第六音節

     1



 目蓋を開くと、見慣れない天井だったた。そして、嗅ぎ慣れないにおいが奏多の鼻腔を抜ける。

「……」

 奏多はゆっくりと起き上がる。目の前には白いカーテンが引かれていた。

 ここは一体どこなのだろうか。

 奏多がそんな事を考えていたら、カーテンが引かれる。

「! 奏多っ」

 カーテンを引いたのは亜夕深だった。奏多が起き上がっていることを見ると、声を上げて駆け寄って来た。

「目が覚めたのか!?」

「カナタっ」

「少年っ」

 村中、千景、琥珀の順に奏多に寄ってくる。

「おい、大丈夫なのか奏――」

「大丈夫なのか、カナタ。ボクが良い子良い子してあげるのだ」

「まだ気分が悪いとか、身体が痛いとかないか? 私が最高の医者に診せさせよう」

 村中の言葉を遮り、千景と琥珀が詰め寄ってくる。二人とも授業の途中だったのか、千景は筆を持っており、琥珀はバイオリンを持っていた。

「……奏多より、お前らのその過保護っぷりが大丈夫か?」

 村中は呆れながらそう言っていたが、「ぐはぁ~~~~~~~~っ」と息を吐くと隣のベッドに腰を下ろした。

「見つけた時は寿命が一○年縮まったぞ……。外で物音がしたと思ったら、青ざめた顔した奏多が倒れてたんだからよ……。マジで『こいつ死んでんじゃねぇの?』て思ったぐらい顔色悪かったんだよ。汗も尋常じゃねぇくらい掻いてて、あたしゃ悲鳴上げたぞ」

 どうやら、村中の目から見ても相当ヤバい状況だったらしい。

「奏多……良かった……」

 若干涙を浮かべていたのは亜夕深だった。余程心配していたのだろう。

「じゃあ、そう言うことで」

「くれぐれも口外しないように」

 そう言って入って来たのは侑里と昭人だった。

「外の野次馬はみんな返したぜ」

「この事を口外したら村中先生の折檻だと言っておいたので「おいこら、壬生」すいません、そう言っておいた方が安全なので」

 昭人はそう言って苦笑いを浮かべていた。

「ま、あたしもそう言うつもりだったから良かったか。にしても……なんで会計の万藤が事態の収拾に当たってんだよ、普通はお前ら副会長の業務だろうが」

 腕を組みながら言い、視線の先には千景と琥珀が居た。

「そんな事よりもカナタの方が大事なのだ」

「優先順位は間違えていないはずだが?」

 二人は真顔でそう言った。

「そ、そうか」

 村中もそれ以上は言えなかったようだ。

 少し離れたところには瑛莉がいて、ボードに何か書いていた。奏多と目が合うと、少しだけ驚いたような表情を浮かべていた。そしてゆっくりと立ち上がり、こちらに歩み寄って来た。

【アナタは何故、あんな変な場所で倒れていたんですか?】

 ずきり、と少し頭痛がしたので奏多は頭を押さえた。

「奏多、頭痛いの?」

「それだったらこれなのだ」

「チーさん、それは女子限定の日の薬だぜ?」

「少し慌て過ぎだな」

 そう言う琥珀も同じ箱を持っていた。

 一過性のモノなので、薬は要らない、と奏多は口を動かした。

「? なにしてんの?」

 亜夕深が怪訝な顔をする。亜夕深だけではない。その場に居た全員が怪訝な表情を浮かべていた。奏多はおかしいと思い、もう一度同じことを言った。

「口をパクパクさせてなにをしている、少年。はっ、もしや……私の胸――」

 琥珀が何を言っているが、それはどうでも良い。

 奏多は琥珀の対応で自分がどういう状況に居るかを思い知った。

(……?)

