに宙の一点を見据えたまま留まっていた。

 おれたちが部屋に入ってきても、荒木さんは何の反応も示さなかった。たった数年――たった数年会わない間に、おれが憧れたヒーローは生きる屍になっていた。

「この状態になって、もうそろそろ5年…になるか」

 中村さんは静かな声でそう言った。

 なんで――喉輪をかまされたような圧迫感に、声が出ない。唇が震える。息だけの掠れ声でようやくそう言った。

 なんで荒木さんがこんなメに遭っている。どうしてこんなことになっている。同じ言葉が狂々と頭の中で回る。目の前にフィルターでもかかったように、現実感が薄くなっていく。

 お前を助けるためだ――遠く聞こえる声で、中村さんはそう言った。

 荒木は捕まったお前を何とか助けようとしていた――中村さんは続ける。

 何かの間違いだ、あいつはそんなことはしない。俺は信じている。荒木はそう言って周りが止めるのも聞かず、お前をどうにか救おうとあの手この手を考え、奔走していた。

 被害者への接見、慰謝料の補填、裁判費用、弁護士費用、保釈金――人が動くには金がいる。人を救うには金がいる。しかし、それに反して金はすぐに枯渇する。もっと金がいる。手っ取り早く金を集める必要がある。

 だから――荒木さんは非合法な世界に足を踏み入れた。

 短期間で金が稼げて、かつ自分の得意なことが活かせる場所。麗しくもくそったれた世界。おれと同じ、アンダーグラウンドの賭バスケットの世界へ荒木さんは降り立った。

 眼の前が歪む。耳鳴りがする。息が勝手に荒れてくる。心臓を誰かに鷲掴みされているように痛む。これは本当に現実なのか。まるで悪夢の中にいるようだった。

 なんなんだ。一体これはなんなんだ!

「…どうして!」気が狂いそうな衝動に駆られ、おれは叫んだ。「どうしてそんなことを! 荒木さんがそこまでする必要なんてなかっただろう! おれなんか放っておいけばこんなメに遭わ――」

「黙れっ!」

 中村さんの怒号が病室内に響く。おれは思わず言葉を詰まらせた。

「…他の誰が言っても構わん。だが、お前は……お前だけは、死んでもそれを口にするな…!」

 激情が口から零れそうになる。それを押さえつけるように奥歯を噛み締め、おれは荒木さんを振り返る。荒木さんは、変わらず虚空を見つめている。

 なんでだよ、なんでなんだよ、荒木さん! どうしておれなんかのために、あんたがこんなメに遭わなくちゃならないんだ?

 悪夢よ覚めろと壁に拳を打ちつける。それでもこの現実は崩れちゃくれなかった。

「…こいつなりに、責任を感じていたんだろう」

 この世の苦痛を全て味わっているような眼差しで、中村さんは荒木さんを見つめる。

「お前を焚きつけて高校へ行かせた経緯もあったしな…。お前を信じているとは言っても、お前の性格は、荒木はもとより俺たちも当然知っている。あんなことが起こる前に、なにかやりようがあったんじゃないか、って…ずっと…ずっと後悔していたよ」

 違う!――頭の中で声が爆発する。アレは荒木さんたちのせいじゃない。アレはおれが自分で招き入れたことだ。おれがおれである以上、避けては通れなかった運命だ。

「…馬鹿なことをさせてしまったと思ってる」

 中村さんは目頭を抑え、続ける。思い出したくもない現実を語る作業――この独白も、中村さんにとっては拷問に等しい。

「俺はこいつが何か危ないことをしているって薄々感づいていたんだ。本人は隠しているつもりだったかもしれんが…。つき合いも長いしな、わかるんだよ、そういうの。日に日に顔に陰がかかてくるというか…険しくなっていったからな…」 

 山添という刑事が俺たちの前に現れたのもそんな時だ、と中村さんは続けた。

 人には生きるべき領域ってもんがある。それを踏み越えるつもりならそれなりに覚悟しろよ――山添は荒木さんにそう言った。

 その日を境に、明らかに堅気とは言えない雰囲気の連中が荒木さんの周囲に現れ始めた。

 普段の生活とアンダーグラウンドの両立。侵され始める平穏な日常。法の眼ををすり抜ける毎日。削られていく神経。立ち込めるきな臭さを、知らぬ間に身に纏う。

 変わっていく現実――荒木さんがやっていることがどれほどの危険性を孕んでいるかは、中村さんたちも当然わかっていた、と言った。

 全部わかっていて、それでも――止めなかった。止められなかった。

 おれはどうして? と眼で問う。口を開けば、叫びだしそうだったから。

「俺たちもお前を助けたかった」

 中村さんは言った。

「結局、その汚れ役を荒木一人に背負わしてしまった。みんなで考えていればこんなことにはならなかったかもしれない。いや、きっと他に手はあったはずだ。お前を救いたいと言い、しかし日々の忙しさを理由に俺たちは――いや、俺は逃げていたんだ。安全な場所から口を出すだけの、ただの卑怯な人間だった」

 中村さんはおれの眼をまっすぐ見据え、続ける。

「坊ズ。お前に罪があるというなら、俺にもまた、業の深い罪がある。だから俺は一生こいつの面倒を見る。たとえこの先……こいつが目覚めることがなかったとしても。…それが俺の贖罪だ」

 ああ。おれは絶望とともに悟る。

 ここにもだ。ここにも、自分の罪に溺れて苦しんでいる人がいる。

 誰も彼も、己の罪深さを嘆き、見えない何かに赦しを乞う。

「だから、帰ってくれ…坊ズ…!」

 そう吐き捨てた中村さんの声は、激情に震えていた。

「…これ以上お前を見ていると、俺はお前を赦せなくなる…! 自分の罪もわかっている。身勝手なのもわかっている。しかし、理屈だけで感情は殺せないんだ…!」

 人から恨まれるのも、嫌われるのも慣れている――はずだった。なのに、なんでこんなに胸が張り裂けそうに苦しいんだ。

 思わず手を伸ばそうとして――気づく。おれにはそんな資格はない。伸ばそうとした手は、血と呪いに塗れている。

「今直ぐ俺たちの前から消えてくれ、坊ズ! 俺にこれ以上お前を恨ませないでくれ…!!」

 悲痛な訴えがおれの胸の真ん中を抉っていく。とても鈍く深く、おれの大事な部分を根こそぎ奪い取っていく。

 これがおれの罪の正体。

 手を伸ばすことも、駆け寄ることも、声をかけることもできない――赦されない。

 何にもできないおれは、眼の前の現実にただ打ちのめされるまま、立ち竦むしかなかった。


                   ☠


 いっそこのまま死んでしまえれば楽なのに。そんな埒も明かない考えが頭を過る。

 おれが壊したものは、おれのものだけじゃなかった。大事な人たちの大切な日常も、まっとうな人生も、夢も、未来も――何もかもを壊してしまったのだ。

 どうしてこうなった――理由はない。ただ、どうしようもない現実があるだけだ。

 そんなつもりじゃなかった――懺悔をするおれの意志とは裏腹に、壊れそうな心が叫ぶ。  

 この期に及んで、まだそんな無意味な言い訳をし、逃げようとしている。おれはこんなに卑怯な人間だったのか。おれはこんなにも弱い人間だったのか。おれはおれの正体に深い失望と絶望を繰り返す。

