第一音節
1
まだ薄暗い室内。天井は黒に近い灰色。まだ夜明けは遠い。
首元の寝汗に気付き、右腕を動かした。だが、途中で動かすのをやめて天井へと突き上げる。
その手に巻かれているのは包帯だ。
それは奏多にとって忘れることが出来ないし、忘れることを許されない鎖だった。
突き上げていた手を下ろし、額につける。
あと何度、こんな目覚めを繰り返さなければならないのだろうか。数回か、それとも数十回か。それは解らない。
ジクリ、と左目が痛んだ。少し左目に圧力がかかってしまっていたらしい。すぐに手をどかし、灰色の天井を眺めた。
「……」
ただ何を言う訳でもなく、奏多は天井を見つめる。そして、心の中で小さく呟く。
できることなら朝日が昇らんことを――。
2
『奏多、朝だよ起きてっ』
ドンドン、とドアを連打する音で奏多は目を開けた。外はもう白んでいて、外からは僅かにスズメの鳴く声が聞こえる。どうやら起床時刻となったみたいだ。
『今日は学校行くんでしょ? だったら早く支度してっ』
そう言えば昨日、学校に行くという約束をしたことを思い出した奏多は緩慢な動きでベッドから降り、これまた緩慢な動きで制服へと着替えた。久し振りに着る制服だが、特別に感情を抱くワケでもない。
部屋から出ると腕組みをした少女が立っていた。
「おはよ、奏多」
少女の名前は
セミロングの黒髪に勝気な瞳。非常にスレンダーな体型(本人曰く)の美少女で、男勝りな物言いと強気な性格から女子の人気が高い。
いつの頃からか、このように亜夕深が奏多の事を起こすのが通例となっていた。奏多としては別に起こされなくても良いのだが、この少女は厄介なことに少々真面目な性格で、絶賛堕落中の奏多の生活態度を矯正しようしているのだ。そして亜夕深は生徒会役員でもあるため奏多の様なダレた生徒は格好の的だった。
「ご飯出来てるから早く下りて来て」
亜夕深はそう言うと背を向けて階段を下りて行った。奏多もその後を追うように階段を下りて行く。リビングに降りると、ほかほかの朝ごはんが用意してあった。
「奏多く~ん、おはよう~」
エプロン姿の亜夕深の母・進藤
ほんわかウェーブのかかった髪はふわふわとしていて、彼女の纏うオーラもふわふわとしていた。三○代後半強とは思えないほどの美貌を持った一児の母である。
「……」
対して奏多は目を合わせる訳もなく、挨拶も無しに椅子に腰を下ろす。その態度にカチンと来た亜夕深が詰め寄ろうとしたが、夕実が「いいのよ~」と宥めてきたので、腹が立つが抑えることにした。
奏多の姓は雪比奈。そのことから解るように、奏多は進藤家に居候している身である。そんな身で挨拶もないとはどういうことか、と言う事を説教しようとしたのだが、止められてしまった亜夕深は溜め息を吐いていた。
「今日の~朝ごはんは~塩鮭だよ~」
夕実の言う通り、食卓には塩鮭や煮物が湯気を立てている。どれもこれも美味しそうに見える。奏多は箸を持って一礼し、そのままもそもそと食事を始めた。その様子を夕実は笑みを浮かべて眺め、亜夕深はなんだか言いたそうな表情をしていた。
亜夕深が時計に目を向けると「やばっ」と言った。
「急がないと入学式の準備に遅れちゃう、遅れたら折檻だ……っ」
亜夕深は若干青ざめている。そしてそのままバタバタと準備を始めていた。どうやらすでに朝食は取っているらしい。
「約束は覚えていたようね、奏多。ホントなら二日前にも出て欲しかったけど」
学校は二日前から始まっているのだが、奏多はその二日間とも学校に行っていない。病気をしている訳でもないし、不登校と言う訳でもないのだが、奏多は自室に籠りっぱなしだった。
「『特待生』だからって調子に乗ってるとまた色々と言われるよ?」
奏多は高校の――聖クリシチア学園の『特待生』であるのだ。
聖クリシチア学園の特待生制度は一般の高校と変わっていて、『特待生』は学園側から特別な扱いを受けているのだ。その特待生の特権としてあるのが
①入学金・授業料・施設維持費免除
②普通授業の免除
③進みたい大学への特別進学
④学校行事参加の自由
⑤登校の自由
の五つが挙げられる。