 奏多は自分の喉に手をやった。もう一度なにかをしゃべってみるが、やはりそうだ。喉が――声帯が、振動をしていない。

 それを見た亜夕深はすぐに思い至った。

「奏多、アンタもしかして……声、出ないの?」

 一同はその事実に愕然としていた。

「しょ、少年……? 少年も、失声症を……?」

「カナタ……」

「雪比奈も……失声症だったのか」

「……上だね」

「チッ、理事会のジジィ共……。隠してやがったな?」

 各々は別の反応を示していたが、瑛莉だけが何とも言えない表情を浮かべていた。

「……」

「…………………」

 奏多は何かを言ったが、誰にも分からない。亜夕深が紙とペンを持って来て、奏多に手渡した。

【気にするな】

 奏多はそう書いて、次の文章を書く。

【俺のは突発型なだけだ。いつまでもしゃべれないと言うワケじゃない。一日か二日休めば問題ない】

 琥珀と千景は「良かった」と安堵の溜め息を吐き、村中は「驚かすなよ」と呆れていた。侑里と昭人は「大変そうだな」と同情し、亜夕深は心配そうに奏多を見つめている。

 ただ、瑛莉はなぜか複雑そうな表情を浮かべていた。



     2



 奏多はその日、早退をした。とは言っても『特待生』にはそんな概念は存在しないので普通に帰っただけなのだが。

 家に着くと、いつものように夕実が出迎えてくれた。

「奏多君~おかえり~」

 にこやかな笑顔に出迎えられたが、奏多は紙に文字を書いていた。

【声出なくなった】

 それを見た夕実は目を丸くし、慌てて奏多に近づいた。

「どこか痛いところはない? どうしたの、大丈夫?」

 夕実はぺたぺたと奏多の身体を触って来るが、どこか少し遠慮がちだった。体に異常が無い事をざっくり確認した夕実は憂い気な表情をしていた。

「いつ以来かな……奏多君の声が出なくなるの」

「……」

 最近では二年くらい前だった気がする。

「……しばらくは、静かにしてないとね。最近は毎日学校に行くようになって嬉しかったけど……少し、心配はしてたんだよね。こう言う事があるんじゃないかって。……ゆっくり、休もうか」

 夕実は優しく微笑んでいた。実の子でもないのに、実の子のように心配をしてくれている夕実には感謝しかない。

 奏多は頷いた。

 夕実と一緒に玄関に入り、奏多は自分の部屋に向かった。殆ど閉め切った部屋で制服を脱いでハンガーにかけ、部屋着に着替える。そして、ベッドに腰をおろして倒れ込み、天井を見上げる。

「………………」

 奏多は何かを呟いた。だが、それは自分にさえも聞こえないものだ。

 奏多はまぶたを下ろし、眠りに就いた。



     3



 翌朝、奏多はまだ夜明けとは程遠い時間に目を覚ました。

 夕実に心配されながら夕食を食べ、夕実に心配されながら風呂に入り、夕実に心配されながら床に着いたのだが、奏多は夢で目を覚ました。あれから幾度となくあの悪夢。少し頭痛がしたので薬を飲もうと立ち上がり、奏多専用の薬箱のあるラックに近づく。薬箱から頭痛薬を取りだしたが、説明文を読んで固まった。


 ※食後にお飲み下さい。


 外から新聞を配達しているであろうバイクの音と、スズメの鳴く声くらいしか聞こえない。『食後にお飲み下さい』という注意書きをじっくり見たところで『今お飲みになっても大丈夫です』と変化はしない。

 奏多はため息をつき、廊下に出た、階段を下りてキッチンへと向かう。冷蔵庫に入っているであろう昨日の夕食の残り物か何かを腹にさっさと詰めて、薬を飲んでしまおうと思ったのだ。

 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。

「……」

 こんもり詰まっていた。

 進藤家は奏多を入れても四人家族だ。この中身を見る限りでは、優にその倍、あるいは三倍はあるかもしれない。

「……」

 エンゲル係数が高いのではないだろうか。

 夕実は割と食通なので、創作料理などをする時がある(そして味は完璧)。そのため、冷蔵庫がこんな事になっているのだろう。それはそうと、さっさとお腹に何かを入れておきたい。

