第三音節
1
翌日、奏多はてろてろと学校へ向かっていた。別に行かなくても良かったのだが、気分転換の意味で学校に行くことにしたのだ。
現在の時刻は午前九時四○分。完全に遅刻なのだが、『特待生』にはそんなものは関係ない。大盤振る舞いの特権を堂々と行使し、そのまま校舎へと向かう。
校舎へ向かう途中、グラウンドに視線を向けた。そこでは『運動組』がなにやら競技をしているところだった。無駄に設備が良いため「本当にそれは必要あるのだろうか」と思うような器具まで置いてある。
今は五○メートル走らしく、生徒たちはクラウチングだったりスタンディングだったりでスタート位置に立っていた。そしてホイッスルの音が聞こえると一斉に走り出す。
遠くなのであまりよく解らないが、一着の生徒はどうやら女子のようだ。だとすれば、侑里かもしれない。彼女は『運動組』の陸上競技部トラック競技科という謎の所属のホープでもあるのだ。
『運動組』に所属している生徒は部活動に属することが決められていて、各部、輝かしい成績を残している。中でも、侑里の所属している陸上部は毎年インターハイに出場している部活でもある。侑里を筆頭に、中学では名を馳せた生徒たちが好成績を残そうと励んでいる。あまり良くない成績だと、部費を下げられてしまうため必死らしい。
近隣にとある高校があるのだが、そこの男子のハンドボール部(サッカーとバスケを足して2で割ったようなスポーツ)がかなりの強豪らしく、その高校だけには勝てないらしい。なんでも、中学時代のジュニアオリンピックの選手が二人、その高校のハンドボール部に所属しているらしい。経験値に差があり過ぎるのだろう。
奏多は再びトラックを見ると、余程好タイムだったのか、侑里がガッツポーズをしていた。周りから称賛されている侑里を横目に、奏多は背を向けた。すると背後から
「お―――――――――いっ、ゆっきっひなぁ――――――――――――ッ」
と侑里の声が聞こえた。どうやら見つかったらしい。目が良いな、と思ったが、よくよく考えてみると、こんな中途半端な時間に登校してくるのは自分ぐらいだと思い至った。
振り返ると、侑里は手でメガホンを作っていた。そしてこちらに向かって手を振っていた。周りの生徒は「やめなよ」と促しているが、侑里はそんな事を気にしていなかった。むしろ、積極的に奏多に関わろうとしている様にも見える。
琥珀や千景は明らかにおかしい感性を持っている(←失礼)ので、話しかけてきたり、触ってくるのだが、侑里のような常識人が奏多みたいなドロップアウトに等しい劣等生と関わろうとするのは珍しい。
「遅刻だぞ―――――――――――――――――――――ッ」
それだけが言いたかったのだろうか。
奏多はプイ、と顔をそむけるとそのまま校舎へと向かった。後ろからは「まぁた無視されちゃったよ、どうしよう?」と少し笑ったような声が聞こえた。
下駄箱で上履きに履き替え、ひんやりとした廊下を歩く。階段を上がっていくと『勉強組』のナワバリへと入った。てこてこと歩きながら教室を見ていくと、みな机にかじりついてノートにシャーペンを滑らせていた。『勉強組』の机は一般高校の机より一回りほど大きい。机の上にはいくつもの辞書と参考書がビルの様に置かれていた。
しばらく歩きながら見ていると、亜夕深の居る教室へとたどり着いた。流石は優等生と言うべきだろうか、亜夕深はわき目も振らず黒板を模写したり、先生の言葉をメモしたりしていた。
国立選抜部難関大学科。目指すは東大・京大・北大といった、日本三大学府。なんともハイレベルなクラスだが、少し都心寄りの高校には及ばないらしい。
超名門の進学私立聖嶺高校。そこの平均偏差値はなんと65~70ともはやバケモノクラスしか所属していない高校だ。恐らく、亜夕深が逆立ちしたって入れないだろう。噂によると、去年の秋頃に全国模試第一位の生徒がそこへ編入したらしい。聖嶺高校は多くのエリートを輩出しているが、ここ聖クリシチアは数人しかいない。それは教師の力量不足なのか、生徒の質の問題なのか分からない。
ふと、顔を上げた亜夕深と視線があった。亜夕深は明らかに「今来たの?」と言いたげな表情を浮かべていた。奏多はなんのアクションを起こす事もなくその場から立ち去った。
廊下を歩いていると、今度は『芸術組』のナワバリに入った。教室からは何かを叩くような音や削る音、擦るような音が聞こえて来る。大方、造形部の部屋の前なのだろう。廊下を歩いていると、教室内の女子生徒が奏多を見て嬉しそうに会話をしている。
実のところ、奏多は『芸術組』の女子に密かに人気があったりする。そのダークな風体や、ミステリアスな空気が女子たちに人気のようだ。
音楽部のナワバリに入ったようで、ガラス張りの教室を通った。防音設備は完璧で、ガラスなのに廊下には音が一切漏れていない。どう言う技術を使っているのか不思議なガラスである。その教室の中では琥珀がウッドベースを弾いていた。その様子はとても力強く、ダイナミックで優美だった。
本人曰く「弦楽器ならなんでも弾ける」らしい。その代わり、打楽器や金管楽器は全くできないようだ。こちらには音が聞こえてこないが、とても綺麗な音色なのだろう。中にいる生徒はうっとりとしていた。
しばらく見ていたら、なんと琥珀と目が合ってしまった。琥珀はにんまりと笑うと演奏を中止し、教室外に出て来た。
「なんだ少年、私の演奏姿に惚れてしまったのか? 私と付き合えばいつでも見せる事が出来るぞ。……二人っきりの音楽室……ふふふ、劣情を催すシチュだな」
琥珀がワケの分からない事を言っているので、奏多はいつものように無反応だった。
「……だんまりはもう慣れたつもりだ。少年、中で私の演奏でも聞いて行くか? こう見えても私の腕はプロ顔負けだと自負している」
琥珀は奏多のアゴをなぞりながら言っているが、奏多はそ表情を変えずただ見ているだけだった。