まさに至れり尽くせり大盤振る舞いの処遇である。聖クリシチア学園が建って半世紀ほど経つが、この特待制度が使われた事は過去一度もない。従って、雪比奈奏多はその初代『特待生』なのだ。
高校受験時、奏多はまさかの高校浪人をする瀬戸際だった。奏多のテスト成績は常に最下位だし、そもそも授業を聞いていなかったのだ。部活に入っていたワケでもないし、内申が良いワケでもない。まさに『大馬鹿者』という表現があっていた。奏多も別に高校に進むつもりもなかったし、夕実も取り立てて「高校に行け」とは言わなかった。甘やかしすぎかもしれないが、それが奏多の選択であるのなら尊重するというのが進藤家である。
だがある日、聖クリシチア学園の上層部、すなわち理事会のメンバー全員が進藤家に来訪し、奏多に向かって「ぜひとも我が高校に入学して欲しい」と言って来たのだ。突然の申し出に唖然とする進藤家に対し、奏多は何も反応をしていなかった。最初こそは行かない旨を示していたのだが、その日から何度も訪れてはずっと「入学をしてくれ」と懇願してくるので、しょうがなく入学したのだ。
その際に提示されたのが、亜夕深が言った『特待生』としての進学だった。こうして奏多は聖クリシチア学園の初代『特待生』として迎え入れられたのだ。
最初こそは真面目に通っていたのだが、三ヶ月ほど経ってから「登校自由じゃん」ということに気付き、その日からあまり学校に顔を見せなくなっている。
「アンタねぇ……少しくらい学校に行きなさいよ。アンタが部屋で何やってるか知らないけど、そんな自堕落的な生活してて恥ずかしく思わないの? アンタの将来が不安でしょうがないよ。ニートになるつもり?」
「亜夕深ちゃ~ん、言い過ぎ~」
夕実はほんわかとした笑みを浮かべ、もそもそと食事をしている奏多に視線を向けた。
「奏多君は~、やる時は~やる子だよ~?」
「そうかもしんないけど……あたしが奏多の面倒見ることになりそうなんだけど」
心なしか亜夕深の頬が染まっているように見えるのだが、奏多はただ食事を続けているだけだった。
「それはそれとして、行ってきます」
「は~い、いってらっしゃ~い」
亜夕深は少し慌ただしくリビングを出て行くと玄関へと向かい、学校へと向かって行った。リビングには奏多と夕実の二人しかいない。
「奏多君の~制服姿~久し振りに見るな~」
「……」
「あ~そうだ~。奏多く~ん、今日は~帰りが遅いのかな~?」
「……」
「あ~、今日は入学式だけだから~、帰りは早いか~」
「……」
夕実はにこやかに語りかけているが、奏多は何一つ反応しない。声を発するどころか、視線を向けるワケも、食べるペースを落とすという事も何もしなかった。
奏多は全くの無反応だった。
「……奏多君、おばさんとも話すの……イヤ?」
先ほどとは打って変わって間延びしたしゃべり方ではないし、影のある表情を浮かべていた。奏多はそれでも何も反応をしない。夕実は完全に奏多に対してどのような対応をすれば良いのか分からなくなっていた。
奏多は完全に心を閉ざしており、周りとコミュニケーションを一切取ろうとしない。夕実は小さく溜め息を吐く。ここ数年、奏多の声を聞いていないような気がした夕実は最後に奏多の声を聞いたのはつだったのかを思い出そうとする。
朝食を食べ終えた奏多は一礼し、自分の食器を流しへと持って行く。そして比較的遅い動作で身支度を整えて学校へ行く準備をしていた。入学式に参加するつもりは毛頭ないし、学校に行かなくても良いのだが、今日くらいは顔を出しておこうと思ったのだ。
二階の自分にあてがわれた部屋へと向かい、薄っぺらいカバンを持って階段を下り、そのまま玄関へ向かう。
「奏多く~ん、いってらっしゃ~い」
夕実は無理をして笑顔を作り、奏多を見送る。
奏多は振り返るワケもなく、返事をするワケもなくそのまま学校へと向かった。
3
進藤家から聖クリシチア学園までは徒歩で30分圏内にあるのだが、奏多はその二倍ほどの時間をかけて登校をする。もちろん、奇異の眼差しにさらされながら。現に今も奏多は井戸端会議をしていた主婦たちに気味の悪いモノを見るかのような視線を向けられ、ヒソヒソと言われている。それはどれも、奏多の見た目を批判するものだった。
