▼ 接触する 〈破壊衝動の塊である存在〉
海を渡った先の国につき、数ヶ月が経っていた。のどかな村もあれば殺伐とした街もある。なるべく破壊衝動が多そうな町を探し、そこを拠点にしようとさまよっていた。
ある街を横切った時、適合者が破壊衝動をもっている、その気配を感じた。そこに向かう。ビル街から少し離れた、閑静な住宅街の家々の屋根の上を跳んでいった。
一般家庭らしい茶色い屋根の一戸建ての家だった。壁をすり抜け、破壊衝動の気配がある二階の部屋に入った。
水色の壁紙で、青いカーテンが閉められた部屋だった。おかげでまだ昼だというのに薄暗い印象を受ける。
床には本やぬいぐるみが乱雑に散らばっている。それらの本来の置き場所であっただろう棚は、ほとんど何も片付けられていない。他にも服やゴミが混じりあっており、部屋は無法地帯だった。
部屋の光景を一目見て、この部屋の住人は女なのだろうが、ロクな女じゃないだろうと思った。部屋を見渡した。すると、シワだらけになってしまっているシーツの敷かれたベッドの上で、少女が手首にカミソリをあてていた。
「…………っ?」
自殺現場に遭遇するのは初めてだったので、赤髪は思わず驚いて呆然としてしまう。
呆然と突っ立ったままでいると、不意に彼女は手首を凝視していた視線を上げた。
「もしかして……死神なのかな?」
女にしては低いハスキーな声で、彼女は淡々と言葉をつむいだ。
どこを見ているのか分からない虚ろな視線だった。一応こちらの方を向いているようにも見える。人間である彼女がこちらの姿を見れるわけはない。赤髪は後ろを振り向いてみたが、そこには物が散乱しているだけだった。もしかすると彼女は、死の直前の狂気で何か幻を見ているのだろうか、と赤髪は考えた。
「てっきり死神ってのは、黒いフードつきのやつを着た骨でさ。大きい鎌を持ってるものかと思ってたけど……違うんだな。真っ赤な髪の毛だ。服は黒いけど、フードもついてないし」
彼女の視線はこちらを捉えたまま動かない。見えているはずがないと思いつつも、彼女の視線はこちらを捉えているようにしか見えなかった。初めて斧手と対面して凝視されたときも同じようなことを思ったが、当時の自分と今の自分は違う。人間と《想いの残骸》の区別くらいはつく。彼女は間違いなく人間で、こちらのことが見えるはずがないのだ。
だがそんな思考を裏切り、彼女は赤髪に話しかけるような言葉を口にする。視線を手首に戻し、カミソリに力を込める。
「ボクを迎えに来たの? ちょっと待ってて。今死ぬからさ」
「ちょ……ちょっと待てよ!」
こちらの声が聞こえたのか、彼女はきょとんとした顔を上げた。
「あんたに死なれちゃ、困る」
こちらの容姿を的確に言い当て、声に反応した。どうやら、彼女がこちらの姿を捉えており、声まで聞こえているのは間違いがないらしい。さわれないはずの人間を殴ったことがあるくらいなのだから、人間の目に触れられるのも、そうおかしなことではないのかもしれない。
もしかするとここはジュリー・ラヴァルが言っていた《結界》とやらの範囲内なのかもしれない。《残骸》がつくりだした、《残骸》が物に触れたり人間に姿を見せたりできる空間。
その結界のことは、他の《残骸》にも知っている者がいた。彼らはその結界を《陽を取り込む場所》と呼んでいた。
今、自分はこの女に触れたいとも姿を見せたいとも願っていない。ならばその《陽を取り込む場所》という結界の中にいると考えた方が納得いく。
結界内に入るのは初めてのことだったが、わかってしまえば戸惑うことはない。そう頭を整理して、赤髪は冷静さを取り戻した。
そうして先ほど自らが口にした言葉を思い出し、自分自身を嫌悪した。『あんたに死なれちゃ困る』――もちろん先に死なれてしまっては寿命を吸収できなくなるからだが、なんだか自分の台詞が、自殺を止める善人のようで気味が悪くなったのだ。
そんな赤髪の“イイヒト”っぽい台詞に、彼女は頬を膨らませて抗議の声を上げだした。
「なんでだよー。死神なら死んだ人の魂を連れて行くんだろ? ならまず死ななきゃならんだろ。……あ、じゃあやっぱり死神って、死ぬ前の人間の魂を、でかい鎌でぶった斬るんだな? あれだ! まばゆい光と共に鎌を召喚するんだ!」
