二章

▼ 変調 〈破壊衝動の塊である存在〉


「どうしたの? 珍しいじゃない。あなたの方から私に話があるなんて」


 潰れて機能しなくなった遊園地。その観覧車の一番上に位置するゴンドラの上に座って、赤髪は空を眺めている。一つ隣のゴンドラの上に座ったジュリー・ラヴァルが、顔に疑問を浮かべて問いかけてくる。


「新しい《心寿》を持ってるみたいだけど、次はあなたが持つ番でしょ?」


 《心寿》のやり取り以外で会うことはほとんどなく、事前に取り決めていた《心寿》を報酬として渡す順番にも当てはまらないので、彼女の疑問ももっともだった。

 彼女の疑問に対しては口を開かず、首に下げていたペンダントをはずす。はずした物を彼女の方に放り投げた。放られたものを彼女は戸惑った顔で受けとめ、眺める。


「これがどうかしたの?」

「いらん。やる」

「え?」


 彼女の困惑の声を無視し、地上を眺めた。人の気配がまったくしない遊園地。本来ならば人間たちの楽しさが広がっているはずの場所は、今は寂しさだけが戯れていた。


 ――この方がいい。

 ――誰もいない方が、情なんてモノに縛られないで生きていける。


「『やる』って、どうして? あなたいつも言ってるじゃない。『早く《力》をたくさん手に入れて、お前となんか縁を切ってやる』……って」

「使えねぇんだよ、それ」


 普段、寿命を吸収したときすぐにするのと同じに、どんな《力》が宿っているのかを試してみた。

 おそらくはバリアの類なのだろう。不可視の障壁が現れ、赤髪の周りを取り囲んだ。“破壊衝動”という攻撃的な感情を吸い取っているのに、防御壁が出現するなんておかしな話だと赤髪は思った。ただおかしな話だ、というだけならば問題なかった。しかしこの障壁には副作用ともいうべき効果があった。


 障壁の中にいると、体が沸騰しそうなほどに熱くなり、その熱で自分の体内の何かが膨らんでいくかのように、頭をはじめとする体のすべてが軋みはじめ、激痛が伴った。体内で膨らんだ何かが外に出ようとしているのか、激しい嘔吐感に襲われ、涙を流しながら障壁を消した。


「使えるかよこんなモン」


 説明を終え、吐き捨てる。どんな人間から吸い取った《心寿》なのかは告げなかった。

 彼女は「ふーん?」と呟き、ペンダントを首にかけた。目を閉じて、意識を集中させる。


 一瞬、彼女の髪が下から風に煽られたように浮き上がる。不可視の障壁が展開されたのだろう。すぐに彼女も苦しみだすと思った。しかし予想に反し、彼女は心地よさそうな笑顔を浮かべた。


「ああ。確かに、これはあなたには合わないかもね。とても素敵な“愛情”だもの。……どうしてこんなのを持ってたの?」


 女の疑問に赤髪は顔をゆがめた。赤髪は破壊衝動をもつ人間の寿命しか吸収できないので、彼女の疑問も当然だろう。吸収してきた自分自身でさえ疑問に感じているのだから。


 ――“破壊衝動”を吸収したのに、“素敵な愛情”って、おかしいだろ……。


 彼女の質問には答えず、心中だけで毒づいた。代りにこちらから質問を投げる。


「なぁ。俺たち《想いの残骸》が、物に触れられるようになることって、あるのか?」


 例の暴漢たちを“壊した”後、他の物にも触れてみようとしたのだが、やはり触ることは出来ず、いつもと同様にすり抜けるだけだった。

 なぜ、あの時男たちに触れることが出来たのか。なんとなく、答えの見当がついていたが、それは否であって欲しい考えだった。


「ないわけじゃないわ。たくさん《心寿》を持っていて、力をたくさん確保している《残骸》が、何人も集まって結界を作るの。で、その結界が張られた地域だけで、《残骸》は物に触ったり人間に姿を見せたりできるようになる……って聞いたことがあるの。まぁ、たくさん《心寿》を持っている《残骸》が何人も集まる、なんて状況はそうそうないから、その結界ができるのは相当珍しいことだって聞くわ」