「そう突っ立っていても邪魔になるだけだ。だがまあ、この時間帯に登校をして来るのは少年だけだろうな。とは言っても、邪魔は邪魔だ。少年、教室に入れ」
琥珀は「入れ」と促して来るが、奏多は動くつもりは全くなかった。
「……少年、なぜ私がこうでまでして貴様の傍に居たがるか……考えた事があるか?」
問いかけて来るが、奏多は答えない。いつまでも黙ったままだ。
「……まあ良い。言う日が来たら、その時に言おう」
そう言うと琥珀は一歩奏多に近づいた。綺麗に整った顔が急接近してくる。そして
「私は諦めぬよ、少年。いつか必ず、貴様を手に入れてやる」
琥珀はスッと身を引き、「はっはっは」と高笑いを浮かべていた。
「それじゃ、また会えたら会おう」
そのまま背を向け、教室へと戻って行った。一方、奏多はと言うと
「……」
ハッとしたように身体を動かした。
寝ていたのだ。
あまりにも琥珀の話が長いし聞くのが面倒だったという事があって、奏多は立ったまま寝ていた。起きたら琥珀が居なくなっていたので、何を話していたのかさっぱり分からない。奏多は少し不思議に思いながらそのまま廊下を歩いていた。
少し歩くと、今度は千景が所属する書道部の教室に着いた。深い意味はないのだが、教室内を見てみると誰もが半紙の上に筆を滑らせている。達筆な字で何か書いている人も居れば、絵を描いている人もいる。教室の奥に千景は居た。
だがしかし、そこに居たのは奏多の知る千景ではなかった。
その真剣な眼差しは大人の女性を感じさせ、綺麗な姿勢は書道に対する真摯な気持ちが感じ取れた。筆を動かす手も、流麗で淀みがない。
子供のような千景しか知らなかったのだが、こんな大人な顔もできるんだと、少し感心していた。
一段落ついたのか、千景は小さくため息をついて筆を置いた。筆を置く際に奏多と目が合い、いつもの笑顔を作ってこちらに手を振ってくる。そして椅子から離れると机の間を縫うように歩いて廊下へと出て来た。
「カナタ、今来たのか? もう一時間目も終わるころなのだ。遅刻はダメなのだ。……って言っても、カナタは『特待生』だから関係無いんだったのだ」
先ほどの様子とは打って変わって、千景は愛想を振りまいている。
「カナタはコハクと同じ音楽部だけど、普段は何をしているのだ? コハクみたいにただ楽器を演奏しているわけでもなさそうなのだ」
奏多は声楽科に籍をいているが、取り立ててやることはない。ちゃんとした声楽科の生徒に聞いた方が早いような気がする。そう言う事もあって、奏多は答えずただ見下ろしているだけだった。
「……カナタ、なんでそんなに黙っているのだ?」
稀に見ない、千景の眉がハの字になった顔。
「コミュニケーション云々は置いておいて、ボクはカナタとお話がしたいのだ。だけど、話しかけてもカナタは黙ったままなのだ……。それだと、寂しいのだ」
千景が何かを訴えているが、奏多の心には響かない。他人が見れば同情し、話を聞いてあげたくなるような表情をしている千景を見ても、全く心は動かない。
「カナタのその態度……中学時代のボクと似ているのだ。誰とも話そうともせず、自分の殻に籠っている……。カナタ、ボクはカナタにそんな道を歩んでほしくないのだ。もしかしたらボクは、その過去をカナタに投影している嫌な奴なのかもしれないのだ……。乗り越えるべきトラウマを、他人を介して克服しようとしている……。ボクはそう考えてしまって、辛かったのだ……」
千景はその小さな拳を祈るように組んでいる。
「だからボクは、誓教に入ったのだ。こんな浅はかな自分を戒めたくて、他人の助けとなりたくて」
奏多はチラリと自分の右手の包帯を見た。その戒めを。
「……ボクはあんな辛い思いを、カナタにさせたくないのだ。だから、カナタ……心を開いてほしいのだ」
少女の小さな願い。だがそれは、少女が叶えるものではない。奏多自身が変わらねばならない問題だ。奏多は何も答えず、背を向けて歩き始める。
「カナタ……」
少女の消え入りそうな声は聞こえていたが、聞こえない振りをしてそのまま歩き去る。
琥珀は何がしたかったのかよく解らないが、千景は千景で思う所があって奏多に近づいていたらしい。だが、奏多はその願いを聞き入れることはできない。この自分を囲んでいる強固な壁と、自分を覆っている分厚い殻をどうにかしなくてはならない。そして、越えなければならない十字架があるのだ。
奏多は立ち止り、自分の左手のグローブを見つめる。このしがらみはいつまで続けるべきなのか、答えはすでに出ている。奏多が死ぬまで、コレは隠し通さなくてはならない。誰にもしゃべってはいけない過去の象徴を奏多は見つめる。
やっとのことでトククラに着き、戸を開けるとそこには瑛莉しかいなかった。黒板には荒々しい字で『なんかやってろ』と殴り書きされていた。相当適当な担当教諭なのだが、これでいいのだろうか、と不安になってしまう。
瑛莉はただじっと椅子に座っていた。左隣の自分の席へと向かい腰を下ろす。そして奏多も何をするわけでもなくぼけーっとしていた。
ふと、右から視線を感じたので振り向くと、瑛莉がボードを持ってこちらを見ていた。
【こんな中途半端な時間に御登校とは、さぞ高い身分なんでしょうね。曲がりなりにも学生なんですから、普通の時間に登校する事もできないし時間の計算もできない残念な頭なんですか?】
朝から辛辣な言葉をぶつけて来る後輩に、奏多は眉ひとつ動かす事も無く、無機質な視線をボードに向けていた。
しばらくぼけーっとしていた奏多だったが、授業終了一○分前になると突然腰を上げた。別にトイレに向かうためではなく、とある少女の追撃から逃れるために移動するのだ。
教室のドアを開けた途端、担任である村中と鉢合わせした。
「なんだ奏多、おまえ来てたのか」
「……」
「おまえのそのだんまり上目遣いは慣れたよ。それはそうとおまえ……昨日、しゃべったらしいな。誓教の連中……つっても、進藤と羅乃峰、庄司の三人だが、そいつらがそう言っててな。奏多、おまえ話せるのになんで黙ったままなんだ?」