抗議の声は、何が嬉しいのか徐々に喜色が混じっていった。手首にカミソリをあてがったままで。
「あー……確かに魂を取りに来たってのは当たってるけど……死神じゃないし……あー……えー……っと」
整理したばかりの頭の中がまた混乱してくる。本来の目的も忘れて、なんと返してやれば良いのだろうかと考える。
混乱する赤髪をよそに、彼女は首を傾げて言葉の続きを待っている。
髪の毛をかき回し、腕組みをし、腕組みを解いて腰に手を当て……なんでこいつにマジメに答えようとしてんだ俺……と疑問を抱いてまた腕組みをする。
自分の言葉を待つ彼女に対して、かなりの間考え込んでいたことに赤髪は気づいた。沈黙したまま妙な空気になっていたので、払拭するために口を開く。
「とりあえずお前、もうちょっと驚けよ。得体の知れない生物を目の前にしてんだぜ?」
俺ばっかりがビビって慌てて混乱してんのが馬鹿みたいじゃねーか、という考えを表情に出さずに問う。
すると彼女はへらりと笑った。理性や自尊心や自制心といった、人間に必要なモノをどこかに置き忘れてきてしまったような、弛緩した笑みだった。
「あはは。うん。なんかさ、自分でビックリしてないことがビックリするくらいにビックリしてないんだよ。なんて言うかねぇ……そう。夢の中にいるみたい。本当の世界はボクなんかが存在してちゃいけない世界で、でも、今ボクは存在してるから、きっと今のこの世界は夢なんだよね。うん。だからさ、夢から覚めようと思うんだ。夢から覚めて、本当の世界へ行くの。ボクの行くべき本当の世界は無の世界なんだよ。……いや、無の世界なんだから、なんにも存在してない世界なわけで、行ったらボクは存在してない存在になるわけで、“行く”って表現はおかしいのかもしれないけど……って、なんか自分で言っててよくわかんなくなってきた……。ともかくさ、君が連れてってくれるヒトなら、早いトコ連れてってくれたら、ありがたいんだけど」
赤髪は彼女の手首を見る。やはりカミソリをあてがったままだった。
「そうだよ、あんた。なんでカミソリ持ってそんなことしてんだよ」
別に興味は無かったが、とりあえず話をつなぐために訊いた。
「話したら連れてってくれるの?」
最初の虚ろさはどこに行ったのか、期待を込められた瞳でこちらをまっすぐ見つめてくる。その彼女の容姿を観察した。
男っぽいしゃべり方とは裏腹に、女らしい、長い黒髪が、小首を傾げると同時にさらりと揺れた。
外で走り回るのが趣味だと言わんばかりの、日焼けした肌をしている。しかし肌は荒れていて、目の下にはクマができていて、とても健康そうだとは言えない。まだ大人の入り口に立ったばかりの歳だろう。どちらかといえば美人の部類に入るかもしれないが、色気が出るのはまだまだ先だな……というのが赤髪の印象だった。
何気なく口をついて出た質問に、少女は答えるつもりであるらしかった。なんとなくした質問だったので、わざわざ話を聞いてやる必要もなければ、ガキの自殺の動機だとか悲惨人生がどーのなどは興味がなかったが……なんとなく、彼女を無視して次の行動に移すことが躊躇われた。
「かもな」
自分でいい加減な返事だと思いつつ、彼女の質問にそう返した。彼女はホッとしたように肩から力を抜いて話し出した。
「ありきたりだけどさ、いじめってやつ。ボクってさ……うん。なんか人に溶け込むのが下手みたいで。鬱陶しがられちゃうんだよね」
彼女は苦笑して、どういう心境の変化なのだろうか、カミソリをベッドの上に置いた。
「実に愚かなことに、正義を貫くことは何よりも誉れることだと思ってたんだよ。いや、別に褒められたいだとかそんなんじゃなかったんだけど、シーちゃんを虐めてるヤツがいたから止めたんだよ。そしたらシーちゃんは感謝してくれて『ありがとう』って。……そういうことが何回かあったんだ。そしたら段々ね、あいつらはシーちゃんじゃなくてボクを直接攻撃してくるようになったんだ。『ああ、これでシーちゃんから悪いやつを引き剥がすことが出来た』って思ったよ。自分が囮になってれば、シーちゃんのところへ害は及ばない。それで、囮になってる間に、虐めは悪いことだって気づかせて後悔させてやるんだ、って思ってた。自分なりに喧嘩も強いと思ってたし自信もあって、そんな使命感に燃えてたよ。……でもね。やっぱりさ。男の子はいいよね。ボクはこんなでも女だからどうしても腕力じゃあいつらに勝てなくて……」
