第五音節
1
翌日、奏多は曖昧な時間に教室に入った。
「お、おう……」
中には村中しか居ない。
「おまえのその肝っ玉に感心だよ……。昨日の今日で良く学校に来ようなんて思ったな……。いや、それが当たり前なんだけどよ……」
そんな事より、あの毒舌娘はどこに行ったのだろうか。この時間帯なら確実に要るハズなのだが、肝心の瑛莉の席はもぬけの殻だった。
「来羽は今日、別室で待機してる。ちょいとやることがあってな。で、おまえを待ってたワケなんだが……よくよく考えると、おまえはレポート出してるからあんま言うことないんだよな。最低限である二○枚なのはいかがなものかと思うが……。出してるには変わりねえし。……筋トレでもやってろ。
村中はそう言って教室から出て行く。
奏多は一人教室に取り残され、取りあえず自分の席に座ることにした。
「……」
誰も居ない教室。ついこの間まで、それが普通だった。だが、いつの間にか学園史上二人目の『特待生』である、あの毒舌娘――来羽・C・瑛莉がやって来た。
いつも罵詈雑言の嵐を巻き起こし、猛毒を吐き捨てる瑛莉。今日はその存在が居ない。たったそれだけのことで、この教室は恐ろしく静かだった。
「……」
奏多はおもむろに立ち上がった。
歩くだけでも筋トレになるだろう。
2
そして奏多はすぐに後悔をした。何故か遅刻してきた千景に捕まってしまったのだ。
「一限目は出れない予定だったから丁度良かったのだ」
奏多は観念してお縄に付くことにした。
「……カナタ、昨日はとても怖かったのだ」
あの明るい千景にしては珍しい、小さな声だった。
「あんなカナタ、初めて見たのだ。……カナタ。カナタは一体、何を抱えているのだ? それは、ボク……いや、ボクたち誓教の人にも言えないことなのか?」
千景の眉がハの字となっている。昨日のことを余程考えてしまっていたのだろう。頬は少しやつれ、目の下にはクマが出来ていた。せっかくの美少女が台無しである。その原因は、奏多自身にある。
「……なんで遅刻してきたんだ?」
「話が全く違うけど、珍しくカナタから問いかけてくれたから答えるのだ。ボクの家は少し有名な料亭で、庄司家にも色々とあるのだ。例えば……顔も見たくないし会いたくもないクソジジィの話し相手になったり、クソジジィの酌をしてやったり、クソジジィの笑えない話に付き合ったり、クソジジィのセクハラに耐えたりと色々あるのだ」
あの千景には似つかわしくない言葉が聞こえたのだが、気のせいだろうか。しかもクソジジィ呼ばわり。きっと庄司家にも色々あるのだろう。
「言っておくとすると、そのクソジジィは身内じゃないのだ。お客様なのだ」
お客様は神様じゃないのだろうか。
「ボクのお爺ちゃまとは懇意の上客らしくて、そいつが来るときは一族総出になるのだ。なんでも相手方は、高度成長期ごろに融資をしてくれた企業だから、ボクらの頭が上がらない一族なのだ。向こうはその事は全く気にしていないようなのだが、こちらが気にしている以上、ちゃんと相手をしないわけにもいかないのだ。でも……ボクはそいつのことが好きじゃないのだ。その事を分かった上でちょっかいを出して来る、意地悪なクソジジィなのだ」
先方の態度を思い出したのか、千景は辟易していた。
「あのクソジジィ、見た目が相当若いから侮っていたのだ。アレで二児の父親は詐欺なのだ。あの見た目で四七はウソなのだ」
しかも妙なところで怒っていた。
「それにあのクソジジィ……何を考えてるかサッパリわからなくて……気持ち悪いのだ」
眉をひそめる千景。それは相当な人間らしい。
「それはそうとカナタ、このあとはヒマか?」
にっこりと笑顔を作る千景。暗い表情は似合わないが、もう少しテンションが低くあって欲しい。
「ボクはこの後、ちょっと誓教部屋に寄らないといけないのだ。それに、昨日もてなせなかったから今日こそ、カナタをおもてなししたいのだ」
3