何を怒っているのか解らないが、なんだか御立腹のようだ。
「あたしはそーゆー筋の通らねえやり方は好きじゃねえんだよ。それに……おまえはいつも死んだ目をしてる」
奏多はゆっくりと、村中の顔を見上げた。
「なんでそうお前は絶望をした目をしてる? なんでそうお前は頑なに他人と関わろうとしない? なんでお前はそう他人から距離を取ろうとする?」
村中の問いかけに、奏多は何一つ答えない。
「……なあ、奏多。あたしらはどうすればいいんだ?」
村中は嘆息をつきながら、奏多に問うてきた。
「あたしに限った事じゃないが、殆どの人間がお前のことを全く知らない。『特待生』は秘密処理されるとは別次元に……おまえの情報が少なすぎる。来羽については必要最低限の情報が揃っちゃいるが、おまえだけは名前以外、何も分からない。進藤は何か知ってるみたいだったが……アイツはアイツで義理堅いからな、口を割ろうとしない」
それもそのはずだ。あの事は進藤家でも完全にタブーとなっている。だから亜夕深は口を割ろうとしないのだろう。
奏多は普段使わない頭を使ってアレコレ考えている間にチャイムが鳴った。
「……チッ、休み時間か。あたしは次の時間、礼拝堂でやる事があるから帰らねえと……。めんどくせえがこの話はまたあとでだ、奏多」
村中はそう言って背を向け、廊下を歩いて行った。その背中を見送りながら奏多はボソリと、自分にだけにしか聞こえない音量で呟いた。
「……話したところで、理解できないからな」
村中の背中を見送りながら、そう呟いた。
結局、奏多は満面の笑みで迫ってくる千景と一○分の鬼ごっこを強いられた。
2
一○分耐久の鬼ごっこが終了し、息も絶え絶えに教室に入ると瑛莉がかなり嫌な表情を浮かべていた。そして瑛莉の目は「なにこいつ、何でこんな息荒いの? キモ」と言いたげだ。
瑛莉はホワイトボードにペンを走らせる。奏多はその間に息を整え、自分の机へと向かった。そして右を見ると、瑛莉がボードをこちらに見せてくる。
【なんでそんなに息が荒いんですか? 正直、かなりキモいです】
殆ど予想通りの言葉だったので傷つくことはなかった。息が荒い理由も、一から十まで教える必要もないので奏多は何も言わない。
呼吸を整えていると瑛莉が何か気付いたような表情を浮かべ、ボードに何か書いていた。
【その呼吸法。腹式呼吸法でしたっけ。そちらの方が慣れているんですか?】
特に意識したことはなかったのだが、瑛莉は何かに気付いたようだ。奏多は何か言おうとしたが、それよりも早く瑛莉がボードにペンを走らせていた。
【ああ、そうでした。男性は声変わりを迎えると呼吸法が胸式呼吸から腹式呼吸へと変わるんでしたね。ええ、私一人で気付いたことなので先輩は全く関係無いので勘違いしないで下さい】
瑛莉はそこまでもして何か言いがかりや貶す材料が欲しいのだろうか。そして、そこまで自分は嫌われているのか、と奏多は考えていた。奏多が何も答えないでいると、瑛莉はムッとした表情を浮かべていたが、それ以上何も言ってくることはなかった。
それ以降は時計の秒針を刻む音のみが教室を支配していた。
黒板には『なんかやってろ』という適当な伝言しかなく、何かをやろうという気すら起きていなかった。『特待生』ではなく、一般の『芸術組』の生徒だったなら今頃は普通の授業を受けているだろう。こんな事を思うのは何度目だろうか。『特待生』は居るだけで良い。学園上層部がそう言っているように聞こえる。実際はそうなのかもしれない。
瑛莉は瑛莉で座っているだけだった。
失声症という病を患っている少女。
瑛莉は音楽部の声楽科に籍を置いている(らしい)。声楽を学ぶ身でありながら声が出ないのであれば居る意味が全くない。他の科に転科するなど手段があるのに、それをしようとしていない。奏多にも言えることなのだが、奏多は声が出る。だが、歌おうとも練習をしようともしない。
奏多は歌を憎んでいる。こんな声があっても、誰も救うことはできない。
隣で溜め息を吐いている気配がした。右を向いてみると、瑛莉が物憂げな表情を――寂しそうな表情を浮かべていた。なぜか知らないが、それが本来の彼女のように見えた。
こちらの視線に気付いたのか、瑛莉は奏多の方を見ると睨んで来た。初対面の際に『見られるのは好きじゃない』と言っていた気がしたので、奏多は緩慢な動きで瑛莉から視線を逸らした。
自分一人の場合の無言な空間には慣れているが、二人での無言な空間はなんとも居心地が悪い。
家に居たら居たで夕実が「あれ~、なにしてるの~?」と話しかけて来るので、それはそれで対応が面倒くさい。
二人は何をするわけでもなく、時間を潰していた。
3
午前の授業が終わる二○分前、奏多は時計を確認すると立ち上がった。
昼食を取りに行こうと立ち上がったのだ。授業が終わった頃に向かうと食堂は混むし、売店では売り切れなどが出てしまう。『特待生』であるがゆえに、お昼は確実に食べられるのだ。
奏多が腰を上げたのと同時に、瑛莉も腰を上げていた。
「「……」」
互いに見つめ合う。最初に動いたのは瑛莉だった。
【マネをしないで頂けますか? どうせ「今のウチに昼食を取ろう」と思っているのでしょうけど、私はあなたと一緒に昼食を取る気は全くないので、後にしていただけませんか?】
まさかの態度に思わずお代を払おうと思ってしまった。
本来であるなら後輩である瑛莉が先輩である奏多に遠慮をして自分が後にすると思うのだが、この少女はどこまで慇懃無礼なのだろうか。
「……」
奏多はそれを見た上で教室から出ようとしていた。瑛莉は慌てて奏多の後を追いかける。
【あなたは字が読めないんですか? それとも理解できてないんですか?】
奏多はそれを見るとため息をついた。
「……聞かせてもらうが」
あの奏多が口を開いた。感情の籠っていない、機械の様な声が廊下に空しく響く。合成音声と言われても不思議とは思わないだろう。それほどまでに、奏多の声には何の感情も含まれていなかった。