 誰かおれを殺してくれ。朦朧とした意識の中でおれは願う。打って変わって嘘のように晴れた空の下で、おれはそう願わずにはいられない。太陽は罪人のその罪を照らすように、頭上で燦々と輝く。

 風の音に紛れ、何か音が聴こえた。音――足音。幻聴かと思ったそれは、だんだんとおれに近づいて来る。誰かがおれに近づいて来ている。おれの願いを聞き入れ、死神でもやってきたのだろうか。

 足音が止まった。おれの前に誰かが立っていた。何かが眼の前で揺れていた。おれはそれに釣られるように、無意識に顔をあげた。

 羽根が一枚落ちた、古ぼけたドリームキャッチャーが見えた。

 逆光を背負った影――そこには、日比野が立っていた。


                   ☠


「……随分な格好だな」

 ずぶ濡れで憔悴しているおれを見て、日比野は呆れたように言った。

 これは夢だろうか。眼の前の日比野を見ながら、薄い意識でぼんやりと思い、しかしなんでもいい、と切り捨てる。夢でも現実でもどっちでもいい。おれを殺してさえくれれば。

 再び塞ぎ込み反応しないおれに呆れたのか、頭上で日比野のため息が聴こえた。

「そんなにショックだったか? 自分の知らなかった現実を知ったことが」

 不意打ちに放たれた言葉が、思考停止した脳みそを激しく揺さぶった。今までの夢現の感覚が一気に消し飛び、おれは弾かれたように顔を上げた。

 なんでそれを…? おれは日比野に眼で問う。

「…中村さんに会ったんだろ?」

 答えになっていない答え――答えになっている答え。日比野の返事はおれの混乱に拍車をかける。どうして中村さんのことまでお前が知っている…?

「…なんだ。あの人…言っていなかったのか」

 おれの反応を見て日比野は察したらしく、ため息混じりに独り言ちた。

「まあ無理もない…か。まさかお前が訪ねてくるなんて夢にも思ってなかっただろうしな…」

 再びおれに眼を戻し、日比野は続ける。

「お前が病院に来たことは中村さんから聞いた。おそらくここにいるだろうってことも」

 そう言って日比野は、感慨深そうにコートに顔を巡らせた。

「なにかあったら、美竹公園…か」

 日比野は、呟くように言った。

 美竹公園――ここは“神”がくれた聖なるコート。バスケをしているガキどもにとっての聖域。ご多分に漏れず、おれにとってもそうだった。嫌なこと。辛いこと。悔しいこと。嬉しいこと。ガキの頃のおれは、なにかある度にここへ来た。『ROCKABILLY』がみんなでいる場所ならば、美竹公園はおれ個人の大切な場所だった。屋根もない、ただの外のコート。雨が降ればプレイもできない。だが、バスケをしているおれたちガキどもにとっては何にも代えがたい価値があった。屋根がない代わりに、そこには自由を象徴するような高い空があった。ここで練習していれば、いつかきっと“神”のように高く飛べる――そんな甘ったれた幻想をガキどもに抱かせ、夢中で練習させる何かがあった。

 荒木さんにボロボロにやられた日には、よく帰りに立ち寄り、泣きながら自主練習をした。もう、色褪せすぎて触れば崩れるくらい、ずっとずっと遠い過去の話だ。

 そんなおれの行動を『ROCKABILLY』のメンバーはみんな知っていた。

「…お前…いったい…」

 混乱した頭から言葉が漏れる。

 日比野はおれに眼を戻し、言った。

「……俺も『ROCKABILLY』のメンバーだ」

 放たれた言葉が銃弾のようにおれの額を撃ち抜いた。

 にわかには信じ難い事実に耳を疑った。おれは確かめるようにもう一度日比野を見る。冗談を言っているような眼ではなかった。

 そんな――まさか。嘘だろ? 

 日比野が『ROCKABILLY』のメンバー…?

「お前と同じさ」

 おれの混乱を余所に、日比野は続ける。

「出入りしてたんだよ、ガキの頃だけ…だけどな。だから、荒木さんのことも、中村さんのことも……もちろんお前のことも、知ってる」

 おれは息をするのも忘れ、暫し呆然とした。

 おれの知らない事実が次々と明るみになる。おれの知っている世界が猛スピードで姿を変える。おれはそのスピードについていけず、取り残されていく。

「覚えてなくても無理はない。俺はお前ほど練習に参加しなかったからな。まあ、そうじゃなくても、お前は同年代の連中なんかに興味はなかったろうが」

 確かに、『ROCKABILLY』にはおれ以外にもガキが数人いた――気がする。その程度の認識だ。日比野の言う通りどんな奴らだったかなんて覚えていなかった。あの頃は自分のスキルを上げること以外に興味がなかった。

「…正直、俺も驚いたぜ。まさかあんな場所でお前に会うとは思っていなかった」

 あんな場所――『GARDEN』で会った時を思い出す。対戦の前、おれの姿を認めた日比野は確かに驚いたような顔をした。あの反応はそういうことだったのか。

 偶然か、それとも必然なのか。奇妙な因縁に導かれ、『ROCKABILLY』のメンバーだったおれたちはあの場所で再会したというのか。

 そんな偶然あると思う?――なぜか黒ツナギの声が聴こえた気がした。

「お前とは何かしら因縁があるみたいだな…」

 おれが思ったことと同じことを、日比野は口にした。

「…俺がここに来た理由はわかるか?」

 そう言った日比野の眼は、今まで見たことがないほど鋭利で冷たい眼をしていた。その寒々しさを伴ったプレッシャーに、獣の本能が無意識に畏怖する。

 日比野が『ROCKABILLY』のメンバーですべてを知っているのならば――おれのところに来た理由はひとつしかない。

「…その気になればお前はもっと早くこの現実を知れたはずだった」日比野はおれから離れ、コートの隅に向かって歩いていった。「だが知らなかった。知ろうとさえしなかった。…口では大層なことを言いながら、お前はずっと現実から逃げてきたんだ」