 ごそごそと漁っていると、リビングの扉が開いた。

「……」

 奏多がそちらを振り向くと、そこにはバット(プラスチック製)を掲げながら震えている亜夕深が居た。

 恐らく、泥棒か何かだと勘違いしているのだろうけど、そんなオモチャじゃ人を気絶させることなど到底不可能だろう。良くて内出血だ。

「て、天誅―――――ッ」

 こともあろうに、亜夕深はバットを奏多に向かって思いっきり振り下ろしてきた。奏多は稀に見ない機敏な動きでそれを必死に避けた。

「ど、どど、泥ぼ――う?」

 今までは冷蔵庫による逆光で判断が付かなかったらしい亜夕深だが、近くに寄ることによって奏多だと判断出来たらしい。

「こんな時間に何してんのよアンタ!? 泥棒かと思ってビックリしたんだからね!?」

 勘違いをしていたことが恥ずかしいのか、亜夕深はそう言って頬を赤らめていた。奏多は持っていた薬の袋を差し出した。

「なに、頭痛薬? ……頭痛いの?」

 奏多は素直に頷いた。

「なんでしゃべ……あ、そっか……。……そう、頭痛くなっちゃったのか。で、何かお腹に入れないといけないから何か食べに降りに来たってこと?」

 冬眠に失敗して山から民家に降りて来たクマみたいなやつね。亜夕深はそう言って冷蔵庫の中を物色していた。

「しょうがないからアタシがなんか作ってあげ――奏多、なんで震えてるの? 風邪でも引いた?」

 奏多の体には明確な拒絶反応が出ていた。

 奏多はその昔、亜夕深の手料理を食べた事がある。

 それはもう壊滅的な不味さだった。

 なにを加えたらそんなケミカルな色合いになるのか、どんな手順を踏んだら生臭い匂いがするのか、なんで焦げてるのに水っぽいのか、なんで湯気が黄色なのか、なんで湯気だけで意識が半分持って行かれそうになるのか、そしてなんでそんな自信満々の笑みを浮かべられるのかが謎だった。

 亜夕深は『勉強組』では次席を誇る秀才だし、運動に関しても『運動組』の中でもやっていけるくらいの能力はあるし、芸術も人並以上にはできる。人望も厚く分け隔てなく誰とでも接することから、亜夕深を頼りにする生徒はかなり多い。真面目で堅物だと思われがちだが、冗談も通じるし気さくでもある。ファッションセンスもなかなかで、スタイルだって(胸以外は)それなりのハズだ。

 そんな絵に描いた様な美少女なのに、なぜこんなにも破滅的に家事――特に炊事ができない?

 もう見事に、炊事だけはからっきしなのだ。本人は『かなりうまくできた』と思っているのかもしれないが、周りの人たちは『それでテロを起こすつもりか』と言いたくなる。誰もそう言わないのは、亜夕深が一生懸命作っているし、ギャグやウケ狙いではなく、大マジでそう言う表情をしているからだ。

 そんな経緯から、亜夕深は『自分は料理が出来る』と思い込んでいるのだ。その壊滅的な炊事能力を知っている夕実は『亜夕深は~キッチンに入っちゃ~ダメだからね~?』と念を押されている。

 なのにこの女、キッチンに入って来ている。簡単なものだったら奏多でも作れるから、やめてほしいと言いたいのだが、あいにく、今は奏多は声が出ない。どうにかしてこの女の暴挙を止めなくてはならない。

「なによ、温めるだけだから大丈夫よ、そんな手間はかからないわ」

 だとすれば安心だ。レンジの使い方くらいは分かるはずだから、昨日の残り物をラップしてレンジに入れれば問題はな――


「茹で卵で良い?」


 なんか、色々と違う気がする。

「なによ、別に壊れはしないわよ。なんてったって、これは耐熱容器なんだから」

 だからどうしたと言いたい。耐熱だろうが耐衝であろうがなんだろうが関係ない。そんな自信満々のドヤ顔を見せられてもこちらは困った顔しかできない。

 奏多は将来、亜夕深を嫁に貰う男性を憐れんだ。

「この前の失敗は容器だったのよ。やっぱポリエチレンはダメね」

 しかも前回も同じように茹で卵をレンジでチンしようとして失敗したらしい。前回からなにも学習していない。それでも学年次席なのだろうか。

「さて、すぐに作ってあげるわ」

 奏多はもうため息しかできなかった。

「なによ、なんか不満でもあんの?」

 そんなものないに決まっている。

 こんな厄介な奏多を育ててくれているのだから、進藤家ひいては、同年代の亜夕深には感謝の念しか抱いていない。こんな格好の奏多を受け入れてくれている進藤家の懐深さには頭が上がらない。

「ほら、温めてあげるからソファーにでも座ってて」

 奏多は盛大にため息をついて、ソファーに腰を下ろした。



     4



「おかしぃな……」

 亜夕深の足元には見事に大破したレンジが転がっていた。相当派手な音がした所為で夕実が起きてしまった。もしかしたらお隣さんの人も起きてしまったかもしれない。誰かが勘違いして警察に電話しない事を祈る。

