第四音節

     1



 トククラの雰囲気はかなり険悪だった。

 レポートの提出から帰って来た奏多はいつものように適当に過ごしているのだが、後から教室に入って来た村中の纏っている空気は尋常じゃなくピリピリしている。

 きっと何かしでかしたんだろうな、と瑛莉は空気を読んで一人黙々とレポートの作成に取り掛かっていた。

「……っと、そういや忘れてたな。おい、ガキども」

 口調こそは普段と変わらないようだが、纏っている空気がひどかった。

「ケー番教えろ」

 ついには教え子に詐欺でもする気なのだろうか。奏多はそんな的外れなことを考えていた。

「いらねえとは思うが、一応連絡網を作っておこうと思ってよ。奏多の時は進藤に電話するだけで良かったんだが……今年はそうもいかねえしな」

 瑛莉が『特待生』として入った事により、連絡手段があった方がいいと思ったのだろう。今までが特別だっただけで、これが普通なのだ。

 瑛莉は「分かりました」と頷いてポケットから携帯を取りだした。

「紙配るからそれにケー番……一応、メルアドも書いておいてくれ。……おい、奏多。紙を見つめても何も出てきやしないぞ」

 奏多は紙を見つめた後、紙飛行機を作り始めた。

「……おまえはホント……あたしの想像の斜め上を行くよな……。紙飛行機作ってんじゃねえよ、ケー番だよ。あと、メルアドも書けっつってんだよ」

 奏多は紙飛行機を折るのをやめた――ように見せかけ、再び折り始める。

「なんでそこでフェイント入れるんだよ、意味解らねえ……。もう良い、あたしが勝手にやらせてもらうぞ」

 村中は奏多の机に近づき、カバンをひったくった。そしてチャックを開けて中身を確認する。

「恐ろしいほど何も入ってねえな……ホントに学生か、貴様? 見た感じ、カバンの中には入れてねえみてえだな。机の上にあんのはうっすい筆入れにレポート用紙だけ……。奏多、立て」

 どうやら奏多の身体を触って調べるらしい。触られたくない奏多は嫌々立ちあがって自分から物を出すことにした。

「なんでおまえは時々あたしの思考を読むんだよ……。取り出したのは財布だけか……。で、ケータイ……スマホは?」

 奏多は身体を触って「これ以上何も持っていない」をアピールした。

「……おい。おいおいおいおいおいおい、ちょっと待て。アナログからデジタルに移行した今、言わば文明の利器の時代に生まれ育ち生きてる人間だよな?」

 その文明のナンタラという時代ではなく、平成という時代に生まれた、と奏多はトンチンカンな事を考えていた。

「小学校を卒業して、中学も卒業して、高校生になったんだよな?」

 そんな昔のことを覚えていないが、多分そうだろう。

「なんてこった……。奏多、おまえ――」

 村中はなぜか戦慄しながら言った。


「お前、スマホ持ってねえのか!?」


 瑛莉までもが信じられない物体(生き物ではない)を見るかのような視線を向けていた。

「このご時世、スマホ持ってねえと色々不便だってのに……。あーいや、別におまえを非難するつもりはねぇよ。そう言う人間だっているってことはあたしも理解してる。だけどよ……高校生にもなってスマホ持ってねえって……どうなんだよ?」

 今度は憐れむような口調で、なぜか諭されていた。

 ズバンッ、とトククラの教室が開かれる。

「「なぜスマホを持っていないのだッ!?」」

「おまえら授業中だぞ!?」

 いきなり琥珀と千景が押し入ってきて、紙に何かを書きながら歩いて来る。

「村中教諭の言う通り、デジタル世界へと移行したこの世の中、スマホと言うツールを持っていない若者は殆ど居ないと言っても過言だぞ、奏多少年。電話は一家に一台、という定説を覆し今では一人一台、二台という時代にもなっている。現代社会に置いてスマートフォンとは必要不可欠なツールとなっている。気軽に友人との交流を深めることが出来たり、就職活動でエントリーを申し込むのも今やスマートフォンが活躍をしている。これは私のアドレスと電話番号だ、持っておけ。メールや電話だけの機能ではなく、音楽を聞けたりネットサーフィンが出来たりと、今や必要不可欠となっているとても便利な道具なのだぞ、奏多少年ッ」