千景に強制連行されて、奏多は礼拝堂の中に入った。今度はそのまま腕を引っ張られ、誓教部屋へと連れて行かれる。
「この時間ならたぶん誰も居ないはずだから……カナタを独占なのだ……」
そんな事を満面の笑みを浮かべて言う千景。本当、どう対応して良いのか分からない。
誓教部屋のドアを開けた瞬間、紅茶の香りがした。
「ん? なんだ、チーさんか」
そこに居たのは万藤侑里だった。
「な、なんでユウリがここに居るのだ!? 授業中のハズなのだ!」
びしりっ、と人差し指を向ける千景。侑里は「知らねえの?」と前置きして言った。
「『運動組』にそれらしい授業はねえんだよ。三日トレーニングで、一日休み。雨の時はしょうがねえから座学や体育館トレーニングやってんだよ。で、今日はその休み」
爽やかな笑顔でそう言われ、千景は「そ、そうなのか」と納得してしまった。
「せっかく……カナタと二人きりだと思ったのに……」
しゅん、としている千景はマニア垂涎の表情を浮かべていたが、あいにくと、ここに居るのはスポーツ少女と奇っ怪少年だ。
「あー……いや、悪いことしたな。席外そうか?」
「いや、良いのだ……。ユウリ、ボクにもお茶を入れて欲しいのだ」
「お安いご用で。で、後ろにいる雪比奈もなんか茶ぁ飲むか?」
そう問いかけられ、奏多は他所見をしていたが紅茶の入ったカップを見つめた。
「紅茶が良いのか?」
そう問いかけて来た侑里に対して、奏多は言った。
「……煮汁」
「「なんのっ!?」」
千景と侑里が驚愕する。一体彼は、亜夕深の家で何を飲まされているのだろう。
侑里は無難にコーヒーを淹れて出してきた。
千景と侑里は誓教の話をし始めた。庶務が居ないと雑務が片付かない、昭人一人の男手では足りない、女子に重い荷物を持たせるな(侑里は筋トレになるから構わないと言っていた)などなど、少女たちは話し合っていた。
「やっぱさあ、昭人だけじゃきついんじゃねえの? 自分一人が男で回りが女だぜ?」
「ハーレムだから良いと思うのだ」
「いや、そういう問題じゃねえだろ……。つか、雪比奈はどこ見てんだ?」
侑里の視線の先には、空を見上げている奏多が居た。千景が駆け寄ろうとしたが、そのあまりにも儚げで、寂しそうな横顔を見たら自然と歩を止めてしまった。
丁度のところでチャイムが鳴る。
「チーさんはこれからどうすんだ? アタシは残って会計の仕事してっけど」
「ボクは授業に戻るのだ。カナタはどうするのだ?」
千景が問いかけて来るが、奏多は無視をして空を眺め続けていた。
「難攻不落、取り付く島もないとはこのことだな。チーさん、頑張りな」
千景は侑里に励まされていた。
「そうは言われても……。頑張るのだ。じゃあ、ボクは先に行くのだ。ボクは『特待生』じゃないから、遅刻をしたら怒られてしまうのだ」
そう言って千景は駆け足で出て行った。
やっと騒がしいのが居なくなってくれたので、奏多は腰を上げた。
「あ、雪比奈も出てくの? 一人じゃ寂しいが……アタシはお前とコミュニケーション成り立たせたことないし……ま、いっか。じゃあな、雪比奈」
侑里がそう言って手を振ってくる。奏多としてもあまりこの人物とは関わってもしょうがないと思っているため、そそくさと部屋を出た。
階段を下りて礼拝堂に降りようとしていたら、そこには見覚えのある金髪少女が――瑛莉が祈りを捧げていた。
奏多はその姿に見惚れていた。
マリア像の前に跪き、手を組んで祈りを捧げている。
それだけなのだが、それだけで一つの芸術のように思えた。辺りは静寂に包まれていて、ひどく静かだ。
奏多はふと、昨日のことを思い出していた。
『なんでアナタは歌おうとしないんですか!? 楽器も弾けるのに、なぜ他の科に行かないんですか!? なぜ、その先へ進もうとしないんですか!?』
違う。
奏多はその先に進もうとしないんじゃない。出来ないのだ。楽器が出来るのはたまたまで、別にそれ自体にはあまり興味はない。奏多が興味あるのは歌だ。ならば歌えば良いじゃないか、と言われるだろうが、奏多は歌うことが出来ない。その先に行く意味を失っている奏多は今、どうしたら良いのか分からない状況に居るのだ。
