5 五次元世界の召喚

 リオの別荘を後にする。

 執事の服部さんから三本目のピラーへの準備を終えたと報告があったためだ。

 たとえ、現実世界までが【アル・イスカンダリア】の中だと言われても、それまでとなんら変わることなく、俺とリオは車が往来する国道を詠憐高校方面へ歩いていた。

「――現実世界の部分はソウタくんの記憶と印象から築き上げられた箇所だから、ソウタくんの知らない場所については曖昧なのよ」

「俺が知らない土地へはどうやっても行けないってことか?」

「その通り」

 すっと、彼女は腕を上げて、国道の首都圏方面を指差す。

「歩き続けていると、多分何処かの時点から行けなくなるはずだわ」

「たまたま行く用事がなかっただけで、もし行ってたら一発バレじゃないかそれ」

「【アル・イスカンダリア】の狡猾なところはね、創造世界の終端が見えない壁によって阻まれるわけではなくて、終端に辿り着く前に何らかの阻害要因が入るところよ。例えば――そうね、急遽お腹が痛くなって引き返す羽目になった、とか。因果が破綻しない程度に自然な形で」

「国道歩くたびに腹が痛くなってたらたまんねーな」

「今のは、あくまでも例え話。身内に危篤連絡が入ったけど、駆け付けてみたら大したことなかったなんてこともあるかもしれないわね」

「笑えないぞ」

 笑わそうだなんて思っていない。と無愛想に、リオ。

 その後、しばらくは無言のまま歩いていたが、詠高に繋がる例の交差点までやってきたところで、リオに聞いてみたかったことを思い出した。

「そういえばさ――」

「なにかしら」

「その【ルシフェル】は、何でアセンションしたいんだ?」

 すると、隠すこともなくあからさまな溜め息。つまらない質問だと思われたのか、それとも語りたくない事柄だったからか。その判別は付かなかったが、特に躊躇った様子もなくリオは言葉を続ける。

「ソウタくんの地球もそうだと思うけれど、異界金星も様々な問題に晒されているのよ。環境破壊問題、人口過密問題、食糧不足問題、エネルギー問題――」

「せっかくの魔法世界なのに、夢も希望もありゃしないな」

「人が人として存在する以上、程度の差はあってもどこも同じようなものだと思うわ。異界金星では、一番最後のエネルギー問題が特に深刻なの。数年、数十年単位で異界金星を支える魔力が枯渇すると試算されている」

「魔力が、枯渇……? そうなったらどうなるんだよ」

「魔法は失われ、都市は崩れ落ち、人々は投げ出され、世界は終わる。世界の延命措置が行われてるから明日にでもという事態だけにはならないけれど、早ければ、十年も持たないといわれているわ」

「だから、なのか?」

「そうね。アセンション以外にも様々な方法が検討されているわよ。ただ、その中で【ルシフェル】という集団は不安定な物質世界に別れを告げて、精神世界への移行、アセンションを謳っているだけの話」

「自分たちの街を地球に被せようとして、そんなこと言われてもなぁ……」

「次元上昇が起こるというのは、ひいては地球人類の進化とも成り得る――【ルシフェル】がアセンションを正当化する理由はその一点ね。差し迫った終末を前にすると、どんなに馬鹿げたトンデモ理論でも人心を掌握することは可能らしいわ」

 あくまでリオは軽く語ってはいるけれど、きっと内情は単純ではなく、もっと複雑であることが伺える。

 一聞しただけでは「そんな無茶な」と俺も思えたけれど、単純にそれは人間目線からだけであって、山の開拓や海の埋め立て、近い未来に実施されるかもしれない宇宙移民なんてものも本質としては変わらないのだろう。

「それに、物質世界の束縛から逃れられたら、人口過密問題や食糧不足問題なんかは確実に解決できるわけだし」

「精神体は霞さえ必要ないのか」

 信号待ちしていた信号が変わる。びゅんびゅんと行き交っていた車の流れを一時的に止めて、横断歩道に侵入する。そうすると、もうすぐ目の前はあの事故現場。そして、俺の両親が経営する『さくら屋』――もっとも、今はシャッターで閉じられている――があり、三軒隣の白い家は俺の家。より正確に言うと、俺の父親の家。そして、今はカナカが泣き疲れて寝ている家。

 それらさえも通り過ぎると、すぐに私鉄の高架に当たる。そこを潜り抜けると、詠憐高校前という安直な名前の駅だ。以前、リオ、あるいはカナカが食べたいと言った美味しいケーキ屋もこの一角。

「ソウタくん。昔から異界金星の人間はある程度、地球と行き来が出来ていたのって知っているかしら」

「いや……そうなのか?」

「ええ、異界金星そのものは既に半精神世界なのだけれど、地球の物質文明に興味ある人々ってのは一定量いるものなの。そういった人たちが観光旅行気分で訪れたり、移住するケースがある」

