ROCK & BALL
Rakui
第1話 第1Q:Ready & Go
風が耳元で鳴いた。空気が裂けた音だ。どこか耳鳴りに似たその音を置き去りに、足を前へと踏み出す。その度に悲鳴みたいなスキッド音を、使い込んだコンバースのハイカット・スニーカーが上げる。ボールが地面と掌に熱烈なキスを繰り返す。心臓がドラムみたくビートを刻む。
身体が叫ぶ――もっとスピードを。細胞のひとつひとつから絞り出した声で。
いつもの感触――身体が痺れる衝動。ケツの穴から脳天まで突き抜けるような、そんな衝動。それでも今日はすこぶる調子がいい。身体が羽根のようだ。フットワークが軽い。動きに合わせてシルバーのウォレットチェーンがリズミカルに揺れる。
荒い息遣いが聴こえる。目の前の黒人。汗塗れ。肌の色は黒から蒼へ。黄色く濁った眼球が、今にも飛び出さんばかりに瞠られている。こんなはずじゃなかった。そう言いたげな顔。
誰に言う? いやしない神か?
身体を反転させた。黒人を軸に自分の身体を廻り込ませる。屈強な身体に遮られていた視界が一気に開けた。
リングが見える。バックボード、支柱、何から何まで真っ黒く装飾されたリングが。腹を空かせた錆びた鎖のネットが、涎を垂らして餌を待ち侘びている。
あとはあそこにブチ込むだけ。簡単だろ?
膝を曲げ踏み込む。追い縋る影。邪魔するなよ。今から翔ぶトコなんだぜ?
Are You Ready?
さあ、月に向かって吠えようぜ。
3――視界良好。座標確認。ターゲット、ロック・オン。
2――足に集約される力が、重力の鎖を断ち切っていく。
1――翼を広げる代わりに、腕を目一杯振り上げる。
Her We Go!
さながらテイクオフするロケットみたく、身体が宙に発射される。踵にセットされたウルトラジェットで、どうせならこの低い天井を突き抜け、月までブッ壊してやりたい。
だが想い虚しく失速。月どころか、天井にさえ届かない。くそったれ。
次こそお前のその凸凹面に、新しいクレーターを作ってやる。顔を洗って待ってやがれ。天井を透かして見据えた月に、いつもの捨て科白を内心に呟く。恨みを込めてリングにボールを叩きつける。
閉じていた意識が急速に開ける。世界が色を取り戻す。一瞬遅れて感覚が戻った鼓膜に地鳴りのような足踏みと怒号と喚声がダイヴする。延髄が揺さぶられる。世界が揺れている。
腹を満たしたリングが身を捩る。いつまでぶら下がっているつもりだ? 身勝手な奴だ。餌を貰えればすぐに態度を変える。
そう言うなよ、もう少しだけいいだろ? この場所は、割と好きなんだ。
ここはいい。解放された気分になる。世界が縛りつけてくる、色んなものから。そしてその場所から、世界の果てに眼を凝らす。結局いつも、何にも見えやしねえけど。
リングの機嫌を損ねる前に手を離す。途端にまた重力が身体を鎖で繋ぐ。地面に引きずり戻されるこの感覚は毎度、鎖で繋がれた不自由な飼い犬の心境になる。お望み通りワンと吠えてやるから、一回くらい見逃してくれ。
母性愛丸出しの地面を、思春期のガキみたいな精一杯の反抗を試みて思いっ切り踏みつけてやる。鎖を外す権利は、おれには――人間には誰にも与えられていない。
いや、一人いた。鎖を外す権利を与えられた人間が、たった一人だけ。
その人は人類史上最初で最後の、空を翔る権利を与えられた人間だった。人々は敬意と賞賛を込め、その人物をこう称した。
“神”――あるいは、“AIR”と。
実在した“神”。親愛なる“神”。あんたの気持ちはまだわかりそうにない。おれが知っている空には自由なんかない。今も――そして、昔も。
天井を仰ぐ。水面を照らす月明かりのような淡い照明。海の底のような薄暗い空間。暗鬱な熱気。誹謗中傷のBGM。闇が憚る黒の世界。
こんなところで空を――自由を求める方が間違っている。わかっている。でも、求めずにはいられない。海の底みたいな場所にいて、どうにも息が詰まりそうだから。ヘドロみたいな空気がまとわりついて、どうにも思うように身体を動かせないから。
光――最後に見たのはいつだっけ?
飛び跳ねまくって、足掻き続けて、それでもまだ、何も見えない。
忘れちまった。
空は今、何色だ?
1
チュッパチャップスはようやく半分くらい溶けたところだった。溜息を吐くとコーラの匂いがした。
とんだ期待はずれだ。
足許では黒人が跪いて手をつき、ブツブツと何言か呟きながら首を振っている。今起きたことが理解できないといった仕草だ。お前の脳味噌はプリンか? と突っ込みたくなる。
端から見れば土下座しているように見えるだろう。力無き敗者の姿はいつだって無様だ。
「何でこういう結果になったか、教えてやろうか?」
項垂れる黒人の後頭部に張り手がわりに言葉を投げつける。黒人はビンタを喰らったガキみたいな反応で情けない顔を上げた。
「簡単だよ。それはな、お前に想像力が足りないからだ」中指をこめかみに当て、穿る真似をする。「こうなるかもしれないって少しでも予想して端から全力できてりゃ、ちっとは勝てる見込みがあったかもしれないのにな」
ハッキリ言って、最初から全力でこようがこの黒人程度のレベルじゃ結果に変わりはなかっただろう。100回やれば100回ともおれが勝つ。断言できる。が、これから黒人に降りかかる災難を思えば、何もおれが追い詰める必要もない。それに関しては飲み込んでおくことにした。
黒人は首を巡らしスコアボードを見た。電光得点板に記された得点を見、蛙が鳴くような音を喉から出して再び項垂れた。わざわざ言わなくても、アレを見たら結果が変わらなかったことを察する程度の理解力はあるようだ。
11点先取のスピード・マッチ。スコアは12対2。圧倒的な差が刻まれたスコアボードは、見せしめのように煌々と光っている。
「恨むんなら、自分の無力さを恨むんだな」
おれはコート脇に置いておいたブラックデニムのGジャンを拾い上げ、コートから出ようとした。「マッテ!」と黒人の縋るような叫び声が、七分袖のカットソーの襟を引っ張る。
「あん?」とおれは面倒臭そうに振り返った。実際面倒くさかった。この黒人が今から言うことなんて、ハリウッド映画の展開を読むより簡単だ。
「……オネガイ、オレ、タスケテ…!」
ビンゴ。開いた口が塞がらないとはこのことだ。予想通り過ぎておれは果てしなく呆れた。どいつもこいつも自業自得っていう言葉を知らない。
黒人はパニックで日本語が滅茶苦茶になっていたが、精一杯自分がどれだけ助けて欲しいかアピールした。見上げた根性だ。おれはボールを足の爪先で拾い上げ、指の腹で回しながら、黙ってその熱い演説を訊くことにする。
黒人は有り金を全部払うと言った。望む分だけドラッグを流してやるとも言った。極めつけに、自分のお気に入りをおれにあてがう、とまで言った。思わずボールを落としそうになり、チュッパチャップスが喉の奥に滑り込んで咽そうになった。もしかしたら、そうやっておれを窒息死させるのが狙いだったのかもしれない。
ひとしきりの熱弁が終わったあと、おれはボールを掌に戻し、弄びながら言った。
「なあ、オスの世界の法則知ってるか?」キョトンとしたアホ面の黒人を無視して続けた。「力がある奴が上。わかるよな? 喧嘩もそうだし、コレだって例外じゃない」
黒人はおれの掌を行き交うボールを凝視した。おれの言葉の本意を計り兼ねていた。が、助けて欲しい一心できつつきみたく首を縦に動かす。滑稽な仕草だった。
おれは眼を細めた。嶮の強いおれの眼は、猛檎類のような鋭さを帯びている。たっぷりの威嚇を込めて、そいつで黒人を見下ろした。
「おれの今の気分、わかるか?」
黒人はヤバイ、という風にさっと視線を逸らした。こういう本能だけはしっかり機能するから立派だ。
「おれのことは当然知ってたんだろ? なのにお前ときたら、完全におれをナメてたよな
?
黒人は答えに窮し、飛沫が上がるくらい忙しなく視線を泳がせた。
「ハッキリ言って」遠回しな言い方が面倒臭くなった。「ムカつくね。自分の実力わかってねえ馬鹿が調子乗って油断して、尚かつおれをナメて、挙げ句敗けて。最後の最後に助けてくれ、だ? アホかお前。そんな都合のいい話が何処に転がってると思ってるんだ? 潔く死ね。おれはナメられるのがテメーみたいなホモ野郎と同じくらい嫌いだ」
黒人は愕然とした顔をした。おれがこれっぽちも助ける気がないのをようやく悟ったのと、フープの入り口の扉がフッ飛びそうな勢いで派手な音を立て、そこから三人の黒人が乗り込んで来たからだ。ゲームが終わっておれが出ていくのを律儀に待っていたが、ついにシビレを切らして乗り込んで来た。三人が三人とも眼からそれだけで人を殺せそうな光線を放っていた。
黒人の眼球は迫り来る三人とおれとの間でラリーを繰り返し、必死に逃げ道を捜している。両手はロボットみたいにぎこちなく宙を彷徨う。挙動不審過ぎる行動。パニックが顔の上で駆けずり回っている。そしてすぐに思い至る 錆びた金網に囲まれたフープには、逃げ道なんか何処にもないってことに。
あるのは出入り口だけだ。勝者にとっては凱旋の花道。敗者にとっては奈落へ直行便の獣道。
「オネガイ!」
最後の懇願が銃弾のようにおれに向かって放たれた。おれのジュラルミン製のハートは、懇願の銃弾を難なく弾き返す。肩越しにボールを放って出口に向かった。同情する気なんてマクロの単位で持ち合わせちゃいない。全部、この黒人が自分で招いた事態だ。どうなろうが知ったことじゃない。
力のない奴はくたばる。それが世界の法則。自然の摂理。喰われたくなければ、ヒエラルキーの上に立つしかない。
「あ、そうだ」思いついて振り返る。意識して顔に悪どい笑顔を浮かべた。「あいつらにケツ差し出してみろよ。得意だろ、そういうの? 案外それで助かるかもしれないぜ」
しつこく注がれる哀願をバッサリ切り捨て、嘲笑とともに吐き捨てた。それに背中を押されたように、黒人たちが駆け足で横を通り過ぎて行った。遅れて来た風に死臭が薫る。
「ソガァア!」
もしかしたら仲間だったかもしれない奴らに羽交い締めにされながら、黒人はおれの名前を叫んだ。まるで残酷な運命に引き離された恋人の名前を呼ぶ、有名なシェイクスピアのヒロインさながらだ。
だとすりゃ、おれはロミオか?
「さんをつけろよ黒豚野郎」
おれは中指を立てて、別れの挨拶とした。
☠
「ようこそ、我が庭へ」
『GARDEN』に来るなり、藤堂はガンジャの巻煙草を口端に銜えながら、芝居がかった口調でおれにこう言った。
「仕事だ、蘇我」
つまりそれは、『掃除屋』としてのおれの出番を意味している。
『GARDEN』は渋谷のランブリングストリートにある、数年前に潰れた広さだけが取り柄だったクラブが、藤堂の手によってアウトサイドに生きる人間のための賭博場に変貌したアウトローどもの聖地だ。
集まる人間は人種と国境を越える。白、黒、黄、赤。倫理観、宗教観、文化の違いも何のその、世界はそれで戦争を起こしていることさえすっ飛ばし、オールマイティーに揃う。
つまりこういうことだ。
「社会から弾き出された、あるいは捨てた人間の居場所は、何処の国に行こうが何処の国の人間だろうが、から決まっている」
いや、決められている・か。
光の届かない世界。麗しくもくそったれたアウトサイドのパラダイス――アンダーグラウンド。
どいつもこいつも皆同じ、深海魚のように光を忘れた恐ろしく虚ろな眼を顔に貼りつけている。ゴミ屑を見るような眼に曝され、それに相応しい扱いを受けてきた人間は、やがて性根は腐り、そういう眼をするようになる。
代わりに得たのは自由。何にも縛られず、何にも囚われず、何にも屈さない。法でさえ連中の前では真夏の太陽を手で遮るのと同じくらい意味がない。
そんな連中のニーズに応え、場所と快楽を提供したのが藤堂だ。
藤堂――いかれたサイコ野郎。渋谷を牛耳るギャング・チーム『
藤堂は“コブラ”の異名を持つ。由来は胸から首筋に達するまで刻まれた、赤黒い蛇のタトゥー。炎をモチーフにした刻印。髑髏に鎖の如く絡みつく蛇。その禍々しさは、藤堂という人間を見事に象徴している。チーム名が『蛇狩』と名づけられたのも、そこからだ。そしてそのふたつの名は、渋谷だけでなく、都内各地のアンダーグラウンドその隅々にまで最凶最悪の武闘派チームとして轟いている。奴らには道理も理屈も通用しない。したいことをしたい時にしたいままにする。心のままに解放を許した人間は、まさに腹を空かせた蛇そのものだ。
廃墟の地下で催される狂った宴。無法地帯に禁止されているものなんか何ひとつない。酒を浴びるほど呷り、ドラッグを貪り違う世界にブッ飛び、ハイになった脳味噌が金と欲の捌け口を求める。女が欲しければここは渋谷のど真ン中、外に行って金かドラッグをちらつかせれば、牡蠣の殻を開くより簡単に股を開く女は腐るほどいる。
そんな快楽よりも金もしくはドラッグが欲しいという無骨な精神の持ち主は、『GARDEN』で行われているギャンブルに参加する。
ギャンブル――賭バスケット。本能剥き出しの連中にとっては酔狂にして最高の娯楽。
野球賭博のようにシンプル、競馬のようにスピーディ。金網越しに眺めるゲームは中世のコロッセオか、はたまた見せ物小屋の獣同士の争いか。自分が賭けたプレイヤーが勝てるよう、呪詛の思念波を眼から放ちながら熱狂する様は、暗鬱な熱気を伴って異様な光景を作り出している。そんな中でプレイしなけりゃならないのは、慣れなきゃ相当のプレッシャーが小泣き爺いのように背中にのしかかる。潰され、発狂した奴もいる。
勝負方法は1ON1。古来より、雄の優劣を争う決闘はタイマンと相場は決まっている。
敗けた場合、すべて――今まで築いてきた地位も、名誉も、金も、人脈もみと一緒に剥奪される。ギャラリーによる八つ当たりとも言える制裁が待っている。プレイヤーは強制的に命賭けになる。
ALL OR NOTHING
勝って捕食者側に立ち勝利の美酒に酔いしれるか、敗けて鬱憤晴らしの相手、サバトの生け贄にされるか、ふたつにひとつだ。
初歩的なルール――例えば、ダブルドリブルやトラベリング等の素人でも知っているルールさえ守れば、後は何をしてもOK。足を引っ掻けようが拳で相手を止めようが、誰も文句は言わない。一応自己申告制という形でファウルはあることはあるが、ここでクリーンファイトを心掛けている人間なんていやしない。そんな殊勝な人間は真っ先に眼をつけられ、餌食になる。もっとも、何につけても例外は存在するが。
たとえばおれ。おれは滅多にラフプレイはしない。と言うよりする必要がない。そんなことをしなくても勝てるからだ。生理的に受けつけない相手や、どうしようもなくムカつく相手のみの解禁を心掛けている。
自分で言うのも何だが、おれはこの馬鹿げたギャンブルで人気・実力伴に№1のプレイヤーだ。ラフプレイ、クリーンファイト、何でもござれ。そうでなきゃ、ここで№1にはなれない。
ある程度のルールを守らせるにはそれなりの理由もある。アメフトみたくボールを持ったまま走り回るアホの出没を防ぐことができるし、制約がある中でのみ発生するスリリングな展開、そして息詰まる攻防の駆け引きというバスケット一番の醍醐味が台無しにならなくて済む。ラフプレイ公認であろうが何だろうが、あくまで「バスケット」というカテゴリーでギャンブルとして成り得るから、ウケるしハマる。人間の心理を巧みに突いたギャンブルだ。
アナーキーなバスケット。イメージ――強いて言うなれば、ストリートバスケットを滅茶苦茶荒っぽくしたというのが一番しっくりくる。全く別物だが、あくまで、イメージ。
藤堂が顎で合図を送ると、ニット帽に伊達メガネ、濃紺色のツナギに身を包んだ藤堂の右腕である五代が、前に出てきてホールを顎で指した。
五代は『蛇狩』の№2の男だ。藤堂を慕い、絶対の忠誠を誓っている。それなりの腕っ節、それなりにキレる頭。『GARDEN』の実際の運営権は五代が一任されていて、賭場の成功と繁盛は五代の手腕に因るものだと聞いたことがある。まあ、要は二番手にありがちなタイプの男というワケだ。
五代とおれは対立関係にある。理由らしい理由は特にない。五代のような頭でっかち・理屈で物を考えるタイプと、おれのような傍若無人・直感で動くタイプとでは、対極に位置するだけに相性が最悪なだけだ。だからソリが合わない。互いが互いを毛嫌いし、いつか地獄への片道キップを押しつけてやると心に誓いを立てている。
五代が指した方に、肩でリズムを取っている黒人がいた。でかい筋肉質な身体。だぼだぼの服。ステレオタイプの不良外国人といった風貌。おれはあれかと眼で訊いた。五代は頷き、見下したような横柄な口調で、今回の掃除対象の説明を始めた。
今日おれが掃除する予定の黒人は、普段はセンター街周辺をテリトリーにして捌き歩いている、ドラッグの売人だった。『GARDEN』では外国人専門のドラッグ業者だ。外人は日本人と違い、エスやエルよりコークやヘロインを好む。それ専用のパイプとしてその黒人を含む数人が、『GARDEN』に出入りしている。
黒人売人の信条は「ブツは必ず手渡しで」。ネットが一般的になり、販売方法も客筋も大きく変わったというのに、今時珍しく黒人はその古風な信条を曲げなかった。オンラインでのやりとりが売人の間で主流になり、街で売人の姿を見かけることは少なくなった今日この頃、この黒人の信念は奇特と言ってよかった。たいしたモンだ、と感心した。
しかし五代の話が進むにつれ、おれはすぐに前言撤回したくなった。
黒人はドラッグばっかり捌いているのに飽きたのか、プレイヤーとしてギャンブルに参加したい、と藤堂に言い出した。藤堂は了承した。飼い犬にキチンとエサを与え、巧く忠誠心をコントロールする。藤堂のやり方だ。その日から黒人は、売人兼プレイヤーとして『GARDEN』に居座った。本業をないがしろにしているワケではないので、藤堂も好きにやらせていた。
黒人がプレイしだして一ヶ月ほど経つと、おかしなことが起こりだした。おれが知っているだけでも常連客が六人、この一ヶ月の間に姿を見せなくなった。単に飽きただとか、かったるくなって足が遠のいた、というのは考えにくかった。何故なら、その消えた六人の内三人は『蛇狩』のメンバーだったからだ。『蛇狩』のメンバーは藤堂を崇拝している。裏切りは有り得ない。メンバーは必ずと言っていいほど『GARDEN』に――藤堂の近くにいたがった。虎ならぬ、蛇の威を借るなんとやら。ここは賭博場であると同時に、メンバーにとっては『蛇狩』という看板で自分を強く見せるための場所でもあった。見栄――虚勢。世間から唾棄され、暴れる以外に能がない連中にとって、それがどれほど大事なのかは、ここに来るようになって厭というほどわからされた。
五代は迅速に行動を起こし、姿を消した三人のメンバーを捜すよう号令をかけた。気づいてからの五代の対応が早かったのは、可能性として対立している池袋のチーム『SPIKY《トゲだらけ》』や、まだ傘下に収まらず無意味な抵抗を続けている渋谷のギャング・チームが、何らかのアクションを起こしたからではないか、という危惧があったからだ。
池袋、新宿、秋葉原、吉祥寺、上野――有名なガキの盛り場には、『GARDEN』を真似た賭博場がある。正確に言うと、あった、だ。今や残っているのは池袋だけ。新宿、秋葉原と上野は少し前に潰れた。最近吉祥寺も潰れたと耳にした。妙な噂を伴って。
パクリ物を主催しているどのチームも『GARDEN』を狙っていた。所詮は真似事、システムも金の廻し方もオリジナルに遠く及ばない不安定な賭博場は、すぐに廃れる。結果、短絡思考が弾き出した単純且つ明快な回答として、オリジナルを乗っ取ろうという安直なチャート型方程式が奴らの死滅した脳細胞しかない頭で成立する。
『GARDEN』を乗っ取るということはつまり『蛇狩』を潰す、ということとイコールで、必然的に頭の藤堂に照準は定まる。
言ってみれば藤堂は銃の包囲網の中にいるようなものだ。しかも銃を持つ奴らの指はトリガーにかかっている状態。ふとしたきっかけでいとも簡単に銃弾は発射される。普通の神経の持ち主ならその危機的とも言える状況で余裕などとっくに失せ、神経過敏になっても何ら不思議はない。が、藤堂はオモチャを与えられたガキみたいにその状況を楽しんでいる。見事なまでのいかれっぷり。いわゆる、トラブル・ジャンキーだ。藤堂にしてみれば、最早ドラッグの刺激なんかじゃ満足できないんだろう。『蛇狩』を――藤堂を取り巻いている状況は、そういう感じだ。五代が危惧したのも頷ける。誰かが膠着状態に耐え兼ね、トリガーを引いてしまった可能性は充分に考えられたからだ。
しかし、五代の危惧は見事にすかされた。
ガキのかくれんぼより早く、動き出してから僅かな時間で三人の身柄は拘束された。行き場をなくしてもまだ渋谷にいたらしい。特に外傷はなく、襲われた痕跡はなかった。
何故姿を見せなくなったのか。チームを無断で抜けると勘違いされた三人は、他のメンバーから尋問がてら人間サンドバックにされた。徒党を組む人間は繋がりに五月蠅い。アンダーグラウンドで言えば、極端にふたつに分かれる。やたら群れたがるハイエナタイプの人間と、繋がりを嫌う一匹狼タイプの人間と。おれは後者だ。群れたがる人間の心理はよくわからないが、ハイエナタイプにとって、チームを抜けるということは一種裏切り行為と見なされ、それ即ち
拳と嚇しによる尋問に閻魔大王と面会を赦されかけた三人は、あっさりと真実をゲロした。
黒人はゲーム前、対戦相手にこっそりと別の賭を持ちかけていた。
お前が勝ったらドラッグを好きな時に好きなだけタダで廻してやる。その代わりオレが勝ったら、今夜一晩オレと素敵な夢を見ないか?