「亜夕深~キッチンに入っちゃ~ダメ~て~言ったよね~?」

 夕実は笑顔で残骸を片しているが、その笑顔の中には僅かな怒気が含まれていた。亜夕深はこれで五回レンジを破壊したことになる。夕実は段ボールから予備のレンジを取り出していた。予備を用意してある辺り、亜夕深の炊事能力の乏しさを物語っている。

「今度はイケると思ったのよ」

「でも~……ねぇ~?」

 夕実はチラリと奏多を見るが、何も言うことはできない。そして事の発端である頭痛はとうに治まっていた。

「奏多が頭痛いって言うから、ご飯作ってあげようとしただけなんだけど」

「奏多君~頭痛いの~?」

 首を横に振る奏多。

「痛くないって~」

「アンタさっきアタシに薬の袋見せて来たじゃないっ」

 そうは言われても、治まったモノはしょうがない。奏多は何か書くものを探して歩き回っていたが、机の上に紙と油性ペンがあったのでそれに書いた。

【もう痛くない】

「言うのが遅いっ」

 亜夕深が叫ぶように言った。

「……不便ね~」

 夕実は困ったように頬に手を当てていた。

「奏多が使えないのは今に始まった事じゃないけど?」

「そうじゃなくて~……。いざという時に不便よね~、声が出ないっていうの~。それと~近くに~書くものが無い~てことも~」

 奏多もその事はぼんやりと思っていた。そう考えると、瑛莉のあのホワイトボードは意外と良い道具なのかもしれない。ボードが無理でも、手帳くらいなら手ごろだろう。

「つか、アンタそれ!?」

 紙をマジマジと見ていた亜夕深がひったくるように奏多から紙を奪い取ると「ギャ―――ッ!?」と悲鳴を上げていた。

「アンタ、なんてことを……。なにこの『以上のことから仮説が立証できたため【もう痛くない】』って……。アタシは一体何を立証したのよ……」

 奏多は亜夕深に睨まれたが、書いてしまったモノはどうすることもできない。

「起きたついでに~朝ごはんの~支度でもしようかな~?」

 夕実はそう言って椅子にかけてあったエプロンを身につけた。亜夕深は「しょうがないか」と言って自室へと戻って行った。

 奏多はソファーに座ったまま、二度目の眠りに着いていた。

 長い瞬きをしている間に朝食が出来たらしい。奏多は亜夕深に起こされた。

「奏多、今日はどうするの?」

 今日は学校には行かないつもりだ。ストレスが溜まりそうな場所にはあまり行きたくない。その所為で声が出続けなることも過去の実体験から分かっている。声が出なくなったときは、大人しく家で過ごしているのが一番なのだ。

 亜夕深は携帯で何かを確認していた。

「奏多ー、千景と琥珀からメール来てるんだけどさー」


 ストレスの元 → 琥珀&千景


 奏多は軽く頭を抱えた。

「なに、アンタやっぱ頭痛いの?」

 頭が痛くなりそうなだけだ。

「別に良いけどさ……。あ、でさ、アンタ今日学校に――行かないか。そうよね、何が原因か解らないけど、学校で倒れたんだしね。それに、琥珀と千景があれだけ取り乱してたんだから……行ったらなんかキそうよね」

 亜夕深は奏多の対応で悟ったらしい。携帯を画面を見ながら亜夕深は言った。

「一応、村中先生にも連絡を入れておくから……って言うか、なんでアタシがここまでしなくちゃいけないのよ、自分でやりなさい。自分で電話しなさいよ」

 声が出ないのに、電話をしても意味はない。何を当たり前のことを言っているのだろう、と奏多は首を傾げている。そもそも、奏多は電話が好きではない。機械自体の操作が下手なので、あまり身近に機械を置きたがらない。テレビすらも見ない奏多は、いつも自室に籠って自分のやりたい事をやっている。

「そういや、アンタ携帯を持ってないんだっけ」

 思い出したかのように言う亜夕深。その瞬間、夕実がにぱーっと笑顔になった。

「それじゃあさ~奏多君~。今日は~おばさんと~携帯を買いに行こうか~」

「丁度良いじゃん」

 良くない。

 人が多い所など、余計にストレスが溜まりそうである。それに、夕実に迷惑がかかる。

 奏多はそう言う意味もあってあまり家から出ないようにしていたりする。だが、夕実は気にしていないようだった。

「どーせ家に居ても引き籠ってるだけなんでしょ? 相変わらずなにしてるか不明なんだけどさ。気分転換にはなるかもしれないよ?」

 奏多は別に、引き籠りたくて引き籠っているわけではない。やむを得ない事情と、自分のやるべき事があるからそれをやっているにすぎない。そう意見を言おうとしたのだが、傍に紙やペンは見当たらなかった。