「地球人に紛れて日常生活送ってたってことかよ」

「そうね――」

 なおも歩きながら、リオの口からアイドル先輩のフルネームを聞かされたときには、あやうく笑い死にしそうになった。今更、まやかしの人目など気にする必要もないかもしれないが、駅の改札から出てきた人たちに不審な目を向けられる。

「あはははッ! はー……腹いてぇ。なるほど、それで略してミカゲタンかよ」

「あら。私が親しみを込めて、スラングを使っていたと思っていたのかしら」

「ああ。大真面目な顔で言うから、それも毎回面白かった」

「失礼なソウタくん」

 駅前の小さなロータリーを通り過ぎ、閑静な住宅街へ。しばらくは一軒家が立ち並ぶが、少し山側へ入るとすぐに高層マンションが視界に飛び込んでくる。

「――話は戻るけれど」

「うん?」

「アセンション――精神世界への移行ね。次元上昇を経て辿り着くそこは個が個である必要性がないので、争いも諍いもなく、他者を完全に理解し、交じり合える理想郷なの」

「なんか、気持ち悪く感じるけどな。隠し事が出来なくなるってことだろ? 人の秘密だって覗き放題ってわけだそれ」

「ええ、そうね。でも、現世界の理の破壊だと分かっているけれど、私は、そうだといいなと思う一面も捨て切れない。だって――」

 訪れようとする世界の終わり。そのトリガーを引こうとする者、ふたりの最後の会話がそんなもので良かったのか。今となっては分からないけれど。

「ソウタくんが好きという私のこの気持ち。貴方に完全に理解してもらえるのだから」

 それでも精一杯なのだろうと感じたが、あくまでそっけなく、リオは言った。



 自宅を通り過ごし、駅を通り過ごし、住宅街に入った辺りでまさかとは思っていたが、そのまさかだった。赤茶けたレンガ調の壁に包まれたあるマンション。入り口の花をモチーフにした備えた門構えに『アンビエント』と刻まれた銀色の立て看板。

「ここ、カナカの……」

 三階の一室に黛一家が住んでいる、確か築二十年目のマンションだった。

「そう。異界金星にあるピラーとの道を開封する際、土地的に最も相性のよい場所を調査した結果がソウタくんの家だったり、私の別荘だったりしたわけだけど。何か、因果めいたものを感じるわね」

「――ソータッ!」

 その場で思わず飛び上がってしまうほどの大声だった。心臓が口から飛び出るかと思ったなんて比喩はこんなときに使うのだろうなと、振り返る。少しだけ離れたところに激しく息せき切らせているカナカがいた。

 リオは一瞬だけ不思議そうに首を傾げたが、すぐに得心したという表情で頷く。

「ソウタくん。先に行ってるわ。三階よ」

 そう言い残し、石畳の上をつかつかと遠ざかっていく。「入居者以外、立ち入り禁止」の注意書きもなんのそのだった。

「ソウタ、どういうこと……どうして?」

 リオの話では、このカナカが自覚しているかどうかは分からないとのことだった。事故のことや、現実世界の自分がどういった状態にあるのかということを、だ。

 だから、話の運びは慎重に行わなければならない――

「お前のマンションから三本目のピラー行けるんだとさ。リオは偶然だって言ってたけど」

「神楽坂リオを説得してくるって出かけて行ったのに、なんで今更また異界金星に行くの? ピラーを落としたら世界が変わっちゃうんでしょ!」

 分かっていたつもりだけれど、実際その場に置かれてみると説明は困難だった。それならば、カナカに嫌われようが軽蔑されようが、自分が気変わりして、自分が助かりたいからやるというていで話を進めたほうが楽じゃないか。

 そう思った瞬間、

「あたしの、せい……?」

 カナカがぽつりと呟いて、おそらく俺はやってはならない類の失態をしてしまったのだろう。表情だけを見て判断された。やっぱりと頷く。

「本当はね……最初から、薄々感じていたんだよ。自分がどこにもいないような感覚というか、誰にも見られていない感覚。やっぱり、そうだったんだね」

「ごめん。カナカ、俺は……」

「ううん、謝るとこじゃないよ。でも、なんで? ソウタの怪我は大したことなかったんでしょ」

「う……」

 リオが言うには、確かに俺の怪我そのものはカナカのおかげで大したことはなかったそうだ。でも、運び込まれた病院で気付いたとき、その経緯を知って、カナカの状態を目の当たりにして、一種の心神喪失状態に陥り、そのまま……ということのようだった。