御自慢のファニーフェイスでそう持ちかける。その下に舌舐め擦りした獣の貌を押し隠して。
怪談よりも身の毛がよだつ話。真に受ける方がアホだ。しかし頭の回転もさることながら、相手と自分の力量を推し量れない馬鹿が一ヶ月で六人、めでたくホモ野郎と開通式を終えた。素敵な夢を見るどころか、悪夢にうなされるハメになった。
その恥と屈辱に耐え切れず、六人が六人とも『GARDEN』に来られなくなってしまったというのが話のオチだ。なんともお粗末な結末。話のランクがいきなり落ちる。
裏も取った。その黒人がなぜ手渡しに拘っていたか。目的はただひとつ、ドラッグを買いに来る野郎の客だった。センター街周辺では割に有名なホモの売人だったらしい。被害者の六人は言われてみればなるほど、どいつも整った顔立ちをしていた。
藤堂は初めから全部知っていて黒人を抱え込んだ。おれはそう睨んでいる。渋谷で有名なホモの売人――裏のそんな情報が、支配者である藤堂の耳に入っていないなんてあるワケがない。こういう事態が起こりうるのを想定して招き入れたに違いない。何故か? 決まっている。トラブルを起こすためだ。それが藤堂の餌であり、栄養分だから。自分の欲求に素直に従ったに過ぎない。
余談だが、己の恥部を暴力で無理矢理ほじくり出された三人の内二人は、一人はリストカット、もう一人はドラッグを
黒人の変態性癖を野放しにしておけば更に被害が続出し、売上金に痛手が出る。何より、『GARDEN』の落ち度は藤堂の面子に関わる。そう判断した五代は、すぐに藤堂に排除を進言した。
1ON1で徹底的に辛酸を舐めさせ、プライドをズタボロにしたあと、追い打ちでギャラリーと掘られた連中にお礼参りをさせる。すぐに決まった。そこでおれの出番と相成った。
どうしてさっさと拳で排除せず、こんな面倒な手段を取るか。あるいは出禁にしてしまえば、もっと簡単に事は済む。
答えは単純明快。藤堂曰く「眼には眼を」。ハンムラビ法典の原則。何となくわかる。
拳のみ排除では、相手にその土俵で敗けたことを意味する。口喧嘩で言い負かされて殴ったからって、釈然としないものが残るだろ? それと同じ理屈だ。
出禁は、抜き身の刀で襲ってくる相手に背中を向けるに等しい行為。そんなのはチキン野郎のすることだ。斬りつけられたら斬り返せ。それはアンダーグラウンド云々ではなく、雄に生まれついたからにはそうでなくてはならないという、男の意地だ。プライドだ。
「やってくれるな?」
すべての説明を終えた五代は言った。おれの意志を訊いているのではなく、念を押しただけの、ただつけ加えられた言葉だ。
藤堂は興味がなさそうに煙草を吹かし続けていた。思っていたよりも刺激が今ひとつ足りないらしい。
おれは頭を掻いた。反抗を示すように逆立ったツイストパーマはただでさえ乱雑を極めているが、掻き毟ったせいで更に乱雑になってしまった。
事の発端は藤堂の気まぐれだ。要するにケツ拭きを押しつけられている。犬の――肥溜めの掃除屋の仕事としては妥当。だがいかんせんやる気が出ない。過去に五人排除してきているが、今回の掃除はその中でもダントツで最低ランクのトップをブッちぎる。どいつのケツの穴が強制的に拡張されようが、そんなものはくだらない賭にのって敗けた本人が悪い。おれの知ったことじゃない。
おれはもう一度、噂の黒人に眼を向けた。眼が合った。黒人は顔からはみ出しそうな、はち切れんばかりのファニーフェイスでおれに嗤いかけた。しかもウインクつき。どうやら気に入られたらしい。ぞっとして眼を逸らした。ケツの辺りがひんやりした。
おれは「ふざけてんのか?」と五代に顔を戻した。ただのポーズだ。答えは最初から決まっていた。断るという選択肢はおれのポジション上あり得ない。それをわかっている五代は、皮肉をまぶした視線をものともせず、おれを見返した。
何より身体がやる気のないおれの意志に反して、目敏く獲物の匂いを嗅ぎつけていた。おれにしてみればそっちの方が厄介だった。
いつまで待たせるつもりだ? 早く食わせろ――手が、足が、心臓が、脳味噌が、身体中の細胞が獲物を前にした興奮で声高に喚く。一刻も早く空腹を満たしてやらないと暴動を起こしそうだった。
「わかったよ」
溜息混じりにそう返事をした。身体に言い聞かせた科白だったが、五代はしたり顔で頷いた。藤堂が声を押し殺して嗤い、「好きだな、お前も」と揶揄したように呟いた。
せめてもの慰めとして、どうしても訊いておきたいことがあった。
「あの黒人、ウデはどうなんだ?」
六人もヤラれちまったんだぞ。精々七人目にならないように気をつけるんだな。それが五代の答えだった。癇に障った。
「てめえでやるか?」おれは投げつけるように言い返した。五代の眉尻がピクリと跳ねた。「てめえじゃできねえクセに偉そうな口叩くんじゃねえよ、ダァホが」
犬は犬でも、おれは狂犬だと言うことをキチンと認識させておかなければならない。下手に扱おうものなら、すぐさま喉笛を咬み切ってやる。
恨めしそうに睨む五代を無視して、おれはその場を離れた。背中に五代の突き刺さる視線を感じた。取り巻き連中の舌打ちが聞こえた。成り行きを眺めていた藤堂が口笛を鳴らした。すべて無視した。
ゲームが始まるまで、隅で集中力を研いだ。四肢が意志を乗っ取ろうと暴れる。熱に浮かされそうになりながら、なだめすかし、必死に耐えた。
もうすぐ好きなように暴れさせてやる。だから、少し大人しくしていろ。愚図る子供のように、身体は言うことを聞かない。
期待のせいだった。風船みたいに膨らんでいくのが自分でもわかった。思わず浮いて、そのまま風に流されそうなくらいパンパンに膨らんでいく。
黒人はその恵まれた体格と柔らかい筋肉で、どんなスポーツに於いても必ずと言っていいほど結果を出す。その優れた身体能力はオリンピックなど世界的な大会の歴史でも証明されている。バスケットで言えば“神”や“魔術師”も黒人だった。相手の黒人は当然それより遙か後方にいるとしても、未熟なスキルをカバーして能力は余りある。
久しぶりに全力でやれそうな気がした。そう考えると、より一層身体の暴挙が激しくなった。
そんなおれの期待がものの見事に裏切られるなんて、その時は豆粒ほども思ってもいなかった。
いつもそうだ。期待し過ぎると、碌なことがない。
☠
「片づいたぜ」
おれは一目で値が張るとわかる革張りソファーに凭れている藤堂に向かって言った。おれは今非常に不愉快だとアピールするために、褪せて膝小僧に穴が開きかけているジーパンのポケットに、ぞんざいに手を突っ込む。
膨らみが大きかった分、割れた時のショックも相当でかかった。勝手に期待したおれがアホなだけだが、それで納得できるほど寛大な人間じゃない。
「流石だな、蘇我」
煙の対岸で藤堂が煙草を吹かしながら言った。
薄暗い空間に煙草の煙とガンジャの煙が充満していた。まるで夜空にのたまう雲のような白煙が、所在なさげに漂っている。耳に流れ込んでくる言葉を聴いていると、一体ここは何処なんだと誰かに確認したくなる。国が掲げるグローバル・コミュニケーションのスローガンは伊達じゃない。ちゃっかりこんな奥の奥まで浸透している。
以前はその雰囲気に今ひとつ慣れず、ホールを占拠するガンジャの独特な臭いに辟易していた。今ではそれが当たり前になり、屁の突っ張りにもならなくなっている。
慣れ――くだらないことばかり、慣れる。
「どうだった、今回の獲物は? 腹は満たされたか?」
からかうような口調で藤堂は言った。
いつだったか、藤堂に「お前はここの連中の夢を喰らう獣のようだ」と言われたことがある。その話を聞いていた奴から広まったのだろうが、『GARDEN』でおれの陰口を叩く連中はおれのことを「バク野郎」と嫌悪感たっぷりに吐き捨てる。ここにいる連中がみるクソのような夢を喰い散らかして生きる獣――悪くはない。おれにはお似合いな渾名な気もする。
さっきの憤りをまだ引き擦っている五代の視線を同じようにしながら、おれは答える代わりに無言で藤堂を見下ろし、口に残るチュッパチャップスを噛み砕く。糖質はスタミナの持続に役立つ。ゲーム前、願掛けに似た思いでおれは必ずそれを口にする。しかし不要なほど大抵短時間で勝負は着く。今ではチュッパチャップスの役割は、スタミナの維持ではなく、ゲーム時間を計るタイマーになっている。本末転倒だ。溶け具合からして、今回はだいたい6~7分といったところだ。
「随分ご機嫌ナナメだな、オイ」
おれが不機嫌な理由をわかっているクセに、平然と藤堂は言ってのける。相当神経が図太い。いや、この男にそんな繊細なものはからないに違いない。
「話が違い過ぎやしねえか?」
仕方がないのでおれは声にして放り投げる。藤堂は薄嗤いを口端に、肩を竦めた。
何だその仕草は? おれは藤堂を鋭く睨みつけた。
ゆるいパーマがかかった漆黒の髪、整えられた顎髭。親の仇のように空けまくったピアス。長身の体躯に、それに見合った長い手足。細身のシルエット。黒いパンツにコットンのテーラードジャケットを羽織った藤堂は、ぱっと見どこぞのモデルのようだ。しかし拳は綺麗に均した岩のようで、細身に見える身体には、鍛え絞り込まれた筋肉が鎧のように覆っているのをおれは知っている。
藤堂を危険な人間だと悟るには、その眼を見ればいい。よっぽどの馬鹿でも藤堂のヤバさが理解できる。右手中指に光る髑髏の指輪と同じような、ポッカリと空いた穴のような、黒く塗りつぶされた瞳をしている。瞳孔は常に開きっぱなし――ジャンキー特有の瞳。無機質な輝きは爬虫類を連想させる。藤堂が他のジャンキーと違う点は、その瞳の奥に知性と理性の光を残しているということだ。タチが悪い。最低最悪のいかれ方だ。
藤堂の眼が少し眇められた。それだけで並大抵の人間はいとも簡単に威圧される。藤堂を睨んでいたおれの背中に、巨大な滑りを帯びた蛇が余すところなく這い回るような薄気味悪い感覚が襲った。悪寒――思わず視線を外し、舌打ちをした。
「おい、蘇我――」
おれの藤堂に対する態度が気に入らないらしく、ここぞとばかり五代が咎めようと口を開きかけた。が、軽く挙げられた藤堂の手にあっけなく制止された。
「退屈だったか?」
「テトリスやってた方がまだマシだ」
おれが突っ慳貪に返すと、藤堂はまた口端を持ち上げた。
「また約束を破ってしまったみたいだな」
少しも申し訳なさそうでない口調で、そんなことをのたまう。
「…へえ、覚えてるとは思わなかったよ」
約束――条件。藤堂にスカウトされて『GARDEN』に来ることを承諾する代わりに、おれはひとつの条件を出した。
「退屈なのだけは御免だ。お前はそう言っていたな」
懐かしそうに藤堂はその時おれが言った科白を繰り返す。退屈なのだけは御免だ――その約束は未だ守られていない。
「守るつもりあんのかよ」
藤堂は心外だという風に眉をひそめ、首を傾げた。
「当然だろう。お前は『GARDEN』の№1プレイヤーで、オレがスカウトした人間の中で最高の稼ぎ頭だ。機嫌を損ねるようなマネはなるべくしたくはないんだが・な。いかんせん、お前のレベルに合った相手ってのはそうそう都合よく見つからん」
「そこまで難しいことかよ」
「自分を過小評価しているわけでもないんだろう?」
藤堂はわかったか? という風に片眉と片手を軽く上げた。
「ああ、わかったよ」おれはチュッパチャップスのプラスチック棒を吐き捨てた。「それで? それでいつまでおれはこの退屈とつき合ってりゃいいんだ?」
「おい蘇我ァ!」我慢の限界と、五代が声を荒げた。「黙って訊いてりゃ、お前さっきから誰に向かって口を訊いてるんだ? あ?」
藤堂を指した。すかさず「指さすな!」と五代の怒声が飛ぶ。
「藤堂さんだ。間違えるな。お前ごときがタメ口利いていい人じゃないんだよ」
「うるせえな、五代。どうでもいいこと口にすんなよ。おれは今藤堂と話してんだ」
「テメェ…言ったそばから…!」
「構わん」藤堂が言った。
「でも藤堂さん、こいつばっかりこんな態度許してたら、他に示しが――」
「本人がいいっつってんだからいいだろ」
「お前は黙ってろ!」五代は敵愾心剥き出し吠える。「ここにはここのルールがあるんだよ」
「ルール? ハッ!」盛大にせせら笑ってやった。「何だそりゃ? くだらねえ」
「…あ?」怒りに濁った五代の眼がおれを射抜く。「何だって?」
「聞こえなかったのか? じゃあもう一度言ってやるよ。くだらねえことゴチャゴチャ喚くな。三下はスッコンでろ、馬鹿」
誰が創ったかわからないルールに縛られるのを嫌い、それに唾を吐きかけた連中が、自分たちが逃げ込んだ世界でもルールを創る。一体それは何の冗談なんだ?
「何だと…!?」
薄暗い中でもハッキリとわかるくらい、五代の顔が紅潮していく。つぶさの反応。怒りで肩が小刻みに震えている。
御多分に漏れない小物のリアクションだ。ノミのクソみたいなプライドだけ立派で、やたらそいつを大きく見せたがり、些細なことで簡単に傷がつき、たいした傷でもないのに傷つけられたと喚き散らし、激昂する。
「おいおい、クソしてえのか? なら我慢してないでさっさと行けよ。この歳でお漏らしなんざ、笑い話にもならねえぞ」
心底馬鹿にした口調で、おれは追い払うように手をヒラヒラ振った。おれの悪い癖だ。徹底的に虚仮にする。散々っぱら挑発をする。言わずもがなのことを言う。減らず口を叩く。悪態をつく。誰コレ構わず喧嘩を売る。それのせいでおれの周りは常に敵だらけだ。そしてそれのせいで色んなモノを失った。しかし、どれだけ痛いメに遭い、どれだけ何をなくそうが、おれはおれであることを止められない。
我ながら安っぽい挑発に、五代はまんまと乗ってきた。拳を握り締め、今にも噛みつきそうな貌でおれを睨む。
「何だ? オラ。やんのかどサンピン」
おれは「来いよ」と指で五代を更に煽る。藤堂の後ろにいる取り巻き連中が、剣呑な眼をおれにくれていた。一人我関せずといった奴がいたが、他は今か今かと命令を待ち侘びている猟犬のようだった。連中も日頃ナメた態度で接するおれをぶちのめしたいと常々思っていることは、面を見ればアホでもわかる。
下手をすれば多対一になる。それは明白だ。それでも構わなかった。自棄気味だ。鬱陶しいヘドロみたいな感情が、おれから正常な思考と判断力を強奪していた。
緊張で膨張していく空気が重く肩にのしかかかる。肌にまとわりついてくる。薄暗いホールのその一角だけが、一挙に殺気立った。アドレナリンが四肢に巡る。神経がささくれ立っていく。一触即発の雰囲気――拳に狂気が宿る。
「その辺にしておけ」
間をすかすようなタイミングで、藤堂の声がおれと五代に割って入った。振り上げる寸前だった五代の拳が、いきなり目的を攫われて手持ち無沙汰に虚空に停止した。せっかく刀を抜いたのに、斬り刻むべき相手が眼の前にいるのに、それを振り下ろせない不満が強張った頬に浮かんでいた。
「…藤堂さんに免じてこの場は赦してやる」
舌打ち。苦々しく歯の隙間から吐き捨てる。次いで荒々しく息を吐く。冷静を取り戻すための儀式。でも本当はぶちのめしたくて仕方ないと、まだ握りしめたままの拳がおれに直訴していた。
「遠慮すんなよ、五代。おれは別にいいんだぜ? それともまさかビビってんのか?」
だから受け取ってやった。おれは尚も挑発した。五代のこめかみに青筋が稲妻のように奔った。噴火寸前といった面容だ。人間から煙が出る奇跡的な瞬間に立ち会えるかと図らずも期待してしまう。
「あんまり苛めてやってくれるな、蘇我」
藤堂は面白そうに嗤い、そう言った。おれは藤堂に視線を移し、大袈裟に溜息を吐く。
「わかったよ」
おれは外人みたいにオーバーに肩を竦めた。五代は最大限の理性を振り絞り、煙草に火をつけた。だが、治まりきらない感情が舌打ちになって漏れる。この落とし前は必ずつける――言葉よりも眼が雄弁に語る。威勢だけはいい。
おれは中指で意思表示をしておいた。クソくらえ。
藤堂はホールの奥にある、カウンター代わりに設置した机に向かって誰かに合図した。
カウンターには次のベットに群がる連中がゴミ箱を漁る鴉の如く押し寄せていたが、対応している連中の中から一人、スケーターファッションの男が作業を中断して、後ろにある金庫から無造作に金を鷲掴み、こっちに向かって走ってきた。
モーリス・グリーンも顔負けのダッシュで藤堂の前に馳せ参じたスケーターは、うやうやしく藤堂に金を差し出した。
金を受け取った藤堂は、万札を何枚か抜き取り、残りをスケーターに返した。スケーターは名残惜しそうに、返された金と伴に元のカウンターへと戻っていった。下っ端連中にとっては、金を渡すという一瞬の接触でも藤堂に近づけるということが栄誉らしい。藤堂にとっては有象無象にいる犬の一匹でしかないんだろうが。まあ、その辺の温度差はおれにとってはどうでもいい話だ。
「今回のギャラだ」
藤堂は抜き取った万札全部をおれに差し出した。皺くちゃの一万円札――ねっとり湿った欲がべったり附着していて、万札の中の諭吉が泣きそうな顔をしていた。昔、誰かが諭吉は寂しがり屋だといっていたことを思い出した。
おれは引ったくるようにして金を受け取った。諭吉の顔が無惨に潰れる。泣くなら泣け。
「いつもより多いんじゃねえ?」
おれは札をヒラヒラと振って見せた。
「謝礼金も込みだ。最近スッキリできてないんだろう? そいつを使って憂さ晴らしでもしてくればいい」
「へえ、随分気前がいいんだな」
「ギブ・アンド・テイクだ、蘇我。オレはいつでもお前のことを考えている」
「気持ち悪いこと言うな」
おれは受け取った万札を一枚だけ残し、あとは全部藤堂に放り返した。
「どうした。いらないのか?」
投げ返されたことには無頓着に、藤堂はジャケットの内ポケットからこれまた値が張るとわかるシガーケースを取り出し、中から一本煙草を抜いて、銜えた。
「ああ、いらねえ。その代わり――」
「もっと骨のある奴を用意しろ・か?」
おれの言いたいことを先読みして、藤堂は煙草に金塗りのジッポで火をつけながら言う。
「…わかってんじゃねえか」
「お前は本当にわかりやすい」
藤堂は大きく煙を吸い込み、悦に浸った表情で、身体を軽く振るわせた。
「OK。これは手つけ金として貰っておく」
藤堂は万札を後ろの取り巻きの一人に渡した。取り巻きは金を持ってカウンターに向かった。返した金は、今日の売り上げに還元される。おれが上げた収益プラス、おれのギャラの大半が売り上げに加算される。おれが藤堂に重宝されている理由のひとつだ。
「今度雑魚だったら暴れんぞコラ」
刺した釘を更に叩いておく。
「わかっている。約束は守るさ」
「どの口が言ってるんだか」
今度もあまり期待できそうにないと、自分に言い聞かせた。これもひとつのギャンブルだと考えれば、気分も少しはマシだろう。敗けっぱなしは性に合わないが、誰が悪いかといえば選んだおれが悪い。諦めてメが出るまで待ち続けるしかない。そうする以外、おれには他に選択肢がない。
「じゃあ、頼むぜ」
踵を返したおれに、「もう帰るのか」と藤堂が驚いたように言った。こいつほど言葉と態度がちぐはぐな人間を、おれは他に知らない。
「帰るよ。当たり前だろ。用はもう済んだろうが」
「もう一本やっていったらどうだ? 仕事以外じゃお前は人気者なんだ。出番を待っているギャラリーもいるだろう」
『掃除屋』のおれ――嫌われている。畏れられている。おれが仕事としてプレイするということは、詰まるところ藤堂に眼をつけられているということだからだ。
逆にプレイヤーのおれ――競馬で言うところのナリタブライアン、格闘技で言えばヒョードルクラス。賭ければ確実に勝つ、言うなれば鉄板的存在だ。テイクバックは少ないが、まず外れない。実力差の均等化とベットの偏りを防ぐためにハンデシステムがあるが、そんな小細工をものともせず、おれは連勝街道驀進中、記録を更新し続けている。あともうひとつ人気に理由があるとすれば、野郎どもはおれが敗ける瞬間を――大手を振っておれを私刑できる瞬間を待ちわびている。人気があれば試合数は必然的に増える。そして試合数が多いということは、それだけ敗けるリスクも増えるということだ。
愛憎一体の人気――クソくらえ。
「冗談。次もクソだったら、視界に入る人間片っ端からブッ殺しちまうよ」
おれは言った。藤堂は嬉しそうに嗤った。
「そうか。まあ、今日の面子じゃお前の予想通りなるかもな」
藤堂は品定めするように眼を巡らせた。おれは肩を竦めた。
「だろ? じゃ、そういうことで。また来るよ」
おれはそれ以上の会話を切るように、背を向けた。空気が淀んでいる。息苦しさに喘ぎそうになる。とっとと帰りたかった。
「蘇我」
呼び止められた。他人の意志を尊重するような殊勝さは、ここにいる誰もが持ち合わせていないが、取り分け藤堂は別格だ。おれはウンザリと肩越しに振り返った。
「なんだよ?」
内面を見透かすような眼がおれを見ていた。ひとしきりおれを眺めたあと、藤堂は大仰そうに薄く嗤い、言った。
「お前はオレによく似ている。もう少しこっちのやり方を覚えれば、お前はオレのようになれる」
おれは思わず声を出して嗤った。だから何だ? 喉元までその言葉が出かかった。お前のようになれる? だから何だ? なりたくもない。仮になったところで、この退屈から逃れられるのか?
