一章
▼ 出会う 〈破壊衝動の塊である存在〉
赤髪のその存在が、この街に居つくようになって八日経った。
相変わらず自分を認識できる者は誰一人おらず、何かに触れることもできなかった。何かを壊したいという衝動が襲ってくる“発作”が、たびたびおこったが、それは殴り合いや怒りにまかせて物を壊している人間を眺めていると治まることに気づいた。同じ《破壊衝動》という感情エネルギーを目から吸収することで、自分の中にある破壊衝動のエネルギーと、外部から入る破壊衝動エネルギーとが打ち消し合い、中和されるのだろうと勝手な解釈をしている。
腐った臭いがする街だった。道端にホームレスが寝転がっているのがあたりまえだったり、生ごみや人間の胃から逆流したであろう汚物が散乱していたり。道端でのいさかいなどは日常茶飯事のようで、自分の“発作”を抑えるためのエネルギーには困らず、ありがたかった。
一度発作に飲み込まれ、衝動にまかせて暴れまわったことがある。暴れまわったが、当然何にも触れられないので何も壊せず、衝動と共に奇妙な焦燥に煽られ、煽られるままに一晩中暴れまわった。体力が切れ、そのまま眠りに落ちることで衝動は止まったのだが、目覚めたとき道路のど真ん中で目が覚め、最初に目に入ったのが猛スピードで通過していく車の腹だった。ひき殺されるということがないとはいえ、あの体験はあまり精神的に芳しくない。
誰にも認識されず、何も触れない日々は、意外と苦にならなかった。普通では見ることのできない人の生活の裏側を垣間見たり、人間の肉体を持っていては出来ないさまざまなことが出来たりしたから、暇を潰すのには苦労しない。
街の殺伐とした空気も肌に合っていた。
赤髪の中にある記憶の青年――カイ・ヴェルバーが、殺伐とした世界に身を投じていた人間だからかもしれない。彼の記憶は、映画のスクリーンなどを通して見るようにひどく他人事に感じているが、それでも自分の人格形成に多少なりとも影響があるらしい。
だから孤独に苛まれるという事もなかった。カイ・ヴェルバーの記憶には人間に裏切られた記憶が多くあった。父親に虐待され、それに耐えかねて家を飛び出し、飛び出した先で出会ったさまざまな人間に裏切られていた。
カイ・ヴェルバーは裏切られ続けた結果、自分が裏切ることを覚え、他人を利用することを覚え、殺伐とした世界でうまく立ち回っていた。しかしうまく立ち回っていた末路があの拷問部屋だった。人間と人間の関係が入り乱れた末路。赤髪はそんな緊張を強いられる生活をしたいとは思わない。人間と関わりたいとは思わない。ゆえに、今の誰との関わりもない環境にも寂しさなど覚えない。とてもありがたいとさえ思っている。
特に不満は無かった。発作に飲まれたときの気分は最悪だったが、殺伐とした空気の中をのんびりと生きる。そんな風に、これからもさして変わらぬ日々を続けていくのだと思っていた。
しかし。それも終わりに近づいているらしい。
死が近づいている。
本能にも似た直感が、それを知らせてくれた。自分はもうすぐ消えてなくなる。寿命が来る。
何も食さず、光合成をしているわけでもない。生きるためのエネルギーを何も摂取していないのだから、短い寿命は当然なのかもしれない。人間から分離した、残りカスとか、アクだとか、そんなような存在の自分には当然のことなのかもしれない。
――まぁ……。別に思い残すことなんてないしな……。
赤髪は漠然とそんなことを思っていた。
公園のベンチに腕と足をめいっぱい広げてだらしなく座って月を眺める。何にも触れられないのになぜだか“床”という概念は存在している。自分の意思で突き抜けようと思えば突き抜けるのだが、座りたいと思えば椅子に座ることも出来るし、建物の二階を歩こうとして床を突き抜けてしまうなんてこともない。都合よく出来ている……と、赤髪は己の存在の概念を嘲笑った。
ともかく自分は死ぬ。床の概念が都合よく出来ていようとも死ぬ。
そんな存在を哂っている風に見える、やけに光り輝いている月を眺めながら、ホームレスを狩る少年たちの奇声を子守唄にして眠ってしまおうと考えた。
赤髪の目の前に、ホームレスの体が放られた。それを少年たちが嬉しそうに楽しそうに蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る。繰り広げられている光景が《破壊衝動》として目から入り、体に浸透していく。冷えた体で暖房の効いた部屋に入ったような、ちょっとした心地よさがある。
ふと、突然に、なぜだか目の前で哄笑を上げている少年に触れてみたくなった。触れられるわけがないのだが、触れられそうな気がして、手を伸ばした。
触れた。
少年の緑色に染められた頭に、赤髪の手が置かれた。置けることが出来た。ただ、感触は髪の毛の感触ではなく、まったく違う何か。人が使った後、ほのかな熱を残すクッションのような、柔らかな感触。熱の感触。そこから、微かな鼓動を感じる。
――欲しい。
わけも分からずにそう思った。
何を――なのか。なぜ――なのか。欲して、手に入れてどうなるのか……。何もわからずに、ただ思った。
「――っっ!」
緑色の頭をした少年が、声ともつかない悲鳴を上げた。
しばし、時が止まったような無音が続いた。すべてが沈黙していた。掌に感じていた熱と鼓動が消えていた。
手を置いていた緑の頭が、ぐらりと傾いだ。そのまま体と共に地面に落下していった。
前ぶれなく倒れたのに驚いて、他の少年たちが頓狂な声を上げる。少年たちは皆、一瞬、事態が飲み込めない戸惑った表情をした。一人が我に返り、倒れた緑髪の少年を揺り動かして、やがてうわずった声で「……死んでる」と呟いた。一人が混乱した悲鳴を上げ、もう一人がうずくまるホームレスに「お前が何かやったのか!」と見当違いの罵声を浴びせている。
そんな混乱の中で赤髪は、酩酊したように足をふらつかせ、ベンチに倒れこんだ。
――なにか……入って、きた……?