 日比野は足を止め、コートに転がっていたボールを拾い上げた。

「――こいつを言い訳の道具にしてな」

 そう吐き捨てたかと思うと、ボールをおれに向かって放った。

 投げられたボールはおれの顔を掠め、派手な音とともに背後の金網をたわませた。

「立て」

 静かな怒りを湛え、日比野は言った。

「お前が形振り構わず縋りついていたものが、どれほどくだらないものなのか教えてやる」


                   ☠


 日比野のレイアップがネットを揺らす。おれはそれを地面に這いつくばりながら見上げる。

 病み上がりの鈍りきった身体では日比野の鋭いドライブについていけるはずもない。アンクル・ブレイクでもなく、おれは勝手に足をもつれさせて無様に転げる。

 そんなおれを見下ろしながら、日比野「6―0」とカウントする。

 3ゴールではなく、6ゴール。点で言えば12対0。数字以上に差は圧倒的だった。

「どうした? しっかりやれよ。誰もかもを犠牲にしてまで守りたかったものなんだろう?」

心臓を凍てつかすような冷徹な声で、日比野は言った。今日の日比野には鬼気迫るものがある。

 それもそのはずだ。恩師をあんなメに遭わせた原因が眼の前にいるのだから。

「いいぜ。言い訳しろよ」日比野は言った。「コンディションが悪い。雨が降ったせいで足元が滑る。屋外用のボールが手に馴染まない…他に何かあるか?」 

 見透かしたような物言い――奥歯を強く噛みしめ、屈辱に耐える。

 返事をしないおれに業を煮やしように日比野は舌打ちした。無言で立ち上がろうとするおれの顔に向かってボールを投げつける。とっさに掌で防いだ。派手な音を立ててボールが掌を弾く。掌が痺れるほどの威力が、日比野の内なる怒りを顕していた。

 日比野がさっきから顔ばかり狙ってくるのは、本音では今すぐおれの横っ面を殴り飛ばしたいからだろう。抑えきれない感情がボールを通して伝わってくる。

 大事な人だった。きっと。日比野にとって荒木さんは、師匠であり、恩師であり、憧れのヒーローだった――おれにとってそうだったように。

 これは復讐だ。捨てたはずの過去が、日比野という死神を雇っておれを殺しにやってきた。おれは勝負の体をしたこの私刑を甘んじて受けなければならない。断ることは赦されない。それがおれに課せられた義務だ。

 おれのオフェンス。身体が重かった。まるで囚人のように手足に枷をつけられたようだった。いつも煩いくらい騒ぐ身体も、あの騒動の日以来、完全に沈黙している。そのせいかまるで四肢に力が入らない。

 日比野の攻めるようなディフェンスに気迫負けして、プレッシャーに身体を引いてしまった。痛恨のミス。無防備になったボールは、いとも簡単に日比野にチップアウトされてしまった。手元から零れたボールを押さえられ、おれのオフェンスは呆気なく終わる。

 くそったれ――様々な感情がないまぜになった塊を吐き捨るように、おれは心の裡で呟く。

 攻守を繰り返すたびに、今まで積み上げてきた自信やプライドが剥がされていく。どんどん丸裸にされていく。卑小なおれが見えてくる。

 そいつがおれに言う。

 ――お前が守りたかったものって、こんなものか?

 うるせえよ…!

「ぼさっとしている暇があるのか?」

 日比野の声に我に返る。と、その時にはもう日比野はシュートモーションに入っていた。

 止めようとして、おれはその姿に見入ってしまった。何度も見たはずなのに、何度でもおれの心を奪う。誰もが思い描くであろう理想のフォーム。誰もが束の間の羨望のあとに、深い嫉妬を覚えてしまうフォーム。

 放たれたシュートは今まで見たこともないほど完璧な弧を描きながら、音もなくネットに吸い込まれていった。

 その光景を目の当たりにした瞬間、背筋を凄まじい勢いで冷気の塊が駆け上がっていった。それは圧倒的な才能だけが周囲に与える恐怖感――あるいは絶望感。自分はあそこに辿り着けないのだと突きつけられる、この世で最も残酷な光景だった。

「7―0」

日比野はカウントした後、揶揄するように鼻で嗤った。

「大したアイデンティティだな」

 完全に、この上ないほど完璧に虚仮にされている。このまま良いようにやれたままでは終わってたまるか――クソみたいな自尊心が鎌首をもたげ、喚き叫ぶ。このゲームにさえ勝ち敗けを求めてしまう。悲しいほどにおれはおれでしかない。

 再びおれのオフェンス。ドリブルで日比野の右を抜きにかかる。あっさりとコースをカットされてしまう。バックロールで切り替える。身体のキレが悪い。回転が遅い。振り切れず、再び並走を赦してしまう。 

「この程度か?」プレッシャーをかけながら日比野が言う。「こんなものがお前の全力なのか? だとしたら荒木さんも浮かばれないな。道を踏み外してまでも守ろうとしたヤツが、この程度の実力しかないんじゃな」

「…なん…だと…!」

 スティールを狙う日比野の手を避けながら、おれは思わずその言葉に反応する。

「違うっていうなら、俺に勝って証明してみせろ」

 日比野のプレッシャーが増す。なめんじゃねえぞ――おれは素早くレッグスルーで再び切り返し、抜きにかかる。 

 しかし急激な切り返しに足がついてこれず、おれは体勢を崩してしまった。くそったれのヘボ足め。叱咤し、強引に体勢を立て直す。

 その隙を突かれ、日比野の指がボールに触れる。ボールはおれの手を離れ、無情にも後ろに逸れていく。ボールを追って振り返った視界に、日比野が躍り出る。

 奪われるな!――悲鳴のような声で本能が叫ぶ。おれは本能に突き動かされるがまま、形振りかわまずボールへダイブする。

 届け! 届け! 届け!!