 自分の予想が外れていたことに安堵した。きっとたまたまあの辺りに結界があり、自分はたまたまその結界範囲内に足を踏み込んでいたのだろう。姿は人間には見えていなかったようだが、何であれ例外というものはある。とにかく、《残骸》が物にさわれるようになるのはそんなに不思議なことではない――そう考え安堵したが、女はさらに続けた。


「それと……何かとても強い想いで『さわりたい!』って願えば、本当に稀なことなのだけど、さわれることもある……って噂を聞いたことがあるのだけど……ほとんど都市伝説みたいなものらしいわ。私も誰かに触ってみたいといつも願っているけれど、さわれたことはないもの」


 赤髪は目を剥いて女を睨みつけた。女は驚いて、


「なに? そんなになにか、触りたい物があったの?」


 と訊いてきた。

 都市伝説的なもの――だとしても、おそらく自分があの男たちを殴り殺せたのは、その都市伝説が理由なのかもしれないと思えてしまう。実際、あの男たちを殴れた以外、他の人間の目には一度も触れなかったし、物にも触れなかった。間違っていて欲しいと思っていた予想の方が、状況的に当てはまる。苦虫を噛み潰した気分になって舌打ちする。


 女は疑問符を浮かべた表情でいるが、彼女に事情の一切も話すつもりはなかった。話すわけに行かないと思った。まさか愛情を否定し続ける自分が、あの母親たちに同情して怒りを感じ、男たちをこの手で壊したいと強く願ったなどと……。

 少しだけ、どう答えるかを思案し、赤く長い前髪を指に巻きつけながら投げやりに答えた。


「この間覗いたマンションに、すげーいい女がいたんだ。なんとかさわれねぇもんかなぁ、と思って」

「あははっ。目の前に、さわれるこんないい女がいるっていうのにぃ」


 そうやって笑う彼女はおそらく、こちらが嘘をついてるとわかっているのだろう。だからと言って本当のことを教える気にはなれず、


「はっ。お前は性格が気持ち悪いから嫌いなんだよ」


 と、嘘ではない言葉で誤魔化した。実際、触らせろと言ってみたら触らせてくれそうで恐ろしいのだが。

 赤髪は組んだ両手を枕にして寝転び、彼女の話を無視するように目を閉じた。


 カイ・ヴェルバーは気性の激しい人間だった。だが彼の記憶を持ち、記憶の影響も受けている自分がそれなりに穏やかな時を過ごせているのは、人と関わらないでいられるこの環境があるからだ。と思う。誰にも触れられなくたっていい。これからもそれがずっと続けばいいと思っている。なにもいらないからこのまま…………。


 彼女の気配が、すぐ横に来た。目を開けた瞬間、彼女の上半身が目に飛び込む。途端、彼女の手がこちらの首に伸びてきた。

 反射的に伸びてきた手首を掴む。


「なにしてんだ、てめぇ」


 殺気を混じらせた低い声で問う。

 彼女はこちらのそんな反応は予測済みだとばかりに微笑み、「やっぱり、これはあなたが着けてなさい」と、手に持っていた例のペンダントを示した。


「いらねぇって」

「着けなさい」


 普段はおっとりとしかしゃべらない彼女が、珍しく強い口調で言った。それで駄々をこねるのもガキかと思い、不満ながらもペンダントをつけてくる彼女に任せた。《力》として機能しなくても《寿命》としては機能するから別に損があるわけではない。


「きっといつか、これの価値が分かるときが来るから。そのときまで、絶対に無くさないで」


 ペンダントをつけるために、目の前まで顔を近づけた彼女はやはり――“いい女”で……。

 惜しげもなく強調している胸も、金髪の流れる首筋も、ふっくらとした淡い紅色をした唇も、高い鼻も、長い睫毛も、その奥にある幸せをたたえて煌いている瞳も――すべてが綺麗で……。“いい女”で――


 ――くそったれ……!


