第2話 第2Q:The Wild Wind & Trickster


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 いつもと同じコート。いつもと同じ薄暗い照明。いつもと同じガンジャと体臭の入り混じった臭い。いつもと同じ空気。違うと感じるのは、おれの心境のせいだ。

 Dead Or Alive.

 今日のゲームにキャッチフレーズをつけるんなら、その一言に尽きる。

 高みの見物を決め込んだ顔でお手並み拝見といった具合の視線を、藤堂はさっきからずっとおれに注いでいる。ギャラリーはすでにスイッチが入り、興奮状態にある。『GARDEN』の掃除屋であり現在№1プレイヤーのおれと、突如現れた冥界よりの使者、テクニシャン日比野。忠誠心も義理もないギャラリーにとっては、実に興味をそそられるマッチメイクだ。今日の配当はおそらく過去最大のテイク・バックになるだろう。今宵も闇夜に金とドラッグが舞う。

おれはボールを手の中で転がした。逸る気持ちを抑え、集中力を徐々に研ぐ。しくじれば――そんな恐怖は身体が喚く声に比べれば屁でもない。

 身体は叫ぶ――いつも以上に大きい声で。

 身体はせっつく――早く喰わせろと。

 わかってる。もう少し待てよ。まだ相手も来ちゃいないだろう? おれが諭す声はあっけなく跳ねつけられる。

 日比野を渋谷で見かけたと連絡があってそろそろ30分が経つ。奴はまだ姿を現わさない。ただ単にふらついていただけかもしれないという大方の予想意見を振り切って、おれは準備を開始した。日比野は神奈川出身。単に渋谷をふらついていた、ということも有り得なくもなかったが、おれの勘は日比野の来訪を告げていた。おれはおれの勘を信じている。他が何も信じられなくても――他が何も信じられないからこそ、おれはおれの感覚を信じている。

 ボールを真上に放り投げた。高く舞い上がったボールを追い、おれは天井を仰ぐ。ボールに遮られて、光が上手く見えなかった。

 落下してきたボールの横っ腹を叩くように乱暴にキャッチした。その時、入り口の扉が音を立てて開いた。

全員の視線が入り口に吸い寄せられた。開いた扉の向こう――いつものように全身黒ずくめの日比野が立っていた。

「おれの勝ちだ」と誰ともなく呟く。

 自分に向けられた野卑と好奇に満ちた眼差しに、日比野は一瞬怪訝な顔をした。その眼がぐるりと巡っておれで止まる。理知的な光を宿す三白眼が僅か瞠られる。ようやくお前の視界に入った。おれは挑発するように真っ正面から見返してやった。日比野の眼が眇められ、鋭さを帯びる。鋭利に尖った氷のナイフ。斬りつけられたらどんな感触がするんだろう。それも時期、わかる。

日比野は五代に顔を向け、眼で問う。五代は横柄にフープへ顎をしゃくった。藤堂はその横でガンジャを吹かしていた。頬杖をつき、射抜くような瞳を日比野に据えていた。口元に讃えた微笑みがそら恐ろしい。古代コロッセオの余興に出ていく罪人を見下ろす支配者のようだ。日比野は状況を理解し、再びフープに顔を戻した。 

 煙草やガンジャの吸い殻や飲み干された酒の缶や埃で彩られたゴミの花道を、日比野は脇目もふらず真っ直ぐコートへ向かって歩いてくる。ギャラリーはその姿を黙って見送る。何もかもが異例尽くしだ。

 フープへ日比野が入った途端、痺れを切らした外野がさっきと打って変わって騒ぎ始めた。やかましさに日比野は周りに眼を巡らせる。異様な熱狂振り――これから始めるサバトの生け贄に興奮でもしているのだろう。常軌を逸したテンションに、目に見えて日比野が警戒を強めるのがわかった。

「心配すんな」おれは言った。「別に取って喰おうってワケじゃねえ。この中にいる限り奴らは手出しできねえよ」

もっとも、目の前にいるのは猛獣並に危険な相手だけどな、と心の中でつけ加える。

「どうだかな…」 

 日比野は猜疑心の塊のような眼で、見下すように言った。

「…お前が今日の相手か?」

いつもと違う雰囲気に気づいてはいても、それをおくびにも出さない。大胆不敵。中性的な顔に似合わず、相当肝が据わっている。

「見りゃわかんだろ? 飴でも売ってるように見えんのかよ」

 呆れたように、日比野は短く息を吐く。

「しかし元神奈川代表のエースが随分と堕ちたもんだな」

 おれの発した言葉に、弾かれたように日比野は顔を向けた。初めて反応らしい反応を見せた。

「…お前」

 おれを探るように、眼が細められる。眼光はまるで槍のように鋭く、切れる。

「おれも昔そっち側だったんだよ。やんごとなき事情ってヤツでドロップ・アウトしたけどな」

おれは言った。日比野は今度は大した反応は見せなかった。が、瞳に僅かに光った感情があった。蔑んだような、馬鹿にしたような。そしてそれ以上に  。おれに馴染みの感情。それでも、違和感を覚えた。微かだが、本当に微かでしかなかったが、そこには確かに憎しみとも怒りともつかない負の感情が存在していた。イメージがズレる。やはり、おれが知っている日比野とは何かが違う。

 気づく。これは「閉じた」人間の姿だ。世間や社会、人との関わりを断絶した人間の。そう、あるいはそれは――おれたちのような。

「お前に何か関係あるのか?」

 感情が一切こもっていない氷のような声で、日比野は言った。まるでロボットだ。人間はここまで無感情になれるものなのかと妙な関心をしてしまう。

「いや? ただの興味本位だ。将来をあれほど有望視された選手がこんなところにいれば、誰だって興味のひとつやふたつ持つだろ?」

 あの国体以来、世間の日比野への関心は当然高まった。暫くはそれ専門の月刊誌でピックアップ特集などが組まれるほどだった。全国の注目選手たち――そんな題目だったような覚えがある。日比野は毎回のように、これから将来にかけての最注目選手と謳われ、その才能を絶賛されていた。

 そんなプレイヤーがここに至った理由を、おれは訊きたい。知ったからといって何がどうなるワケでもない。ただ知りたい。それだけだ。

「答える義理はない」

厭世的な深い溜息を漏らし、吐き捨てるように日比野は言った。

「なら賭けをしようか」

 おれは言った。

「おれが勝てば理由を話す。どうだ?」

「なぜそんなことをしなきゃならない」

「ここは賭場だ。賭けをするにはこれ以上もってこいの場所はないだろう?」

「ほざいてろ。どうせいつものようにまともに勝負をする気なんざないくせに――」

「するさ」

 日比野の言葉に被せるように、おれは言った。

 日比野がおれを射抜くように見据えた。ここにいる連中の言葉など信じるに値しない。そんな眼をしていた。日比野は正しい。アンダーグラウンドで――いや、この世界で生き抜いていくには、他人を信じちゃいけない。それが処世術だ。御託や建前で築かれる実のない繋がり。正直者は馬鹿を見る。信じる者は救われない。そんな世の中。おれは知っている。おれだけでなく、誰もが知っている。どれだけ世界が汚れているかを。どれだけ現実がクソなのかを。

「――誰にも邪魔はさせねえ。このゲームだけは」

しかし今この瞬間だけは、おれの言葉に嘘はない。どれだけ世界がクソに塗れていようとも。どれだけの欺瞞が世界に渦巻いていようとも。それを超越させるだけの意志を込め、おれは嘘偽りない本心をここに宣言する。

 この茶色の合成革のボールと、見上げたそこにリングがあれば。それだけでその場所は紛れもない真実の世界になる。

 そう、おれにとっては。

 おれはボールを鷲掴み、日比野に向かって突き出し、言った。

「お前はおれの獲物だ」

これは宣戦布告だ。おれから日比野への――婉曲した時間を流れた末に辿り着いた場所で、ようやく叩きつけることのできた、アウトローから正統派への挑戦状なのだ。


                   ☠


 コイントス――五代が弾いたコインが宙に舞う。

「裏」――おれ。

「表」――日比野。

五代が甲と掌でコインを挟み込む。被せた手をのける。コインは裏だった。

 おれは指でボールを寄越せと五代に催促した。五代は何か思案げな顔でおれにボールを放った。

 受け取ったボールを右手人差し指に乗せ、スピンをかけて廻す。

 ボールはまるで独立した存在であるということを主張するかのように、くるくると普遍的な回転を繰り返す。

 五代が日比野を忌々しく一瞥し、コートから出ていく。五代がフープから出たのをきっかけに、金網の外から地から這い出るようなギャラリーの喚声が響き出した。期待と興奮に膨らむ声。腹を空かせた地獄の餓鬼どもの飢えたよがり声が快楽を求めて漂う。すでにガンジャの匂いが充満している。テンションが高過ぎる。ゲームが始まったら、連中の何人かは頭に血が上りすぎてくたばるかもしれない。

「何を企んでいる?」

 猜疑心の塊のような声で、ボールとじゃれているおれに日比野は言った。

「勘繰り過ぎだ。別に何もねえよ」

 おれは右手から左人差し指にボールを移動させた。成功。どうやら今日のおれはすこぶる調子がいいようだ。いつも以上にボールコントロールがスムーズに行える。

 日比野が懐疑的なのは、今日のゲームのルールのせいだ。今日のルールは通常の得点の倍掛け、21P先取のリバウンドなし。至って普通のゲームルール。当然の如く、ハンデもない。余計な小細工は全て取っ払って、シンプルに力と力をぶつけ合える環境を望んだ。藤堂は渋ったが、それでも了承したのはおれに勝負を一任した手前断るに断れなかったのだろう。おれの性格もそういう経緯を知らない日比野が、過去の経験から訝しむのも当たり前といえば当たり前だ。今まで散々卑怯な  ここではそれも正攻法だが  手を取られてきたのだ。疑うなと言う方が無理がある。

 指から甲に滑らせ、ボールのケツを叩く。ボールが宙に浮き上がる。サッカーのリフティングのように、額でボールを受け止める。

 日比野を安心させるために言った言葉も、余計に野郎の猜疑心を煽っただけのようだ。ブレない瞳が真実を探る。意志の強さを示す光りが眼の奥で輝く。その双眸  おれの中にある何かを刺激して止まない。おれを酷く苛立たせる。

「必要ないんだよ、ハンデなんて」

 苛つきが言葉へと変わる。ボールを何度かヘディングしたあと、肩に乗せ、また弾いて右手に戻す。

「そんなマネしなくても、おれが勝つ」

 日比野の眉がピクリと跳ねた。が、それも一瞬のことで、すぐまた元のポーカーフェイスに戻る。

「見た目通りのビッグマウスだな」

 揶揄を含んだ口調で日比野は言った。

「おれは今まで敗けたことがないんでな」

 同じようにおれも言った。

 嘘ではない。ガキの頃を別にしての話になるが、『GARDEN』でもそうだし、高校に入ってからこっち、公式の試合でもおれは敗けたことがなかった。チームの敗北=おれの敗北、などというくそったれの連帯感はおれにはなかった。持つことができなかった。仲間意識などという本来持つべき精神は、おれにとってやはり奇麗事の戯れ言でしかなかった。

「お前だって似たようなもんだろ?」

 ボールの動きを眼で追う日比野に言った。

「一緒にするな」

 素っ気ない返事――しかし表情は嫌悪を顕にしている。

「嫌いなんだよ。あれこれ制約に縛られるのは」おれは言った。「バスケってただでさえルール細かくて多いのに、これ以上何やかんやウザッたい足枷なんかつけたくないんだよ。楽しめないだろ、それじゃ。折角身体張ってるんだ。シンプルにやろうぜ、シンプルに。ガチンコのタイマン、それが勝負の基本だ。お前もそう思うだろ?」

「思わない。一人で勝手に楽しんでろ」

 突き放すような口調だった。態度からしてどうでもいいと言っている。

「つれねえな。じゃあ一体何が楽しくて賭場を荒らし回ってるんだ? 教えてくれよ」

 再び指先でボールを廻し、日比野の反応を窺った。黙殺。自分の正体がバレていることにすら、日比野に動揺は微塵もなかった。公言するつもりはないが、隠すつもりもない。予想通りの反応だった。

「楽しくてこんなことをしているのか、こんなことをしているから楽しくないのか……どっちなんだろうな? なあ、荒らし屋さんよ」

「お前には関係ない」

 もう何度目になるのか、同じセリフを口にし、日比野は何処かに眼をやった。おれは肩を竦めた。

「ま、いいけどな別に。そこら辺の理由は何でも」

 ボールを高く上空へ押し上げた。ボールを追い、顔を上げた。日比野もボールを眼で追っていた。

「おれがお前を喰うのに、大して関係ねえ」

 おれの発言にプライででも刺激されたのか、日比野が貫くような険しい眼でおれを見た。

 広げた手に目掛けて、仕返しとばかりにスピンしたボールが重力を利用して突進してくる。散々犬みたいに掌でじゃれ暴れたあと、ボールはピタリと動きを止めた。どうやら出番が来るまで大人しく待つことにしたようだ。

「寝言にしては眼が開きすぎているな」日比野は眼をフープの外へ向けた。「飼われている奴がどれだけ粋がろうが、所詮程度は知れている」

 目線を追った。その先には藤堂がいた。底光りする瞳がおれたちを映し出していた。日比野は平然と睨み返している。呪詛が溢れた瞳と視線を絡ませて尚、日比野は臆することがなかった。暫しの睨み合い――不意におれにスライドした。わかっているな? 口を開いたワケでもないのに、藤堂の双眸から放たれる呪詛が直接おれの脳に語りかけてくる。そんな錯覚に陥る。舌打ちをして眼を外した。見続けていると藤堂の呪詛に侵されそうな気がしてくる。わかっている。声にせず、口の中で噛み砕いた。

 わかっている。誰よりもわかっている。言われるまでもない。敗北は赦されない。おれはおれのために、この勝負は落とせない。

「吠えるのは大いに結構だが、俺とやり合いたいならせめて首輪ぐらい外してこい」

 自分の喉元を中指で軽く叩き、日比野は言った。

「飼われてるワケじゃねえ。お互いに利害一致で契約しているだけだ。間違えんな」

「自覚がないというのはある意味罪だな」

 ため混じりに続く挑発。おれは鋭く睨みつけ、舌打ちをした。

「ほざいてろ。おれがただの飼い犬かどうか、身体でわからせてやる」

 おれはジーパンのポケットからリストバンドを取り出した。昔名残のジンクス  大事な試合の時はいつも、必ずリストバンドを右手首に嵌めていた。褪せた過去の残滓。今になってもそれはおれの中で根強く残っている。

「何をニヤついている?」

 日比野が怪訝そうに言った。言われて気づいた。おれは知らず知らずの内に頬を緩めていた。端から見ればただの危ない奴に見える。しかし引き締めようと思っても、頬の弛みはすぐには戻りそうになかった。

 緩む頬  それもそのはずだ。楽しみで仕方がなかった。待ち遠しかった。合図を待たず、今すぐにでも開始したかった。待ち望んだ対戦がここまでおれの気分を高揚させるとは、想像以上だった。身体はいつもよりもずっと大きな声で喚く。抑えきれない衝動と逸る鼓動で心臓が痛い。今度ばかりはハズレじゃない。この眼で確認した。本気を――今までずっと出せなかった全力を、封印し誤魔化し続けてきた本領を、この男になら解放できる。この男なら受け止められる。おれの渇きを癒してくれる。期待するなという方が無理だった。

 今のおれはお預けを喰らっている犬そのものだった。目の前の皿には大好物、最高級の肉が載っかっている。涎が出る。長らく続いた空腹を癒せる時が、ついに来たのだ。

「別に何でもねえよ。…さて、そろそろお喋りは止めて始めるか」

 おれは言った。日比野は短く息を吐き、首の骨を鳴らした。

 遠くから藤堂の視線を感じる。わかっているな視線はそう言っている。おれに無言のプレッシャーをかけてくる。

 しらねえよくそったれ、と内心で吐き捨てる。肚はとっくに決まっていた。敗けるかもしれない。そんな仮定なんざクソ喰らえだ。

おれは、今この瞬間を思う存分満喫したいんだ。

リストバンドを右手首に嵌め、ついでにチュッパチャップスコーラ味を口に含んだ。

「せいぜいおれを楽しませてくれよ、元エース」

 その言葉に反応するように、日比野は感情を殺した一瞥でおれを見据え、言う。

「…雑魚に構っている暇はないんでね。すぐに終わらせる」

「ハッ! 上等だ。吐いた唾呑むなよ」

 頃合いだ。藤堂が五代に頷いて合図を送る。五代は手を挙げ、ブザー代わりのスチールドラムの前にいるB・BOYスタイルの男に開始を促した。

 “夢喰い”――『GARDEN』で知らぬ間についていた渾名。『GARDEN』には色んな奴がやって来る。欲望に忠実な夢を持ったロクデナシ共が。おれはそんな奴らの夢を喰い散らかし、生きている。黒い世界で黒い夢を喰らうのがおれの仕事であり生き甲斐なのだ。

「腹が減ったぜ」

 舌舐めずりした獣の本性が顔を覗かせる。野卑な欲望が身体を支配する。これがおれなのだと自覚する瞬間だ。

「“死神お前”の夢はどんな味がするんだろうな」 

 B・BOYが手に持った棍棒を思い切りスチールドラムに叩きつける。

 割れたようなこもったような金属音が鳴り響く。ゲームスタートの合図。爆発するような喚声が一気に弾ける。

それを境におれの世界は急速に狭まり、外界をシャット・アウトする。閉じた世界。失われた色。モノトーンの光景。漆黒の風。極限まで研ぎ澄まされた集中力が織り成す黒の世界。これがおれの世界だ。おれだけが立ち入ることを許された、おれの居場所だ。

 あれだけやかましかった声ももう聞こえない。必要な物だけをセンサーとなった瞳が捉える。おれが選別できる。ここに残れるのはおれにとって必要なものだけ。

 リング。ボール。コート。ライン。そして――日比野。

 ようこそ、おれの世界へ。

 ボールを腕ごと垂らし、おれは構えた。日比野もそれに倣い、腰を低く落としスタンスを開く。ディフェンスの基本姿勢。いい構えだ。距離も申し分ない。それひとつで日比野のレベルがよくわかる。

「最後にひとつだけ訊く」

 日比野はおれの動向に細心の注意を払いつつ、言った。

「お前は何のためにここにいる?」

 何のためにここに?――『GARDEN』のことか。それともこの世界のことか。どっちとも取れる言葉。だからおれはどっちともに取れる答えを返す。

「決まってるだろ」 

 内から迸る衝動――まるで台風のような衝動がおれ中で巻き起こる。足の下に溜まったエネルギーが爆発する。

「これがおれのアイデンティティーだからだ!」

 足許で風の塊が弾ける。爆風に似たそれがおれを前へと押し出す。疾風を纏った身体で、おれは駆け出す。

 スピードが全身を突き抜けた。


                   ☠


レイアップがネットを揺らした。

 一歩目で並んだ。二歩目で回り込んだ。過去最高のスピードでおれは日比野を置き去りにした。 

日比野に油断も慢心もなかった。だが予想以上だったおれのスピードに虚を突かれ、反応が若干遅れた。コンマ何秒の遅れ。集中力が極限にまで高まったおれには、抜き去るには充分な時間だった。

 スイッチが切り替わるように、おれの世界が消えた。初っ端からこの感覚に陥れるのは珍しい。初めての経験かもしれない。いつもはゲーム中盤以降、通り魔のように突然おれに襲いかかってくる。身体と集中力とよくわからない何かが、上手く組み合わさった時にだけ味わえるこの感覚の時は、普段以上の力が引き出せた。潜在能力の解放――この感覚を味わっている時、おれは無敵だった。初めからコレを引き出せたということは、本能がそれに足る相手だと判断したのだろう。潜在意識で脅威と感じ取っていた証明だ。裏を返せば、それはおれの期待度の現れでもある。

 おれは驚愕とも唖然ともつく表情の日比野に、ゴール下からボールを放った。初めて日比野のポーカーフェイスが眼に見えて崩れた。

それが何とも言えず快感だった。

 もっと崩してやりたい――サディスティックな感情が湧き上がる。

「シビれただろ?」

 それの後押しを受け、おれは不敵に笑った。

 ギャラリーのテンションは一本目からだというのに最高潮だ。最早黒ミサではなく、野生動物の集団ヒステリーのようになっている。金網にぶら下がって吠えている奴。頭を掻き毟って悶えている奴。意味もなく上半身裸になる奴。どいつもこいつもトランス状態だ。興奮が伝染していく。

 日比野に賭けている連中から罵詈雑言を浴びせられる。見せつけるように中指を立てた。怒号が一際大きくなった。

 日比野は我関せずでさっさと開始線に戻っていた。騒がしい周囲の声が聴こえていないように、左右に細かくドリブルをついてハンドリングを確かめながら遊んでいる。

オフェンスとディフェンスは一本で交代する。次は日比野のOF。すでに準備が整っている日比野の前でおれは舌打ちしながら腰を落とし、蟹のようながに股でスタンスを広げた。格好悪いが、これがDFの基本的な構えだ。

「随分人気者なんだな」

 日比野が皮肉を口にした。

「ああ、スターはいつだって民衆の僻みを一身に背負うもんさ」

 渾身のジョークだったが、日比野は素知らぬ振りで聞き流す。

「待たせたな。さあ、やろーぜ。抜けるモンなら抜いてみな」

大きな深呼吸。日比野はドリブルを開始した。探るように  仕掛けるように。おれの予想外なレベルの高さを警戒したように、慎重に丁寧なドリブルだった。距離を測りつつも、タイミングを窺っている。おれはドリブルのリズムを読んだ。ゆっくりとしたテンポでドリブルは続く。チェンジ・オブ・ペース――緩急をつけたドリブルテクニック。基本的なドリブルテクニック。それで来ると踏んでいた。基本だろうが初歩だろうが使う奴が使うと何だって一撃必殺の武器になる。

ボールが地面と日比野の掌を往復する。ボールがまた掌へ返っていく。経験から来る直感で察知した。

 来る!