 デジャヴの光景――必死に手を伸ばす。しかし願い虚しく届かない。ボールはおれの手を避けるように、日比野の元へ収まった。

「…くそったれが!」

 おれは地面を殴り、叫ぶ。

 文字通り手も足も出ない。これ以上ない屈辱のフルコース。おれは言葉にならない叫びを上げながら、もう一度コートに拳を打ちつけた。

「惨めだな」

 事実のみを端的に伝える平坦な声が、頭上から降り注ぐ。

「アイデンティティかなにか知らないが、所詮この程度だ、お前は。才能がないならないで、いっそ圧倒的にレベルが低かったらよかったのにな。なまじ半端にやれるせいで叶わない夢を見て…そしてすべてを失ってなお、それに縋りつくことしかできない」

「…黙れよ……!」

 おれは日比野を睨みつける。残されたプライドから絞り出した、残りカスのようなチンケな虚勢だ。惨めだ。言われるまでもなく。わかってる。だが、やらずにはいられない。所詮おれはおれでしかない。

「自分の弱さを受け入れられず、それを隠すために威嚇する。そうやってお前は自分を見つめ直すこともなく、いろんなことから逃げてきたんだろう」

「…知ったような口聞いてんじゃねえぞ…!」

「知ったような口を利く権利は、俺にはあるぜ」

 おれの反論の首根っこを押さえつけるように、日比野は切り返す。

「馴染めなかった高校では同級生を半殺しにし、『ROCKABILLY』には後ろ足で砂をかけ、それでもまともにやっているのかと思えば、逃げ込んだ檻の中で雑魚相手に賭バスケ。挙句、逃げてきた自分のクソみたいな自尊心を保つために、自分よりも弱い誰かを相手に憂さ晴らし」

 おれの罪をひとつずつ数えるように言ったあと、日比野はおれの胸ぐらを掴んで強引に引き寄せる。

 近距離から怒りに満ちた鋭い双眸がおれを射抜く。

「お前にそんなことをさせるために、あの人は犠牲になったのか?」

「…うるせえ!」

 堪らず感情が爆発する。衝動的に日比野の胸ぐらを掴み返す。

「さっきから黙って聴いてりゃ言いたい放題言いやがって! お前におれの何がわかるっていうんだよ…!」

 おれには居場所がなかった。おれにはバスケットしかなかった。表の世界はおれからそさえも奪おうとした。世界はおれを追い詰めるだけの存在だった。だから選んだ。選ばざるを得なかった。例えそこが仄暗く、欺瞞と悪意に満ち、世間から疎まれている場所であっても――おれがおれであるために。おれがプレイをし続けるために。

 場所にも才能にも恵まれたお前に、そこにしか生きる居場所がない人間の気持ちがわかってたまるか!

「わかりたくもないね。チキン野郎の心情なんざ」

 切り捨てるように日比野は言った。おれの感情の爆発など微塵も意にも介さない。

「現状が全てだ。お前の泣き言なんざクソほどの価値もない。仮に言い繕ったとして、何か変わるのか? このくそったれた現実が」

 反射的に拳を振り上げた。殴ろうとした――できなかった。虚仮にされた報復をしろと猛り狂うおれを押さえつけて、これ以上恥の上塗りをするつもりか、と冷静なおれが言う。

 束の間の逡巡は、左頬から突き抜けた衝撃に吹き飛ばされた。日比野の右フックがおれの頬を打ち抜いていた。

 たたらを踏むおれに、日比野は挑発するように中指でかかってこいとジェスチャーする。

「こ…の野郎!」

 日比野の反撃で完全にスイッチが入った。冷静なおれは怒りの業火に炙られ、あっという間に蒸発する。

「偉そうなこと抜かしてやがるがな!」

 日比野の頬に左フックを叩き込み、感情のままに叫ぶ。

「お前だってアンダーグラウンドでプレイしてたんだろうが!! 雑魚相手に荒らし屋までやって、あげくに廣瀬たちと手まで組みやがったくせによ…! おれとお前、何が違うっていうんだよ!」

 もう一発、今度は右ストレートをお見舞いしようとして躱された。日比野の右フックがおれの左頬にめり込む。口の中が切れ、血の味が広がった。

「一緒にするなよ」

 抑えききれない感情を口端に零しながら、日比野が静かに声を荒げる。

「俺がアンダーグラウンドでプレイしていたのは、荒木さんをあんなメに遭わせた賭バスケなんてふざけたものをぶっ潰すためだ。そのための手段でしかないんだよ。『SPIKY』も…バスケもな! 逃げる理由に使ったお前と俺を同列で語るな…! 反吐が出る」

「ハッ…! 鉄仮面野郎のくせに珍しく感情丸出しじゃねえか…! 図星突かれて苛立ってんじゃねえのかよ!」

 口に溜まった血を吐き捨て、おれは言い返す。

 殴る。すぐさま殴り返される。もう一度殴り返す。カウンター気味に放たれた日比野の拳が良い角度で顎に入った。おれは思わず膝をついた。

「立てよ」

 上から睥睨して日比野は吐き捨てる。

「バスケじゃ勝てないんだ。喧嘩ぐらい俺に勝ってみろ」

「…上等だ…!」

 おれは立ち上がり、再び拳を握った。

 殴った。殴られた。殴った。蹴り返された。ゲームをそっちのけで、おれたちはひたすら殴り合い続けた。

 日比野の拳は重かった。覚悟が宿った男の拳は、芯までずしんと響く。

 復讐のために光を浴びられる場所から、暗闇が支配する地の底へ。自ら降り立ったその場所で自分の大切なものさえも道具として利用した。たとえそれがドブに突っ込むに等しい行為であったとしても。躊躇うこともせず、ただ目的を遂行するために。いつしか死神と呼ばれるようになり、命の危険は数々あれどそれも顧みず、粛々と復讐を実行し続けてきた。 

 そんな男の覚悟を硬めた拳に比べ、おれの拳の何とみすぼらしいことか。こんなに弱々しかったか? こんなに軽かったか? こんなに薄っぺらかったか? おれが信じた力は一体何だったんだ?

 くそったれ。くそったれ! くそったれ!!