彼女はなぜか満面の笑顔で語る。
笑顔なのに震えている。
「ああ、愚かだねぇ。愚かだよ。それでもいつかはあいつらでも変わってくれる、って思ってたんだよ。でもさ、やっぱり精神力ってのにも底があるんだろうね。ちょっとずつちょっとず疲れちゃって。体も心もぼろぼろで、そしたらこっちにもスキが出来てきて、今度はボクとシーちゃん、同時に標的になっちゃって。ああ、シーちゃんがまた虐められるのはボクのせいなんだな、って思って。だからシーちゃんとは友達をやめて、無視して。あいつらを更生させようなんて考えも捨てて。全部無視して。そうしたらシーちゃんへの虐めは止まったけど、ボクへの暴力は止まらなかった。いやー本当に無力を実感だよね。うん。でさ、弱者をいたぶるのが好きなんだろうねあいつらは。仕返しとばかりに歯止めなんかなくてさ。で、さらにボロボロになったボクは精神の余裕が全くなくなって、周りに全く気を配れなくなった。成績は落ちるし、家族にはあたっちゃう。特に妹には、ね。妹はまだ幼いから無邪気で。無邪気だからそれが癇に障るようになってしまって……。酷いことをして……。そうしたら姉貴のはずのボクは何をやってるんだろう、って。とんでもなく愚かなことをしてしまった……って。そしたら怖くて部屋から出られなくなって…………。どうしても頑張れなくなっちゃって……。だめだ、こんなのボクじゃない、こんなボクは壊さなきゃって、消えてなくなっちゃわなきゃいけないって。そう思って。――だから死ぬことにしたんだ」
語る内容とはちぐはぐなハイテンションで、彼女は一気にまくし立てた。何かから何かを解放するように。話し終え、一つ息をつく。そうして彼女は何かを期待しているのか微笑んだ。
「さぁ、約束どおり話したよ。ボクを殺してくれるよね?」
約束したのではなく『かもな』と言っただけだと答える代わりに、思ったことを口にした。
「逃げないのかよ」
「え?」
「死ぬくらいなら、逃げればいいじゃん。どっかに」
「はい?」
「学校も、妹も、何にも関係のないどっかに……」
言うと、期待が込められていた表情が一変した。信用していた者に裏切られたように、悲しみと怒りに表情をゆがめる。
「逃げたくても……ボクに逃げる場所なんてどこにもないよ。ボクが嫌なのはボク自身なの。何の役にも立てないクセに、妹を深く傷つけたボク自身なんだ」
「心残りとかないのかよ」
「あるよ! あるけど……! でも、もうボクは前のボクには戻れない……もうボクは疲れたんだ……。もうなにもしたくない……」
彼女は傍らに置いていたカミソリを、今度は手首ではなくノドに向けた。殺してくれないなら自分で死ぬ、ということなのだろう。
他人の役に立つことが、彼女のアイデンティティなのだろう。赤髪は、よくそんなメンドくさいことをアイデンティティに出来るな、と思いつつ、なぜか彼女に共感していた。
――こいつも生きるのが虚しいんだな……。
「じゃあ……。その心残りってのが何なのか、言ってみろよ」
「え?」
「俺に可能なことなら、叶えてやってもいいぜ」
驚きで呆けてしまった彼女の、カミソリを持っている手に自分の手を伸ばした。触れようとしてみる。触れた。触れることができた。
「なんで?」
「ん?」
「なんで叶えてくれるの?」
「死神は……魂を狩りとる前に、その人間の願いをひとつ叶えてやらなきゃいけないんだよ」
「うそつき。君はさっき自分で死神じゃないって言ったじゃない」
彼女は罵りの言葉を吐きながら、嬉しそうに小さく笑った。赤髪が触れた、カミソリを持った手を、少しずつ下ろしていく。
なんで叶えてやるんだろう。赤髪は考えた。この女に同情しているとは思えない。いじめなどという不幸はどこにでも転がっていることだし、そもそも人間が不幸になろうと幸せになろうと知ったことではない。ならば初めて人間と話した記念にだろうか。ノリ? 強いて言えば……生きることに虚しさを感じていることへの共感か……。
