第二音節

     1



「んーじゃあ揃ってることだし、自己紹介でもすっか」

 トククラには三人しかいないのだから意味はないのではないだろうか。奏多はそんな事を思いながら自分の座席に腰を下ろしていた。

「……奏多、いつものことながら窓の外見てて何か楽しいのか?」

 村中が聞いて来るが、奏多はずっと外を見たままだった。一年前と全く変わっていないやり取りである。

「まあ良い、おまえとのやり取りはもう慣れたつもりだ。おまえは無視させてもらうぞ。つーことで、自己紹介だ。対人間関係においては名前を知ることが大切だそうだ」

 この時点で奏多と村中の対人関係は終わっていると考えても良いだろう。ちなみにこの二人、まともなコミュニケーションを取った事が一度もない。良くもそんなんで二年に進級できたものだと思われても仕方ないだろう。

『特待生』は全ての授業を免除されている。だがそれでも一応は学生であるため、ある程度の事をやってもらわないとならないのだ。それが、特別担任である村中が課す課題をクリアすることだ。その課題をクリアすることで進級できる仕組みとなっている。

【この場合は年長者がすべきかと】

 すっ、と出されたホワイトボードにはそんな事が書かれていた。

「年長者……あたしからか。つっても、あたしはお前らの情報は知ってるからな……。別に改まって知らんでも良いんだが……、まあ良いだろう」

 村中は腰に手を当てて言った。

「あたしはこの特別待遇生徒教室、通称『トククラ』の特別担任の村中だ」

 ちなみに奏多はこの担任の下の名前を知らない。というより、村中が頑なに教えようとしないのだ。

「授業に関してだが、あたしが課した課題……つっても、筋トレだがな。音楽系は軽く見られがちだが、それなりの体力を使う。最低限、それを維持してもらうための特別メニューだ。それかレポート。音楽に関する事なら何でもいいが、最低でもA4のレポート用紙二○枚は書いてもらう」

 自己紹介と簡単なトククラでの活動内容を教える。少女は納得したように頷いていた。

「で、次は奏多となるわけだが……そいつは如何せん、掴みどころが全く分からない稀有な才能を持った輩だからな……。そいつの名前は雪比奈奏多だ」

 他者紹介された奏多はと言うと、空を見つめるのに飽きたのか、今度は黒板をずっと見ていた。

「初代『特待生』なんて言われちゃあいるが……あたしには羅乃峰らのみねの方がよっぽど『特待生』に相応しいと思っているんだがな。理事会の判断だ、仕方ない」

 諦めたように首を振る村中。奏多が僅かに反応をしたのだが、誰にも気付かれることはなかった。

【なぜその輩にやらせないのですか? それも『特待生』の特権なんですか?】

 少女が真っ当な事を突っ込んでくる。村中は「そう思うのが普通か」と納得していた。

「『特待生』にそこまでの力はねぇよ。確かに、常軌を逸した特権を持ってはいるがな。それでも、一学生には変わりはない。本来なら鉄拳制裁モノだが」

 そんな事をしたあかつきには、この教師は太陽の下を歩けなくなるような気がする。奏多はそんな事を考えていた。

「そいつはだ。特別でも特殊だからでもない。異常なんだよ。そいつは入学以来、一度もこの学園でしゃべった事がない」

 少女が信じられない物を見るかのような目で奏多を見つめた。

「と言うより、そいつが学園で誰かとコミュニケーションを取ったところを見た事がない。取ろうとしないんだよ。そもそも、あたしはそいつのことを

 家族構成も、生年月日も、これまでどう言う経緯を経て来たのかも全てを知らない。全てが謎に包まれている少年。それが雪比奈奏多だった。

「だがさっき、初めて声を聞いた。……アレだな、奏多の声はなんつーか……落ち着いた声っていうかなんて言うか……不思議な感じがあるよな」

 村中は奏多の事を見るが、奏多は未だに口を閉ざしたままだ。

「ま、その内わかるだろ。その時まで放置だな。んじゃ最後」

 少女はホワイトボードに文字を書き連ねた。

来羽くるは・C・瑛莉えりです。よろしくお願いします】

 少女は――瑛莉はそう言った。

 日本姓を名乗っていることとミドルネームから判断するにハーフなのだろう。確かに見た感じは完全に西洋の面立ちだ。だがよく見れば、肌は若干日本人に近い。Cはミドルネームの頭文字なのだろう。

 奏多はホワイトボードをチラリと見ただけだった。

「奏多、『特待生』として何か言う事とかないのかよ?」

 村中なりにコミュニケーションを取らせようとしているのだろう。だが奏多は全く反応をしようとしない。

「……お前はいつもだんまりだが、何か言いたくない事でもあんのか?」

 村中の声色が変化するが、奏多は目も向けず、黙っているだけだった。

「……もういい、あたしゃお前の相手に疲れた」

 村中は嘆息する。

「なんでこう……トククラには一癖も二癖もありそうなヤツが転がり込んでくるんだかワケ分からねえよ」

 奏多は僅かに表情を曇らせたが、それは誰がどう見てもただの無表情だったので、曇らせた事を知っているのは奏多だけだ。

 瑛莉を見ると、少しだけむくれている気がする。そしてホワイトボードに何かを書いている。

【訂正を要求します。私は至ってまともな人間だと自負しています。その見るからに頭のネジが幾本か欠落している人間と同じくくりにしないで下さい。出来る事なら、クラスも別々が良いです】