 思うが早いが、日比野が地面を蹴った。瞬時にトップスピードへとギアチェンジし、低い姿勢ダック・インで抜きにかかる。静から動へ。緩急の差が激しいほど、このテクニックは効果がある。日比野のそれはまさにお手本と言ってもいいレベルの代物だった。並のプレイヤーならそこで勝負ありだ。しかしそれを読んでいた並じゃないおれは、同時に動き出し、コースチェックすべく進路に回り込む。伊達や酔狂でずっと日比野を観察していたワケじゃない。日比野はそれが得意なのか、大概左方向にドライブする確率が高かった。 

 どれだけ速かろうが、抜く方向がわかっていればこっちが有利だ。止められる。バスケットは裏の読み合いでもある。スポーツとギャンブルは根底の部分で類似している。実力はさることながら、心理戦に長けた者が勝者に成り得る資格を持つ。

 突然日比野が急停止した。トップスピードからゼロへの急激過ぎる緩急。おれは虚を突かれた。華奢なクセして鋼のような足腰をしてやがる。そうでなければできない芸当だ。 

 日比野が顔を上げてリングを見据える。ジャンプシュートに切り替え――そうはさせじと距離を詰めにかかる。瞬間、日比野は再び足を前に出した。しまった。全部フェイクだ。完全に裏をかかれた。日比野の狙い、その本命は、最初からストップ&ゴーだったのだ。その名の通り、急ストップ・急ダッシュで相手を翻弄するテクニック。気づいた時にはすでに手遅れだった。おれは重心を前に移動させてしまっていた。そんなおれを嘲笑うかのように、日比野が真横を猛スピードで通り過ぎていった。

 フリーで日比野もレイアップを決めた。見事にやり返されてしまった。レイアップにレイアップで返す辺り、日比野は相当敗けず嫌いだ。抜き去られたら抜き去り返す。いい度胸をしてやがる。

 おれの横を余裕綽々、澄ました面でさも当然といった風に日比野が歩いていく。

「いちいち五月蠅いぞ、お前」

 言葉と一緒にボールを擦れ違い様におれへ投げて寄越す。

「……おもしれえ」

 心の中で呟いたつもりだったが、実際は声に出してしまっていた。自然と笑いが漏れる。

 ゾクゾクした。間抜けにもフェイクにかかった悔しさは感じなかった。日比野のレベルの高さに歓喜している自分がいた。

背筋が震えた。武者震いだ。こういう肌がヒリヒリするような  真剣で鍔迫り合いをするようなギリギリの緊張感を、おれはずっと求めていた。それは麻薬なんかよりずっと甘美で虜になってしまう代物だ。そしておれはそれに依存し、禁断症状が起こるくらい中毒者になっている。

 無神論者でも天に感謝したくなる。身悶えしそうな身体を強引に抑えつける。まだまだお楽しみはこれからだ。

 続いておれのOF。左・右・左と素早くフェイクをし、右にカットインを謀った。フェイクはどれだけリアルに見えるか、ある意味ハリウッド俳優以上の演技力が必要だ。それにスピードがあれば尚良し。相手に判断する時間を与えてはいけない。

 おれはセットポジションであろうが、は得意中の得意だ。無論そのスキルは磨きに磨いてここでは他の追随を赦さない。のだが、日比野は冷静に対処し、おれのフェイクを見抜き影のように寄り添いついてくる。脳から身体への伝達信号が経験により鍛え抜かれている。そんな感じがした。失態を繰り返すヘマも流石にしない。一度ですぐに修正し、即座に対応してくる。

 しゃら臭い。おれは日比野の身体ごと強引に押し込み、中へ切れ込んだ。左手でブロックしながらフックシュートの要領でシュートを放つ。ほぼ密着状態で態勢にやや無理はあったが、おれはバックボードを利用し、ボールを無理矢理捩じ込んだ。 

 胸を親指で突き、下に向ける。挑発は直後がもっとも効果的だ。日比野は足の爪先でボールを拾い上げ、何喰わぬ顔で開始線へ戻っていった。完全に無視だ。

 日比野のOF。一本目同様、左に切れ込んでくる。鋭いドライブ。スピードに乗られたら手がつけられなくなる。その前に潰せ。おれはがに股スライドでマークする。密着してプレッシャーをかけ、自由を奪う。守りながら攻める。DFであろうがOFであろうがあくまで基本は「攻める」ことだ。

 日比野がクロスオーバーで素早く右にコースチェンジする。前方を向いたまま進路変更する、バスケットを始める際にまず最初に教えられるドリブルの基本中の基本のテクニック。肩を入れ、それで庇うように前というより身体の横で逆手に持ち替える。下手な奴は真ん前でボールを扱うので、即座にその瞬間を狙い撃ちされ、奪われる。日比野くらいのレベルの相手にそれを狙うのは愚の骨頂だ。狙えば逆にその隙を狙われる。もしくはファールになる。高度なクロスオーバーは時に相手の足を破壊し、尻餅をつかせる。そんなプレイヤーのことを“アンクル・ブレイカー”と呼ぶ。日比野はこれまで何人の足を破壊してきたのだろうか。

 コースを先取りしシャット・アウトしようとした。おれが廻り込んだ時には日比野はジャンプシュートの態勢にすでに入っていた。動作の切り替えが恐ろしく早い。日比野のフォーム――フェイド・アウェイ・シュートDFから逃げるように後ろへ跳びながらシュートを放つ難易度の高いジャンプシュート。上背のないプレイヤーがインサイドで勝負するための必須テクニックだ。

 ブロックに飛ぼうと思った。だが思わず見とれてしまった。誰が言ったか、バスケット界にはこんな格言がある。そのプレイヤーの才能を見極めたければ、ジャンプシュートを見よ、と。ジャンプシュートにはバスケット選手としてのセンスが全て凝縮されていると。ボディーバランス、バネ、手首のスナップ、柔軟性、体重移動シフトウエイト――確かにバスケットをやる上で必要な能力が、そのワンプレイに集約されている。そしてその説を信じるならば、日比野はまごうことなくバスケットの神の寵愛を受けた人間だった。全身是センスの塊。超一級の部品で精巧に組み上げられたそれ専用の肉体。   

 ミドルレンジから放たれたシュートは、小気味いいスイッシュ音と伴にネットに沈んだ。 

 それを見上げ眼で追いながら、外れろと祈っていたおれは思わず外国かぶれに「Sit!」と呟いてしまった。

 日比野はさっきおれがやった挑発をそっくりそのまま返した。親指で胸を突き、下に向ける。野郎。醒めた面をしてやることはやりやがる。どうやらおれの挑発が相当頭に来ていたらしい。クールな外見とは裏腹な態度が、日比野の中身を象徴する。ただの敗けず嫌いではなく、どうやら筋金入りのようだ。

 おれのOF。わざと見え見えのカットインをした。これは餌だ。日比野という警戒心の強い大魚を一本釣りするため、わざと喰いつきやすい餌を撒く。何も知らない日比野が完全にコースをシャット・アウトする。

 それが餌に喰いついた合図だ。

 おれは強引に更にカットインを続けるフリをした。日比野をその場に足止めさせる下準備のあと、高速でバックロールを開始する。ただし、ただのバックロールじゃない。大雑把に言えば、バックロールはクロスオーバーの逆バージョン。背中でボールを守りながら身体を反転させ、コースを変えるテクニックだ。しかしおれがしたバックロールは言うなれば、バックロール・ステップと命名できるおれのオリジナルの技だ。バックロールをする際に足を大きく広げ、軸足と逆側の足で相手を挟み込むように巻き込む。身体を反転させてしまえばリングは目の前、敵は背中で抑えられるという一石二鳥の技だ。中坊の時、どうしてもクラブチームのキャプテンとのに勝てず、必死に考えまくった末に誕生した、おれの必殺技でもある。

 撒き餌にかかった日比野を軸に背中で巻き込み、おれはステップを踏んだ。ネタがバレてもこの技はそう易々とは防げない。しかもそれがあるということ自体がひとつの牽制にもフェイクにもなる。早い段階での出血大サービスだ。もっとも、日比野が相手ならば出し惜しみする気も必要もない。だが裏ではちゃんと計算され尽くしている作戦の一環だ。センスだけでのし上がれるほど、バスケットは甘いスポーツじゃない。緻密な戦略と才能の融合が、ボーダーラインを超えるか否かの差になる。

 ほぼゴール下に陣取ったおれは、易々とシュートを決めた。

「ヘイ」

 手を一発叩き、振り向き様におれは指を三本立てて日比野に突き出した。連続三本ゴール。そういう意味だ。センスならおれも敗けてない。もちろんこれも挑発。依然、日比野の顔には変化はなかった。だが内心が透けて見えるような気がした。

 プレイを通じて徐々におれは日比野という男を理解し始めていた。平静な顔の下に隠れているこの男の本懐を。きっと中ではハラワタが煮えくり返っているに違いない。 

 日比野のOF。開始直後に、日比野は3Pを打った。

 てっきりドライブでくると思い込んでいたおれは、完全に虚を突かれた。

 これまたさっきと同じように、信じ難い光景を見るような眼でボールの行方を追った。思い切りがいい。迷いや躊躇が一切なかった。ボールは無情にも、日比野とネットの間にまるで初めから決められていたルートを通るように、綺麗なループでネットを通過した。ビンタを喰らったみたいに振り返ると、日比野は指を三本立てておれに見せた。三連続と3Pがかかっている。

「…野郎」

 額に青筋立てながらも、おれは余裕を見せるための笑顔を何とか繕った。悪霊が裸足で逃げ出しグレイが腰を抜かすほど、きっと異様な歪みを貼りつけた顔だっただろう。 

 これだけ挑発されれば、普段のおれならとっくにぶち切れている。しかしそんな日比野を目の前にしても、腹が立つどころか涎を垂らしてしまいそうなのが本音だ。日比野はまさにご馳走だった。飢えて飢えてひもじさが臨界点を突破しそうな野良犬に差し出された、それこそ特上の霜降りステーキに匹敵する。

 メインディッシュ中のメインディッシュ。喰ってやる。絶対におれが喰ってやる。肉の切れ端すら誰にもやるものか。

 攻防は続く。取る。取られる。止める。奪う。奪われる。おれと日比野のゲームは、おれの予想通り点の強奪戦シーソーゲームになった。互いに一歩も引かず譲らず、信念とプライドがぶつかり合う。

 10点を超えた辺りから得点に動きがなくなった。日比野がおれを止めれば、負けじとおれも日比野を止める。手の内は徐々にさらけ出されていき、お互いのOFパターンが朧気ながらバレだしたせいもあった。刹那の駆け引き。一瞬の攻防。心理戦の応酬。余計なテクニックや小細工を削ぎ落とし、攻防はシンプルになっていく。 

 こうなればもう、力と力の勝負だ。今までどれほどの経験をしてきたか。どれほどの死線を潜り抜けてきたか。どれだけ己の能力を信じられるかが、勝負の分かれ目になる。

 互いにプレッシャーをかけ、決して楽にシュートは打たせない。だがお互い意地でもシュートで終わる。入らなかったとしてもそれは結果。スティールや凡ミス―ターンノーバーで攻守交代するより、ずっといい。

 果てのない消耗戦。心身共に削られていく。 

ビハインド・ザ・バック――ボールを背中に廻して抜き去るテクニックで方向転換し、日比野が切れ込んでくる。追走しようとして足を踏み出した。何かに足を取られ、滑った。空のペットボトル――なぜこんなものがここに?

 バランスを崩したおれはラガーマンのタックルばりに日比野に体当たりするハメになった。二人揃って地面を転がる。ギャラリーが嘲笑しながら次々に野次を飛ばした。

 転げた時に強かに打ちつけてしまった腰をさすりながら、おれは立ち上がった。

「悪い。大丈夫か」

険しい顔で起き上がり、服の汚れを払っていた日比野がおれに顔を向けた。戸惑いや疑念。そんなものが入り混じった眼の色だった。

「ヘイ、チンタラした試合してんじゃねえよ! オレがかわりにやってやろうか?」

 ガンジャに酔った白人が金網近くに踊り出て、ニヤつきなら叫んだ。どうやらペットボトルを投げ込んだのはこの野郎らしい。

 おれは転がったボールを拾い上げ、その白人がいるところまで行き、金網に思い切りボールを叩きつけた。金網が派手な音を立て、激しくたわむ。

「次、邪魔をしたら、殺す」

 おれはゆっくりと言った。純粋な殺意は国境を超える。白人のニヤついた顔が一気に青ざめる。赤から青へと忙しい野郎だ。周りからの視線を感じたのか、小刻みに頷き「SORRY」と呟く。

 おれは金網を離れ、ボールを日比野に放って渡した。

「お前のオフェンスからリスタートだ」

日比野は珍獣でも見るような眼つきでおれをまじまじと見た。

「なんだよ。なんか文句あんのか?」

「いや……別に」

 日比野は受け取ったボールを掌で弄びながら、開始線に戻っていった。

 再び同じポジションに身を置く。日比野はすぐには構えず、額を拭った。汗が流れている。呼吸も乱れていた。流石の日比野も疲れが見え始めていた。曲がりなりにも相手はこのおれ。そこまで追い詰めないと№1として立つ瀬がない。が、それはおれも同じことだった。いつも以上に体力の消耗が激しい。肺が空気を求めて激しく収縮する。心臓が暴れ馬みたく跳ね廻っている。筋肉には乳酸が蓄積されつつある。身体が重い。疲労がのしかかり始めていた。楽な相手ではないとは思っていた。ここまでもつれるとも思っていた。予想外だったのは、ここまでおれの体力が低下していたということだ。日頃の無精に祟られた。くそったれ。

 一体どれくらい時間が経ったのか。その時初めてチュッパチャップスが溶け切っていることに気づいた。今までまったく気づかなかった。それほどおれはゲームに集中していた。

 一体いつ以来だろう、こんなに集中してプレイをしたのは。思い出せない。思い出す必要もない。最高の獲物が目の前にいる。それで充分だ。

 差し棒を吐き捨て、一度大きく深呼吸した。

 ゲームは佳境だ。ぼちぼちケリを着けなければならない。体力の残量も微妙なところだ。いつまでも遊び気分でやってはいられない。忘れてしまいそうになるが、このゲームにはおれの右手の運命がかかっている。

ふと、終わらしたくない、と思った。終わらなければいい。この時間がずっと続けばいい。そうしたら  。

 そうしたら? おれの頭を過った甘い戯れ言をチュッパチャップスの棒とともに吐き捨てた。そうしたら何だって言うんだ? おれの現実が何ひとつ変わるワケじゃない。終わらせたくないなら、最初から始めなければいい。

「お前は」不意に日比野が口を開いた。「他の連中と感じが違うな」

溜息を吐くように深呼吸し、独りごちるように言う。

「どうしてお前がこんな場所であんな奴らとつるんでいるのか、俺には理解し難いが……お前ならこんなところでなくても、何処でも場所はあっただろう」

チラリと横目で藤堂たちがいる方向を見遣り、日比野はおれを認めたような科白を口にする。

 おれは少し戸惑った。日比野の言葉――おれの過去を何も知らない男の言葉。他の人間の言葉なら歯牙にもかけない。響いたのはおれがこの男を認めているからに他ならない。

 それに、日比野との対戦を熱望したのは、何も昔の誓いを果たしたかっただけではない。本心を吐露するならば、そこには僻みや妬みといった曲がった根性もあった。雑魚相手に図に乗って『荒らし屋』を気取っている、元スーパースターの鼻っ柱をへし折ってやるつもりだった。“天才”と称されて天狗よりも高く鼻が伸びた人間に、自分よりも上の存在がいるということを思い知らせてやりたかった。それも、おれのような光から遠ざけられ、浴びることも赦されない類の人間に、だ。もっと言えば、日比野に屈辱を与え、優越感を得たかったのだ。

 おれはこんな場所にいても誰にも敗けない。全国レベルのプレイヤーにだって通用する。 おれは間違っているワケじゃない。

 そんなおれと対照的な日比野の態度だった。おれの卑しい内心を炙り出されたように感じた。

「…お前には関係ない」

 今度はおれがそう口にする番だった。それだけしか言えなかった。語るには、おれの過去はクソに塗れ過ぎている。

 日比野は短く、そして小さく息を吐いた。それが余計な考えを断ち切る合図のように、次の瞬間、おれを鋭く見据えた日比野の瞳には確固たる決意が宿っていた。

「お前を見くびっていた詫びと言っては何だが」日比野は低い声で静かに、宣教師のような厳かさで宣言した。「3分だ。3分だけ、本気で相手をしてやる」

「あ?」

 素っ頓狂な声が出た。 

「何だそりゃ? お前はウルトラマンか? 地球の空気は肌に合わねえのか?」

 安い挑発――日比野は取り合わない。おれは溜息を吐き、続ける。

「今まで本気じゃなかったとでも言うつもりか? よせよ胸糞悪い。そんなハッタリが通じると思ってんのか」

おれにはわかる。日比野は間違いなく本気だった。理屈じゃなく、肌で感じた。それを嗅ぎ取れるだけの経験はしてきた。そしてそれがおれの勘違いではないと、日比野の消耗具合が如実に物語っている。それで本気を出していない? ただの負け惜しみにしか聞こえなかった。無駄なハッタリをかましてくれたお陰で、折角の気分にケチがつきそうだ。

「やってて思ったんだが」ふて腐れた面のおれにお構いなしに、日比野は言う。「お前はスピードに相当自信を持っているみたいだな」

「だったら何だよ?」

「ドーピング?」

「ナチュラル・ボーンだ馬鹿野郎」

「――そうか」

 日比野の声がトーンダウンした。空間を取り巻く空気が一気に変わったのを感じた。

「お前、今まで自分より疾い人間に出会ったことはないだろう?」

「おれよりは疾い人間なんざこの世に存在しねえよ」

 おれは不遜にも言い放つ。伊達にスピードキングを自負していていたワケじゃない。事実、今までの対戦でもおれより疾い奴なんていなかった。コート上で最速  それが絶対の自信だった。

「確かにお前のスピードは、全国レベルで見ても相当疾い。自信を持つのも頷ける」

「だから何だって言ってんだよ」

身長差やジャンプ力ではなく、抜くか抜かれるかの平面勝負をおれは確かに得意としている。得意と言うより、好きだった。ガキの頃は自分より上背がある人間が相手なのが当たり前だった。その前提で勝負を仕掛けようと思えば、必然的にスピードに拘るプレイスタイルになる。

 ガキの頃、唯一大人に対抗できたスピードという名の武器。身長が伸びた今も、おれの一番破壊力のある武器だ。

、お前に教えてやるよ」

 日比野は言った。

「何を?」

 おれは訊いた。

「自分以上の存在が世の中には確実にいるってことを、だ。こんな穴蔵に引っ込んでるお前には、絶対に知ることのできない現実を教えてやる」

「……まさかお前、スピードでおれと勝負してやろうなんて言い出す気じゃないだろうな」

 日比野は不敵に嗤った。

「得意分野で敗ければ、思い上がりに気づけるだろう?」

挑発には聞こえなかった。己の能力を過信するでも、おれを見下げたワケでもなく、事実を淡々と語っている。そんな口調だった。

「論より証拠だ」日比野が構えた。「体感しろ、鳥の巣頭。脳髄が痺れるほどの経験をさせてやる」

 おれは揶揄するように鼻を鳴らした。

「かまし過ぎだ。もう撤回はきかねえぞ」

おれもスタンスを広げ、日比野の目線が上に来るくらい低く腰を落とし構えた。

 日比野の発言はブラフだ。ハッタリをかまして精神的に揺さぶるつもりだろう。意外とセコい戦法を取る野郎だ。だが生憎おれにはそんな小細工は通用しない。そんな程度でブレるほど柔な神経をしていない。俗に言う筋金どころか、鉄筋並みの図太い神経をおれは所有している。矢でも鉄砲でも持ってくるがいい。

日比野に動きはまだない。微塵も動かず、止まっている。細められた眼は、宙の一点を睨んだままだ。身体と対話しているような、瞑想に似た静けさがおれたちの周りに流れていた。

 不意に背筋に悪寒が奔った。

 何だ、この感覚…? 

 まるで嵐の前の静寂のような  威圧的且つ圧倒的で危険な兆候を孕んだ空気をおれは嗅ぎ取った。発生元は眼の前のこの男。徐々にその空気は濃密になっていく。

 ハッタリ――じゃない…のか?

 日比野を取り巻く空気の性質が変わっていく。飛散するオーラがひとつの束になったような物質的な力感が日比野の身体を覆っているような錯覚に陥る。

 日比野の眼が上を向いた。その視線はおれを擦り抜け、リングを見ていた。その刃より鋭利な光を放つ眼を見た瞬間、野性的本能で直感した。

 ヤバイ!

 数々の経験によって創られた本能の高感度センサーが、理屈を遥かに超越した危機感を感じ取る。それはハッタリではないと告げる。生存本能に長けた獣が我が身を守るために何よりも信頼を寄せる強者に対する警報装置が、最大級の警戒勧告を発令する。

 反射的に身体に力が入った。呼応するように、日比野が重心を前に傾けた。

 警報音が破裂した。その刹那、おれの眼前から日比野は姿を消した。亡霊のように跡形もなく。おれは息を飲み、眼を瞠った。何処に――視界の隅に黒い影。鈍く光る銀の光。悪寒が全身に広がった。一瞬、死神がその鋭い鎌でおれの命を刈り取りにきたような錯覚を覚えた。

 横?