「――うわ、なっさけな」

 そのときの自分の精神負荷は如何ほどだったのだろう。

 しなくてもいい当時の衝撃を想像しながら話すだけでも涙腺がまずいことになっているのに、説明を聞いたカナカの奴はそんな風にして容易く吐き捨てた。

「お前なぁ……もうちょっとオブラートに包めよ。きっぱり言うが、これでも泣きそうなんだぞ!」

「あたしの驚異的な活躍のおかげでせっかく助けられたっていうのに、肝心のソウタは精神的引き篭もり状態だなんて、あたし、成仏できないじゃんか!」

「まだ死んでないだろ――ッ!」

 ちくしょう。なんなんだよ、コイツ。

 ちくしょう。なんだっていうんだよ、コイツ。

「俺はリオを助けたかっただけだ。なんで、そこにお前が割り込んでくるんだよ!」

「ソウタ、馬鹿なの? あたしだってソウタを助けたかっただけだよ!」

「その結果がどうだって話だよ! お前、自分の身体がどうなってるのか、知ってんのか!」

 夕焼けで殊更赤く染まったマンションの前で、涙ぐんだ男女が言葉で殴り合う光景がしばし続く。

 同じ光景でももうちょっと、異なるシチュエーションだったら良かったのにな。

「――それでもッ!」

 半年経っても予断を許さない昏睡状態が続いていて、一命を取り留めたとしても、もうまかり間違っても竹刀を振ることは叶わないだろう。運動が出来るかどうかすら怪しい。自分の足で歩けるようになるかすら。

 目覚めたとき、彼女は自分の身体に刻まれたギャップをどう思うのか――

「……それでも、あたしは、ソウタを助けられたことで胸がいっぱいだよ。本当に良かったって、思ってる」

 どうして。

 そんなことを言うのか。そんなことを言えるのか。

「お前のほうが……」

「んー?」

「お前のほうが、馬鹿だ。断言するわ」

「ひどいなぁ」

 それも、どっちがって話だ。

 この件に限れば、カナカの言葉は全てブーメランで投げ返す自信がある。

「世界を壊してみんなに罵られるより、お前に馬鹿言われるほうがキツイわ」

 最後の激震のピラーを落としてアセンションを起こしたら、カナカは俺のことを許さないだろうか――許さないだろうな。逆の立場だったら同じことを思うはずだ。

(でも、カナカが確実に助かる道選ぶだろ?)

 たとえ、それで当人に一生許されなかったとしても。

 それのどこが、何が悪いって話だ。

「カナカ。俺は――」

「ソウタ。あたしね。この街が好きだよ」

 俺の言葉に、カナカの言葉が重なって。その出だしに虚を突かれた。

「あたしが生まれて、ソウタが生まれて、たまたま幼稚園で出会って、小学校も中学校も一緒で、高校はまぁソウタが詠高行くって聞いたからあたしも詠高にしたんだけど……一緒に育ってきたこの街が大好きだよ」

「カナカ……」

「それが消えて無くなってしまうのなら、あたしは嫌だな」

 ゆっくりとした足取りで近付いてくるカナカ。もうその頃には、カナカの意思の堅さに何をどう言えばいいのかも分からなくなっていて、俺は黙りこくるだけだった。その手が伸びてきて、俺の頬にそっと触れる。

「精神世界なんてピンと来ないけど、こうやってソウタに触れて、ぬくもりを感じられなくなるんだとしたら、それも嫌だ」

「――だったら」

 今にも決壊しそうな涙を堪え、

「ん?」

「だったら、早く目を覚ませよ……いつまでも寝てないで」

「なんか、エサでもあったらなぁ。今すぐにでも目覚められそうな気がするなぁ」

 擦れる声で言葉を搾り出すも、意地の悪い笑みを浮かべ、彼女はのたまう。

「急にそんなこと言われても」

 色々な考えが頭の中を巡る。その間もカナカはずっとその笑みを崩さずに待っていた。

「じゃあ……お前の世界遺産の旅、俺が付き合ってやる、でどうだろうか」

「おおー。魅力的だねぇ。でも、だいぶ先の話だよー」

 未来の約束っぽくてそれもいいけれど、と前置きをした上で、もう少し即効性のあるものを求めてくるカナカ。

「そうは言っても、俺が出せるものなんかないぞ」

「あると思うけどなー」

「なんだよ、はっきり言えよ」

「じゃあ、言うけど――ソウタ。陸上」

「……は?」

「また短距離走やってくれる? またかっこいいソウタ見せてくれる?」

 いつか好きだと思ったひまわりの笑みを湛え、カナカは言った。



 彼女を置いて、『アンビエント』三階の光の靄を潜った先。

 階段を上がれば、そこは異世界でしたその三だったわけだが、先のふたつのエリアと比較すると、最も中世色というか、ファンタジー色の強い場所だった。

「――ようこそ。金星ラーダ大陸ギネヴィア平原昇ル基点、天空城ピナーナ宮殿へ」

 苔むした白い外壁に背中を預けて、腕組みしている様はそこそこ絵になるかもしれないなとは思いつつ。

 腰に物々しい長剣を引っ下げたアイドル先輩――もとい、

「折笠ミカゲパティスリータンドレス先輩」

「……いいか。世の中、言って良いことと悪いことがある。今のは後者だ」

 いつまでもただひとつの失態から本人の知らないところで付けられたあだ名で呼び続けるのも失礼だと思い、せっかくリオから長々とした本名を教えてもらったのだからそれで呼んでみたのだが、深く肩を落とし、溜め息を吐かれる結果に終わった。