 彼女がペンダントを着け終わるのと同時に、“床”の概念を放棄し、床であったゴンドラの天井をすり抜け、そのまま重力に従って落下する。嫌悪を抱いている女に見惚れてしまう自分など、手放してしまいたかった。

 女の戸惑いの声が上からするが、無視した。


 落ちている間、唐突に『飛びてぇなぁ……』と思った。普通の人間の何倍もの高さを跳躍することは出来るが、飛行することは出来なかった。

 今までの世の中でどれだけの人間が願った想いなのだろう。


 自由になりたい。


 今でも十分自由に生きている。わかっているが、それでも。自分の意図せぬ感情に縛られずに、自由になれることはないのだろうか――と……。


 それを最後に、ジュリー・ラヴァルとは会っていない。



    * * * *



「よぉ、斧手ヤロー」


 彼はいつものとおりに、いつものアパートの一室で座っていた。その部屋では肉の焼ける音が、匂いが、充満していた。


「やぁ、破壊屋さん」


 あの、ジュリー・ラヴァルに初めて出会った例の日。手を斧に変え、自分を襲ってきた黒いコートを着た男が、朗らかな微笑で答える。

 寿命が切れる直前で錯乱しきっていた彼は、その後正気を取り戻し、後日こちらに朗らかに話しかけてきた。奇しくもジュリー・ラヴァルが言ったように、自分の奇行を謝罪しに来たのだった。


 襲われたこちらとしては、仲良くなろうという想いがあるはずもなく、無視の一歩手前だったのだが……。斧手に対して、無視という手法は効果をなさなかった。同類と出くわすことは貴重なことであるから、斧手は赤髪に話し相手になってくれとしつこく付きまとった。話し相手ならジュリー・ラヴァルとなればいいと言ったが、彼は、


『あなたとも話し相手になりたいのです。男と男にしかできない話もあるでしょう』


と、しつこく付きまとった。結果、こちらが折れ、一つの提案をした。


『賭けをして、お前が負けたら《力》の威力の実験台になれ』


 ……その話ならいつでもしてやる、と。

 手に入れた《力》が雷を放つものだったり、爆発を引き起こすものだったり、威力を試してみたくなるものだった場合、何にも触れることの出来ない《残骸》たちには試してみる対象というものがない。唯一触れることができるものが同類である《残骸》しかない以上、威力を試す対象は《残骸》以外ほかにないのだ。


 威力を持つ《力》を受ければ死ぬかもしれない。そんなものを賭けとするその提案を、なぜか彼はあっさりと受け入れた。彼は《怯え》から生まれた《残骸》であり、孤独に怯えているのだ。


 死に怯えてはいないのかと訊くと、今目の前にある《怯え》を解消できればそれでいい。そのときが来たらそのときで考える。と、本当に“怯え”ているのかどうか分からない表情で、飄々として答えた。


「この間で四敗目でしたからねぇ……。もう負けられませんが。では今日のお題は彼がこの半時間以内にトイレに立つかどうかで」


 五敗したら《力》の実験台、と取り決めていた。お題はいつも、彼が趣味で観察している人間の男が、決められた時間内ににどういった行動をとるか、といった風な内容で、いつも彼自身が決めていた。観察対象の男は、今はキッチンに立ち、やたらと分厚い肉を鼻歌交じりで焼いている。


「ああ、斧手ヤローよ。今日は違うんだ」


 赤髪は彼の名前は聞いていたが、そちらの名前で呼ぶことは一度もなかった。

 依然として名前を決めることが出来ずにいる赤髪に対して“破壊屋さん”と彼が呼ぶので、対して赤髪は彼を“斧手ヤロー”と呼ぶことにしていた。彼の手を斧にする能力は、当時の彼が持っていた最後の《心寿》だったもので、今はすでに寿命を終え消滅してしまっている。だが、赤髪が持つイメージとして、初めて出会った彼の、あの斧のイメージが一番強く、そう呼ぶのが一番しっくりしていたのである。


 賭けの内容はいつも斧手に有利なものばかりであった。初めのころは文句を垂れていた赤髪であったが、徐々にその文句が減っていった。文句をつけることに面倒を覚え始めたのか、あるいは――……。


「もう、さ。この賭け、やめようかと思って」

「私は行かないほうに賭けますよ。というわけで、君は必然的に行くほうに賭けなければなりません」


 斧手はこちらの言葉を無視して、普段より陽気な声音で賭けを始めた。


「ヒトの話、聞けよテメェ」


 さらに斧手は無視した。無視して陽気な鼻歌を歌い始めた。

 しばらくして、観察対象の人間がコンロの火を止めて肉を皿に盛り付ける。テーブルがないので床に直にそれを置いて、フォークを突き立ててかぶりついた。一口目を飲み込んだ後、彼はどうかしたのか顔をしかめて何かを考えている風だったが、やがて立ち上がり、玄関ではない扉のほうへと足を向けた。トイレに立ったのだ。