おれは返事をせず、前に向き直りながら後ろ手で手を振る。帰りの挨拶とも、お断りとも取れる仕草だ。どう取ってもらっても大いに結構だった。
今度は呼び止められようが足を止める気はなかった。一直線に出口に向かった。
おれはおれだ。他になりたいものなんかない。
昔はあった。まだおれの世界があった頃。雄大な蒼の世界。眼も眩む光。自由に吹き荒れる風――そこでおれは鳥になりたかった。世界を見渡しながら、風を切り裂き自由に空を翔る、何よりも強く美しい存在になりたかった。なれると思っていた。なると信じていた。
しかしある日悟る。そんなものはおろか、何者にもなれはしない、と。
そもそも、おれは何を夢見ていたのか。何を思い込んでいたのか。こんな世界で。夢見た瞬間食い荒らされるような現実で。たとえこの世界がどんなに麗しい世界でも、おれはおれでしかない。だからおれはここに行き着いた。然るべき人間が然るべき場所にいる。ただそれだけのことだ。
今おれがいる場所。深い深い黒と闇が彩る世界。おれはそこで生きている。雄々しく海中を勇み泳ぐ回遊魚みたいに、おれは泳ぎ続ける。望んだ場所と違うと我が身を嘆いている暇はない。おれは泳ぎ続けなきゃならない。止まれば死ぬ。それが現実だ。
だから――泳ぎ切ってやる。クソみたいな世界を。夢も希望も握った瞬間弾け飛ぶ、気泡みたいな今を。
多分それがおれが生きるべき世界だ。
きっとこれはおれの望んだ世界だ。
だから、おれは泳ぐ。
ノー・モア・ベット。
誰かの叫び声が、背後で聞こえた。
2
路地裏に止めていたバイクにキーを刺し、エンジンをかける。命を吹き込まれたバイクは、獰猛な唸り声で目覚めの産声を上げる。
その機械の獣の主たるおれは、主従関係に則り、背にあたるシートに腰掛け煙草を燻らす。血が全身に巡り、走る準備ができるまでゆっくり待ってやる。寝起きは誰だってテンションは低いモンだ。
『GARDEN』で得た金は生活費を差し引いてもお釣りが出る。余ったあぶく銭の使い方がわからなくて、取り敢ず買ったドラッグスターという名のバイク。ハーレーと同じアメリカンタイプ、中の下か下の上辺りにランクする。が、ランクが低かろうがアメリカンはアメリカン。性能は上々、時速100㎞は楽々越える。セルでエンジンがかかる。ギアチェンジはマニュアル。何だかんだ言っても、中途半端感は拭えない。そんなバイク。そういうところが気に入って買った。
中途半端――それはつまり、おれそのものだからだ。もうおれには羽根はなくて、だったらいっそのこと墜ちる所まで墜ちてしまえばいいのに、それすらできずに、まだ自由に空を翔べると思っている。見失った空を捜している。みっともなく足掻いている。
たまにそんな自分が厭になる。
ドラッグスターに跨るジャンキー共のスター。皮肉にしては自虐的過ぎる気もする。
闇夜に紫煙が昇っていく。秋を仄かに薫らせる風がそれを攫い、足下でも駆け抜けていく。熱が残ったままの身体には心地よかった。この国にもまだ四季はちゃんと残っていたんだなと、妙な安堵をする。
ブッ壊してやりたいと願った月は遙か遠く、おれを見下ろして嘲笑っていた。街が放つ偽光に占拠されつつある夜空の中で、蒼白い月だけがやけに嘘っぽく輝き、自分の存在を誇示している。
見上げたその存在があまりに高くて、あまりに大きくて、おれは舌打ちをした。影が一瞬月を遮った。眼を凝らした。腹時計の狂った鴉が、夜空を我が物顔で占領していた。
もし夜空という自分の居場所をなくしたら、月は誰かにその存在を認めてもらえるんだろうか? 多分、誰も気づかない。何故ならそれが月と世界を繋ぐたった一本の糸だからだ。
そんな取り留めのないことを、星に三行半を突きつけられた夜空を見上げながら、蜘蛛の巣が張ったような頭でぼんやり考えていたら、不意に昔を思い出した。
おれの羽根が抜け落ちた日のことを。
☠
おれのことを少し話そう。
おれはガキの頃から異端児だった。私生活や学校生活に於いて、大人や教師の言うことに何かにつけてまるで義務のように反発するガキだった。思春期、あるいは反抗期だった、というのもあるだろう。だがそれ以上に、押しつけがましく強制的なルールを毛嫌いしていた。いくら世間一般で駄目だと言われていることでも、何がどう駄目なのか自分が納得できない限り、従うことなんてできやしなかったし、するつもりもさらさらなかった。そして、それにちゃんと答えられる人間は、おれの周りには誰もいなかった。駄目なものは駄目 答えにならない答えだけがおれに押しつけられた。反抗と抑圧。そんなクソみたいな毎日だった。
そんなおれに教師は匙を投げ放置、同級生は自分たちのとは違う人種に関わりあうのを避けていた。だからいつも独りだった。それが当たり前だった。寂しさはなかった、とは言わないが、それも慣れるまでだった。
そんなおれを見かねた当時の担任が、おれにひとつの提案を持ちかけた。その担任は唯一、禄に脳味噌の使い方も知らないガキの戯言に近い質問に耳を傾け、真剣に悩んで答えを模索してくれた人だった。
おれの個性的な性格を考慮して、なるべく人数が少なく、かつ団体競技 これだけは担任が譲らなかった 、そして何より昔自分がやっていたというのがあり、担任はおれにバスケットボール勧めた。
それがおれとバスケの出会いだ。
運動神経だけは一目置かれていたおれは、担任のつき添いのもと、担任が所属しているというあるクラブチームに連れて行かれた。学校で浮いていたおれに対する担任なりの配慮だったのだろう。周りの眼を気にしない環境をわざわざ選んでくれた。だがおっさんばかりのクラブチームに、いきなり身内でもない小学生を連れて行くっていうのはどうかと、正直その時は思った。
担任が所属していたそのチームは、クラブリーグの2部の上位クラスに位置する強豪だった。クラブチームはいわば草野球的なノリで、プロまでは届かなかったが、まだまだ現役でいたいという連中が集まって鎬を削る、趣味と本気が入り混じったリーグだ。サッカーのように1部と2部があり、1部の上位クラスはプロの連中とさほど変わらないプレイがお目見えできた。プロになるには単純に実力以外にも運も必要だった。
いつかトライアルに合格して、現役の連中よりも凄いプレイを見せつけて、俺たちを篩い落としたことを墓場の中まで後悔させてやるんだ チームの人間を紹介したあと、担任は悪ガキみたいな顔で、でも誇らしげにそう言ったのを覚えている。
そんな反骨基質丸出しで筋肉隆々のゴリラみたいな大人たちに囃し立てられ、担任から7号球を渡された生後間もない小猿みたいな貧相な身体のおれは、教えられた通りに、しかし拙いフォームで、しっかりとリングを見据え、一丁前に構えた。
初めて触れた皮のボール。まだ成長期の途中で小さな手をしていたおれの手に、何故だか7号球はしっくりきた。
おれは「膝から力を迫り上げて、ボールに伝える感じ」と、どういうニュアンスかよくわからない説明を忠実に守り、生まれて初めてのシュートを、天空に浮かぶ城を思わせるリングに向かって、放った。
手から放たれたボールは、歪なスピンを繰り返しながら、でも、大きな弧を描いた。
その時のことはよく覚えている。褪せて擦り切れた琥珀色の記憶。おれの脳裏に直立不動で十字架のように突き刺さっている記憶 時におれを蝕むほどに。
ボールはまるで鳥のようだった。空に向かっておれの手から雄々しく飛び立つ、褐色の鷲。獲物を見定めて急降下する。ネットとボールがじゃれて絡み合う姿は、獲物を捕獲する瞬間のようだった。軽快なスイッシュ音は、狩りを成功させた鷲の雄叫びだ。声高らかに誇らしく響く。
言いようのない感情が電気のように全身を駆け巡り、五体の隅々から突き抜けた。
シビれた。初めて触れた合成革のボール。初めて打ったシュート。初めて訊いたスイッシュ音。これほどの昂揚感を味わったことなど今まで一度もなかった。そのすべてにただただシビれて、鳥肌が立った。
その瞬間からおれは、ヒーローに憧れソイツにいかれちまったガキみたいに、バスケットボールという粋な野郎の虜になった。
小学校から中学校卒業まで、おれはそのクラブチームに入り浸った。中学に入ってもおれはやはりおれで、部活動は所詮教育の延長線上でしかなく、窮屈な上に封建的で、やる気を殺がれるしかない代物だった。部活動は本来実力主義であるはずのスポーツに、何かと上下関係を持ち込んだ。コートを離れればそれはいい。だがコートの中にまでそれを持ち込んで欲しくなかった。「スポーツを通じて健全な精神と肉体を鍛える」。おためごかしの戯れ言。くそ喰らえだ。学校という名の刑務所で、雁字搦めの規則の中、有無を言わさず杓子定規的なことだけを詰め込まれる。教育という名の毒。狂わない方がおかしい。世間は社会は腐っていると言うが、それを言うなら、学校という社会に出る準備をするべき場所がまず、腐っている。おれは豚じゃない。判を押すように、決められた型枠に無理くり嵌め込もうとするな 毎日そう叫びたくなった。
それに、言っちゃなんだが、ガキの頃から大人に交じってプレイしていたおれにとって、中学バスケは遊びにしか見えない部分があった。色んな規則が面倒臭く、ワケのわからん理屈が罷り通る集団が耐え難く、おれは入ってはみたものの、ほどなく退部届けを顧問の顔面に叩きつけた。
中学3年間、おれはクラブチームで屈強な身体の大人たちを相手に、毎日のようにボールを追って駆けずり回っていた。試合に出る機会は少なかった。出れたとしても、当時のおれには対抗できる術が何ひとつなかった。完全におれの実力不足が原因だ。甘んじて受け入れた。中坊だからといって手を抜くようなキャンディー野郎はコート上に存在しない。してはいけない。皆勝つためにやっている。完璧なまでの実力至上主義。力がないならコートに立つ資格も存在意義もない。黙って隅で縮こまっているしかない。それが絶対のルール。存在したいなら力を得ろ。敗けて楽しい勝負など存在しない。おれは身を持って学んだ。異論はなかった。逆に手加減されれば、余計に惨めだった。
チームの大人たちはそんなおれの意を汲んでか汲まずか、おれに厳しく接し、指導した。ミスすれば怒鳴られた。邪魔なら邪魔と言われた。使えない奴、と罵られたこともある。おれが素直で純朴な中坊なら、夜な夜な枕を濡らし、自殺を考えてしまいそうになるところだ。だがナチュラル・ボーンで敗けず嫌いのおれは、その度にいつか見てろと心に聖なる誓いを立て、弱気の虫をマメタコだらけの足で踏み潰し、ひたすら練習に打ち込んだ。衝突もした。喧嘩もした。説教は毎日だ。しょっちゅうどつかれた。名目は「教育的指導」。勢い余ってボコボコにされたこともある。そこには「子供だから」なんて遠慮が入る余地など爪の先ほどもなかった。
それは彼らにとって当たり前だったのかもしれない。だけど嬉しかった。ちゃんと一人前のプレイヤーとして――一人の人間として認めてもらっている。そう思えた。
そして、練習すれば練習する分だけ、バスケットはおれに応えてくれた。プレイヤーとしてのレベルアップを実感する毎日――嬉しくて身悶えする日々。初めて見つけた、おれの居場所だった。
中学3年の秋の匂いが街に充満する頃、おれはチームのキャプテンからある都内の高校を勧められた。バスケはクラブチームでやるし、学校なんか何処でもいい・と適当に進路を考えていたおれにとっては、キャプテンの話は晴天の霹靂だった。
キャプテンが勧めたその高校は、都でも有数の強豪校で、常にI・Hを狙えるポジションにいるという。
どうでもいいよ。そう答えると、キャプテンはその答えを予想していたのだろう、呆れて笑い、続けた。
この高校を勧めているのはチーム全員の意向ではあるが、最初に提案し、今では誰よりも強く勧めているのは小学校の頃の担任だ、と。
仕事が忙しいらしく、たまにしか顔を出せない担任は、それでも、おれのような異端児の先を考えてくれていた。高校なんか興味ない――いつかおれがそう言ったのを、担任は覚えていたようだ。おれに居場所を与えてくれた恩人の勧めとなると、無下に断るのも気が引けた。それでも渋っていると、追い打ちをかけるようにキャプテンが言った。
お前のアビリティーの高さは認める。1ON1なら大人も含め大抵の奴はお前に勝てないだろう。だが、それだけだ。まず、お前は絶対的に試合経験が少ない。次に、俺たちしか一緒にやったプレイヤーがいないから世間が狭すぎる。バスケットは一人でやるもんじゃないし、世の中には同世代だって凄い奴らはいっぱいいる。高校でしっかり経験を積んでこい。卒業したら、また戻ってこればいい。ここはなくならない。少し寄り道して、色んなものを吸収して帰って来い。それがお前のこれから先―バスケットプレイヤーとしての糧になる。
キャプテンはゴリラみたいな顔を、悪戯好きのガキが笑うようにニヤリと崩し、どうせならI・Hで暴れてこい。手土産は優勝カップで我慢してやる、などと、まるでガキにお使いを頼むように、あっけらかんと簡単に言ってのけた。
一般論的な、高校くらい出ておいた方が後々の職でうんぬんなんて、キャプテンは一切口にしなかった。そういう一般論がキャプテンになかったワケじゃない。ただおれという人間を、キャプテンはよくわかっていた。天の邪鬼を更に性悪にしたようなガキの扱い方を、キャプテンは熟知していただけの話だ。
そして笑えるほどおれはその話にまんまと乗せられ、担任が勧めた強豪高校に入ることにした。あとにも先にも勉強したのはこの時だけだ。元々学ぶことに抵抗はなかった。役に立たない知識を入れるのが厭だっただけだ。受験は無駄の継続だった。ひたすら我慢した。
そして生まれて初めての「勉強」というカテゴリーの努力の甲斐あって、桜の花が芽吹く頃、おれはその強豪高校に無事入学した。
今思い返せば、それが崩壊の始まりだったように思う。おれは異分子だった。それをもっと自覚しておくべきだった。気まぐれに他の分子と結合しようと思っても、所詮それは叶わぬ望みだとちゃんと理解しておくべきだった。その浅はかな行為が、大切な物すべてをぶち壊すなんて、当時のおれには夢にも思わなかった。
ほどなく、おれの糸は切れた。細くてどこまでも頼りなかったが、それは確かにおれと世界を繋いでいた、唯一の糸だった。
だがその糸はあっけなく切れ、おれの羽根はひとつ残らず抜け落ちてしまった。
あの忌まわしい出来事。骨だけになった翼。自由に飛べたはずのおれの羽根。狭いコートで見上げる、もうひとつの空。
自由に飛べないんだったら、羽根なんかいらねえよ。
おれは自らの手で、羽根のないみすぼらしい翼を毟り取った。
☠
指先に熱を感じた。短くなった煙草が皮膚を焦がそうとしていた。おれは舌打ち混じりに、指で煙草を弾いた。赤く光る穂先が不細工な軌跡を描き、道に墜落した。
☠
クラブチームはなくなっていた。
高校を
『ROCKABILLY』――それがおれが所属していたチームの名前。こんなもの凄くダサくてセンスのない名前がふたつとあるはずがない。事実、1部2部合わせてもその名はおれのチームたったひとつだけだった。
それを耳にするや否や、おれは即座にいつも彼らが練習していた貸し出しの体育館へと走った。
彼らの姿はそこにはなかった。いつも体育館にこもっていた熱気の欠片さえ見当たらない。何もかも完全に消え失せていた。時計を見た――午後8時。おれたちが練習に励んでいた時間のはずなのに。どうしてこんなに静かなんだ?。
メンバーに連絡を取ろうとした。が、最後の通話ボタンがどうしても押せなかった。くそったれ。ここにきてまで、おれはチキン野郎のままだった。
その時偶然にも、体育館のオーナーを見つけた。オーナーは『ROCKABILLY』の反骨精神を買ってくれている人で、メンバーとしょっちゅう飲みにいくほど仲がよかった。職権を乱用し特定の時間を完全に『ROCKABILLY』専用コートにしてくれていたほどだ。オーナーなら何かを知っているはずだ。おれはオーナーの元に駆け寄った。
突然のおれの登場に、最初は不審者に怯えるような表情を見せていたオーナーだが、目の前の人間が元『ROCKABILLY』のガキだとわかると今度は驚愕と困惑が入り混じった顔をした。記憶の中のオーナーは恰幅のいい体躯だった。眼の前のオーナーは身体を分割したかのように痩せていた。黒々していた髪に白髪が目立った。眼窩が落ち窪み、黒ずんでいた。久しぶりに見るその顔には、明らかな憔悴の色があった。まるでジャンキーのようだった。だが、問い詰める力を緩めることができなかった。
一体全体、何がどうなっているんだ? おれの質問にオーナーは何ひとつ喋ってくれなかった。自分は今この瞬間から貝になると決めたように、頑として口を噤み、おれの質問ラッシュをやり過ごした。パニックと怒りが半々のおれにただ一言だけ、静かな声で諭すようにこう言った。
忘れろ。ここでのことは忘れるんだ。お前には関係がない。関わるんじゃない。いいな? 知らないことがいいことだってあるんだ!
最後は殆ど叫び声だった。尋常じゃない取り乱し方だった。オーナーはおれの手を振り解き、逃げるように去っていった。
何だよ、それ…?
大事な何かを抉り取られたような気がした。足下に奈落へ続く穴ができたような接地感もまるでないアスファルトに、おれは案山子のように棒立ちしていた。
失ったものを馬鹿みたいに見つめ続けるしか、おれには他に何もできなかった。
☠
気が滅入る。夜空を仰いで息を吐く。
もう何年も前の話だ。どれだけ時間が経とうが、どれだけ厳重な封印を施そうが、記憶はすぐにしゃしゃり出たがる。思い出したくもない昔話。その度、反吐が出そうになる。それに加えて、今日の黒人の雑魚さ加減がミックスされ、気分は最悪だ。思わずハンドルに突っ伏す。
路地裏の奥に眼をやり、何気なく道を行き交う人間を見遣る。ひっきりなしに行き交う人、人、人。何処かに人間製造器でもあるんじゃないかと疑いたくなるほど、多種多様の人種が入り乱れている。同じ言語で話し、同じファッションに身を包み、同じ髪型をし、同じメイクで同じ思考回路をし、そのクセやたらと個性だなんだと喚く、そんな奴らが支配する街。何年経っても馴染めない。おれはここでもやはり異分子だ。
高校を中退して居場所を失ったおれは、毎日無目的に街を彷徨い、フープで独り、ひたすら身体を動かし続けた。そうしないと、内から発する正体不明の熱が身体を蝕んでしまうからだった。だが、どんなに体を動かしても熱は治まらず、うなされるように目につく奴らをぶちのめしたりした。あの日を境に、おれの中から何かが抜け落ちていた。何か――わからない。忘れてしまった。忘れずにはいられなかった。今となってはもう、きっとどうでもいいことだ。
生きる屍同然の日々 藤堂に出会い、スカウトされたのはそんな時だった。
腹を空かせた浅ましい野良犬は、目の前に置かれた餌の意味を深く考えないですぐさま飛びついた。いや、本当は知っていた。その餌がどういう類のものか。それでもこのまま飢えて生き続けるよりはマシと、形振りを構わなかっただけだ。飢えを凌ぐのに心はいらない。
そして、今に至る。客観的に見ても自分の落ちぶれっぷりに嗤いが出る。転がる石のように――そう名乗ったバンドがいた。転がり続けて行き着く先は、麗しくもくそったれた世界だった。
「一体何やってんだか…」
呟いた瞬間に、どうにも名状しがたい感情が腹の方からおれを貫き、途轍もなく苛つかせる。
衝動的に目の前にあった立て看板に八つ当たり的な一発を叩きつけた。看板が派手な音を立てて、お辞儀をするようにひしゃげた。気は晴れるどころか、拳に広がる鈍い痛みに余計悪化する。
おれはバイクに跨り直し、勢いよくハンドルを捻った。空吹かしのエンジンは、芯を抜いたマフラーから肉食獣を思わせる重低音で、他を威嚇するようにシャウトする。ようやくお目覚めだ。
昔を思い出したせいで更に胸クソが悪くなった。こんな時はバイクでかっ飛ぶに限る。100㎞オーバーで走る時の風は好きだった。消化不良の熱も、形を成さない夜靄のように掴み所のない気持ちも、そのスピードで根こそぎ後ろへ吹っ飛ばしてくれるからだ。
「さあ、行こうぜ」
機械仕掛けの獣に命令を下し、フルスロットルで飛び出そうとハンドルに手をかけ、ふと眼を前に向けると、ヘッドライトが複数の人影を照らし出していた。
まるで亡霊のようにゆらめく影――次の瞬間、そのうちのひとつの人影が素早く動いた。同時に何か硬質なものが空気を切り裂く音がした。
反射的に仰け反ったおれの目の前を、鋭いスィング音を放ちながら金属バットが通り過ぎていった。バットはひしゃげ看板にぶちあたり、さっきより更に派手な破壊音を鳴らした。
おれは舌打ちし、バイクから飛び降り、襲撃してきた人影から距離を取った。攻撃してきた人影を先頭に、3人分の影がおれに躙り寄ってくる。
「なんだ、お前ら?」
ヘッドライトが人影の顔を映し出す。獣のような荒い息を吐いている男たちの顔には見覚えがあった。全員おれが過去に掃除した野郎どもだ。今バットを振り回した男は、ひと月ほど前に掃除した野郎――たしか、どこかの有名な大学の生徒で、小金持ちのボンボン。大した実力もないのに鼻につく物言いをする野郎で、満場一致で公開処刑が決まった。処刑後はセンター該入り口の有名なあの上の看板に全裸でくくりつけられ晒し者にされた。他も似たり寄ったり、アンダーグラウンドでちょっと火遊びするつもりが、大火傷を負ってしまった馬鹿どもだ。1を知った程度で10を知ったつもりになる連中の末路なんて、大体似たり寄ったりだ。
「殺してやる…! 殺してやる…!!」
ボンボンは譫言のように繰り返す。完全に眼がイッている。他の2人も同様、間違いなくドラッグをキメている状態だ。面倒なので、ボンボン、B、Cと命名する。
「どっかで見た顔だと思ったらお前かよ。おれに復讐しにきたのか?」
言わずもがななことを聞く。よくあることといえばよくあることだ。自分が火の扱いが下手だったせいなだけなのに、火事になると誰かに責任をなすりつけずにはいられない連中。おめでたいとしか言いようがない。
「殺してやるっ!」
おれの問いに答えるでもなく、3人は一斉におれに襲いかかってきた。全員武器を持参とは涙ぐましいものがある。せめて誰かは忘れてきてもいいだろうが。くそったれ。
そんなおれの切なる願いが天に届くはずもなく、3人は力任せに金属バット、ナイフ、鉄パイプと殴打系定番の武器を振り回す。あたれば致命傷だ。
特にナイフが面倒だ。ナイフをもっているCを先に潰すことにする。
喧嘩で武器を使う場合、熟練度がないとただのおもちゃに等しい。扱いに慣れていないと、武器を相手に当てることに集中しすぎて動きがワンパターンになるからだ。しかも、全員が武器を持っていると言っても所詮寄せ集め。連携も何もなきゃ、素人が扱う武器なんぞ怖くも何ともない。
Cもご多分に漏れず馬鹿のひとつ覚えのようにナイフを薙ぎ払うのみだった。しかも力任せに振るから、振り終わりが隙だらけだ。その隙をついて手首を掴んで捻り上げ、ナイフを離させる。ちなみにおれの握力は鼻歌まじりにリンゴを潰せるぐらい、ある。試したことはないが、その気になれば骨を折ることだってできるだろう。
Cは痛みに喘ぎながらナイフを離した。ドラッグでブッ飛んだ状態でも痛みを感じるとは新しい発見だ。喘いでいるその鼻っ柱目掛けて頭突きをかました。Cの鼻は、こもった音を立てて潰れた。Cは鼻を押さえ、滴り落ちる血と伴にその場にへたり込んだ。間髪入れずにおれはCの側頭部を思い切り蹴った。とどめの一発。Cは壁に激突し、地べたに倒れ込んだ。まず一匹。
次に鉄パイプを持ったが反応した。脳天めがけて振り下ろされた鉄パイプを難なく躱し、Bの手を甲側からつま先で思い切り蹴飛ばした。手から鉄パイプがこぼれる。逆足で鉄パイプをおれの後ろへと滑らせ、武器を奪った。
戦意喪失かと思いきや、それでも拳で向かってくる。いい執念だ。それに免じて取り敢ず一発Bに撃たせてみた。鉄パイプの扱いと同じく、腰の入っていないヘロヘロのへなちょこテレフォンパンチ。喧嘩慣れしてない人間のそれ。欠伸が出るほど迫力に欠けるパンチだ。道で通行人を避けるよりも楽にパンチを躱し、代わりに「パンチの撃ち方はこう」と教える体重を乗せた一撃をBのボディーに突き刺す。柔な腹筋に拳がめり込んだ。上体が折れた。セオリー通りに顎にアッパー。ただし拳は握らず掌底で。硬い骨の箇所を素手で殴ると、こっちの拳が折れる場合がある。その点、掌は主に肉なのでそんな心配は無用。思い切り顎をかち上げた。
血と歯を飛び散らせながら、Bはアスファルトに背中から落ちた。後ろまわりの途中のような、なんとも無様な格好が哀愁を漂わせる。二匹目。
残るボンボンを見た。客観的に仲間がいとも簡単にぶちのめされるのを見て、ボンボンはドラッグが与えた狂気よりもおれの危険度が与える恐怖に支配されたようだ。開いていた瞳孔が閉じている。
「いい顔してるじゃねえか」おれはボンボンに歩み寄りながら言う。「お前のその眼の色。おれはその色をよく知っているぜ」
ボンボンはバットを構えながら後退る。完全にドラッグの魔力は消え失せていた。
「中途半端に関わったのが間違いだったな。後悔して大人しく隅っこで震えていればよかったのによ…。よりによっておれに、しかも今日喧嘩を売るとはな。今更後悔しても遅えぞ」
ボンボンは完全にビビっていた。構えた武器が小刻みに揺れている。恐怖で震える身体に連動している。
踏み込んで一気に距離を取ろうとした時、誰かが短く悲鳴を上げた。通りすがりの若い2人連れの女。こんな路地裏に眼を向けるなんて、不穏な空気でも察したのだろうか。
女の声を聞きつけて、路地裏の出口に興味本位の人が集まり始めた。
「くそっ」
おれは吐き捨てた。ついてない。
逆にボンボンは味方をつけたと勘違いしたのか、さっきまで子鹿のように震えていたくせに、急に強気な眼差しをおれに向けた。今日は選択がすこぶる裏目にでる。厄日だ。
やる気を取り戻したボンボンとは逆に、おれは興醒めした。何て言うか、急激に白けた。「やれやれ!」だの「ブッ殺せ!」だの、後ろから騒ぎたてるだけの連中の見せ物になるのはごめんだ。そんなに喧嘩が好きなら自分たちでやればいい。自分の拳を血で汚せばいい。
そんなおれの思いとは裏腹に、ボンボンはバットを再び構えて、おれに突撃してきた。
歓声が大きくなった。これをゲームか何かと勘違いしている声。心臓の奥が憎悪でひりついた。出入り口にたまった連中を感情のまま睨みつける。
その時、一人の男が人垣の後ろを通り過ぎて行くのが見えた。おれの眼は吸い寄せられるようにその男を捉えた。
手首に鈍く光る鎖型のシルバー・ブレスレット。おれと似たタイプのウォレット・チェーン。V字にざっくりと口の開いたニットカットソー。羽織ったブルゾンもパンツもタイトでシンプルなデザインだ。足許はスウェード地のハイカット・ブーツ。すべてが黒。夜の闇から切り出された分身のような色で、全身を纏めていた。横顔でハッキリとは見えないが、中性的でやたら蒼白い顔色をしている。髪の色もやや薄め。前髪が眼にかかるほど長い。身体の線も細く、どちらかと言えば華奢。背もそれほど高くない。男の大半が理由もなくやっかみ、女の大半が黄色い声を上げる、そんなタイプの男。しかし他人とはハッキリと一線を画しているような空気が、男の周りをバリヤーのように覆っていた。迂闊に近寄れない。寄らば斬る――そんな雰囲気。
興味無さげにこっち一瞥したその男と、一瞬だったが眼が合った。男が醸し出すフェミニンな印象とは不釣り合いな無感情な三白眼の瞳は、寒気がするほど昏い。夜の闇より、更にもっと深く。まるで罪と罰に埋もれた囚人のような――。
男の顔は、おれの記憶を僅かに刺激する。のそりとさもかったるそうに、記憶はその刺激に舌打ちし悪態を吐きつつも、でも確かに――動いた。
男は眼前で起きていることに興味を示す素振りもなく、すぐに前方に眼を戻し、そのまま歩いていった。
あいつ…何処かで?