 崩れていく自尊心の恐怖を振り払うように、おれは必死に拳を振るった。

 日比野の拳が頬にめり込んだ。身体がよろめく。倒れてたまるか。ちっぽけなプライドで、抜けそうな膝で踏ん張り、なんとか耐える。

 追撃はなかった。おれも日比野も、呼吸が激しく荒れている。口の中は血だらけ。おれに至っては鼻血まで出ている。

「…全部…」

 喉に血が入り込み、咳き込んだ。血を吐き捨て、おれは声を絞り出す。

「……全部おれのせいだって言うのかよ…!」

 荒れた息の合間からやっと出た言葉は、クソにも劣る言葉だった。追い詰められた人間は本性を見せる。今までおれと対戦してきた奴らがそうだったように。

 ならば、これがおれの本性だ。こんな卑怯な男がおれの本性なのだ。おれはおれに心底愛想を尽かす。

「…自惚れるな。たかだかお前一人の行動で現実がどうにかなってたまるか」

 血が滲んだ口元を拭いながら、日比野は言った。

「お前の暴行事件が荒木さんの事件の引き鉄になったのは確かだ。だが、賭バスケという選択をしたのは他でもない荒木さん自身だ。自業自得ってやつさ。そのことで別にお前を責めるつもりはない」

 日比野の辛辣な態度は、かつての恩師に向かってでさえ変わらない。日比野は己が立てた旗のもと、日比野であり続ける。

「お前が取るべき責任は別にある」日比野は言った。「眼を閉じ、耳を塞いで、起こったことから逃げ続けた責任がな」

「…おれにどうしろって言うんだよ!」

 まるで禅問答だ。答えがどこにあるのかも皆目検討つかない。感情も思考も何もかもがグチャグチャになる。おれを裁きに来ている死神にすら縋りつく始末だ。おれはどこまでもくそったれた存在だった。

 日比野、お前はおれに何を求めている? おれは何をすれば赦される? どうすればこの呪縛から開放される?  おれは断罪の光の中で立ち竦む。この広大な世界で答えはおろか道標すら見当たらない。自分がどこに行くべきなのかもわからない。完璧な迷子だった。

「選べ」

 日比野は言った。

「このまま元通り穴底に戻って溺れ死ぬまでい続けるか。それとも、這い上がって足掻いてでも生きるか」

 虚無の世界に突如示された2つの選択肢。おれは激しく動揺し、絶句する。心臓が早鐘のように脈打つ。そのノッキングの激しさに、思わず吐き気を催す。

 穴グラから這い上がる――つまり、アンダーグラウンドを捨てて日の当たる場所に出ていくということだ。それはきっと、荒木さんが望んだおれの未来。

 だが、それはつまり――。

「……捨てろって……いうのかよ…!」

 喰い縛った歯の隙間から言葉が漏れる。捨てる――想像するだけで恐ろしいまでの虚無感に飲み込まれそうになる。

「言っただろう。お前がそれに拘ったのがすべての始まりだ。その責任は取ってもらうってな」

 死神が死を宣告するように、厳かで無慈悲な口調で日比野は言った。

「……これを…手放したら……」

 視界の隅で何かが揺れる――おれの手が無意識に震えていた。本能が畏れていた。己のアイデンティティの放棄を迫られ、おれの本能が恐怖に戦いていた。

「…おれには……何にもなくなっちまう…!」

「随分都合がいいんだな」日比野は言った。「そのために犠牲になった人たちがいるのに、お前は何も捨てないと?」

 拳の代わりに、ぐうの音も出ないほどの正論がおれの頬を打つ。眼を眇めて、日比野はおれを見据える。

「忠告しておく。お前がそれに拘り続ける以上、またいつか同じことを繰り返すぞ」

 おれは更に強く歯を喰い縛り、拳を握る。強く強く――その存在を確かめるように。まるでガキが何か大事なものを落とさないよう、必死に握るかのように。

 アンダーグラウンド――おれを唯一プレイヤーとしていさせてくれた場所。同時にプレイヤーとしての誇りを奪っていった呪われた場所。

 アンダーグラウンド――そこはおれが得た唯一の居場所。しかし求めていた場所ではない偽りの場所。

 わかっている。おれはもうあの場所には戻れない。もうあそこにおれの居場所はない。もう二度とあそこでプレイすることもない。 

 わかっている。わかっているんだ。気が狂うほどに。

 しかしそれができないのは、おれは畏れているからだ。これを捨てれば、おれは何者でもなくなってしまう。ずっと共に生きてきた。今更これがなくなったら、おれはどこにでもいなくていい存在になってしまう。

 世界から弾かれるあの恐怖を、おれはもう二度とは味わいたくなかった。

「…いい加減離してやれよ、それ」

 そう言って、日比野はおれの握り締めた拳に顎をしゃくった。

「強く握り締め過ぎて、もう潰れてちまってる。お前が必死に守ろうとしてきたものと、もうそれは違う」

 日比野の指摘に、はっとして握りしめた自分の拳に眼を向けた。血に塗れた拳は何かを守るように――あるいは世界を拒絶するように、強く堅く閉ざされている。

「大事なものだったんだろ。狂った振りをしてまでも縋りたかったぐらい…。だが、お前は守るために握ったはずの拳を…その中身をいつの間にか利用したんだ。自分の存在を認めてくれない世界に対する捌け口としてな」

 違う! 違う! 違う!!――日比野の言葉を必死に否定する。これは世界に抗うための武器だった! これはおれがおれであるための――!

 何が違う? おれじゃないおれの声が、嘲笑を含んだ声で耳元で囁く。

 何も違わないじゃないか。ほら、お前はこんなに認めてもらいたがっているくせに。

「…あの場所にいて、何か見えたか?」

 何にも見えなかった。見えるはずがなかった。見上げれたそこには天井しかなかった。息苦しかった。溺れそうになっていた。

「あんな場所でどれだけ足掻こうが…どうしようもないことぐらい、本当はお前だってわかっていただろう」

 日比野の言葉が、ひた隠してきたおれの核心を突く。曝け出された心の叫び声が聴こえる。

 こんな場所はもう厭だ。おれはただ、自由にプレイしたかった。大好きなものを共有できる仲間が欲しかった。それだけだった。ただそれだけだったのに――。

 どうしておれは道を間違えた?