 一瞬で――たった一歩で並ばれた。地面が収縮しておれと日比野の距離を消滅させてしまったかのような、そんなスピードだった。 

 条件反射的に、辛うじて身体が反応した。勝手に身体が動けなければ確実に置き去りにされていた。さっきまでとスピードが段違いだった。スライド――間に合わない。走れ! 構えを解き追う。並ぶ。回り込め。スピードならおれが上だ! 足に力を込め加速する。それでも追い越すことができない。先決すべきは、まず足を止めさすこと。そこから態勢を整え直す。そう目論んだおれの作戦はこの時点で瓦解した。その細い身体の何処にそんなターボ搭載しているのか。おれは歯を食いしばって全力で走った。

 最高値だと思っていたスピードから、日比野は更にギアを上げた。日比野の背中がおれの前に出かけた。振り切られるな。この程度でのうのうと見送るおれじゃない。最速の称号は誰にも譲らない。おれもギアをひとつ上げる。

 頭の中で比較する。おれと日比野。日比野は確かに迅い。さっきまでのスピードと比べれば、ハッキリと違いは体感できる。しかし、それでも客観的に判断するに、おれと同等もしくはおれの方が僅かに上。こうやって直線で走ればそれは歴然だった。おれは日比野に追いつきつつある。

 それならあれは何だったのか? 疑問が湧く。あの、距離や時間を強奪したような感覚。眼を切ることはおろか、おれは瞬きさえもしていなかった。気がつけば日比野は横にいた。そう、それはまさしく、死を目前に控えた人間の前に突然姿を現わす死神のようだった。

 何かがある。しかし現状で考えるのはそこまでだった。今はそんなことを考える暇があれば、もっと別のことに頭を使え。身体を動かせ。 

 判断  日比野が描いてあるだろうプレイを想像する。先読みする。

 一秒にも満たない攻防の駆け引き。このスピードの中では、コンマレベルの判断の遅れが命取りになる。高速で移動するF1車のステアリングを握っているも同然の判断とコントロールを要する。

 日比野はエンドラインギリギリに切り込んだ。追うおれの存在を意識してバックシュート狙い――そう予測した。 

 身長差を考えれば妥当な判断。しかしそんなことはお見通しだ。おれはシュートタイミングを窺いつつ日比野を追う。

日比野が踏み込む。リングに向き直り、切り込んだ勢いを利用して再びフェイダウェイの構えを取る。今度は見送るヘマはせず、おれもそのタイミングで踏み込んだ。何度も同じ手は喰わない。今度こそ叩き落としてやる。

 ドンピシャのタイミングで意気揚々とジャンプしたおれは、日比野の構えを見て違和感を覚えた。何かが違う。答えはすぐにわかった。違和感はすぐに驚愕に変化する。今まで日比野は右手でシュートを放っていた。だが今の日比野のボールの設置場所は――。

 左手…?

 最初はダブル・クラッチかと思った。シュートのタイミングをわざとずらし、ブロックをかわす。それら全てを空中で行なう高等テクニック。しかし眼前の光景はそれとは根本的に違う。

 

 レイアップやフックシュートで両手を使えるのは当たり前だが、セットシュートとなると話は別次元になる。右利きの人間が同じように左手を使用する? 有り得ない。有り得るはずがない。

 じゃあ、今この眼の前の現実は何だ?

 日比野がシュートを放つ。リングを見据える眼光は狩猟を生業としているハンターのようだった。右手と変わらずお手本のような洗練されたフォーム。態勢などを考慮すると、右手以上に慣れている感じがあった。

 ボールはおれを嘲笑うかのように、手の届かない上空を通過していく。

 スポーツは全般的に右利きのプレイヤーが多い。あまり接する機会がないサウスポーという存在は、希有でありそれ以上に脅威だ。左右対称というのは口で言うよりずっとやっかいな代物で、勝手が違う。バスケットで言うなら、平面上では大した問題ではないが、シュートに関してはボールの出所――その放たれる範囲が完全に真逆なので、その誤差を調整するのは慣れていなければ厄介なことこの上ない。

 確実にブロックできたはずのタイミングで飛んでいたのにも関わらず、おれがしたことと言えば空振りの蠅叩きとボールの行く先を見送ることのふたつだけ。

 着地と同時にスイッシュ音が背後で響く。ギャラリーが最早パブロフの犬状態で喚声を上げた。

 おれはすぐさま日比野を見遣った。焦った面をしていたかもしれない。この時おれは、あまりの出来事に取り繕う余裕さえ失っていた。

「騙されたぜ、この野郎…! お前、左利きか!!」

おれが感じていた日比野に対する違和感の正体――それがこれだ。そうだった。昔おれが観た試合でも日比野は左手でシュートを放っていた。何故そんな大事なことを忘れていたのか。おれは己の迂闊さを呪った。しかし違和感は完全に払拭できていない。他にもっと別の大事なことを忘れている気がする。

「右利きだなんて一言も言った覚えはないぜ?」

「ふざけやがって…! 今までおれをおちょくってやがったってワケかよ…!」

 一気に頭に血が昇った。こめかみが軋んだ。怒りに眼も眩みそうだった。

「別にそういうワケじゃない」

「ほざいてんじゃねえ! 左利きの分際で右手でプレイしていただと? そんなナメたマネしてどの口が――」

「誰がいつ左利きなんて言った?」

「ああ? 寝てんのかテメーは? 今現に…」

頭の奥で声がする――違う。違う! 違う!! 思い込みを否定する声は更に大きく、強く響く。ハッとした。答えが稲妻のように脳裏を駆け抜ける。自分が至った解答に一瞬茫然とした。

 嘘だろ? そんな、でも、まさか――。

「――気づいたか?」

 おれの頭の中を覗いたように、日比野は両手を翼を広げるが如く胸の前で広げて見せた。

「察しの通り、俺は両利きだ」

 殴られたような衝撃を伴い、その言葉は脳に浸透していった。

 両…利き……? 

 超弩級の事実に一気に汗が冷えた。身体が凍ったように固まった。動揺を見せまいと、それを押し殺した。

 両利きのプレイヤーなんて、聞いたことも見たこともなかった。そんな奴がいるのか?――いる。現実に。いまこの眼の前に。

 この野郎は一体何なんだ? うなじがざわついた。全身が総毛立つ感覚――ある種恐怖に近い感覚がおれを襲った。

 不意に耳に甦る言葉。思い出す。それは高校時代、日比野につけられていた渾名。

 おれはそれはてっきり日比野のトリッキーなプレイスタイルを現したものだと思っていた。そうではなかった。それだけじゃなかった。

 今、その意味が理解できた。歯の根も合わなくなるほどの寒気と衝撃を伴って。

「…“トリック・スター”」

 おれは知らず知らずの内に、噛み締めた奥歯から絞り出すように、苦々しく呟いていた。


“トリック・スター” ――詐欺師を意味する、その渾名を。


                   ☠


「そういう意味かよ…!」

おれは吠える寸前の犬のように唸った。

その渾名は、秋田と神奈川のゲームを観戦している最中に耳にした。日比野のトリッキーなそのプレイは確かに人を欺いて憚らないが、普通そういう時は「魔術師」だとか何かそこら辺の渾名をつける。誰がつけたかその詐欺師を意味する渾名に、自分以上の才能・能力を持つ者に対しての嫉妬と羨望が滲み出ているような気がしたが、なるほど。確かに、現実的に自分の身にそれが降りかかれば、これは魔術ではなく詐欺に遭った気分だ。とんでもない隠し球を持っていやがった。

「…その渾名を聴くのは久しぶりだ。『詐欺師』の次は『荒らし屋』か…。まるで犯罪者だ。笑えるな」

日比野は自嘲するように歪んだ笑みを顔に浮き出す。世を儚み蔑んだようなその面には、笑える冗談の要素はこれっぽっちもなかった。

「『荒らし屋』だろうが『詐欺師』だろうが、そんなことはどうだっていい」おれは吠えた。「大事なのはお前が両利きにも関わらず、今まで右手しか使わなかったって事実だ。要はおれ相手に手を抜いていたってワケだろ。右手だけで充分だと思ったか? 随分とナメられたもんだぜ」

手を抜く――自分でそう言っておいて何だが、この言葉には語弊がある。日比野は手を抜いていたワケではないだろう。さっきも言ったように、日比野が全力を出していたのは間違いはない。ただ、アスリートの中にはスロースターターというエンジンがかかるまでが遅い人種がいる。それは何も身体や気力が乗ってくるまでが遅いと言うだけではない。 中には集中力が尻上がりに研ぎ澄まされていく奴もいる、ということだ。

 集中力。これは何をやるにしても、その結果を大きく左右し、出来映えに反映される。

 さっきの日比野と今の日比野の違いは、言うなればその集中力の差に過ぎない。つまり今の日比野は、心身伴に噛み合った、正真正銘100%の力を出している状態にある。

「文句は勝ってから言え」

それが日比野の返事だった。どうやってとは訊かなかった。短い時間ではあるが、このゲームを通して日比野もおれという人間を少しは理解したようだ。おれは必要ならば暴力さえ厭わない。非暴力主義の奇麗事などクソ喰らえ。生きるためにはそんなおためごかしは通用しない。

 しかし、バスケットの関してだけ、おれは違った。いや、違っていたかった。やられたらやり返す――そのカテゴリーの中で。バスケットで。実力で。おれはコレにだけは、せめて誠実でいたいと願う。

おれのOF。日比野が構える。腰をおれの膝まで深く沈めたその姿勢に、隙が見当たらなかった。まだ互いに動きはないのに、攻めているようなプレッシャーがおれを圧迫する。

不意に脳裏に過ぎる負のイメージを力任せに抑えつける。囚われるな。考えるな。それが頭に残ったままだと、足が鈍る。攻めろ! スピードで振り払え!

 日比野が機先を制した。間合いを詰めにかかる。動こうと思っていた矢先のフェイス・ガード。顔がつきそうなほどべったり張りつき、更にプレッシャーをかけてくる。自由が奪われる。威圧が背後で蠢く。

くそったれ。おれは素早くピボットで背を向け、右にフェイク、そして反転して抜きにかかった。

密着状態から離脱。フェイクが功を奏したのか、日比野が離れた。壁に空いた小さな穴のようなチャンス。逃すな。活かせ。加速して一気に突き放せ――。

その刹那、ボールがファンブルした。おれの手からボールが消えた。一瞬何が起こったのか理解できなかった。ドリブルミス――じゃない。ボールは地面に着かずして、おれの手から手品のように消えたのだ。

視界の奥。おれの背後に日比野の姿。おれと背中合わせの低い姿勢。そこから左手が伸びていた。その手はスリの常習犯のように、気づかない内におれのボールを奪い取らんとしていた。

バック・ファイア――ワザとOFに抜かせ、抜いて油断した瞬間に後ろからボールを叩くDFテクニック。この技はファールになりやすい。動く相手の後ろからボールを叩くのは、熟練者と言えども相当難しいからだ。この技をやる場合、指先をボールに軽くチップさせ、ファンブルさせたところを味方に拾ってもらうのが効率的かつ実用的な使い方だ。

そう、あくまでチップが目的だ。そのまま奪い取るなんて発想は、誰も考えはおろか実行しようなんて思わない。それが普通の感覚だ。

 ただでさえファールになりやすくリスキーなテクニック――失敗すればノーマークになり、OF側にチャンスを与えるハメになるからだ――のに、それを更に昇華させ一撃必殺の武器にするなんて、一体誰が想像できる?

 ボールはおれの手には戻らず、日比野の手中に収まった。このゲーム通して初めてのターンノーバー。初めてのスティール。

「脇が甘いな」

 ことも無げに日比野は言った。最初から狙っていたのだと悟った。全ては日比野の意のまま。掌の上で踊らされていた。まんまと乗せられた己の愚かさに奥歯を噛んだ。

「さあ、続けよう。時間がない」

日比野は睨めつけるおれの視線をものともせず、開始線へと踵を返した。

 身体が僅かに震える。武者震い。あるいは――恐怖。わからなかった。わかっているのは、今まで感じたことのないほどの屈辱が胸の裡にあるということ。そしてもうひとつ。今まで対戦してきたどのタイプにも当て嵌まらない、未知のプレイヤーがそこにいるという事実だ。

日比野が構える。おれも構える。

 空気が異質な物としておれたちを囲む。世界とそこだけが切り離されたような、何処かで感じたことのある感覚――おれが知っている感覚。この感覚はあの感覚に酷く似ている。耳は正常に機能している。眼は視界一面よく見える。身体の感触もいつも通り。ただ、連れてこられたという感覚だけがある。

「行くぜ」

 声とほぼ同時に日比野が動く。我に返る。咄嗟の反応。ギリギリで喰らいつく。日比野がレッグスルーでコースチェンジする。迅い。しなる柔らかな肢体が散光のように突き抜ける。ついていくだけで手一杯だ。次の瞬間にはすでにバックロールの動作に入っていた。

 本領を発揮した日比野の動きを間近で見続け、その迅さの本質に気づいた。

 日比野の動きには予備動作がない。極限まで無駄を削ぎ落としたプレイスタイル――それが日比野の疾さの正体だ。

 人間は何か動作を行なう際、必ず何かしらの予備動作を行なう。例えばバスケットのプレイで言えば、ドリブルをしていてコースチェンジをする時、まずスピードを殺す。進行方向の逆足を踏ん張る。地面を蹴る。大まかにこれだけの動作を必要とする。が、日比野は普通人がこの3テンポで行なう動作を1~2で行なっている。勿論生物として赦されている可動範囲が存在する以上、それを無視することは絶対にできない。しかし、あまりの間隔の短さに、予備動作が全くと言っていいほどないように見える。それはボクシングの世界チャンプのジャブのような、熟練の職人の技術のような、鍛錬と洗練を気が遠くなるほどの時間積み重ね、薄皮の如く脆く破れやすい才能を丁寧に紡いでいった末に手にすることができる、血反吐と汗が染みついた至高の輝きを放つ結晶だ。だが訓練すれば誰でもできる芸当でもない。それを得られるのもまた、一部の人間だけだ。

こいつは一体――振り切られそうになりながら、おれは戦慄とともに思う。

 どれほどの時間と己を懸けてきやがった?

 最早嘘フェイクなのか真実なのか判断がつかなくなってきた。対応するにも時間が少な過ぎる。右と思えば左。左と思えば右。めまぐるしく変貌する現実に、ただ翻弄される。

 日比野が前方でボールを入れ替えようとした。クロス・オーバーだと思った。だがボールは日比野の膝に当たり、次の瞬間には日比野自身も元のコースに戻っていた。何が起こったのか、一瞬わからなかった。それほどトリッキーなプレイだった。覚えがある。これはストリートのテクニックで、ニーチェンジと呼ばれる技。公式ではヴァイオレーションを取られるため使えない技だ。公式畑のプレイヤーのはずなのに、どうしてお前はこんな技を知っている? 技のレパートリーが今までの連中より圧倒的に多い。

ついに振り切られた。真正面からのレイアップ。音もなくネットを通り抜ける。爆発するギャラリーの歓声。だが、おれの耳には自分の荒い息遣いしか聴こえていない。まるで壁の中にいるようだった。日比野という巨大な氷壁の中に閉じ込められ、身も心も凍りつきそうで喘いでいる。寒気がするのはきっと、そのせいだ。

「あと1ゴールだな」

 投げ捨てるようなバウンズ・パスで、日比野はおれにボールを渡した。

 おれは得点掲示板に眼を向けた。おれの得点はさっきから動かず、日比野の得点だけが加算されていく。死へのカウントダウン――死神は静かに数を数える。

「理解したか?」黙って点数を眺めているおれに、日比野は言った。「これがリアルだ。強者を語るには、お前には力が足りない」

 何も言い返せなかった。寒気はただ増していく。世界が渦を巻いている。積み上げてきた何かが壊れていく。その前兆のようだった。

「小さい猿山の大将が俺に勝とうなんて、一世紀ほど早かったな」

否定の言葉が持つ衝撃はおれの心を打ち響き、その音の震動は大波となって積み上げてきた様々なものを呑み込んでいく。荒波の激しさに鉄壁の要塞はあえなく攻落する。崩壊の予感は現実になる。

「黙って聞いてりゃつけ上がりやがって…もう勝ったつもりかよ、このイカサマ野郎」

 溺れそうになりながら、おれは語気を強め吐き捨てた。崩壊寸前の自信の前では、すでにそれは虚勢かもしれない。だが言った。そうして自らを奮い立たせなければ、おれはこの瞬間にも撃沈してしまいそうだった。

「まだ勝負は着いてねえ」

 電光掲示板の時計を指す。日比野が宣言した3分にはまだ余裕がある。

「3分までまだ時間あるだろうが。胸のタイマーしっかり調節しとけよ馬鹿野郎が」

どれだけ動揺しようが、どれだけ窮地に立たされようが、声は上擦ることも裏返ることもない。肝が据わっていると言えば聞こえはいいが、単におれは昔から虚勢を張るのは得意なガキだった。それだけだ。それは今でも変わらない。

 日比野は嘆息した。それくらいは理解できるレベルにあるとおれを買い被っていたことを後悔したような、そんな溜息だった。

「まだ理解できないのか? お前じゃどう足掻いたって俺には――」

「五月蠅えっ!」

 遮る。その先は言わせない。言わせてはいけない――絶対に。

「着いてもいねえ勝負をお前が勝手に決めるなよ」

「決まった結末だ」

「知るかよ。そんなもんはクソくらえだ」

 吐き捨てた。眼の前の事実を無視するのは愚か者のすることだ。わかっている。だが、おれは愚か者だ。認めることなどできない。ボールを握る手に力が入る。筋張った指が白くなる。

 おれはまだやれる。呪文のように心の裡で繰り返す。

 敗れれば失う。おれの右腕が破壊される。崖っぷちの恐怖。背後には底の見えない亀裂が絶望を纏いおれを待っている。焦燥感が心に滲み始めている。敗けられない。頭の中で同じセリフがリフレインする。敗けることは死と直結している。

 待ち受ける終焉を回避する方法はひとつしかなかった。おれを闇の顎に送り込もうとする冥界の使者を捩じ伏せるしかない。忍び寄る結末が誘う触手を拒否するために。

「終われねえ…このまま終わってたまるかよ…!」 

 眼光鋭く日比野を見据える。悟られてはいけない。見透かされてはいけない。おれの内心を。おれの恐怖を。その場凌ぎのハッタリでも何でもいい。瞳に力を与えられれば何も読み取られることはない。

 日比野は大きく舌打ちした。面倒臭い奴だと仕草に苛立ちを隠せていなかった。焦れったそうだった。優勢にあって、何をそんなに焦っているのか。諦めたように大きく溜息を吐き、眼を瞑って天井を仰ぐ。

「…アホの相手は疲れる…」

心底呆れたように眉を寄せ、日比野はぼやいた。

 開始線。向かい合うおれと日比野。早くやろうと急かすように日比野がDFの構えを取る。対照的におれは眼を瞑り呼吸を整える。乱れに乱れた精神を平常に落ち着けたかった。 

 己の内面に静かに意識を潜らせていく。真っ暗な湖のような闇。深い深いその場所で、おれはおれを捜す。身体の声に耳を澄ます。

 まだだ、もっと喰わせろ――聴こえた。身体はそう叫んでいた。まだ叫んでいた。餓鬼の悲鳴にも似た雄叫び。空腹が満たされそうな歓喜に狂ったような咆吼。身体の欲求はおれの焦燥など気にかけない。奇蹟のバランスで均衡を保っているプライドを余所に、身体だけが変わらずは欲求に忠実だった。 

 OK、もっと喰わせてやる――おれは身体に呼びかける。

 お前の望みを叶えてやる。お前の欲望を満たしてやる。だからおれに力を貸せ。限界を超える力を、眼の前の男を倒せる力を、更なるスピードをおれに、くれ。 

内なる咆吼――外へ。地鳴りのように押し寄せる身体の狂喜。細胞という細胞が沸騰し、活性した。気合いを込め、構える。やがて来るいつものおれの世界。あらゆるものを拒絶した黒の世界。それを更に凝縮する――より濃密に。より鋭利に。目の前の男を切り刻める強度にまで。

 集中していく。誰にも踏み込ませない領域まで昇華させる。

身体が悲鳴を上げ始める。過度の負荷。骨が軋む。腱がしなる。筋肉がうねる。血が滾る。細胞レベルで溜め込まれた力。おれ自身さえも蝕んでいく。

 構わない――リスク無くして力を得ようとは思っていない。

 構わない――おれを壊そうと絡みついてくる姿なき魔物を退けられるのであれば。

 構わない――この渇きを癒せるのであれば。

 構わない――おれの右手を、おれの全てを守れるのであれば。

 構わない――眼の前のこの男を倒せるのであれば。

 それなりの代償は払ってやる。敗けるのも殺されるのも、どっちもゴメンだ!

「覚悟しろよ、この野郎」歯の隙間から絞り出す。獣じみた仕草。威嚇するためじゃない。限界を超え始めている苦痛に耐えているからだ。

眼を瞠く。標的を捉える。ロック・オン完了。同時にリミッターを解除する。回転数を上げていくウルトラジェット。エンジンが焦げつきそうなほどに暴れ狂う。抑え込む。今にも暴発しそうなエネルギーが足に集約されている。発射準備は整った。

 さあ――「行くぜ」

 Are You Ready?

 凝縮から解放へ。踵で爆発が起こる。凶器に変貌した爆風がおれを突き飛ばす。堪えるように足を踏み出す。背後で吹き荒ぶ風。それを纏う。風と同化する。おれは風になる。風はおれになる。

おれは疾風の如く大地を翔る。

ドリブルを開始する。日比野の左に切り込む。小細工はなし。シンプルにスピードだけで勝負を賭ける。驚愕に瞳孔が収縮する日比野の三白眼。が、それも一瞬。常識を卓袱台返しにした反応速度でおれに併走してくる。

 行くか引くか――頭を掠める選択。

 シンプルな回答――愚問。超速で置き去りにしてしまえ!  

ならもっと望め。ならもっと欲しろ。狂おしいほどに渇望しろ。おれに寄越せ。おれにくれ。今以上のスピードを。風にも勝るスピードを。

 もっと速く――もっと疾く。もっと迅く!

 身体半分、前へ出る。突き抜けろ。全身でシャウトする。誰かの声を聴いた。それは風の声だったのかもしれない。あるいはおれの雄叫びだったかもしれない。

 追い縋る日比野の身体が不意に離れた。抜き切った。そう思った。間接視野に映る日比野の姿。態勢が崩れていた。膝が抜けたようにも見えた。が、詳細はよくわからなかった。

意識を再びリングへ。あとはアソコにぶち込むだけだ。

 勝った  そう思った瞬間、世界を覆う白い影。黒い世界を塗り替えていく。世界が欠ける。おれの前に立ちはだかる。日比野。離したはずなのに。態勢を崩していたはずなのに。おれの前に再び現れた。何度も行く手を阻む。くそったれ。ハンターの本能は獲物を逃さない。

 止まるな! 逡巡に足を緩めそうな身体を叱咤する。ここで止まれば次はない。おれの世界は塗り潰されてしまう。全身全霊で駆け抜けろ!

 更に深く切れ込む。日比野が反応する。それを見届けておれは右足を踏ん張った。そこから反転を試みる  バックロール。信じ使い続けた技に、全てを託す。

廻る。間接が軋む。半月板が捻れる。慣性と遠心力の対立に膝と足首が壊れそうになる。知ったことか。強引に回転を続ける。廻り切る。僅か  距離にして爪先程度、おれの方がリングに近かった。

 開かれた脱出への糸口。この契機を逃すまいとシュートモーションに入る。おれの視界隅から白い腕が現れる。

 まるで変幻自在の軌道を描く銀の矢のように、その腕は正確にボールだけを打ち抜く。死神は狙った獲物は逃さない。逸話の通りだ。確実に仕留めるまで、どんなに逃げようとどこまでも追いかけてくる。

 くそったれ!!