「覚悟を決めた顔、だな。リオはこの先にいる。案内しよう」

 そう言って、ミカゲタン先輩は薄靄が掛かってぼやけたその向こうのピナーナ宮殿とやらへ歩き出す。俺も慌ててその後を追うが、いつもと違う感じに首を傾げざるを得なかった。

 先のエリアふたつに関しては、階段を覆う靄の先が賑やかな都市部に通じていたのに対し、ここは人っ子ひとり見当たらない遺跡のような場所だったからだ。

「ミカゲタン先輩、ここは?」

「半世紀ほど前に破棄された天空都市の名残だよ。異界金星の南極に近い地域なんだが、世界から魔力が徐々に枯渇していく影響をもろに受けた地域だ」

「げ、崩れるのか?」

「いずれは、な。そのときが来たら真っ先に危ない場所ってだけのことだ」

 頼りない保証だと、素直に思った。

 改めて、見る。

 空はどす黒い曇り模様。もう夜に近いのだろう。

 薄く引き延ばされた白い靄に包まれた古城というのが、最初の幻想的なイメージだ。

 いくつかの尖塔を内包したその古城がピナーナ宮殿という奴だろう。周囲の石畳や崩れかかった石垣などはしっとりと湿っていて、そこに苔やツタ状の植物が巻きついているため、油断するとすぐに足を滑らせてしまいそう。

 石垣に紛れて、いくつも石柱が立てられているのだが、それらの全てには凝った意匠のモニュメントとなっている。翼を生やした悪魔のようなものもいて、きっとガーゴイルなんて石像の魔物はこの辺の産物じゃないかと思うぐらいだった。

「実は宮殿には用はない。こっちだ」

 てっきり宮殿に向かうのかと思いきや、そう言ってミカゲタン先輩は舗装された道を外れ、左手の獣道へと入り込んでいく。

「モンスターは、いないのか?」

「ああ、そういったゲーム要素はもう解除したようだな。リオの奴」

「なんだよ、それ」

 ひとつ目とふたつ目、それなりに苦労したのだが、そんなあっさり覆されるとこちらとしても微妙な気持ちになる。

「まぁ、むくれてやるな。リオが必死に考えた結果だと思うぜ。お前に気に入ってもらうために」

「……どういうこと?」

「ゲーム好きのお前にとってゲーミフィケーションの部分は言うまでもないが、アセンションで世界の上書きが走った場合、異界金星がベースになるはずだから」

 実際、どんな世界になるかなんて俺にだって分からないけれどな。と挟みつつ、

「単純に異界金星を好きになって欲しかっただけのことだろうよ」

 ミカゲタン先輩は淡々とした口調で言い放った。

「そのゲーム要素も変に偏ってたんだけれどな。妙にレトロな感じで」

「じゃあ俺がサンプルで用意したゲームが古かったんだな。最新作は高いからよ」

「それって、経費とかじゃないの?」

 何の経費はともかくだが。

「出ねーよ。俺のポケットマネーだ」

 ありがちな悲哀を感じさせる台詞に、どこの世界でも同じなんだという思いで親近感を抱く。

 そうこう言っているうちにミカゲタン先輩は石垣が円形を描くオブジェの前で立ち止まった。十数人の大人が手を繋いで囲めるぐらいの大きさで、霞みかかった向こうの古城などに比べれば、取り立てて語るべきこともないような、よく分からないものだったのだが。

「この下だ」

「下って、なんだよ」

 黙って円形の中央を指差すミカゲタン先輩。促されるまま、少し近付いてみると、その円形の内側は井戸のように縦穴になっていて、壁面には石造りの螺旋階段が張り付いているのが見えた。

 底はそう深くはないところに見えているが、三階建ての建物ぐらいの高さはありそうだ。

「ポルトガルの世界遺産、レガレイラ宮殿というところがあるそうなんだが、知ってるか?」

「知らんよ。俺はカナカほどマニアじゃない」

「そうか。まぁ、このピナーナ宮殿一帯はそのレガレイラ宮殿とそっくりなんだ」

 言いながら、螺旋階段を下り始めるミカゲタン先輩。滑らないように、慎重に俺も後に続く。等間隔に備え付けられたランタンがこの妖しげな雰囲気に拍車を掛けている。

「そのレガレイラ宮殿にも地下道へ通じるこんな螺旋階段があって、そこはダンテの『神曲』とやらをモチーフに、天国と地獄を表しているらしい。ここも同じ」

「……つまり、ポルトガルの世界遺産は異界金星から持ち込まれたものだって言いたいのか? よくある話だとは思うけれど」

「逆だ。お前たち地球の物質文明に感銘を受けた連中がこういったものを建造したんだ。ここだけじゃない。アイテルの街並みも、ホルスの街並みも。異界金星のそこいら中にそういった面影が見て取れる」