 瑛莉はどうやら物事はハッキリと言う性格らしい。入学したての一年でこうもあの村中に物申せるのは瑛莉だけだろう。他の生徒では、村中の佇まいに委縮して何も言えないはずだ。ついでに奏多とは居たくない、と意思表示までしている。

「あー……気分を害したのなら謝ろう。誰だって奏多と同じくくりにされるのはストレスだろうしな」

 教育者とは思えないセリフが飛び出したような気がするのだが、気のせいだろうか。

「だが、面倒だから別々の教室にはしない。『特待生』のやることは一貫してあたしが管理することになっているらしいしな。学年は違えど、やることが一緒なら同じクラスにまとめておいた方が楽だ」

 確かに、それなら合理的だ。わざわざ二つの教室を行き来するより、まとめて一つのことを言っておけば良いのだから。そもそも、『特待生』が二人しかいないのだから別クラスは余計に手間となる。

「あと、同じくくりにも別の意味がある。お前はただ単に『奏多と同じような変人』だと思われるのがイヤだったんだろう?」

 村中が問いかけると、瑛莉は力強く頷いた。この時点で奏多はこの一年生に相当嫌われている。

「それに対しては謝るが、あたしが言ったのにはそう言う意味はない」

 瑛莉は眉根にしわを寄せている。どう言意味か測り損ねているようだ。

「一言で言えば、お前ら『特待生』は……スゴいんだよ。その道に関しては他の追随を許さない、才能を秘めた連中だ」

 若干だが、瑛莉の表情が曇った。村中はそれには気付いていないようだが、奏多はそれを感じ取っていた。なぜ曇ったのか、奏多には分からない。

「さてと、あたしから言う事はあとは一つだけだ。おまえらは『特待生』である以前に『芸術組』の生徒だ。生徒である以上、マリア誓教に入る資格がある。道楽や暇つぶし感覚で入られちゃ困るが、人員不足であることは否めないんでな。色んな生徒に声をかけちゃいるんだが、ちょっと芳しくなくてな」

 村中の言った『マリア誓教』とは、一般的な高校で言う所の生徒会の様なものである。ミッションスクールゆえか、なにかと宗教的なものを冠することが多い。現時点では庶務の席が空白とのことだ。亜夕深がそんな事を言っていたのを、奏多はぼんやりと覚えていた。ちなみに、亜夕深も誓教に属しており、役職は書記となっている。

 この学園には一般的な高校と違う点がもう一つある。それは『勉強組』、『運動組』、『芸術組』の三つのクラスに分かれていることだ。そして生徒はその三つのいずれかに所属し、いくつかあるコースを選択し、修学するようになっている。専門学校や大学に近い形式を取っていると考えた方がいいだろう。

『勉強組』とは、読んで字の如く勉強することによって四年制大学に進むことを目的としている。一番上のクラスは『国立大学選抜部難関大学科』という漢字が多すぎる学科がある。ここには亜夕深や生徒会長が属している。

『運動組』は将来はオリンピック選手やスポーツトレーナー、栄養調理師、体育大学に進学することを目指している。ここの生徒人数は三つのクラスの中で最も少ない。中学時代から運動漬けで、スポーツ推薦などで入ってきた生徒が多いため体育会系が多い。ここには誓教の会計を務め、亜夕深の親友である生徒がいる。

 最後に、『芸術組』。この組は三つの中で最も多い。奏多や瑛莉はこの『芸術組』に属していながら『特待生』という肩書を持っている。ここには二人の副会長が属していいて、芸術家は変人が多い、と言うことで、その二人は奏多に匹敵しうる奇人変人と言われている。

「『勉強組』に声をかけたが、『受験勉強で忙しい』とやんわりと断られてな……一年生ですらすでに大学進学を考えてるから、勉強に絞りたいらしい。そんなことで、たった一度しかない一○代の青春を過ごすのは灰色に近い気がするんだがな……。『運動組』なんかは『自分、スポーツ一筋ですからっ』てな感じで爽やかに断られたな……。イヤ確かに、アイツらはアイツらで大変だからな。てな訳で、『芸術組』に声をかけようと思ってな」

 遠回しに「入れ」と言っている様にも聞こえなくもない。だが瑛莉に至っては無反応だし、奏多に至っては話を聞いているかさえ定かではない。

「……ま、言いたい事は言えたから良しとするか」

 解散、と言って村中は教室から出て行った。それを見送った奏多はのっそりとした動きで帰り支度を始めている。今日は顔出し程度で済ませようと思っていたので、これ以上この場に留まる理由がない。