自分の中に。
自分の中に、先刻の熱と鼓動があり、体を脈打たせていた。
両腕で体を抱きこむ。徐々に脈打つ体が治まっていき、熱も引いていった。
――なん、なんだこれ……。
少年たちが緑髪の少年を置き去りにして逃げていく。ホームレスの方もとっくに逃げた後なのか、姿がなかった。
地面に倒れ付している少年を眺めて思った。自分が彼の生命を吸い取ってしまったのではないかと。殺してしまったのではないかと。
――マジかよ……。
その証拠であるかのように、すでに死の予感は消えていた。
* * * *
つけた覚えなど記憶の中には微塵もない指輪が、左手の中指にはまっていた。緑色に輝く宝石のついた指輪だった。少年の生命を吸い取った証――なのかもしれない。
少年の生命を吸い取り殺した日から、三日が経っていた。自分が死ぬ気配は無く、死の予感も消え去った。また大して変化の無い、街の暴力を眺めて過ごす日々が続いた。
これからもこうして、何気ない毎日を過ごし、死の予感が近づいたら人間の命を吸収して生きていくのだろうか。
大自然に生きていようとも科学の発展した社会に生きていようとも、生命というものは弱肉強食にしかならないものだ。なのに自分はその範疇から外れてしまっている。こちらを認識できない者を獲物と定め、狩っていくのだから強いも弱いも関係ない。自分はとても反則的な生き物だ、と赤髪は自虐的に哂う。
赤々と地上を照らしながら沈んでいく太陽を眺めていた。沈んで、月が夜をつれてくる。
別に規則正しく生活しなければならない理由もないので、早々に寝てしまうことにする。
この辺り一帯では一番背の高いマンションの屋上で、床に寝転ぶ。他のビルはこのマンションの背に負けて、視界に入らない。視界には邪魔な異物は見えず、月の浮かぶ空だけが広がっている。こんな冷たい夜の雰囲気に包まれて眠るのが好きだった。
目を閉じる。だがなかなか眠気はやって来ない。毎日時間をもてあましているので朝はいつも惰眠を貪ってしまう。早寝遅起きが習慣づいてしまっているのだから眠れないのだろう。
しばらく目を閉じ続けていると、緩やかに眠気がやってきた。ようやく眠りに落ちそうだと思ったとき、上から何かが聞こえてきた。
眠気を名残惜しみつつ目を開く。男が立っていた。
夜空に溶け込みそうな漆黒のコートを身に着けている。もうすぐ夏だというのに。
わずかに口を開閉させて何かぶつぶつ言っているようだかよく聞き取れない。ぶつぶつ呟いているのも不審だが、めったに人が来ないこの屋上に立っているのもまた不審だ。
――なんだ? ……こいつ。
寝転ぶこちらのすぐ側に立っている。こちらを覗き込むように俯いている。もちろん人間に視認できない自分を見ているとは思えないのだが――こちらを凝視しているとしか思えない眼差しだ。
「……サイ…………」
――?
微かに耳まで届いた男の呟きに、顔をしかめる。そんなはずはないと思いつつ、こちらに話しかけている気がしてならなかった。
「……クダサイ……」
先ほどから呟き続けている言葉が、形となって耳に入ってきた。
男が腕を持ち上げる。
浮かぶ月を隠すように、拳が握られていた。しばらく震えていたかと思うと、その振動で、なのか、拳はシルエットを変えていく。男の体は粘土で出来ていて、見えない誰かの手が作り変えているかのように、形を変貌させていく。
そうして男の腕は姿を変えた。大きな刃を持った斧の形へと。
斧を、視線が吸い込まれたように凝視した。男の口は相変わらず同じ言葉を紡ぎ続けている。呟きは徐々に徐々に大きくなり、頭痛のような耳鳴りのような不快感をつれてくる。
「ください……っつっても、俺、生まれてこの方なにかに触ったこと、ってまともにないから、あんたに差し上げてやれるもんなんて、何一つ持ってないんだけど……」
思わず返事を返していた。まともに声を出したのはこれが初めてかもしれない。初めて出した声は、案外と幼く、緊張に満ち溢れていた。
「……クダサイヨォぉォオオおおおお!」
咆哮じみた叫びと共に、男が狂った叫びをあげ、斧を振り下ろしてきた。
人間や物とは物理的な接触をしない。だから避けなくていい――とは、思わなかった。
重い刃が目の前まで振り下ろされ、もう少しで自分の顔面に届く一瞬前、《――突き抜けろ!――》と念じた。
床の概念が消え、体が落下の感覚に支配される。視界を満たすのは階下の天井。すぐに天井は視界から遠ざかり、クローゼットやベッドが視界に入り、そしてまた天井が視界を満たす。
屋上から二階分落ちたところで自分の概念に《床》を戻し、猫のようにしなやかに着地する。
――なんなんだあれ。もしかして……俺と同類……なのか?