 おれの手からボールが脱兎の如く飛び出す。ルーズボール  すかさず日比野が反応する。ほぼ同時におれも反応し、決死のダイヴで跳び逃げる茶色い兎を追う。

届け! 届け! 届けっ!!

床掃除をしながらおれは必死に腕をボールへ伸ばす。僅差で先におれの指がボールの尻に触れた。だが無情にもボールは気取った女のように俺の指を払いのけ、再び宙にその身体を投げ出した。

 まるで自分の意志で選んだように、ボールは日比野の腕に収まった。その時点でおれの攻撃は終了した。

「惜しかったな」

 日比野は地面に突っ伏しているおれを睥睨しながら言った。持てる力を最大限に引き出したはずだった。それでもこの男には届かないのか。どれだけ技術を駆使しても、この男には通じないのか。手も足も出ない現実におれは愕然とした。恐怖すら覚えた。眼の前の男は、おれが今まで対戦してきたプレイヤーと次元が違った。

「諦めろ。お前じゃ俺には勝てない」 

 日比野は言った。バスケットにマグレはない。奇蹟は絶対に起こり得ない。それはバスケットをやる人間には常識だ。他のスポーツよりも顕著に実力差が得点に反映する。リアルな優劣の争いこそが、バスケットというスポーツの魅力でもあり、同時に残虐性でもある。

 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!!――心の奥で叫び声を上がる。そうしなければ近くにいる絶望の足音を聴いてしまいそうだった。

 通じないだと。おれの何もかもがこの男には通じないだと? ふざけるな! そんなことあってたまるか。おれは、おれは――。

 情けねえな、ボンズ。

 誰かの声がした。おれは弾かれたように顔を上げた。日比野――違う。顔を巡らした。ギャラリー共以外、誰がいるでもない。だが汚い歓声に囲まれている中にあって、確かにそれはおれの耳朶を打った。知っている声だった。懐かしい呼ばれ方だった。

 坊ズ――クラブチームに入り浸っていた当時、メンバーは皆そうやっておれを呼んだ。

 忘れない。忘れられるワケがない。この声は確か――。

 もう終わりか? もう少し根性見せたらどうだ。

 声はそう続ける。ああ、そうだった。昔は、そうやっていつも敗けては煽られていたっけな。

 思い出す。練習終わりの体育館。漫画のキャラクターのような筋肉隆々の身体を相手に、毎日飽きることなくを挑んでいた。『ROCKABILLY』のキャプテン――荒木さんに。

 勝負と名のつくものに手を抜かない人だった。年齢差も体力差も体格差もうっちゃり、いたいけな少年を徹底的に打ち負かす悪魔のような人だった。

 荒木さん。あんただったら、こんな時どうするのかな。

 お前の魂はもう屈したか?――声は問う。

 いや、まだだ。おれの魂はまだ屈しちゃいない。

「…馬鹿言えよ」

 その時と同じ科白が無意識に口を突く。

 おれはまだ、やれる。

 だったら立て――声が叱咤する。あの頃と同じように、その声がおれを奮い立たせる。 

 体力がなんだ。経験差がなんだ。実力差がなんだ。足りないのならば、今この瞬間に補え。見上げている暇があれば、とっとと飛べ。飛んでみれば、空は意外と高くないもんだぜ。

 だったけな、荒木さん。

 追いつめられて思い出すのが、捨てたはずの過去だなんて皮肉なもんだ。おれは少し笑う。

 抗え。

 下らない見栄も拘りを踏み潰しながら、おれは立ち上がる。そんなおれを見て幻影が笑う。幻影が消えた先に、日比野がおれを鋭い眼差しで見据えていた。

「…まだやるつもりか」

 日比野は言った。

「ああ、やる。折角楽しくなってきたんだ。こんなところでやめねえよ」

 あの頃のような感情がおれの中に舞い戻ってきた気がした。勝ちたい――純粋で無垢な想い。

 おれはぬるま湯に浸かりすぎていた。いつの間にか勝てる勝負しかしてこなかった。一生の不覚だ。何たるチキン。結果、知らず知らずの内に、おれは自分のスタイルを自分で崩していた。安全に裏打ちされた勝負で一体何を得られるというのか。そんなモンに犬の糞ほどの価値もないことなんて、よくわかっていたはずなのに。己の全てを懸けるからこそ、勝負事は価値があるのだ。

「さあ、続けようぜ」

「何のためにだ?」

 苛ついた様子で、日比野は吐き捨てる。

「実力差はハッキリしただろう。俺とお前とじゃレベルが違う。それが現実だ。確実に敗けるとわかっている勝負に何の意味がある?」

 先ほどの自分の発言と矛盾するようなことを日比野は口にする。

「…意味? 意味なんて知らねえよ」

 おれは言った。

「だったらなんで――」

「言ってんだろう。証明してえからさ。おれはここにいるってな…! 最初からそれ以外、他に何もねえよ」

 おれは自分の胸を指差し、言った。

 日比野は何かを言いかけたが、それを噛み砕き、おれを鋭く一瞥した。が、すぐに表情を消し、それ以上何も言わず開始線へ戻っていった。どうやらゲームを続けるつもりはあるらしい。

 括ったつもりでいた腹を、おれは再度括りなおした。

 試されている。おそらく、今この瞬間に。おれという人間の存在意義を。おれという人間の真価を。ならば示せ。おれがおれたる存在の理由を、この四角い檻の中で証明してみせろ。たとえそれが、蝋で固めた羽で空を飛ぶような愚かで無謀な行為であったとしても。

 何度目かの開始線――おれたちは飽くことなく向かい合う。

 得点板に刻まれたデジタルの時計。日比野が宣言した時間まであと――「1分だ」

「現時点でお前が上だっていうんなら、1分でお前に追いついてやる」

「…やれるもんならやってみろ」

 日比野が腰を落とした。改めて日比野を観察する。アスリートらしかぬ華奢な身体。身長もこの球技に於いてはハンデと言わざるを得ない。精々170㎝そこそこだろう。だが、身長が高い方が有利というそんなバスケットの常識も、この男が持つ運動能力アビリティ潜在能力ポテンシャルの前では霞んでしまう。規格外のキャパシティーで小柄な体躯ながら一流にまで昇り詰めた男。確かに日比野はクラッシャーなのかもしれない。『荒らし屋』ではなく、常識や凝り固まった価値観を根刮ぎ張り倒していく『破壊者』の方の。

 正直脱帽する。素直にそう思う。

この男を倒せれば。この男を超えることができれば――今より少しはマシな景色が見えるかもしれない。

 おれは腰を落とす。日比野も構える。白い世界が急ピッチで構築されていく。おれを取り込まんとするその感覚。その中で喰われそうになりながら、おれは黒い自我を放ち続ける。壊される。崩される。恐かった。おれがおれでなくなりそうで、日比野の世界は眩し過ぎて恐かった。だが同時に、言いようのない昂揚感も感じた。その昂揚感を催す正体が何なのかは、おれ自身にもわからない。わからないことばかりで、それを理解できない自分自身に幾ばくかの苛立ちと、少しのもどかしさを感じる。

 おれと日比野――似ている、と思った。何がと明確に答えられるワケじゃない。だが似ていると思った。似て異なる世界を所持する者同士だからだろうか。何か根本で相通ずる感覚があるんだろうか。わからない。おれには何もわからない。

 おれの筋肉が反射する。呼応するように日比野の筋肉も反射する。

 動き出そうとしたその刹那だった。

 おれの頬に、日比野の拳がめり込んだ。

 おれは思わず後退った。まさか拳が飛んでくるなんて思っていなかった。不意を突かれたせいで、衝撃が脳髄まで響いた。

「何……しやがんだ、テメェ!」

「…気が変わった。もう遊びは終わりだ」

そう吐き捨てた一瞬だけ、日比野の顔に苦々しいものが奔るのを見逃さなかった。苦渋とも憤慨とも取れるような――そんな複雑な表情だった。

 身を翻し、日比野はフープの出口に足早に歩き出した。

「おい、待てコラ! まだ勝負はついてねえだろがっ! テメェこの野郎、逃げんのか!」

 唐突の出来事に脳味噌は混乱を極めていたが、おれは咄嗟に日比野の背中に思いつく限りの罵声を浴びせた。

 日比野は不意に立ち止り、いつものような冷徹な眼で一瞥を寄越し「鬱陶しいんだよ」と吐き捨てた。

「なんだと――」

 おれが吐き捨てる前に、日比野はすべてを拒絶するように背を向け、足早にコートから出て行っていく。『GARDEN』の出入り口の鉄扉に行き着くまで、日比野を止める者は誰もいなかった。まるでモーゼの十戒ののように、日比野が歩く先々は人垣が割れていく。 

 出入口の閉まる音をきっかけに、呪縛が解けたようにようやくギャラリー共がざわつき始めた。 

 試合の途中放棄――『GARDEN』の短い史上で前代未聞の暴挙。ギャラリーの反応は当然だった。それとは対照的に、主催者の藤堂はそんなことには無関心のように何処か宙の一点を見たままガンジャを燻らし、口を開く気配すらなかった。日比野が鉄扉に向かう最中、藤堂と視線を絡ませる瞬間が合ったが、藤堂は何も言葉を発しなかった。

 五代はそんな藤堂の様子を気にかけながらも、ギャラリーに静まるよう声を大にして命じていた。

 おれは一人残されたコートで、ありったけの呪詛を口に扉を睨みつけていた。 

 日比野の行動は理解に苦しむが、考えたところでおれに何かわかるはずがない。真相が何にせよ、悔やまれるのは放棄という形でゲームが終わってしまったことだ。

「ふざけやがって……!」

 落胆が肩と胸にのしかかった。苛立ち混じりに唾を吐いた。血の混じった唾がコートに跳ねた。一発貸しができちまったじゃねえか。それも、大きな貸しが。思わず舌打ちが漏れた。

 相手がいなくなったコート。狭いはずなのに、急に広く寂しく感じた。昂揚感は一気に萎み、暗澹たる気持ちが雷雲のように広がっていく。何度も舌打ちをし、短く叫び、苛立ちを放出する。怒りが頭蓋骨を圧迫する。頭を垂らして左右に振った。

 ふと何かが眼についた。コートに何か羽根のような物が落ちていた。おれはそれを拾い上げた。

 ような・ではなく、それは羽根だった。思い至る。日比野の腰のドリームキャッチャー。あれについていた羽根だ。激しい動きの連続に耐え切れず、繋ぎの糸が切れてしまったのだろう。

 苛立ち混じりに羽根を握り締めた。脳裏に流れる結末を握り潰そうとした。

 あのまま続けていればどうなった?――見えてしまう現実に、思わず歯を噛み締める。

「くそったれが…!」

 おれは口の中に広がった血とともに吐き捨て、コートを出た。



                   2



 日比野がおれと勝負してから3週間が経った。あれ以来日比野は『GARDEN』に姿を見せていない。

 おれに対するお咎めはなかった。日比野の途中放棄で決着が着かず仕舞いの勝負は、形としては追い払ったので結果オーライといったところだ。だが、たとえそういう判断だったとしても、藤堂がそれで納得しているとは思えない。この寛大な措置が逆に不気味でもある。

 日比野が現れなくなっても、『SPIKY』の動きは相変わらずだった。抗争は日に日に激しさを増していった。そのうち本当に死人が出るかもしれない。

 五代の携帯電話が鳴る。相槌を打つ五代の眼がだんだんと眇められていく。電話の向こうの相手にひとしきり指示を出し、五代は携帯電話を閉じた。

「藤堂さん、『SPIKY』が街で暴れているそうです」

 ゲームを眺めながらガンジャを吹かしていた藤堂に、五代は言った。藤堂の回りにいる連中に殺気混じりの緊張が奔る。藤堂は気怠そうに五代に目を向けた。最近、藤堂のガンジャの量が明らかに増えている。

「今入った情報によると何隊かに別れていますね。あちこちで目撃情報があります。ウチの奴らもすでに何人かやられているみたいですね…。クソッ! 最近やたらと攻めてきやがる…!」

「こっちにも情報来てるよ」黒ツナギが横から口を挟む。「結構な数みたいだね、あちらさん。この抗争もついにクライマックスかな?」

 黒ツナギは緊張感の欠片もない嗤いを顔に貼りつけながら、携帯電話を振ってみせる。その間も携帯電話はメールの着信を知らせるバイブが繰り返し鳴っていた。まるで2大勢力の潰し合いが本格的に始まる合図のようだった。

「わざわざ殺されに来るとはご苦労なことだな」  

 藤堂が嗤う。

「すぐ準備して潰しに行きます。今日で全部終わらせてやる!」

 そういうや否や、五代は側にいたノッポの男に指示を出した。

 その時、『GARDEN』の入り口の扉が開いた。

 全員の意識が入り口に向けられる  同時に誰もが息を呑む。

 おれも眼を疑った。

 現れたのは、日比野だった。

「このタイミングで…!」

 五代が苛立ちを押し潰したような声を漏らす。おれは思わず藤堂に眼を向けた。悪寒が奔るほど冷酷で怒気を孕んだ眼が、日比野を見据えていた。

 自分に向けられる殺伐とした視線を気にするでもなく、日比野は藤堂に向かって歩いてくる。いつもより暗さと冷気をまとった眼光。日比野の導線にいた連中は死神の鎌に触れまいと、大きくのけぞって道を譲る。

 声をかけようとした  できなかった。雰囲気もさることながら、無言の拒絶が日比野の全身を覆っていた。明らかに意識的におれを避けている。なぜ?

 日比野は藤堂の眼の前で足を止めた。暫くの間、日比野と藤堂は無言で睨み合った。そのひりついた空気に、誰も口を挟めずに傍観する。

「何の用だ」

 口火を切ったのは五代だった。腐っても№2。いつまでも押し黙っちゃいない。

「この間試合を途中放棄した分際で、ノコノコ顔出すとは大した度胸だな。それとも詫びにでも来たか?」

 日比野はまるで聞こえていないように、藤堂から眼を外さない。五代が舌打ちをする。

「聞いているのか、この野郎!」

 恫喝を込めた声  ようやく日比野が五代に眼を向けた。その仄暗い眼光に、五代がわずかに怯む。

「生憎だがな、今日はお前の相手をしている暇はない。とっとと  」

五代が言い終わる前に、日比野がジャケットのポケットから札束のズグを無造作に取り出し、足許に放り投げた。

「今日の賭け金だ」

 日比野が初めて口を開いた。金額は有に五〇万はある。全員がそのズグに驚きを隠せず、言葉を失っている。

「…いいだろう。相手をしてやる」

 思いがけない藤堂の反応に五代が弾かれたように顔を向けた。

「藤堂さん! 本気ですか? 今はこいつに構っている場合じゃ  」

「オレがいいと言っている」

 ぴしゃりと藤堂が言った。五代は困惑の表情を浮かべた。なおも反論しようとしたが、結局何も言わず「わかりました」と憮然と言った。

 金に眼が眩むような野郎じゃない。しかも『SPIKY』が潰しに来ている今この状況で勝負を受ける? 五代じゃなくてもおかしいと思う。藤堂  何を考えている? 日比野が絡むと、おれの知っている藤堂からズレる。

 藤堂と五代のやりとりに冷たい一瞥をくれ、我関せずといった体で日比野は踵を返し、コートに向かう。、踵を返す前に日比野が一瞬こっちを見たような気がした。

 五代の号令で『蛇狩』のメンバーが集まった。いつも藤堂の回りにいる取り巻き  幹部を中心に部隊が編成され、五代の指示のもと戦線へと飛び出していく。残った『蛇狩』のメンバーは十数人、幹部クラスは五代、とノッポのモヒカン、そして黒ツナギの3人だけだった。

「ペニーとラリーを呼べ」

 藤堂が言った。五代が驚いた表情で藤堂を見る。黒ツナギが口笛を吹いた。

「…マジかよ、藤堂…!」

 おれは思わず非難めいた口調で言った。

「さあ、ショータイムだ」

 戯けた口調と裏腹に、藤堂は嗤っていなかった。


                   ☠


 ペニーとラリー――黒人の双子。

 ペニーとラリー――皮肉な名前。

 ペニーとラリー――おれが1ON1のチャンプなら、このコンビは2ON2のチャンプ。双子さながらの見事なコンビプレイを見せる。バスケットも。そして、喧嘩も。

 コートで日比野が倒れている。何度も殴られ、倒されたせいで服は汚れ、顔には暴力の痕が刻まれている。まだ試合が始まって5分程度の時間しか経っていないのにも関わらず・だ。

 2ON1――屈強な黒人のコンビを相手に、日比野は独りで戦っている。

 ペニーとラリーがコートに入ってきた時、日比野は文句さえいわなかった。ああ、やっぱりな  そういう眼をしただけだった。

 こんなことは今までなかった。どんな相手だろうと、ルールを無視して制裁を加えることなどただの一度もなかった。藤堂が日比野との勝負から逃げた。どう言い訳しても、おれにはそうにしか見えない。そしてそれは、五代も感じたはずだ。だからこそ、ペニーとラリーを呼べと命令された時、あれほど困惑したツラを――いや、信じていたものに裏切られたというようなツラをしていたのだ。

 当の本人はというと、お望み通り日比野がいたぶられているにも関わらず、ご満悦な素振りさえ見せない。おれは心の裡で藤堂に語りかける――なぜ日比野にそんなに拘る、藤堂? 

 野太い歓声があがった。日比野がまた吹っ飛ばされた。最早これはゲームではない。わかっていた。わかっていたが、おれの苛つきは頂点に達しようとしていた。

「どうしたんだろうねえ、コブラは」

 いきなり声をかけられ驚いて横を見た。黒ツナギがいつの間にかおれの横にきていた。

「らしくない対応をしたかと思えば、大して面白くもなさそうでさ。そう思わない?」

「知るかよ」

「そう邪見にしないでよ」黒ツナギは嗤う。「オレもあんたと同じで、この対応はどうかと思ってるワケでさ」

「……どういう意味だ?」

「とぼけちゃって。顔に書いてあるよ」

 黒ツナギは馴れ馴れしくおれのかたに手をまわし、ぐっと顔を近づけ、眼の奥を覗き込んでくる。

「納得できないよね? 面白くないよね? あんたをはまだ勝負に敗けたワケじゃない。それなのに、そのあんたを差し置いて黒んぼコンビが相手している。しかもゲームでなくて、これは制裁だ」

 黒ツナギはおれの反応を見るように一度言葉を止めた。心の裡を見透かすような双眸――黒ツナギはわかっている・というように嗤い、続ける。

「それってつまりさ、あんたはもう用なしって思われちゃってるのかな?」

 用なし――居場所を消滅させる魔法の呪文。心臓が一回、大きく跳ねる。跳ねたあとから泥水のように広がっていく何か――不安、恐怖、あるいはその類のもの。

「うるせえ!」

 おれは肩にまわされている黒ツナギの手を強引に払いのけた。

「お前、さっきから――」

「あいつともう一度勝負したいんでしょ? 誰にも邪魔されない場所で」

 おれが言い終わる前に、黒ツナギはおれの本心を突く。

 できるならそうしたい。だが、できない。おれは藤堂を裏切れない。クソみたいな場所でも、ここはおれがいられる唯一の居場所だ。それを失いたくなかった。

「てめえの知ったことかよ!」

 本心に突き刺さった言葉を振り払うように、語気を強めた。

「じゃあなんでそんなに苛ついているのさ」

「お前には関係ねえだろが」

「別にいいけど。それならそれで」黒ツナギはコートに目を向ける。「でも、このまま続けると、あんたの望みは叶わないよ。永遠に」

 黒ツナギの視線の先――日比野がボロボロになりながらもゲームを続けている。ボールを持っているペニーが抜くと見せかけて日比野の足を踏む。動きを封じられた日比野に、ペニーの強烈な右フックが炸裂する。ペニーが足を離して日比野がよろめいたところに、ラリーがアメフトばりのタックルをかます。誇張表現でもなく、日比野は、3mほど吹っ飛んだ。倒れた日比野は咳き込み、苦しそうにもがいていた。ペニーとラリーが今にも舌なめずりしそうな顔で日比野に近づく。くそったれたリンチ・ショーもそろそろクライマックスだ。

「敗けたらどうなるかわかってるんだろ? 特に彼はコブラの怒りを買っているからね。手を潰されるぐらいですめば御の字じゃないの?」

 黒ツナギの言葉がおれに凄惨な未来の映像を見せる。脳内再生されたそれの生々しさに戦慄する。おれは思わず日比野に駆け寄ろうとした――が、足が動かなかった。おれの意志に身体が謀反を起こしているようだった。

 くそっ! くそっ! くそっ!!

この期に及んでも、おれは天秤にかけているのだ。意志は日比野に、身体は熱を発散できる居場所に。カッコつけていても、結局おれも打算で動くクソ野郎じゃねえか。自分が心底厭になる。

「場所ならオレが提供してあげるよ」

 黒ツナギが言う。その言葉がおれの脳に浸透するまで少し時間がかかった。

「…何だと?」

「バスケを続けられる場所も、日比野と勝負する場所も、オレが用意してあげるって言ってんの。別にコブラや『GARDEN』…東京に拘っているワケじゃないんでしょ?」

 黒ツナギはまるで雑談のついでのように嗤いながら「ついでにここからもうまく逃がしてあげるよ」と加えた。

「…お前、何を企んでやがる」

 おれは睨んだ。きな臭過ぎる提案――飄々とした黒ツナギの表情からは何も読み取れなかった。

「別に何も。ただ純粋にあんたの力になりたいだけさ。なんたって、オレはあんたのファンだし、ね」

 信用できるか――おれがそう口を開く前に、黒ツナギが「信用できるできないじゃない」と言った。

「伸るか反るか、だよ、蘇我。ほら、悠長なこと言ってる時間はないんじゃない?」

 ペニーとラリーが日比野に近づいていく。日比野は力尽きたのか、それとも諦めたのか、大の字で寝転がって天井を見つめたまま動こうとしない。悩んでいる暇はなかった。

 くそったれ! なるようになれ!!