 塞ぎ続けた耳が聴いた声――身体から一気に力が抜けた。虚勢で作り上げた虚像のおれが今、音を立てて崩れ落ちていく。

「…おれは…」

 言葉に詰まる。おれの中で魂が悲鳴をあげていた。犯したすべての罪に懺悔をしていた。今すぐこの場から消えてしまいたかった。世界はそれを赦してくれなかった。愚かな獣は檻の隙間から引きずり出され、その醜態を晒される罰を与えられた。

「お前の道だ。好きに選べ」

 日比野は言った。

 喉元に突きつけられた選択――おれにとってはどちらを選んでも待ち受けるは地獄の選択。 

 世界はおれを選ばなかったくせに、世界はおれに選択を迫る。好きな地獄を選べと迫ってくる。

「…お前の知らなかった真実を知ってなお、あの場所に戻るって言うならもう止めはしない。好きにしろよ。だが、もし這い上がってくるっていうんなら…」 

 日比野は足元に転がっているボールを拾い上げた。

「あの時の借りもある。…お前の掌が空になるまで、つき合ってやる」

 その言葉を最後に、日比野は口を噤んだ。死神は静かにおれの判断を待っている。

 おれは握り締めた自分の拳を見つめた。

 おれはおれの罪を精算するために、この掌を空けなければならない。今握りしめているものを手放さなければならない。

 果たして、おれにそんなことができるのか?――おれはおれの魂に問う。

「…ボールを……くれ」

 葛藤の中、辛うじておれは言った。日比野は何も言わずに、ボールを放って寄越した。

 おれは受け取ったボールを両手で握り締めた。想像以上の苦渋に歯を喰い縛る。気を抜くと呻き声が漏れそうだった。

 バスケットボール――これはおれの全てだった。独りだったおれを救ってくれた。おれのアイデンティティだった。おれがおれであるために必要なものだった。だが、同時にそれが全てを狂わせた。おれが狂わせてしまった。

 こんなに大事なものだったはずのに。こんなにもおれを救ってきてくれたものなのに。

 なのに、おれはお前を傷つけてしかいなかったんだな。

 いい加減愛想が尽きたよな。もう顔も見たくないかも知れない。見放してくれてもいい。だけど、あと一回――一回だけおれにつき合ってくれよ。

 これで最後だから。

 おれはゆっくりと眼を開けた。

 視界に映るは日比野――最後の相手が死神だなんて、でき過ぎた話で笑っちまう。

「…決心はついたか?」

 死神は言った。

 おれは己の覚悟を確かめるように、ゆっくりと頷いた。

 手放そう。この呪いの連鎖の元をここで断ち切るのだ。その結果、たとえおれがおれでなくなったとしても――もうこれ以上、おれのせいでおれの大切な人たちが傷つくのを見たくはない。

 ラストゲームだ、派手に暴れようぜ――おれはいつものように身体に語りかける。僅かだが、今まで沈黙を貫いていた身体が反応した気がした。

「じゃあ、やるか」

 日比野は言った。一瞬笑ったように見えたのは、きっと眼の錯覚だろう。

 日比野は開始線へ戻り、おれを待つ。

 おれは胸に拳を打ちつけ、その奥に巣食う一抹の後悔と恐怖を叩き潰す。

「ああ…やろうぜ」

 おれも開始線へ戻り、日比野と対峙する。

 おれはゆっくりとオフェンスの構えを取った。身体の細胞中から力を集める。おれのすべてを出し切れ。微塵も後悔を残さないように。

「いくぜ」

 おれは言った。

「来い」

 日比野は応えた。

 Are You Ready?

 さあ、最後の勝負を始めようぜ。

 地面を蹴った。風が裂ける音を置き去りに、前へと足を踏み出す。


 おれたちは飽くことなくゲームを繰り返した。

 何度も何度も何度も――おれの掌からくそったれた拘りが零れ落ちる、その瞬間まで。



                   3



「ほらよ」

 おれは自販機で買ったポカリを、ベンチに座っている日比野に放って渡した。

「悪いな」

 一気に飲み干したおれとは対照的に、日比野は一口分だけ口に含み、喉を潤す程度だった。

 全力を出し切り疲労困憊のおれに対して、日比野はまだまだ余力を残していた。

 これが差ってやつか――おれはベンチに乱暴に腰を下ろし、内心で呟く。

「…お前、なんでバスケをやめたんだ?」

 ずっと疑問に思っていたことを、おれは訊いた。

 日比野ほどの才能があって、なぜバスケを続けていないのか不思議だった。日比野のレベルならば、大学プロ問わず引く手数多だったはずだ。

 おれの質問に、日比野は少し考える素振りを見せた。その視線の先では、おれたちと入れ替わりにゲームを始めた大学生っぽい連中が、楽しそうにプレイをしていた。

「…俺には才能がなかった」

 大学生たちのプレイを眺めながら、日比野は呟くように言った。

「…嫌味かオイ」

「まあ聞けよ」

 日比野はペットボトルをベンチに置き、一息ついて続けた。

「仮に俺に才能があったとして、それは他よりちょっとある程度だよ。それこそ身体的なことも含めて言えば、才能だけならお前の方があると思う」

 確かに身体的なことに関しては、日比野よりおれの方が優位だろう。日比野はバスケをするには少し小柄だ。全国では180㎝のおれでも小柄、もしくは普に分類される。たしかに体格的に恵まれている、というのも才能の一種といえばそうだ。

「才能がないって自覚があったから、俺は文字通り死ぬほど練習した。自分で言うのもなんだが、俺は努力でいける限界までいったと思う。インハイにも出られて、自分の力が全国でも通用することがわかった。俺のやってきたことは間違いじゃなかった…そう思った」

 日比野は言った。

 努力を積み重ねて成り立った能力だとしても、プレイヤーとして順風満帆な道だと思った。多くのプレイヤーは全国を夢見ても叶わず、願望と現実の間で藻掻き、自分には届かぬ夢だと諦めていく。

 それに比べれば――「充分じゃねえか」

「でも、届かなかった」断ち切るような口調で、日比野は言った。「いや…正確には違った、というべきかな」

「…何がだ?」

「俺がやっていたのはバスケじゃなかった」

 そう言って、日比野はそこに過去があるかのように、宙の一点を見つめた。

 衝撃的な科白だった。自分がやっていたのは本物のバスケじゃない――まさかその言葉を日比野の口から聴くとは思わなかった。おれは日比野からそれを理解させられた。それと同じように、日比野も誰かから感じてしまったというのか。

「今でも覚えてるよ。高3の国体で対戦した。本物のバスケをやっているヤツに」

 ピンと来た。高3の国体――おそらく秋田のPGのことだろう。

「圧倒的だった。あれこそが本当の才能と言うんだろうな」

 おれも覚えている。特別速いわけじゃなかった。特別高く飛べるわけでもなかった。身長は日比野とそんなに変わらなかった。だが、誰も秋田のPGを止められなかった。そのプレイはまるで魔法のようだった。