「コハクの言う通り、スマホはとても便利な道具なのだ。病院や空港など、限られた場所ではあまり使用することが出来ないが、それでも便利なことには変わりないのだ。夜中に電話する、という機会があったとしたら、家電ならすぐにバレてしまうが、スマホならどこでもLINEというメールに似たアプリで秘密の会話をするのにとても役立つのだ。料金とかは流石にかかるけど、購入する際にお得なプランがあるからそれに加入すれば二四時間、どこでも会話を楽しむことが出来るのだ。これ、ボクのアドレスと電話番号なのだ、持っておいてほしいのだ。それに、今のスマホの画素はかなり上がっていて、一眼レフのカメラにも負けず劣らずの綺麗さなのだ。こんなスゴイ機械、奏多にも持っておいてほしいのだ」

 奏多の右手には琥珀からの紙が握られており、左手には千景からの紙が握られていた。奏多はそれをジィッと見つめて


 すっ(瑛莉の机の上に置いた)


「「「なんでっ!?」」」

 村中までもが唖然としていた。ちなみに瑛莉は「なにこれ?」と紙きれを眺めている。

「少年、なぜだ、なぜ受け取らない!?」

「どうしてなのだカナタ!」

 二人は色々言っているが、奏多はそれを無視して紙飛行機を折り続ける。

「大方『持ってねえからいらない』ってところだろうな……」

 村中が憶測を立てるが、大体当たっていた。奏多はグローブの左手や包帯グルグルの右手と言った、折り紙をするには最悪の装備をしているというのに、無駄な折り目もシワも作らず、綺麗に折っていた。

「器用だな、おまえは……。いやそんな事はどうでも良いんだよ。奏多、女子が男子にメアドが書かれた紙を渡すってどう言う意味か……いや、こいつには分かる訳ねえか……」

 人として何かが欠落している奏多に、そんな繊細な乙女心が分かるはずもない。奏多は黙々と紙飛行機を折っている。

「進藤家の奴らはこいつとどうやって意思疎通を成立させてんだ……? それはそうと……おい、庄司に羅乃峰。今は授業中のハズだ、ふざけるな」

 村中の視線は二人へと注がれ、二人は堂々と

「「人生と言う道に迷っていたのだ」」

「そうか、悩みは聞いてやるから折檻部屋に行くか」

 村中は二人を脇に抱えて教室から出て行く。出て行く際、こちらを見ていた琥珀や千景は奏多に救いを求めていたが、あいにく奏多は別方向を向いて出来上がった紙飛行機を飛ばしていた。

 戸が閉まると、教室には奏多と瑛莉だけが残る。

 とんとん、と肩を叩かれ、振り返ると瑛莉が先ほどのメモ用紙を奏多に向かって突き出していた。「おまえのだろ」と言いたいのだろう。奏多としては要らない紙なのでそのまま見ていただけだったのだが、瑛莉がグイッと押しつけて来たのでしょうがなく受け取った。

【高校生にもなってスマホを持ってないなんて驚きです。流石は極東の人間ですね。文明の利器を知らないんですか?】

 おまえの半分はその極東の血が流れてるんじゃなかったか? 奏多はそう思っていたがやぶ蛇なので黙っておくことにした。

 瑛莉はスマートフォンをちらつかせているが、奏多は興味が無いので顔をそむけて再び視線を紙飛行機に移した。


 ゲシッ

「っ!?」


 椅子を蹴られ、その衝撃に驚いた奏多。振り返ると瑛莉が怒った様子でボードに文字を書いていた。

【前から思っていたのですが、人が質問をしているというのに、なんでアナタは無視をするんですか? いくらなんでもスプーン一杯くらいの脳みそがあるはずなんですから、ちゃんと答えて下さい】