 つんつん、と瑛莉にホワイトボードで肩を突かれ(どうやら奏多には触れたくないらしい)、奏多はそちらを向いた。

【貴方は『芸術組』の何学部何科に所属しているのですか? 先に居た輩】

 聞いてどうするんだ、と言うのが奏多の素直な感想だった。別に知らなくても良いような事なので、奏多はそのまま鞄に向き直ったが、瑛莉は奏多のその態度が癇に障ったらしく(仮にも先輩に向かって)舌打ちをした。そして先ほどよりも強く肩を突いて来た。そちらに顔を向けると、先ほどの文章が連ねてあった。チラリと瑛莉に視線を向けると、瑛莉はムスッとした表情を浮かべているしその目には「ふざけるな」と怒りが見えた。仕方ないので、奏多はその滅多に開かない口を開く。

「……音楽部、声楽科……だった気がする」

「チッ」

 再び舌打ちをされる奏多。

 どうやら同じ学部学科だったらしい。教室も所属も肩書きすらも同じなのが相当に嫌らしい。奏多は奏多で「舌打ちされるようなことしたっけ?」と内心は首を傾げている。ちなみにうろ覚えなのは、村中に「お前は音楽部の声楽科に所属と言うことになってる」と言われているからだ。

【毎日この輩と一緒にいるわけですか】

 どれだけ奏多の事が嫌いなのだろうか。もはや【生理的に受け付けません】と言われるのは時間の問題である気がした。

 奏多は帰り支度をのそのそと整えながら小さく言う。

「……別に、俺は毎日来るワケじゃない」

 そもそも『登校の自由』があるのだ。別に来なくとも、必要最低限の事をしていれば進学が出来る。

 瑛莉はポカンとした後、僅かに悲しそうな表情を浮かべた。だがすぐにいつもの無表情へと戻っていた。

 カバンを持って、奏多はトククラから出ると「むっ」と左方面から声が聞こえたのでそちらを向く。

 そこにはまだあどけなさが残る少女が満面の笑みを浮かべてこちらに向かって手を振っていた。

 奏多はその少女が誰だかを確認した瞬間、


 ダッ


 一目散に右へと駆けだした。

 奏多にしては珍しい機敏な動きに加えポーカーフェイスが崩れた瞬間でもあった。焦った表情を浮かべながら(それでも限りなく無表情に近い。傍から見るとものすごく怖い絵面である)、身体にあまり負担をかけない程度の速度で疾走していた。

 チラリと後ろを振り返ると、少女が「待てー、待つのだカナタっ」と追いかけて来ていた。

 奏多を追う少女の名前は庄司しょうじ千景ちかげ。奏多と同じく『芸術組』に所属しており、書道部水墨科とかなりマイナーなクラスに所属している。そして、この少女はマリア誓教の副会長の座に就き、奏多に匹敵しうる奇人変人と謳われている一角だ。

 少し長めの黒髪で前髪ぱっつんの髪を揺らしながら全力疾走をしている。あどけなさの残るその童顔と幼児体型は一部の生徒には絶大な人気を誇っており、背も低いのでロリで始まってコンで終わる属性にはたまらない少女だろう。可愛い上に、かなり有名な料亭のお嬢様でもあるのだ。

 入学直後は奏多にあまり近づいてこなかったのだが、五月に差し掛かったあたりで異様に付きまとうようになった。それ以来、『庄司千景は雪比奈奏多にご執心』と言うことで奇人変人扱いを受けているのだ。

 奏多は何としても逃げるために廊下を走っていたが、身体に負荷をかけないように走っているため、すぐに追いつかれてしまう。奏多は曲がり角を曲がり、そこでまた焦った。

 そこには亜夕深が居たのだ。

 どうやらマリア誓教の仕事が終わったらしい。恐らく自分のクラスへ向かっている途中なのだろう。

 亜夕深はすぐさま奏多に気付いた。そして少し驚いた表情を浮かべた後、ホイッスルを取り出す。奏多はそれを見た途端、すぐに立ち止まり耳を塞いだ。

「ピィ――――――――――――――――――――――――――――――ッッ!!」

 甲高い音が廊下という狭い空間に響き渡る。奏多だけでなく、周りの生徒も耳を塞いでその場にしゃがみこんでいたりしていた。

 ホイッスルをポケットに戻し、亜夕深は腕を組んでうずくまっている奏多に近づいた。

「廊下を走るな」

 おまえは笛を吹くな、と誰もが思ったがそんな事は口に出さない。亜夕深はそんな事を口に出されるとくどくどと説教をする面倒な人間でもあるのだ。

「むぅー……耳キーンなのだ……」

 不意打ちを食らった千景は耳を押さえながらも奏多へと着実に歩を進めていた。何とも執念深い。

「だけど、ようやくカナタを捕まえたのだっ」

 奏多の背中に抱きつく千景。薄い胸をゴリゴリと奏多の背中にこすりつける。

「……今、誰かがボクのことを悪く言った気がするのだ」

「なんの話?」

 亜夕深は少しだけ気まずそうな表情を浮かべて奏多を見下ろした。奏多が千景に追いかけられている時、大抵は亜夕深が逃げるための時間を稼いでくれるのだが、今回はそれが出来なかったようだ。