あのまま寝そべっていたとして、本当に自分はあの斧に潰されたのだろうか。まだ正直半信半疑だ。今までが今までだったので自分に触れられるモノがあるとはどうにも信じ難い。だが果たして何もない屋上の床に、あんな言葉を吐きながら斧を振り下ろす人間が居るだろうか、と、そう考えると理屈的にはあの黒コートの男は同類だとしか思えなかったが、感覚的に信じられない。
後ろ頭を掻き毟りながらため息をつく。着地した部屋は薄暗く、ベッドの上で男女が抱き合っている最中だった。
――宵の口から何やってんだ。
と、もうひとつため息を吐く。
仮にあの男が、生まれて初めて見つけた自分の同類だとしても、これ以上関わるのはごめんこうむる。いきなり斧を振りかざしてくる奴とは間違っても仲間になれない。もともと仲間が欲しいなどとは思ったことが無かったので、落胆もしない。
またどこか寝床になる所を探して寝なおそうと思い、赤髪は部屋の出口に足を向けた。と、天井から咆哮が突き抜けてくる。今度は何も言葉になっていない、意味を成さない、獣の如き叫び声。反射的に天井を見上げ凝視する。焦燥が胸を圧迫する。
――何ぼんやりしてたんだ俺は。あいつが同類だとしたら、もちろんあいつも俺と同じことが出来て……。
そう思った瞬間、目の前を、視界の中心を黒が縦に走った。
着地の衝撃を吸収するために屈んでいた黒コートが立ち上がる。立った状態で対峙すると、相手に頭一つ分高い所から見下ろされる形となった。
黒コートのちょうど後ろでは、この部屋の主であろう男女が闖入者に気づくはずもなく行為を続けている。
――あいつらふたりとも自分の隣でなに起こってるのか知るわけないんだよな……。ああ……! なんかアクション映画のお約束みたいにビビってくんなきゃいたたまれねぇ……!
黒コートが三度目の咆哮と共に、拳の代わりに斧のついた腕をアッパーで振り上げてくる。顔面目掛けてきたそれを咄嗟に上体をそらしてかわした。
斧の重さで黒コートがよろめいた隙に、壁をすり抜けて隣の部屋に飛び込む。今度は先ほどのようにそれだけでは安心せず、隣へ隣へ階下へ隣へ、自分でもどこを走っているかわからなくなるくらい出鱈目に移動する。
喧嘩の仕方はカイ・ヴェルバーの記憶にあるのだが、その記憶に体がついてくるかは確証がない。体がついてきたとして、斧男相手に勝てるかというのも確証がない。だからとにかく逃げる。ひたすらにひたすらに。
壁を抜けて床を抜けて走り回ってるうちに四つの建物を抜けていた。黒コートの咆哮は聞こえてこない。
どうやらまくことが出来たらしい。今度こそ肩の力を抜いた。
あの男がそのまま諦めてくれればいいが、この近くに留まっていてまた鉢合わせしないとも限らない。眠りにつくのはもっとずっと遠くへ行ってからにしようと歩き出した。
夜を電飾で飾る大通りの人ごみの中を、掻き分ける必要もなく進む。
さて次はどんな寝床がいいだろうかと、ぼんやりと他愛もないことを考えながら、人の波をものともせずに泳いでいく。
その前方数メートル向こう。人の波の中に奇妙な揺らぎを見つける。人ごみなど存在しないかのように猛スピードで迫ってくる、初夏には似合わない黒い服装の男。目がそこに釘付けになる。混乱に頭をかき回される。
――な、なんで、なんでなんでだ? あれだけ逃げたのに、なんでこっちの居場所が分かるんだよ……!
多数の壁や床を抜け、左右上下と逃げ回った。見失わないなんてことがあるだろうか。それとも奴は体だけではなく視線すらも、障害物を突き抜けることができるのか……。
迷いなくこちらに向かってくる。唸る銃声のような叫びを上げて、ロックオンされた銃弾のように迫ってくる。
逃げても無駄なのだろうか……。その考えが頭を掠めた瞬間に、足が動かなくなり、その場にへたり込んでしまった。
――やべぇ……マジ怖ぇマジやべぇ! あれ喰らったらあれ喰らったら痛ぇのか、すり抜けんのか、どっちだ? 俺はぶった切られるのか血は出るのか内臓は脳ミソは飛び出んのか? つーかなんで俺がワケわかんねえあんなのに狙われなきゃなんねぇんだなんでなんでなんで?
男が斧を振りかざしたのを最後に視界を閉じた。やってくる衝撃に備えて体を硬くする。
…………三秒経った。……五秒経った。………………十秒――――
瞼を開いた。
女の背中が見えた。周囲の群集は、女と、女の前方に立つ黒コートの男をすり抜けていく。女は伸ばした右腕の掌で、倒れてくる柱でも支えるように、男の胸を押さえていた。
「落ち着きなさい」
女の凛とした声が、周囲の雑音に埋もれることなく耳に届いた。
男は彼女の言葉に生気を吸い取られたかのように、あげていた斧の手をゆっくりと下げていく。二人の間に張られていた緊張の糸が切れ、女は男の胸から手を退ける。変わりに、まだ肩で大きく息をする男の右手を取り、
「これをあげるから、彼は見逃してあげて?」
と、彼女自身が嵌めていた指輪を嵌めてやる。
――指輪……。
咄嗟に自分の左手の中指を見る。小さな緑の石が入った指輪がはまっている。あのホームレスをいたぶっていた少年を吸収した証――と思われる指輪だ。
――もしかして、『ください』って、これのことだったのか?