 年下に説教をされる年上。ちなみに奏多は「スポーン一杯て何グラムだ?」と考えていた。

【もう良いです。で、先に居た輩。先ほどの対応は何なんですか?】

 それがどの内容を指し示しているのか、スプーン一杯の脳では分からなかった。

 そんな奏多を見かねた瑛莉はため息をついて補足説明をする。

【その機能していない脳でどこまで理解できるか疑問ですが、ゴミ先輩に分かりやすく、懇切丁寧に、噛み砕いて説明をいたしますから、ちゃんと聞いて下さい】

 完全にバカにされているのだが、それに気付かないバカが奏多である。

【第一に、彼女らはアナタの知り合いでしょう? なんで私がそのアドレスを貰わないといけないんですか。確かにあの人たちは私の先輩に当たりますが、縁もゆかりもない、ただの先輩です。私と彼女らにはなんの繋がりもありません】

 瑛莉はそう書くと消して、新たな文を書き連ねる。

 それは奏多も同じなのだが、ここで何か言うと怒られそうなので黙っておく。

【彼女らは私よりも年上、アナタと同じ二年生なのだから、渡す相手はアナタしかいないでしょう? 誓教や委員会、部活動に入っていれば別ですけど】

「……同じ『芸術組』だぞ」

 奏多が珍しく口を挟んだのだが、瑛莉の目は「だからどうした」と言っていた。

【同じ『芸術組』だとしても、私と彼女らは別の枠組みじゃないですか。忘れたんですか、このクラスは一般の生徒とは違うということを】

 そんなこと知っているが、それが今どう関係あるのだろうか。

 全く理解が出来ていない奏多だった。

【一般生徒は一般生徒でコロニーを形成するものです。だとしたら、私たち『特待生』はそのコロニーには入れないんですよ。受け入れてもらわない限り】

 奏多も瑛莉も、一癖二癖もある変わり者である事には間違いない。一種の天才であるこの二人は個性が強すぎる。

 一般人に天才の考えが分からないように、天才も一般人の考えが分からない。

 天才は一般人のレベルまで下げることはできない。それは一方通行なのだ。一般人に天才の考えを分かってもらうしかない。そうしてもらわないと、受け入れられない。

 何も考えずに受け入れてくれるとしたら、ただのバカか変態の二択だろう。同レベルもしくはそれ以上のレベルだと同族嫌悪になりかねない。

【あのお二方はかなりの変わり者なのでしょうね。だからアナタにアドレスの書かれた紙を渡した。お分かりですか? あのお二人の『想い』が】

 瑛莉はそう書いて、文字を消し、新たな字を書く。

【以上のことから、なぜ私に紙を渡したかを聞いているんです】

 奏多には瑛莉の言っている事が理解できなかった。同じ『特待生』と言えど、ランクに差があるのだろう。

「……良く解らん」

 奏多は素直に言ったら、瑛莉は肩を落として諦念の溜め息を吐く。

 瑛莉はバカにつける薬はない、と言いたげな表情を浮かべて自分の席に戻ってレポートを再開し始める。

 奏多は落ちている紙飛行機を見下ろし、僅かに苦い表情を浮かべていた。



     2



 先の一件があったので、昼食は早めに摂ることにした。瑛莉もあんなことを引き起こすのは嫌だし、奏多だって巻き込まれるのは嫌だ。そう言うことで、昼食は四時間目が始まってほどなくしてから摂るために移動する。

 瑛莉はもう食堂の位置を把握したらしく、さっさと向かって行った。奏多はいつものようにのっそりとしたペースで歩き、食堂へ向かう。

 適当に食券を買い、トレイに載せて行く。食堂に入ると先に食事をしていた瑛莉がいた。奏多は瑛莉から少し離れた席に座る。箸を持って一礼し、食事を始めた。

 先に食事が終わったのは後から来た奏多だ。どうやら瑛莉は食べるのが遅いらしい。トレイや食器を片づけ、食後の飲み物を買うために自販機の前に立つ。

「……」

 奏多の視線は『飲むヨーグルト(プレーン味)』と『飲むヨーグルト(イチゴ味)』を行ったり来たりしていた。どちらにしようか悩んでいると、いつの間にか食事を終わらせたらしい瑛莉がお金を入れて『飲むヨーグルト(イチゴ味)』を購入していた。それで決まったのか、奏多は『飲むヨーグルト(プレーン味)』を購入した。