「いや、アンタ無駄にタッパがあるから後ろの千景が見えなかったのよ」

 許して? と苦笑いを浮かべる亜夕深だが、奏多は溜め息を吐くだけだった。ちなみに奏多の身長は一七一センチである。

「今日はアユミに感謝なのだー。……いつもは邪魔ばかりされるから、今日くらいはこう言う日があっても良いと思うのだ」

 ようやく奏多に触る事が出来た事が嬉しいのか、千景はゴロゴロと喉を鳴らしている。それをみて若干不満げな亜夕深は咳払いをすると「千景」と呼んだ。

「なんなのだ?」

「あたしは千景を探してたの。誓教の仕事、まだ終わってないよ」

「えーっ。さっきアキトが終わっていいて……」

「それについては私から説明させてもらおう」

 いきなり現れた発育の良い少女に、周りの生徒はギョッとし、ある生徒(千景の親衛隊)は奏多を視線で殺さんと言わんばかりに睨みつけていた。

「コハクなのだ」

「珍しいわね、琥珀こはくが音楽室と誓教の部屋以外で出くわすのは」

「はっはっは。亜夕深少女、ミステリアスな女性はモテるんだよ。それはそうと、私は私で用事があったから出て来たまでだ」

 少し大人びた口調の少女の名前は羅乃峰琥珀という。

 染髪禁止の校則があるにもかかわらず茶色に染めた髪は緩やかなウェーブをえがいている。凛とした二重の瞳はぱっちりとしていて、通った鼻梁の下にある唇は淡い桜色で瑞々しい。抜群のプロポーションを持ち、実家は資産家という正真正銘のお嬢様でもある。彼女は『芸術組』の音楽部弦楽器科に籍を置き、誓教の副会長もしている。そして、千景と双璧をなす奇人変人でもある。

 フリルが大量にある改造制服を揺らして琥珀は言った。

「千景少女、奏多少年は私の獲物だ。早々に手を出してもらっては困るんだがな」

 なぜかこの少女は入学以来から奏多につっかかってくる。暴力的な事は一切ないのだが、何を気に召したのかが分からないのだ。それはお嬢様気質ゆえなのか、それとも芸術家としての気質なのか分からない。

「むーっ、コハクのモノじゃないのだっ。カナタはボクのモノなのだっ」

「ええい、うるさい小娘だな。大人しくしていろ」

「奏多をモノ扱いしないでよ二人とも……」

 騒乱の中心であるハズの奏多は我関せず、といった具合にぼーっとしていた。

「ふむ、確かにモノ扱いはよくないな。奏多少年はちゃんとした人間なのだから」

「アユミも良いこと言うのだ」

「……いつにもまして、アンタたちブレないわね。で、琥珀。アンタが説明をするって言ったんだから全うしなさいよ?」

「分かっている」

 琥珀は千景を見ると

「来週にある部活動の新歓の打ち合わせだ。そのために会議をするから集合、と言付けを預かっている」

「別に、コハクが居ればボクは要らない気がするのだ」

「それでも千景少女は副会長其の壱か……? 関係の無い侑里ゆうり少女まで出るのだから、私たちが出張らなくてどうする?」

「……分かったのだ、しょうがないから行くのだ」

 千景はホントに残念そうに奏多から離れた。今まで密着されていたのにもかかわらず、奏多はただただぼーっとしているだけだった。

「あ、そうだ。ねぇ奏多、ついでだからアンタ手伝ってくれない?」

 亜夕深はそう言って奏多の事を見ていた。

 奏多はゆっくりとした動作で亜夕深の事を見つめ返す。

「いつも学校サボってばっかなんだから、これも矯正の一環よ」

 そんな事は建前で、亜夕深は亜夕深で奏多の傍に居たいだけだったりする。何か言っておかないと奏多はさっさと帰ってしまうのだ。帰っても、奏多は自分に与えられた部屋に籠りっぱなしであまり顔を合わせる事が無かったりもする。

 少しでも意中の傍に居たいそんな乙女心を察知できる奏多ではない。奏多はそのまま無反応だった。

「……」

「……奏多?」

「……」

 あまりにも反応が悪いので亜夕深が怪訝な表情を浮かべる。千景は奏多の近くに近寄り、そのまま観察をしていると、なんで奏多が無反応だったのかが分かった。

「目を開けたまま寝てるのだ」

 あまりにも無反応だったのは寝ていたからで、亜夕深の方を向いたのはたまたまの偶然だったのだ。

「稀有な才能を持った少年だな……興味が尽きない」

 ふふふ、と怪しい笑みを浮かべる琥珀はいつにもまして奏多にご執心のようだった。

「まぁ良いわ。話が進まないし、このまま廊下で突っ立っていられても他の生徒の迷惑だから連行しちゃおうか」

 亜夕深がそう言うと千景も琥珀も了承の旨を示していた。



     2



 奏多を連行する際に一悶着あったモノの、ちゃんと連行することが出来た。

 亜夕深たちは礼拝堂に向かっている。

 聖クリシチア学園は創立半世紀だが、この礼拝堂だけは半世紀以上も前からこの地に残っているらしい。外壁は何度も修復された跡があり、ヒビが入っている個所も多々見られる。なんでも、この礼拝堂の当時の司教がこの学園の創立者だったらしい。