奏多の左目は眼帯で覆われており、その眼帯を隠すように左の前髪を伸ばしている。その前髪で顔面の左半分は完全に見えなくなっている。そして、左手にはいつも黒革のグローブを付けているし、右手の見える範囲からは包帯が確認できた。
奇抜すぎるその格好は周りからは異端の目で見られる。それに加え奏多の周りの世界へのコミュ力の無さと、何を考えているか解らないその思考や行動、生きる活力を失った光の無い右目も一役買っていて奏多は完全に孤立した存在だった。
学校に着くまでに、遅刻しているらしい他の学生にビビられ、赤子は泣き喚き、警察の方に厄介になることもたまにある。今日は比較的まともな日だったらしく、幼稚園児五人に泣かれた程度だった。
校門をくぐり、誰もいないある意味では快適な昇降口へ向かう。下駄箱で靴を履き替えていると体育館からは拍手と吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。わずかにだが司会進行役の少女と思しき声も聞こえてくる。無駄に広い体育館なので、音量を上げておかないと全体に響かないのだ。
騒音被害とかで学校の周辺から苦情は来ないのだろうか。
そんな益体もないことを考えながら奏多は自分にあてがわれたクラス――特別待遇生徒教室、通称『トククラ』へと向かう。教室へ向かう最中、いくつもの教室を横切ったのだがどこにも生徒の姿はない。奏多が異例なだけで、他の生徒は体育館で新入生を迎えているのだが。
トククラの戸の前に立ち、ぼーっと眺める。去年はこの教室で一年間(実際にこの教室に通っていたのは半年にも満たない)、独りで過ごしてきた。またその一年が繰り返されるだけだ、と思い引き戸を開ける。
「……………」
いつもポーカーフェイスの奏多が表情を崩すことはない。何をされたって殆どが無表情な鉄面皮みたいな奏多の表情がわずかに変わる。
その教室の中央には全く見慣れないモノがあった。
一人の少女だ。いや、一体の人形と言うべきだろうか。
そこにいたのは西洋の面持ちが強いビスクドールがあった。
煌びやかな金髪に青い瞳はぶれることなくまっすぐ前を見つめている。聖クリシチア学園の静服をまとっているその人形の肌は遠目から見ても
奇妙なことに、そのビスクドールの傍らにはホワイトボードが置かれている。
奏多は取り敢えず教室に入り、恐る恐ると言った具合でその人形に近づいた。
「……」
どう見ても人形にしか見えない。こんなにも美しい造形美は初めて見る。奏多は観察するようにそれを見ていた。
だが突然、人形の首がクルンと回り奏多のことを見上げてきた。
「……」
わずかに驚く奏多だが、その表情はまったくもって『無』そのものだった。
誰も触っていないのに動き出した人形。
「「……」」
人形の青い瞳に奏多は射貫かれていた。その美しい青い瞳の中には醜い姿の自分が映っている。
すっ、とン允恭は視線を逸らして動き出した。傍らにあったホワイトボードと水性のペンを手に取り文字を書き連ねる。その洗礼された緻密な動きに奏多は目を奪われていた。そして人形は奏多にホワイトボードを向ける。
【ここは特別な人だけが入れる場所ですよ、この昼行灯】
「……」
はて、と奏多は心の中で首を傾げた。
先ほどホワイトボードを見たときは何も書いていなかったはずだ。人形が書いたにしては字が綺麗過ぎるし、何より動きに淀みが無さ過ぎた。奏多は自分の理解を超えている精巧な人形のことを見つめる。
すると、人形はムッとした(ような気がする)表情を作り、ホワイトボードに新たな文字を記し始めた。
【視姦されるのは嫌いなんです、止めてください。気味が悪いですし不愉快です】
他に誰かいるのだろうか、と奏多は状況を確認するために辺りを見渡す。だがこの場には自分と人形しかいない。だとしたらこの人形は誰に向かって言っているのだろうか。
奏多が固まっていると、人形は面倒くさそうに溜め息を吐きながら新たな文を書いて見せてきた。
【貴方のことですよ、バカなんですか?】
小馬鹿にしたような、呆れたような視線で奏多を見上げてくる。
「……」