しばらく男は俯いて、女に嵌められた指輪を見つめていてが、やがて納得したのかふらりと踵を返し、人ごみの波に姿を溶かしていった。
「彼は、もう大丈夫よ。数分もしたら正気に戻って、もしかしたら謝りに来たりもするかもね」
女がこちらを振り返った。
妖艶なようでいて、また別の違った――人間が幼児や愛玩動物と馴れ合うときのような――空気をまとった女だった。軽くウェーブのかかった髪を胸元まで伸ばしている。その髪のかかっている胸はふくよかで、大胆に強調された服を着ているが、なぜかいやらしさは感じない。いたる所にアクセサリーをつけているが派手さはなく、清楚な印象さえ受ける。夜の仕事に従事していそうでいて、騒ぐ子供をまとめるのがうまそうな女――それが赤髪が抱いた彼女への印象だった。
赤髪は声も出せず、へたり込んだまま唖然としていた。女は赤髪に合わせて中腰になり、無邪気な微笑で覗き込んできた。
「ひょっとして、仲間に会うのは初めて?」
「あんた……俺が見えるのか……?」
何とか声を絞り出し、質問に質問で返すと、女は笑みを深くした。
「やっぱり、初めてみたいね」
そうして手を差し出してくる。
「見えるし、さわれるわよ?」
差し出された手は、“つかまって立ち上がれ”ということなのだろうが、それに従うことに妙な抵抗があり、自力で立ち上がろうとした。しかし地面につけた手は力が入らず、膝は自分を嘲笑っているのかいうことを聞かない。
「もう!」
女が苛ただし気に声を荒げたかと思うと、差し出されていた手がさらに伸びてきて腕を掴まれた。そうして強引に引き上げられる。勢いがつきすぎて引き上げられた瞬間、自分で踏ん張ることが出来ず、そのまま彼女の胸にダイヴする。
生まれて初めてまともに体感する、何かに触れるという感触。
肌の感触。ぬくもり。弾力。自分の頭に自分以外の手が回って、抱きしめられるということ。それらに反応して体が瞬時に沸騰する。
「無理なんてしなくても大丈夫だから。虚勢なんて張らないで。ね?」
沸騰した熱に変わって体の奥から怒気が込みあがってくる。女を突き飛ばして数歩後ずさる。
「勝手に触るな!」
彼女を睨みつけた。酷い嫌悪感に苛まれる。
彼女の、暖かくやわらかい感触が、なぜか自分の概念の中に存在してはいけないような気がして。彼女の熱に、自分を焼き殺されてしまいそうな……。
「ごめんなさい。嫌だった? 初めてのヒトは“さわれる”ってことに感動して喜んでくれるのがほとんどだから、つい」
苦笑する女に『それはお前の胸の感触を楽しんでなんじゃないのか』と言いかけて口を噤む。
「一応、助けてもらった礼は言っとく。ありがとう。でも別に俺は、今までの、誰とも関わらないでいい状態が気に入ってたんだ。だから“さわれる”、ってことにさしたる感慨はないし、これからも一人でのんびりと生きていくさ」
あの黒いコートの斧手男に襲われたときは、他のものに触れるなんて事はあるのだろうかと半信半疑だった。だがこうして会ってみると、自分という生き物が生まれている以上、他の場所で同類が生まれていたとしても何の不思議もないと思える。歓喜も落胆もない。その事実があるだけ。
せっかく出会った同類と、何か接点を持ちたい――だとかは思わなかった。女とはここで適当に別れ、今までの生活をしていきたいと思った。
「でもあなた、またきっと襲われるわよ」
「あ?」
「そして今のあなたはそれに対抗する術を持っていない。のんびりどころか、生きていけるのかも怪しいわけ」
物騒な発言をしだした女は、苦笑から最初の無邪気な笑顔に戻っていた。
赤髪の視線が女から己の左手に移る。中指に嵌っている緑の指輪を見ながら女に言葉を返す。
「この指輪を狙ってか?」
「そう。正解」
「なんでだ」
苛立ち混じりに問いを吐き捨てる。誰とも話などしたくはないのに、話をしようとしている自分に嫌悪する。
ストレートな問いに女は「ふふっ」と小さく笑い声を上げた。
「こんな人ごみの中じゃ、落ち着かないわ。場所を変えましょう」
そう言って女は赤髪の返事も待たずに歩き出した。仕方なく女についていく。どうも女のペースに流されている。女が嬉しそうに笑うのは己のペースに引き込めそうだからかもしれない。
どこに向かっているのか分からないが、女は歩いている間も無邪気に話しかけてくる。
「あ。私の名前はジュリー・ラヴァル。まぁ、私の名前って言うか、私の生成体――私を生み出した女性の名前なんだけど。私も最初は誰とも会うことがなくて、名前をつけてくれるヒトがいなかったから、そのまま彼女の名前を使うようにしたの。ね、あなたは? あなたは自分の名前を持ってる?」
「いや……」
――自分の名前……。
考えたことがなかった。会話する相手がいなかったのだ。名前の必要性について吟味したことさえなかった。
「なら、私があなたの名前を決めてあげようか?」
「遠慮する」
なんとなくこの女に決めてもらうのは癪だった。
「じゃあ、あなたも私みたいに生成体の人の名前を使えば手っ取り早いわよ。もしもそれでよかったら、それをあなたの名前として、自己紹介してくれないかしら?」
「ああ。カイ・ヴぇ…………」
カイ・ヴェルバーと名乗りかけ、やめる。
「いや、俺はあいつじゃない」
妙な……自尊心といえばいいのか、自己顕示欲といえばいいのか。理由の分からないこだわりがその名前を名乗らせなかった。
「じゃあ、あなたのこと、なんて呼べばいいの?」
「別に。呼んでもらわなくて結構だ」
女は肩をすくめて、「困ったヒトねぇ」と苦笑した。女に言ったことは本音ではあったが、彼女に嫌われるつもりでわざと言ったものでもあったので、怒りを買えなかったことに小さく舌打ちする。
「ここよ。ここなら落ち着いて話が出来るわ」
人の波の中で彼女が立ち止まった。