「……お前は食堂や売店の位置を知ってるのか?」
「……」
奏多の問いかけに瑛莉は黙ってしまった。それは無言の肯定でもあった。入学したての瑛莉に取って、まだ学校は迷路の様なものだろう。きっとどこに何があるのか把握できていないはずだ。
奏多はそのまま背を向け、歩き始める。瑛莉は慌てて奏多の後ろにくっついて歩いていた。
『特待生』二人が無言で廊下を練り歩いていた。幾度か道を間違えながら廊下を歩いていると、ようやく食堂に着いた。そして、瑛莉がボードを奏多に見せる。
【トククラから一○分も離れてない所なのに、なんで二○分もかかってるんですか?】
瑛莉が恨むような視線を向けていた。
【一年も先に居て、それなのに位置を把握できていないなんて。あなたのその頭はよほど機能していないようですね】
そしてバカにしていた。事実なので奏多はなにも言わない。そもそも、奏多が学校に来るのは気まぐれのようなもので、一日学校に居ること自体が珍しい。食堂に来るのもほぼ一年ぶりなので覚えていなかったのだ。
食堂の前にあるガラスケースの中には本日のメニューが並んでいた。定番の和食定食や日替わり定食・カレー(ポーク、チキン、ビーフ、カツ、ハンバーグなど種類豊富)・オムライス・唐揚げ定食など、様々だ。
奏多は財布の中にある生徒登録カードをかざして食券を購入した。『特待生』にだけに支給されるカードで、中にICチップが埋め込まれている。その中の磁気データを読み取り『特待生』のデータならかざすだけで食券を購入することが可能なのだ。
奏多は面倒だったので和食定食を購入していた。
学食のおばさんに食券を出すと「久し振りだねえ」とにこやかに話しかけられたが、奏多は無視をしていた。それでもおばさんは笑顔を絶やさない。それより、ほぼ一年振りの奏多を覚えていることに驚きだった。
トレイを持って空いている席に向かい、腰を下ろす。箸を持って一礼しもそもそと食べ始めた。
コトリ、と目の前に誰かがトレイを置いた。箸を口に入れたまま顔を上げてみると、そこには仏頂面の瑛莉が居た。ちなみに和食定食だった。
【なんですか?】
前もって書いていたのだろう。奏多はそれだけを見るとそのまま食事を再開した。
「「……」」
カチャカチャ、という食器の当たる音しか聞こえない。普段なら生徒たちの喧騒で騒がしい食堂も、無口な二人(一人は病気で声が出ない)ではあまりにも静かすぎる。ただ食事をするのではなく、ここは先輩として奏多が何かしらの話題を提供すべきなのだろうが、あいにくと奏多はそんな気遣いが出来る人間ではない。それに、目の前の少女は何に対しても辛辣な言葉を浴びせてきそうだ。
この後輩との溝は深まる一方である。
奏多は昼食を取り終えると、食器を流しへと持って行った。そして食堂から出ていくと、数人の男子とすれ違った。男子たちは奏多を見ると「なんでアイツが居るんだよ」「知らねえよ」と話をしていた。奏多は意にも介さず真っ直ぐ歩き、自販機の前で立ち止まった。何を買おうか少し迷っているうちに、生徒が食堂にたくさん集まり始める。自販機の烏龍茶か黒烏龍茶にしようか迷っていると、食堂の方から怒鳴り声が聞こえて来た。
「……」
あの食堂に居るのは、あの瑛莉だ。嫌な予感しかしない。
『ふざけんなよこのガキッ!!』
ついにキレてしまったらしい。奏多は知らん顔をしていたが、どうも気になってしまい戻って行った。もしかしたら、あの毒舌娘が要らんことをしているのかもしれないと思ったのだ。
奏多からは見えないのだが、案の定、数人の男子が瑛莉を見下ろしていた。そして瑛莉はボードを抱えてそれを見せているのだろう。あの毒舌は奏多だけではなく、他の人にも浴びせるモノらしい。
「一年のクセにその舐めくさった態度はなんだよ!!」
「おい、声でけえよ。村中が来たら折檻部屋行きだぞ……」
生徒だけでなく教師も恐れるという村中管轄『折檻部屋』。聞いた話では、そこに入った人は「うすっ、村中さん、御苦労さまですっ」とそんな感じになるらしい。中で何が行われているかは当事者たちしか知らないし、当事者たちは口に出そうともしないらしい。何が行われているかは謎とのことだ。
「舐められたままでいいのかよ!?」
「いや、確かにそうだけどよ……」
「さっきの声、相当響いてたぞ……そのうち聞き付けた生徒が来るかも知れねえよ」
「うるせえな、オレぁこいつの態度が気に食わねえんだよ!」
羽交い絞めにされている男子生徒を、瑛莉は冷めた目で見つめていた。その態度が癇に障ったのか、男子生徒はさらなる罵倒を浴びせる。
「こンの……無感情女がッ!」
【だったらなんだって言うんです? 大声を上げれば相手が委縮すると思ったら大間違いですよ。それに、先に因縁を吹っかけて来たのはあなたたちです。私は「見られるのは好きじゃないんでやめてください」と言っただけです。何がそんなに腹立つのか理解に苦しむんですが】
やめておけば良いのに、瑛莉はさらなる悪態をついてしまう。それに、今まで毒舌を吐く相手が奏多だったため、常人が言われたらどう反応するかを忘れているのかもしれない。
「てめぇ、親にどう言う教育されてんだよ! どうせ適当に育てられてんだろ!?」
「ッ!?」
あの無表情は瑛莉の表情が変わった。驚くと言ったような、単純なものではない。
絶望したかのような、そんな表情だった。
「どうせロクな育てられ方じゃなかったんだろうな! そうでなきゃ、お前みたいなクソガキはできねぇよ! 礼儀もまともに教えてもらってねぇんじゃ、お前の親は、お前のことをどーでも良いように思ってんだろーなぁーッ!」
その言葉を聞いた瞬間、奏多は歩き始めていた。
奏多には関係の無い、瑛莉が引き起こしたことだ。いずれ騒ぎになって他の生徒が教師に言って、教師が駆け付けて来る。その人らに任せておけばいいのに、奏多は居ても立ってもいられなくなり、瑛莉の元へと向かっていた。
瑛莉は震えている。あの慇懃無礼で口の減らない毒舌娘が、泣きそうになっていた。
