Monologue 9


 雪比奈奏多は生き残った。実に三五二名の死者を出したハイジャック事件の唯一の生き残り。奏多とあまり年の変わらない子供も死んだ。だが、奏多だけが生き残った。メディアはその事を報道しようとしたが、病院側が一切の取材を拒否した。むしろ『その事が原因であの子が精神的に病んだり、自殺を図ろうとしたらアナタ方を訴えますからね』と釘を刺したのだ。

 奏多は絶望の中に、いや、絶望を超えた地獄の中に居る。

 奏多は心に大きな傷を負ってしまった。どうしようもないくらい、深い傷を。うつろな目で空を眺めながらしきりに左目や右腕、腹部に触れている。音楽団のみんなから貰った命を感じているのかもしれない。

 一年ほど奏多は病院に預けられた。カウンセリングによる心のケアを受けていたのだ。奏多は誰に対しても関心を示さなかったが、奏多の事を執刀した進藤夕実にだけは反応を示していた。だが、急に夕実にまで反応を示さなくなったのだ。誰に対しても、奏多は心を閉ざしてしまった。

 食事を与えても全く口にしないため、奏多は見る見るうちに痩せ細っていく。栄養失調で倒れてしまうと判断した病院側は栄養点滴を打とう思って近づいた。奏多は暴れ、その右腕で医師を殴りつけた。そしてメスを手に取り、自分の喉に突き刺そうとした。


――ダメだよ、奏多君っ。


 夕実の声で奏多は手を止めた。恐らく、他の医師だったら突き刺していたかもしれない。夕実だったからこそ、手を止めたのだ。


――ダメだよ奏多君、そんなことしちゃ!

――僕はみんなのところに行く! みんなの居ないこんな世界なんて、居ても何の意味もない!

――そんなことしたら、天国に居るみんなが悲しむよ!


 夕実の言葉に、奏多は手を止めた。


――奏多君、君は誰に助けられたの? 私? 外科の先生? 病院? 違うわ、君を助けたのは他でもない彼らなのよ!


 奏多はキッと夕実を睨みつけた。


――僕だけ助かっても仕方ないじゃないか! なんでみんな助けてくれなかったの!?

――助けたわ! 難しい手術をして、外科の先生方も何人も動いて助けたわ! でもね……アナタは、無理だった。


 夕実は胸に手を当てた。


――目も腕も片方ない、それくらいなら義眼や義手でどうにかなったかもしれない。でも……内臓はそうはいかない。大きな企業が作ったとても安価で性能の良い人工臓器があるわ。でもね、それには大きなデメリットがあるの。精密な機械だから月々のメンテナンスは欠かせない。その度にお腹を開けなくちゃならない。君は火傷もひどいから、そんな事を何回もしていたら確実にダメになっちゃう。合併症を引き起こして、今よりも重くなっちゃうわ……。……お父様方には、諦めるように言ったわ。絶望的だったんだもの。

――でも僕は生きてる!

――そうね、その通りだわ。あんな絶望的な……瀕死の状態だったのに、今では暴れるくらい元気になってくれた。君が生きていられるのは……彼らのおかげ。


 奏多は頭に血が上った。みんなを見捨てた医師たちを許す事が出来なかった。


――だから、私たちは止めたの。

――意味が分からないよ! みんなはどうなっちゃったの?

――……亡くなったわ、君の為に。……あの人たち、もう一度手術をしたらもたないって何度も言ったのに、それでも彼らは聞かなかった。そのことを承知の上で手術に臨んだの。

――え?


 そんな事は初耳だ。


――みんなは口々に言ったわ。「この子の為なら死ぬなんてどうってことない」って……。私たちは何度も説得したわ。君には失礼だけど、君一人を犠牲にすることで多くの命が救えたことは事実……。衰弱していく君を見て、彼らはそれでも良いって……。


 奏多の両目に涙が溜まる。それは溢れ、床に大きな水たまりを作っていく。


――苦渋の決断の結果、私たちは君に賭けてみることにしたわ。そして、君は生きた。君の身体の中にあるのはみんなのモノなのよ? みんなが君を助けるために、命を差し出したと言っても良いわ。


 奏多の視界が霞んでいく。嗚咽をしながら、腕をだらりと下げた。カラン、とメスが床に落ちた。


――苦しいと思うわ。でも、受け入れないといけない。君の目が見えるのも、腕が使えるのも生命活動が行えるのも……。奏多君、君を生かすためのあの人たちの意志なの。君はそれさえも無駄にして死のうとしちゃうの?


 奏多は泣き、その場に崩れ落ちた。夕実は駆け寄り、奏多を抱き止める。アストラルとは違う、女性の抱擁。だけどそれは、とても温かいものだった。


――奏多君、君は生きないといけない。それはアナタの使命なの。彼らの想いを……夢を、潰そうとしないで? 大好きなあの人たちはもういない。だけど、君の中で、君の為に生きている。それを、忘れないで……。

――うぁあ、ああぁあぁああぁ……。

――奏多君あのね、君のお父さんから君を預かるように頼まれたの。一緒に住もう?

――あああ、あぁぁぁああぁぁあぁぁああああ……。

――泣いて良いのよ。アナタを悲しみから、苦しみから、痛みから守ってあげるわ。私はアナタの『本当の家族』にはなれない。でもね……想いがあれば、誰だって『家族』になれるのよ? 愛してあげるわ、雪比奈……奏多君。


 奏多はその日、心から泣いた。夕実はその孤独な少年をいつまでも抱きしめていた。

 その日以降、奏多は感情を出さなくなった。言葉も少なく、関心を示すことも、反応をすることも無くなった。周りとはもう、関わらないと決めたのだ。

 もうあんな思いはしたくない。

 傷だらけになって、痛くて、暗くて、冷たい。

 絶望を超えた地獄はもう見たくない。

 奏多はもう、誰にも心を開かない。

 親しくなれば別れが辛くなる。そのことを奏多は、文字通り骨身に沁みている。

 もう傷つきたくない。誰も自分に近づいてこないでほしい。そのために、奏多は感情を潰した。まだ鉄面皮とまでは言えないが、大体表に出す事はなくなった。

 奏多の独唱歌アリアはこの時から始まった。

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