「へぇ……」

「異界金星には、が多いんだよ」

「アンタの名前もその一端か」

「口は慎みたまえ」

 知らない世界のことばかりだったけれど、少しばかり誇らしい気分になったって罰は当たるまい。

「カナカは狂喜乱舞してたもんな」

 このピナーナ宮殿は前ふたつの街と比較しても格別と言っていいほど、極上の雰囲気を醸し出して、そういう意味では惜しいことをしたかもしれない。連れて来なかったのは、俺が押し留めたからに他ならないのだが、このことが知れると酷く恨まれそうだった。

(本物に行けばいいのか)

 まぁ、俺が苦手な飛行機を克服するという試練が待ち構えているが。

 螺旋階段を中ほどまで下ったところで、ミカゲタン先輩とは別の男の声がぐるぐると反響しながら俺の耳に届いた。

「――来たな」

 よく見ると、井戸の底に誰かが立っていた。見覚えのある男だ。嫌というほどの。

 ミカゲタン先輩の小さな舌打ちに苦笑する。

「姫様は激震のピラーが安置されている地下道に入られた。覚悟は出来たのだろうな」

 けして急ぐことはなく、井戸の底に降りる。派手な朱色の床には、幾何学模様の魔法陣が描かれていて、今にも儀式が行われそうな雰囲気。上を見上げると、僅かに見える曇り空は程遠く、結構な高さを降りてきたのだなと思わされた。

 そして、その男――アシェンが仁王立ちする背後には、その地下道とやらの入り口に当たる岩肌に囲まれた天然の洞窟がある。

「どういうのを覚悟と呼ぶかによるのかな」

 ここに来るまで、様々なことを教えてくれたミカゲタン先輩だったが、アシェンが現れてから急に口を閉ざし、両手を後頭部当てた格好でふらふらと彼の隣に立ち並んだ。

 その所作に何の意味があるのか――考えながら、アシェンの問い掛けに対する言葉を選ぶ。

「リオが俺のためにここまでしてくれたことには、本当に感謝してる」

「ならば、お前の成すべきことは最後のピラーを落とし、姫様の想いに応えて差し上げるだけだと分かるな?」

 痛いほどに分かるし、楽しいほどに分からない。

 正直ピラーを落とそうとする考えに傾いていたことは否定しないし、出来ない。リオから真実を聞かされた後、『アンビエント』の前でカナカと話すまでは本当に悩んでいた。カナカが現れずにここへ来ていたら、きっと自分は迷いながらも最終的には頷いていた可能性が高い。

 我ながら流され易い奴っぽくて落ち込みもする。

 でも。


「それは――出来ない」


 ずっと一緒に育って来た少女がそう願ったから。

 否定したその瞬間に、体感温度が一度は下がっていた。アシェンの冷酷な視線に凍り付きそうになるも、

「ピラーは落とさない。カナカと約束したんだ」

 もう一度、きっぱりと告げる。

 ピラーは落とさない、リオにも落とさせない。今はその意志を以って、ここまで来たのだから。

 カナカが好きと言った俺たちの街を守るつもりで来たのだから。

「桜庭ソウタ。それでもお前はもう少し賢い男だと思っていた」

「アンタこそ考えろ。精神世界ってのが本当にどんなもんかしらねーけど、リオが世界中から批難されるようなことになってもいいのかよ!」

「それが、姫様自身が望まれた道ならば、俺は露払いに徹するのみ」

「地球じゃそういうの、思考停止って言うんだッ!」

「黙れ。桜庭ソウタ――貴様のために血の滲むような思いで決断された姫様のそれを貴様自身が無碍にしようというのなら、この場で俺が斬って捨てるぞ」

 しゃん、と。鞘走りの音が響いて、アシェンの白刃が井戸の底に届くランタンの僅かな光によって照らされる。

「アンタ……本当にそれでいいのかよ」

 剣を構え、一歩一歩にじり寄って来る奴を前に鬱屈と呟いた。

 と、

「はっはっは――っ! いいね、少年。あくまで、黛カナカのためか」

 場違いなほどの明るい笑い声が響き、アシェンの背後で別の白刃が閃く。

 その気配に顔を強張らせた奴は振り向き様に剣を突き出して、何とかそれを受け止める。がちがちと刀身が噛み合う鍔迫り合いにも増して、アシェンは最大級の嫌悪感を込めた怨嗟の叫びを響かせた。

「ミカゲェッ! 大人しくしているかと思えば、最後まで邪魔をするかッ!」

 アシェンに剣を向けたミカゲタン先輩は顎で地下道の入り口をしゃくる。

「こいつの相手は俺がしてやる。お前は早く行け。リオの横っ面引っ叩いて来い!」

「ああ……感謝するよ、ミカゲタン先輩!」

 アシェンの怒号を尻目に魔物の口をも思わせるような暗がりの洞穴に滑り込む。

 剥き出しの岩肌の内部は更に暗く、更に湿気が充満していた。髪に触れると、しっとりと濡れている様がよく分かる。ふたりの剣戟が遠ざかるに連れ、闇の濃度は増していき、不安ばかりが増大する。