姿が見えなくなる間際、腰で揺れているアクセサリーが見えた。確か、ドリームキャッチャーとか言うインディアンのお守りだ。全体的にロックテイストなファッションに身を包んだ男にあって、それだけやけにアンバランスだった。
立ち竦むおれを見てチャンスだと思ったのか、ボンボンが再び金切り声を上げて襲ってきた。
おれは踏み込んで一気にボンボンとの距離を潰し、隙だらけの腹に下から抉り上げるように拳を打ち込んだ。手加減なしだ。ボンボンが汚らしく胃液を垂らし、振り上げていたバットを落とした。
「五月蠅い。少し黙ってろ」
そのままアイアンクローをかまし、再び男が消えた方向に眼を向けた。
男のあの雰囲気。あの眼。おれたちと同じ臭いがした。そしてこの時間のランブリングストリート。
「まさか、な」
指の隙間からボンボンがか細い悲鳴をあげ、おれの指を外そうといていた。考え事をしていたせいで思ったより力が入っていたようだ。ボンボンの頭蓋骨が軋んでいるのが指から伝わる。ボンボンの眼は万力のような圧迫に耐えかね、こぼれ落ちそうなほど瞠られている。まさに捕食される寸前の動物の眼――それを見ていると、ひどく残酷な気分になる自分を自覚する。
「そのままやっちまえ!」
ギャラリー気取りの誰かが言ったその言葉に、反射的に舌打ちが出た。あの馬鹿どもは、目の前で起こっていることがTVでやっているような格闘技でだとでも思っているのだろうか。ルールも何もないストリートファイトは、一歩間違えれば人は死んでしまう。硬いアスファルトの地面や壁、落ちている空き缶でさえ凶器になる。
お前らごときが遊び感覚で煽ってんじゃねえよ――心の裡で吐き捨て、安全圏で喚くギャラリーを睨みつける。ギャラリーどもは不満そうにしつつも口を噤んだ。おれは再度舌打ちした。雑音が消えても腹立たしさは消えない。
ギブアップを宣言するタップが、おれの腕にされた。このボンボンも認識不足だ。ストリートファイトにタップもクソもあるワケがない。そもそも、この世間知らずがおれに喧嘩を売ってきたのだ。おれの溜飲が下がるか、それとも再起不能になるまで痛めつけられるか。ふたつにひとつ、だ。
どいつもこいつも覚悟が足りない。
おれは激しくなるタップを無視して、一層指に力を込めた。身を以ってわからせてやることにした。
ボンボンの抵抗が激しくなる。最早言葉にすらなっていない声で悲鳴を上げ、おれの手首を持って引き剥がそうとする。さらに力を込めた。ボンボンの抵抗の音が、プツリと切れた。腕が脱力し、だらりと下がる。断続的に漏れる呻き声だけが、辛うじてボンボンが意識を繋ぎ止めていることを知らせる。これ以上やると本当に死んでしまうかもしれない。
この辺で勘弁しておいてやるか。最悪の気分にはかわりないが、こんな馬鹿どもを相手にしていると余計に腹が立つ。そう思ってアイアンクローを解除しようとした――その瞬間、耳の奥で昏い囁き声がした。
殺っちまえよ。
囁いたのは――もう一人のおれ。おれの心の奥の暗部に棲み、別の意志を持ったもう一人のおれが、突如姿を現した。外そうと思っていた指におれの意志とは無関係に、更に力が加わる。突き立てられた牙の如くボンボンの頭蓋骨に喰い込む。ボンボンが絶望に彩られた悲鳴を漏らす。鎮火したはずの体内の炎が、まだ残ったままの熱と何処からか吹き始めた風に再び蒼い炎を上げ始める。
殺っちまえよ――声は続ける。何をそんなに余裕ぶっているんだ? ムカついているんだろう? 思うように殺っちまえばいい。こいつはお前の命を狙った。だから命を奪われたって文句は言えない。そうだろう? それがルールだ。わからせてやれよ。こいつと、この場にいるすべてのボンクラどもに。ルールを理解していないとどういう報いを受けるか、何もわかっていない連中に見せつけてやれ!
もう一人のおれ――黒いおれ。世界を憎み、呪い、蔑んだもう一人のおれが囁く。
できないなら代われ。おれが殺ってやる――黒いおれは言う。黒いおれがおれを乗っ取ろうとする。五月蠅い。黙れ――おれは心の裡で言い返す。誰の身体だ? おれの身体だ、お前はすっこんでろ!
殺れ。殺れ! 殺れ!
抵抗する。おれの身体の所有権を巡っておれ同士が迫り合いをする。身体の中で、おれでありながらおれじゃない別の生き物が暴れ狂っていた。おれは何とかボンボンから指を離し、押し離した。少しでも遠ざけたかった。これ以上近くにいたら、凶悪な衝動に屈してしまいそうだった。そんな自分が恐かった。
押したつもりだったが、実際は殴り飛ばしていた。右腕は絡みつく黒い意志の支配に抗い切れず、支配されてしまった。
ボンボンはアスファルトに叩きつけられ、3メートルくらい転がっていった。ようやく止まったボンボンは、白眼を剥いて泡を吹いていた。鼻が顔に誇張表現でなくめり込み、ついでにアイアンクローで締め上げた顔にはおれの指の形にくっきりと腫れ上がっていて、赤く浮き出た斑模様のそれは、浮世絵の歌舞伎役者に見えなくもない。
最悪の可能性が脳裏を過ったが、よく見ると微かにだが、胸が上下していた。呼吸をしている。グロッキーだが生きていた。おれは密かに胸を撫で下ろし、安堵の溜息を漏らした。
ふと注がれる視線を感じ、顔を上げた。周りの連中がおれを見ていた。昔おれを取り囲んでいたのと同じ種類の眼。顰蹙と非難、軽蔑の眼差しがおれに向けられている。「殺せ」と手前勝手に煽っておきながら、実際寸前を目の当たりにすると、この掌の返し様。身勝手さに辟易する。おれは降りかかる火の粉を払っただけだ。多少払い方に問題はあっただろうが、だがそんな眼で見られる覚えは全くない。おれは何も奪われたくないから、抵抗しているだけなのに。
どいつもこいつもクソくらえ! 胃のもたれ具合に不満が滲んだ顔をしている奴らに内心で吐き捨てた。
あいつらもブチのめすか? また声がした。いい加減、お前も五月蠅い。黙ってろ。
静寂を切り裂くように、甲高い笛の音が響いた。徐々に笛の音はここへ近づいてきている。意地汚い犬のお出ましだ。これだけ目立てしまったら当然だが、通報した野郎に殺意を覚える。
ギャラリーどもが蜘蛛の子を散らすように瞬時に散らばった。後ろめたいことがあるような奴は、脱兎の如く一目散に逃げ出す。つられて他の連中も何が何だかわからぬまま、兎に角ヤバイと逃げ出す。その中の一人、原宿に棲息していそうな思考回路がメルヘン王国とケーブルで繋がっていそうなフリフリドレスのおめでたい格好の女が、中年の警官にあっさり捕まり、あろうことかおれを指差し、何事か告げ口しやがった。
すぐにもう一人の若い警官がその警官に何かを叫ぶ。若い警官はおれがのしたボンボン、BとCにも気づいた。正義感に燃える警官たちの視線が一斉におれに集まる。
「ヤッベ」
おれは身を翻し、路地裏の奥へと逃げた。「待て」と叫び声がした。この状況で待てと言われて待つ馬鹿はいない。
すぐに大通りに出て、人混みに埋もれる。人が多い街は、普段はただ鬱陶しいが、こういう時は役に立つ。人を押し退け掻き分け、おれは走った。捕まれば面倒どころの騒ぎじゃない。取り敢ず傷害罪は確定。その他冤罪を押しつけられて拘留、挙げ句豚箱にでもぶち込まれる可能性すらある。おれたちみたいな人種に、警察は容赦しない。ゴミの清掃員がゴミに特別な感情を持っていないのと同じだ。人権侵害以上の何ものでもないが。
下手をすれば『GARDEN』にも影響が出る。異臭元を辿るのは、奴らは得意中の得意だ。伊達や酔狂で「犬」という蔑称がついているワケじゃない。そうなったら最悪だけで済まされなくなる。
遮二無二走った。どぎついネオン。狭い歩道に敷き詰められた人。車やバイクの大合唱。街の旋律。腐った空気。濁った夜空。虚構の風景。渋谷の街はいつもと変わらず、何のリアルもなかった。この街では喧嘩もサイレンの音も、街を彩るイルミネーションの一部でしかない。
世界は悪意に満ちている。疑いようもなく――少なくてもおれの周りには、願い下げなほど。
追いかけてくる笛の音と声が聴こえなくなるまで、おれはひたすらその中を走り続けた。
☠
呼吸を整える。全力で走って息が上がっていた。最近トレーニングをサボっているせいだ。体力が落ちている。
おれは回り回って、東急百貨店本店の近くの路地に身を隠した。灯台下暗し、だ。ついでに置きっぱなしにしてきたバイクの回収もある。犯行現場の近くに戻るという犯人の心理状態はこういうのかもしれない。
壁に凭れ、煙草を取り出した。ほとぼりが冷めるまで一服する。煙を真上に吹き上げながら、それにしても今日は最低の夜だと一人暗がりで思う。
手を握り、開く。その動作を繰り返す。さっきの余韻は何処にもなかった。黒いおれは完全に姿を消していた。黒いおれは怠慢な記憶と一緒で、血の臭いを嗅ぎつけるとすぐにしゃしゃり出て来る。
あの日生まれた。おれの拳が赤く染まった日――おれが自らの羽根を毟り取った日。その傷口から流れる血を啜って、おれの中で破壊願望の塊のような一匹の獣 もう一人のおれが眼を醒ました。
おれはいつだっておれ自身に都合よく振り回されている。たまにそんな自分にうんざりする。
煙草の臭いに混じって、血の臭いが鼻腔を突いた。よく見ると指に生乾きの血がこびりついていた。さっきの三馬鹿トリオの血。さっさと手を洗いたかった。
血の臭い――これも今では馴染みの臭いだ。初めてそれを鼻血以外で嗅いだのは、クラブチームの練習中、チームメイトの肘がたまたまおれの眉尻にクリティカルヒットし、パックリ切れた傷口から噴水ばりに血を噴き上げた時だ。その時の傷跡は未だに薄く残っている。あとに嗅いだのはどれも、他人から立ち昇る暴力的な臭いだった。
気がつけばおれの周りには、暴力と生臭い血の臭いで溢れている。
そろそろいいかな、とおれは煙草を弾き、路地から周囲を確認した。それらしき影はない。警官が見当違いの場所を捜していることを願う。あとはバイクさえ撤去されてなければ何も問題はない。
路地から出ようとした時、携帯電話が鳴った。おれは思わずまた路地に身体を引っ込めた。静かな闇に鳴る、ニルバーナの『Smells Like Teen Spirit』。おれの好きな曲で、着信音に設定している。
オルタナティブ・ロックの先駆けであり代表とも言える彼らの代表曲。ボーカルのカート・コバーンが猟銃自殺をしたことでも有名だ。彼は絶望していたと言う。この曲が売れすぎたせいで自分の真実の声が届かなくない場所まで昇らされてしまった状況と、自分の意志をも飲み込んで勝手気ままに変貌していく世界に。ありとあらゆるものを失望と無力感の中で呪いながら、彼はトリガーを引いたんじゃないだろうか。
なあカート。あんたが思うように、この世界は禄なモンじゃないよ。
おれはその着信音を聴きながら、出るかどうか迷っていた。誰からの電話だなんて、ディスプレイを見るまでもなくわかる。おれの電話番号を知っている人間は、今となっては二人――藤堂か五代だけだ。藤堂が直々にかけてきたのは、一番最初の「掃除」の時だけ。あとは全部五代からしかかかってきていない。
喧嘩をしたのがバレたのか。渋谷で 特にランブリングストリート界隈で起こる揉め事や事件は、即座に五代の耳に入る。事件があると、言わずもがな警察は動く。チームの何人かがそれ用の見張り番として、そこら辺に散らばって眼を光らせている。別におれが何処で何しようが奴らには関係ないが、近くに『GARDEN』がある以上、そこに出入りしている身としてはそうも言ってられない。警官が辺りを彷徨くのは、おれたちみたいな人種にとっては都合が悪いだけだ。もしバレているとしたら、口煩い説教と嫌味を中耳炎になるほど聞かされてしまうだろう。
ほっとけばその内切れるだろうと決め込んで無視していたが、電話はしつこく鳴り続ける。すでに『Smells Like Teen Spirit』は2コーラス目に突入しており、カート・コバーンはエネルギッシュにがなり、怒鳴り、叫んでいた。
しつこい。あまりのしつこさに根負けし、おれはとうとう通話ボタンを押した。
『何処にいる!』
通話ボタンを押すなり、五代の大声が飛び出してきた。
「おれは何も知らねぇぞ」
五代の剣幕に対抗すべく、おれは不機嫌そうに先手を打つ。
『何をワケのわからんことを言ってるんだ?』
間髪入れずに言い返された。どうやらさっきの件とは違うらしい。
「いや、何でも。何か用かよ?」
『だから、お前今何処にいるんだ?』
「何処でもいいだろ。何偉そうに 」
『いいから言え!』
五代の剣幕に、おれは訝った。後ろで騒いでいるギャラリー共の野太い叫声のせいで大声を張らざるを得ないのはわかるが、それ以外に声から切羽詰まった印象を受ける。
そこで違和感を覚えた。大声をはらなきゃいけない状況? 『GARDEN』で?
「まだ近くにいる。どうした?」
『すぐ戻れ!』
電話が切れた。おれは切れた携帯を見ながら暫し考えた。何かがおかしい。五代の命令を聞くのは癪に障るが、状況が気になる。おれは『GARDEN』に戻ることにした。
また何か面倒事が発生した。おれに電話を寄越したところをみると、賭バスケ絡みで。
おれは短く嘆息した。慌てて電話してきても、蓋を開ければどうせまた雑魚相手に慌てふためいている程度のことだろう。たまには自分たちで何とかして欲しいモンだ。
そう内心毒突いた時、不意に脳裏のスクリーンに、さっき見かけたあの男の姿が映し出された。自分で否定したはずの推測――だが、何故だかわからないが予感めいたものを感じた。
まさかあいつか?
胸が騒ぎ出した。勝手な思い込みに等しい予感がおれの背中を押す――強く。
押されるままに路地から飛び出し、おれは『GARDEN』へと駆け出した。
☠
『GARDEN』がある廃クラブの構造は地下を併せて三階建ての構造だ。2FはVIPルーム、スタッフ控え室兼物置。1Fはバーカウンターつきの休憩所。そしてB1Fにウリだったメインホールがある。中途半端に解体された内部は廃材で散らかり、埃とカビの臭いが充満していて、花粉のように鼻につく。
おれは1Fの右奥にある螺旋階段を駆け下りていった。降り切ると、モグラ穴のような天井の低いL字形の廊下に出る。そのL字形の廊下を突き当たりまで行けば、右手にメインホールの扉がある。
おれは階段を駆け下りた勢いのまま、廊下を走った。備えつけのライトは、臨終間際の老人みたく明滅を繰り返していた。明滅に合わせ、ペイントだらけの壁が浮かんだり消えたりする。ぶちまけられた自己主張――こんな場所じゃ、誰の眼にも止まらない。
おれの中でひとつの記憶が形を成そうとしていた。煙のようなそれは、中心に向かって渦を巻き、徐々に、断片的に元の形を取り戻していく。
おれの記憶が確かなら、おれはあの男を知っている。間違いでも、勘違いでも、思い過ごしでもなく。
だが信じられなかった。本当にその男がおれが知っている男なら、こんな場所には――アンダーグラウンドになんかいるはずがなかった。何の根拠もない漠然とした予感を、おれは振り払った。
L字の角を曲がった。異変に気づいた。微かに音がした。唸り声――いや、騒ぎ声だ。『GARDEN』に来る連中にはひとつの約束事がある。絶対に過剰に騒いではいけない――そういうルール。如何にクラブの壁が防音効果に優れているといってもそれはそれ、こういう無法地帯のやりたい放題を盛り場でやるにあたって、特に気をつけなければならないのが音漏れだ。もし誰かが潰れたクラブから音や声がしたとして、それを耳にし不審がらない保証はない。むしろ確実に不審に思う。善良で正義感に燃える区民だったら、警察に通報もするだろう。アンダーグラウンドの連中は、そんなことは飯を喰うのと同じくらい本能的にわかっている。実際、おれのゲームの時も奴らは盛り上がりはするが、そこら辺は弁えている程度の盛り上がり方だ。
なのにも関わらず・だ。おれの耳がいかれて幻聴を聞いているのでなければ、連中は我を忘れるほど何かに熱狂している。
ゆっくり歩く。自分の意志、というより、何かに吸い寄せられているようにおれは扉に向かって歩いた。扉が近づくにつれ、声はハッキリ聞こえた。
振り払った根拠のない予感が、後ろからようやくおれに追いつき、また胸の内に居座った。何てしつこい奴だ。今度は振り落とされないように、厳重に足場を固めてやがる。そうなるともう、これは確信だ。
おれは扉に手をかけた。中の熱気が伝染したように、いつもは冷たい鉄の扉がやけに熱く感じた。
根拠のない確信か。それともただの思い過ごしの妄想か。
ノー・モア・ベット。さあ、確かめようぜ。
おれは扉を開けた。老執事が家主の帰りを向かえるような、ゆったりとそれでいて鈍重な仕草で、扉は軋んだ音を立てながら身を開いた。
☠
まず眼に飛び込んできたのは、フェンスに群がる人の群れ。熱気が開け放たれた出口に殺到する。いつもと同じ暗鬱な熱気。そして声。割れんばかりの大歓声が耳をつんざく。聞いたこともないような、喚声というより歓声。有り得ない。ここはそんな場所じゃない。
人垣のせいでフープがよく見えなかった。おれは肉々しい一枚岩のようなギャラリーの中に、強引に身体を割り込ませた。TVで見た超人気アーティストのライブ会場のようだ。
隙間ほどの視界に何かが横切った。黒い影。茶色い円形の物体から泳ぐ3つの羽根。宙に制止し浮かんでいたそれは、何かに引っ張られるようにして、消えた。
脈が跳ねた。心臓が不規則なリズムで早鐘を打つ。一歩進むのも苦労するような状況で、おれは何とかフェンス間際まで進んだ。割り込む度に舌打ちと非難の声がしたが、おれだとわかると皆道を開けた。№1の特権だ。顔が知れているというのは悪いことばかりじゃない。
しかし最後の最後で、誰かがおれの背中を押しやがった。おれはフェンスに頭から突っ込み、顔面に打ちつけた。恨まれる覚えは充分過ぎるくらいある。咄嗟に振り返り犯人を捜す。が、見つかるワケがない。おれは心の裡で「見つけたら殺す」と三度唱え、心に誓う。
だが押されたおかげで、最前列に辿り着けた。おれはフープに眼を向けた。
瞳に人物を捉えた。瞬間、息が詰まった。身体が動きを忘れた。声を失った。すべての神経が眼に集中した。フープで動くプレイヤーに文字通り眼が釘づけになった。金網にかけた手に、無意識に力が篭もる。
眼前でプレイする黒尽くめの男。そのプレイは華麗にして流麗だった。計算され尽くされたように緻密で繊細なボールコントロール。対照的に、大胆不敵でアバウトに相手の侵すフットワーク。に優れた獣のような、る筋肉が生み出すスピード。数々の経験に裏打ちされたであろう瞬時の判断力。即座に反応できる反射神経。それを可能にする可動領域の広い柔らかい関節。それらのバックボーンであり、様々に変化するプレイを支える天性とも言えるボディーバランス。どれをとっても一級品だった。
黒い世界で黒い装束を身に纏った“一流”と言っても過言じゃないほどのプレイヤーが、そこに――おれの目の前にいた。
そいつが動く度、空気震える。まるで触れられたことを喜ぶように。そいつが動く度、ギャラリーはただの観客に成り下がり、感嘆の溜息と賞賛の声を張り上げる。まるで光の当たる場所でプレイを眺めているような。そんな錯覚さえ起こさせる。ドリームキャッチャーが無風の中、羽根をはためかせ踊っていた。
「…日比…野…?」
口から名前が漏れた。それを境に記憶は元の形を取り戻し、周りを覆っていた煙も晴れ、その姿をハッキリ視覚できるようになった。どうやら賭はおれの敗け。やはりあれは、過去からの呼び掛けによる「確信」だったのだ。
日比野――そう、目の前の男の名は日比野。間違いない。
何故だ? 何故日比野がここに?
意識外から思わず零れた名前に戸惑い、若干パニックに陥っていたおれは、不意に奇妙な感覚を味わった。周りの空間が一瞬にして暗転し、音が消え、スッポリそこだけ隔離されて別次元に誘い込まれたような、そんな違和感だらけの次元のエアーポケットみたいな空間に、おれはいた。辺りを見回しても誰も何もない。日が昇る前の空のような、黒と青がせめぎ合う色をした闇だけがあった。
そこでおれは音を聴いた。
それは何かが廻るような音だった。軋むような、それでいて軽快な音。
もしかしたらそれは、止まっていた時間の歯車が立てた目醒めの咆吼だったのかもしれない。あるいは、このリアリティのない日常の陰に息を潜めて、いつでもおれの背後を狙っている、正真正銘のリアルって奴が発した音なのかもしれない。
多分、そいつだ。そいつは闇の隙間から突如現れ、おれの横に慣れ親しんだ友人のように立っていた。
姿を確認したくても、金縛りにあったみたいに身体が動かなかった。その内、そいつはおれの肩に馴れ馴れしく手を廻して抱いた。こめかみに異物の感触が同時にした。ひやりと冷たく、鉄のような硬質の感触だった。またカラカラと軽快な音がした。確認したくとも、眼さえもおれの命令に反応してくれない。おれは視界の隅で辛うじて音の発信源を確認した。銀色に光る銃が見えた。金玉が縮み上がった。音の正体はシリンダーが軽やかに回る音だった
何だ? 何だ? 何だ?
ワケのわからない状況におれは混乱した。絶叫しているはずなのに声にすらならない。一体全体、何がどうなっているんだ? この状況は何だ? 何でおれは銃口を突きつけられている?
また音がした。今度はカチリ、と乾いた音だった。戯けた調子で姿が見えないそいつは、おれのこめかみに突きつけた銃の撃鉄をゆっくりと上げた。やけに大きく鼓膜を震わせる。
そいつはぐっと、硬直しているおれを引き寄せ、耳元で静かに――だが相手に覚悟を促すような厳格な低い声で、こう囁きやがった。
Are You Ready?
何が――問い返す間もなく、轟音を撒き散らし、銃弾は発射された。
瞬間、おれの視界は白く染まった。それは見たこともないほどの大量の光りが創り出した、見たこともない白い景色だった。人間が死ぬ時に見るのは、こんな景色なのだろうか。
おれは抗えなく倒れゆく身体で、それを見ていた。最後の力で、おれのこめかみをぶち抜いた野郎の姿を確認する。いつの間にか見えない力の束縛からは解放されていた。が、今更遅い。光で白く染まった闇に、眼を凝らす。逆光が強過ぎて姿はおろか影すらも見えなかった。しかしそいつは確かに――そこにいた。何故だか笑っているような気がした。
くそったれ。何がおかしい。いきなり現れておれを撃ち抜いていった、いかれた頭のそいつにそんな悪態のひとつもつけないまま、おれの視界は白から黒へと塗り替えられていく。
その世界が閉じて消失するその間際、そいつは最後に、親指で下を指しているのが容易に想像できる、どことなく挑発と揶揄を孕んだ声と口調でこう言った。
――GO.