「あらら……。さっき行ったばっかりなのに……。彼はもしかすると膀胱炎なんじゃないでしょうか」


 斧手は落胆した声で呟いた。しかし唐突に、無視していたはずのこちらに振り向いてにこやかに宣言する。


「さぁさぁさぁ! これで私は五敗目です! 私の体は君のモノ! 好きに実験してくれてかまいません!」


 弾んでいる声とは裏腹に、奇妙に焦りの浮かんだ表情でこちらを見据えてくる。


「今のはノーカウントだろ。俺、賭けてねぇもん」

「私が『賭けなければならない』といえば賭けたことになるのです!」


 陽気だった声に、なぜか怒気が孕んだ。怒気というよりは恐怖の悲鳴のような……。

 トイレの水が流れる音が聞こえ、男が出てくる。皿の前に座って食事を再開する。

 斧手は意気を消沈させて殺風景な床を眺めた。


「君は……どこか……行ってしまわれるのでしょう?」


 彼の言うとおりだった。おそらく自分は彼に別れの挨拶のようなものをしに来たのだと、そう認識している。こちらにデメリットのない賭けであったが、途中で賭けをやめてしまうのは、なんだかとても卑怯な気がして……。

 観察対象の男の、肉を咀嚼する音しかしない空間で、斧手はもう一度訊ねた。


「行ってしまわれるのでしょう?」

「ああ」

「やはり……。ええ。なんとなく。君はいつかどこかへ行くのだろうと思っておりました。君はひとところに留まってる方ではないと、思っておりました」


 斧手は目に涙を溜めていた。話し仲間がいなくなることに、怯えているのか……。しかしそれに対して自分は、おそらくは……。隣で繰り広げられているはずの会話を知る由もなく、たいして表情を動かさずに肉を咀嚼している男と、さして変わらない表情をしているのだろうと思う。


「正直……引き止めてしまいたい。けれど……ああ……。引き止めて、君が、どこか傷つくのではないか……という方が、なんだか怖い」


 泣きながら笑った表情で、手を差し出してきた。握手したいらしい。


「なぜ、そう決断されたのかは聞きません。どうかお元気で」


 差し出された手は握らずに答えた。


「馴れ合いはしねぇ、って言っただろ」

「最後くらいケチケチしないでっ!」


 無理矢理両手で両手を握られて、縦横無尽に振り回される。鬱陶しい性格をしている、と赤髪は思う。

 だがなぜ、しつこく付きまとわれたからと言って、無視をしなくなり文句を言わなくなり、付き合うようになったのか……。

 勝手に握り締めてきた斧手の手の感触は、ジュリー・ラヴァルのような焼き尽くされそうなほどの熱さはなかった。けれども、彼が持つ熱はどうにも居心地が悪かった。彼の両手を力の限り握り返してやる。

 彼は目を白黒させて苦痛に呻き声を上げ、「容赦ありませんねぇ」と苦笑する。


「まぁ、これで。手を握って握り返されてで、別れの挨拶は成立したわけで……」


 離した手を、痛みを振り払おうとするように振りながら彼は言う。彼の体は目に見えて震えていた。怯えている。


「うん。じゃあな」


 言って、斧手に背を向けて窓から外に出る。


「さようなら」


 斧手の言葉に押されるようにして、そうして跳んだ。行くあてのない第一歩を踏み出した。

 どうして、彼は怯えるのか。どうして孤独が恐ろしいのか。――わからない。

 どうしてあんなにも馴れ合いを求めるのか。――わからない。

 理解できないのは、自分が何もかも壊したい想いの塊、だからなのか……。


「く――っそったれがぁああああああ!」


 いくつもの建物の上を跳躍し、疾駆しながら、『わからない』に弄ばれ、答えを求め、己の声が響くはずのないことを理解しながらも、空に向かって猛り声を走らせた。



    * * * *



 自分が生まれ、一年と少しを過ごした、故郷といってもいいかもしれない街を出た。ジュリー・ラヴァルには別れの一言も告げていない。 


 始めから、彼女のことは嫌悪していたのだ。もし彼女が自分のことを心配していたとしてもどうでもいい。どちらにしろ、そろそろ彼女とは離れてやっていこうと思っていたのだから予定通りだとも言えるだろう。