まだまだ日も暮れて間もないというこの時間。周りは煌々と明かりをともしている建物ばかりの中、その建物は一軒だけ闇を宿していた。おそらくは潰れて間もないのだろう酒場らしき建物の扉を、彼女はすり抜けて中に入っていった。別にわざわざ扉を通る必要もないだろ、と、女に続いて赤髪は扉の横の壁をすり抜けて中に入った。
建物の中には明かりが灯っていなかったが、窓の外から入るネオンの光のおかげで、暗くて困るということはなかった。
「どう話せばいいかしらね」
言いながら女は四人がけのテーブルに着く。座ろうとしない赤髪に目を向けて首を傾げ、「座れば?」と、向かいの席を手で示す。あまり気が進まなかったが渋々と彼女の向かいに腰を下ろした。
「えっと……。あなたは自分がどんな存在か――つまりは自分が、人間の感情が異常に昂ぶって、その感情を肉体が拒否して肉体から切り離された精神……そんな存在だってことは、なんとなくわかってるわよね?」
「ああ。まぁ」
自分の中にあるカイ・ヴェルバーの記憶。その最後にあるのは異常なほどの破壊への欲求だった。
裏切りや理不尽が渦巻く街で、彼はうまく立ち回って生きていた。しかし結局はあの拷問部屋にたどり着いてしまった。拷問される中で彼は、しくじった自分に嫌悪を抱き、拷問をする相手に苛立ち、怒りに満ち、こんな環境を生み出す世の中を恨み――人間だけではなく世界が、すべてが壊れてしまえばいいと強く願った。己自身が壊れそうなほどに。
その爆発寸前だった欲求と、自分の“発作”である破壊衝動はひどく似ていた。否。似ているのではなく同じものだ、と感じた。だからなんとなく自分という存在は、彼の破壊衝動が固まってできたものだと認識していた。彼自身を壊しそうなほどに膨れ上がった破壊衝動を、彼自身が無意識に自己防衛のために切り離した部分なのだと理解していた。
「そう。私たちは切り離された人間の精神の一部。人間の怒りだとか喜びだとか恨みだとかから生まれる……まぁ、幽霊だとかなんとかそういうものの類なのでしょうけど、他のみんなは自分たちのことを《想いの残骸》って呼んでるわ」
思わず鼻で笑ってしまった。
「なんか自虐的なネーミングだな」
「たしかにね。でも今はゴミでもリサイクルできる時代だもの。うまく生きれば輝けるんじゃないかしら」
よくもそんな楽観的に考えられるものだと思った。笑顔のままの女に、こいつは今までお気楽人生送ってきたんだろうな、と思う。
そんな、よく言えば楽観的な、悪く言えば何かが頭から抜け落ちている風な微笑を浮かべながら彼女は、あの黒いコートを着た斧手の男がなぜ襲ってきたかの理由を話した。
《想いの残骸》という存在は、生まれてから何もしなければ短くて一週間、長くて一ヶ月ほどしか、生きられない。そのために、それ以上を生きたいのならば人間から寿命を吸い取り、自分にプラスしなければならない。
人間から吸い取った寿命は、アクセサリーなどに形を変え、自らの体に纏われる。そのアクセサリーは《
《心寿》は《残骸》の寿命であるから時が経てば消滅する。消滅し、ひとつの《心寿》も着けずにいると、《残骸》に待っているのは死だ。《心寿》をなくした途端、というわけではなくとも、数時間中には必ず死がやってくる。あの斧手の男はその死に恐れ、焦り、錯乱し、《心寿》を求めてなりふりかまわず《心寿》を奪うために狂気に突き動かされたのだ、と彼女は説明した。
「しんじゅ……つまりこれのことだよな?」
中指に指輪が嵌っている左手を持ち上げて、女に示す。
ホームレスを蹴り飛ばしていた緑の髪をした少年を思い出す。あのとき、彼の頭に手を置いて、自分の中に入ってきた何かはやはり彼の生命だったのだ。
「なくなったんなら、また人間から寿命を吸い取ればいいだけの話じゃないのか?」
「それがそう簡単に吸い取れるものでもないのよ。残念ながら」
彼女は苦笑して説明を続ける。
人間から寿命を吸い取るには、吸い取る対象の人間が適合者でなければ吸い取れない。
適合する人間は《残骸》それぞれ個人個人により違っており、自身で探さなければならない。何をもってして適合者だと判断するかも個人差が大きく見つけにくいらしい。
さらに寿命を吸い取るには、その適合者が、己を形作っている感情と同じ感情を感じている瞬間でなければならない。
例えば異常な寂しさから生まれた《想いの残骸》であれば、適合者が失恋直後や親や親友を失って、“寂しさ”を感じている時に寿命を吸収しなければ《心寿》は得られないわけである。
適合者であるか否かと、適合者の持つ感情。ふたつに微妙な齟齬があるだけで相性は合わず、寿命は吸収できなくなる。寿命を吸収できる人間を見つけるのはかなり困難なことだと言う。
だから他の《残骸》から《心寿》を奪った方が効率のいい場合もあり、あの黒コートの男はそちらを選択したのだ。
そこまで女の説明を聞いて、赤髪はため息をついた。
――つまり、俺はあの頭の悪そうな糞ガキと絶妙に相性ばっちり合っちまった、ってことか……。
なんとなくうんざりした気分になったが、なぜだか微笑を浮かべ続けて話している女の顔の方がうんざりだった。うんざりしすぎて彼女の顔を直視できないほど、体が拒絶反応を出している。
彼女の顔を見ないように窓のほうに視線を背けて率直な疑問を口にする。
「でもやっぱり俺が狙われなきゃならない理由なんてないだろ。俺はその《心寿》ってのを一個しか持ってないんだ。あんたみたいにジャラジャラつけてるやつから奪った方が効率いいだろーに」
窓の外に見える騒々しさ。窓越しで耳に届く雑音。その光景を見ているほうがよっぽど、女の顔を見ているよりも心のざわつきが落ち着いていく。