誰もが『奏多は無為に時間を浪費している』と思っているだろうが、実はそうじゃない。奏多は奏多で一杯一杯なのだ。奏多の胸には未だクサビの様に打ち込まれている想いが残っているため、前に進めないのだ。
左目の眼帯。左手の黒革のグローブ。右腕の包帯。
これらに残っている壁を克服しない限り、奏多は前に進めない。先に進んでいるのは奏多ではなく、瑛莉の方なのだ。自分の楽器が不調で使えなくても、他の楽器が使えなくても、瑛莉は何かを模索して取り組んでいるように見える。奏多は全く何もしていない。奏多は『あの日』から一歩も前に進んでいない。
こちらの視線に気付いたのか、それとも祈りが終わったのか、瑛莉は顔を上げた。そして奏多の方を見ると少し気まずそうな表情を浮かべていた。すっ、と音も無く立ち上がると床に置いていたボードを拾い上げ、礼拝堂から出て行った。
奏多はそれを見送ることしかできない。
動かずに、見送ることしか。
4
昼食を取り終え、奏多はまた校舎を徘徊していた。
本来ならば教師に怒られるべき行為なのだが、『特待生』は授業を免除されている。だから、このような事をしていても怒られることはない。嫌な顔はされるが。
校舎を歩きまわっていたら、とある個室の前を歩いていると話声が聞こえて来た。
『さて、午後からも同じように始めるぞ』
声の主は村中であることが分かった。なんとなく威圧感があり、適当そうな話具合から判断しただけなのだが、恐らく村中で間違いないはずだ。
奏多はなんとなく立ち止まっていた。
『今朝も言ったが……あたしは教師としてトククラの担任を任された訳じゃない。心理カウンセラーとしてトククラを任されてるんだ。理事会のジジィどもがお前や奏多と言った一癖も二癖もあるやつをあたしに任せて来た理由として考えられんのは、他の教師ではお前らを理解できない、と踏んだんだろうな』
実質、村中の考えは当たっていた。普通の生徒を教えることしかできない教師にとって奏多の様な異常な生徒とほどやりにくいことはない。そう言う生徒は心に何らかの傷を負っている可能性がある。その事を知らずに、アレコレ言っていると知らずに負担をかけている可能性があるからだ。そうなってはマズい、と言うことで心理カウンセラーの資格を持っている村中に白羽の矢が立ったのだろう。
『あたしも人の子である以上、理解の及ばない事は多々ある。だが、他の教師よりかは少しはマシだろ。まあ……あたしも昔はどちらかと言うとおまえら寄りだったからな』
村中は少し照れた様な感じだった。こんな事を言う村中は初めてだ。
『理事会はあたしに期待してんだろうよ。まったく、面倒事を押しつけてくれる』
言葉こそ投げ遣りで、面倒くさそうな物言いだが、声色はとても優しかった。それより、どことなく嬉しげで誇らしげでもあった。
『ま、奏多に関しては惨敗だがな』
村中が苦笑いしている様を容易に想像できる。良くも悪くも、村中は感情が分かりやすいのだ。
『だが、諦めたワケじゃねぇ。任された以上はきちんと最後までやってやる。それが筋ってもんだろう。それに……あたしは腐ってもガキが好きなんだよ』
自分にはそんな優しい言葉を投げかけられた事はない。
『昨日のことはかなり驚いてる。あの奏多があんな怒鳴り声を上げたのも、感情を剥き出しにするのも初めて見たんだ。時にはアレぐらい感情的にぶつかった方がいいと言うことを教わったよ。特に、ああ言うタイプの輩にはな』
昨日のことを知っているメンツと言えば、誓教組と瑛莉くらいしかいない。この時間帯は既に午後の授業が始まっている。『勉強組』は真面目な生徒が多いので亜夕深や昭人ではない事は確かだ。侑里もたぶん今頃は会計の仕事をしているだろう。千景は二限目から授業に出ると言っていたから出ているだろう(そうであってほしい)。琥珀は授業を抜け出す時があるようだが、たぶん授業に出ているだろう(そうであってほしい)。