「……奏多、携帯を持ってりゃすぐに意思疎通が出来るんだからさ……。それに、これを機に『外』を知った方がいいんじゃない?」

 亜夕深は諭すように、優しく語りかけて来る。

「そりゃ、アタシはアンタの全てを知らないけどさ……。いつまでもお母さんの庇護の下に居るわけにはいかないのよ? そろそろ『子ども』から卒業しないと……。それに、アンタは『外』を見た方が良いと、アタシは思ってる。アンタだって『社会不適合者』の烙印を押されたくないでしょ?」

 あまりの正論に、奏多は視線を逸らす。そんな事は随分前から分かっている。

「アタシは知ってるよ、奏多。アンタホントは誰かと話したいんでしょ? だったら、なおさら携帯とか持ってた方が良いよ。しゃべるのが嫌でも、あの一年みたいに文字を打ってそれを見せればいいんだから」

 ね? と言われ、奏多は渋々頷いた。

「やった~、今日は~おばさんが~奏多君を~独り占めだ~♪」

 何やらご機嫌な様子の夕実。

「お母さん、仕事は?」

「今日は~お休みなの~」

 と言う事は、夕実は丸一日奏多と過ごせると言うことだ。鼻歌を歌っている夕実とは対照的に、亜夕深は携帯の画面を見て苦笑いを浮かべていた。

「琥珀と千景からメールが来たんだけどさ……」

 亜夕深は奏多にその内容を見せて来た。琥珀と千景のメール内容は見事に一致していて、同じ文章が書かれていた。


『なにやら出し抜かれた気がする』


 貴様らは見えているのか。

 奏多は天井を眺めてそう思った。



     5



 食事を終え、亜夕深を見送り、店が開くころになって奏多は身支度を整えた。着る頻度が少なく、あまり外出しない奏多の激レア私服姿である。奏多はそのまま玄関で待機をしていた(過去に家の前で待っていたら不審者と間違えられ通報されたことがある)。

 眼帯、左手のグローブ、右腕の包帯は固定装備なので外すことはできない。白いシャツに白い水玉模様の赤ネクタイをまき、黒のチノパンというスタイルだった。異質に見えてしまうのは、やはりその固定装備と前髪のせいだろう。

「ごめんね~。お待たせ~」

 振り返ると、そこには夕実がいた。元からふわふわした雰囲気を持っているのに、さらにふわふわした感じがする。

 ふんわりウェーブの茶髪に、黒ブチの伊達メガネをかけ、ふわふわした白のワンピースに、淡いピンク色のカーディガンを羽織っている。服装や童顔のせいでかなり幼く見える。

「それじゃあ~、行こっか~」

 二人は並んで街へと繰り出した。

 奏多たちは奇異の眼差しにさらされながらも携帯ショップへと向かった。二人は契約の窓口に向かい、係員の説明を受けて種類に必要事項を記入していく。奏多は最後までどうしようか迷ってる項目があった。

 それは、氏名欄だった。

 奏多が迷っているのを察した夕実は小さな声で言った。

「普通で~良いからね~? ~」

「……」

 そうなのか、と奏多は思ってさらさらと自分の名前を記入した。

「はい、それでは御家族の名前もご記入ください」

「……」

 奏多の手が再び止まった。係の人が疑問符を浮かべている。そんな奏多から、夕実はペンを奪い取って自分の名前を書いた。

「え、ですが……」

 係の人がそう言うのも無理はない。奏多の姓は『雪比奈』で、夕実の姓は『進藤』である。

 家族ではない。そう考えるのが妥当なところだろう。

「これで良いんです~」

 夕実の笑顔を見て、係の人は「良いのかな?」と漏らし、一応は上司に聞いていた。上司は「そう言う前例は過去にあった」と言っていたのが聞こえたので、問題はないだろう。

「奏多君は……大切な家族だから……」

「……」

 奏多は夕実の目を見ていた。少し儚げなその表情の意味や胸中は奏多には、分からない。

「家族とか他人とか……そんなの、関係無いよ。私の言葉の意味……奏多君が一番分かってるはずだから。もしもだけど、奏多君の身近にそう言うモノに縛られてる人が居たら教えてあげてね? 家族だけがすべてじゃないって」