 おれはコートに向かって走った。

 今度は足が竦むことはなかった。


                   ☠


 ペニーが足を振り上げる。日比野は自分の顔の上に振り上げられた足がまるで見えていないように、瞬きひとつ見せずにいる。その顔はまるで罪を犯した罪人が天罰を受け入れるかのようだった。

 日比野が眼を閉じた。

「待てオラァア!」

 足を振り下ろそうとしていたペニーが、何事かと動きを止めた。おれは金網の頂上からペニーに向かってダイヴする。危険を察知したラリーが叫ぶ。それと同時におれの渾身のドロップキックがペニーの鼻っ柱を中心に顔面を押し潰す。

 おれの足裏に鼻が潰れる気持ち悪い感触を残し、ペニーは吹っ飛んだ。おれは受け身を取り急ぎ。、素早く立ち上がった。

 一瞬の静寂――すぐに怒号とも嬌声ともつかない騒ぎ声が上がった。ゲームに乱入するなど、『GARDEN』が始まって以来のことだろう。これでおれも日比野と同類ってわけだ。

 ラリーがおれに向かってオーバージェスチャーで罵詈雑言のスラングを喚きながらペニーに駆け寄る。早口過ぎて何を言っているのかよくわからない。とりあえず中指を立てておいた。

「お前……何で…」

 身体を起こしながら、困惑と警戒をないまぜにした声で日比野は言った。

 何で?――おれが教えて欲しいぐらいだ、くそったれ。ただ、ひとつだけ。たったひとつだけはっきりしていることがある。

「気に入らないからだよ」

「は?」と日比野は抜けた声を漏らした。

「何もかもが気に入らねえ。こんなものは勝負でもなんでもねえよ」

 吐き捨て、日比野に指を向けた。

「ついでに、お前も気に入らねえ! なにあんな雑魚に苦戦してやがる。お前があの程度の連中に苦戦すればするほど、お前と引き分けたおれの株がどんんどん下がるんだよ」

 日比野は暫し呆けたように固まったかと思うと、呆れたように盛大に溜息を吐いた。

「……馬鹿の考えてることは俺の理解の範疇外だな……」

「なんだその態度は? 助けてもらったんだから土下座して礼くらい言えよ」

「別に頼んだ覚えはない」

「今にも殺されそうだったクセによく言うぜ」

「冗談だろ」

 日比野は肩を竦め、立ち上がって服についた埃を払った。

「骨は? 内蔵はどこか痛むか?」

「大丈夫だ」日比野はダメージを確かめるように腕や脚を動かした。「全部じゃないが、捻ったりして勢い殺してたからな。見た目ほどダメージはない」

 意外に喧嘩慣れしている科白を吐く。

「それより、いいのかお前――」

 日比野は何かを感じ取って言葉を切った。同時におれの首筋も一気に総毛立つ。背中に物質的な圧迫感を持った殺気がぶつけられる。おれと日比野は同時にその殺気の発信源に眼を向けた。

 藤堂が金網の真ん前に立ち、おれたちを見据えていた。金網越しなのに危険地帯にいる感覚  おれは唾を飲み込んだ。ガンジャの煙の向こうに見える眼光。この視線だけで人を殺せると言われてもおれは信じる。

「何をしている、蘇我?」

 藤堂はゆっくりと煙を吐きながら、静かに、だが確実に息づく憤怒を匂わせながらおれに声をかける。

「見てわかるだろ。今から仲良くフラメンコを踊るんだよ」

 日比野が呆れたようにおれを見る。危機的状況でもおれのへらず口は変わらない。藤堂の眉間にクレパスのような深い皺が刻まれる。

「すぐにコートから出ろ。今ならまだ赦してやる」

 嘘だ。こんな逆らうようなマネをして藤堂が赦すはずがない。たとえそれがおれであっても――いや、おれだからこそ赦さないだろう。

 腹を括れ。もうあとには引けない。

「お断りだ馬鹿野郎。おれに命令するんじゃねえよ」

 背後でくぐもった叫び声がした。ペニーが潰れた鼻を抑えながら、今にも襲いかからんと喚いている。英語で撒き散らされる呪詛  脳髄を引きずりだしてぶち殺してやる、ジャプ。

「ペニー」藤堂が英語でペニーにちょっと黙っていろと命令する。ペニーはなおも言い募ろうとしたが、藤堂に睨まれると渋々口を閉じた。圧倒的に体格が優れているペニーでさえ、藤堂には逆らわない。逆らえない。今更ながら自分のしたことに目眩がする。

「そいつに過去でも刺激されたか」

 藤堂は一瞬日比野を見遣り、またおれに眼を戻す。

 おれは思わず鼻で笑った。おれの過去はクソに塗れている。刺激されるもなにもない。

「答えはもっとシンプルだ、藤堂。単純にやり方が気に入らねえんだよ」

「…まさかお前がオレを裏切るとはな。飼い犬に手を噛まれるとはまさにこのことだな」

 藤堂は咥えていたガンジャを吐き捨て、踏み潰す。

「後悔するぞ」

「後悔ならもうとっくにしてるさ」

「…まあいいだろう」

 藤堂は鼻で嗤うように息をついた。

「日比野と心中するというなら別に止めはせん。好きにするがいい」

 藤堂の物分りの良い科白に、『GARDEN』にいる誰もが自分の耳を疑った。らしくない科白――キナ臭過ぎる。

「言われなくてもそうするさ」

 訝しみながらも、おれは言った。

 藤堂はコート内の審判役に「続けろ」と顎をしゃくった。ペニーに「好きにしていいぞ」と頷いてみせる。

「精々抗ってみろ、蘇我」藤堂は踵を返しながら言った。「そしてすぐに思い出せるさ。お前が誰で、ここが何処なのか、をな」

「Hey!」

 お預けは我慢の限界というように、ペニーが叫ぶ。充血した眼がおれを捉えて離さない。

「ご指名だぜ」

 日比野が言った。おれはうんざりして肩を竦めた。

「お前――」

 何かを言おうとした日比野を手で制した。何を言おうとしたかなんて馬鹿でもわかる。おれを完全に信用しているワケじゃない。だが、自分を助け、飼い主に逆らった事実がある。日比野なりに頭を整理したいんだろう。

 だが――「話はあとだ」

 おれはそれだけ言った。今はうだうだと説明している暇もないし、自分の気持ちを正確に言葉にする自信もない。

「――わかった」気を入れなおすように鋭く息を吐く。「とりあえず、ここを切り抜けるのが先決だな」

「そういうこった」

 おれは足元に転がっているボールを思いっ切りペニーめがけて蹴った。ボールはペニーの顔面直撃コースで飛んだが、あえなくキャッチされてしまった。

 それを合図にペニーとラリ―が動き出す。

「足を引っ張るなよ」

 日比野が腰を落として構える。

「ほざいてろ死に損ない」

 おれも臨戦態勢を取った。

 さあ、サバイバルゲームの始まりだ。おれは短く叫び、気合を入れた。


                   ☠


 左に素早くフェイクをいれる。見事に釣られたペニーの身体の重心が左に傾く。崩れたバランス。一瞬の隙。おれは右にドライブし、抜きにかかる。

 抜けた、と思った瞬間、ラリーがヘルプに来ていた。反応が早い。一瞬フリーになった日比野と眼が合う。ラリーが肩からおれに当たってくる。おれは体当たりをし返すようにドリブルを続けた。だが、ドライブルートは遮断されていた。

 並行する大きな影。ペニーがおれに追いついてきていた。ラリーと挟まれる形になる。

「こっちだ!」

 日比野が声を上げた。日比野の声を無視し、おれは強引にドルブルを続けた。

 伸びてきたラリーの指がボールをチップする。ファンブルしたボールについ意識が向いた。右脇に衝撃。ペニーの肘がおれの脇腹に突き刺さる。胃液がまるごと逆流しそうな衝撃に、おれは吹っ飛んでコートを転がった。

 ボールを脚で拾い上げたラリーがそのまま蹴ってペニーにパスをする。ペニーは悠々とレイアップを決めたあと、舌を垂らした下卑た嗤い顔をおれに向け、ついでに親指を下に向けた。

「…野郎!」

 口に滲んだ胃液とともに吐き捨てる。痛みに胃がのたうち回っている。おれは腹を抱えて立ち上がる。

 ペニーとラリー。2ON2のチャンプは伊達じゃない。でかいクセに動きは俊敏。認めたくはないが、独りでどうにかなる相手じゃない。だが――。

「…おい、大丈夫か」

 近づいてきた日比野が言う。

「たいしたことねえよ」

 おれは邪険に振る舞う。眼をそらしたまま、その場を離れようとした。

「お前、今なんでパスしなかった?」

 その背中に刃を突き刺すような、日比野の声だった。

「俺が見えていたはずだろう」

「…行けると思ってよ」

 日比野はこんな答えに満足していない。振り向かなくてもわかる。だが、他に言いようがなかった。

「行こうぜ。オフェンスだ」

 逃げるように、おれは開始線へ戻った。背中に感じる視線に、不信感が募っているのがわかった。

 くそったれ。

 開始線――ラリーがマークの日比野を置いて、あからさまにおれに寄っている。二人はニヤニヤと下卑た嗤いを顔に貼りつけていた。

 視線を感じた。顔を向けると、藤堂がしたり顔でおれを見ていた。直感で理解した。このディフェンスは藤堂の指示だ。

 脳裏にさっき藤堂が言い放った言葉が蘇る――すぐに思い出せるさ。お前が誰で、ここが何処なのか。

 おれはもう一度口の中で吐き捨てるように呟く――くそったれ…!

 背中に背後霊のようにまとわりつくその言葉を振り払うように、全力で切り込む。日比野の叫ぶ声がやけに遠くに聞こえた。おれは完全に冷静さを欠いていた。もはや何も耳に届かない。

 フェイクも何もない突進。抜けるワケがない。ペニーに安々と肩を抑えられる。すかさずラリーがおれの膝裏を蹴る。膝が抜ける。腰が落ちた高さにペニーの丸太のような足の蹴りが飛んできた。咄嗟に頭をかばったが、ガードした腕を突き抜けて衝撃が脳みそを襲う。まるで車に衝突した気分だ。おれは肩からコートに叩きつけられ、勢いそのままに数m滑っていった。

 ペニーが悦に浸ったように快哉を叫ぶ。ラリーがボールを拾おうとした。その瞬間、日比野が突如ボール前に現れた。

 日比野はボールを思いっ切り蹴り上げた。ボールを拾おうと腰を屈めていたラリーの顔面に直撃する。ラリーの呻き声――直撃したボールを日比野が宙空でキャッチし、ゴールに向かってドリブルを開始する。

 ペニーがすかさず反応した。日比野の前に回り込もうとする。顔面直撃を喰らったラリーも、口と鼻から血を流し呪詛を呟きながら日比野を追う。

 前門の虎、後門の狼。ペニーとラリーがアイコンタクトを取った瞬間、日比野が急ストップした。後ろから追いかけていたラリーが日比野にぶつかりそうになり、つんのめる。ぶつかる直前、日比野は素早く身を躱し、ラリーの背中に回し蹴りを放つ。ラリーは加速してペニーに抱きつくように倒れ込む。

 ラリーがペニーに倒れ込んでいる間に、日比野は再びドリブルを開始した。ペニーは倒れ込んでくるラリーを引き剥がし、もたつきながらも咄嗟にディフェンスの構えをとる。

 日比野がダック・インでペニーに仕掛ける。右側に鋭いドライブ。ペニーは日比野の動きに何とかついていく。ふと、日比野の手にボールがないことに気づく。

 ボールは何処へ? 

 次の瞬間、日比野は身体を左へと切り返す。ビハインド・ザ・バッグ。背中を通してボールを進行方向と反対側へ持っていくテクニック。右から左への急激な変化。眼前で連続して起こる瞬間的な変化にペニーの脳味噌がパニックを起こす。追いかけようとしたペニーは足を絡ませ、その場で尻餅をついてしまった。

 アンクル・ブレイク。一流のドリブラーは、ディフェンスの足をプライドとともに破壊する。

 日比野がレイアップを決める。ペニーは尻餅をついたまま、驚きを顔に貼りつ日比野を見上げていた。その一部始終を見ていたラリーも、膝立ちの状態のまま呆然とした顔をして日比野を見ていた。

 おれもきっと同じ顔していただろう。人のプレイを見て圧倒されたのは生まれて初めてだ。

 日比野がおれに近づいてくる。確信めいた表情をしている。きっと気づいている。日比野はきっと気づいてしまっている。

 おれのくそったれた本性に。

 眼を合わせられず、逸らした視線の先――藤堂が立っていた。

 

                   ☠


「…藤…堂…!」

 喰い縛った歯から呪詛が漏れる。すぐに思い出せるさ――脳内で同じ科白が何度もループする。お前が誰で、ここがどこなのか。ああ、思い出したよ、くそったれ。おれが誰で、ここが何処で、そして――どうしておれがここにいるのかを。

「なるほど…だいたい分かった」

 おれの横に立ち、ひとつため息を吐いたあと、藤堂を見ながら日比野は独りごちるように言った。

「苦戦しているようだな」

 藤堂は煙を吐きながら言った。日比野は無言のまま、藤堂を見据えている。

「独りでやるのと勝手が違うか? それとも横にいるその男のせいか?」

「別に。お前に気を遣われるものでもない」

 この期に及んでも日比野の態度の変わらない。俺と同じく、日比野もまた日比野であり続ける。

 「まだそんな口を叩けるお前の精神力には敬意を表してやろう。褒美と言っては何だが、代わりに有益な情報を教えてやろうか?」

 嗤いながら藤堂がおれを見る。背筋に嫌な予感が奔る。日比野も横目でおれを見た――気がした。

「もうお前も薄々感づいているだろうが」藤堂は赤く燃えるガンジャの穂先ををおれに向けた。「こいつはチームプレイというものができない。いや、できなくなった、という方が正しいか」

 嫌な予感は質量を持って俺の背中にのしかかる。おれはそれに押し出されるように、藤堂に駆け寄った。

「藤堂!」金網越しに睨みつける。「いきなりしゃしゃり出てきて何ベラベラしゃべってんだよ…!黙って見てろよオイ…!」

 藤堂を見る眼に殺意が宿る。向けられるその殺意さえ、藤堂とっては飽きた玩具に過ぎない。刺激が足りないと言わんばかりの退屈そうな眼でおれを一瞥し、しかし無視して話を続ける。

「5年前に起きた、ある都立高の部活内傷害事件は知っているか?」

 勿論知っているだろう? と言外に含ませ、藤堂は日比野に問う。

「…ああ」日比野は藤堂の真意を図るように一呼吸置き、答える。「たしか、一人の生徒が同じ部活の連中全員を半殺しにした…っていう事件、だったか。現役高校生の逮捕で話題になった覚えがある」

「そうお前の記憶の通りだ。ならその前代未聞の傷害事件を起こして逮捕された奴の名前は知っているか?」

 黙れ、と叫びながらおれは金網を殴りつけた。こいつを黙らせろ――おれの中のもう一人のおれが叫ぶ。

「そいつの名前は蘇我」藤堂がおれに向かって顎をしゃくった。「お前の眼の前にいる、この男だ」

「藤堂ォ!」

 ありったけの呪詛がおれの身体を支配する。眼を背け続けているおれの忌々しい過去。ざわざわと血が音を立てて逆流していく。

「ではどうしてその傷害事件が起こったのか」

 藤堂はなおも話を続けようとする。今すぐ口を封じたい。どんな手を使ってでも封じたい。だが封じられない。もどかしさが身を焦がす。揺する金網がたわみ、耳障りな音を鳴らす。殺意で人が殺せたら、と思う。心の底から思った。藤堂はそんなおれの狼狽ぶりを愉しむかのように、薄く嗤い、続ける。

「事件の真相は、蓋を開ければ陳腐なものだがな。仲間だったはずの連中が、突出している蘇我の実力を妬んで金で雇ったチンピラに襲わせた。信じてた連中に裏切られ、あげく再起不能にされかけたのさ」

 そう言って藤堂は指でノックするように自分の手の甲を叩いた。

 記憶が嬉々として起き上がってくる。意志の力で無理やり抑えつけたが、抗う記憶が断片を撒き散らす。振り上げられた鉄パイプ。執拗に狙われる右手と膝。おれを蔑み、憎んだ眼。望感と同時に湧いた怒り。血塗れで倒れているチームメイトたち。鼻孔にまとわりつく鉄の匂い。赤く染まった両手――思い出しただけでも背筋が寒くなる。

「だからこいつはチームの連中に報復をした。自分に与えようとしていた苦痛と恐怖をそっくりそのままチームの連中に返した。実際、その中の何人かは今でも障害が残ったままの奴もいるほどに、な」

 黙れ! 黙れ! 黙れ!!――頭蓋骨を割りそうな勢いで声が頭の中で反響する。おれの中のおれが叫ぶ。藤堂を黙らせろ。目眩がする。動悸が激しい。反吐が出そうだ。声は喚き続ける。

 思えば、もう一人のおれの声を聞いたのはあの時が初めてだったかもしれない。

「こいつが他人を信用できないくなっても、当然といえば当然だな。人間の性根が腐っているという事実を身をもって経験したんだ。信じられるわけがない」

 藤堂はガンジャを足許に落とし、踏み潰した。

「さっきのプレイでお前がパスを求めた時も、お前がフリーなのがわかってて蘇我は無視をした。本能的に拒否したのさ。生き物としては経験を元にした立派な進化だが、この状況においては致命的な欠陥といえる」

「黙れっていってんだろうがっ!」

 頭の中の声とおれの叫びがリンクする。ほとんど絶叫に近かった。  

 わかったような口を叩く藤堂に激しい嫌悪感と憎悪を覚えた。

 お前におれの何がわかる――狂おしい思い。 

 お前はオレに似ている  藤堂の言葉が脳裏に蘇る。

 言いたいことは言えて満足したのか、ようやく藤堂は口を閉じた。

 おれが曝け出されてしまった。今一番知られたくない相手に、おれを知られてしまった。

 脱力感に見舞われる。金網に手をかけていないと、膝から崩れそうだった。

「なるほどな」背後から静かな日比野の声が届く。「あの事件の当事者……か」

 そう、おれはあの事件の当事者であり、チームメイトを半殺しにした張本人だ。

 罪を犯した人間は罰を受けねばならない。それがこの世界の常識だ。前代未聞の部活内傷害事件――おれは傷害罪で2年間、ブタ箱に閉じ込められた。

 日比野の視線を背中に感じる。おれは振り返れない。どんな顔をして日比野を見ればいいのかわからない。

 だから藤堂はおれの乱入を赦したのだ。おれが誰も信用していないことを知っているから。おれが所詮アンダーグラウンドに居場所を求めるクソ野郎だと知っているから。

 高嗤いが聞こえた。眼の前で藤堂が狂ったように嗤っていた。文字通りおれを見下しながら。思い描いていた通りの結末に嗤いが止まらないようだった。

 掌でいいように転がされた屈辱で全身が震える。耳障りな音が聞こえる。食い縛った歯から発せられる音だと気づいた。

「――それで?」

 耳障りな音を擦り抜け、そんな科白が聴こえた。ひどく冷めた声  高嗤いする藤堂に冷水をぶっかけるが如く、日比野は言った。藤堂の嗤い声がぴたりと止んだ。不似合いな静寂が『GARDEN』を支配した。

「…状況は理解しているか?」

 苛ついた口調で藤堂が言った。どうしようもない状況に畏れ慄く日比野が見れるとでも思っていたのだろう。そんな目論見が崩れたことが、不快感に輪をかけているのが見て取れた。

「お前にもう逃げ場はない。助けにきたはずの人間はチームプレイさえまともにできないただのお荷物だ。お前一人で戦っていたさっきと状態は何ら変わらん」藤堂はおれを一瞥し、鼻で嗤う。「足手まといがいる分、さっきよりも更に分が悪いだろう。お前はもう手詰まりだ。絶望と恐怖に打ちひしがれて震えろ。頭を垂れ、オレに赦しを請え!」

 炎が燃え上がるように、藤堂の声が熱を帯びる。今度は日比野が嘲るように嗤う。

「何がおかしい」

「何を企んでいたかと思えば…。おめでたい奴だな」

「何…?」

「この程度のことで俺の動揺を誘えるとでも思ったのか? 手詰まり? 絶望? 勝手に決めつけて悦に浸るなよ」

「何だと…?」

「俺を今までお前が相手をしてきたような連中と同列に語るな。反吐が出る」

 日比野も相当修羅場を潜ってきたのだろう。そういう人間だけが持つ独特の空気を、日比野もまた持っている。

「まだゲームは終わっていない。黙って見てろ」

 藤堂に指を突きつけ、日比野はそう宣言し、「蘇我!」と日比野が鋭くおれの名を呼んだ。おれはその声にビンタされたようにはっと顔を上げ、振り返った。眼が合った。日比野の眼――強い意志を宿した眼。おれを侮蔑する色はどこにもなかった。

「いつまでそうしているつもりだ。続けるぞ」

 そう言って、こっちへこいと顎をしゃくった。

「日比野!」

 藤堂が叫んだ。わずかにざわつき始めていた周囲が、その珍しい光景に再び水を打ったように静かになる。

「…楽に死ねると思うなよ」

 獣が唸るように、藤堂が吐き捨てた。絶望感を与えるつもりが逆に虚仮にされた。どれだけ口調を抑えても、迸る憤怒は隠しきれていなかった。ここまで感情的になる藤堂を初めて見る。一体日比野の何が藤堂をここまで刺激するのだろうか。

「まさか今のでひよったんじゃないだろうな? 少年A」

 開始線に戻っているおれに、先に戻った日比野が世間話でもするように軽い口調で言った。

 少年A――当時新聞を賑わしたおれの名称。何処の誰でもない、ただの記号。罪を犯した人間には相応しい。

「…すまねえ」おれは立ち止まり、地面に眼を落とす。「助けにきといてこのザマだ。藤堂の言う通り、足を引っ張っちまってる。おれは――」

 続く言葉は顔面に飛んできたボールに潰された。

「…ってえな! 何しやがるこの野郎!」

 おれは鈍い痛みが広がっっていく鼻頭を抑えながら言った。

「グチグチ五月蝿い。お前の過去なんざどうでもいいんだよ。こんなところにいるぐらいだ、脛に傷のひとつやふたつはあるだろう。別に驚きはしない。それよりも、今できることを考えろ」

「……お前……」

 普通だったら切り捨てるだろう。おれならきっとそうする。なのに、日比野はおれとまだ組むと言う。不思議で堪らなかった。

「やるしかないんだろう? 生き延びたかったらな」

 おれの問いを打ち消すように、日比野は言った。

「ゲーム中は、流石にあいつも邪魔できないだろうしな」

 藤堂に眼をやりながら、日比野が言う。おれは頷く。如何に藤堂が胴元とはいえ、金が発生しているゲームを中断こそすれ、途中で潰すようなマネはできない。それこそ暴動が起きる。