奏多はそれを見逃す事が出来なかった。なぜか知らないが、見逃したら瑛莉が独りぼっちになってしまうと思ったのだ。
授業を終えたらしい生徒の多くが食堂に入り始めている。さっさと瑛莉を回収しなければならない。
いつもは歩みのスピードが遅い奏多なのだが、今回は珍しいことに早足だった。それでも、もう人だかりが出来始めていた。だが、完全にその男子生徒らが分からなくなる前に奏多は食堂へと入った。奏多の接近に気付いたらしい一人の男子生徒が「おいっ」と仲間の男子生徒に知らせていた。
「雪比奈……っ!?」
「なんでこいつがここで出張って来るんだよっ」
「知らねえよ。でも、雪比奈の担任って確か村中だよな?」
三人が勝手に血の気を引かせている中、奏多は瑛莉を見下ろした。奏多と目があった瑛莉は肩をすくませる。周りの生徒たちは「え、なに?」「つか、あのキミョーな人って誰?」「なんで雪比奈君が……?」と奏多に注目し始めるが、そんな事はどうでも良かった。
「……」
奏多は一言も言わず、瑛莉のことを見下ろしていたが、男子生徒ら三人へと視線を移す。
「な、なんだよ……っ」
「……」
「お前には関係ねえことだろっ?」
「……」
「なんなんだよ……何が言いてえんだよ、はっきりしろよ! 何とか言えよ!」
奏多はただじっと見ているだけだった。光の無い、精気を失った右目一つで見られることで、男子生徒ら三人は怯えていた。
「ふむ、争いごとか?」
集まり始めた人混みをモーゼのように割って入って来たのは琥珀で、そんな事を言っていた。突然現れた誓教副会長のフリルが小さく揺れる。琥珀が現れたことにより、男子生徒らがバツの悪そうな態度を取るが、周りの人だかりに交じり始めていて野次馬の体で居ることにしたらしい。
「……ふむ」
琥珀は人だかりを見渡し、顔をそむけた男子生徒ら、奏多、瑛莉の順番で顔を見る何度か頷いていた。
「なるほど、大体の状況は把握できた。……貴様ら三人は放課後、村中教諭の折檻部屋に召喚だ」
「「「なっ!?」」」
ピンポイントで瑛莉を罵倒していた男子生徒らを見つけ出す。
「か弱い女子学生を寄ってたかって詰問していたのだろう?」
「俺らって証拠はどこにもねえだろうが!」
「もはやそれが自白だということを自覚したまえ」
そもそも、私が見渡した時に露骨に顔をそむけていたではないか。琥珀はそう言って腕を組んだ。
「良いか貴様ら、これは私個人の意見ではない。マリア誓教の総意だ。そこの少年が疑わしいと思われがちだが、その少年は同級生はおろか私たち誓教のメンツにすらロクに挨拶をしないヤツだぞ? そんなヤツが女子生徒に向かって怒声を浴びせると思うか?」
奏多のことを知っている生徒なら分かることだ。そもそも、奏多はしゃべらないのだから。
「なんにせよ、貴様らは放課後に召喚だ。顔は覚えたから、あとは顔写真付きのファイルを漁ればよい」
そう言って琥珀は薄い笑みを浮かべて瑛莉に近づく。琥珀の丁度真後ろに居る男子生徒らはこそこそと逃げようとしていた。
「よもや」
琥珀の鋭い声に、男子生徒らはその場から動くことが出来なかった。
「よもやこのままサボタージュ……なんてことは、ないよな?」
その「ニゲルナヨ」という釘を刺す行為によって、男子生徒らはうなだれていた。
「ふむ、これにて一件落着、ということかな。……それ、散れ野次馬どもっ。見せモノではないのだっ」
琥珀は瑛莉の手を優しく握り、集まり始めた生徒たちを散らせた。
「奏多少年、貴様も来い」
琥珀は生徒の間を堂々と歩く。瑛莉は少しもたついていたが、ちゃんとついて行った。奏多もほんの少し早歩きで食堂をあとにした。瑛莉が残したモノはきっと誰かが片してくれるだろう。
4
「さて、何故あのようなコトになっていたのか、
そろそろ午後の授業が始まろうとしているのに、琥珀はトククラに居た。先ほどよ莉加は落ち着いたのか、それでも瑛莉は自分の椅子に腰をかけて床を眺めているだけだった。今彼女が何を思っているかは誰にもわからない。琥珀はそんな瑛莉を見つめながら、奏多の椅子に腰をかけていた。当然のように、奏多は立たされている。何もしていないのに。
「状況証拠だけでも村中教諭の尋問――もとい、説法で全てを聞きだすことは可能だが、ある程度の事の顛末を知っておきたい。少年、話してくれるか?」
誓教の連中も大変だな、と奏多は思いながら突っ立っていた。
「少年、黒板を見続けても私は何も分からないんだが」
黒板には『なんかやってろ』という書きなぐりのほかに『面倒事は引き起こすな』と書き足されていた。恐らく、昼休みの間に一度来て付け足したのだろう。だが、既に面倒事は起こってしまった。起こってしまった場合はどうすればいいのだろうか。
「村中教諭は一年もこの少年の相手をしていたのか……。何ともご苦労なことだ」
ため息をつく琥珀だが、「少年」と奏多に呼び掛ける。
「少年、少しは協力してくれ」
琥珀がそう頼み込んでくるが、奏多としてはどうでもいいことだ。瑛莉が勝手に引き起こした事態で会って、奏多が引き起こしたわけではない。なぜ自分が、というのが奏多の素直な意見だった。
チラリ、と瑛莉を見る。いつものような元気(あるいは毒気)は無く、ただただ意気消沈としている。
「……」
奏多はそれを見て、琥珀の方を向いた。
「……俺だって、全部を見てたわけじゃない」
トククラに響くひどく落ち着いた男性の声。何故か知らないがその声には独特の魅力があり、いつでも聞いて居たいと思うようになってしまう。
「奏多少年の声は……何と言うか、不思議だな……。いや、今はそんな事は良い。別に、途中から見たことでも構わない。それに、少年はこの少女に言いたかっていた少年らを見ているからな。少年にも後で顔写真付きのファイルを見てもらおうとしよう」
すでに男子生徒らの輪郭がぼやけているのだが、どうすればいいだろうか。
奏多は自分が見聞きした分だけを覚えている限り琥珀に伝えた。琥珀は一つ一つを吟味して頷く。