 視線を感じたのでそちらを向くと、瑛莉がこちらをじっと見ていた。別に勝負をしているわけではないのだが、奏多も瑛莉の顔を見つめる。

 最初みた時、人形かと思ったほどの美貌。

 クセの無い金髪に、二重の青い目。陶器の様に白くキメの細かい肌に、潤いたっぷりの淡い桜色の唇。整った顔立ちだと思う。すらりとした体型に、年相応と言った具合の胸のふくらみ。

 美少女、と言う単語は彼女の為にあるのではないだろうか。

 そんな風に見ていた時だった。


 ドシュ(瑛莉が目潰しをしてきた)


「がっ!?」

 奏多は短い悲鳴を上げ、刺された右目を押さえてその場にしゃがみこんだ。手に持っていた飲むヨーグルトは「べちゃ」と床に落下した。

 目を押さえている奏多には全く見えないが、瑛莉は頬を真っ赤にしてボードに字を書いている。

【見られるのは好きじゃないと、最初に言ったはずです! お金を取らなかっただけマシだと思って下さい!】

 金銭と一時的な視力喪失。どちらとも奪われたくないものだが、瑛莉は行動に移しやすかった『一時的な視力強奪』を選択したらしい。

 瑛莉は流石に今の行為は「怒られても仕方ない」と思っていた。そしてどんな怒りの言葉が出て来るのかとビクビクしていた。

「……っく、なにが……起きたんだ……!? 地震か……?」

 一体、彼の頭の中では何がどう変換されたのだろう。

 ビクビクしていた瑛莉だったが、なんだかバカらしくなってきた。

 まだ涙を流しているが、だいぶ視力が回復したらしい。奏多は辺りをきょろきょろしながら落としてしまった飲み物を拾い、普通に飲み始める。

「……」

 瑛莉の目は点となっていた。ズゾゾッ、ズゾゾッと奏多は飲むヨーグルトを飲んでいた。

 肩を叩かれた奏多はそちらの方に向いた。すると、瑛莉がボードを見せて来た。

【なんで怒らないんですか?】

 と書かれていた。

「「……」」

 両者無言となる。

 睨み合っていると、奏多が最初に動いた。財布を取り出し、硬貨を入れると再び飲むヨーグルト(プレーン味)を購入し始めた。

「??」

 奏多の奇行に、瑛莉は困惑する。その困惑している瑛莉に向かって、奏多は買った飲み物を差し出してきた。それをしばらく見つめ、瑛莉はボードに文字を書く。

【えっと、なんです、これ?】

 急に渡されても困る、それに、瑛莉は味の違うモノを持っているのだ。

 奏多は「……なんだ」と言うと


「……お前はこっちを飲みたかったんじゃないのか」


 瑛莉の顔は形容しがたいことになっていた。

 瑛莉は必死に頭を回転させ、質問をしてみることにする。

【アナタの脳でどういう化学変化が起きたのか知りませんが、もしかしてアナタは、私がそっちを飲みたかったんだけど間違ってこれを買ってしまい、本当は飲みたかったものを買われてしまったから目潰しをされた、と考えているんですか?】

 概ねそのような感じだった奏多は頷く。

 瑛莉は呆れるを通り越して驚いていた。

【そんな、アナタはバカじゃないんですか!? 買うモノなんてそうそう間違えませんよ。怒られるとしたら私のハズです。それに、私は見られるのが好きじゃないと言ったはずです。それなのにアナタは私を凝視してきた。だから、私はアナタの目に目潰しをしたんですよ?】

 そう言うことで潰されたのか、と奏多はようやく納得した。

【何がともあれ、アナタのせいです】

 瑛莉はそう言って背を向けて歩いて行ってしまった。

 全くもって、分からない。

 奏多は二個目の飲むヨーグルトの飲みながら、その言葉を飲み込んだ。



     3



「はっはっはっ。両手に花だなっ」

 奏多と瑛莉は琥珀に捕まっていた。

「いやはや、少し早く教室を出た意味もあったという訳か。まさか……奏多少年に来羽後輩までゲットできるとは」

 琥珀は楽しそうに頷いているが、こちらからしてみれば目潰しをされたり強制連行されたりと踏んだり蹴ったりだ。ちなみに瑛莉は隅の方で丸くなっている。本能的に琥珀の性癖を悟ったのかもしれない。