 近頃では自分が欲している破壊衝動だけでなく、破壊衝動以外の感情の位置、その人物が適合者であるか否か、他の《残骸》の位置も気配で感じ取れるようになってきていた。ジュリー・ラヴァルの存在の必要のなさを、強く感じるようになっていた。


 街を転々としていると、本当に稀にではあるが、他の《想いの残骸》と出会うことがあった。襲撃してきた者もいるが、彼らも他の《残骸》と出会うのが稀だというのは同じで、話せる存在がありがたいのか交流しようとしてきた者もいた。単なる話し仲間になろうとしたり、《心寿》を賭けてギャンブルしようと持ちかけたり、恋仲になろうと色目を使ってきたり。


 彼らには適当に付き合ったが、誰とも深い仲にはなるつもりはなかった。

 女と関係を持つのは嫌いではない――むしろ好きかもしれない――が、適当に付き合っているのに「好きよ」「愛してる」などと囁くようになると嫌悪感が立ち、すぐに関係を切っていた。

 そんな風に街を転々として、一年程が経った。


「お前、俺に喧嘩売るっていい度胸だよな。誰にも教わったことなかった? “殺意”だとか“恨み”だとか“破壊衝動”だとか。そういう攻撃的なやつらは殺傷力が高い《力》ばっかり持ってて、捕まったら一巻の終わりだってこと」


 変わらず人間の寿命を狩り、自分から《心寿》を奪おうと近づく奴を狩り返すのを繰り返していた。


「ああ。かわいそうに。もしかするとお前を気にかけてくれる奴は、誰も一度もいなかったんだ? 本能だけで《残骸》のルールを知って、本能だけで生き続けて来たんだ? 実はうらやましいんだけどさ、そーゆーの。でも残念。本能だけでは知れない事実があるってことを呪って死ね」


 ビルの狭間で、ガリガリに痩せた体付きの、黒ぶち眼鏡をかけた男の姿をした《残骸》の胸倉をつかみ、コンクリートの壁に押し付けている。赤髪はそのまま、左耳の、白い石がついたピアスの《心寿》を作動させる。不可視の打撃を乱れ飛ばすことのできる能力で屠ってやろうとした。――途端、その耳元で、カシッ、という物の割れる音が微かにした。

 舌打ちする。《心寿》の寿命がきて、その役目を終えて壊れたのだ。一瞬、眼鏡の男から意識が逸れた。


「き……! 君なんかっっ! どっかいっちゃえぇぇええ!」


 その一瞬の間に、眼鏡の男が赤髪の胸に手を突き出した。


「っ……!」


 体が浮遊感に包まれ、次の瞬間には空を舞っていた。先ほどまで自分がいたビルの狭間がずいぶんと下の方にあり、小さくなっているのが見えた。

 どうやら眼鏡男は相手を吹き飛ばす能力を持っていたらしい。ビルの狭間に、逃げようと駆け出す眼鏡男の姿が小さく見えた。駆けている男の姿が、足元から徐々に透明になり始めた。


「姑息なことしやがって……。一巻の終わりだっつっただろうがよ!」


 一度ビルの屋上に着地し、すぐに飛び降りる。眼鏡の男の真上へと。

 右手の指輪を発動させる。右手に縦横無尽に血管が浮かび上がり、掌から長い刀が飛び出す。その刃で、全身を透明に変えつつあり、今は上半身しか残していない眼鏡男の右腕に斬りつけた。

 悲鳴が上がる。眼鏡男の腕が地面に落ちた。


「これか? これで透明人間になって、こっそり近づいて、そーっとそーっと、俺の指輪の《心寿》、抜き取ろうとしたわけだ?」


 赤髪は地面に落ちている腕を拾い上げ、その手に嵌っている腕輪を抜き取った。腕を足元に放り投げる。


「まぁ、人間から見たら俺らって万年透明人間だけどな。面白そうだからこれ、もらっとくわ」

「待って! 待ってってよ君! それがなくなったら困るんだ! 今までその寿命のヤツは……その、それで透明になって盗んできたからさ。だからそれがないと困る。人間殺すのも怖いし、ほ、他の、自分とおんなじようなヒトとも話すのも、こ、怖いし、か、関わりたくないし……でも死ぬのもイヤだし……だからだからそれがないとすごく困るし、だだだだからかえして、くくれないかなぁあ!」