(ゲーム内のダンジョンといえば、宝箱探しでウキウキするものだけれどな)

 実際、そんな気分にさえならない。

 正直に言うと、ちょっと怖い。こんなところをリオはひとりで進んだのだろうか。それはそれで引いてしまうのだが。

「鉄の女だな」

 ところどころ、例のランタンが通路を照らしているものの、その合間になると足元さえ確認できないほどで、岩肌に手を当てて、手探りで進んでいる状態だった。

 しかし、そんな暗がりもすぐに終わりを告げ、前方が俄かに明るくなる。

 それは、ピラーが放つ例の光だった。

「――鉄の女とは失礼ね。洞窟内は音が反響するから意外に聞こえるのよ」

 姿が見えないうちから、リオの声が届いた。

 迂闊だった。小さく舌打ちする。

 光は徐々に大きくなり、やがて洞窟内でも大きく開けた場所に辿り着いた。天井も高く、広さも申し分ない。中央には激震のピラーと思しきものが浮かんでいて、やはりその下には不可解な大穴が広がっている。あのピラーを落としてしまえば、世界変革が始まるのだろう。

 そして、その横に控えるようにして、超絶美少女が立っていた。

「リオ」

「来たわね、ソウタくん」

 彼女とピラーを挟んでその向こうには、俺がここまで通ってきたような通路が続いているようだった。ピラーを内包するこの広間は休憩所のような中間地点なのだろうか。

「このピナーナ宮殿はこんな地下道が蜘蛛の巣のように張り巡らされているのよ。激震のピラーに至る道はひとつではないというだけのことね」

「あ、ああ。そうか……」

 相変わらず、俺の心を読むかのようにリオが的確な返答を寄越すから怖い。

「あのな。リオ、俺は――」

「いいわ、ソウタくん。アシェンとの会話、全てではないけれど、大体聞こえていたから」

 結局――

 そうとすることによって、彼女がどういった反応を示すのか、全く想像付かなかったわけだけれど。想像付かなかったのは、当然といえば当然のことで、至極淡々としているものだった。

「それで、私を引っ叩いて来いとかいうミカゲタンの声も聞こえたのだけれど――そうなのかしら?」

「いや、引っ叩くかどうかはともかくだな。もう終わりにしよう、リオ」

「私が望むは物質世界の終焉よ。その言い方は不明瞭だわ。はっきりと明確にしましょう」

「でも、それは本意ではないんだろ。その激震のピラーは落とさない。【アル・イスカンダリア】を解除してくれ」

「……念のために聞くけれど。そうしたあとで、ソウタくん、貴方はどうするつもりなのかしら」

「目覚める。自分を取り戻すよ。カナカと、約束したんだ」

「そう――」

 目を閉じた彼女はぶつぶつと独り言を呟き始める。「マンションの前で二人きりにしたのは良くなかったのかしら」など、聞いても聞かなくてもさほどの支障はない、そんな程度のものを、だ。

「リオ?」

「……私としては、半年ほど待っていたんだけれど、それでも足りなかったというわけね」

「面目ない。反論する言葉もないよ」

「私が好きなソウタくんを信じろというわけではなく、私が好きなソウタくんが好きな黛カナカさんを信じろというわけね」

「えっと、リオ……さん?」

 言葉が重ねられていく度、何か重い、黒々としたものが上乗せされていくようだった。思わず、俺が二、三歩下がると、リオが同じだけ踏み出してくる。そして、とんでもないことを言い出した。

「最初に勇者を送り出す王様が実は最後の黒幕でした、なんてシチュエーションもありがちだけれど、いいかもしれないわね――勝負よ、ソウタくん」

「えええええぇぇっ!」

「貴方が勝てば、激震のピラーは落とさない。【アル・イスカンダリア】はクローズする。その要求を呑みましょう。私も大人しく貴方の復帰を待つわ。でも、私が勝ったら、予定通り激震のピラーは落とさせてもらう。もう、待つのは嫌なのよ。疲れたわ」

 それについては、未だに信じられない気持ちでいっぱいなのだが。

 昨日、リオに告白されたときには我が耳を疑った。都合の良い幻聴が聞こえるようになったのかと思ったものだ。本人は本人で色々と悩んでいたようだが、掛け値なしの超絶美少女に好きと言われて、あまつさえ、情けない自分のためにここまでのことをしてくれたという。