「あいつのプレイに比べれば、俺のやっていたことなんてただの玉遊びでしかなかった」

 日比野は昔を懐かしむような口調だった。嫉妬や悔しさといった感情はそこにはなかった。

 確かに秋田のPGは、まさに天才と呼ぶに相応しい才能と実力を持ち合わせていた。しかし、おれの眼からでは日比野も遜色はないように思った。当時でも差は確かにあったが、未来永劫追いつけないというほどの差があっただろうか。おれにはわからない。天才は天才を知るというが、ある程度のレベルに達しなければ気づけない差というものは確かに存在する。 

 おれが気づいてしまった、日比野との埋め難い差のように。

「まさに別次元ってやつさ。積み上げてきた自信もプライドも、何もかも見事にブチ壊された。俺にはどうやってもあそこに行けない。理屈じゃない。本能的に理解しちまったんだ」

 意外な告白だった。日比野は選ばれた側の人間だと思っていた。そうじゃなかった。日比野もまた、選ばれなかった側の人間だった。おれたちと同じように。

「俺の自信を木っ端微塵にしてくれたヤツは、高校卒業後すぐに渡米して、アメリカに挑んだ。それは知っているか?」

 おれは頷いた。それも覚えている。高校9冠を達成した天才がNBAに挑戦!――そんな見出しでスポーツ紙を始め、日本で相当話題になった覚えがある。

「確かそれ…」

 記憶を探りながら言ったおれに、日比野は「ああ」と相槌を打った。

「向こうじゃ通用しなかった。2部リーグの下位チームでレギュラーを穫れるかどうかってところさ。信じられるか? 俺たちの手が届かないレベルにいるヤツがいて、そいつが手も足も出ないレベルの世界があって…更にその世界の連中でさえ通用しない世界が上にあるんだ」

 アメリカ――世界最高峰のバスケットがある国。

 アメリカ――コートの中に“神”が実在した国。

 アメリカ――完全無欠の能力社会の国。人の夢の残骸でできた国。

「……厭になるぜ。上に行けば行くほど、その高さを思い知らされる」

 そう言って日比野は空を見上げた。

 おれから見れば、日比野も才能に満ち溢れたプレイヤーだ。おれが出会った中で最強のプレイヤーだ。その日比野ですら敵わなかったプレイヤーが通用しない世界があるという現実。

 おれはようやく理解した。

 そんな一握りの選ばれた人間のみが生き残れる過酷な世界に、もともとおれの居場所などあるわけがなかったのだ。

 世界は広い。現実は恐ろしい。そして真実は常に残酷だ。

「…たまんねえな」

 見上げた空に、自虐的な笑いが漏れる。 

「掴めると……思ったんだけどな」

 日比野は空に向かって手を伸ばした。その仕草はまるで、自分はここにいると誰かに存在を示しているようにも見えた。

「それでやめたのか…」

「…ああ。割り切ってしまえば……割り切って、ごまかして、適当にやれれば楽だったのに…」 

 日比野は苦痛に耐えるように顔を歪ませ、見つめていた掌を握り締めた。

「……この手に残る感触が、割り切ることを赦してくれなかった…!」

 記憶は――想いは時に身体を縛りつける呪いになる。それに掛けた時間が多ければ多いほど、それにかけた情熱が強ければ強いほど、それを失った時に発動するその呪いは、強く人を縛る。それは深い深い穴に似ている。何か代わりで埋めようとしても埋まってくれない。余計にその穴の深さ徒に際立たせ、心を掻き乱させる。

 日比野は今でも、その呪いの呪縛から抜けだせずに足掻いている。

 おれだけじゃなかった。誰もが何かの呪縛に囚われ、このくそったれた現実を生きている。

「それで…お前はどうしたんだ」

 おれは訊いた。その呪いを抱えたまま、日比野はどう生きてきたのだろうか。バスケにかけていた熱量をどうやって処理してきたのだろうか。その解消方法を知りたかった。何かで発散させなければ、この熱は確実におれを蝕んでいく。何でもいいからヒントが欲しかった。

 日比野は自分を落ち着かせるように軽く息を吐くと、おもむろに脇に置いていた自分の鞄を引き寄せた。

 鞄から取り出したものは、一眼レフのカメラだった。

「俺の羽根じゃ届かなかった。だったら、別の方法で掴むまでだ」

 日比野はそう言って新しい鉄の羽根を撫で、照れくさそうに少し――ほんの少しだけ、笑った。

 初めて垣間見せた素の日比野の表情は、どこにでもいる普通の男だった。荒らし屋でも死神でも元神奈川のエースプレイヤーでもなく――生身の日比野という男がそこにいた。

 急に実感を伴ったその感覚に戸惑いながらも、だがそんな日比野が眩しくて、おれは眼を逸らした。

「お前も何か見つけろよ。…代わりになるもの」

 カメラを置きながら、日比野は言った。

「…そんな都合よく見つかるかよ」

 おれは顔を背けたまま、舌打ち混じりに言った。我ながらまるで拗ねたガキみたいな言い草に、また舌打ちが出る。

「見つけるんだよ」

 そう返す日比野の声は力強かった。

「待っていたって誰も何も与えてくれない。だから、自分から取りに行くしかない。例えそれが人が理解できないような獣道であったとしてもな」

「…端から前途多難だな」

「そんなもんさ、俺たちは」

 日比野はおもむろに腰のドリームキャッチャーを外し、おれに投げてよこした。

「なんだよコレ?」

「荒木さんが持ってたやつだ。お前が捕まったときに買ったんだとさ」

 荒木さんの? おれはドリームキャッチャーを眼の高さまで持ち上げ、眺めた。

 ドリームキャッチャー――悪夢を追い払うと言われるインディアンの魔除けのお守り。荒木さんはこのお守りにどんな願いを込めたのだろうか。

「…どうしておれに?」

 おれは訊いた。これは日比野にとっても大事なものであるはずだ。

「…さあな。ただ、お前が持ってるべきだと思った。それだけだ」

 おれは手の中のドリームキャッチャーを握り締め、思いを馳せた。荒木さんが払いたかった悪夢。荒木さんが守りたかったおれの未来。

 こんな小さな装飾品に背負わすほど軽かねえだろ、荒木さん。

 記憶の中の荒木さんにそう言い、おれは少し笑う。

「…悪い夢は……終わりだ」

 日比野が誰ともなく言った。

 日比野――おれは心の裡で語りかける。

 お前は間違いなく死神だった。アンダーグラウンドのではでなく、おれにとっても死神だった。今までのおれを殺しにきた死神。閉じこもったおれの世界を壊しにきた死神。お前とあの日出会わなかったら、おれはあの暗闇の底で、外の世界を羨みながらくたばるしかなかった。