 なるほど。日比野の意図がわかってきた。ペニーとラリーを相手にしながら、脱出の糸口を探るつもりだ。少なくともゲームを続けている限り藤堂は介入できない。ペニーとラリーも決して楽な相手ではないが、藤堂に襲われるより遥かにマシで安全だ。おれにそういう発想はなかった。窮地の中でも最善の選択だ。日比野は冷静に状況を判断している。伊達に数々の賭場を潰し歩いていない。

 脱出の糸口を見つけるのが先か。おれたちが潰れるのが先か。まさに命賭けのデス・マーチ。いつまでも現状に悲観していても突破口は見つからない。なるようになれ。おれは鋭く息を吐き、覚悟を決める。

「…連携は期待すんじゃねえぞ」

 言い訳がましく口をついたその時、ペニーとラリーが襲いかかってきた。眼の前を拳が掠めていく。日比野はラリーの攻撃を避けながら、「気にするな」と返事をする。

本当にそれで大丈夫なのか? ペニーの猛攻にそう返す余裕がなくなる。防ぎ損ねた右拳がおれの頬を弾く。今日何度目だろか。おれはコートを転がった。

 日比野が素早くバックステップをし、ラリーと距離を取り、続けた。

「お前はお前の好きに動け。あとは俺が何とかしてやる」

 何とかって――そう声を発しようとした声を思わず飲み込んだ。

 日比野の身体から、肌がひりつくような恐ろしいまでの威圧感が放たれる。1ON1で感じたのと似た、でも異なる空気――背筋を伝う寒けは、カテゴリーは違うが、まるで藤堂のそれだ。

「せっかくの機会だ」

 攻めの姿勢を取った日比野がおもむろに口を開いた。

「お前に体験させてやるよ。本物のバスケットボールってヤツを」


                   ☠


「いくぞ!」

 掛け声とともに日比野が動く。ラリーが日比野に追従する。くそったれ! おれは膝立ち状態から素早く立ち上がり、ゴールに向かって走る。ペニーはおれのマークにつきながらも、日比野を警戒している。

 日比野がおれに与えた指示はひとつだけ――好きに動け。まるで犬に与える指示だ。が、もらう立場なら確かに色々気にしなくて済む。

 日比野の手が動く。ラリーの一瞬の隙をついて弾丸のようなパスが飛んでくる。いきなりのスピードボールに若干ボールをファンブルしてしまった。その隙にペニーがおれとの距離を詰める。ペニーと同タイミングで日比野がラリーを引き連れて走り込んでくる。パスができないなら貰いに行くまで。至極シンプルだ。ついでにおれをスクリーナーにしてラリーを引き剥がすつもりだろう。

 日比野がおれの元に到着する直前、おれは自分の身体を反転し、ペニーに背を向けた。日比野がおれの身体と自分の背中を壁代わりに、ペニーとラリーの視界からボールを隠す。同時におれの手元からボールを受け取る。

 右にフェイク――ペニーが釣られる。左にダック・イン――ラリーが反応する。胴体で体当たりをするように日比野に身体を寄せる。そこでラリーは異変に気づく。ダック・インの姿勢で隠されていた手元にはボールがない。  

 騙されたラリーの怨嗟の叫びを横目におれは再び身体を反転させ、日比野が抉じ開けたゴールへのど真ん中のルートをドライブする。

 あの瞬間――おれからボールを奪った日比野は、フェイクを入れて一度ドリブルした直後、おれにバックハンドでボールを返していた。受け取ったおれでさえ虚を突かれたぐらいだ。ラリーが見抜けなかったとしても無理はない。視覚だけでなく、音でも騙す。まさに詐欺師だ。

 おれはどフリーでレイアップを決めた。このゲームで初めてフリーでの得点だ。ラリーが悪い夢でも見たような顔で首を振っていた。

 攻守交代。ペニーが明らかに苛だった様子でドリブルを始める。ドリブルしながら肩でおれを体ごとかち上げようと、巨躯を押し込んでくる。イエローモンキーにいいように遊ばれている鬱憤が攻撃に現れている。

 このワンパターン野郎め。心の中で毒づいたその時、ペニーの脇下から突如別の腕が伸びてきた。日比野が音もなくペニーの背後に忍び寄り、手からボールを弾く。ペニーが身体に似合わない素っ頓狂な声を上げた。反射的にペニーは後ろを振り返る。そこには誰もいない――ペニーが振り向くと同時に、その逆方向に日比野は動いていた。ペニーからすればまるでポルターガイストにでもあった気分だろう。

 チップアウトしたルーズボールを日比野は素早く拾い上げ、開始線に戻るおれに向かってパスをする。おれはパスを受け取ると同時に開始線を踏む。攻守交代だ。律儀にルールを守る必要もないんだろうが、骨身に染みついてしまった習慣は無意識にそれを行う。

 ゴールに向かってドリブルを開始する。ペニーが立ち塞がる。ショックからの回復が早い。優れたプレイヤーほど、気持ちも攻守も切り替えが早い。そういう意味では、くそったれ野郎だがペニーもかなり優秀と言わざるを得ない。

 フェイクをかけて抜きにかかる。が、完全にコースを読まれていた。伸ばされた丸太のような腕がボールを弾く。くそったれ。

 弾かれたボールを誰かが宙空でキャチする。誰か――日比野。まるでボールの行き先がわかっているような動きだった。Shit! とペニーが吐き捨てる。

 ラリーが日比野の並行して走る。日比野とのマッチアップになってから、ラリーはいいようにやられっ放しだ。ラリーもレベル的にはペニーと遜色ないはずなのに、日比野にただただ翻弄されている。

「走れ!」

 日比野が鋭く、短く叫ぶ。その声に条件反射的におれはゴールに向かって走る。走り始めてすぐ、不思議な感覚に包まれる。自分の意志で走っているのに、何かに導かれるような、そんな感覚。向かうべき場所を、脚が――細胞が理解している、そんな感覚。

 日比野がラリーを抜きにかかる。素早くレッグスルーをして左へワンフェイク、そして超スピードのクロスオーバーで切り返す。これ以上好き勝手やられてたまるかとプライドを剥き出しにしたラリーが日比野のコースを遮断した。と思った次の瞬間、日比野の身体が回転した。

 クロスオーバーからのバックロール――シャムゴッド360。

 ストリートバスケの高等テクニックだ。完全に日比野に巻き込まれてしまったラリーは、身動きできずに抜きさられた。

 日比野の存在に獣の本能が危険を察していたのか、ラリーを抜いた先にペニーが待ち構えていた。抜き去られたはずのラリーもすぐさま日比野に追い縋った。2対1。だが、日比野はスピードを緩めず仕掛ける。

 ボールを投げようとする――フェイク。

 そのままの勢いで回転しながらレッグスルーで抜こうとする――フェイク。

 ビハインド・バックで右から左へ持ち替えようとする――フェイク。

 凄まじいスピードで次々とフェイクが繰り出される。ペニーとラリーは嘘に翻弄され続ける。こうして外から改めて見てみると、日比野のテクニックは半端じゃない。完全に別次元のボールコントロールだ。

 肉の壁の隙間から、日比野がおれに眼を向ける。合った視線から、日比野の思い描いているイメージが流れ込んでくるような感覚がおれを襲う。

 日比野はバックステップして距離を取りながら素早くレッグスルーをする。右から左へ、左から右へ――次の瞬間、まるで手品のように日比野の手元からボールが忽然と消えた。右手に来るハズのボールがない。理解が追いつかず困惑しているペニーとラリーを見下ろすように、ボールは二人の頭上にあった。

 おれは見た。2回めのレッグスルーの時、右の足の後ろ側にきたボールを、日比野は踵で左側へ蹴り上げたのだ。まるでサッカーのヒールキックのように。レベルが高いヤツほどボールの動きを追うようになる。その習性を逆手に取った日比野のプレイだった。

 事情から落下してくるボールを、日比野はそのまま掌底で弾くようにパスを出す。

 ボールは迷うことなく飛ぶ。おれと同じ場所へと導かれるまま。

 だからおれも飛んだ。

 Are You Ready?

 日比野がそう呟くのが聞こえた。

 空中でボールと合流する。それぞれのパーツがパズルのピースのように合致し、日比野が描いたイメージを具現化させる。

 操られているような気分――だが不快感はなかった。それよりも経験したことのない不思議な体験に気分が高揚していた。

 おれは空中でボールを受け取った。そしてそれをそのまま全力でリングに叩きつけた。

 アリウープ――ネットを通過したボールがコートを跳ねる。そんな音が聞こえるほど、『GARDEN』は一瞬無音になった。が、すぐに爆発的な歓声があがった。

 歓声? ここは『GARDEN』なのに? どいつもこいつも我を忘れたように声を張り上げ、熱狂している。

 誰もが、日比野に魅せられている。

 おれはリングにぶら下がってその歓声を聞きながら、いつものようにリングからの景色を眺める。何かが違う気がした。何も違わない気がした。おれには何もわからなかった。

 意識がそっちに行き過ぎたのか、リングを掴んでる指から力が抜ける。おれはコートへ落下した。

 仰向けで倒れた状態のまま、おれは天井を見上げた。ライトがやけに眩しく感じた。あの時感じた感覚は一体何だったんだろうか。おれは確かめるように自分の掌を握った。その感覚はもう掌に残っていなかった。

「悪くなかったろ?」

 足許から日比野の声がした。全てわかっている、とでも言いたげだ。腹立たしいことこの上ない。

 日比野は寝転んでいるおれに手を差し出す。逆光で日比野の顔がよく見えない。差し出された手だけが、はっきりと見えた。

 この手だ。この手がおれを違う場所へ連れて行った。そこはきっと、おれが行けたくても行けなかった場所。おれ一人ではたどり着けなかった場所。

 この手があの時にあったら――埒も明かない考えがよぎる。

 今と何かが違ったのだろうか?

「どうした? 頭でも打ったのか?」

 手を凝視して動かないおれに、日比野は怪訝そうに言う。

「…一体なんなんだよ、お前は」

 おれは言った。

「ただのプレイヤーさ」

 日比野は言った。

 くそったれ。おれは去来する全てのモノを振り払うように大きく舌打ちし、その手を握った。強い力で引き上げられ、おれは立ち上がった。

「…まあまあだな」

 おれは言った。日比野は呆れたように肩を竦め、開始線へと戻っていく。

 これが“才能”か。これが、おれが欲しかったものか。否が応でも悟る。同時にこれは絶対におれには手に入れられなかったものだということも悟る。そして気づかされてしまう。

 おれが今までバスケットだと思っていたものは何なんだ? 

 おれは自分の心のざわつきをはっきりと自覚した。羨望と敬意と――そしてそれらと同じだけの憎悪。

 変化はおれだけではなかった。プレイが再開されてすぐ、おれはその異変に気づいた。今までことあるごとにおれにタックルをかまし、プレイそっちのけで暴力の限りを尽くしていたペニー。そのペニーが、おれを真っ向から抜こうとしている。その眼はおれではなく、ゴールを狙っている。

 ギャラリーの連中といい、ペニーといい、一体どうしたってんだ?

 そう思いながらも、答えはわかっていた。こいつらもおれと同じだ。日比野が  そのプレイが、おれたちが捨てたはずの感情を叩き起こし、そして惹きつける。この僅かなゲームの時間で『GARDEN』にいる連中を変えてしまうほどに。

 ペニーがシュートを狙う。おれはブロックに飛ぶ。ペニーが急にパスに切り替える。走り込んできたラリーにパスが通る。ラリーは受け取ると同時に自分の股下から後ろにボールをバウンドさせ、背後につきている日比野の股下を通す。日比野が虚をつかれる。ラリーは素早く身体を反転させ、再びボールを自分で受け取り、そのままシュートを決める。

 ギャラリーがまた歓声を上げる。指笛まで聞こえる。ラリーが雄叫びをあげる。ペニーと強くハイタッチをし、胸をぶつけあう。誰もが興奮している。熱狂している。

「やるなあ、あいつら」

 プレイのみに集中したペニーとラリーは、そこらの経験者がかわいく見えるほどレベルが高い。気を引き締めてかからないと一瞬で喰われかねない。だが、日比野は嬉しそうにそう口にする。

「…ああ」

 無意識に漏れた同意の言葉に自分で気づき、おれは動揺した。おれは何を言っているんだ? 誤摩化すように大きく舌打ちをする。くそったれ。

 日比野は鼻を鳴らした――少し笑った、ような気がした。肩を強く叩き、歩いて行く。 

 さあ、こっちも魅せてやろうぜ。そう言われている気がした。

 おれは心の裡でその背中に問いかける。日比野。お前はおれを――おれたちを何処へ連れて行こうってんだ?

 続いていく攻防。鎬の削り合いは激化していく。いつまでも続くようでいて、だが、確実に終わりに向かっていく。

 日比野とラリーのマッチアップ。ラリーの顔には今までのような油断や廃退的なものは微塵もない。日比野に喰らいつこうと真剣そのものだった。だが、そんなラリーさえ日比野は翻弄する。そのスピードには、嫉妬すら追いつけない。

 不意に日比野がパスを飛ばす。おれは3Pラインの45度あたりでパスを受け取った。すぐさまラリーを引き連れ日比野が中央からサイドラインに向かって走り込んでくる。眼が合う――再び日比野からイメージが共有される。

 おれは日比野にパスを出した。ペニーが思わずボールを追った。まさかおれがパスをすると思っていなかった。そう顔に書いてある。おれも思っていなかった。おれの意志というより、共有されたイメージに倣って、身体が勝手に動いただけだ。

 パスと同時に踏み込み、一気にギアをトップに上げ走った。瞬発でペニーを置き去りにする。

 日比野はおれからのパスを、手首をスナップさせて軌道を変えた。完璧なチップアウト・リターン。再びボールはおれの手元に収まった。

 今までにないくらい、集中力が高まっているのが自分でもわかる。おれの世界に似ているようで、でも確実に違う感覚。周りが冷静に見える。自分の心臓の音まで聞こえそうなくらい、耳も聞こえる。細胞のひとつひとつでも自分の意思で動かせそうな気さえする。

 今なら、飛べるかもしれない。

 おれは思い切り地面を蹴って跳んだ。

 身体が軽く感じた。いつもより高く飛んでいる気がした。天井が迫ってくる。月なんかほら、手を伸ばせば届きそうなくらい、近い。

 今日の目的はそっちじゃないよ。誰かの声がした。錯覚に陥っているおれを現実に引き戻す。ああ、わかってる。全力でブチ込んでやるさ。

 おれは渾身の力を込めてボールをリングに叩きつけた。

 歓声とも絶叫ともつかない声が沸き上がる。興奮と熱狂が渦巻くコートに、視界が揺れる。スコアボードに点数が加算される。20対17――ゲームセット。勝負はおれたちの勝ちだ。

 割れんばかりの嬌声の中、獣の叫びのような声が混じる。ペニーが膝をつき、天井に向かって言葉にならない声を張り上げていた。ペニーは泣いていた。ラリーも頭を抱え込み、全身を振るわせていた。天を仰いで慟哭するペニーの姿は、まるで神への懺悔のようにも見えた。

 そんな姿を見ていられなくて、おれは視線を逸らした。共感なんてしたくない。したくないのに、二人の気持ちがおれにはわかる。わかってしまう。

 日比野を見ていると、心の奥の深いところで何かが動く。自分でさえ触れない、深い深い場所で。

 そして気づかされてしまう。失くしたもの――あるいは捨てたもの。その存在の大きさに。

 そして錯覚してしまう。さっきのおれのように、まだ、自分には羽根があるんじゃないかと。そんな馬鹿げた幻想を抱いてしまわずにはいられなくしてしまう。

 残酷な存在だ。日比野はおれたちみたいな人間にとって、何よりも残酷な存在だった。

 なあ――おれはペニーとラリーに心の裡で呼びかける。

 おれたちは、いったいどこで間違ったんだろうな。

 不意に腕を強く掴まれた。先ほどまでと打って変わって険しい顔の日比野がおれの腕を掴んでいた。

「おい、何をぼさっとしているんだ」

 その焦燥感溢れる表情を見て、おれは状況を再認識する。ゲームは終わってしまった。ここから今すぐ脱出しなければいけない。でも、どうやって――。

「見ろ。興奮した奴らと賭けに勝った奴らとでホールはぐちゃぐちゃだ。逃げるチャンスは今しかない」

 日比野の言う通り、ホールは人でごった返していた。賭けに勝ったやつは換金所へ我先にと押し掛け、興奮した連中は仲間内で狂ったように嬌声をあげるかモッシュを踊っている。まさにカオスだ。全てのヤツらの意識がおれたちから逸れているとは言わないが、この混乱に乗じて逃げるしか、チャンスは確かになさそうだ。

 出口に向かって駆け出そうとしたまさにその時、背後から凄まじい音が聞こえた。何か硬質な物を力任せに地面に叩きつけた音。聞き覚えのある嫌な音――おれは戦慄とともに音のした方向に目を向けた。

 ペニーが顔面から地面に突っ伏していた。その下に急速に赤い液体が広がっていく。その後頭部に振り下ろされた脚が、無慈悲にさらに圧し潰す。べちゃ、という肉が潰れる音とともに、ペニーの四肢が跳ね上がり、痙攣する。

「…くそったれ」

 全てを呪うように、日比野が吐き捨てた。おれも思わず飲んだ息を吐くのを忘れた。

 藤堂がおれたちの進路を絶つように、前に立ちはだかっていた。

          

                   ☠


「そんなに慌ててどこへ行くんだ、蘇我?」

 藤堂はおれに語りかける。静かな、しかし確かな怒り――まるでガスが充満した部屋でライターを持っている気分だ。

 お得意の減らず口を叩く余裕すらない。この危機的状況に、おれは内心であらん限りの呪詛を吐いた。出口は藤堂の後ろ。ひとつしかない出口に向かうには、藤堂を避けて通れない。やりあうか? すぐさま頭を過ぎったその考えを打ち消す。自殺行為すぎる。

 くそったれ。一体どうすれば  。 

 おれが逡巡しているその時、藤堂に背後から覆い被さるように影が襲いかかった。影――ラリー。奇声をあげながら藤堂に掴みかかろうとする。相棒のペニーを潰された怒りで完全にキレている。藤堂の注意がおれたちからラリーに逸れる。

 今だ  日比野に目配せをする。日比野もおれを見ていた。交わされるアイコンタクト。確かめるまでもない。考えは同じだ。ラリーに注意が向いた今この瞬間しかチャンスはない。迷っている暇はない。行け!

 おれと日比野は弾けるように左右に別れ、藤堂を回り込むように走った。ラリーには悪いが、怒れる蛇の慰みモノになってもらう。

 藤堂は背後から襲ってきたラリーを避け、脇腹に鋭いボディブローを叩き込む。離れた場所からでもはっきりと骨が折れる音が聞こえた。

 ラリーがその場に蹲ると同時に、藤堂はおれに身体を向けた。

 踏み込んだ――と思ったら、藤堂はおれの真横にいた。数mの距離を一瞬で詰められた。どんな脚力していやがる! 理不尽な事実に叫びだしたくなる。

 藤堂の裏拳が走るコースを遮るように放たれる。咄嗟に避ける。こめかみを拳が擦っていく。思わず体制を崩した。腹に突き抜けるような衝撃が奔る。藤堂の左フックがおれの腹にめり込んでいた。内蔵が口からこぼれそうになる。おれは思わずその場に膝をつく。

 胃液を吐いているおれの髪の毛を鷲掴みにして、藤堂は無理矢理顔をあげさせる。

「惜しかったな」

 ちっとも惜しくなさそうに、藤堂は言った。

「蘇我!」

 日比野が立ち止まり、叫ぶ。

「行…け!おれに構う――」

 藤堂の拳がおれの左頬を打ち抜く。まるで岩で殴られているような衝撃に、一瞬意識が飛んだ。

「お前には期待していたんだがな、蘇我」

 さらに返す刀でもう一発。今度は右頬に裏拳がめり込む。

「どうしてオレを裏切った?」

 一発一発が異常に重い。たった2発でおれは完全にグロッキーだった。視界の隅で日比野が動いた。出口に向かって逃げるのではなく、おれと藤堂の方へ向かってくる。

 逃げろ、この馬鹿野郎――言葉にならない声は日比野には届かない。

「藤堂!」

 日比野が藤堂の顔面めがけてストレートを放つ。藤堂はおれから手を離し、左腕でいとも簡単に日比野の追撃を下から薙ぎ払った。その場で素早く回転し、日比野のがら空きになった腹に回し蹴りを叩き込む。日比野の身体は宙を舞い、元いた位置まで吹っ飛ばされていった。

「お前は次だ。そこで這い蹲って大人しくしていろ」

 藤堂はそう言い、産まれたての子鹿のように必死に立ち上がろうとしているおれの顎を無慈悲に蹴り飛ばした。耳の奥でガラスが割れるような音がした。口の中が血で溢れた。

 藤堂は血が喉に入り激しく噎せているおれの髪の毛を掴み、無理矢理立たせた。抵抗を試みる――だが、身体に力が入らない。藤堂が拳を握り、再びおれを殴り始める。完全に人間サンドバッグ状態だった。一撃ごとに意識が遠のく。自分の肉が潰れる音を全身で聞聴く。身体が燃えるように熱い。殴られた箇所から炎があがり、全身を灼いていくようだった。遠のいた意識の中で見てはいけないものを見た気がする。

 おれの四肢が完全に脱力したのを確認し、藤堂が攻撃を止めて掴んでいる手を離した。おれは糸の切れた人形よろしくその場に崩れ落ちた。

 藤堂の意識が日比野に向く。行かせるな――辛うじて繋がっている意識の中で、その意志のみが強く響く。咄嗟に伸ばした手が藤堂の左足首を掴む。頭上から振る忌々しそうな舌打ちが、やけに遠く聞こえた。藤堂は乱暴に掴んでいるおれの手を蹴り払った。