「ええ。まぁ、たくさん持っているヒトから奪ったほうが効率いいのは当たり前なのだけれど。これがまたそうもいかなくて。……まず理由の一つ目に、《想いの残骸》という存在の数が本当にわずかということ。獲物自体が少ないから、《心寿》を一つしか持っていないからやめておこう、なんて贅沢は言っていられない、ということ。もう一つの理由は《心寿》は《残骸》の力にもなって、たくさん《心寿》を持っているヒトのほうが強い、ということ」
「ちから?」
その単語に反応して、思わず視線を窓から女の顔に戻していた。
「そう」
ゆっくりと頷いた彼女はおもむろに両手を広げた。ボッ、と短い音が空気を震わす。外のわずかな光しか差し込まず、ぼんやりとしか見えていなかった彼女の顔が、橙色に染まって浮かび上がった。彼女の、掌を天井に向けた両手に、淡い橙色の炎が灯っていた。
手がたいまつのように燃え上がる。光を浴びて橙に染まった彼女は満足気で自慢げな笑みを浮かべ、
「《心寿》を一つ着けるごとに一つ。こういったいろいろな《力》が使えるようになるのよ」
そう言って拳を握る。一瞬だけ火の粉を残しながら炎が消え、また部屋が暗くなる。
窓から入ってくる外のネオンの光に、横顔を照らされた彼女の顔は「驚いた?」と、悪戯っぽい笑みになる。
「ああ。驚いた」
斧手男のあの斧も、この《心寿》の力というわけである。
《心寿》をたくさん持つものを襲った方がやられるリスクが高くある。だから《心寿》の所持数の少ない弱者の方が狙われる危険が多くある。しかも熟練している《残骸》は、他者の《残骸》の気配を遠くからでも察知することができる。と同時に、己の気配を殺す技術を持っている者が多いという。
なるほど、あの斧手男がどんなに逃げてもこちらの場所を見失わなかったのはそういうわけだったのだ。
彼女の説明を聞き終えるとまたため息が出た。
人間社会と物理的な接触を持たない自分は、弱肉強食の輪には入っていないと思っていたが、結局は別の輪の中にいたらしい。生きることはやはり無情だと、妙な感慨を持ってのため息だった。
「これであらかた話したと思うけど……他に何か訊きたいことはない? あったら答えられるかぎり、何でも答えるわ」
「《心寿》ってのの使い方を教えろ」
指輪の嵌った左手の拳を彼女に突きつけた。
「一つ一つに力があるなら、これにもあるんだろ」
「ああ、そうよね。一番肝心なことよね、それ。……うーん。それは感覚的なものだから口で説明するのはむつかしいのだけれど……『使いたい』って想いを込める――とでも言えばいいかしら。つけている《心寿》に意識を集中して――」
軽く音がはじけた。パーティなどで使うクラッカーのような音だった。
「い、いきなりやらないでよ、危ないでしょう!」
椅子の背もたれにしがみつき、体を退きながら怒声を上げる彼女に「今の、威力的にどうよ」と訊いてみる。
彼女は答え難そうな表情でテーブルに頬杖をつき「ウ~ン……」と唸った。
「これで敵を倒せると思うか?」
「……ウ~ン…………」
二度目の唸り声に赤髪は溜息をつく。
「まぁ、しょうがないわ。力は寿命を吸い取ったその人間の、能力だとか精神のあり方だとかに左右されるから、アタリハズレがあるのよ」
「つまり俺はショボイやつを吸い取っちまったってわけか……」
確かにあのガキは、弱いやつを虐めて笑う、肉体的にも精神的にも弱そうなやつだった、と納得しながら「で、もう一つ質問なんだけど」と、最も気になっていた疑問を告げる。
「あんたは何で俺を助けて、こんなシンセツにいろいろ教えてくれるわけだ?」
皮肉混じりな質問を聞いて、彼女は一瞬きょとんとした顔をした。しばらく放心したように沈黙していたが、やがて、ポン……と両の手を打ち鳴らした。
「私、まだ言ってなかったっけ。私はね、愛情の《残骸》なのよ」
「あぁ?」
彼女の言葉に思わず顔をしかめた。
――なに気持ち悪いこと言ってんだ、こいつ。
「私を生み出したジュリー・ラヴァルは、子供を愛して、夫を愛して、世界すべてを愛してた。何もかもを愛してたの。もちろん自分のこともね。そんな女性だった。何もかもが好きで、愛情にあふれすぎて――そうしていつしか自分の中に持ちきれなくなって、彼女の心は壊れかかってしまった。持ちきれなくなって、たくさんあふれ出て、形作られたのが私なの」
彼女は嬉しそうに嬉しそうに、それが最も尊く誇り高いことだと言わんばかりの表情で、語り続けた。
「だから私も、世の中のすべてが愛しいの。どんな殺伐とした街でも、どんな酷い人生を歩んできた悪人でも、愛しく思えるのよ」
次の彼女の台詞が予想できて、悪寒が走った。
予想通りの台詞を、彼女はゆっくりと、穏やかに、やさしくやさしく告げた。
「もちろん、あなたのことも」
思わず小さく舌打ちしていた。
女はその舌打ちに気づくことなく、幸せそうに言葉を連ねる。
「愛しいものが目の前で殺されかかってて、助けるのは当然でしょ? 役に立ちたいって思うのは当然でしょ? 私は当然のことをしただけよ」
「気持ち悪ぃ」
「は?」
「見返りもなしに親切にされんのは気持ち悪ぃ、つってんの」
彼女はぽかんと口を開き間抜け面を晒した。
「なんか見返りが欲しいと思わないのか? ああ、思わなくていい。思わなくていいから何か借りを返させろ」
「え? でも私はあなたの役に立てて嬉しいんだし、それが私にとって何よりの報酬よ?」
「俺が気持ち悪ぃっつってんだ! 後になって恩を盾になにかオネガイされるのなんてごめんだからな」
「しないわよ」
「へっ。どうだか」
本当に嫌ならたとえ恩を盾にして何かを頼まれたとしても、徹底的に無視してやればいいのだが……。実際それをされたら断れる自信がないことに気づいて、意外と小心者の自分に落胆する。
カイ・ヴェルバーにとって、愛情というものは女を利用するための手段でしかなった。女に偽りの愛を囁き口説き落とし、いいように操るなり欲望のはけ口にするなりする。それ以外の何物でもなかった。囁けば女が喜ぶ。それだけの言葉だった。カイ・ヴェルバーに対して『愛してる』と言った女は、適当な期間つきあうと、皆離れていっていた。美しく一途な愛というものはフィクションの中でしか見たことがなく、実在しているところを見たことがなかった。