「なあに、取って食ったりは…………しないように心がけよう」

 なんとも不安満載のセリフである。

「私は個人的に『特待生』の実力はどんなものか、と興味がある。どれでも良い、どれか好きな楽器で適当に演奏してほしい」

 だから音楽室に連れ込まれたのか。奏多は辺りにある楽器を見渡しながらそう思った。一方、瑛莉はと言うと肩をすくませ、気まずそうに視線を逸らした。

「『芸術組』の音楽部に属している以上、クラシックは嗜むのだろう? 触りでも何でも良いから弾いてみてくれたまえ」

 琥珀は近くの椅子を手繰り寄せ、腰を下ろした。

「ふむ、ここは提案者である私から指名させてもらおう。……来羽後輩、頼めるか?」

 琥珀の肉食獣の瞳が瑛莉を捉える。だが、瑛莉は顔を逸らしたままだった。

「その顔……。ふむ、そういうことか……。やれやれ、酷な事を言ってしまったようだな……」

 琥珀は自分の言った事を後悔するような表情を浮かべていた。

「来羽後輩、君、

 瑛莉は申し訳なさそうに、それでいて悲痛な面持ちのまま視線を合わせようとしなかった。

「それで声楽か……。だがしかし、失声症で声が出ない……。居づらいだろうな。楽器も弾けず、自らの楽器こえも使えない……。どうしたものか……」

 琥珀は琥珀でなにか共感できる部分があるのか、そんな事を言っていた。

「となると、奏多少年――こらこら、逃げるな」

 簡単に琥珀に捕まってしまい、奏多はピアノの椅子に座らされた。

「出来る範囲で良いのだよ」

 琥珀は急かすように耳元で呟いた。

 白と黒の鍵盤を見て、奏多は身体が熱くなるのを感じた。

 自分の中にある衝動が駆け巡る。だが、それを押さえようとする理性が働く。

 手を出し手は引っ込めを繰り返していると、昼休みを終えるチャイムが鳴った。

「……何でこんな時に鳴るのだ……ッ」

 琥珀は握りこぶしを作って残念がっていた。

 琥珀に解放された奏多と琥珀はトククラへと戻る。

 瑛莉は終始、顔を俯かせたままだった。



     4



 放課後、奏多は家に帰らずに学園周辺をブラブラすることにした。『勉強組』や『運動組』には奇異の眼差しを向けられるが、『芸術組』だけは奏多を見つけると嬉しそうに話をしていた。

 グラウンドの方では部活動に勤しむ生徒(部活に至ってはどの『組』も関係無い)たちがランニングをしていた。

「ほらーっ、気合い気合いーっ」

 中でも目立つのが侑里だろう。『運動組』の特別メニューをこなし、こうして部活動にも一生懸命取り組み、誓教活動もしているのだ。そんな彼女の体力気力に称賛を送るものは多い。一体どこで休んでいるんだ、と七不思議になりつつある。

 ふと、侑里は走るのをやめるとこちらに向かって手を振っていた。

「……」

 どれだけ目が良いのだろう。きっとマサイ族もビックリなのかもしれない。

 奏多の格好が奇抜なので分かりやすい、と言うのもあるのかもしれないが。侑里はそのまま走ってこちらに寄ってくる。

「雪比奈は今帰りか? なんか部活や委員会には入ってないのか?」

 侑里がそう問いかけて来る。

「別にどうでも良いんだけど」

 なら聞くな。

 奏多は素直にそう思った。

「『芸術組』の多くは文化系の部活に所属する傾向が強いな。運動部に属するのは極稀だ。何も入ってないなら丁度良い、短い高校生活なんだから部活動に入るなり委員会に入るなりして青春を謳歌してみたらどうだ?」