のちにおれは知る。それは合図だった。始まりを知らせる号砲――それが鳴らされたのだと。
壊れた世界が――止まった時間が再び息を吹き返し、少しずつでも確実に胎動を始めたのだと、のちにおれは知らされることとなる。
3
日比野を初めて見たのは、おれが高校三年になっているはずの秋だった。ある種衝撃を伴って、おれの脳裏に鮮明に焼きついている。その日は高くてよく晴れた、秋らしい風の日だった。
高校には三大タイトルと称される大会がある。夏のI・H、冬の選抜、そして秋の国体だ。他のふたつと違い、国体はその名が示す通り、都道府県で№1を決める大会だ。各都道府県で選抜された選手が、その県や府の代表としてチームを編成する、本当の実力者だけが出場することのできるレベルの高い大会でもある。ある県では、高校のチームがそのまま国体のチームのところもある。
その大会で、おれは日比野というプレイヤーを初めて目撃した。
たまたま観に行った日が、優勝候補№1、この大会で連続獲得タイトルを伸ばそうとしている王者・秋田の試合が組まれている日だった。当時の秋田は一高がまるまる国体選抜チームになっていて、このタイトルを取れば、連続で8個めのタイトルを獲得するという冗談みたいなチームだった。結果だけ先に言えば、当時の秋田のその高校は、最終的に連続獲得タイトル9冠という離れ業をやってのけた、史上希に見る怪物チームだった。
タイトル奪取が至上命題の秋田に隙はなく、この大会も下馬評通り秋田の圧勝で終わるだろうと誰もが予想した。その予想を揺るがしたのが、日比野率いる神奈川県の選抜チームだった。
関東は他府県に比べ、全体的にややレベルは見劣りするのが当時の現状だった。I・Hでも上位にはなかなか進出できない地区が、王者とまともな試合をするとは、おれを含め観客の誰一人として思わなかった。
しかし試合は波乱だった。
神奈川は速攻主体でランニング・ゲームを最も得意とする秋田に、真っ向からランニング・ゲームで挑んだのだ。同じスタイルでぶつかり合うと、顕著にその実力差は出る。これはスポーツの常識だ。秋田と対戦するチームが考慮しなければならないのは、「如何にして秋田の足を止めるか」という絶対的な課題を前提にしての試合展開だ。真っ向勝負なんて無謀も甚だしい。人間が素のままチーターと競争しても、どう逆立ちしたって勝てやしない。「逃げずに立ち向かう」と言えば聞こえはいいが、実際は玉砕覚悟もいいところ――本来ならば。
波乱だと言ったのは、秋田のお家芸ランニング・ゲームで、神奈川が劣勢どころか対等
のやり合いになったからだ。取る。取られる。取り返す。捻じ込む。一進一退の攻防が展開された。王者相手に神奈川は一歩も退かなかった。ただ前へ前へと走る。気迫だけなら神奈川の方が勝っているように見えた。この日の神奈川の選手は、ブレーキとバックギアがメンテナンスの時点で取り除かれていたに違いない。
猛攻を仕掛ける神奈川。やもすれば暴走特急のようになってしまうところを、その中心で暴れ馬のような他の選手の手綱を上手く握り、的確に指示を飛ばしながらコントロールして存在感を示していた。
それが日比野だった。
機を見るに敏。大型の選手だらけの中、余計に小さく見えるその小柄な体躯で、トリッキーなパスで相手を翻弄し味方をお膳立てすることもあれば、小型選手特有のクイックネスで、自ら切り込んで点を奪うこともあった。スキルは高校生ながら全日本に選ばれている秋田のPG《ポイントガード》と比べても遜色なく、図太いまでのタフネス振りは、コート上の誰よりも抜きん出ていた。
背中に光る背番号7――高校界でエースを顕す称号が、汗で誇らしく輝いていた。
希に見る好カードゲーム。いつしか観客も神奈川に――日比野に魅了され、声援を送っていた。
試合は結局、秋田が神奈川に最終的に20点差をつけ、下馬評通り圧勝した。
後半残り7分を切ったところで、日比野はベンチに下がった。疲労困憊なのが遠目の観客席からでもわかった。座ろうとした時、意識が途切れたように椅子に倒れ込み、神奈川のベンチは一時騒然となった。たった40分にも満たない時間に自分の全生命力と信念を懸け、走り抜いた男に余力は残っていなかった。紛れもなくこのゲームは、過言ではなく日比野で成り立っていたことを象徴する光景だった。立役者であり指揮官である日比野がいなくなると、神奈川の勢いは眼に見えて失速していった。
ガス欠状態の日比野は、それでも悔しそうに唇を噛み、自分の不甲斐なさを責めているようだった。誰よりも賞賛されるべき男は、誰よりも自分を責めていた。
試合終了のブザーが鳴り、仲間とベンチで健闘を讃え合う日比野は、笑っていても何処か悲しげだった。降り注ぐ拍手と健闘を讃える声援に、日比野は居心地が悪そうに顔を背けていた。
おれはといえば、こんな遠く離れた場所から眺めることしかできない自分と状況にひどく苛ついていた。対戦を望んでも、おれにはその場所も資格もない。噛み締めた奥歯で潰しきれない感情が暴発してしまいそうだった。おれは急いでその場をあとにした。
実力なら敗けていない。帰り道、まるで言い訳のように、おれは心の裡で吐き捨てた。
1ON1なら、おれは誰にも敗けやしない。あいつにだって敗けやしない。証明してやる。いつかお前と対戦する時が来れば、必ず、必ず証明してやる。
いつか――来るはずのない、いつか。絶対に交わることのないおれと日比野の道。何処かでそれを自覚しながらも、おれはそんな無駄な思いを願わずにはいられなかった。
日比野を見たのは、それが最初で最後だ。
何故ならそれ以来、おれは二度とそっち側に足を向けることさえしなかった。
☠
柔らかいタッチで右腕から放たれるシュートが、綺麗な弧を描きネットに吸い込まれた。
ゲーム・オーバー。日比野の得点が11点を超えた。ギャラリーはひび割れた大歓声を上げる。どんなに大歓声を上げても、元が元だけに、野太いそれは下品な唸り声にしか聞こえない。日比野に歓声を送るアウトローどもの姿が、記憶の中の観客たちの姿とダブる。光に群がっていく虫――光を嫌う人間が集まる地下世界のはずなのに。
ゲームが終わって、おれは初めて対戦相手の男を認めた。膝をついて惚けている男。日比野の相手は村上。つい最近まで大学でプレイしていたが、監督と揉めて半殺しにしてクビになったとやたらめったら吹聴していた野郎だ。どこまで事実か知らないが、しかし大学でインカレ出場を経験したという実力は折り紙つきで、現時点では『GARDEN』でおれの次に連勝中、おれとの対戦を熱望し、あの程度なら勝てると豪語していた身の程知らず&自意識過剰の馬鹿野郎だ。だが、村上のアビリティーは実際高く、『GARDEN』でもトップクラスなのは間違いなかった。それは素直に認める。
その村上相手に、スコアは11対4。
日比野は村上相手に2ゴールしか許さなかったということだ。しかも日比野は大して息切れもなく、汗もうっすらかく程度だった。まだまだ余力を残しているのが見て取れる。ともあれ、ご愁傷様。村上はおれとやる前に消える運命にある。
日比野を見上げた村上の瞳に、ある種怯えのような気配が滲んでいた。プライドさえもズタボロにされたようだった。無理もない。場所がどうであれ、今までの人生の大半の時間をバスケットに懸けてきたのに、ここまでボロ敗けするということは、それは即ち人生の全否定を意味する。村上の眼には今、日比野は死神のように映っていることだろう。銀色に鈍く光るブレスレットは、魂を刈り取る死神の鎌か。
そんな村上を醒めた眼で一瞥し、日比野は興味がなさそうにフープをあとにした。おれがプレイを見るまで日比野と確信が持てなかった理由は、恐らくここにある。
あの時から時間は経っている。外見も随分変わった。おれも当時と比べれば別人に近い。髪はボサボサでニキビ面、今よりも身体は一回りは大きく、髪型も着ている服だって違えば見た目の印象は大きく変わるだろう。日比野はさほど体格に違いはないが、髪は伸び、元々色白だった皮膚は更に白くなっていた。前人未踏の脱色病に罹ったアメリカのキングオブポップとまではいかないが、それに近いほど病的に蒼白い。そして、何より変わったものがある。眼だ。村上を見下ろした時の日比野の眼。昔はあんな冷徹な眼をしていなかった。今の日比野は、感情を何処かに置き忘れたかのような黒々とした瞳をしていた。眼は心情を顕す窓、とは巧く言ったものだ。実際、見る者に対して与える印象というのは大半が眼から発せられる空気によって決まる。どれだけ身形を着飾っても、所詮それは本質ではないからだ。人間の本質は眼に顕れる。
何があったのか。何がなかったのか。
普通に生きていれば、日比野は間違いなく大学、社会人――もしくはプロと道を約束され、そこに進んでいるはずだった。なのに今、おれの眼の前にいる。麗しくもくそったれた、アンダーグラウンドという裏の世界に。
日比野がフープから出て来た。周囲に撒き散らす空気は、アンダーグラウンドを生業としている人間のそれだ。その空気に当てられ、騒いでいたギャラリーたちは徐々に口を噤んでいった。さっきまでの騒々しさが嘘のような沈黙が降りる。ようやくここが何処で、自分たちが誰だかを思い出したようだ。にしても、周囲の連中が人一人にここまで黙りこくるなど、そうそうあるものじゃない。まるで藤堂のようだ。外見も雰囲気も全く似ていないが、連中は本能的に相通ずる何かを嗅ぎ取ったのだろうか。
日比野が歩く先々で、ギャラリーはたじろぐように身を引き、道を開ける。モーゼの十戒のように割れてできた道を、日比野は悠然とした足取りで歩く。その先には五代と、いつものようにソファーにふんぞり返っている藤堂がいた。
藤堂がガンジャを投げ捨て、床に唾を吐いた。珍しい姿だ。苛ついている。「感情をすぐ表に出す奴は三流」と、ゲームを一緒に見物している時、藤堂は悟ったように度々口にする。そのクセに、だ。
日比野は意に介した様子もなく、五代の前で足を止めた。払いたくないのか、五代は仏頂面で引き気味に金を出す。暗い上に遠目でハッキリ見えないが、おれが貰う額より多い。日比野はその金を無造作に掴み、折り畳んでヒップポケットに捻じ込んだ。
何事もなかったように帰路に着く。愛想の欠片もない無表情だった。出口に向かう日比野と、その近くにいるおれとの距離が縮まっていく。近づくにつれ、照明の明かりも手伝って次第に顔が鮮明に浮かび上がってくる。
見れば見るほどあの頃とは別人だった。数メートルの距離を開けて日比野の目線が動き、おれを捉えた。まじまじと見ていたせいで、逸らすタイミングを逃してしまった。眼が合う。どうするか、と迷ったが、日比野は興味がなさそうに眼を逸らした。そのまま擦れ違った。おれは反射的に音を立てて振り返ったが、日比野は振り返る素振りも気配もなく、そのまま扉を開け外へと出ていった。
腹立たしかった。それも無性に。おれを見た時の日比野の眼――興味どころか関心の欠片さえ見当たらなかった。道路に捨ててあった吸い殻が無意識にたまたま眼に入ったというような、そんな風景の一部分を見るような眼だった。不貞不貞しいまでのその態度は、おれの自尊心を逆撫でした。
「…気に入らねえな」
扉に向かって吐き捨てた。醒めた面してスカしやがって。おれはああいうクール&ドライを信条にしていそうなタイプの人間は大っ嫌いだ。磁石のように反発するよう遺伝子に組み込まれている。
内心に溜まっていく澱のような感情を、舌打ちで僅かに放出させる。さっきまでの驚愕や混乱、申し訳程度の懐かしさは、キレイさっぱり忘れてしまっていた。
☠
「感情をすぐ表に出すのは三流・じゃなかったっけか?」
おれはウォッカのカクテルボトルを呷っている藤堂に、からかい半分に声をかけた。
「何だ、お前か」酒の甘ったるさが染みたのか、藤堂はバツが悪そうに顔を顰めた。「帰ったんじゃなかったのか?」
「帰ろうとしたら呼び戻したんだろ」
「…誰がだ?」
おれは怪訝に思いながらも、五代を顎で差した。藤堂は五代を一瞥し、舌打ちした。当の五代は恐縮し過ぎて身長が縮むんじゃないかと思うくらい、肩を窄めていた。
「スイマセン…蘇我にも見せておいた方がいいかと思いまして…」
不思議に思った。これまた珍しいことだ。五代が藤堂の命令なく行動することは、おれの知る限り皆無だったからだ。
「賢明な判断じゃねえの?」
フォローするつもりはないが、判断としては間違っていないのに何故か睨まれている五代に同情し、一応そう言ってやった。
「スゲー盛り上がってたな。声…廊下まで響いてたぜ」
「…馬鹿共が。はしゃぎ過ぎだ」
藤堂はまた舌打ちをした。大きく溜息を吐く。まだ苛立ちが残っている。余程虫の居所が悪いらしい。居所が悪いだけでなく、もしかしたらその虫が暴れまくって、癇癪を起こしているのかもしれない。
「おい、五代。もう一度奴らに釘を刺しておけ」
いつもの藤堂の調子――意識して喋っているようにも感じた。
「何そんなに苛ついてんだよ」
からかい半分怪訝半分に訊ねた。
「誰が」
言うが速く、藤堂はガンジャのシガーケースを取り出した。中身が空なのを確認すると、苛立たしく「おい」と巻紙と葉っぱを要求した。これで苛ついていないというなら、藤堂の苛つくというのは一体どんなんなんだろうと疑問に思う。
「今の奴さ」舌で巻紙の糊づけ部分を湿らせている藤堂に訊いた。「あいつ、よく来んのかよ?」
日比野、と固有の名称は言わなかった。言えばどうせなぜ名前を知っているかなんだで突っ込まれる。根掘り葉掘り訊かれれば、思い出したくもないことまで思い出しそうだ。それにいちいち説明する義理もない。
「…ここ一ヶ月くらいの話だ。週に一、二回の頻度で顔を見せる」
顔も上げず、煙草作りに精を出しながら藤堂は答えた。作業に没頭することで、腹の虫をやり込めようとでもしているのか。丹念に出来上がったそれを口に銜え、火をつける。肺に浸透させるようにゆっくり大きく吸い込み、そしてまたゆっくりと煙を吐き出す。最後に切れよく短く息を吐くと、それで幾分落ち着いたのか、ソファーにもたれかかり、ようやくおれに眼を向けて寄越した。
「それがどうかしたか?」
おれは「別に」と素っ気なく答えておいた。
一ヶ月。確かに最近の話だ。たまたま顔を合わせることがなかったとしても、別段不思議はない。おれは普段、遅い時間にぱっと来てぱっと帰る。昔からいるのに会ったことのない奴なんてざらにいる。しかし、毎回これだけの騒ぎになるなら、そんな奴がいると噂くらい耳にしてもいいような気もするが。
「んで? さっき訊いたことと関係あるんだろうけど、何でお前そんな荒れてるんだ?」
藤堂は片目だけ吊り上げ、おれを見た。まだそんな戯れ言を言っているのか。そんな表情だった。しかしおれには誤魔化しても無駄だ。どういうワケか、藤堂の嘘は希にわかる。それが藤堂がおれが自分に似ていると言っていたのと何かしら所以があるのかしらないが、わかってしまうんだからしょうがない。何も訊かず心中を察するのが粋ってものかもしれないが、生憎おれはそんなお人好しでも高尚な人間でもない。それを理解してか、藤堂は諦めたように溜息を吐き、言った。
「前回から、奴絡みのゲームは賭が成立しなくなってるんだ。客の大半が奴に賭けるからな。ケツ持ちがこっちに廻ってくるもんでな、商売上がったりの状態だ」
「なるほどね」
納得した。苛つきの原因はそれか。
普通、ギャンブルに於いて胴元の存在は絶対的に有利だ。パチンコなんかを例に挙げるとわかりやすいかも知れない。勝つ奴もいれば敗れる奴も当然いる。しかし、その金額は必ずしも比例しない。勝つまでに投資した金額は、勝った時に得る金額を悠に超える。『GARDEN』のような形態だと、それが顕著に現れる。配当金を払ったとして、外れた連中から巻き上げた金でそれを補っても余りある利益が懐に転がり込む。カジノなどは、開店資金を一年と待たず回収することができると聞いたことがある。博打というのは詰まるところ、必ず胴元が儲ける仕組みになっている。それでも潰れるとすれば、カモたる客の足が遠のくほどその賭博場に魅力がない、強いては主催者が無能、ということになる。
しかしそんなおいしい商売にも、例外なく落とし穴はある。それが今回のケース、ベットが一方に偏り、賭け自体が成立しなくなるケースだ。客がいて催し物を主催している以上、「成立しませんでした。だから今回はなしの方向で」「あ、そうですか」では済まされない。それがアンダーグラウンドなら尚更だ。100に近い確率で暴動が起きる。如何に藤堂といえども、経営者である以上それを力ずくで捻じ伏せる暴挙はしないし、できない。そんなマネをするとすぐさま潰れる。それならばどうするか。答えは簡単。胴元がバランスを取るためにポケットマネー、あるいは店の金で不足分を補う形になり、無理矢理賭を成立さぜるを得ない。しかもそれで敗ければ、更に配当金の上乗せが賭場から消えていく。
大雑把だが、主催者側からの博打のイロハの「イ」を説明すれば、そんなところだ。藤堂の機嫌が悪くなるのも頷ける。
「ハンデ戦、やらなかったのか?」
おれは訊いた。ハンデ戦はそういう事態を回避するために設けられた、『GARDEN』独自の特殊ルールだ。一方に賭金が集中した場合、均等にベットを促すために、人気のある方にハンデを課す。バスケットというスポーツの定義上、当然能力差を考慮したハンデになる。例えば、取る点数を上げる。リバウンドはなしにする。ミドルレンジからのジャンプシュート以外の得点は認めない等々。酷い時には片腕でやれと言われることもある。ちなみに、おれは今言ったすべてのハンデを経験済みだ。
聞くとそんな大したことはなさそうに思えるが、ハンデの内容云々よりも「何かが制限されている」ということ自体がプレッシャーになり、絶えず身にまとわりつく。制約ありきの勝負は想像以上にウザったい代物だ。ともあれ、そういう偉大なシステムがあり、おれの時は散々っぱら活用しているクセに今のゲームでは適用していないのか、と皮肉ったワケだが、返ってきた藤堂の返事は「やった」と味も素っ気もないものだった。
「やるに決まっているだろう? 今日のハンデを教えてやろうか? ポイント・ダブルのワンショット・フィニッシュ。それでもギャラリー共は奴に賭けるんだ。そして結果はお前も見ての通りだ」
得点二倍のリバウンドなし。耳を疑った。それだけのハンデがあって、村上にあの点差だと? ポイント・ダブルの場合、得点はマイナスから始まり、ゼロを超えてから加算されるので表記としては通常と変わらない。これはハッキリ言って無駄なのだが、曰く、ハンデなしの相手――要するに実力が下に見られている奴に対する配慮なのだそうだ。絶対嘘だと思う。やっていれば猿でもすぐ気づくそれをするのは、おれが思うに、それに気づいた時の屈辱に塗みれたプレイヤーの顔を藤堂が見たがっているからに違いない。藤堂の性根の腐りっぷりはナチュラル・ボーンだ。ちなみに、ハンデは課せられる奴にしか説明されない。
話がズレた。戻そう。つまり日比野は22点取るまでの間、村上に禄にプレイさせていないという事実が改めてわかった。そんなプレイヤーを見ればなるほど、どんな救いようのないボンクラ共でも、あれだけ熱狂するかもしれない。
「ハンデ戦してそれなら、しょうがないんじゃねえの?」
藤堂は煙を吐き出し、指先で弄んでいるガンジャに眼を落とした。何か言い淀んでいるように感じた。賭バスケ絡みでおれに隠しごとをする――珍しい。珍し過ぎる。明日とうとう日本は沈没するかもしれない。
「問題なのは、あいつが前回から賭金を大幅に上げたことなんだ」
おれが怪訝に思っていると、横合いから今の今まで一歩下がって黙っていた五代が口を挟んだ。藤堂は咎めるような視線を一瞬五代に向けたが、それ以上は特に何も言わず、またガンジャを銜えた。
「続けろよ」
おれは言った。五代は藤堂を見た。藤堂は前を向いたまま顎で促した。了承を得た五代はおれに眼を戻し、一息吸って続けた。
「同じことを繰り返すが、あいつがここに来たのは一月前くらいからだ」
聞きたいことは夢の島のゴミ溜めくらい山盛りにあるが、取り敢えず静かに聞いてやることにする。
「初めは別段何があるって感じの奴じゃなかった」五代は過去を反芻するように眼を細めた。「賭金も普通、レベルもそこそこでな。まあ強いて言うなら、やたら無口で、何より自殺志願者みたいに昏い眼をしていたのが印象的だったくらいだ。何処かでここの存在を聞きつけて暇潰しにやってきた。そんなそこら辺にいる奴らと変わらない奴だと思っていたんだ。ただ、何て言うか…雰囲気が他の奴とは違った。あの眼とは逆に、アンダーグラウンドで生きているような奴には見えなかった。オレたちには独特の匂いがある。それが最初あいつにはなかった」
アウトサイドに生き、それに染まるとある匂いを放つようになる。同じ人種の人間同士のみが嗅ぎ取れ、察知できる鼻につく匂い――腐敗臭。人が堕ちた時に放つ独特の体臭。おれは多分、まだ放っていない。
しかしそれは擬態だったんじゃないか。今思えばそう思う。五代は断言するように言った。さっき奴を見たろ? あの眼、あの醸し出していた空気。あれはまさしくこっち側の人間特有のものだ。
頷いた。おれもそう感じた。他を威圧するあの空気――言い換えれば存在感は、ブラフやハッタリで出せる類のものじゃない。
「あいつが本性を見せ始めたのは前々回からだ。それまで平々凡々だった態度が一変した。あいつは急にオレたちにこう言った」
提案がある。俺と直で賭をしないか。俺が勝てばそっちはエントリー代の倍額を払う。
逆に俺が敗ければ、エントリー代プラスあんたたちが提示した金額を払う。どうだ?