愛とは相手を利用するための手段で、カイ・ヴェルバーには何も意味を成さないものだった。彼の中には存在しないものであり、必要のないものであり、ほんの少しも興味を覚えない意味のないものだった。
だから赤髪にとっても、愛情というものは幻でくだらないものだった。愛情などというものを信じ、馴れ合っている人間たちはとても愚かだと思っている。
「あー…………と……」
女はなかなか二の句が継げないのか、しばらく目を泳がせた。
「えーっと。ところで、私は“愛情”から生まれたわけだけど、あなたはどんな感情から生まれたの?」
「ん? ああ……」
なんと言えばいいのかしばし思案し、
「壊してぇ壊してぇ壊してぇ壊してぇ壊してぇ! ……ってのが、俺を生み出した人間の記憶の最後にあるやつだ」
「何かを壊したい衝動……ってわけ?」
「まぁ、そうなんだろうな」
その答えになぜだか彼女は口を手で押さえ「ぶっ!」っと噴き出した。そして「あははははは!」と大笑いする。
何か変なことを言っただろうか。それともこの女、気がおかしくなったのだろうか、と眺めていると、何とか笑いをこらえてまだ息の弾んでいる彼女が言った。
「ご、ごめんなさい。『ああ、だからそんなとんがった性格してるんだぁ』って思ったら、なんか、ね……」
と、また声を殺して笑い出した。
「とんがってて悪かったな」
「あ、いやいや、ホントごめんなさい。そうね。なんとなくあなたが私を受け入れてくれない理由がわかった気がするわ。……じゃあね、こういうのはどう?」
そう言って彼女は提案した。
彼女には寿命を吸収できるような相性の合う人間が少ない。本当に強い愛情の持ち主しか吸収できないから、というのがその原因らしい。今付けている《心寿》は他の《残骸》から話し合いで譲り受けたものだが、寿命などというものをそうそう誰かに譲ってもらえるものではない。その結果、人間から吸収できる寿命もなく、譲ってもらえる寿命もなく、何度か死にかけたことがあるという。
「だから、“破壊衝動”が蔓延するこの街でなら、あなたは新しい寿命をすぐに手に出来る。それを私に譲ってくれないかしら」
そう言って彼女は、お伺いを立てるように首を傾げて微笑んだ。
なるほど。彼女はこういう風な取引が得意で、あんなにもたくさんの《心寿》を獲得しているのだろう。確かにこの話、こちらは命を助けられたのだから、案外妥当な提案かもしれないと承諾しかけた。が、彼女はさらに付け加える。
「でもね、私的には“あなたを助けられた”って嬉しさをもらったから、この取引は平等に感じられない。だから私は勝手にあなたのボディガードになることにするわ」
――なにたくらんでんだ、この女……。
利益がマイナスになるような話に笑みを浮かべる女の真意を探ろうと、目を細めて女を見つめたが、女の表情からは喜びしか感じ取れなかった。
この女の言葉には本当に裏などなく、言葉どおりの意味しかないのかもしれない。愚直なまでに愛情というものを信じている。
気持ち悪いと思った。心の底から気持ち悪いと思った。
しかし今の自分には使える能力がない。つまり《残骸》の社会において、自分は最弱の部類に入っているといっても過言ではない。《残骸》の誰かに襲われれば、今度こそ自分は自分の身を守れないだろう。たとえ気に喰わなくても、例え彼女が何か企んでいようとも、利用できる相手は理由がどうであろうと利用すればいい。
そう結論付け、赤髪は笑みを形作り、彼女に承諾の旨を告げた。
心の中には、彼女への好意など、欠片もなかった。
* * * *
そうして赤髪は、多少納得いかないながらもそんな経緯で、女――ジュリー・ラヴァルと行動を共にすることが多くなった。
彼女には、人間の寿命を吸収する練習をさせられた。
最初は破壊衝動を目で探すところから始まった。喧嘩や器物破壊など、とにかく何かを壊そうとしている人間を目で見つけ、その人物の頭に手を置く。適合者であるか否かを見極めることができないので、しらみ潰しにそれを行った。あの緑髪の少年を吸収したときは本能的にやってのけることができた行為だったが、なかなかうまく寿命を吸収できるようにはなれない。女は、初心者ならばなかなか吸収できないのが普通だと言ったが、やたらと焦燥がつのった。
《心寿》を一つもモノに出来ないまま数ヶ月が経った。予想通り、力を持たない赤髪の寿命を奪うため、他の《残骸》が襲ってくる。その襲ってきた《残骸》に対し、ジュリー・ラヴァルは殺すことはせず、自分の《力》を駆使して追い払っていた。彼女の持つ《力》が、他人の精神をコントロールするためのものばかりで殺傷力がないということもあるが、彼女はやはり襲ってきた《残骸》をも愛しているので殺せないという。
人間の寿命を吸い取るという行為を何度も失敗しているうちに、破壊衝動を気配として感じ取れるようになってきていた。数キロ先で破壊衝動に身を焦がす人間の気配を感じ取れるようになり、そこまで赴き、吸収を試みる。それを繰り返した。
四ヶ月ほど経って、ようやく一つ目を吸収することが出来た。「おめでとう! 私への報酬は今はいいから、それはあなたの《力》としてあなたが持っててね」と彼女は言った。それでもやはり自分は弱者の範囲内で、またしても他の《残骸》に強襲され、彼女の手を煩わせることになってしまった。
一つ目を吸収してから三ヵ月後、二つ目を吸収して自分の物とし、そのまた三ヵ月後には三つ目を吸収し、それを彼女に渡した。
彼女はそれをとても嬉しそうに愛しそうに受け取った。下手をすると五年六年と見つからない場合もあるらしいが、赤髪は普通よりもかなり短い間隔で《心寿》を獲得できてるらしかった。