 汗を拭う姿は実に爽やかだ。それは『今』を楽しんでいる証拠なのかもしれない。

「雪比奈は何か趣味とかないの?」

 奏多は明後日の方向を向いていた。

「……君は本当に人の話を聞かないんだな……」

 侑里は呆れたように呟いていた。

「ま、流石は『芸術組』ってところかな。琥珀やチーさんも同じようなもんだしな。それじゃ、そろそろ行くわ」

 そう言って侑里は勝手に去って行った。何がしたかったのかよく解らないが、取りあえず消えてくれたので良しとする奏多だった。

 また暇になってしまい、ぷらぷら歩いて校舎を一周してきた。そして激しく後悔をすることになる。

「カナタに会えたのだーっ」

 喜色満面の千景に捕まる。他所見をしていたら、制服の裾を引っ張られ、そこには笑顔の千景がいた。逃げれない、と悟った奏多は今、大人しく連行されている。

「せっかく会えたのだから、お茶をしようと思うのだ。ああ、街とかに行くわけじゃなくて、礼拝堂の方に行くのだ。誓教室にはコハクが持ってきた紅茶やボクが持ってきた日本茶、アユミが持ってきたコーヒーとかがあるのだ」

 ぐいぐいと引っ張られ、奏多は礼拝堂に着いて一瞬だけ嫌な表情を浮かべていた。それに気付かない千景はそのまま中に入り、祭壇近くまで奏多を誘導した。

「ここで待ってて欲しいのだ」

 千景はそう言い残し、誓教室へと向かった。一人取り残された奏多は改めて礼拝堂内を見渡していた。

 割と古い建物のようだが、それなりに整備が行き届いている。業者に頼んでいるのだろうか、たくさんある長椅子はピカピカだし、ステンドグラスに至っては汚れ一つ見当たらない。天井を見上げると、そこには複写されている壁画があった。ちなみに、この礼拝堂には冷暖房の設備はない。夏は丁度良い避暑地となるが、冬は誰も寄り付かないのでより一層寂れた雰囲気を醸し出している。

 当たりを見ていると、奥の方にパイプオルガンがあるのが分かった。

 奏多は立ち上がり、それに惹かれるように歩み寄った。

 奏多の身体に巡っていた熱い衝動が燻ぶる。ホコリの無い鍵盤を見ていると、無性にかきたてられてしまう。

 そしてパイプオルガンはこう言っているように聞こえた。


――汝、我を使え。


 そんな声が聞こえ、奏多は自分でも分からないうちに椅子に腰をかけていた。そして、丁度良い位置と高さを調節すると、鍵盤に指を置いた。


 ボォ――ン……


 大きくて低い音が礼拝堂に響く。懐かしい音色に、奏多の表情が柔らかくなる。それも一瞬で、すぐに真剣な表情となる。

「……すぅー」

 軽く息を吸い、鍵盤を叩いた。

 時には強く、そして弱く。

 特には激しく、静かに。

 楽しげに、悲しげに。

 礼拝堂に響き渡るパイプオルガンの音。ちゃんと整備してあるらしく、音が掠れたり鍵盤が叩きにくいということはなかった。目は次の鍵盤を定め、指はせわしなく動く。楽譜なんて無い。今、全部自分一人で作り上げている。