「よほど死にたいらしいな」

 藤堂が再びおれに身体を向けようとしたその時、日比野が掠れた、だが静かな声で「もういい」と言った。

「もういい、蘇我」

 金網に凭れ掛かり、日比野は天を仰ぐように天井に顔を向ける。

「ほう…随分潔いな。殺される覚悟ができたか」

 藤堂が言った。薄い意識の中、おれは日比野に眼を向けた。

「…巻き込んじまって悪かった。願わくば、上手く逃げてくれ」

「逃げる?」

  藤堂が思わず、といった感じで失笑した。

「恐怖で頭がいかれたか? この状況でどうやって逃げるつもりだ? それとも何だ? お前が今から逃げ道を作ってやるのか?」

 藤堂が状況を誇示するように両手を広げた。おれも虚ろな意識のせいで聞き間違えたと思った。状況だけ見れば、日比野が錯乱したと誰もが思う。しかし、日比野の瞳に狂った色はなかった。どちからと言えば、悲痛さを滲ませている。

「どうやらお前には圧倒的に絶望が足りないようだな」藤堂が日比野に躙り寄る。「今すぐ息もできないほど絶望に溺れさせてやる」 

 藤堂の言葉が耳に届いていないのか、日比野はおれに眼を向け、後悔したような――辛そうな顔を見せたかと思うと、再び藤堂に顔を向け、冷酷な眼をして言った。

「溺れるのはお前だよ、藤堂」

 日比野は天井に向かって大きく手を上げた。

 それが合図だった。

 轟音とともに『GARDEN』の扉が開け放たれ、雄叫びとともに武器を持った集団が傾れ込んできた。同時に発煙筒がいくつも投げ込まれた。強襲してきた集団は一目散に『蛇狩』のメンバーに襲いかかった。パニックになっている『GARDEN』の客も巻き添えに、誰それ構わず駆逐しようとしている。襲いかかるその集団が羽織っているライダースジャケットの背中には、棘だらけのオブジェクトが刺繍してあった。

 混乱の中、誰かが叫んだ――「『SPIKY』だ!」

『蛇狩』と対立側の最大勢力である『SPIKY』の、いきなり強襲。そこかしこで断末魔のような叫び声や肉を打つ打撃音、破壊音が交錯する。『GARDEN』は一瞬で殺気が色めく修羅場に様変わりした。

「…これはお前の手引きか?」

 混乱を極めるコートの外を見ながら、藤堂が日比野に言った。声からは動揺は見えない。が、発言まで少し時間がかかっている。藤堂も少なからずこの事態に驚いているようだった。

「まっさかー。ただの一般人の彼にこんなことができるワケないじゃん」

 コートの入り口から声が藤堂と日比野の間に割り込む。まるでこの地獄絵図のような状況を楽しんでいるような口ぶりの声の主に、藤堂とおれは同時に眼を向けた。

「ハーイ」

 満面の笑みを浮かべ、黒ツナギが手を振った。



                   3



「…榊」

 藤堂が言った。

「ご機嫌麗しゅう、我らがコブラ」

 黒ツナギは芝居がかった口調で、大げさにお辞儀をしてみせた。黒ツナギは後ろに6人、武器を持った人間を引き連れていた。

「…なるほど。これはお前の企みか、榊」

 コレ――藤堂は顎でフープの外を指した。

「うん、そうだよ。あんまり驚かないんだね、コブラ。予想でもしてた?」

「…誰かが裏で糸を引いているだろうとは思っていた。色んな事がタイミングよく重なって起こり過ぎていたからな。黒幕がお前ならたいして驚くことでもない。予想の範囲内だ」

「あれま。オレって信用なかったんだ。傷ついちゃうなー」

 まるで冗談を言い合っているかのように、黒ツナギはケラケラと嗤う。この状況下でこういう嗤い方をする黒ツナギ――この野郎もまた、狂っている。

「こいつらもお前の仕込みか」

 藤堂の目線が日比野、そしておれへと動く。

「そうだよ。あ、でも蘇我は特別ゲスト枠で――」

「いつまでグダグダと話してるんだ、榊」

 会話を遮って、後ろの一人が黒ツナギを押しのけながら前に出てきた。デカい図体に坊主頭。左目に眼帯。眼帯の下から口にかけて奔る裂傷痕。見覚えがある。いや、忘れるはずもない。

「廣瀬か…」

 藤堂が呟いた。

 廣瀬――元『GARDEN』の№3。粗暴という言葉をそのまま人間にしたような男。五代が藤堂の右腕ならば、廣瀬は左腕に位置する男だった。思考は五代、暴力は廣瀬。そんな関係。だが、廣瀬は愚かだった。愚かで軽率に過ぎた。相手が誰でも――警察やヤクザ相手でもおかまいなしに暴れ回った。それ故に藤堂に見切られ、ヤクザの怒りを鎮めるための人身御供にされた。左目を潰され、半殺しのメに遭わされ、渋谷から追放された。

 その私刑の始まりがおれと1ON1だった。そしてそれがおれにとって初めての『掃除』だった。

「久しぶりだな、藤堂。覚えててくれて嬉しいぜ」

 廣瀬は顔を歪めた。嗤っているようだった。半殺しにされた後遺症  うまく動かない口を引き攣らせるように、廣瀬は嗤っていた。

「お前も随分といい格好じゃねえか。え、蘇我?」おれに眼を向け、廣瀬が言った。

「お前にも貸しがあるからな。あとでたっぷり返してやる。だがまずはお前だ、藤堂ォ…!」

 復讐の対象を眼の前にして怒りが抑えきれないのだろう、廣瀬の声は尻上がりに大きくなった。

「廣瀬」黒ツナギが窘めるように、ため息まじりに言った。「ちょっと下がってろよ。オレが今コブラと話しているだろう?」

「あ? だから何だ? オレがどれほどこの時を待ったと思っているんだ。グダグダ話している暇があったら、さっさとこいつをブチ殺させろ!」

「だからオレが話し終わるまでちょっと待てって」

 駄々をこねるガキを諭すような口調で、黒ツナギは言った。

「うるせえ! もう我慢できねえ!」

 憎悪から生まれた凄まじい執念に彩られた声色で、廣瀬は叫ぶ。

「オレはずっとこの時を待っていたんだ。 何年も屈辱に耐えてずっと待ってたんだよ! こいつらに復讐するために力をつけた! のし上がった! すべてはこの時のためだ!  これ以上オレの邪魔するっていうんだったら、お前から先に  」

 勢いよく呪詛を撒き散らしていた廣瀬が、振り返ったと同時に言葉を止めた。

 廣瀬の喉元に黒ツナギがナイフを突きつけていた。

「廣瀬」行動とは裏腹に、黒ツナギは静かな声で言った。「お前の気持ちはわかってるよ。充分過ぎるほどに。その執念も買ってる。だから協力して、ここまでお膳立てをしてやっただろ? そのオレが少し待ってくれとお願いしているんだ。もちろん待ってくれるね?」

 口調は穏やかだが、それは命令だった。有無を言わせない圧力――断れば突きつけられたナイフが躊躇なく喉を切り裂く。そういう危うい雰囲気を、黒ツナギは全身から醸し出していた。

「あ、ああ…。わかった。わかったから、な? ソレ、引っ込めてくれよ。オレたちは仲間だろう?」

 廣瀬がナイフを凝視しながら言った。ナイフがいつ横に動き、自分の喉を切り裂くかと恐怖している。廣瀬は知っているのだ。黒ツナギはその気になれる人間なのだと。たまにいる。こういう生き死にに関して無頓着な奴が。

「わかればいいんだ。ありがとう」

 この場にそぐわない爽やかな笑顔で廣瀬に微笑みかけ、黒ツナギはナイフをしまった。

「ごめんね、コブラ。話の途中だったね。どこまで話したっけか。ああ、そうそう、蘇我は特別ゲストってところまでだね」

「どういう意味だ?」藤堂が言った。

「そのまんまの意味だよ。最初立てた計画には、蘇我は含まれていなかった。この状況を作るのに一役買ってもらったってワケさ。…誰かさんが途中で自棄を起こしたっぽかったからね」

 黒ツナギはガキの反抗に手を焼くような口調で言った。誰かさん――指摘された当の本人《日比野》は、板についたポーカーフェイスで聞き流している。

 藤堂は眼だけで周りを見渡した。コートの外で狂騒は続いている。人が入り乱れている。しかし、金網に囲まれたコートの中にはおれ、日比野、ペニーとラリー、藤堂、そして廣瀬や黒ツナギたちしかいない。完全に隔離された状態だった。

「オレを孤立させることが狙いか」

「ご明察」

 黒ツナギはクイズ番組の司会よろしく、藤堂に指を刺した。

「『蛇狩』は厄介なチームだよ。伊達や酔狂で武闘派集団を謳ってないよね。抗争なら間違いなく東京で1番だと思うよ。アンダーグラウンドで王とまで呼ばれるあんたもいるし、あんたを崇拝しているメンバー同士の結束も強い。まともにぶつかれば『SPIKY』がいかに池袋最強のチームだと言っても、リスクがデカ過ぎる」

 黒ツナギの発言に、廣瀬は小さく舌打ちした。黒ツナギは、自分の仲間であるはずの廣瀬率いる『SPIKY』よりも、藤堂と『蛇狩』を上に見ている。黒ツナギはそれを隠そうともしない。そしてその態度が、廣瀬は気に入らないのだ。

「でも、どれだけ力のあるチームでも、集団は集団さ。頭を潰せばさすがの蛇も死んじゃうよね。だからオレはこの状況を作るように色々と仕込んだ。まずは群れの力を少しずつ削ぐことにした。次にあんたの冷静さを奪うこと。そして意識を別のところに向けるように仕込んだ。おまけだけど、飼い犬に主人の手を噛むようにも誘導した」

 飼い犬、のところで廣瀬、その他の連中が声を出しておれを嘲笑う。

「結果は上々。『蛇狩』の戦力は3割は落とせた。穿った穴から連携に綻びを生じさせられた。統率も乱れたね。あんたもどんどん冷静さを欠いていった。攻めるには今日は絶好の機会だったよ」

 黒ツナギは日比野を指差した。

「もう気づいていると思うけど、彼はオレたちの仲間さ」

 気づいていた。信じたくなかった。黒ツナギのその言葉を否定したかった。だが、眼の前の現実は雄弁のそれが真実だと物語る。

 なぜ?――その言葉だけがぐるぐると頭の中を廻る。藤堂も当然察しているようで、特に目立った反応はなかった。

「『SPIKY』が『蛇狩』のメンバーを襲う時は、基本的に不意打ちを徹底した。正面切って、っていうのもキライじゃないけど、余計な戦闘はこっちのダメージにも繋がるし、何より非効率だしね。仲間を呼ぶ隙を与えても困る。そういうわけで不意打ちスタイルとったんだけど、必ずしも仲間を呼ばれないとも限らない。少なくてもあんたと、幹部クラスの連中は、オレたちが一仕事終えるまでは確実にこの場に留まっておいてもらう必要があった。そこで彼に、その足止め役を任せたってわけ」

 黒ツナギはシュートを撃つように、手首を振った。

 日比野が現れると『SPIKY』の襲撃があった。やはりあれは偶然じゃなかった。見えていなかったピースが、ひとつひとつ嵌っていく。

「彼の存在は予想以上の収穫だったよ。いつもじゃ見れないあんたを見れた。ついでに蘇我はね、まだ『GARDEN』に彼がいるって知った廣瀬が、どうしてもあんたと一緒に復讐したいって言うんで計画に組み込むことにしたんだ。蘇我は日比野に異常に執着していたし、蘇我はあんたのお気に入りでもあったしね。面白くなりそうな予感がビンビンしたよ。どのタイミングで絡ませるかっていう問題はあったけど、結果的に最高のタイミングで投下できたよ」

 日比野に手を貸せと唆してきたのは、計画の一部だったわけだ。くそったれ。おれは黒ツナギの思惑通りに、まんまと日比野を助けにコートに乱入した。黒ツナギの掌で踊らされていた現実に、怒気が体内に充満していく。

「新宿や吉祥寺を潰したのもお前らか」

 藤堂が断定口調で言った。

「ああ、そうだよ。オレたちの連携が上手く行くかどうか、他の賭場でテストしたんだ」

「オレは必要ないっていったんだがな」

 廣瀬が先ほどの鬱憤を吐き捨てるように横槍をいれた。黒ツナギは仕方がない、というように肩を竦めた。

「ぶっつけ本番で事を進めるのは馬鹿のすることだよ、廣瀬。この世界は生き物だ。油断しているととんでもないことが起こる。何をどうしたら、誰がどう動くのか。いくつものパターンを確かめて、予想される様々なネガティブな要素を排除する。計画ってのはこの準備を用意周到にすることが一番大事なのさ。段取り8割って言葉、知ってる?」

 黒ツナギと廣瀬のやりとりに、藤堂が嗤った。

「お前らしいな、榊。昔から変わっていない」

「あんたは変わっちまったね、藤堂」

 そう言うと、黒ツナギは急に顔に貼りつけていた笑みを消し、鋭い眼で藤堂を射抜いた。

「…これまでに気づくヒントはたくさんあったはずだよ。ところどころで違和感を覚えたはずだ。昔のあんただったら、確実にその違和感の元を突き止めて排除した。だが、あんたはその違和感を放置した。正確には、それよりも優先させるものがあったんだろうけど」

 黒ツナギは日比野に眼だけ向けた。藤堂は何も反論せず、静かに黒ツナギを見ていた。

「まあ何にせよ、違和感を放置した時点で、あんたはもう終わってたんだ。言い換えれば危険を嗅ぎつけているのに何も対策しないなんて、アンダーグラウンドを統べる人間としてあっちゃいけない。あんたは他と違うと思ってたんだけどね。オレの見込み違いだったかな?」

 黒ツナギと藤堂の会話に聞き耳を立てながら、おれは何とか顔を日比野に向けた。

 日比野、お前本当にそうなのかよ。こいつらの仲間なのかよ。さっきのゲームも。おれに言った言葉も。あの伸ばした手も――何もかも全部嘘だったのかよ! 答えろ、日比野!!

  声は形になってくれない。代わりにありったけの思いを視線に込めた。日比野と眼があった。しかし日比野はすぐに眼を逸らし、断ち切るように舌打ちをした。

「おい、俺の仕事は終わっただろ。もう行くぜ」

 日比野は黒ツナギに言った。

「あれ? 帰っちゃうの? これからがいいところなのに? 折角だから最後まで見ていきなよ」

「悪いがお前らのいざこざに興味はない。契約はこれで完了だ。おれの目的は果たせた。これ以上お前らとつるむなんざまっぴらごめんだね」

 そう吐き捨てると、日比野はコートの出口に向かって歩いて行く。待て――おれは手を伸ばそうとした。手は動いてくれなかった。

「帰るのいいけどさ、外、気をつけてね。今危ないから」

 黒ツナギはそう言って、「はいコレ」と日比野に向かって札束を放り投げた。

「最後の報酬。あんたの功績を讃えて色つけといたよ」

 ゆうに50万はありそうな札束――日比野は札の厚さを気に留めるでもなく、無造作にジャケットのポケットに突っ込んだ。

「じゃあね。バイバイ。また会おうね」

 手を振る黒ツナギを睨むように一瞥し、日比野は再び出口に向かって歩き出した。

「いけすかねえ野郎だ」

 コートから出て行く日比野を見ながら、舌打ち混じりに廣瀬が言った。

「あんな奴に金なんぞ払う必要ねえじゃねえか。契約か何かしらねえが調子に乗りやがって…」

「まあそう言うなよ。彼あっての今だよ。感謝しなきゃ」

 そう言いながら、黒ツナギは電話をかけ始めた。眼の前に藤堂がいるのに、今抗争の真っ只中だというのに、いつも以上にリラックスした姿が黒ツナギの異常性を際立たせていた。

「あ、もしもし? 今ね、裏切り者が一人外に向かったから始末しておいて。報酬はそいつが持ってる金の半分。50万ぐらいはあったかな。早い者勝ちだよ。じゃ、頑張って」

 それだけ言うと、携帯を切った。碌なもんじゃねえな、と廣瀬が声を出して嗤った。釣られて後ろの連中も嗤った。悪意が耳障りな音を立てる。

「…なぜオレに全部話した?」

 黙って黒ツナギの演説を聞いていた藤堂が、疑問を口にした。

「決まっているじゃないか」

 黒ツナギは大げさに手を広げて言った。

「このままわけもわからずヤラれるのって可哀相じゃん? たとえどんなに自分たちがピエロでしかなかったとしてもさ。ストーリーに登場する以上、役割を教えてあげないと。まあ言ってみれば一種の親切心ってヤツかな」

「いつからそんな見え透いた嘘を口にするようになったんだ、榊?」

 藤堂の言葉に、黒ツナギは嗤った。その顔は紛うことなく悪意そのものだった。

「さすがに長いつき合いだけあるね、藤堂。オレをよくわかってる。そうだね。本心はね、自分の行動がぜんぶ他人に仕組まれた結果とわかった時の人間の顔が好きなんだ。運命を弄ぶ感覚っていうのかな。これほど刺激的で面白いものはない。…ま、あんたはあんまり踊ってくれないみたいだけど…なら、そろそろ別の踊り方にしようか」

 黒ツナギはゆっくりと腕を上げた。

「久しぶりに楽しかったよ、藤堂。こんなにドキドキしたのは本当に久しぶりだった。ステキな時間をありがとう。心から感謝するよ」

 その言葉が合図のように、後ろで待機していた連中が獰猛な雰囲気を放ちながら、黒ツナギの前に立つ。廣瀬を含め、6人全員が手の獲物を威嚇するように鳴らす。

「さよなら、コブラ。今日、その名前は地に堕ちる」

 黒ツナギが藤堂に向かって手を振り下ろした。

 号令の合図――奇声にも聞こえる雄叫びを上げ、『SPIKY』の連中が一斉に藤堂に襲いかかった。


                   ☠


 空気が唸る――6人一斉の武器での攻撃。さすがの藤堂も全ては避けきれない。後方から脳天めがけて振り下ろされた鉄パイプを右腕でガードし、足止まる。その隙を逃さず追撃をしようと振りかぶった眼の前の男の鳩尾部分に、藤堂の鋭いフックが突き刺さる。タイヤをバットでぶっ叩いたような、凄まじい音が弾ける。仲間の一人ががやられたことも気に留めず、廣瀬とその他4人は藤堂を攻め続ける。藤堂のこめかみからは、さっきの攻撃で擦ったのか、血が流れていた。

 黒ツナギは攻撃には参加せず、その場で右足の裾を捲り何か棒のようなものを取り出した。棒のようなもの――発煙筒。黒ツナギは発煙筒を擦って点火した。勢いよく炎と煙があがる。それを藤堂たちに向かって投げた。今度は左足の裾を捲って同じことを繰り返す。

 辺りは急速に煙で包まれていった。藤堂と廣瀬たちの攻防は煙に飲まれ、徐々に音だけしか聞こえなくなっていった。

 視界を覆う煙の中、オレに向かって影が向歩いてきた。そのシルエットは、いつだったかわけのわからん空間でおれのこめかみをぶち抜いた野郎にも見えた。

 煙から姿を表したのは黒ツナギだった。まるで自分の庭を歩いているような慣れた足取りで、おれのそばまで歩いてくる。

「まだ生きてる?」

 黒ツナギはしゃがみ込み、おれの顔を覗き込んだ。

「…ころ…す」

 細胞中から力を集めて声を振り絞った。お前だけは赦さない。憎しみがおれの身体に活力を与える。

「うん、まだ元気そうだね」黒ツナギはケラケラと嗤った。「そんな元気があるなら、オレを殺すとか言ってないで早く逃げた方がいいよ」

 今すぐこの野郎をぶち殺したい。だが、今のおれは殴るどころか手を上げることさえできない。地面に這い蹲るしかない自分の非弱さが恨めしい。 

「…どこ…から、だ」

 殺す――もう一度呪詛を吐くつもりだった。だが、口を衝いたのは違う言葉だった。

「うん?」

「どこ、から…おれを…」

 ああ、と合点がいったように、黒ツナギは声を出した。

「最初から、だよ。オレは最初からあんたに役割を与えていた。あ、最初っていうのは、あんたが日比野と初めて会った時から、って言った方がわかりやすいかな?」

 事も無げに言う黒ツナギの言葉に、愕然とした。 

 日比野との出会い――思い返す。いつだ。『GARDEN』で村上と対戦しているのを見た時か。いや、違う。その前に会っている。あれは確か――。

「そう、あんたが路地裏に止めたバイクに乗ろうとして、3人組に絡まれた時、だよ」

 おれの頭の中を見透かしたように、黒ツナギが耳元で囁くように言った。

「不思議に思わなかった? あいつらはどうやってあんたの居場所を知ったの? なんであいつらは裏路地とはいえちょっと行けば大通りに面しているような場所で騒ぎを起こしたの? なんで日比野はあの時、わざわざ足を止めてあんたを見たの? あと、叫んだ女がいたろ? あんな見通し悪い路地裏なのに、なんで? その全てが偶然? そんな馬鹿な!」

 黒ツナギは愉快そうに、一気に捲し立てる。勿体ぶった仕草で指を左右に振りながら、チッチッチと口を鳴らした。

「答えは簡単。それも、全部オレが仕組んだからだよ」

 再びおれの顔を覗き込み、理解が追いつかないって顔しているね、と言った。

「ゆっくりいくよ? いい? まず、あいつらにあんたの居場所を教えたのはオレ。襲うための武器をあげたのもオレ。気分よく襲ってもらうためにドラッグをあげたのもオレ」

 廣瀬たちに羽交い締めにさせて、無理やり口に突っ込んであげたんだけどね、と嗤う。

「女を叫ばせて警察を呼ばせたのもオレ。あの騒ぎは最初から最後までぜーんぶオレが仕組んだ。Are You OK?」

 子供がいたずらを自慢するように、黒ツナギはひとつずつ指を折って数えながら言った。

 おれは最初から黒ツナギの掌で転がされていた――その事実に愕然とする。

「そう! その顔!」黒ツナギは思わずといった感じで声を張り上げた。「その顔が見たかったんだ。藤堂はイマイチ反応薄かったから、ちょっと不満だったんだよね」

 おれの反応が余程嬉しかったのだろう、黒ツナギは嬉々として話を続けた。

「注意をね、向けたかったんだ。警察のね。オレたちがこの街で自由に動くのに最大の厄介者はやっぱり警察の眼だった。池袋の、しかも最大規模のチームが渋谷を彷徨いてたら警戒されるに決まってるでしょ。だからこの付近で――『GARDEN』の近くで騒ぎを起こす必要があった。そこであんたに白羽の矢を立てたんだ。ストレス溜まっているのは見てて丸わかりだったしね。あの騒ぎのおかげで警察の意識をこの辺りに向けられた。『蛇狩』も動きにくかったろうね。警察がその辺うようよしていると派手に動けないし、何かあったとしてもリアクションは確実に遅れる。外には警察、『GARDEN』には日比野。二重の足止め効果を狙ったってわけ。おかげでオレたちは動きやすかった。あんたにはあんたの役割がちゃんとあったってことさ」 