「なるほど……事情は分かった」
琥珀はそう言って立ち上がった。
「奏多少年だから、その証言を幾分か疑われるだろうが」
とても失礼である。
「何とかなるだろ。少女も一応来てもらうぞ、良いな?」
問いかけると、瑛莉は小さく頷いた。
「ふむ、良い子は好きだよ」
琥珀は優しく微笑む。
「さて、と。私はそろそろ教室へと戻ろうかな」
時刻は既に午後の授業を開始している。普通に考えれば遅刻なのだが、琥珀は言った。
「なに、少しは休憩が必要なのだよ」
言い方から察するに、授業を少しサボったりするらしい。それでも誓教の一員か、と言いたいところだがそれは琥珀の生き方だ。奏多が口出しすることではない。
「ふはははっ。少女には悪いが、今日は良い日だ。なにせあの奏多少年と一○分も話す事が出来たのだからな。くくく、千景少女が聞いたらさぞ悔しがるだろうな。さらばだ」
琥珀は笑いながらトククラを去って行く。
「「……」」
琥珀が居なくなったことにより教室は一気に静かになった。
瑛莉はそわそわしている。なんとなく居心地が悪いのだろう。普段から奏多に対して暴言や毒舌を吐いているだけに、その相手に助けられ同じ部屋に居るなど、居心地が悪いに決まっている。
自分の出番は終わったようなので帰ろうかと思った矢先、瑛莉がホワイトボードを見せて来た。
【気にならないのですか?】
なにが、と言うのは野暮だろう。
無視をしても良かったのだが、奏多は口を開いた。
「……他人のゴタゴタに口を出したり、首を突っ込んだりするのは俺の性分じゃない」
冷たいセリフを言う奏多。普通の先輩後輩の仲であれば、何か気の利いた事を言うなりして瑛莉の負担を軽くするハズだ。
「……おまえの問題だ。俺が知った事じゃない」
完全に瑛莉から距離を取っている。おまえの問題に踏み込んだりはしない。赤の他人であるおまえのことを心配するのは筋違いだ。奏多はそう言っている。
とは言ったものの、少しは気になっていた。あの男子生徒が親子関係のことを言った瞬間に瑛莉の表情が変わったのだ。気にならないはずがない。だがこの問題は瑛莉の問題だ。奏多が認知したところではない。
「……この話は終わりだ」
奏多はそう言って話を打ち切った。
しばらく沈黙が教室を支配していると、教室の戸が勢い良く開かれた。そこから少しご立腹状態の村中が入って来る。
「おい、ガキども。あたしが書いた字が分からなかったのか?」
恐らくあの後、琥珀が村中に報告したらしい。イライラ状態でご降臨なさった。
「起こしちまったもんはしょうがないが、周りの生徒に伝わらないように努力しやがれ。面倒だったんだぞ」
村中は頭をかきながら瑛莉の方を見た。
「来羽……、気にするな。あたしらの方で何とかしておくから」
何故か釈然としない奏多だった。
いつもの瑛莉ならばここで少し生意気なことを言うのだが、まだそんな元気はないようで村中を見るとすぐに床に視線を戻してしまった。
「……奏多、出来ればおまえも来てほしいんだが。おまえは羅乃峰にその時の状況報告したんだろ?」
奏多は答えなかった。自分の役目はもう終わっている、と言わんばかりの態度だった。
「……分かった、お前は当てにしねえ。好きにしやがれ」
奏多はそう言われると、さっさと帰り支度を整えていた。それを見て、村中は舌打ちをしていたが「好きにしろ」と言った手前、言い止める事も出来ない。そもそも、何か言ったところで奏多が止まるとは思えない。
帰り支度が整った奏多は瑛莉を通り過ぎた。その瞬間、瑛莉が少しだけ奏多を見ていたのだが、誰も気付かなかった。
別にこれ以上付き合う理由はない。
――自分のこの行動は合っているのだろうか?
「……」
奏多は歩くスピードを少しだけ早くした。
自分の中にある僅かな痛みにも気付かない振りをして。
5
夕食時、亜夕深はぷりぷりしていた。
「まったく、ひどい話だよね」
家に帰って来た亜夕深の話によると、男子生徒らは一週間の停学処分と言うことになったらしい。一般生徒同士の争いならそうはならないのだが、相手が『特待生』とあっては話が別問題とのことだ。
「そりゃまあ、あの娘にも責めるべき非はあるよ。文章だけじゃ、声のように起伏やイントネーションが分かりづらくて相手に誤解を与えちゃう時があるんだし。携帯でも似たようなもんで『良いんじゃない?』は読み手次第では良いようにも悪いようにも聞こえるんだからさ」
「そうだね~、受け取る側の裁量次第だけど~。投げ遣りのように感じるよね~。文明の利器には弊害がたくさんだ~」
いつものように間延びした口調の夕実。奏多は我関せず、と言った具合で無言で食事を続けていた。
「奏多、あんたその時ちょうど現場に居合わせたんでしょ? なんで放課後、証言に来なかったのよ?」
ジト目で見られるが、奏多はそれすら無視をして食事を続ける。
「……確かに他人事なんだけどさー……。なんでアンタそう、他人に冷たいワケ? 情けは人の為にならず、って知ってる? 他人に優しくしたら巡り巡って良い事が起きるのよ?」
「奏多君は~そんな打算的なことを~考えてないもんね~。関心がある事は~、ある~。関心が無い事は~、ない~。それだけだよね~?」
にこにこと笑みを絶やさず、間延びした口調にも慣れて来た。少し速く食事を終えた奏多は食器を流しに持って行き、そそくさと自分の部屋に籠る。
月明かりだけが部屋に中を照らしていた。奏多は慣れた動きでアルミのラックに近づき、一番上に置いてある古びたオルゴールを手に取る。それを無理矢理こじ開け、メロディを聞く。
《ガガッ……………チャガッ…………ララチャ……ガッ……チャ…ガガガギッ……ララチャガガギガッ》
音は飛んでしまうし、中の針金が折れて別の場所を擦る音、バネの軋む音。これは昔、とても綺麗な音を奏でるオルゴールだった。だが、今は不快な音を響かせるただのガラクタへと成り下がっている。
「……」