それまでの印象をがらりと変える、強気な態度と申し出だった。とても同一人物だと思えないほどの。
胴元との直接勝負。珍しいと言えばそうだが、ないことではない。賭場の知識さえ持っていればそれくらい誰だって一度は考える。胴元との勝負は、客同士のそれより遙かにでかい額を望める。しかしやる人間が希なのは、それに伴うリスクも遙かに大きくなることを承知しているからだ。もし敗れれば、額によっては明日の朝日を拝めなくなる場合がある。払えない不足分は身体で補うしかない。裏世界の常識だ。そこに棲息する人間になら、誰でも知っている。余程自分の博才や運気に自信がなければできない芸当だ。
五代は――おそらく藤堂も――馬鹿な野郎が自分を過信し過ぎてネギを背負うマネをした、と内心ほくそ笑んだ。日比野のレベルから考えても、こちらが損をすることはまず考えられない。絶好のカモ。逃す手はない。そう決めた五代は眼で藤堂の意志を確認した。返事は言うまでもなかった。と言うより、藤堂は『GARDEN』の運営面ではほぼその全権を五代に一任している。一応の確認を取っただけだ。
いいぜ、受けてやる。でもお前にこっちが要求する額が用意できるのか? 揶揄するように五代は日比野に言った。暗に借金してでも臓器を売り飛ばしてでも用意してもらうという脅し混じりの言葉に、動じた様子もなく日比野はヒップポケットの財布から札束のズクを取り出した。ズクは10万以上あった、と五代は言った。『GARDEN』では一回の賭金が最高でも5万前後だ。たとえばバックにヤクザなんかがついていれば、もっと高額のレートで金が行き交うんだろうが、『GARDEN』は藤堂が単独で催している賭場だ。バックもクソもない。盛り場の一等地に何処にも属していないチンピラが賭場を開く。普通ならヤクザの介入は免れないが、因縁をつけるどころか今まで一度たりとも嫌がらせの類を受けたことも踏み込まれたこともないらしい。背景には、そっちの筋にも藤堂が一目置かれていることがあるらしいが、藤堂が何処と繋がり、そいつらと何をどう取り決め、どういう約束事があるのかはおれは知らないし知る必要性もない。あくまでここは藤堂の庭で、おれは特別待遇の客というスタンスなのだ。おれの中では。
あと、レートが高額でない理由に、藤堂は自分の庭に来る客の程度を知っている、というのがある。藤堂にとっては『GARDEN』もただの暇潰しだが、場を提供するオーナーとして考えることは考えている。
かくして、日比野との契約は成立した。それが悪魔の囁きだったと五代が知ったのは、そのわずか数分後だった。
賭の契約成立前と成立後――日比野は別人だった。変わったのは態度だけじゃなかった。
ただのカモだと思っていた男は、鋭い爪と猛毒の嘴を隠し持っていた。
ハメられた。罠にかけられたのは自分たちの方だった。そう気づいたときには遅かった。まるで詐欺師のような手口。気づいた時にはもう、ゲームは終わっていた。目の前をF1車が疾走していくくらい、あっと言う間の出来事だった。
「何だか」五代が話し終えたことを慎重に吟味して、おれは言った。「最初からあいつの狙いはそれだったように聞こえるな」
そうは言ってみたものの、依然謎は残る。一体何のために? 金と言えばそうだろうが、それなら最初から持ちかけたとしても大して変わらないように思う。時期をずらしたからと言って、それほどメリットがあるとは思えない。
「オレも同じ意見だ」
藤堂が言った。相変わらず明後日の方向を向いたままだが、意識はしっかりこっちに向いていた。
「思うんだ」五代が言った。「お前の感想通り、あいつの目的はハナからそれにあったんじゃないかって」
「何か根拠があるのか?」
おれは訊いた。
「吉祥寺の噂は知っているか?」
煙を吐きながら藤堂がおれに尋ねる。
「『ソドム』のことか?」
吉祥寺の賭バスケット場『ソドム』。今はもう潰れて存在しない。大体、名前からして消える運命にあるようなネーミングだ。つけた人間のセンスを疑う。
「そうだ」
「噂…。噂ねえ…」
脳味噌を穿り返し、記憶を捜す。潮干狩りみたいにジャラジャラ出てくるが、大半がいらないものばかりだ。くそったれ。
「…そう言えば、妙な噂を聞いた覚えがあるな」
おれは言った。吉祥寺の『ソドム』が潰れて少しした頃、ある噂が流れた。
『ソドム』は死神に取り憑かれた。
もちろんおれは笑い飛ばし、どんな怪奇現象だと同時に呆れもした。無能極まりない人間が店を潰したのを、どうせそんなワケのわからん比喩表現で言い訳して責任逃れをしているだけだろうと。無能を隠したがる経営者は、表も裏も関係なく何処にでもいる。それに潰れた直接的な原因は、『蛇狩』と対立関係にある池袋の『
「どんな風に聞いている?」
藤堂が更に尋ねる。おれは思い出したまま言った。死神が取り憑いた。ブクロの連中が襲った。口に出してみると、非現実的と現実的が両立している。噂っていうのはこういうものなのかも知れない。
「それにしても、噂ってのは尾ヒレ背ビレつくモンだろうなんだけど、後の方はまあいいとしても、このご時世によりにもよって死神だぜ? 都市伝説かっつーの」
感想を茶化して言ってみたが、誰も反応しなかった。お愛想でいいから誰か笑え。でないと、冗談を言ったおれがただの馬鹿に見える。
「…あながち都市伝説でもなさそうだがな」
藤堂が独りごちるように言った。
「あ?」
「死神とやらさ」
どういうことだ? おれはそれ以上口を噤んだ藤堂を見限って、五代に眼で問う。
「こんな噂がある」
また噂か。いい歳こいた人間、しかもアウトローがこんな噂好きとは知らなかった。喉元まで出たそれを飲み下した。何となく憚られる雰囲気が漂っていた。口にした五代の表情は真剣そのものだ。まさか本気でそんな馬鹿げた話を信じているのなら、ひとまず休戦協定を結び、精神科の病院を勧める。
「『ソドム』が潰れたのは『SPIKY』が原因だ。それに関しちゃ裏も取っているから間違いはない。だがそれ以前に、すでにあそこは破綻していたらしいんだ」
「賭場が? チームが?」
「両方、だ」
「…両方?」
「破綻した原因は、一人の男だそうだ」
「ヤクザにでも眼ぇつけられたか?」
おれは当然の予想を口にした。『GARDEN』以外でそんな非常識が通用するとは思えない。なぜなら、そこには藤堂がいないからだ。
五代はきっぱり首を振った。「違う」
「やけに言い切るな。どうしてそう言えるんだ? 噂なんだろ? 確証がない割には断言するじゃねえか」
「馬鹿かお前は。よく考えてもみろ。狭い世界だ。そんなことがあれば噂どころか確実な情報として出回るに決まっているだろ」
それもそうだ。一理ある。ヤバイ情報は垣根を超えて、アンダーグラウンド全土に広がる。対立していても所詮は同じ人種だ。自分たちを脅かす存在の情報はしっかりと共有している。この理屈がわからないなら、世間を見ればいい。同じ業種のライバル会社同士でも、その業界を荒そうとする輩には手を取り合って対抗する。それと似た感じだ。
「じゃあヤクザでもない一般の普通の人間に、賭場が一軒潰れる寸前まで追い込まれて、挙げ句チームを潰されるにまで至ったって言うのか? そっちの方が信憑性薄いぜ」
「そう、お前の言う通りだ。しかしだ。信憑性は薄いが、そっちの方が辻褄が合うんだ。仮に吉祥寺がそれが原因で潰れたとする。お前がそこの人間だったら、それをそのまま人に話すか?」
少し考え、「ないな」と言った。
そんないわば恥をベラベラありのまま話せば、面子が潰れるどころの話じゃなくなる。人間はいつだって事柄を美化し、脚色する生き物だ。ましてや面子が命のアウトローが、そんな生き恥みたいな話をありのまま話すとは到底思えない。自分の首を絞めるだけだ。
「だろう? オレは死神が取り憑いたってのは、潰された連中のただの恥隠しだと思う。そうしておけば、突っ込まれたところで話はボカせるし煙に巻けるしな。そこで話を戻すぞ。噂と言ったのは、おそらくその死神呼ばわりされた奴のことだ。これは裏取りのない情報なんだがな」
「じゃあやっぱり噂なんじゃねえか」
勿体つけて何を遠回しに言ってやがる。
「揚げ足を取るな。裏取りをしたくても、その人間を見た奴がいないんだからどうしようもないだろう。それにまさか、ウチにまで来るとは思ってもいなかったしな」
五代は藤堂にチラリと眼をやった。
「見た奴がいない?」
「正確に言うと、捕まえられない。見たって言う奴は全員、潰れた賭場の連中だからな。幹部クラスは雲隠れ、雑魚に関しては有象無象過ぎて顔なんか知らない。客も場所が違えば――」
「ちょっと待てよ」おれは口を挟んだ。「お前の言い方だと、潰れた賭場全部関係あるっていう風にきこえ――」
「関係あるんだよ」
いい加減苛立ったように、五代は遮った。
何が何だかわからなくなってきた。確か日比野の話をしていたんだよな? 情報が錯綜し、頭がうまく整理できない。おれはこめかみを揉んだ。
「初めてそれを聞いたのは、秋葉原の件でだ。一応頭に入れておくか。そんな程度の話だった。二件目は新宿。三件目は上野。ここでも同じ話が出た。そして今回の吉祥寺。すべてに共通しているのは、どれも一人の男が同じ手口で勝負していたらしいってことだ」
思わず反射的に顔を上げた。おれ程度の頭でも、今話を繋げたラインが明確に見える。
「まさか…」
「…荒らし
藤堂が呟いた。穂先が薄闇に赤く光り、仄かに藤堂の顔を照らしている。その微光のせいか、ぞっとするほど藤堂の表情はくすんでいた。
「クラッシャー…?」
鸚鵡返しで呟いた。破壊者。秩序を荒らす者。それが日比野…?
「さっきも言ったように、まさかウチに来るなんて思ってもいなかったからな。そんな情報もすっかり忘れちまってたよ。気づくのが遅れたが、おそらく――いや、十中八九、奴のことだろう」
理解不能だった。だってあいつはあの日比野だぞ? そんなことやる必要が何処に転がっているっていうんだ。世直し? 桃太郎侍じゃあるまいし、そんな馬鹿な理由があるか。わからない。何もわからない。わかっていることは、日比野がその死神だか荒らし屋だかなんだかである可能性が極めて高い、ということだけだ。しかしなるほど、言われてみれば、死神と退廃的なネーミングをつけたくなる気持ちはわからなくもない。日比野のあの雰囲気には、その呼称がしっくり来るものがある。幽鬼を漂わせ、何処か儚げで、それでいて残忍な程鋭く、恐ろしく冷たい。日比野には何処か、氷というイメージがつきまとう。
「一応裏を取ってみるが、どっちにしろ奴の正体は何だっていい。オレたちに喧嘩を売った、そのことには変わりないからな。簡単にはいかせないさ。オリジナルはそこら辺のパクリとは違うって思い知らせてやる」
裏づけもないが、日比野がそうだと確信し決めつけた言い方だった。容易に受けてしまった自分には責任がある。地に落ちかけの名誉を挽回しなければならないという決意がありありと滲んでいた。
「裏を取るってどうやって?」
ついそんなことを訊いてしまったのは、おれにはどうしてもそのふたつが上手く結びつかないからだ。いや、結びつけたくない、の間違いだろう。あの日比野がそんな狂行をするとも思えない。同時にあの眼を思い浮かべると、納得してしまう自分もいる。
「吉祥寺を虱潰しに捜す。あそこは街も狭いし範囲が知れている。それにここから近いしな、動く分にも何かと便利だ」
おれの質問に大して不審を抱くことなく、五代は答えた。横から視線を感じた。顔を向けると、藤堂がじっとおれに視線を留めていた。内面まで見透かされそうなその眼に、おれの心臓は一回大きく跳ね上がった。
「ったく、よりによってこの時期に…すいません、藤堂さん。オレが不注意でした」
頭を下げた五代に、藤堂は口端を持ち上げた。
「構わんさ。イベントは多ければ多いほどいい」
蛇が獲物を見つけた時に見せる狡猾で恍惚の表情――今にも舌舐めずりをしそうなほど、藤堂の眼は凶暴な光に爛々としていた。
パン、という湿った破裂音がした。ふと顔を向けると、黒いツナギを着た白髪というより銀髪の散切り頭の男が、だるそうにポケットに手を突っ込んで立っていた。口元に潰れた風船ガムがへばりついていた。眼が合った。黒いツナギの野郎はおれと眼が合うと、口の中にガムを戻しながら微笑んだ。他の取り巻き連中とは何処か雰囲気が違う男だった。
五代の言うこの時期――半月ほど前から、池袋『SPIKY』と『蛇狩』の抗争が本格化しつつあった。今まで均衡を保ってはいたが、いつそれが崩れてもおかしくはなかった。それがついに崩れた。先に仕掛けたのは『SPIKY』だ。オリジナル潰しと『蛇狩』潰しのタイミングが、吉祥寺を潰した勢いに乗って噛み合い、加速したのだろう。両チーム合わせて、すでに20人以上病院送りになっている。勝手にやってくれ、というのが個人的な感想だ。本心を言えば『蛇狩』が敗けて『GARDEN』が潰れるのはゴメンこうむるが、こちらに史上最凶の暴君・藤堂がいる限り、それはない。普通にやり合えば、結果は火を見るより明らかだ。
話が一段落を向かえた時、仕込まれたような絶妙のタイミングで電子音が鳴り響いた。五代の携帯電話だった。五代は携帯を取り出し「何だ」と上に立つ人間特有の横柄な口調で言った。五代の眉が歪む。不穏な空気を感じ取ったのか、取り巻き連中は視線を五代が握る携帯に据えていた。
何度か頷いて携帯を切った五代は、藤堂に振り返った。おれの存在はすでに眼中にない。
「藤堂さん。『SPIKY』の連中が公会堂前で暴れているらしいです」
藤堂は「ほう」と感心したように言った。その口端は何か悪戯を思いついたガキのように歪んでいた。さっきまでの若干取り乱した様子は、今はもう微塵も感じさせない。
「あいつら…ふざけやがって! よりにもよって渋谷でだと。ナメてやがる…! すぐに誰か手配します」
動き出そうとした五代たちを制するように、藤堂は手を持ち上げた。
「いい。オレが行こう」
立ち上がった藤堂に、五代は眼を剥いて驚いた。トップが直々に出ていくなど、二番手としては看過していいことじゃない。何を言ってるんですか。五代は泡喰って止める。しかし藤堂が自分で行くと言い出した以上、何を言っても無駄だ。唯我独尊。それも藤堂だ。確かに、おれに似ているかもしれない。
「…わかりました」
渋々五代は了承した。こういうトップだと、さぞかし気苦労の連続だろう。
「じゃあ、誰かつけますんで少し待って――」
「必要ない」
五代の申し出を藤堂はあっさり跳ねつけた。
「ぞろぞろ引き連れて歩いてみろ。すぐに警察の知るところになる」
正論。本音は大勢で動くのが嫌い、というのがあるのだろう。藤堂は群れるのを嫌う。何故そんな男がチームを持っているのか。簡単だ。『蛇狩』は藤堂のチームだが、藤堂が創ったワケじゃない。創設者は五代ともう一人別にいた。藤堂の右腕であり、おれが初めて“掃除”した男。
藤堂の個人主義は五代も重々承知している。それでもやはり何か言いたそうだ。ついでだからおれもつけ加えた。
「その方がいいぜ、五代。藤堂の言う通りにしとけよ。なんせ今、外はポリ公がボウフラみたいにわんさか湧いてるだろうからな」
藤堂を覗いた全員が呆けた面でおれを見遣った。
「お前、何でそんなこと知ってる?」
代表として五代が訊く。
「さあ? 知らねえ」
とぼけたフリしておれは肩を竦める。低くくぐもった嗤い声がした。藤堂が嗤っていた。
「しょうがない奴だ。確かに鬱憤晴らしをしろとは言ったが、この近くでするのはあまり感心せんな」
言葉とは裏腹に、藤堂の口調はガキの悪戯を咎める程度のものだった。
「おれはどっちかって言うと被害者だ」
「だろうな」と、まるっきり信じてはいない様子だ。狼少年の気持ちを味わう。
「オレも行きます。それならいいでしょう?」五代が言った。「せめてそれくらいは認めてください。億が一、ということもあります」
藤堂はやれやれ、とおれに肩を竦めて見せ、「好きにしろ」と五代に言った。
五代はさっきの黒いツナギを着た銀髪頭に以降の解散を一任した。五代が真っ先に話しかけたところから推測するに、黒ツナギは取り巻きの中では上位ランクの人間らしい。藤堂が出張る以上、解散は当然だろう。家臣が主のいない城で好き勝手していい道理はない。
黒ツナギは風船ガムを膨らましながら、つまらなさそうに聞いていた。へりくだりがこびりついた他の取り巻き連中とは、やはり態度が違う。端から見ると五代と対等のようにも見える。
藤堂は背を向けた。五代を置いて先に行こうとする。待つという概念は、どの世界であろうがトップにはない。
「おい、藤堂」
その背に声をかけた。藤堂は眉を段違いにして、何だ? という表情を作った。戯けた表情にも、無理矢理な何かを押し殺しているような表情にも見えなくもない。
「なんで何も言わねえ?」
おれはおれのポジションから当然の疑問を口にした。
「何を、だ?」
「とぼけるなよ。さっきの話だよ。オレの出番なんじゃねえの? あいつが邪魔ならいつものようにおれに言えばいい。野郎が噂の『荒らし屋』か何かは知らねえけど、現状としてあいつが今最もやっかいで消えて欲しい相手であることには変わりはないんだろ? だったら何でおれに何も言わねえ?」
願ってもないチャンス――そう、これはチャンスだ。絶対に交わらないと思っていた日比野とおれの人生。どういう過程か何の因縁は知らないが、ないと思っていたものが不意におれの目の前にひょっこり姿を現したのだ。たとえば狩人が昔見かけただけの神秘な生き物に、時を経て再び巡り会うような幸運。しかも自分の射程距離内にいる。考えるまでもなく照準を合わせるだろう。こんな絶好のチャンスを逃す手はない。いたとしたら、そいつは正真正銘、ただの間抜けだ。
「おれはいつでもいいんだぜ?」
準備はできている。ずっと昔から。さあ、言え。あいつを排除しろ――そう言うだけでいい。その言質さえ取れれば、大手を振って日比野と対戦できる。日比野が何者だろうと、誰にも邪魔をされずおれのテリトリーで勝負ができる。昔立てた誓いを果たせる時が来る。
さあ言え。言え。言っちまえ――。
「駄目だ」藤堂は言った。
「……あん?」
脳が一瞬バグを起こしそうになった。耳がいかれてしまったのかと疑った。まさかそんな返答だとは爪の先も思っていなかった。
「何でだ? 何考えてんだお前? この状況はどう見たって――」
「随分ムキになるじゃないか、蘇我。そんなにあいつが気にかかるか?」
おれはぐっと喉を詰まらせた。見透かされている。やはり藤堂は何かを察知している。平静をうまく装えたと思ったが、さすがそういう嗅覚は鋭い。
「まあそう逸るな。駄目と言ったのは、時期尚早という意味だ。まだあいつがそうと決まったワケじゃない。裏を取ってからでも遅くはないだろう。今の段階じゃ、お前の出番には早過ぎる」
えらく悠長な科白だ。金をブン獲られてさっきあれほど苛ついていた分際で。
「そんな呑気に構えてていいのか? もしかしたらこれは『GARDEN』史上最悪の事態と相手かも知れないぜ」
なんとかGOサインを引き出したくて、そんな誇張をしてみた。スパイスとして皮肉をまぶすことも忘れずに。
「逸るな、と言っているだろう。まだこっちにも手駒はいるんだ。他の賭場はどうかは知らんが、ここはオレが選別したプレイヤーが数多くいる。どいつもこいつも一癖も二癖もあるような奴ばかりだ。一筋縄でそう簡単にはいくまい。当面は様子見がてら、そいつらをぶつけてみる」
反論しようとして、やめた。藤堂の観察眼と洞察力にはおれも一目置いている。プレイヤーの特徴、技術、身体能力、そのすべてを一度見ただけで大体把握し、網羅している。記憶力もいい。その藤堂がおれを含め自らの足でスカウトしてきた奴が、『GARDEN』には何人かいる。確かにそいつらのレベルは高い。が、しかしおれの見解では日比野はそれらよりも上だ。おれはそう判断した。ならば当然藤堂もそう判断していてもおかしくない。
なのに。
「手遅れになっても知らねえぞ」
テコでもイエスと言いそうにない藤堂に、おれは内心不貞腐れながら吐き捨てた。
「そうはならんさ」藤堂は子供をあやすような口調で続けた。「そうなる前にお前に頼むとするよ。何せ、お前はここの最終兵器であり、オレが最も信頼するビジネス・パートナーだからな。どうなろうが、お前がいればオレは何の心配もしなくていい」
首筋が痒くなった。拒絶反応で蕁麻疹が起きそうだ。唾ごとその科白を吐き捨ててしまいたい。何処をどうひっくり返せばそんな欠片も思っていない言葉がでてくるのか。ブラックボックス・藤堂。奴の中身は謎に満ちている。
「暫くはゆっくり見物してろ。たまにはいい機会だ。…奴の始末はこっちで何とかする」
そういって会話を切るように再び背を向けた藤堂が前を向く直前、思わず全身が総毛立ってしまうほど、残酷で残忍な顔が僅かに覗いた。藤堂は――嗤ってさえいなかった。トラブルが大好物の偏食家のこの男が、ご馳走を目の前にして嗤わず、頬を強張らせていた。 照明の淡い光が藤堂に影を落とす。その陰影の中の藤堂は、まるで炎のようだった。そしてそこから、熾る直前の静かな蒼火を思わす声色が発せられ、おれの耳朶を灼いた。
「――精々、遊んでやるさ」
藤堂は静かにそう呟いた。
☠
バイクは撤去されていなかった。警官の姿も見当たらなかった。おれは安堵の溜息を吐き、バイク跨がった。
エンジンをかけ、暖気を待たずに車道に飛び出た。さっきみたいな面倒はもう懲り懲りだ。一気に加速し、フルスロットルで渋谷を駆け抜けた。
藤堂――何を考えているのか。いつも以上に奴が何を考えているのかわからない。
日比野――本当に噂の主はあいつなのか。だとしたら、一体何が日比野を危険で愚かな行為に駆り立てているのか。
走るおれの真上には蒼白い月。限りなく白に近い蒼の月。おれの疑問にスポットライトを当てるように、天から一筋の淡く神々しい光が垂れていた。走っても走っても、それは何処までもついてきた。
まるでおれが封印し隠しているものにまで、その光を届けようとしているかのように。
4
賭を始めて三戦目――おれからすれば二戦目の日比野のゲーム。
見るまでもなかった。結果はおれの予想通りだった。それでも藤堂は前回とは違い、やけに落ち着いた様子だった。リラックスした表情でゲームを眺め、その仕草からは余裕さえ感じられた。五代はしきりに携帯電話で連絡を取っていた。日比野の正体はまだ確認できていない。おれは隅でゲームを眺めていた。
四戦目――大敗。
まだ声はかからない。正体も依然不明。思った以上に時間がかかっていた。五代の檄が飛んだ。おれはゲームに眼を凝らした。
五戦目――大敗。『SPIKY』の襲撃が街のあちこちで勃発した。前回もその前も、
面倒事のタイミングは被るものなのか、日比野が現れたその前後、もしくはその日に池袋の連中は渋谷に現れ、誰かを襲った。
おれはゲームを眺め続けた。外から眺めるだけというのは退屈で欲求不満になるが、それなりの収穫はあった。おれが連敗の中さして苦言を呈するでもなくじっとしていたのも、少なからずその収穫に意味があったからだ。
おかげでたっぷりと日比野を分析できた。穴が開くほど日比野を観察した。そのプレイ、癖、スキル、身体能力――そのすべてを眼に灼きつけた。頭の中で飽きることなくシミュレーションを何度も行った。弾き出た結果は五分五分。時に勝ち、時に敗けた。詰まるところ、おれと日比野の実力は拮抗している。実際のおれと日比野のゲームでは、頭では予測できないその場の偶然やその日の調子やらが勝敗を大きく左右するだろう。
おれは待った。その時が来るのを。
もうすぐそこ――耳を澄ませば足音が聴こえるほど。
手を伸ばせば掴めるほど――。
それは、もうすぐそこまで近づいている。
☠
『GARDEN』に入ると、日比野はエントリーの手続きを行っているところだった。
遠目でも五代の表情が歪んでいるのがわかった。今夜も馬鹿高い金額を吹っかけられでもしたのだろう。自分のミスとはいえ、主君の庭を窮地に追い遣ってしまった屈辱とそれを引き起こした相手に向けられた憤怒が、上手い具合にミックスして眼に妙な眼力を与えていた。
藤堂はすぐ横の日比野に眼を向けようともせず、ガンジャを吹かしていた。藤堂は自分で気づいているのだろうか。一見普段と変わらないように見える藤堂だが、ここ最近ガンジャの量が格段に増えている――そのことに。白目が赤黒く濁り始めている。奴もそろそろ、本格的なジャンキーの仲間入りを間近に控えている。
日比野はどうしてそこまで金に拘るのか。おれは頭を振った。いくら考えても無駄だ。わからないことはわからない。本人に訊く機械でもあれば話は別だが、そんな機会があったとしても奴はきっと答えないだろう。
エントリーを終えた日比野がカウンターをあとにする。そっちに向かっていたおれと眼が合った。一瞬眉を顰め、すぐに眼を逸らし、遠くに向けた。初めて見た時と同じ眼 ここではない何処かを見る眼。周囲の人間のことなど眼中にない。
擦れ違う。おれは日比野を睨み続けた。どれだけ視線を送っても、おれの横を通り過ぎる時でさえ、日比野の意識が再びおれを捉えることはなかった。『GARDEN』に通っている人間で、おれのことを知らない人間はいない。それに日比野がいる時におれのゲームがあった時もある。おれの存在を知っているはずなのに、完全に無視を決め込むその態度に無意識に舌打ちが漏れた。
「随分意識しているじゃないか。想いは届かず…か?」
近くまで行くと、皮肉めいた口調で藤堂が言った。
「別に」おれの返事は素っ気ない。「それより、今日は誰が野郎の相手するんだ?」
いい加減待つのも飽きた。投げ遣り気味に皮肉を込めて返し、煙草を取り出した。
「面白いニュースがある」
藤堂はソファーの肘掛けに肘をつき、手を顔の前で組んだ。
「何だよ。勿体ぶってないでさっさと言え」
「奴の件だ」藤堂は顎で日比野をしゃくった。「どうやらビンゴらしい。名は日比野。一連の賭博場の閉鎖には、少なからず奴の影響があるみたいだな。正真正銘、奴が噂の渦中の人物――『荒らし屋』と見て間違いはない」
おれは「へえ」と一言。たったそれだけのことを確認するのに、また随分と時間がかかったもんだ。
「興味はなかったか? もう少しマシな反応を見せるかと思っていたが」
余程おれのリアクションの薄さを怪訝に思ったのか、藤堂はそう言った。おそらく藤堂は狼狽えて動揺するおれを見たかったのだ。藤堂はおれが日比野を気にかけていることを見抜いている。藤堂の性格上、それを見たがらないワケがない。
「興味がねえよ」
煙草の煙を真上に吹き出しながら、おれは言った。藤堂の片目が吊り上がった。
「ほう、てっきり執着しているものかと思っていたがな。読み違えたか」
藤堂はからかうつもりで言ったのだろうが、裏に透けて見える感情は隠せていなかった。猜疑――おれの真意を測りかねているようだった。
「おれのことをわかったつもりになってんじゃねえよ」
おれは吐き捨てた。藤堂は薄く嗤いながら、小さく肩を竦めた。
「口の聞き方に気をつけろと何度言ったらわかるんだ、蘇我。犬のほうがよっぽど利口だぜ」
カウンターに指示を出していた五代がそれを終え、戻って来るなり横槍を入れた。
「うるせえよ、ボケ。たかだか人間一匹調べるのにこんな時間かかった奴に、何も言われたかねえよ」
暗に無能と言っているおれに、五代は最初こそは喉を詰まらせ眼を剥いたが、すぐに取り直し、舌打ちのあと、言った。
「色々面倒だったんだよ。吉祥寺の奴らは謀ったようにオレたちが行った時には完璧に雲隠れしててな…。当初の予定通り虱潰しで捜し廻ったんだが、何せ狭い街だ。予想通りのデメリットで、ポリ公共が動いた。奴らをかわしながら残党捜しってのはなかなか骨の折れる作業でな、見つけるまで随分時間がかかっちまった」
「大した理由だな」おれは失笑混じりに言った。「んで? どうやって野郎がそうだって確認したんだ?」
「簡単だよ。日比野の写真を撮ってたから、そいつを頭だった奴の目の前に突きつけてやったのさ。『お前らの賭場を滅茶苦茶にしたのはこいつか?』ってな。散々痛めつけてやったあとだったから、あっさりゲロしたぜ。こういうのは見つけるまでが手間がかかる」
「じゃあ間違いじゃないんだな?」
放っておけばいつまでも自分の仕事ぶりを得意げに話しそうな五代に、遮るように念を押した。
「さて…これで奴の正体はハッキリしたワケだが」不意に口を噤み、藤堂は喉の奥で嗤った。「馬鹿な奴だ。大人しく雑魚相手に粋がっていればいいものを…」
「どうするつもりだ?」
おれは訊いた。訊かなくてもわかっていた。藤堂に刃向かう人間に例外はない。
「知ってか知らずか、このオレに牙を剥いたんだ。身の程知らずの愚か者には罰を与えてやる必要がある。そう思わないか?」
「知るか。誰に同意求めてるんだよ」
「お前が向こうの肩を持つんじゃないかと心配になってな」
薄ら嗤いで藤堂は言う。冗談めかした口調だった。その裏でおれの内面を探ろうとしていた。藤堂は猜疑心が強い。藤堂もまた、己以外信じてはいない。そうでなければアンダーグラウンドで生き残れない。本当におれと日比野が繋がっていないか、その眼の奥で確かめようとしている。
「じゃあ、いい加減おれにやらせろ」疑念と猜疑を解消してやるために、ここぞとばかりに自己主張する。「正体はわかった。相手の力量も知ってる。おれ以外で他に誰が適任だってんだ?」
「オレもそう思います、藤堂さん」五代も言う。「相手は例の『荒らし屋』だと判明しました。ならもうこれ以上の勝負は無意味です。それどころか、リスクが大き過ぎる。ここはもう蘇我を出して、強制排除するべきです」
珍しくおれと五代の意見が一致した。信じちゃいないが、いわば神憑り的な奇跡だ。
「それじゃ面白くないだろう?」
この期に及んでまだそんなことを藤堂は宣う。
何故GOサインを出さない?不意に脳の皺から突飛な思いつきが飛び出てきた。
おれと対戦させたくないのか?