彼女はベッドに座ったまま上半身を倒し、ポスッ……と枕の上に頭を埋もれさせた。
「じゃあ。言ってみるだけ言ってみるよ。ボクの心残りはね、まぁいっぱいあるけど、やっぱり最初に思いついたのは、とにかく恋愛ってものを体験したことがないってことなんだ。でもほら、ボク人間不信絶頂期だからね。恋愛したいけど恋愛したくないんだよ。矛盾してるよねえ。矛盾してるよ。叶えられないでしょ、こんなこと」
「叶えられないってことないだろ。俺、人間じゃねぇし」
答えると、
「え、あ、ん? んあ!」
奇声を上げながら飛び起きて目を丸くする。
「あ、あ! ホントだ。今、ボク、普通に話せてるよね。最近、父さんや母さんや妹にも、まともにしゃべれてなかったのに。……盲点だね。そっか。そうだね。……てことは……あれ? もしかして君はボクと恋愛してくれるつもりなの?」
「嫌なら別に。どっちでもいいけど」
「いや……嫌じゃないけど……嫌じゃないけど。でもボク、この部屋からやっぱり出られないと思うし、色気もないし、つまんないかもしれないよ?」
「別に。俺、今すでに生きててつまんないから、これ以上はつまんなくならないだろ」
彼女は目を丸くしたまま体を硬直させ、顔を高揚させて言った。
「あのね……あの。ボク、高科実来。死んでさ、未来を断ち切ろうとしてるってのに笑える名前だけどさ……君の名前、教えてくれないかな」
「ああ……名前なんてないし……別に名前なんて呼んでもらわなくても結構だ」
「ぬ。ないのか、名前が。……まぁ、死神じゃない君が何者かはわかんないけど、君の世界ではもしかしたら名前をつける習慣がないのかな? うーん。でも不便だし。うん。ボクが適当につけてあげよう。今日から君はクク・ルーク君だ」
「なんだそれ」
問うと、彼女は嬉しそうに、楽しそうに微笑んだ。
「なんだそれも何も、意味なんてないよ。ボクの好きなゲームキャラを適当にモジっただけ。イヤかな? クク・ルーク君」
「ははっ!」
なぜだか声を出して笑ってしまった。妙に愉快な気分になった。
「好きにすればいいさ。にしても、軽くつけてくれるな」
ジュリー・ラヴァルが『何かあなたが納得してくれる素敵な名前はないかしら』と、うんうん唸りながら考えていたのを思い出す。そんな、“愛情”の末に出来た名前など、受け取る気にはなれず、すべて却下していた。
「じゃあ、好きにするとするよ」
奇妙な安堵感が胸中に広がる。
自分に名前がついたことに喜んでいる自分がいて、その喜びを否定しなかった。
「うん。まあね。本当にボクのことを本気で好きになってくれ、なんて言わないからさ。とりあえず、ボクの気がすむまで、ボクの恋愛ごっこにつきあってくれるかな。クク君」
彼女が握手を求めて手を差し伸べてきた。
《残骸》が、なぜ人間に姿を見せられるように結界を張るのか。
適合者を見つけても、適合者が自分に合う感情を持っていない時は、寿命を吸収することはできない。適合者が自分に合う感情を持つまで待っていられない者もいる。むしろそういう場合がほとんどだ。そんなとき、自身が姿を見せて、話をしたり、さまざまな接触を試みて、自分の合う感情を持つように《誘導》する。それが結界を張ることの目的だ。
だが、彼女はすでに自殺願望という継続する破壊衝動を持っているので《誘導》する必要はない。いつでも喰える。それに、結界の効果をどう使おうと、各々の勝手であり、制約などはない。遊んでみるのもいいだろう。
愛情は嫌いだが、女のことは嫌いではない。相手に色気が少ないのが少々難アリだが、気持ちの必要のない付き合いならありがたく受け取ることが出来る。むしろ色気のないほうがのめりこんで堕落する可能性が低いから、好都合なのかもしれない。
「俺でよければ喜んで」
そう言って、クク・ルークの名を与えられた赤い髪を持つ《想いの残骸》は、心の底からの喜びで微笑んで、少女の手を握り返した。
虚しく生き続けなければいけない生の時間を、共感できる女といっしょに“ごっこ”で潰すのも悪くない。そう思いながら。
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