 ご苦労様、と黒ツナギはおれに微笑みかけ、下衆な労いを口にする。

「あ、そうそう。ついでにだけど。『GARDEN』に向かっていた日比野にあの場で足を止めろと指示をしたのもオレだよ。あんたが日比野の存在を認識するまでは動くな、ってね」

 どうして――眼でそう問い質す。黒ツナギは続けた。

「日比野の存在はきっとあんたを刺激する。確信があったからさ。日比野があんたに与える影響は、きっと楽しいことを引き起こすと直感した。直感は信じるものだね。ビンゴだった」

 ものの見事に弄ばれたというわけか。知らない間に拳を握っていた。抑えきれない怒りが呻き声になって口から漏れた。

「もっと色々話してあげてもいいんだけど…残念だけどここまでだね」

 そう言って黒ツナギは煙の向こう――おそらく藤堂たちがいる方向に眼を向けた。

「そろそろあっちも潮時かな。廣瀬たちじゃ藤堂には勝てないだろうし、終わる前にお暇しないとちょっと面倒になりそうだからさ」

 何を言っているんだ、こいつは? もう何度目になるのか、おれは黒ツナギを凝視した。凝視するおれの視線に気づき、黒ツナギは悪戯がバレたガキみたく嗤って肩を竦めた。

「ぶっちゃけどうでもいいんだよね、オレ。どっちが勝とうが敗けようが。オレが楽しめさえすれば、さ」

 おれの認識が甘かった。おれはようやく黒ツナギという人間を理解した。こいつは狂っている。間違いなく。それも、おれの想像を遥かに超える狂い方だ。これまでのすべてのことは、この男の暇潰しでしかなかったのだ。チーム同士の抗争も、廣瀬の復讐劇も、今この瞬間の惨劇も、おれの居場所を奪うことさえも――黒ツナギにとっては暇潰しの玩具でしかない。

 殺してやる――湧き出る殺意は留まることを知らない。おれの魂を弄んだこの野郎を絶対に赦すな。体内を駆け巡る殺意がおれに力を与える。

「殺して…やる」

おれは力を振り絞り、黒ツナギに手を伸ばす。黒ツナギはそんなおれを見て、声を出して嗤った。嗤いながらおれの手を蹴り飛ばした。再び倒れたおれの頭を踏みつける。

「いいね。やっぱりいいよあんた。今のはちょっと痺れた。つくづくあんたはオレを楽しませてくれる」

 黒ツナギはおれの頭から足を外し、もう一度しゃがんでおれの耳元に口を寄せた。

「楽しませてくれた御礼に、とっておきの情報を教えてあげるよ。あんたにとってとても有益な情報だと思うよ」

 そう言って黒ツナギが口にしたのは、何処かの住所だった。

「覚えたかい? 無事にここから逃げ出せれば、今言ったところへ行ってみるといいよ。あんたと関わりが深い、とっても面白いモノが見られるはずさ。きっとね」

 黒ツナギは再び立ち上がり、おれに微笑みかけた。

「じゃあ、元気で。運良く切り抜けられたなら、また会おう」

 そう言い残し、黒ツナギは軽い足取りで出口に向かった。黒ツナギの姿はすぐに煙で見えなくなった。

 くそったれ――消えた黒ツナギに向かって心の裡で毒づいた。

 煙に再び人影が映った。煙幕を振り払い出てきたのは、お揃いの革ジャンを着させられた『SPIKY』の下っ端だった。外にいた連中もコート内に入り始めている。場の混乱に拍車がかかっている。

 下っ端は興奮した様子で何かを探している。手に持った鉄パイプが血に塗れている。抗争の興奮に眼を輝かせながら、次の獲物を探している。

 下っ端がおれに気づいた。ズタボロのおれを見て嬉しそうに嗤った。次の獲物を見つけ、今にも舌舐めずりしそうな顔だった。

 身体は相変わらず動かない。下っ端はわざとらしく鉄パイプを引き摺りながら近づいてくる。

 具現化した死が近づいてくる。それでもおれの身体は神経が切れたかのようにビタ一文動いてくれない。

 下っ端が奇声とともに鉄パイプを振り上げる。おれは観念して眼を瞑る――こんなところがおれの墓場かよ、くそったれ!

 硬くくぐもった音がした。だが衝撃は訪れなかった。おれはゆっくりと眼を開いた。おれと下っ端の間に誰かが立っていた。顎が曲がった下っ端が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。音は下っ端の顎が砕けた音だった。

 お前がなんでここにいる?――おれは驚きを隠せない。日比野の顔に真新しい傷があった。逃げれたはずなのに、リスクを犯してまでここに戻ってきたのだ。その理由がおれにはさっぱりわからなかった。

「よう、まだ生きてるか?」

 日比野は言った。どいつもこいつも同じことを訊く。

 日比野は手にしていた鉄パイプを忌々しそうに投げ捨ておれに腕をまわして立ち上がらせた。全身に痛みが奔り、呻き声が漏れる。日比野に支えられていないと立つこともままならない。

「我慢しろ。文句は逃げてから聞いてやる」

 日比野は言った。おれを助けにきた? 何のために?

 日比野に引き摺られるようにして出口へ向かう。そこかしこで声がする。怒り、痛み、恐怖。様々な感情が入り交じった音が阿鼻叫喚のオーケストラを奏でる。硝煙と血の臭いが鼻を刺激する。視界が霞む。痛みを通り越して身体が熱い。内側から灼かれているようだ。実はおれはとっくに死んでいて、ここはもう地獄なのかもしれない。

「蘇我! しっかりしろ!!」

 日比野の叱咤がおれを現実へ連れ戻す。コートから脱出し、そのまま『GARDEN』の出入り口へと向かう。

 真横から雄叫びが聞こえた。また別の『SPIKY』の下っ端が襲いかかってきた。日比野はおれを抱えながら何とか攻撃を避け、裏拳で下っ端を殴り倒す。すぐさま別の  今度は『蛇狩』のメンバーが拳を振り上げて襲いかかってくる。その後頭部目掛けて『SPIKY』の男が鉄パイプを振り下ろす。血飛沫が飛ぶ。

 誰もかもがいかれている。誰もかもタガが外れている。目に映るものを片っ端からぶちのめさずにはいられない。

 『蛇狩』のメンバーの後頭部を鉄パイプで叩き割った男が、じりじりとにじり寄ってくる。 

 男がまさに飛びかからんとした時、『GARDEN』内に耳をつんざくような強烈な音が響き渡る。次いで、天井から盛大に水が撒き散らされた。非常ベルとスプリンクラーのコンボ――『GARDEN』に違う種類の混乱が強引に割り込む。

「こっちだ!」

 五代が日比野の肩を掴んで叫んだ。それに気づいた『SPIKY』の男が五代に襲いかかった。五代は鉄パイプを振り上げてガラ空きになったボディに素早く潜り込み、ワン・ツーでフックを叩き込む。男は胃液を吐きながらもんどり打って倒れた。

「行くぞ! はやく!」

 再び五代が日比野とおれを急き立てる。迷っている暇はない。日比野はおれを抱え直し、五代のあとを追う。

「これはお前か?」

 血と水のシャワーの中を駆け抜けながら、日比野は五代に訊いた。

「ああ。ちょっと手間どっちまって遅くなった。すまない」

 おれを抱えている日比野の身体が一瞬硬直した。声は出していないが、五代の言葉に日比野が驚いていることが身体を通じて分かった。

 五代の顔にも傷があった。ご自慢の伊達メガネはヒビ割れ、目尻がぱっくりと裂けて鮮血が滴っていた。非常ベルを鳴らす時に、一悶着あったのだろう。

「どういう風の吹き回しだ?」

 日比野は言った。

「オレにもわかんねえよ!」

 五代は忌々しそうに吐き捨てた。

 出入口の扉に手をかけた五代の襟首を掴み、日比野が五代を強引に引き倒した。

「な――」

 抗議の声をあげようとした五代の顔の真ん前を、凄まじいスピードで金属バットが通過していく。叩きつけられた衝撃で床のコンクリートが割れる。直撃すれば脳味噌が飛び散っていたほど無遠慮な一撃だった。また『SPIKY』メンバーだ。有象無象に湧いてくる。

「くそっ!」

「頼む!」

 五代の呪詛と日比野の声が重なる。日比野はおれの身体を五代に放り投げる。襲撃者がバットを構え直そうとする。日比野が手首を押さえつける。

「行け!」

 揉み合いながら、日比野が叫ぶ。瞬時の判断――五代は頷き、おれを抱える。

 五代が再び扉に手を掛ける。地獄から抜け出す唯一の扉が開かれる。

 おれは朦朧とした意識のまま振り返る。止むことなく振り続ける水の檻の中、獣どもが血で血を洗っている。血煙揺れ立つその奥の奥に、獣を統べる王の姿を見た。

 王は天を仰ぎ啼いていた。自らの炎で身を焦がしながら。死屍累々の山の上、獣の王はたった一人でその存在を誇示するように啼いていた。

 それが最後の記憶だ。

 遠くで慟哭にも似た咆哮を聞きながら、おれの意識はペンキをぶち撒けたように黒く塗り潰されていった。



                   4



 静かな振動がおれの身体を揺らす。振動がゆっくりとおれの意識を覚醒させる。深く昏い海の底から上がっていくような感覚に襲われながら、おれは眼を開けた。

 五代が怒鳴っていた。怒鳴られた中年の男は泣きそうな声で反論しながら運転していた。五代がシートの背中を蹴りつける。中年がか細い悲鳴を上げる。

 どうやらタクシーで移動しているようだった。朦朧とした意識で理解した。無事あそこから逃げおおせたらしい。

 身体を動かそうとして、全身に激痛が奔った。呻き声が漏れた。その声に五代が振り返る。おれの意識が戻ったことに気づいた。

「気づいたか、蘇我。よかった」

 五代は大きな息を吐き、安堵の表情を見せた。

「どれだけ声をかけてもピクリとも反応しなかったから、流石にヤバイと思ったぞ」

 日比野は?――口を開こうと身体を動かすと、全身隈無く拷問されたような痛みがトップスピードで駆け抜ける。

「大丈夫か? 待ってろ、すぐ病院に連れて行ってやる…おら、もっと急げって言っているだろうが!」

 五代は運転席のシートを再び蹴り飛ばす。タクシーの運転手は「勘弁してくれ!」と叫んだ。どうしておればっかりこんな目に遭うんだ、と震える声でブツブツと自分の人生を哀れみ、呪っていた。

 サイレンの音がした。五代が条件反射的に窓の外を注視する。対向車線をパトカーが数台走っていく。甲高いサイレンと赤い光が完全に消えるまで、五代は歯を食い縛りながらパトカーの尻を見つめ続けていた。

「日比野は…?」

 おれは言った。無理に動かそうとさえしなければ、声を出しても痛みは少なかった。外を注視していた五代はおれを振り返り、ゆっくり首を振った。

「わからん。出入り口で分かれたっきりだ。待っている余裕もなかった。無事に逃げているといいが…」

 そう言いながらも、五代が気にしているのは別のことなのは明白だった。落ち着きのない様子からすると、藤堂がどうなったのか気になって仕方がないのだろう。

「…止めてくれ」

 おれは誰ともなく言った。蚊の鳴くような声だったが、運転手は待ってましたと言わんばかりにすぐさまブレーキを踏んで急停止し、後部座席のドアを開けた。

「おい!」

 五代が恫喝を込めて運転手に叫んだ。

「早く降りてくれ! 降りてくれよ!」

 運転手も負けじと悲痛な叫び声をあげる。

 狭い車内で罵声と怒声がラリーする。開いたドア側の五代が動かないので、おれは仕方なく反対側のドアを開けた。運転手が嬉しそうな顔で振り返ったが、シートのおれが座っていた部分が血塗れなのを見て、また世界の終わりのような顔をした。

 痛みを刺激しないよう確かめながら、ゆっくり道路に降りた。歩道を見ると、奥にベンチがあった。見覚えがある。たしか山手通り添いにある、目黒川に入る船の管理場所か何かだったところのはずだ。

 少し身体を休めるにはちょうど良い。おれは亀の如くゆっくりとベンチに向かって歩いた。

「待て、蘇我!」

 後ろから五代の声がした。怒鳴り声と乱暴にドアが閉まる音。激しいタイヤのスキッド音がしたと思ったら、タクシーは猛スピードでこの場から去っていった。

「こんなところで降りてどうするつもりだ? 早く病院に行くぞ」

 おれに追いついた五代が腕を掴む。おれは強引に振り払った。アバラに一際激しい痛みが奔る。もしかしたら折れているかもしれない。

「…お前の世話にはならねえよ」

 立ち竦む五代を置き去りにして、おれは足を引きずりながら再びベンチへと歩く。

 ようやくベンチに辿り着く。おれは身体をベンチに投げ出し、寝転んだ。眼の前には月が爛々と輝いていた。

「どうなっても知らんぞ」

 おれの横に立ち、五代が言った。おれは鼻で嗤いながら、身体を手で点検していった。寝転んだ姿勢がいいのか、幾分痛みがマシだった。

 怪我のチェック――左目の瞼が腫れ視界が塞がっているが、目自体に痛みはない。眼球や黒目に傷はなさそうだ。歯は奥歯が折れているが、顎の骨は大丈夫そうだ。

 身体はアバラ以外、特に骨に異常はなさそうだった。しこたま殴られたにしては、随分マシな部類だ。喧嘩のためじゃないが、身体を鍛えていて助かった。

「どうだ? どこか違和感があるところはないか?」

 五代が心配そうな顔で覗き込んでくる。

「お前のその態度が一番違和感あるぜ」

 おれは言った。声を発するとアバラが痛んだ。点検のおかげで他に大きな怪我がないとわかると、一番酷い部分がおれを労えと言わんばかりに主張し始める。現金なもんだ。

「…そうだな」

 五代は途方に暮れたように呟いた。

「お前なんてどこぞでくたばっちまえばいいって思ってたのにな…。よりにもよって藤堂さんじゃなく、お前を助けるなんてヤキが回ったもんだぜ…」

 五代は帽子に手をおき、天を仰いだ。あの異常な状況から脱出して冷静になったはいいが、自分で自分のとった行動に理由を見つけられていないのだろう。葛藤が顔に滲み出ていた。

「放っておいたってくたばりゃしねえよ、藤堂は」

 おれは言った。慰めるつもりは毛頭ないが、実際、あの藤堂が相手が6人いて武器を持ってようが、敗けるイメージが湧かない。

「…警察が動いている」

 五代は言った。その確信した口調に、おれは思わず五代を見た。確かにあれだけの騒ぎを起こせば、当然警察も動くだろう。しかし、五代は動いている、と現在進行形で言った。

 遠くに視線を顔を向けた五代の顔は、覚悟を決めた人間のようにも、後悔に苛まれている人間の顔のようにも見えた。

「まさかお前が藤堂を裏切るなんてな…」おれは言った。「一体どういう風の吹き回しだ? 明日にでも槍が降るんじゃねえか」

「…さっき日比野にも同じようなこと言われたよ」

 五代は大きく息を吐き、ニット帽をずらして目元を隠した。

「…あんなマネ…して欲しくなかった」

 五代は歯を噛み締め、絞りだすように言った。

「日比野に対しても、お前に対しても…あんな姑息なマネをして欲しくなかった。オレの知っている藤堂さんは  オレが憧れたアンダーグラウンドの王は! あんなマネはしない…! しちゃいけない!! 歯向かう奴は圧倒的な力で叩き潰す。それが藤堂さんだったんだ…!!」

 叫びたい衝動を押し殺した声で、五代は言った。

 確かにオレや日比野に対する特に日比野に対する藤堂の態度は、つき合いの浅いおれでさえ違和感を覚えた。つき合いが長く心酔している五代なら、尚更藤堂の行動がおかしく感じたことだろう。

「くそ!」五代が吐き捨てる。「お前らのせいだ。お前らのせいで藤堂さんも! 『GARDEN』も! 何もかもがおかしくなっちまった…!」

 全ての始まりは日比野が『GARDEN』に現れてからだった。あいつは五代にとっても死神だった。自分の居場所を  憧れた人間を壊してく、憎むべき存在。

「…じゃあなんで助けた」

 おれは言った。五代は肩で息をしながら、何も答えず視線を何処かに彷徨わせていた。そうしていれば、答えが見つかるかのように。だが、どれだけ捜しても、そんなところには答えなんてあるはずがない。

 暫くの沈黙のあと、五代は諦めたように大きく息を吐いた。

「…お前らに…アテられちまった…のかもな」

 脱力したまま、躊躇いがちにそんなことを口にする。

 おれが日比野に動かされたように、五代もまた、何かに突き動かされた、ということか。

「…お前らのコンビプレイ…見てて…久しぶりに…ちょっと、胸が熱くなった」

 念を押すように「ちょっとだけな」と繰り返す。おれは耳を疑った。藤堂に敵対した人間は五代にとっても当然敵だ。それを褒めるなんて、とても五代の口から発せられたとは思えない科白だった。

「…さっきから何らしくねえことばっかり言ってるんだよ」

「そうかな。そうだよな…。昔少し齧った程度でやってたから、つい、な…」

 驚いて五代を見た。意外な事実だった。五代も過去、おれたちと同じような時間を過ごした?――その事実にただ困惑する。おれの知らない五代が、次々に現れてくる。

「でもすぐに辞めたけどな。しんどいばかりで何も報われなかったから」

 五代は軽い口調でそういい、その場で闇夜の空に向かってシュートを放る真似をした。

 奇麗なシュートフォームだった。どれほどそれに己を捧げたか、ひと目で理解できるほど。

 五代もまた、選ばれなかった側の人間だったのだ。大多数の奴らが――おれがそうであったように。 

 見えないボールの行方を見届け、振り返った五代に、「よく言うぜ…」と言った。五代は少し困ったような顔で「わからないだろうな、お前のように才能がある奴には」と言った。

 そんなものは、おれにはない。日比野を見て、そのプレイを体感して、知ってしまった。あれがバスケットなんだと。おれがしていたバスケットボールだと思っていたものは、似て非なるものだったのだと。

 そう言い返そうとして、止めた。不毛な会話が続くだけだ。

「じゃあ…オレはそろそろ戻るよ」

 五代の声は落ち着いているが、はっきりとわかるほど覚悟が籠っていた。あの死地に再び戻る――おれには止める理由も、術もない。

「…ああ」

 返す言葉も見当たらず、それだけ言った。

「…じゃあな、蘇我。もう二度と会うこともないだろうが…。元気でな。あと、ちゃんと病院には行けよ。いいな」

 なんだその科白は。お前、そんなやつじゃないだろう。お前はもっと厭味ったらしくていけ好かない口だけ達者なクソ野郎だろうが。

 複雑な感情が複雑に絡み合い、ショートしそうだった。なんなんだ、くそったれ!

「五代!」

 小走りに離れていく五代の背中に向かって、おれは身体を起こし、叫んだ。五代が驚いて立ち止まり、どうした? という顔で振り返る。

 呼び止めたはいいが、言うべき言葉が見つからない。何をどう言えばいい? おれは言葉を探す。

 五代はまっすぐおれを見ていた。おれも五代をまっすぐに見返した。こうして、憎しみも怒りも何もなく、ただまっすぐに目を合わせることなど、今まで一度もなかった。

 五代――おれは心の裡で語りかける。

 おれとお前は友だちじゃない。顔を合わせれば啀み合う存在だ。おれはお前が嫌いだし、お前もおれが嫌いだ。ずっとそうだった。これからもそうだ。お前がどこで野たれ死のうが、警察に捕まろうがおれの知ったこっちゃない。だから、助けてもらった礼なんて言わない。間違っても感謝なんかしない。恩に着せやがったらぶち殺してやる。

 でも――だから、代わりにおれは言う。

「…また、な」

 五代は一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに表情を崩した。

 ああ、お前はそんな顔で笑えるんだな。そんなことすら、おれは今この瞬間まで知らなかった。

「…ああ」五代は笑い、言う。「ああ、また…な、蘇我」

 それだけだった。だが、それだけで充分だった。

 五代は軽く手を上げ、再び背を向けて走って行く。今度は呼び止めることはしなかった。走り去っていく五代が闇に消えるまで、その背中を見ながら、ぼんやりと思った。

 もしも。もしもだ。出会い方が違っていれば、おれとお前は憎みあう関係じゃなく、もっと違う関係になれたんだろうか?

 おれは再びベンチに寝転がった。一人になると、静寂が質感を伴って耳朶を打つ。時折通り過ぎる車と、川の流れる音が微かに聞こえる以外、何の物音もしない。

 静かな夜だった。さっきまでのあの狂乱が嘘に思えるほど。

 冷たい夜風が傷口を舐めていく。熱に炙られている身体を鎮めるにはちょうどいい。おれは暫し風に吹かれるまま、空に浮かぶ月をぼんやりと眺めた。

 月はいつも以上に高く、遠く感じた。さっきは――プレイ中はあれだけ近くに感じたのに。おれは右手を伸ばす。届きそうで届かない。掴めそうで掴めない。握った手は、ただ虚空を掴む。

 そしてその瞬間、おれは改めて自覚した。

 また全てを失ってしまった。

『GARDEN』は今のおれのすべてだった。おれの唯一の居場所だった。それを自分でぶち壊した。『GARDEN』を失った今、おれにはもうプレイする場所がない。表でも裏でも、二度とプレイすることができない。あの脳髄が痺れるような経験を、おれはもう二度と味わうことができない。

 やったことに後悔はしていない。ただ、どうしようもないほど強い虚脱感だけがある。

「何回繰り返せば気が済むんだよ…」

 誰ともなく呟き、覆うように手の甲を眼の上に乗せた。いつもと変わらないはずの月が、やけに眩しく感じた。

 おれは目元を隠す。

 静かな夜だった。何かを失い、自分の愚かさを自覚するにはうってつけなほど、静かで昏い夜だった。その静けさも、暗闇の存在も、月の光も、街の喧騒も、纏わりつくような風も、今は何もかもが煩わしい。

「…くそったれが」

 意志とは無関係に言葉が溢れる。


 おれは少し――ほんの少しだけ、泣いた。

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