苛立ったので何かに八つ当たりしたい人間。刃物が好きで試し斬りを趣味にしており、その破壊の美に酔いしれる人間。世界を疎んじて、世界なんて爆発して粉々になってしまえと願い、ただただ爆弾を作り続ける人間。親しい者が殺され、復讐を願う人間……。
アタリハズレはあったが、自分と人間の感情の相性はとても広いらしい。この街全体が苛立ちに満ち、破壊衝動に溢れていることも利点だった。
人間の寿命を吸収し、自分の物にしたり、彼女に差し出したりが数度続いた。
彼女が嬉しそうに《心寿》を受け取るのを見て、一つの疑問が浮かんだので訊いてみた。
お前はすべてを愛しているなら、人間のことは愛していないのか。《残骸》のことを殺すのは躊躇うのに、人間から寿命を奪って死なせてしまうのはかまわないのか、と。
すると彼女は恍惚とした表情で、
「もちろん、人間のことも愛しいわ。……最初はね、人間を殺すことはとてもとても辛かったし躊躇ったの。でもね、とても我侭なことなのだけど、私は私のことを一番愛してるし、とてもとても愛しいこの世界をいつまでもいつまでも眺めていたいと思ったの。だから、死ぬわけにいかない……って。悲しいけれどね、生きることがやめられないの。……そんな私だから、こんな風に、“寿命”をわけてくれるあなたには、とても感謝してるわ」
と答えられた。
「やっぱ、おまえ、愛情っていう熱でノーミソ溶けてんじゃね?」
そう返すと、
「でも、とてもとても幸せに生きられるわよ?」
と返された。
果たして愛情とはそんなものなのだろうか。誰も彼もに平等な愛情を持つのなら、結局は誰も彼もが彼女にとっての“普通”でしかないのではないか……。果たして愛の存在を信じている者はいったい何を基準にそれを愛情だと考えるのか……。
“愛情”というものに拒否反応を覚える自分が、うっかりそんなことを考えてしまい、反吐が出そうになったこともあった。それほどに、彼女と共に過ごした日々は、調子を狂わされる日々だった。
そんな日々を過ごしていると、当然彼女と離れてしまいたいと思えてくる。自分はもうすでにいくつもの寿命を吸収し、力も付けた。これだけ《力》を持っていれば襲われることもないだろうし、たとえ襲われたとしても返り討ちにする自信がある。
彼女は見た目だけならいい女なのだが、まさに見た目だけ。すでに結構な長い時間、行動を共にしたにもかかわらず、彼女の性格には慣れることがなかった。力をつけてきた今は、もう彼女と行動を共にする意味もなくなってきた――と考え始めていたそんな矢先の日だった。
たくさんの破壊衝動を感じた場所に足を向けた。その頃にはもう、いろいろな要領は分かっていたので単独での行動だった。
そこには一人の女が拘束されており、もうひとりの少女が複数の男にリンチされていた。なぜそんな状況になっているのかは知らないし、興味も無かった。
興味は、現在進行形でリンチ――破壊行為を行っている男たちから感じられる破壊衝動にしかなった。だが、よくよくその場に漂っている破壊衝動の気配を感じ取ってみると、別のところからも破壊衝動を感じられることに気がついた。男たちを止めようと静止の言葉を叫び続けている、拘束された女からだった。
おそらくは少女の母親なのだろう。母親が叫ぶ言葉は静止の言葉というよりは、すでに男たちに対する呪いの言葉に近かった。娘を救いたい一心で紡がれる、男たちへの、死ね、という言葉。それが彼女の持つ破壊衝動だった。
だが、その時点で誰も気づいていなかった。暴行にいそしむ男たちの輪の中心で、うずくまっている少女の命が、すでに無くなっていることに。
母親がいる位置からは、男たちが壁になって少女の姿は見えなかった。
そのとき、なぜだか、どうしても。赤髪は、娘の姿を母親に見せたくないと思った。命も、人間としての尊厳もなくしてしまった少女の姿を。
だから、母親の頭に手を置いた。そして――欲しい。と、願った。
自分の中に、鼓動と、あたたかいものが流れてくる。
直後、猛り狂っていた母親の目が、穏やかに閉じられた。
男の一人が異変に気づいて頓狂な声を出した。このガキ死んでるぜ、と。同時に、母親の叫び声が止まったことに気づいた男が母親に近づき、こっちも死んでるぜ、と驚いた。
こんなにも破壊衝動が渦巻いているここで、自分の“発作”である破壊衝動に喰い潰される、などということはないはずだった。なのになぜかこのとき、自分の中は――コワシタイ――に、支配されていた。
衝動のままに口から咆哮をほとばしらせ、男の顔面目掛けて拳を振るった。すり抜けるはずだと思った拳は、男の顔面に衝撃を与え、呻かせた。
他の男たちが、場にそぐわない間の抜けた驚愕の声をあげる。まったく状況を理解できていないのだろう。「なに一人で吹っ飛んでんだよ」と笑う者もいる。彼らが理解できないのは当然だ。男の顔を吹っ飛ばした張本人である自分が一番驚いているのだから。
なぜだか今、触れられる。人間の寿命を吸収するという目的以外でさわれている。初めてのことだった。なぜだという疑問が浮き上がってきた。が、それは一瞬だった。
――んなこたぁ、どうでもいい……。
もう一度、拳を握った。
――壊してぇ……。
そして数分後には、その場にいた男たちすべてが壊されていた。
赤で斑模様になった部屋で、思った。
「なに……やってんだ俺は……」
思うと同時に呟いていた。
「なにやってんだ俺はぁ――!」
自分を先ほどまで突き動かしていたコワシタイという衝動が、自分が最も唾棄すべき感情から来るものであることに気がつき、吼えた。
首に、吸収した母親の寿命が具現化した。やさしげであたたかそうな、ピンク色の石がついたペンダントだった。
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