何故そんなことを考えついたのかわからない。が、そう思えば思うほど、それが正解のような気がしてくる。しかし、だ。だとしたら何故、藤堂はそこまでおれと日比野が勝負するのを避けたがるのか。理由がない。思いつく限り羅列してみたが、どれも当て嵌まりそうになかった。今回ばかりは藤堂が何を考えているか、本気でわからない。
「…何か考えがあるんですか?」
訝る気持ちは五代も一緒のようだ。最善の方法のはずなのに、受け入れない藤堂の神経が理解できないでいる。尋ねてはいるが、声には不満が滲んでいた。
「仮に蘇我を出して追い出せたとしよう。だがそれだけではお前の気も済むまい? 今まで獲られた金の分も、奴にはキッチリ清算していってもらおうかと思ってな」
「それはそうですが…」
「まだそんなこと言ってんのか!」
五代を遮っておれは怒鳴った。
「今までだってそういうのが得意な奴がいなかったワケじゃねえだろ? それでも駄目だったんじゃねえかよ。お前の言い分はわかるけど、そこそんなに拘るところか?」
「適任な奴がいる」
詰め寄るおれに、藤堂は悪企みを思いついた悪代官みたいな顔と声で言う。
「誰だよ、そいつはよ」
今にも噛みつきそうなおれを無視して、藤堂は取り巻きAに命令した。
「小峯を呼んでこい」
☠
聞いたことのない名前だった。連れて来られた男の顔を見て気づいた。名前を記憶と照合した。小峯という名の男――確か、ここではリーという渾名で通っている男。香港映画のヒットマンを連想させる中華系の顔立ち。れっきとした日本人だが周りからそう呼ばれている。呼ばせている。純日本風の名字と外国かぶれのニックネーム――白人に憧れるバナナ野郎。細身の身体にお約束のだぼだぼのスウェット、サイズオーバーのデニムは意味がわかっているのか、片足だけ捲ってある。斜めに被ったキャップに金のごついネックレス。何もかもがかぶれている。脳味噌がドラッグ漬けになっているともっぱら評判のジャンキーでもある。強い物には平気で媚びへつらい、弱い物には大きく出る、典型的なコウモリ人間。表に多いタイプの小男だ。
「何だい、コブラ? オレ、まだベットしてないんだ。手短に頼むよ」
小峯は軽い調子で口を開いた。テンションがやけに高い。すでにドラッグをキメている。
ジャンキー特有の甘酸っぱい体臭がした。
「その必要はない」藤堂は言った。「今日、お前はプレイヤーとして出てもらう」
小峯は眉を八の字にして藤堂を見た。続いて五代を見、首を大きく傾げた。間抜けな仕草だった。
「オレが? 何で?」
ラリッた頭は理解が遅い。藤堂はえらくゆっくりとした仕草でシガーケースを取り出し、小峯によく見えるように一本抜き取って、口に銜えた。
小峯の喉仏がゴクリ、と鳴った。眼は物欲しそうな感じでガンジャに張りついていた。
「お前はオレに借金があったな」藤堂は火をつけて言った。「それをチャラにしてやってもいい。今回、オレの言う通りのことをすればな」
「マジでっ!」
小峯は素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたんだよ突然? 何だか恐いなあ」
小峯のようなドラッグ常用者のジャンキーは、大概借金に苦しんでいる。常用が習慣にまで昇華してしまったら最後、金があろうがなかろうが、身体はドラッグを求める。ドラッグの値段はピンからキリまであるが、ジャンキーは質のいい物しか選ばない。と言うより、それしかもう効かない。となれば金がかかる。自分で賄えない分は他から借りる。まともな金融業者は小峯のような人間には金を貸さない。貸すワケがない。となれば借りるところは裏業者しかない。まともに働けないジャンキー 借金だけが雪だるま式に膨らむ。その内、薬物中毒でくたばる。あるいは金を借りたところからそっちの筋の人間が出てくる。臓器を売り飛ばされるか、保険金をかけて殺される。他人のおれでさえ簡単に小峯の未来がわかる。そんな人種の男 反吐が出る。 そういう類の人間に、藤堂は救いの手を差し伸べる。何時如何なる時でも使用できる犬を確保するために。使い捨ての存在。しかし追い詰められたジャンキーは、藁をも掴む思いでその手を握る。それが破滅との握手とも知らないで。
言葉とは裏腹に、小峯の声は嗤いで震えていた。その震え具合が、聞いてて胸クソ悪くなる。
「なに、簡単だ。人一人壊して欲しい。ただし、あれの中でな」
藤堂は鉄柵に囲まれたフープをガンジャで指した。
「…それ…だけ?」
「ああ、それだけだ」
疑るような視線を向けていた小峯の顔が、途端に崩れた。頬がだらしなく弛緩していて、まさしく犬そのものだ。
「そんなのお安い御用さ。どれ? どれを壊せばいいの? …とその前に…」小峯は言い淀んだ。「コブラ、悪いんだけどさ…それ、一本譲ってくれない? オレのもうなくってさ。契約成立のお祝いってことで。な?」
まだ相手も見ず、頼まれことも終わっていないのに、小峯は図々しくも藤堂に手を差し出しそう言った。恐縮しているのは口だけだ。
「事が上手く済んだら丸ごとくれてやる」
藤堂はあっさり跳ねつけた。ここで餌をやっても仕方がない。
「確認しろ。あいつだ」
藤堂は眼で日比野を指した。小峯は不服そうに口を尖らせたまま、それを追った。日比野の姿を認めた途端、ご機嫌に口笛を吹いた。
「これはこれは…」何か言いたそうなニヤケ顔で顔を戻す。「あの、ひょろい兄ちゃんかい?」
「そうだ」
「あのモヤシをやれば、今までの借金をチャラにしてくれる?」
「こいつもつけてやる」藤堂はシガーケースを掲げた。「そういう条件だ。異存は?」
「あるワケないさ」小峯は今にも舌舐めずりしそうな顔で嗤った。「見事仕留めてみせましょう。偉大なるコブラのために」
芝居がかった調子で、小峯はうやうやしく胸に手を置き頭を下げた。小峯は当然日比野を知っているだろう。そして『GARDEN』にとってどういう存在かも。
日比野か藤堂。メンバー以外の客にとってどっちにつくのが得策なのかは言うまでもない。確実にテイクバックを狙える日比野だ。なのに小峯は藤堂を取る。恐いからじゃない。それがあったとしても、十ある内の一か二が精々。残りは全部目先の利益。借金がなくなる。ドラッグが貰える。それだけだ。もしかしたら何か裏を考えているのかもしれないが、まともな思考能力なんかないジャンキーの考える程度の裏など、藤堂に通じるワケがない。これ以上の欲をかいた時点で、小峯の短い人生にエンドロールが流れる。
「でもいいのかね? 掃除屋さんををないがしろにするみたいで、気が引ける」
小峯は眠たそうな眼で嘲るようにおれを見た。眼は口以上に物を語る。小峯はそんな殊勝なことをミクロの単位ですら思っていない。ただ皮肉を口にしたかっただけだ。
「好きにやれよ」肩を竦め言った。「おれに気を遣っている暇があるんなら、自分の心配でもしてろよハゲ」
小峯がまた嗤った。馬鹿にしたようにケラケラ嗤う。小峯に限らず、『GARDEN』の連中殆どがおれを疎ましく思っている。おれは連中を見下している。おれの態度を見れば猿でもわかる。同じ場所にいながらも、絶対的な線引きをあからさまにしているおれ。詰まるところ、仲間だとお互いに思っていない。
おれはこんな奴らとは違う――はずだ。
「わかってるな、小峯?」
おいしい条件の仕事にありつけてすっかり悦に浸りそうな小峯に、藤堂は念を押す。
「わかってるって。二度と使い物にならなくさせればいいんだろ? 簡単さ」
勿体ないけど、コブラの命令には逆らえません、ってな。小峯はそう言い残し、肩を揺すりながらその場をあとにした。
おれは聞こえよがしに舌打ちした。異論ありありだ。この胸の不快感は何だ。ドス黒い塊が胸に押しつき、そこから瘴気すら放っている。
「本気かよ、お前」
小峯の背中を見ながら、おれは吐き捨てた。どう見たって、よしんば百歩譲って評価してみても、あのクソにも劣る野郎がおれを袖にしてまでの適任者だとは到底思えなかった。
「不満か?」
「当たり前だろうが! どんな奴出すかと思えばあんなクソジャンキー? 冗談も程々にしとけよ。終いにゃキレるぞ」
「まあそう言うな、蘇我」
藤堂はソファーに深く沈み、喉を隆起さえて嗤った。首のタトゥーの炎の切れ端が、一緒になって踊り歪む。
「あいつはああ見えて昔、いいところまで行ったプレイヤーだったんだ。ただ、得意だったのが相手を抜くより隠れてファールするってことだけでな。やり過ぎてクビになったらしいが」
「最低ここに極まれりだな、オイ」
「その後、その性癖が発展して、奴は少しだけシュートボクシングをった。どうだ? クソジャンキーというお前の意見にさして異論はないが、クソはクソでもそれなりに使い道はあるものだ」
バスケ経験者+格闘技経験者。一個ずつじゃ歯が立たないことはすでに今回までの日比野とのゲームで立証済み。だからこそのミックス・プレイヤーというワケか。
おれは鼻で笑った。
「まあ見ていろ。その上餌で釣ってある。オレたちの期待に応えてくれるさ」
そう言って藤堂はガンジャを吸い込み、頭を背凭れに預けた。
藤堂は勘違いをしている。おれが笑った理由を。そして何より、おれたちをナメている。だからおれは笑ったのだ。その理由はすぐにゲームで証明されるだろう。
おれの出番は近いな。胸の裡で確信めいて思った。体温が僅か上昇した。血が巡る。アドレナリンの脈づきが聴こえる。それ専用の細胞が目醒め、活性化し出す。何処からか吹き始めた風が、まだ小さな、つむじとも言える竜巻を形成する。本格的な竜巻になるのはもっとあと――その時が来た時、だ。
しかし我が身体ながら呆れる。ほんの少し思っただけで、瞬間にこれだ。どうしようもない。
おれは煙草に火をつけた。胸に残る不快感を煙とともに飲み込んだ。
この不快感の正体は知っている。ドラッグに依存している小峯。バスケットに依存しているおれ。小峯もおれも、何かに依存しているという点では変わりがない。感じているのは、拉致も明かないただの同族嫌悪――それだけだった。
だが、認めたくない。虫唾が走る。
「さあ、パーティの時間だ」
芝居じみた言い方で、藤堂が両手を広げた。
喉を滑り落ちる煙は重く、不愉快なほど苦かった。
☠
ドラムがハウリングする。ゲームスタートの合図が鳴り響く。
見るからに相手を舐め、油断だらけ隙だらけの小峯。簡単で楽な仕ことだと思い込んでいる。哀れな野郎。ゲームが終わった時、その面がどうなっているか見物だ。おそらくそれを待つまでもなく、数分後には百面相の第一相目がお目にかかれるだろうが。対する日比野はドリブルをしながら、慎重に相手を観察する。今回はどういう手合いなのか。こっちには油断も隙もない。対照的なスタートだった。
横目で藤堂を窺う。顎髭を撫でつけるようにさすりながら、やはり藤堂も余裕の表情だ。これで終わると確信しているようだった。
残念だがそれは叶わないぜ――心の裡でそっと呟く。今回ばかりは、お前の企み的外れだ。珍しく考えが浅かったな。そんな藤堂の斜め後ろで、五代は神妙な面持ちでゲームを眺めていた。
「結果は見えてるのにな」
ぼそっと、真後ろで誰かが呟いた。同意を求めるような言い方だった。
おれは僅かに首を動かし、視界の隅に声の主を捉えた。そこにはあの黒ツナギがまたガムを噛みながら立っていた。眼が合うと口端を少しだけ持ち上げ、すぐに引っ込めた。素知らぬ振りで、鼻歌混じりにゲームに眼を戻す。
何だこいつ? 思ったのも束の間、耳をつんざく喚声が上がった。反射的にゲームに眼を戻した。
満を持して、小峯が動き始めた。日比野にピッタリと張りついていた小峯が、ついに仕事を開始し出した。さっきまでの気怠さや覇気のなさを感じさせない俊敏な動きで、切り込む日比野についていく。正直意外な姿だった。放たれた拳が肩口にヒットし、日比野はあわや転倒寸前までバランスを崩した。悲鳴と嬌声が入り混じる。ギャラリーもいつもと一味違う趣向に大興奮だった。小峯の迫撃は続く。微かに動揺を見せたものの、すぐさまバランスを持ち直した日比野は、バックステップで距離を開けた。鋭く相手を見据える。
なるほどね。口が動く。認識を改めたように短く息を吐く。
攻撃の手を緩めない小峯。日比野はドリブルを止めずに躱し、時に喰らいながらボールをキープし続ける。手を出し返す気配はない。あくまでバスケットで勝負する腹積もりらしい。
くぐもった音がした。藤堂は嗤っていた。狂気を孕ませた声で、悪意を産み落とす嗤い声。予定通りの展開――さぞかしご満悦の様子だ。
が、しかし。
「本気で勝てると思ってるんなら、めでたい頭してると思うよ、まったく」
また囁き声。おれの心を代弁する。今度は真横から。視界の染みに風船ガムが膨らんだ。おれは怪訝に思ったが、取り合わなかった。黒ツナギ。こいつは確か、藤堂の取り巻きの一人だ。なのに発している言葉は藤堂を揶揄した響きがある。
「何に拘ってんのか知らないけど、あんなのなんてあてがってないで、さっさとあんたを出せばいいのにな。そしたら一発だ。オレはそう思う。あんたならやれる。いや、あんたしかいない。だろ? このゲームも余興としちゃ面白いかも知れないが、見てられるのもあと数分ってところかな?」
思わず、といったていで眼を向けてしまった。驚いた。おれと同じ見解だった。ここでおれと同じ見方をするのは藤堂くらいだと思っていた。その藤堂が怒りに眼が曇ったか見当違いな相手を見繕ってしまった今、そんな専門的な判断をできるのは他にいないだろうと思っていた。黒ツナギは呆気に取られているおれを一瞬見遣り、戯けたように少しだけ肩を竦めて見せた。
「意外かい?」おれの胸中を察してか、黒ツナギは言った。「ここにいればそれくらいの判断ができるくらい眼は肥えるさ。何せあんたをずっと見てるんだからな…そう警戒するなよ。なあに、オレはただのあんたの一ファンさ」
懐疑心の塊で黒ツナギを睨め上げた。誰がそんな与太話を真に受けるか。黒ツナギはその視線をはぐらかすように、コートに顎をしゃくった。
「そら、動くぜ」
その言葉通り、ゲームは再び動いた。
日比野が果敢に攻め込む。振り切る。追従する小峯。しかしさっきまでの威勢は何処吹く風、小峯の足は縺れ気味、身体に生気はすでになかった。尋常じゃない量の汗。顔色は土気色をすっ飛ばし、青紫に変色していた。小峯は酸素欠乏症の症状、俗に言うチアノーゼを起こしていた。
「あーらら。もう来ちまった。もう少し粘るかと思ったんだけどな…。意外に早かったね。このゲームももう終わりだな」
黒ツナギがつまらなさそうにぼやいた。
片や経験者とは言え、今や重度のジャンキー。片や現役バリバリと変わらないほどのプレイヤー。技術は比較するのが馬鹿らしくなるほど雲泥の差がある。バスケは反復のスポーツだ。やり続けなければ技術はどんどん衰える。例えばシュートで言えば、三日休めば元の調子に戻すまで倍の一週間は打ち込みをしなければならない。微妙で繊細な感覚を必要とするバスケットは、一度ズレた感覚を調節するのが何より難しい。
そしてそれ以上に決定的な差が、日比野と小峯にはある。見ればわかるように、それは体力の差だ。バスケの運動量はスポーツの中でもトップクラスに位置する。飛びっぱなしの走りっぱなし。端から見るより実際は意外と狭いコート。ハーフコートなら尚更だ。休む暇はない。素人では五分と待たず体力は枯渇する。
それに加え、日比野の力量。全国――それもトップクラスのプレイヤーのスキルとスピードだ。あれだけのスピードと運動量なら、現役選手であろうがついて行くそれだけで相当量の体力消費を余儀なくされる。更に殴ったり蹴ったりと無駄な体力消費行為をプラスすると、ジャンキーの身体にはいささか重労働に過ぎる。フルマラソンでスタートと同時に全力ダッシュするくらい、無謀で愚かな行為だ。
眼にも止まらぬスピードで疾走する相手に理論立てた戦略など意味がない。足を殺す方法はあると言えばあるが、1ON1が基本のハーフコートバスケではおれでも難しい。小峯ごときにはそんな頭も戦略を遂行する体力もない。ならばと手をがむしゃらに出し続ける他ない。格下ファール野郎が考えつく唯一の攻略方であることに間違いはないが、それは諸刃の剣でもある。大した狙いもつけず――正確にはつけられないのだろうが――闇雲に手を出しまくった結果、空振りが増える。喧嘩をしたことがある人間なら誰でもわかるが、空振りはもっとも体力を奪い去る。手応えがないのが精神的に一番堪える。それが疲労に輪をかける。
こうなることは予知能力者でなくとも予見できた。だからおれは笑ったのだ。藤堂はおれたちをナメている・と。正確に言うなら、アスリートの体力と適応能力をナメている。どんな相手でどんな手を使ってこようが、自分以下のレベルの人間に敗れる道理など、おれたちにはない。
それにしても。フープに眼を凝らし、思う。如何にそう理屈づけたとはいえ、実際大した野郎だ。
苦戦したのも最初だけ。今や日比野はまるで舞踏会の主役のように、自由に華麗にコートを舞う。タップを踏むようなステップワーク。滑るようパートナーたるボールを優雅にリードし、思い通りにコントロールする。そのシャープな動きは、全盛期当時と比較しても何ら遜色はない。ただ、違和感を覚える。どこがと言われれば蜃気楼のように揺らめきハッキリしない。だが、日比野のプレイからは正体不明の違和感が拭い切れない。単におれの思い過ごしだろうか。
小峯は壁際の花がいいところだった。すべてを兼ね備え、周囲の注目の中優美に踊るパーティーの主役。それを引き立てるためだけに、ただそれだけの役割しか与えられなかった哀れな
と突然、追い縋っていた小峯が足を止め、その場に立ち竦んだ。立ったまま惚けたように口を半開きし、あらぬ方向に眼をやっていた。暫くそのままだった。日比野がシュートを決めても放心状態は変わらなかった。次第に怪訝に感じた周囲がざわつき出した。全員の視線が集まる中、立ちん坊だった小峯はいきなりぐるんと白目を剥いた。口から泡と吐瀉物を同時に吐き散らした。そしてそのまま糸の切れた人形みたいに、後方へ倒れこんだ。
オーバーヒート――限界を超えて身体を動かし続けた反動が、一気に小峯に襲いかかった。
辺りは静まり返った。何が起こったのかギャラリーたちはよくわからず、束の間言葉を失った。
金属的な音が響いた。藤堂がジッポの蓋を開けたり閉めたりを繰り返していた。テンポよくリズムを刻む。藤堂は頬杖をついてゲームを観戦していた。しかしその大物ぶった態度とは裏腹に、頬と顎のラインは強張り、奥歯は歯軋りが聴こえそうなほどきつく噛み締められていた。眼にはドス黒い炎を思わせる憤怒が渦巻いていた。視界に映ったそのすべてを発するオーラで灼き尽くしてしまえそうだ。心中は察して余りある。その熱にあてられたのか、五代が藤堂の後頭部に眼をやり、喉仏を隆起させた。生唾を飲んだ音が聴こえてきそうだった。おれも眼にしただけで気圧された。首筋から背骨にかけて、厭な汗が噴き出る。なるほど。こんな眼でずっと凝視され続ければ、小峯もクラッシするまで身体を酷使し続ける他ないだろう。
ともあれ、ゲームは意外な、けれども想定内の結末で幕を閉じた。倒れた小峯そっちのけで再び騒ぎ出したギャラリーからは、褒め称える唸り声と万雷の指笛が降り注ぐ。このゲームを経て、日比野の株はまた上昇したようだ。天井知らずに上がり続ける評価――しかしそれは同時に、賞金首の値上げにも通ずる。
その中にあっても、日比野は周囲には無関心に乱れた息を整えながら、こさえた頬の擦り傷を手の甲で乱暴に拭った。すでに蒼くなり始めている痣が顔にぽつぽつ点在し、口端には血が滲んでいる。唇の傷口を舐め、唾を吐き捨てたあと、パンツの汚れを払い落とし、天を仰ぎ大きく長く一息を吐く。初めて見せる、それは日比野の疲労の色だった。勝ったとはいえ、日比野の肉体的ダメージもまた大きいようだった。
日比野は例の眼で小峯を見下ろした。冷た過ぎる一瞥には、同情も心配も感想もない。
弱肉強食――自然の摂理。世の中のルールを日比野は知っているようだ。敗者には何ひとつ与えられない。奪われるだけだ。
「おい」藤堂が口を開いた。「何ぼさっとしている。終わりだ。合図を鳴らせ」
静かな口調だった。しかし抑えきれない怒りの煮え湯が、抑圧した理性という蓋からボタボタと零れ落ちている。危険信号が灯る。ヤバイ。キレる寸前だ。声が平淡で静かな分、余計に危険な臭いがした。
形だけの試合終了のドラム音が鳴り響いた。
日比野の意識はすでにコートになく、聞くや否や、さっさと外へ出て来てしまった。一秒でも長くこんな場所にはいたくない 全身でそう訴えているようだった。
「そろそろあんたの出番かな?」