 奏多の稀に見ない真剣な表情。パイプオルガンも、主を見つけて嬉しいのか、強く鳴り響く。

 最後まで弾き終わり、奏多は乱れた息を整えていた。

 パチパチパチッ、と拍手が聞こえた。振り返るとそこには、誓教の面子と瑛莉が立っていた。

「奏多お前……そんなこともできたのか……」

 村中教諭に至っては唖然としていた。

「奏多、あんたそんな才能もあったの……? 全然知らなかったんだけど……」

 長年奏多の傍に居た亜夕深でさえ、そんな事を漏らしていた。

「奏多君、そんな技量を持っているのに声楽科に籍を置いているなんて……。それは勿体ない事なんじゃないかな? 僕はそう思う。その才能、腐らせるわけにはいかないよ」

 昭人もたまにしか見せない素の表情を浮かべている。

「音が聞こえたから走って来てみれば……。すごいモン見ちゃったよ」

 体育会系美少女はただただ拍手を送り続けていた。

「ふむ……。奏多少年、君はこの学園の宝となるだろう。今からでも遅くはない、弦楽器科に転科して私と一緒にコンチェルトしようではないか」

 琥珀は手をわきわきさせながら勧誘をしていた。

「カナタ……スゴイなー……、楽器もできるなんて……」

 声のした方を向けば千景が盆を持って立ちつくしていた。

「おい、奏多。何勝手にあたしのパイプオルガン使ってんだよ――と言いたいところだが、不問にしてやろう。あたしに全部話すのならな」

 村中はにやりと笑っていた。きっと何か企んでいるに違いない。

「奏多、あんた声楽じゃなくて他に転科しても良いんじゃない? 楽器を弾けるみたいだし」

 亜夕深はそう言ってなぜか自分のことのように嬉しそうだった。自分のこと、ではなくて自分の子ども、の方が正しいのかもしれない。

「これが初代『特待生』の力の片鱗てワケか……。これを見せられたら、納得せざるを得ないよな」

 うんうんと納得しているのは侑里だ。

「君のその才能を潰すのは忍びない。生徒会長である僕の方からも理事会に推薦をしておくよ? 君は捺印か署名をすれば事が上手く運ぶだろう」

 昭人に至ってはなぜか転科することで話を進めている。

「少年が私の学科に……。ふふ、笑みが止まらないぞっ」

 琥珀の脳内では既に奏多が自分のいる科に転科してきたことを想像していた。

「むー、なんで音楽なのだ……。カナタ、書道だって良いのだ。新しい道を開拓する意味も込めて書道部に来るつもりはないか?」

 千景はなんとか勧誘を始める。

 わいわいと誰もが奏多のことをもてはやしているが、たった一人、瑛莉は地面を見つめていた。

「おっと、来羽のことを忘れてたな。あたしが来羽と色々してた時に、来羽の奴が『音が聞こえます』とか言うから駆け付けてみたんだよ。な、来羽?」

 村中が同意を求めるように振り返る。だが、瑛莉は肩を震わせていた。

「? どうしたんだ、来羽?」

 村中が怪訝な表情を浮かべて近づく。顔を上げた瑛莉の目には涙が溢れんばかりに溜まっていた。その様子に、村中はギョッとした。

「お、おいどうした……?」

 瑛莉は眉を吊り上げたまま、ボードに文字を書き連ねる。


【貴方がたには分からないでしょうね、私の気持ちなんて!!】


 初めて見る、感情的な瑛莉。感情的になり過ぎているせいか、文字が歪になっている。 

 瑛莉は恨みの籠った視線を奏多にぶつけていた。

【そのような才能を持ちながら声楽科に籍を置き、ロクに授業も受けず、適当に学校に来ている。楽器が出来るのなら他の科に行けばいいじゃないですか! なんで声楽なんですか!? アナタを突き動かしているものなんてないんでしょう!? 楽器を演奏することのできない私に対する当てつけですか!?】

 瑛莉は今まで溜まっていた物を吐き出すように書いて行く。

【私はなぜか楽器が演奏できないんですよ! 父も母もできるのに、私だけ出来ない……。それがどれだけコンプレックスだったか、劣等感を抱いていたか、貴方がたに想像できますか!?】

「く、来羽……落ちつ」

 ギロリ、と瑛莉が睨むと村中が手を引く。奏多以外の面子がそれに驚いた。あの泣く子も黙らせる村中を睨んだだけで制止させたのだ。

【私は目標としている、追いつきたい人物が居るんです。彼の背中を私は今も追い続けている。そのために、私は自分の楽器こえを磨きました。フランスの声楽学校で、私は常に一番を取り続けてきました。日本には素晴らしい教育機関があると聞いて、フランスで一番有名だった声楽学校を蹴ってこちらに来たくらいです。その過程で、私がどれだけ苦労をしてきたか解りますか!? 慣れない極東の言語を学び、覚え、習得し。自分には声楽しかない、だから私は自分の楽器を極めた! そして、私の苦労が実を結び、聖クリシチア学園の『特待生』として迎えられることになった】