 誓教の部屋はこの礼拝堂にあり、そこでいつも会議が行われている。

 礼拝堂には、礼拝堂らしく入ったら見えるのが壮大なステンドグラスだろう。数年前の卒業生が寄付したらしいが詳細は不明だ。そして、ステンドグラスの手前にはお馴染みの聖母マリア像が鎮座していた。およそ五メートルはあると思われる。聖母マリア像とステンドグラスの間には、荘厳なパイプオルガンも見えた。見た感じではちゃんと手入れをされているみたいが、弾き手がいるのかどうか定かではない。

 礼拝堂を入ってすぐ右を見ると階段があって、そこから二階へと上る仕組みになっている。二階に誓教の部屋があるのだ。

 誓教のドアを開くと、そこには資料整理をしている一人の男子生徒がいた。

「ん?」

 こちらに気付いたらしく、顔を上げてドアの方を見る。

「おやおや、入会希望者かい?」

 理知的なメガネをかけなおすこの男こそ、個性が強い誓教のメンツはおろか、学園の生徒を束ねている誓教会長、壬生みぶ昭人あきとだ。

 奏多に勝るとも劣らない高身長に、大人びた風格を持つ奏多と同い年の少年だ。

「違うぞ、壬生会長」

 琥珀が笑みをこぼしながらそう言うと「そりゃ残念だ」と肩をすくませながら昭人は言った。

「カナタはお手伝いに来たのだ」

「手伝い? はて、なんか手伝ってもらうような事はあったっけ?」

 昭人はそう言うと持っていた資料をテーブルの上へと戻した。

「いやなに、雑用でも何でもさせれば良いだろう。無いのであれば、私が専用に使ってやりたいのだがな」

「コハク」

 ロリ少女が睨みを利かせるが、琥珀は「ふん」と鼻を鳴らす程度だった。

「手伝ってもらうことはないかな? それと、そんな奴隷みたいな扱いはやめてあげてね、ここは曲がりなりにも神聖な場所なんだから。すまないね、奏多君、ウチの者が勝手なことを言って。お茶でも飲んでいくかい?」

 少なくとも、奏多は初見の人間だ(忘れている可能性が大)。初見の人間にいきなりファーストネームを呼ばれるとなんだか壁を作りたくなってしまう。

「まあ適当にかけなよ。お茶は僕が淹れよう」

「ああ、良いよ、あたしが淹れる」

 奏多を適当な椅子に座らせた亜夕深がそう言って奥の給湯室へ向かった。

 奏多は(それなりに)警戒しながら昭人の事を観察していた。

「そう言えば、僕と奏多君はお初になるね。ついでだから自己紹介をさせてもらうよ」

 そう言って昭人は立ち上がり、奏多のもとへと向かった。

「僕の名前は壬生昭人。国立大学選抜部難関大学科に籍を置く生徒だよ。あと、この誓教の会長を務めさせてもらってる」

 よろしく、と握手を求められたが、奏多は手を出さなかった。そんな奏多の態度を見ても笑みを崩すことなく手を引っ込めた。

「君は『特待生』として入学した雪比奈奏多君だろ? 色々話は耳にしているよ。『芸術組』の音楽部声楽科に籍を置いている事も知ってるよ」

 終始笑みを浮かべる昭人に、奏多は僅かながらも警戒心を強めていた。

「羅乃峰君や庄司君がいつもお世話になっているね」

 奏多はそれとなく視線を逸らし、机の上にあった資料に目をつけた。

 そして奏多の右席に(ちゃっかり)腰をおろしている千景はにぱーっと笑みを浮かべており、琥珀は「逆だ、世話をしてやっている」と言っていた。

「はいはーい、コーヒー入ったよ」

 お盆に載せた五つのカップからは湯気が出ている。そしてかすかにコーヒーの良い匂いが香って来た。

「あ、ミルクとか持ってくるの忘れちゃった」

「アユミー、僕はミルクと砂糖が無いと飲めないのだ」

「ふむ、自分で取ってくればいいだろう。亜夕深少女も別にワザと忘れた訳ではないのだから」

 若干だが、亜夕深は苦笑いを浮かべている。どうやらワザと忘れたらしい。千景は「しょうがないのだ」と言って給湯室へ行ったがすぐさま戻ってきた。

「奏多、熱いから気を付けて」

 亜夕深が気を使って奏多の前にカップを置く。だが奏多は何も言わず、ただ資料を眺め続けていた。

 各々がコーヒーを味わっている時、ふと昭人が言った。


「そう言えば奏多君、二人目の『特待生』とは仲良くできそうかい?」

「「っ!?」」


 二人のお嬢様が目をカッと見開いた。

「珍しいモノだよね、二年連続の『特待生』だなんて。しかもフランス人と日本人のハーフ。御両親もそれなりに有名な音楽家だし……『芸術組』の音楽系に属しているんだから、多少は仲良くできそうじゃないか」