 これで、何にも思わない男子がいたのだとしたら、そいつは心底阿呆だ。そして、それを無碍にしようという奴も間違いなく阿呆だ。

 そう、俺のことだ。

「負ければ――死ねば、例の地下アジトに転送されるわ。そうすれば、ソウタくんに抗う術は残されていない。私を殺すつもりで、全力で来ることね」

「言われなくても」

 ここまでリオが様々に手を尽くしてくれたことをひっくり返そうというのだ。

 手を抜くなんて、出来っこない。

「じゃあ、始めましょう。ああ、手の内を知らないというのはフェアじゃないと思うから言うけれど、私の得意魔法は【アクア】と【グラキエース】だから」

「そんな余裕かまして平気なのかよ」

「問題ないわ」

 そんな風だから友達作るのも苦労するんじゃないかと内心苦笑しつつ、脳裏では確認作業を行う。【アクア】と【グラキエース】に相対するこちらの手持ちは、灼熱のピラーから受け取った【フラムマ】と、暴風のピラーから受け取った【ウェントゥス】の二種。

 相性としては、最良といえるのか。最悪といえるのか。ベクトルとしては、正反対とも取れるラインナップで勝てるのか――

「いくわよ」

 世界の命運を賭けた最終決戦の始まりは、いつもと変わらぬ抑揚の宣言から。

 右手を頭上に振り翳すリオ。その先に青白い氷霧のようなエネルギーが収束するのが見て取れる。

 刹那、リオの足元から膝上程度の氷柱が出現し、それが群れを成して、地を這う大蛇のように俺の足元まで迫ろうとする。そのスピードはけして速くないが、避けるのに悠々というわけではない。

「くっ!」

 横っ飛びで回避するも、着地の際に濡れた地面のおかげで派手に滑り、胸をしこたま打ちつける。何故か、初日に坂道で蜂を押し潰した瞬間が脳裏を過ぎった。

(あんときゃ、まだ楽しかったな)

 なんだかんだ言っても、何も知らず、ピラーを落とすというミッションの意味も考えず、ただ仮想現実内でゲームを楽しんでいるだけの気分だったから。あのときから、もう既にリオは現実世界の俺に絶望していたわけだけれど。

「考えごと? 余裕ね」

 続けて、彼女の左手。同じく、地を這う氷の白蛇が冷気を吐き散らし、湾曲しながら襲い掛かってきた。

「おおおおッ!」

 タイミングを合わせ、白蛇の頭を殴り付けるように【フラムマ】の一撃。じゅわっと白煙が舞い、白蛇の動きが止まる。

 忘れていたが――いや、忘れるなって話だが、どうやら俺には賢さが足りないため、魔法として生み出したエネルギーを自身の身体から切り離して射出することが出来ないらしい。賢さが足りないというのは、あくまで分かりやすくゲームのパラメーターに置き換えたリオの比喩的表現だろうが、それが意味するところは、彼女のように遠距離攻撃が出来ないということだった。

「飛び道具無しって、えらいハンデじゃねぇか」

 二発目の挙動を見る限り、こちらの動きに反応しながらある程度の追尾性能まで備えた【グラキエース】を掻い潜りながら、リオに接近しないといけないことになる。

「まぁ、やるしかないんだけどなッ!」

 体勢を立て直すや否や、地面を蹴って真正面に突進。三度放たれた白蛇をギリギリまで引き付けて、僅かに身体をずらすことで回避。三発目ともなれば、目も慣れてくるし、度胸も据わる。

「やるわね」

 女の子にだって、闘争本能は備わっているのだろうか。リオが薄っすらと、しかして妖艶に笑ったのは、似合い過ぎているといえば似合い過ぎていた。両手を振り上げて、同時に二匹の氷の白蛇。左右から挟み込むように迫り来る。

「リオ、お前の魔法は確かに強烈だろうが――」

 同じように眼前まで引き付けて、今度は膝を曲げることにより溜めた力を一気に解放。前のめりのジャンプで難を逃れる。【アル・イスカンダリア】のアシストもあるのだろうけれど、現実世界では考えられないほどの中空へ。

「当たらなきゃどうってことないんだよ!」

 中空へ逃れたことには、ちゃんと理由もある。これ以上、氷の白蛇が這い回る地面に触れることなく、リオとの距離を詰めるためだ。そして、一撃でカタを付けるためだ。

 右手に意識を集中させ、翡翠の塊を生み出す。【ウェントゥス】をチョイスしたのは、ゲームの中とはいえ、女子に【フラムマ】を叩き付けるのはどうかと思っただけのこと。

「甘いわね」

 【ウェントゥス】を携え、斜め上空から襲い掛かる俺を見ても、リオは余裕の笑みを崩さなかった。最接近に合わせ、俺が翡翠の拳を突き出すと同時、リオの全身を包み込むように水色の防護膜が瞬時に展開される。

「な――ッ!」

「【アクア】よ」

 半透明の皮膜は驚異的な柔軟性を持ち、俺の拳はことごとく阻まれ、リオに届かなかった――どころか、【ウェントゥス】によって勢い良く弾け飛んだ無数の飛沫が信じられないことに牙を剥き、明確に重力に逆らって、俺の身体は易々と中空へ押し上げられる。