 瑛莉の一文字一文字には怒りが込められていた。

【なのに、なのに! 私の声は出なくなってしまった!!】

 一同は気まずそうに視線を逸らした。誰も知らなかった――『特待生』の素性は秘密裡に処理をされる。恐らく、この事を知っているのは理事会上層部のみ。

 努力をして、それこそ血ヘドを吐いたかもしれない。その努力が実り、『特待生』と呼ばれる実力まで上り詰めた。だが、出なくなってしまった。その時の瑛莉の衝撃は、筆舌しにくいだろう。楽器は弾けず、自分の楽器も使えない。苦しかったはずだ。

 琥珀は思い当たる節があるのか、一段と苦しそうな表情を浮かべていた。

【この学園の『特待生』の制度には助かっています。ですが、他の学校では、私は要らない楽器というレッテルを貼られるんですよ!】

 むしろ、そっちの方が良かったのかもしれない。「要らない」と判断されれば諦めが付いたかもしれない。だが、この学園にはそんな評価をされてはいない。この学園に居続けなければならない。

【アナタはしゃべれるのに声楽の練習すらしようとしない。それは真剣に声楽を学ぼうとしている人たちに対する冒涜ですよ! アナタがどう言う経緯でこの学園に来たのかは知りませんが、なんで! なんでアナタは歌おうとしないんですか!? 楽器も弾けるのに、なぜ他の科に行かないんですか!? なぜ、その先へ進もうとしないんですか!?】

 瑛莉が奏多に詰め寄る。奏多の周りに居た生徒たちは、瑛莉の剣幕に押されて道を開けた。奏多の前には怒りの表情を浮かべ、涙を零す瑛莉しかいない。

【なんなんですか、アナタは! アナタの力の片鱗を見せつけられた時、私がどれだけ苦しかったか、アナタに理解できますか!? アナタを見てると腹立たしいんですよ!】

 今までの毒舌ではなく、純粋な罵倒だった。今の瑛莉には毒を吐く余裕すらないのだ。

【アナタには目標が無いんですか!? だからそんなのんきにへらへらと、のうのうと、何の使命を帯びずに生きているんですか!?】

 奏多の目つきが、変わる。眠そうな半眼から、鋭いモノへと。

【誰の期待を背負っていないアナタに、私の苦労は分からない! 期待されて、押し潰されそうになっている私の気持ちをアナタは理解できない!】

 奏多はボソリと呟いたが、それは誰の耳にも聞き取れない程度の音量だった。

【絶望を知らないアナタに、私のことは永遠に分からない!!】

 ギリッ、と奏多は奥歯を噛んだ。そして


「おまえに、俺の何が分かるッ!?」


 ビリビリと空気が振動する。一同は目を剥いてその人物を見ていた。

「か、奏……多……?」

 亜夕深が信じられない物を見るかのような目で奏多を見ている。

 そこに居たのは、今まで見た事もない怒りの表情を浮かべている奏多だった。

 いつものような無表情の奏多ではない。無表情と言う仮面の下に隠されていた本当の奏多が今、晒されているのだ。

「てめえに俺の何が分かるってんだよ。はっ、おまえにも分からねえだろうな……。なんで俺がこんな格好なのかも、腹ン中も、心ン中も全部! 分かる訳ねえよ! 絶望を知らない? ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!? 俺にとっちゃあ! !」

 誰もが困惑をした。奏多は何を言っているのか誰一人として分からなかった。だが、今の奏多は誰一人見たことが無い。初めて見るその姿に誰もが言葉を失っていた。

「おまえはまだ大人に守られてその先を知らねえただのガキだ。そんなガキが俺に説教垂れてんじゃねえよ。その程度のことで絶望なんて言うのはおまえが世界を知らないだけだ。本当の絶望ってのはもっと暗いんだよ。一寸先は闇なんてもんじゃねえぞ。おまえはまだ幸運だ」

 瑛莉が睨み上げて来るが、奏多はそれを冷たく見下ろしていた。そして奏多は歩き始める。

「か、奏多っ」

「触るな」

 亜夕深が触れようとしてきたが、奏多はそう言って亜夕深の手を振り払い、礼拝堂をあとにした。

 見上げると真っ赤な夕日が綺麗だ。それはあの日の色と酷似している。

「……なまっちょろいこと言ってんじゃねえよ、ガキが」

 奏多の呟きは誰にも聞こえなかった。

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