奏多にガラクタを集める趣味はない。だが、これは捨てられない。捨てるに捨てられない、奏多の宝物。
そしてこれは奏多を象徴した遺物だ。
「奏多ー、お風呂に入っちゃってーっ」
一階から亜夕深の呼ぶ声が聞こえる。オルゴールを閉じてラックに戻し、自分の部屋から出た。
「きゃっ」
奏多に用事があったのか、夕実が部屋の前に立っていた。
「ビックリした~。あぁ~、そうだ奏多君~。さっき村中先生から電話があってね~『明日はちゃんと来い』だって~。確かに伝えたよ~?」
無視を決めても良かったのだが、奏多はその時、小さく頷いた。特に理由はないのだが、強いて言うのであれば、オルゴールに触ってあの頃の感傷に浸っていたから、だろう。夕実が目を丸くして奏多のことを見ていた。
「今……反応、してくれた……?」
いつも笑顔の――作った愛想笑いの顔に、驚きが広がっている。そして僅かだが、夕実の目尻には涙が浮かんでいた。
「……嬉しいな、奏多君が……反応してくれて……」
夕実はエプロンで涙を拭いながら言葉を紡いでいく。
「例え気まぐれでも……嬉しいよ……。奏多君、覚えていて……。おばさんは、奏多君のこと………分かってるからね?」
「……」
夕実はそう言って笑っていた。久し振りに見た、ウソ偽りのない笑顔だ。
「じゃあ、奏多君っ。お風呂が冷めないうちに入っちゃって♪」
くるりと背を向け、上機嫌に鼻歌を歌って階段を下りていく夕実。それだけ嬉しかったのだろう。一階では亜夕深が「なんでそんな機嫌良いの?」と聞いていて、夕実は「良い事があったからだよ~」と浮かれていた。
奏多は階段を降りながら夕実に最後に反応したのはいつだったかを思い出す。一階に着いた頃に思い出し、そんな長い間だったのか、と思っていた。
奏多は実に九年振りに夕実に反応を示したのだ。
6
翌日、奏多は面倒だったがしょうがなく学校に行くことにした。家に居たら夕実が
「奏多君っ、トランプしようっ」
としつこいのだ。仕事はどうしたと言いたい。
どうやら昨日の反応が嬉しくて舞いあがっているようだ。そんな夕実がうるさくて自分のやりたいことに集中が出来ない。そういう理由で奏多は学校に行くことにした。ちなみに奏多は昨日、村中から連絡があったのをすっかり忘れている。
いつものように遅刻の時間帯に校門をくぐる奏多。昇降口で上履きに履き替え、てろてろと歩いてトククラへと向かう。
ガラリと戸を開けると、瑛莉が立ちながらボードを見せて来た。
【おはようございます。今日もその鬱陶しい姿を見なければならないと思うと気分も最低になってしまいますが、もうアナタには慣れたつもりなのでどうでも良いです】
どうやら既に書いていたモノらしい。いつにもまして毒舌が絶好調だ。
「……」
瑛莉はボードを引っ込めて新しい文を書いて行く。
【なんなんですか、アナタは?】
どう反応すればいいのだろうか。
奏多は取りあえず自分の席へと向かった。
グイッ、と制服の裾を引っ張られた。もちろん引っ張ったのは瑛莉である。奏多はそんな瑛莉を見ると緩慢な動きで向き直った。
【昨日はみっともない姿を見せてしまい、迷惑をかけてしまってすみませんでした】
驚きなのが、あの慇懃無礼超絶毒舌娘が謝ったということだ。
【私はアナタと違って「分」を弁えているつもりですし、一般の常識を知っているつもりです。謝るのは当たり前です】
どこが「分」を弁え、一般常識があるのだろうか。もしかしたらこの少女も奏多と似たり寄ったりなのかもしれない。
「……」
奏多はそれを見ると再び背を向けて自分の席へと向かった。自分の席に腰を下ろし、何も書かれていない黒板を眺める。
トントン、と肩を叩かれ、そちらを振り向くとムスッとした顔の瑛莉が居た。
【レディが恥を忍んでお礼を言っているというのに、アナタは気の利いた事を言えないんですか?】
そんな事を言われても、奏多にはどうする事も出来ない。瑛莉は侮蔑の視線を向けて来るが、奏多はどこ吹く風だ。
奏多はカバンを漁り、珍しいことにレポート用紙と筆箱を取りだした。そしてそのままレポートを書き始める。
【左利きなんですか? 無駄にマイノリティなんですね】
別に奏多だけが左利きなワケではないだろう。それに、モノを投げる時・食べる時だけ左利きという人だっている。そう考えると、左利きは意外と多いのかもしれない。
【知ってますか? 左利きって右利きの人と比べると寿命が短いみたいですよ】
この少女はどれだけ自分のコトが嫌いなのだろうか。一回聞いてみたいが、聞いたら毒舌の嵐が巻き起こりそうなのでやめておく。
レポートの内容は音楽に関することである。奏多はすらすらと書いて行く。
【音楽のこと、随分と詳しいんですね】
瑛莉がボードを見せて来る。そう言えばもう一人いたな、と瑛莉の存在を今思い出す。
「……少しかじった程度だ」
それ以上詮索されないように、奏多は黙々とレポートを仕上げていく。途中で分からなくなってしまい、シャーペンが止まってしまった。それでも、奏多はレポートを五枚仕上げている。
【正直、驚いています】
瑛莉がそんな事を見せて来た。
【普通の音楽家でも何も見ないではここまで書けません。流石は引き籠りの初代『特待生』と言う所なんですかね】
皮肉のつもりなのだろうが、奏多には全く響いている様子はない。しょうがないので立ち上がり、図書館に行くことにした。
教室を出ると、瑛莉まで付いて来た。
【勘違いしないで下さい。私も図書館に用事があるんです】
ならば良いか、と奏多はそのまま前を向いて歩き始める。
図書館に着くと司書の人に変な顔をされたが、奏多は気にせず歩いて行く。
この学園は意外と音楽に関する蔵書が多い。だから『芸術組』の音楽部が一番学生が多いのだろう。いくつも図書を借りられた跡があるが、奏多は適当にとってはペラ読みし、書架に戻す。その行為を何度も繰り返している。
【読んでるんですか?】