「………………」

 奏多の声はまだ戻らない。最低でも明日くらいまでは出ない。それでも、奏多は口を動かしていた。夕実には読唇術という能力はない。だが、奏多の唇の動きで何を言っているのかを理解した。夕実の瞳は涙で揺れていた。

「奏多君は……変わり始めてるんだね……。いつ以来だろう……私の名前を呼んでくれるなんて」

 夕実は涙を拭い、笑みを浮かべた。

「誰なんだろう……奏多君を変えようとしている人がいるんだね。私が九年も傍にいて、出来なかったことをこんなにもやっちゃう人がいるなんて……。その人に、少し妬いちゃうな。奏多君を理解できているのは……私だけじゃなくなりつつあるんだね」

 それは夕実にとっては良いことなのだが、同時に寂しいモノでもあった。

 少しではあるが、それは奏多が成長をしている証拠なのだ。

 係の人が戻って来たので、最後の確認を行う。

 奏多はその隣で、別な事を考えていた。



     6



 奏多の手には先ほど購入したばかりの携帯が光を反射している。ガラケーかスマホかで悩んだが、操作が楽そうという理由で奏多はガラケーを選択した。ダークブルーの外装はどことなく奏多の纏っている空気に似ている。

「それじゃあ~、メルアドを決めないとね~」

「……?」

 何やら聞き覚えのある単語だが、奏多は完全に忘れていた。

「あ~そうか~。奏多君は~携帯持つの初めてか~。あのね~、携帯には~メールアドレスって言うモノがあってね~。簡単に言っちゃえば~携帯の住所……かな~? お葉書とか~年賀状とか~。住所が無いと~届かないよね~? それと同じで~自分の携帯に、住所をあげるの~」

 だとしたら、この買ったばかりの携帯にはまだメールアドレスはないのか。

 奏多はそんな事を思いながら携帯を見ていた。

「買ったばっかでも~普通はあるんだけど~……。初期設定されてるアドレスって~なんか可愛くないんだよね~。だから~自分の好きな言葉とか~人名とか~を入れて~設定できるんだよ~」

 最初っからあるのなら後から決めなくても良いような気がするが、何と言うか、奏多はそれは嫌だな、と思った。

「メルアドは~簡単に変えられるか、安心してね~? そう言うことも話したいから~あそこに行こうか~」

 夕実が指し示す方向には小さなカフェがあった。オープンカフェでもあるらしく、店の前にはテーブルと椅子が並べられていた。

「なんかデートっぽくて良いよね~。ということで~行こうか~」

 夕実に優しく引っ張られ、オープンカフェに向かった。椅子に腰を下ろし、メニューを見て何を食べるか考える。ウェイトレスがやって来て「ご注文はお決まりですか?」と問いかけて来る。

「どれにしよっかな~。奏多君~何が食べたい~?」

「……」

 奏多はメニュー表を開けたり閉じたりしていた。その謎の行動に、ウェイトレスは言葉を失っていた。夕実はそんな奇行を気にせず、メニューに目を通していた。

「じゃあ~。コーヒーと、ミルフィーユで~」

「か、かしこまりました……」

「こっちの子には~、紅茶と~モンブランで~。奏多君~勝手に決めちゃったけど、それで良いよね~?」

 特に食べたいモノも無かったので、取りあえず頷いておいた。ウェイトレスは「不思議な子ですね」と言って中へ戻って行った。

「私はちょっと~お花摘みに行って来るね~」

 そう言うと夕実は席を立ち、店の中へと消えて行った。

「……」

 どこで花を摘んでくるんだろう、と奏多はその背中を見送る。奏多はその場に一人残されてしまった。

 辺りを見渡してみると、この地域も随分と変わったモノだと思う。国際色も豊かとなり、白人や黒人がちらほらと歩いている。

 それを見る度に、奏多は空を見上げていた。

 コツ、と靴音がした。誰かが奏多の目の前で立ち止まったらしい。空を見上げていた奏多だったが、視線を戻すとそこには瑛莉が立っていた。

【街を歩いていたらこんな所に珍獣が。世界は意外と狭いんですね】

 瑛莉はホワイトボードを見せて来た。

 こんな平日に、瑛莉が学校に行っていない事に驚いた。この時間帯なら、もう一時限目が始まっている。制服ではなく私服(ゴシック調)の瑛莉はなんだか新鮮だった。日本人なら合っている合っていないがハッキリと分かるのだが、白人色が強い瑛莉がそのような服装で居ると、とても似合っている。見たまんま、童話の中のお姫様が飛び出してきたようだ。周りの人たちも、瑛莉を見てうっとりしている。