「もしかしたらお前、対人恐怖症ってやつ?」

「うううううーるーさーいいぃぃいい! それがないと僕が死ぬんだ僕が死ぬんだ、だからだからだからかえし……――――」


 刃を眼鏡男の胸につきたてた。


「だいじょうぶ。あってもなくても、お前は今死ぬから」


 引き抜くと、眼鏡男が前のめりに倒れていく。眼鏡男はうつ伏せに倒れて、動かなくなった。透明になっていた下半身が不透明に戻った。途端、体のすべてが砂でできた像になり、倒れる。地面にばらばらに散らばった。死んだ。


「あー……。つまらん」


 赤髪は、眼鏡の男が死に行く様を見て、無感動な表情で呟いた。

 《心寿》を奪おうと襲ってくる相手はすべて、逃がさず殺してしまわなければ気がすまなかった。自分が破壊衝動の塊だからなのか、歯向かって来るような者は壊してしまわないと気がすまなかった。単純に言えば逃がしてしまうと腹が立つから。

 なのに、殺してもいつもなぜかすっきりしない。むしろ虚しさが込みあがってくる。なぜなのかはよくわからない。


 人間の寿命を吸収し、その人間の崩れ逝くさまを見ているときも同じ気分になる。いったい自分はいつからこんなものを感じるようになったのかと思案する。――放浪するようになってからだった。別の言い方をすれば、例の母親を吸収して以来だった。


 初めは肉体のない非科学的な存在でも病気になるのかと思いつつ、自分は病気に違いないと思っていた。だが、考えたくないことだったが、どうして虚しさを感じるのか……ということについて考えると、どうしてもたどり着いてしまう結論があった。


 例の母親を吸収して以来、何かのトラウマを負ってしまった……。


 他人に同情し、怒りを感じ、さらにそのせいで精神に傷を負う。自分の中にはあってはいけない感情だと思えて、認めたくはなかった。認めたくはなかったが、その傷は自分に確かにあるとも思える。

 虚しさを抱えたままどうやって生きていけばいいのか、わからなくなってくる。寿命を吸収するのも億劫になってくる。


 億劫でも、なんとか自分を奮い立たせて寿命を吸収して生きていけばいいのか。

 億劫に体をゆだね、寿命を吸収することをやめて死ねばいいのか。放浪の足をどこに向ければいいのか。自分は何が楽しいのか、なにに憤っているのか、なにに虚しさをおぼえているのか……わからなくなってくる。

 そんな想いを抱えながら、何日、何ヶ月かよくわからない月日をさらに過ごした。

 寿命を吸収することと、寿命の尽きた《心寿》が役目を終えて消滅することが繰り返された。


 ただひとつ、わからない中に浮き出てきたものがあった。

 カイ・ヴェルバーの母。彼女は海を越えた地の異国の人間だった。今までは陸続きにしか移動していなかったから、母の国――ニッポン――に行くのも悪くないと思った。


 自分の中にわずかな指針を得て、すぐ行動に起こした。

 当たり前だが何の困難もなく飛行機に密航し、海を渡った。飛行機に乗っているとき、『あ。今俺飛んでんじゃん……』と思った。


 なぜカイ・ヴェルバーの母親の故郷に行こうなどと思ったのか。特に理由はないと思う。子供への責任能力のない母親だった。ただ、カイ・ヴェルバーの記憶の、幼いころ、一度だけその母に手を引かれながら映画館に行っていた思い出があった。それが、不快ではなかったから……と言えばいいだろうか。


 飛行機を降り、国に到着しても、今までの生活とは大きく変わらなかった。生活にも精神にもたいした影響は及ぼさなかった。

 いっそ……寿命を吸収することを――生きることを本当に止めてしまおうか、と思った。

 それもそれで悪くないかもしれない。そう思ったが、死んで、自分の意識がなくなってしまう――ということを考えるとやはり恐ろしいことのような気がしてならなかった。


 生か死か。虚しく生きるのか死んで断ち切るか。想いは定まらないまま、赤髪は獲物を探すことをやめられなかった。



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