 昭人は笑みを崩すことなく説明をする。

「ちょ、昭人会長!? それはどう言うことだ!?」

「聞いてないのだ!!」

 琥珀と千景が昭人に詰め寄る中、亜夕深は概要を知っていたので特に驚くような事は無かった。

「そう言えば、入学式の際に一つだけ席が空いていたな……まさかあの席が今年度の『特待生』の場所だったのか……」

「『特待生』の特権である『学校行事参加の自由』を行使した……だから、空席だったのだ」

「なるほど、得心がいった。しかして、あの奏多少年ですら出た入学式をサボタージュするとは」

 二人は何やら勝手に考察をしている。

「ほらほら二人とも、そんな隅っこでぶつくさ言わないの」

 亜夕深がそう言って二人の腕を引いて席に座らせる。仮にも、二人は良家のお嬢様なのだ、そんな俗っぽいところは見たくないのが亜夕深の本心だった。

「落ち着きなさいよ、コーヒー飲みな?」

「そうさせてもらおう」

「させてもらうのだ」

 三人がコーヒーを口に含んだ瞬間、さらなる爆弾を昭人は投下した。


「そう言えば、二人目の『特待生』は女子生徒らしいね」

「「「ごぶはぁっっ!?」」」


 三つの噴水が綺麗に上がる。だがしかし、それは透明な水ではなく茶色い水であった。

「げほっ、そげほっ、れ、……どう言う……ごほっごほっ」

「あ、ぎと……会長、……ずこし………悪ふざけ、が……すぎる、ぞ」

「ごほっ、ごほっ」

 三人の少女は噎せながら(口や鼻からはコーヒーが垂れている)昭人に詰め寄る。あまりの剣幕に、昭人は冷や汗を流しながら弁明に入る。

「僕もさっき村中教諭に聞いたばっかりなんだよ、正直、驚いている。進藤君はあらかじめ知っていたようだけど、性別までは教えてもらってなかったみたいだね」

 昭人は三人をなだめながら説明を続ける。

「なに、しょうがないことだ『特待生』の素性は上層部で秘密裡に処理されるらしいからね。簡単に言ってしまえば、余計な騒動を起こしたくないんだろうね。奏多君は学園創設以来初めての『特待生』ということで上層部が浮かれていたんだろう。良い人材が出に入ったと自慢したいだけだったんだよ」

 なだめられた少女たちはようやく落ち着き始め、自分の醜態を知ると急いでハンカチで顔を拭いていた。想い人には見られたくない姿だろう。肝心の奏多は何も反応をしていないのだが。

「そして始まったのが『特待生』への非難だ。奏多君みたいな……悪く言ってしまえばやる気のない不良生徒だね。そんな生徒が『特待生』で入学したという事は他の才あふれる生徒たちからすれば嫉妬や憎悪の対象だ。何とかして退学させたいに決まってる。だけど、考えてみてくれないかい? 奏多君は確かにやる気を感じられない不良生徒だが、その才能はどの生徒よりも格段に、段違いに優れている。だからこそ、『特待生』という超厚遇な措置なんだと、僕は考えてる」

 昭人がそう言うと、他の少女たち三人も言わんとしてる事が掴めてきたようだ。

「だから秘密裡に処理をしてるんだろうね。言ってみれば『特待生』はこの学園の看板だ。そんな看板に辞めてもらっては困るのは生徒や教師ではなくて、理事会などの上層部だ。奏多君への対処で学んだんだろうね。だから今回、空席があったけど、それは『何らかの事情で来れなかった可哀相な子』と皆は思ってるだろう」

「……ま、去年の少年の事を鑑みれば秘密にしておくのも分からないでもない」

 一番理解が速かったのは琥珀だった。

「この事は誰が知ってるのだ?」

「理事会と、僕ら誓教だけかな?」

「それじゃあ、これ以上は広めない方がいいのね?」

「余計な面倒事は僕も避けたいからね」

 三人の少女は自分なりに納得したらしく、各々の席に戻って行った。

「すまん、遅れたっ」

 誓教の扉を乱暴に開けたのはボーイッシュな感じの少女だった。

「会計の侑里少女か」

 琥珀はそれを横目で確認した。

 彼女は万藤侑里という。ボーイッシュな髪形にラフな言葉遣い好み、性格もサバサバしていて細かいことは気にしない男気溢れる姐さん的な存在。『運動組』の陸上部トラック競技科という謎の学部学科に籍を置く体育会系少女だ。『運動組』の割りには豊満な身体を持っているので、同じ『運動組』の男子生徒からは女神として崇められていたりもするのだが、それは秘密だ。そして誓教では会計の座についている。