【で、昼行燈先輩は家を追い出されたのでしょうがなく露店でヒマつぶしをしようという、知能が足りない浅はかな考えに至ったんですか? そんな非生産的なヒマつぶしではなく、書店などに行って本を読んでいる方がよっぽど文明人らしいと思いますよ。アナタが理解できそうな本と言ったら、絵本くらいしか思い浮かばないのですけどね】

 今日も毒舌は絶好調のようだ。

 なぜ瑛莉がこんな所に居るのだろう、と考え始めてしまった奏多は、しばらく無表情で瑛莉のことを見つめていた。瑛莉の頬が少し赤くなり始めたのを見て、奏多は先の失敗を思い出して視線を逸らした。

 奏多はもう一度瑛莉のことを見て口を動かす。

【何言ってるか解らないんですけど】

 そう言えば、自分は今声が出ないのであった。

 普段あまりしゃべらないため、その事を忘れていた。奏多がどうしようと考えていると、瑛莉のホワイトボードが目に入った。それを見ていると、瑛莉は何かを悟ったのか、ため息をついてペンを差し出してきた。

 テレパシーか、と無意味に感動している奏多だった。ペンを受け取り、瑛莉のホワイトボードに文字を書く。

【何でこんな所に居るんだ?】

 奏多がそう書き終えると、瑛莉はすぐさま文字を消して新たな文を書く。

【アナタには全く関係のないことです】

 この後輩とは仲良くなれそうにない。

【ですが、あえて言うのであれば気分転換ですし、用事があって外に出ているだけです。いつもあんな狭い箱に閉じ込められていると息が詰まりますし。時には休息も必要でしょう】

 良く解らないが、奏多の中ではとりあえず気分転換だと言うことで決着をつけた。

 瑛莉は奏多の足元をじっと見つめていた。瑛莉が見ているのは、奏多の足元にある携帯の入った紙袋だった。

 ふと、顔を上げた瑛莉と視線が合う。


――買ったんですか?

――ああ。


 二人の間ではそんなやり取りが成立していた。

 すると、瑛莉は手帳を取り出して何かを書いていた。ビリッと破ると、その紙片を奏多に向かって差し出す。どうしたらいいのか分からず、それを見つめ続けていると、瑛莉がグイッとさらに差し出してきた。しょうがなくそれを受け取ると、その紙片にはなにやら奇妙な文字羅列が記してあった。

【私の携帯のアドレスです。誠に遺憾ですが、アナタとはクラスメイトであり『特待生』です。私はまだ入学して日が経っていないので、学校のことで分からない事が多々あるので聞くと思います。あまりそう言う機会が無い事を願いますが】

 村中に聞けば良いだろ。奏多はそう思った。

 ふと、瑛莉の頬が僅かに赤い事に気が付いた。

【それと、先日のことで私はアナタに謝らなければなりません】

 そう見せると、瑛莉はいきなり頭を下げて来た。いきなり頭を下げられると対応に困る。周りの人がそれを見てヒソヒソと話すのが見えた。

【仮にもアナタは私の先輩。それなのに、あの時の私はアナタに非常に失礼なことを言ってしまいました。確かに、私はアナタのことを何も知らない。それなのに、私はアナタを糾弾せずには居られなかった。言い訳のように聞こえるでしょうが、許して下さい】

 瑛莉は再び頭を下げた。そして、もう一度文字を連ねる。

【そして、私はさらに別なことでもアナタに謝らなくてはなりません】

 奏多が珍しく、眉をひそめた。奏多があの時怒鳴ったのはとある一言に凝縮されている。それ以外は別に怒ってなどいない。

【私はアナタの声が出ないと聞いた時「ざまみろ」と思ったのです】

「……」

 あの時か。

 奏多はあの日のことを思い出す。だが、あまり思い出したくなかったのですぐに思考を打ち切った。

【私と同じ苦しみを味わえば良い。永遠に声が出なくなれば良い。そう思ったんです。ですが、アナタのは一時的なもの。私は絶望しました。同時に、ひどい自己嫌悪感に苛まされました】