 皮肉なもんだ、と笑う。溺れそうになつて、誰かに見つけて欲しくてあげた手。それを掴んだのが、まさか死神だったなんて。

「……悪かった」

 おれは言った。

「何がだ」

「…全部お前の言うとおりだ。おれは自分の弱さを認めたくなくて、何もかも見ないふりして…あの場所に逃げた」

 心のどこかではそれが間違いだってわかつていても、そこから動くことも――その勇気すらもなかつた。

 それが――おれの罪。

「…ちゃんと生きてみるよ…ここで」

 おれを拒絶したこの世界で。おれが拒絶したこの現実の中で。

「おれを救おうとしてくれた荒木さんのためにも」

 そして――きっとこれがおれの贖罪。

 これが正解なのかなんてわからない。これが穴の出口かどうかもわからない。

 でも少しだけ――穴を這い上がる取っ掛かりに指が触れた感覚があった。

 惨めでも無様でも、まっとうな世界でまっとうに生きる。それがおれのような人間にとってどれだけ難しく厳しいかは想像に難くない。だが、這い蹲ってでも生き抜くんだ。

 逃げることは、もう、赦されない。

「…最初にお前に会った時」

 日比野は静かに口を開いた。

「あの人が命を賭けてまで守ろうとした理由がわからなかった。『GARDEN』と一緒にぶっ潰してやろうと思った。……でもお前と対戦して…まだ生きてるんだとわかった。あの人たちから受け継いだ魂みたいなものが。お前が立ち上がってきたあの時…一瞬お前と荒木さんがダブって見えたよ」

 日比野はおれの胸に拳を打ちつけた。

「俺たちは別に仲間じゃない。お前の言葉を今すぐ鵜呑みにするほど、俺もお人好しじゃない。でも――」打ちつけた拳で胸を軽く小突く。「ここにある、その存在だけは信じてやる」

 日比野の拳から伝わる魂の鼓動に、おれの魂が呼応して震える。その魂におれは聖なる誓いを立てる。その誓いは、もう二度と揺るがせない。

「さて、と…」

 日比野は拳を胸から離したかと思うと、今度は勢いをつけて叩きつけてきた。不意を疲れ、衝撃に思わず噎せてしまった。

「…て、めえ!」

 胸を押さえて咳き込むおれを余所に、日比野はベンチから立ち上がった。

「貸しておいてやるよ。返したくなったらいつでも来い」

 日比野は言った。

 おれは胸をさすり、舌打ちした。

「…おう、わかった。借りておいてやるよ」

 日比野なりの約束手形――だからおれはそれを受け取ることにした。

 おれはもう、日比野との勝負には拘っていない。そんな必要はもうなくなった。おれの掌はもう空っぽだ。なんでも掴める。なんでも拾える。骸の羽根だけど、どこにだって飛んでいける。

 もし、おれが新しい何かを掴む時がきたら――その時、この借りを返しに行こう。

「じゃあ、そろそろ俺は行く」

 日比野は言った。

「ああ…。一応、まだ周りには注意しておけよ。『GARDEN』はなくなっちまったけど…お前の場合恨んでいる奴は他にもいるだろうからな。どこで誰が狙っているかわからねえ」

 日比野は小さく頷いた。

「…わかってる。…お前も気をつけろ」

「誰に言っているんだよ」

 おれは鼻で笑い飛ばすように言った。

「それと…」日比野は言った。「たまには中村さんのところに顔を出してやれ。お前のことを今一番心配しているのは、間違いなくあの人だ」

 おれは驚いて日比野を見た。おれの内心を察して、日比野は軽くため息を吐いた。

「何言われたかはだいたい想像つくが、それがすべてじゃないだろ。角突き合わせて初めてわかることがあるように、同じくらいわからないものもあるさ。何かが見えているときは、見えてない部分に眼を凝らせ……ってな。昔あの人に教えられたよ。……お互い、まだ本音をぶつけあったわけじゃないだろ?」

 日比野はそう言い、「じゃあな」と歩き出した。

「日比野!」

 反射的に日比野を呼び止めた。日比野は足を止め、振り返った。

「…次に会う時まで、くたばるんじゃねえぞ」

 おれは言った。日比野は小さく鼻で笑った。

「お互いにな」

 日比野は後ろ手で手を振り、再び歩き出す。

 おれは去っていくその背中を眼に焼きつける。己の信念を背負って生きてきた誇り高く孤高な背中を――いつかあの背中に追いつき、横に並べる日がくるまで。

 不意に思い出し、おれはポケットをまさぐった。

 取り出したのは、日比野と対戦した時に拾ったドリームキャッチャーの羽根だった。

 おれはその羽根を見つめながら、もしかしたら荒木さんがおれと日比野を引きあわせたのかもしれないと、馬鹿みたいな妄想に暫し耽る。

 突然上空に向かって巻き起こった風に、羽根は巻き上げられて飛んで行く。その羽根に誘われるように、おれは空を見上げた。

 いつ以来だろうか。こうして空を見たのは。

 おれは空を見上げたまま、ベンチへ寝そべった。

 眼前に広がる空は狂おしいほど青く雄大で、そして寒気がするほど高かった。

 おれは手を伸ばした。地の底にいた時よりは、少しは届きそうな気がした。


                   ☠


 おれは国道をバイクでひた走る。もう一度中村さんの病院へ向かっていた。

 昨日会ったのはおれの意志じゃない。流されるままに辿り着き、そして現実を知って、また逃げた。だから己の意志でもう一度会い、けじめをつけなければならない。もう一度現実と向き合わなければならない。

 そこからやり直すんだ。この現実を。

 五反田の高架線を超えた辺りで、バイクの振動とは別の振動に気づいた。ポケットの中――携帯電話。 

 おれはバイクを路肩に寄せ、急停止して電話をとった。番号は非通知だった。

 おれの番号を知っている人間は限られている。同時に黒ツナギや山添の顔が脳裏にチラつく。もしかしたらという思いと、膨らむ警戒心がせめぎ合う。

 一瞬迷ったが、おれは通話ボタンを押した。

「…もしもし」

「今どこにいる?」

 電話の主はそう言った。

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