「すまん、ちょっと上級生に絡まちまったんだよ」

「……その油の塊で誘惑したのだ」

 ツルぺったんな千景はその豊満な胸部を睨みつけていた。

「は、恥ずかしいからそんな見るな……。それに、胸の大きさだったら琥珀の方が大きいぞ」

「はっはっは。なに、私の胸のサイズはEはあるぞ」

 奏多に見えるように胸を強調したのだが、奏多は無関心だった。

「……これはこれで女のプライドが砕かれるな」

 そして地味に良い感じのダメージを負わせていた。そして千景はほくそ笑んでいる。

「そういやそこの男子生徒は……ん? もしかしてあの雪比奈か? こりゃ珍しい。久しいな雪比奈、入学式以来だな」

 爽やかに挨拶をするのだが、奏多はいつも通りのシカト状態だった。

「これが噂のシカトモードか……。案外堪えるね。あたしは体育会系だからそんなんしたら問答無用で鉄拳制裁だよ」

「今の御時世、そんなことしたら停学では済まされん気がするがね」

 ダメージから回復した琥珀はそう言った。

「それはそうと、なんでみんな茶ぁしてんのさ。あたしの分はもちろんのこと無いだろうから、面倒だし、誰かの適当に飲んじゃうよ? で、これ誰の?」

 侑里は手近にあったコーヒーカップを指し示していた。

「ふむ、それは私のだな」

「んじゃこの隣ので」

「なぜだ!?」

 ガタッ、と上品の欠片もない立ち上がり方だった。そして不満そうな表情を浮かべながら言う。

「別に構わないではないか、何が不服なんだ!?」

「いや、『アンタのだから』としか言えないんだけど……」

「別に女の子同士なのだから間接キスくらい良いじゃないか!!」

 琥珀がなぜ、奇人変人と言われている所以は、奏多にちょっかいを出しているからではなく、男性はもちろんのこと、女性もイケる性格を問題視されているのだ。平たく言ってしまえばバイ・セクシュアルである。もっと簡単に言うのであれば『男の子も女の子もどんと来ーい』だ。

 誓教に入った理由も『可愛い女の子がいるかもしれない』という、あまりにも不純過ぎる動機なのだ。

 誓教に居る亜夕深はもちろんのこと、千景も侑里もそれなりの美少女だ。琥珀からすればここはある意味ハーレム状態を味わえる最高の場所でもある。

「だってあんた、誓教の女子が使った私物をどうにかして持って帰ろうとするじゃん……」

 キモいよ、と侑里の身も蓋もないことを言われるが、それはここでは日常茶飯事なので琥珀にはあまりダメージが無い。もとより、かなりの度量があるためその程度で傷ついたり憎んだりすることはないのだ。

 中学まではお嬢様しかいない学校に行っていた琥珀。彼女なりのカルマを背負っているのだろう、と何気に騒動に耳を傾けていた奏多は思った。

 コーヒーをすすり、一息ついた侑里は何かを思い出したかのように言う。

「そういや、礼拝堂にキンパの女子生徒居たよ」

「「「見て来る(わ)(としよう)(のだ)」」」

 我先に、と三人の少女は部屋から出て行った。

 三人の少女は『キンパの女子生徒=噂の「特待生」』と判断したらしい。

「奏多君は興味が無いのかい?」

 昭人に問いかけられるが、奏多は何も答えなかった。

「なるほど、まるで興味なし、か。僕も別段興味がある訳じゃないし、やることがあるから隣の準備室に居るよ」

 昭人はそう言って席を立ち、隣の部屋へと消えて行った。

「ドライだと思ってたけど、あいつは割と無味乾燥な人間だよな……。それより、この学校は染髪禁止なんだけどな……。ま、琥珀は事情が事情か。なにせこの学園の運営資金の三分の一を出してる大企業の娘なんだから、そら理事会も頭上がらないわな。フリルたっぷりの改造制服なのに文句言われないのはそれがあるからだろうね」

 やれやれ、と再びコーヒーをすする侑里。

「琥珀は例外だとして……雪比奈、おまえの格好は校則違反なんだぞ。『特待生』とはいえ、一生徒に変わりはない。その右腕の包帯・左手の革グローブ・眼帯・必要以上に長い前髪……どれも校則違反だ」