 瑛莉はその時思った事を後悔しているらしい。

【なんで自分は醜いのだろう。なんて自分は自己的なのだろう。アナタだって、色々あって声が出なくなってしまった。それなのに、私はアナタの不幸を喜んだ】

 瑛莉は少し泣きそうな顔をしていた。瑛莉はひょっとしたら、とても心が優しい少女なのかもしれない。

【先輩。もしかして、先輩の声が出なくなったのは私のせいじゃないんですか?】

 どう言うことだろうか。意味が分からなかったので奏多は首を傾げた。

【私が日々、先輩にぶつけていた言葉がストレスとなっていたのではないかと】

 あの程度で失声症になるほど、奏多の精神力はもろくない。奏多は首を振った。

【本当ですか? ウソはついてませんか? 私は使えない楽器です、何か至らないことをしたのなら謝ります】

 この少女はいきなり何を言っているのだろう。自分のことをいきなり楽器などと、そんな道具みたいな言い方をして。瑛莉の表情は今まで見たことが無いくらい、不安そうな表情だった。

 奏多が反応に困っていると、瑛莉はハッとした。そして咳払いをするといつもの無表情となった。

【失礼しました。少し取り乱していたようです】

 奏多は瑛莉に対して違和感を覚えた。いつも無表情なのは、もしかしたら自分と同じなのではないだろうか。

 瑛莉は携帯で時刻を確認すると、頭を下げた。

【私はこのあと予定があるので】

 瑛莉はそう言って立ち去った。その背中からは寂しさと恐怖が感じ取れた。奏多は立ちあがってこの場にとどめようと思ったが、「ゴメンね~」という夕実の声でそれは出来なかった。

「ちょこっと並んでてね~遅れちゃった~。……あれ~? 奏多君~このアドレスが書かれたメモは何~? もしかして~逆ナンされちゃったの~っ?」

 夕実がきゃいきゃい言っているが、奏多は瑛莉が去っていた方向を眺めていた。

 ウェイトレスが注文をしてきたものを運んできたので、奏多たちはそれを食べながら携帯の操作をしていた。ようやく、少し携帯操作を理解したところで夕実が「じゃあ~そろそろアドレスを~決めようか~。あと~そのアドレスも~入れちゃおっか~」と言って来たので、包帯やグローブで操作しにくいなか、奏多は初めてのアドレスを入力をした。

 メモリの一番最初に登録されたのは


『来羽・C・英利』


 あの毒舌家な後輩だった。ちなみに奏多は誤字に気付いていない。



     7



 家に帰る前に、夕実とぶらぶらしながら買い物を済ませた。家に帰ると、亜夕深が新聞を広げながらまったりしていた。

「へー……。あの会社がねー……。あー、お帰りー。携帯買ったんでしょ? だったらメアド交換しようか。……もしかして、あたしが一番?」

 亜夕深の頬が若干赤くなっているが、夕実が「違うよ~」と水を差した。

「私のも~入ってるよ~」

「ちぇ、一番じゃないのか。ま、いっか。じゃあ交換しようか。赤外線は?」

 奏多は携帯を取り出し、準備をしていた。

「じゃ、交換ね」

 赤外線でメルアドを交換する。アドレス帳には新たに『進藤亜夕深』が登録された。

「あとは……千景とか琥珀とか――スゴい嫌そうね。登録するだけしておいて、あとは無視でもしておけば良いんじゃない?」

 亜夕深にそう言われ、奏多は渋々だがその二人のアドレスを登録した。

「んじゃ、あたしは宿題でもしておこうかな」

「私は~お夕飯の~支度だね~」

 二人はそう言って自分のやるべきことをしていた。奏多は携帯をまじまじと見ながら自室へと向かった。

 人生初のメールを誰に送ろうか考えていたのだ。

「……」

 瑛莉に送ろうと思った。一番最初に登録したのが瑛莉なのだから、それが筋だろうと思ったのだ。

 メールを作成し、誤字脱字が無いかを確認した。そしてメールを送る。

 三○秒としないうちに、携帯が鳴った。フリップを開くと『メール受信 一件』とあったので、ボタンを操作して確認をする。


『私が一番最初だと言う事は褒めてあげます。これで連絡を取り合うことになるのでよろしくお願いします。学校に来れたらで良いので、電話番号をお伺いします。それでは。


                                 瑛莉  』


 どうやら無事にメールが届いたようだ。奏多は嫌々ながらも琥珀や千景にメールを送った。

 奏多が寝れたのは明け方頃だったのは言うまでもない。

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