だとすれば、おのずと答えは出て来る。
『来羽、おまえは少し奏多に近いな』
やはり、瑛莉だった。
『おまえもアイツと同じで無表情・無感情・無愛想の三拍子そろった、それこそめんどくせーガキだよ。だが、アイツよりもおまえの方が闇が浅そうだからな……。予定を変更しておまえからカウンセリングをしようと思った訳だ』
もしかして、これまで自分はカウンセリングをされていたのか。そう考えたが、記憶をいくら引き出してもそんな場面はなかった。
『まずはあたしの質問に答えろ。……ん? いや、答えたくないのなら答えなくていいぞ』
黙秘は有りだ。村中はそう言っていた。
『んじゃまず、おまえの名前は? ……必要あるに決まってんだろ、自分が誰であるという証明は必要だ。おまえの存在はまるっと全ておまえのモノだろ』
村中はそう言っていた。
「……証明」
奏多はボソリと呟く。
『それじゃ好きな食べ物はなんだ? ……お茶漬けて、なんでそんな……。京都? ああ、そこで食って以来、好きになったのか』
どうやら瑛莉の好きな食べ物はお茶漬けらしい。
『好きな色はなんだ? ……白、か。白は純潔とかを表わすもんだからな。クリスチャンは純潔であるべきだしな、妥当な色か』
瑛莉のことだから、きっと毒々しいモノを予想していたのだが、意外と少女趣味でもあるのだろうか。
『お前の血液型はなんだ? ……Rhのマイナスってかなり珍しいんじぇねぇの? しかもAB型なのか……。確か、西洋の方だとその因子を保有してる人間は多いらしいな。日本人はA型が多いからなー、お前の血液は希少種だぞ。事故とか遭うんじゃねぇぞ。なんだよ。……ボンベイタイプ? そんな血液型もあんのか……初めて聞いたな』
血液型の話になり、奏多は胸がざわつき始めた。知らずの内に胸に手を当てていた。
『んじゃあ、少し込み入った話になるぞ。……おまえの家族構成は?』
ドクンッ
奏多の心臓が高く鳴る。一瞬で全身から体温が抜けた様な、そんな感覚がした。
『……今朝も聞いたが、やっぱすげえ家族だよな、おまえの家……。あの有名音楽家の娘ってことだろ? 血筋なのか?』
ドクンッ ドクンッ
鼓動が強く速くなるにつれて、奏多の呼吸が乱れる。あの完全ポーカーフェイスの奏多の額からは大量の汗が流れ落ちて行く。
『好きな人物は誰だ? もちろん、尊敬でも憧れでも良い。…………なんなんだ、そのふざけた名前は? …………いや、失礼、そんなに大切な奴の名前なのか。にしても……まあ、そう言う年頃のガキは特撮モンに憧れるしな……。だとしたら、そいつは今頃ビッグネームになっててもおかしくねえんだがな……なんで出てこねえんだ? ……いや、それはお前の憶測だろ? でもまあ、そういう経緯だったなら、そいつに憧れて声楽の道を歩もうとするのも分かるってもんだ』
奏多は急いでその場から離れようとしたが、足に力が入らない。
『そいつの歌は……いや、出てねえんだから聞いたことねえか。でも、声は聞いた事はあるんだろ?』
頭痛と吐き気に襲われる。冷や汗が体中にまとわりついて気持ち悪い。上手く呼吸が出来なくなっているし、視界がぼやけて来た。
『おまえ、なかなか可愛いとこあんじゃねえか。一目惚れなんだろ? そう暴れなさんなって、ただおちょくってるだけだ。おまえはその毒が無ければかなりモテるはずだぞ』
「……ぐっ」
ぐらり、と奏多の身体が揺らめいた。もう自分の意識を保つことが出来ない。
『……これが最後の質問になるが、良いか? もちろん、答えたくないのなら答えなくても良いからな?』
薄れゆく意識の中、村中の次の言葉で奏多は完全に気を失った。
『おまえが一番辛かったことはなんだ?』
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