 侑里がごちゃごちゃ何か言っているが、そんな瑣末なことはどうでも良かった。

 奏多はその資料を読んで、先ほど瑛莉が言っていることを理解する。

 奏多は立ち上がって部屋を出ようとする。後ろから「あ、あれ? 雪比奈?」と声がするが振り返る事は無かった。そのまま部屋を出て一階の礼拝堂を見る。

 そこに居たのは先ほどの面子と金髪碧眼の女子生徒――来羽・C・瑛莉だった。

「アナタが今年の『特待生』……で良いのかな?」

「……(こくり)」

 亜夕深の問いかけに瑛莉は頷いた。

「カナタと同じ『特待生』……でも、一つ学年が下だから教室は別なのだ」

 千景がそう言うと瑛莉は首を横に振った。その動作に三人の少女は「「「!?」」」と顔を見合わせた。

「お、同じ教室……だと言うのか……っ!? 私だって同じ『芸術組』だぞ!?」

「ボクだってそうなのだ!!」

「でもアンタたち、『特待生』じゃないじゃない」

「「ぐっ」」

 亜夕深のもっともな意見に、二人はたじろぐ。

「そんな事より……この子、さっきから一言も発してないけど、なんなの? 少しは礼義がなってないんじゃない? 奏多と同じでだんまり主義なの?」

 こう言う規律に厳しい亜夕深は、怪訝な表情で瑛莉を見ていた。

「……違う」

 バッ、と三人が振り返る。その視線の先には奏多が居た。ということは、あの奏多が自発的に声を出したということになる。

「か、奏多……。アンタ、話して……」

 言葉を忘れていたとでも思っていたのだろうか。そんな事はない、奏多は普通に会話が出来る。だがしかし、亜夕深が愕然とそんな事を言うのも無理はないだろう。なにせ、奏多は家の中でも全く話さないのだから。

「奏多、何が違うって言うの?」

【おや、走り去ったと思えばこんな所に居たのですか】

 瑛莉はホワイトボードにそんな事を書いていた。

「……そいつは俺とは違う」

【そいつ呼ばわりですか。今日会ったばっでそれほど親しくもないというのに、随分と馴れ馴れしくもふてぶてしい輩ですね】

 そのあまりもの暴言に少女たちは目を丸くしていた。仮にも今日入学したばっかの一年生が先輩である二年生に使うような言葉ではない。

「とてつもなく、毒舌家なのだ……」

「綺麗はバラにはトゲがあるというが……。これは猛毒が塗られた針金だな」

 奇人変人の二人ですらその言葉に若干困惑気味である。

「で、奏多、何が違うの?」

 亜夕深が先を促すように言った。奏多は礼拝堂に降り、四人の元へと歩を進めた。そして、瑛莉のことをちゃんと見据えて言った。


「……おまえ、?」


 少女らは驚いて瑛莉を見た。瑛莉はため息をつきながらホワイトボードに文字を書いていく。

【全く、どこでそんな情報を仕入れて来たんですか? これは恐らく、「上」しか知らない情報だというのに。案外、ここの情報管理はザルなんですね】

 諦念と侮蔑を込めたため息をつく瑛莉。

 実は奏多、先ほど誓教の部屋で読んでいた資料こそが、この少女に関する資料だったのだ。昭人が読んでいて、昭人が適当に――あるいは、作為的に置いた物を読んでいたのだ。

【その通りです】

 瑛莉は認めた。自分が声が出ないという事を。

【私が抱えているのは失声症という病です】

 失声症――声帯にポリープもしくは腫瘍ができる事によって声帯が振動しなくなり、声が出せなくなる病。

「……失声症には二パターンある」

 ポリープや腫瘍は手術や投薬などで簡単に治療できる。あまり喉に負担がかからないようにしなければならない。少しばかりお金がかかるが、治せない事はない。

「……問題は、二つ目だ」

 奏多がそう言うと、瑛莉は「ほぅ」と感心したような態度を取っていた。

【少しばかりソレに対する知識があるようですね。流石は声楽の『特待生』というわけですか】

 若干バカにしたような言い方に、少女らはムッとしていた。だが、奏多はあくまでも冷静で、真剣だった。

【詳しい検査まではしていないので判断しかねますが、恐らく私は後者の失声症だと思われます】

 やはり、というのが奏多の感想だった。

「カナタ、なんでそんなに詳しいのだ?」

「ふむ、それは私も気になっていた。あのとことんまでも人の話を聞かず、沈黙を守り続けていた少年がこうも弁舌になった……気になって仕方がないな」

「奏多……」

 亜夕深だけは悲しそうな表情を浮かべていた。そう、亜夕深だけは知っているのだ。

「……」

 奏多はそのまま歩きだし、四人を通り過ぎた。琥珀や千景に呼び止められたが、いつものように無視をして歩を進める。

 礼拝堂の外は橙色に染まっていた。

「……失声症、か」

 奏多は自分の喉に手を当てた。苦い思い出の象徴でもあるその病。

 奏多もその病を患っているのだ。質の悪い、二つ目を。

「……なんで、今頃になって……」

 奏多は右手をギュッと握った。そして長い前髪の上から左目に触れる。

 しばらく立ち尽くしていた奏多だったが、そのまま歩き始めた。

 奏多の失声症は腫瘍やポリープによる弊害ではない。もっと端的なものだ。

 歩いていた奏多だったが、再び歩を止めて振り返る。

 心因性突発型の失声症。

 それが奏多の抱える病だ。その原因は、ストレス。そして、ストレスによる失声症が治る見込みは、今のところ無い。

 奏多は礼拝堂のてっぺんにある十字架を睨みつけた。

「……この世に、神なんざ居ない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る