奏多はその人形の目をずっと見ていた。人形のまつげはとても長く、その凛とした目には力があり、気弱な人なら一睨みで圧倒してしまうだろう。その目で見つめられ、ブレないことから「ああ、俺のことだったのか」と遅れながら気付く。
【何を考えているのか全く分かりませんが、私はれっきとした人間である以上、感情と言うモノがあるんです。先ほども言いましたが、見られるのは嫌いなんです。その程度の理解力もないんですか?】
れっきとした人間。奏多は(無表情で)驚いていた。
奏多は未だかつて、こんな完成に近い美を見た事が無い。この人形、否、少女はそれくらいに完成されていたし、美を持っているのだ。
人間を超えた美に、奏多は何も言えなかった。
少女は見るからに不機嫌になり、少し濃いめの筆圧となった文字を見せて来た。
【先ほどからだんまりを決め込んで、一体何なんですか? 私の見た目が西洋だから極東の言語が分からないとバカにしてるんですか? 私はこう見えてフランス語や英語、イタリア語、ドイツ語、日本語を理解できるほどの語学力を持っているんです。貴方は見たところ日本人なんですから、日本語くらいは話せるでしょう?】
なんで近頃の外人は日本人よりも詳しい日本語を知っているのだろう。そう思うほど、奏多の国語能力は低い。
奏多はそれでもしゃべろうとはしない。それを怪訝に思った少女は、ふと思い至ったように次の文章を見せて来た。
【私と同じなんですか?】
――私と同じ。
気になった奏多が口を開こうとする。
「ぁん? 何だ奏多、来てたのか」
だがそれは、突然現れた教師によって言葉に出来なかった。
「良い御身分だな、『特待生』ってのは。他の一般生徒どもは校長のなっがい話を聞かされてうんざりしてたぞ。ああ、ちなみにあたしは別件があると言って抜けだしてきた」
黒髪を背中の真ん中あたりまで伸ばし、モデルかくやと言った
「……あー、そうかそうか。まだ言ってなかったか」
村中は奏多と少女を交互に見ると勝手に納得していた。
「まあこれも、
なにやら自分の与り知らぬところで結構な事態に発展していたらしい。そもそも、こう言う連絡事は進藤家に来るはずなのだが、これは職務怠慢なのではないだろうか。とは言っても、村中は特別にこのトククラの担任となってはいるが、別に教師ではないらしい。
「良かったな、奏多。今年からお前は独りじゃない。そいつは――」
一応、担任である村中が居るのだから元より一人ではないはずなのだが、この教師の言わんとしている事が分からない。
顔には出ていないが、困惑している奏多に向かって村中は面倒くさそうに言い放つ。
「――そいつは、学園史上二人目の『特待生』だよ」
そして奏多は、何も反応をしなかった。
「…………いやいや、何か反応しろよ初代『特待生』さんよ……」
村中はそう言って溜め息を吐いていた。
「ったく、案の定おまえはうんともすんとも言わねえ。壊れたテレビかっての。まあ良い。そう言うことだ『特待生』ども」
くいくい、と制服の裾を引っ張られた。引っ張っていたのはもちろんのこと少女だ。
【貴方みたいな無礼な人間が私と同じ『特待生』であることに酷い理不尽を感じていますよ、先に居た
「……」
この後輩はトゲに毒が塗られ過ぎではないだろうか。むしろ針金に毒が塗られている気がしてきた。
【でも、それでも、貴方は私の先輩になります】
この学園にいる以上、『特待生』ではなくとも奏多はこの少女の先輩となるのだが、少女は何かを割り切るように頷いていた。
【形式上、立場上、礼義その他諸々を含めて、本当は貴方の様な輩には言いたくないのですが仕方ないので言うことにします】
恐らく、こんな発言(?)をされたら普通の人なら激怒するのが当たり前なのだろう。だが奏多は、怒りもしなければ不機嫌になるわけでもない。
ただ普通に、いつもと同じように無反応だった。
【今後ともよろしくお願いします。愚かで憐れな先輩】
少女はやはり無表情でボードを見せて来る。対して奏多は
「……まあ、よろしく」
学園で初めて奏多がしゃべった瞬間だった。
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