瑛莉がボードを見せて来るが、奏多は横目で確認しただけだ。そして目ぼしいモノを見つけたのでその一冊を持って席に向かう。そしてレポートを書き上げていく。瑛莉は何冊か持って来てレポートを書いていた。
しばらく時間が過ぎ、奏多は二○枚書き終わったのでそれを提出しに行こうとする。
【素早くレポートを終わらせるのには感服しますが、二○枚だけなんですか?】
瑛莉はそんなボードを見せて来た。
【村中先生は最低が二○だけだと言っただけで、上限を設けていません。私もそうですが、曲がりなりにもアナタは『特待生』なのですから、もう少しやっても良いんじゃないんですか?】
本来ならばそうするのが普通なのだろう。それに、奏多は学校に来ていない事が多いのだから、その分の上乗せと言う意味でもやっておいた方がいいのかもしれない。だが、奏多は言った。
「……必要最低限で、良いんだよ。生きてるのと同じだ」
「?」
瑛莉は首を傾げていた。奏多が何を言おうとしているのか分からないのだろう。
「……人は必要以上のカロリーを摂取するとそれを脂肪にして蓄えてしまう。蓄えないためにはどうすればいいか。簡単だ」
奏多はそう言って、光の無い右目で瑛莉を見た。
「……必要最低限のカロリーを摂れば良いだけの話だ。筋力や体力だって同じだ。必要最低限の筋力や体力があれば生きていくのに不自由はしない。だから俺は、運動選手はバカだと思ってる。知力だってそうだ。必要最低限のことを知っていれば生きていける。無駄に知識を蓄えているインテリと呼ばれる人間もバカだと思っている。そしてなにより――」
奏多はそう言って区切り、視線をいったん外した。そして、何かを思い出すかのように言葉を紡ぐ。
「……必要最低限の繋がりがあれば、十分だ」
珍しく奏多の口数が多い。亜夕深や琥珀、千景であればそれだけで大興奮するのは間違いないのだが、付き合いの短い瑛莉からすればその珍しさは分からない。それはそれとして、瑛莉は奏多が何を言おうとしているのかさっぱり分からない。
「……俺にとって、他人はどうでも良い」
「……」
「……俺に必要なのは、家族だ」
ピクッ、と瑛莉の肩が動く。奏多はそれを気にせず立ち上がった。
「……俺はこれを提出してくる」
そう言って背を向け、奏多は職員室へ向かう。
7
「ん?」
職員室に村中は居た。
「なんだ、奏多」
ただし職員用の椅子の上で胡坐を掻いている。仮にも女性なのだからそう言うのは気にした方がいいのではないだろうか。だから周りの女性職員に「ガサツ」だとか「品が全然無い」とか言われるのだ。
「……レポートか。なんでお前はそう、あたしが『出せ』と言う前に出すんだか」
なんかの能力者か? 村中はそう言ってレポートを受け取った。
「………八、九………一五、一六……。チッ、きっかり二○枚かよ。まぁ良い」
村中はそう言って『トククラ』とシールされたファイルに適当に突っ込んでいた。どうやら受理されたようだ。
やるべきことは終えた。奏多は背を向けて去ろうとしたが、村中に「おい待て」と呼び止められる。
「この前、あたしが聞いたよな? お前は何がして欲しいんだって。その答えを聞こうと思ってるんだが」
奏多は村中の言葉に耳を貸さず、窓の外を眺めていた。
「……おい、奏多……。大人をナメるのも大概にしろよ、コラ……。極めて温厚なあたしでも、キレる時はキレるんだぞ……?」
いつもケンカ腰で些細なことで声を荒立てるクセに、どこが温厚なのだろうか。だがしかし、普通の教師であれば奏多の態度を良く思わず怒鳴り散らしたり、場合によっては暴力を振るう可能性だってある。それを考慮すれば村中は温厚なのかもしれない。
こめかみに青筋を浮かべる村中とは対照的に、奏多はクールだった。
「そもそもあたしは、トククラなんて受け持つつもりはなかった。礼拝堂だけの管理をしてたから目ぇ付けられらんだろうけどな。……奏多、あたしはお前のことを何も知らないが、一つだけ分かってることがある」
睨みつけて来る村中。普通の生徒であればあまりの剣幕に恐れをなして腰を抜かしているかもしれない。
「おまえ、なんでそうまでして他人と関わろうとしない?」
「……」
村中のその言葉に、奏多が反応を示した。
「……関係無いだろ、アンタに」
村中は舌打ちをすると、奏多の胸倉を掴み上げた。職員室に残っていた教師らは驚いて短い悲鳴を上げたりしていた。
「おまえはなんでそう……ッ。おまえはなんで、あたしら他人を全く受け入れようとしねぇんだよ!? あたしは別に良いとして、進藤だってそうなんだろ!? あいつは誓教でたまにグチるからな、それで予想が付く。なんでお前は一番身近である進藤をも受け入れねえんだよ!?」
村中の言う事はもっともだろう。進藤家に居候している奏多は進藤家全員を受け入れようとしていない。家族のように扱ってくれる進藤家を拒否している。
村中の憤怒は初めて見る。恐らく折檻部屋でもこんなに起こったりはしないだろう。それ以上だというのに奏多は全く何も、恐怖すらも感じなかった。
まるで心が無い――人形のようだった。
「あたしら教育者はな、おまえたちガキどもを学び育てる者なんだよ。それは知恵とか知識つった堅苦しいもんじゃねえ、人としての成長を促す者なんだよ!」
「……」
奏多は村中の手を振り払った。
「……人としての成長は、必要なものか?」
「なにぃ?」
「……それは俺が生きていくのに、必要最低限のものかと聞いている」
パンッ、と乾いた音が職員室に響いた。村中が奏多の頬をはたいたのだ。普通こんな事をされたら取っ組み合いになってもおかしくないのだが、奏多ははたかれた頬を一撫でしただけで、それ以上気にせず背を向けた。
「……俺に関わるな」
「ッ!」
「……来羽だけを気にかけろ」
そう言って歩き出す。廊下には誰も居なかった。誰も居ない空間を独り歩く。
はたかれた頬に触れて、奏多は呟いた。
「……俺は独りで良い。他者との繋がりは、要らない」
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