黒ツナギはおれの肩を軽く叩き、口笛を吹きながら離れていった。掴みところのない奴だ。その背中を何となく見送った。
それにしても。おれは首をさすった。息が詰まる。空気が鉛のように重いせいで、やたら肩が凝る。腫れ物が近くにあるこういう空気は、どうも神経が参る。チラリとその元凶を横目で窺った。
藤堂は黙りこくって、無表情にガンジャを銜えていた。灰が長くなっているが、そのことにすら意識を向けていなかった。
感情が抜け落ちた時の顔は、誰でも同じに見える。ふとそんなことを思った。
☠
日比野は金を受け取ると、脇目も振らずに一目散に帰って行った。文句もなかった。以前からそうだった。アウトローと賭をしている以上、暴力沙汰など折り込み済みの事柄なんだろう。無駄なことを理解しているといったその態度はしかし、逆に五代の神経を逆撫でした。金を渡す時の表情を見ていれば一目瞭然だ。藤堂に至っては頑として日比野を見ようとしなかった。その時ばかりは、一触即発の導火線に火がついていたように思う。誰かが不意に動いた瞬間、破裂するような不穏な空気。爆発しなくてよかった、と心の底から安堵した。爆発したが最後、おれの儚い計画も哀れ木っ端微塵に吹き飛ぶ。折角のチャンスが台無しになるところだった。
藤堂は当然のことながら、小峯を呼び出した。
まだ足下は覚束無いが、意識を取り戻した小峯は、両脇をがっちりキープされグレイみたいな格好で連行されて来た。これなら一生意識をなくしたままの方がよかったと後悔した表情だった。わかる気がする。意識を取り戻したところで、待っているのは地獄の鬼の如く非情な人間で、行き着く先はやはり地獄でしかない。
日比野はさっさと帰って正解だった。これから起こる凄惨で陰湿な制裁を見なくて済む。おれも帰ってればよかった。誰も好き好んでリアル・スプラッターなんぞ見たくもない。が、すっかり帰るタイミングを逃してしまい、小峯を取り囲んだ輪の藤堂の隣という最悪のポジショニングに立っていた、
おれは声を出さずに最悪だ、と呟く。何にするにせよ、行動は迅速に、が身を救う。肝に銘じておくことにした。
「使えないな」
藤堂は小峯を睥睨しながら言った。地底に蠢くマグマの振動を思わす声色――しかも噴火の兆候あり、だ。避難勧告発令の非常事態に匹敵する。
「ゆ…赦して……、コブラ」
両腕をがっちり固められ、頭を床に押しつけられている小峯は、必然的にそうなる上目使いで藤堂を見上げた。媚びるような眼に卑屈な声。その姿はの機嫌を著しく損ね、生け贄に抜擢された尊厳なき奴隷そのものだった。
「オレはお前に何て言った?」
藤堂は口端でガンジャを弄びながら小峯に言った。小峯は頬と床がくっついているにも関わらず、駄々を捏ねるガキみたいに左右に首を振った。悲鳴のような声が漏れた。
「おい」
藤堂の合図に、右腕を固めていた男が小峯の手首を掴み、床に置いた。
これから何が起こるか瞬時に悟った小峯は、恐怖に塗れた金切り声を上げた。
「蘇我、おれには嫌いな物が三つある」
藤堂は横にいるおれに眼もくれず、煙を口端から吐きながら声をかけた。眼前では固定している手を振り解こうと暴れ叫んでいる小峯がいる。その悲痛な風景さえ眼中にないような、そんな口調だった。
「頭の悪い奴、金がない奴、力がない奴。世の中で価値がない人間に共通していることだ。
何も全部持てとは言わない。どれかひとつでも条件を満たしていればそれでいい。それだけでそいつには価値がある。横並びの思想や観念といったクソにも劣る下らんルールから抜け出せるだけの価値がな。そういう奴らは実に使える。蘇我、お前の場合少し特殊な枠にはなるが、紛れもなくお前もその一人だ。じゃあ、それを満たしていない奴はどうすればいいと思う?」
藤堂は尋ねる。が、返答を求めているワケじゃない。おれは黙っていた。
「それはな、その条件を満たしている奴に従えばいいんだ。何も難しいことじゃない。やれと言われたことをやればいいだけの話だからな。だが、たまにこういう奴がいるんだ。やれと言われてることさえ何ひとつまともにできないゴミ以下の存在が」
小峯を見下ろす藤堂の眼――無機質な物を見下す無機質な眼。ゴミを見るなんてもんじゃない。存在自体否定するような、そんな眼だった。
「そういう奴を屑と呼ぶんだ」おれに視線を移す。「ゴミはまだリサイクルできる可能性がある。しかし屑はそうもいかない。どうにも使いようがない。使えない物はどうするかわかるか、蘇我?」
おれの中で、突貫工事並の素早さで吐き気を催しそうな予想が築かれていく。
「こうするんだよ」
藤堂は右足を上げた。赦して、赦して、赦して。小峯は壊れたテープのようにリピートする。身を焦がす恐怖に気が狂いかけている。眼球が零れ落ちそうなくらいに、黄色く濁った眼を瞠らいている。祈りに似た懇願――届かない。届くはずがない。
「屑に手はふたつもいらんだろう?」
足が鉄槌のように勢いよく小峯の右手に向かって降り下ろされた。耳障りで気味の悪い音が、鼓膜を飛び越え脳に直接ダイヴした。
絶叫、絶叫、絶叫――この世の物とは思えない絶叫が空気を震撼させた。身震いしそうな鉄っぽい臭いが鼻腔を塞ぐ。
小峯は踏み潰された右手の手首を掴み、海老のようにもんどりうって地面を這いずり廻り、飛び跳ねた。ソールの硬い革のブーツに踏まれた右手は、指の関節が有り得ない方へひん曲がり、白い突起物が飛び出していた。
誰かが息を呑んだ。誰かは嘔吐しそうに喉を鳴らしていた。無理もなかった。それほどおぞましい光景だった。おれも絶句した。もしおれがスプラッター映画が苦手な人間だったら、一週間は飯も喰えそうにないほどグロテスクな光景だった。
想像を絶する痛みに見舞われ上げた断末魔の叫び声。古木が折れるような乾いてそれでいてこもった骨の砕ける音――藤堂はまるでそれらがオペラでもあるかのようにゆったりと聴き入り、僅かに身体を痙攣させた。この状況で悦に浸れる神経。常々いかれてるとは思っていたが、これほどまでとは考えも及ばなかった。
これが藤堂のやり方だ。凄惨な形で周囲の人間に恐怖を刷り込み、圧倒的に威嚇する。塞がらない暗黒を刻みつける。
「やり過ぎだぜ…」
つい口を突いた。反吐を吐く代わりに出た、そんな言葉だった。胸クソが悪い。わかっている。やるなら徹底的にやる。容赦はしない。してはいけない。中途半端は反逆心を産む。刃向かう気力を完全になくすまで骨身に染み込ませなければ、いずれ復讐心が芽吹く。痛みと恐怖を徹底的に植えつけ、反抗する意志を根刮ぎ奪い取る。それが喧嘩の、あるいは私刑のルールだ。
藤堂はゆっくり首を巡らし、おれを見た。
「随分と甘いことを言うじゃないか、蘇我」
「…そんなんじゃねえよ。ただ、ここまでする必要はないんじゃねえかって、ちょっと思っただけだ」
「物事ってのは何をするにしてもそれ相応のリスクはある。失敗すれば当然それが身に降りかかる。それのどこがおかしい? ガキでもわかる理屈だろう?」
その結果がこれでは、あまりにリスクは大きい。ミスしただけで手を踏み潰される。釣り合いなんか取れていない。
「ところで蘇我」藤堂は新たにガンジャを取り出し、火を点けながら言った。「待たせたな。望み通り、今度はお前が奴の相手をしてやれ」
「はあ?」
意味が脳味噌に浸透するまで若干時間がかかった。目の前の惨劇もさることながら、あれだけ頑としてNOの態度しか取らなかったクセに、打って変わって今度はおれに日比野の相手をしろと言うその変わり様が、どうにも理解し難かった。
どういう風の吹き回しだ? 胡散臭い それ以上に、キナ臭い。
「そっちで何とかするとか言ってなかったっけ?」
「状況が変わった。小峯で駄目なら、1ON1では他の奴でも結果は見えている。となれば、お前しかないだろう?」
藤堂は周囲を一瞥した。忌々しそうに瞳が揺れる。おれに頼むのは余程避けたかったようだ。一体何なんだろうか。そこまで藤堂がおれを避けたがる理由は。
「やれよ、蘇我。それがお前の望みだろう」
「厭だね」
即答した。何が言いたいのか――何をさせたいのかを瞬時に理解したからだ。理解するには馬鹿なおれでも、充分過ぎるほどのシチュエーションだろう。
藤堂はおれに小峯と同じ戦法でやれと暗に言っている。
「蘇我? おれはやれと言っている」
「そうしなきゃおれが敗けると思ってんのかよ?」
カマをかけてみた。藤堂の眼の奥で何かが蠢く。どうやらビンゴ。藤堂の瞳は、何かが取り憑いたように爛々と輝いていた。
「やるんだ、蘇我」藤堂は繰り返した。
「しつけえよ。おれは厭だって言ってるんだぜ」
「それで通るとは思ってないんだろう?」
「知らねえな」
睨み合った。都合よく動かされる――気に入らない。おれは野良犬だ。如何におれを拾った人間とも言えど、命令なんかされる覚えはない。今までの仕事は、お互いに利害ありきで成り立っていた。一方的に命令される謂れはこれっぽっちもない。確かにこれは形は違えどおれが望んだ展開でもある。だが、どれだけ浅ましく生きようとも、誰かの都合や気分で動かさられるのはゴメンだ。魂まで売り渡した覚えはない。おれはおれのやりたい時に、やりたいことをやりたいようにする。
おれはおれの指図しか受けない。今までも、これからも。
「条件つきなら、やってもいいぜ」
頃合いを見計らって、おれは口を開いた。
「条件?」
藤堂の片眉が跳ね上がる。
「ああ、簡単な条件だ。手出しは一切無用。おれと日比野の純粋なタイマンなら考えてやってもいいぜ」
口を挟む暇を与えず一気に言った。浅ましくて馬鹿な犬でも、自分の餌を獲得するためなら悪どく計算ぐらいやってのける。暗にラフプレイの強要を拒否する条件だ。シンプルな力比べを切望する。
おれが上か。日比野が上か。
おれはそれが知りたい。それだけが。
「このオレに条件をつけるとはな…。そんなマネをするのは、お前くらいのものだぞ」
「だから? いい加減つき合いも長いんだ。そろそろおれをわかれよ、藤堂」
「同じ言葉を返そう。お前もそろそろオレをわかれ、蘇我」
「わかってるさ。厭になるくらいな」
「ほう。それでも、か」
「ああ、それでもだ」
「オレを怒らしたいのか?」
「怒らせたらどうなるんだ?」
訊くまでもない。眼の前に例が転がっている。運が良くても半殺し。わかっていた。わかっていてやめられなかった。畏れと同時に湧上がるもうひとつの感情――反抗心。そいつがおれを突き動かす。
何人たりとも、おれの魂までは支配させない。
「条件が飲めないってんだったら他当たれよ、藤堂」
おれは言い放った。藤堂は絡みつくような視線を据えた。引かず、見返した。ここは譲れない。譲ってはいけない。互いの思惑や信念が中空でぶつかり、火花を散らす。暫しの睨み合い――先に眼を逸らしたのは意外にも藤堂だった。舌打ち混じりに海より深そうな溜息を吐く。口元を覆うように手を置き、すぐに何かを思案し始めた。考える時の藤堂の癖だった。
おそらくおれと日比野のレベルを対比している。頭の中でシミュレートを行っている。幾つもの死線を潜り抜け、幾人ものプレイヤーを見てきた藤堂の観察眼にはおれも一目置いている。精密機械のようなブレーンが弾き出す意見は、信じる信じないは別として、聞くに値する。多分おれのシミュレートと同じ結論が出るはずだ。
おれの予想――
藤堂はもう一度舌打ちをした。憮然とした表情を見れば、シミュレート結果に不服があることはわかる。賽を振るまでわからない、まさに博打と呼べる勝負。できれば保険をかけたいのだろうが、おれは一度言い出したら聞く耳なんて持たない主義だ。多分、藤堂もそれはわかっている。
さあ、どう出る?
「…わかった。好きにしろ」
藤堂は言った。
「…へえ、意外だな」
おれは努めて軽い口調で言った。内心では心底面喰らった。条件を出したものの、それがすんなり通るとは思っていなかった。こっちの条件を飲む代わりに、何かしらの条件もついてくると身構えていたの、見事に肩透かしを喰らった。藤堂にはお見通しなんだろうか。たとえどんな条件を藤堂が強引に約束させたとしても、この件に関してはおれが守る気なんてさらさらないってことくらいは。
「臍を曲げられても困るんでな」
藤堂は肩を竦めてそうつけ加えた。
『掃除屋』としてのおれを高く評価しているということか。確かに、おれは今までしくじったことは一度もない。完膚無きまでに叩きのめしてきている。それを考慮したのだろうか。
しかし腑に落ちない。藤堂ならおれを口八丁手八丁でやり込めることくらい朝飯前のはずだ。実力行使ならおれは頑として受け入れないが、何なら奥の手・出入り禁止をチラつかせればいい。そうすればおれを有無も言わせず従わせることができる。自分で言っといて何だが、それを出されると拒否し続ける自信はあまりない。
「ただし――」
他に比べておれへの対応は甘いな、と思っていた矢先の接続詞に、やっぱり何かあるんじゃねえかと再び身構えた。しかし藤堂はおれを見ていなかった。訝って藤堂の視線の先に眼を向ける。視線の先には小峯が飽きることなくのたうち回っていた。その内バターになりそうな勢いだ。
ふと藤堂が動いた。無造作に小峯の髪を鷲掴んだ。無理矢理力任せに小峯の頭を持ち上げた。
何をするつもりだ? 疑念が湧く。それを押し退けて直感が声を大にして叫ぶ ヤバイ!
「おいっ! 藤堂、やめ――」
おれは咄嗟に叫んだ。次の瞬間、おれの声を掻き消すように鈍い音が響き渡った。足の裏に床から寒々しい振動が伝わってくる。足許から迫り上がってきたそれは得体の知れないものに変貌し、おれの背筋を猛ダッシュで駆け上っていく。それの残した足跡のように肌が粟立った。
藤堂は小峯の頭をコンクリートの床に叩きつけた。躊躇も容赦もない一撃。殺すつもりだった。あるいは死んでも構わないという一撃。
藤堂――尋常じゃない。壊れている。いや、元々おれたちとは精神構造そのものが別物に思える。もし同じだと言うのであれば、藤堂は人が人であるために踏み込んではいけない領域を完全にラインオーバーしてしまっている。すでに心は人にあらず――藤堂は胸の焔なるコブラに取り憑かれ人格まで侵蝕された、人の皮を被った毒蛇の化身なのかも知れない。
眼前で起きた光景に、常に藤堂の傍にいる五代でさえ茫然としていた。理解の範疇を遙か彼方に凌駕してしまった面は、取り巻き連中も同じだった。唯一黒ツナギだけが、呑気に口笛を鳴らしていた。
「しくじれば、こうなる」
場違いなほど落ち着いた声で、藤堂は言った。言葉の先を実地で見せたワケだ。
小峯の身体は痙攣していた。投げ出された手足は、神経が遮断されたように動かない。胴体だけが小さく反射していた。陸に打ち上げられ、力尽きる前の魚のようだった。残り僅かな生体反応が余計に酷たらしさを演出する。叩きつけられた側頭部から、赤と言うよりはドス黒い血が流れ出していた。次第に血は広がっていく。それにつれて、痙攣は薄れていく。
藤堂に理屈は通じない。藤堂は何も畏れない。藤堂は何も感じない。完璧なまでに己が世界を構築している。そこではおれたちが知っているようなありきたりなルールなど無力だ。藤堂の意にそぐわない者は、その世界観と価値観が産み出す残酷な処罰が待ち受けている。
藤堂は銜えていたガンジャを口から外し、おれに差し出した。おれはドラッグをやらない。正確に言うと合わない。やると必ずと言っていいほどバット・トリップを起こす。ドラッグはハイになりたいからやるもんだ。だからおれはやらない。『GARDEN』では周知の事実。藤堂も当然知っている。
だからおれにやらそうとしている。
言ってみればこれはパフォーマンスだ。自分に対する忠誠心を試す、見せしめの意味を孕んだ茶番。
藤堂は何かを懸念している。おれがちゃんと仕事をこなすのかどうかを疑っているのか。だとしたら無用な心配だ。こう見えておれは自分の立場を弁えている。おれはおれの浅ましさを知っている。おれが敗ければ、藤堂は迷うことなくおれを捨てるだろう。『GARDEN』を追い出されれば、他に行き場なんかおれにはない。行きたい場所も。裏にも表にも、おれの居場所がなくなってしまう。もしそうなってしまったら おれは内なる衝動にきっと気が狂ってしまう。考えただけでもゾッとする。
欲求 身体から沸き起こる埒の明かない衝動。おれはそれに逆らえない。逆らえたためしがない。
おれはガンジャを乱暴に受け取り、口に挟んだ。それでも視線が外れなかったので、仕方なしに一口吸った。煙草の煙に似た、けれども異質の煙が喉を滑り降り肺を刺激する。
一瞬眼の前で火花が飛んだ。眩暈がした。
「今までおれが失敗したことなんかあるか?」噎せそうになるのを必至に堪え、おれは言った。「安心して見物してろよ、コブラ」
それまで感情を削ぎ落としたような無表情を崩さなかった藤堂が、いきなり破顔した。だが眼は少しも嗤っていなかった。炎は揺らめき続ける。呪詛を奏でながら。
「わかった。やり方はお前に任せる」藤堂はおれの肩に手を置き、耳打ち際で囁いた。「しくじるなよ、蘇我? オレはお前を傷つけたくはないんだ」
好きにしろとは言ったが、お前のやるべきことの本質を見誤るな 脳が藤堂の言葉の真意を読み取る。
「仕事はキッチリこなすさ」
「そうだな」軽い調子で肩を叩き、手を戻した。「一見手前勝手そうに見えて、お前は仕事に手を抜かない。オレはお前のそういうところが気に入っている」
おれは肩を竦めた。その時、携帯が鳴った。五代がすぐに出た。内容を聞いた五代はゆっくり顔を上げ、藤堂に眼で訴える。
またか――その場にいる全員がそう思った。すでにパターンと化している、毎度お馴染みの内容。池袋の『SPIKY』。日比野が現れると、奴ら絡みの事件が起きる。前後の差はあれ、絶対に。
死神がトラブルを引き連れてでも来たのだろうか。最早セットになった感のあるその事態に、藤堂も呆れたように嘆息し、肩を揉んだ。
「どうします?」
簡潔に五代が訊く。藤堂は無言で後ろに向かって顎をしゃくった。五代が頷き、即座に出撃準備の号令を放つ。重く張り詰めた空気が、にわかに殺気で活気づく。
「今日はこれで解散だ。お前ももう帰れ」
周囲の喧騒に眼をやりながら、藤堂は言った。
「そうするよ」
また藤堂は出張る気らしい。鬱憤晴らしになる相手に同情を覚えた。
「最近トラブルが続くな、藤堂。大好物だからって喰い過ぎて腹壊すなよ」
「…そうだな。気をつけるとするよ。まあ、だが時期に終わる。少なくとも、ひとつは確実に…な」
おれは返事をせず、黙ってガンジャを吸った。会話はそれで終了。藤堂は歩き出した。おれの横を通り過ぎる時、藤堂は低い声で呟いた。
「――裏切るなよ、蘇我」
期待を、か? それとも 。
何の心配をしてるのかと思えば。下らなさ過ぎて続くそれを鼻先であしらった。五代たちが藤堂に続く。急ぎ足の五代たちを尻目に、のんびりとと歩くのは黒ツナギだ。おれにウインクしてみせる。どうも調子が狂う。他の雑魚たちとは何だか随分感じの違う奴だ。
出ていく藤堂たちの背に区切りをつけ、おれは顔を戻した。視界には小峯の身体が俯せに横たわっていた。
万が一しくじった場合の末路が、目の前に転がっていた。利き腕を破壊され、無惨にも頭をカチ割られたジャンキーに自分の姿が重なる。
「…ふざけろ」
おれは押し殺した声で吐き捨てた。そうなる確率は正直万が一どころじゃない。おれも随分危ない賭にベットしてしまったようだ。しかしもう後戻りは利かない。賽は投げられた。
残って後処理を任された下っ端たちが、今にも泣き出しそうな顔で小峯を抱え、裏口へと運んでいった。
おれはその場で立ち尽くし、ガンジャを口で弄びながら、水溜まりのような血痕を眺めた。滑りを帯びて異様にテカる赤黒い液体が、こっちへ来いとおれを誘っているように見えた。血溜まりから生まれ出でた何かが、おれを奈落へと引きずり込もうと足に手を伸ばす。
バット・トリップの兆候だ。ありもしない幻影がチラつく。聞こえるはずのない声が、耳元で何事かを囁く。
おれは右手を軽く持ち上げ、握り締めた。
たった一本の右腕。これがおれのすべて。もうおれにはこれしかない。失うわけにはいかなかった。もうこれ以上、何ひとつ失いたくはない。
ガンジャを吐き捨てた。血溜まりに落ちたガンジャが、ドス黒く染まっていく。血の海に喘ぐ亡者が、仲間を求めて取り殺そうと群がる。そんな光景に見えた。
「勝てばいいんだよ」
自分に言い聞かせるように、幻覚の存在である何かに言うように、呟いた。そう、勝てばいい。勝てば何も失わなくて済む。お前らの手に捕まり、血に沈まなくて済む。
傍らのカタストロフィー。誰かが笑っていた。何処かで――けれどもすぐ近くで現実が忍び笑いしている。
そんな気配がした。
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