「さぁ、終わりかしら」

 更に性質の悪いことに、俺の落下地点には、凶悪に尖った円錐型の氷柱が地面から立ち上っていた。

「うおおおお、まじかっ!」

 自由の利かない中、無理矢理という表現がまさに妥当で、身体をねじる。串刺しだけは免れたが、脇腹を掠め、そのまま氷柱の側面を転がるかの如く、床まで落下した。

 飛ばされ、最終的に転がった先、頭の付近にピラーを落とすための大穴があって、ぞっとしないまま即座に飛び退く。

「よく回避できたわね、ソウタくん。私の百舌の早贄コンボ」

「つつっ……ホントえぐいな。お前」

 コンボの名称からして、だ。

 しかも、敵を空中に飛ばさせて、対空技で迎撃、吹っ飛んでる隙に追撃など、対戦格闘ゲームの教本に載るような連続攻撃じゃないか。リオの奴め。

(しかもそれを狙ってて、むざむざ乗ってしまった自分が忌々しい)

 遠隔攻撃の【グラキエース】、攻防一体の【アクア】――この二点に対し、俺の【フラムマ】も【ウェントゥス】も近付かなければ、有効打足り得ない。

「【グラキエース】も【アクア】も授かるには、ピラーからなのかそれ」

「そうね。異界金星の魔法は、生まれながらの素養を持つ者が対応したピラーから恩恵を受けることで、初めてその魔法を扱えるようになる」

「へぇ……異界金星には色んなピラーがあるんだな」

「私の魔法は、吹雪と濁流のピラーから得た。灼熱、暴風、激震――これらは世界召喚塔を司る鍵として、いわば『表』に属するピラーだけれど、それ以外にも用途によって多種多様にピラーは存在する。『裏』のような役割を果たすものがね」

「裏って響きがいかにも」

「異界金星を象る様々なピラーについては、もうすぐソウタくんにも教えてあげられると思うわ。アセンションが完了した後で」

「じゃあ、俺がそれを知ることは永遠にないな」

 魔法を会得したとしても、リオのように自在に操れるようになるには、それなりの鍛錬が必要なのだというのは容易に想像付いた。拳に纏わり付かせて殴るだけが全てではないだろうし、時間を掛ければ、俺も色んな使い方が出来るようになったかもしれないが――

(無いものねだりだな)

 でも、分かったことがある。

 正確には、薄々そうだろうと思っていたことが確信に変わったと言うべきか。

 それは、ピラーを落とせば魔法を授かるということではなく、ピラーに『触れれば』魔法を授かるということだ。灼熱のピラーを落としたのは俺だが、暴風のピラーを落としたのはリオだ。俺はあのとき、ただ触れただけ。

 灼熱のピラーに触れて、【フラムマ】を得た。

 暴風のピラーに触れて、【ウェントゥス】を得た。

 ならば――

「何が可笑しいのかしら。ソウタくんの攻撃は私に届かない。攻撃が届かなければ、私には勝てないわよ」

 その言葉を肯定し、強調するかのように再び【アクア】の球体がリオの全身を覆う。

「うん、それはそうなんだろうけど。なんだろうな……」

 なんというか、リオが批判するガラパゴス化した日本のロールプレイングゲームにおいて、様々な世界に存在する中で何故か最弱のレッテルを貼られたり、冷遇されたりするフレーズに自然と口元が緩んだ。

「土って……地味だよな」

「何のことかしら?」

「よく世界を形成する火、水、土、風の四大属性とかあってさ。その中で、土は四天王の中でも最弱みたいな云われ方をする不遇な話」

「話が見えないわ」

 その一言を以って、普段とは逆転した立場に薄暗い優越感も覚えた。

 考えようによっては、百舌の早贄コンボとやらでこちら側に飛ばされたことは、結果的にラッキーだったのかもしれない。

「つまり、今俺が激震のピラーに触れたらどうなるかってことだよ!」

 立ち上がり様、相変わらず中空にたゆたう激震のピラー、その中心辺りをしっかりと握り締める。落とすためではなく、魔法を得るために。落とす気はないと宣言はしていたが、それでもリオの瞳には予想外の行動に映ったらしい。動きが止まった。

(頼む!)

 一種の賭けではあったし、祈るような気持ちもあったが――激震のピラーを手放し、拳を地面に叩き付ける。その名に相応しい効果を期待して。

 ごぉん――ッ!

「きゃっ!」

 それは単発ではあったものの、唸るような低い轟音が洞窟内に駆け巡り、瞬間、地面が縦揺れを起こす。意外にも可愛らしい悲鳴を上げて、足を取られたリオがその場で崩れ落ちるように尻餅を付いた。

 当然、それと同時に術者であるリオの集中が乱れたため、【アクア】の皮膜はあっさり消失する。

「ナァイス、激震さん!」

 多分、してやったりの表情で叫んだであろう俺に対し、リオは乱れたスカートの裾を整えながら睨み付けて来た。

「やってくれるじゃない。激震のピラーから【テッラ】の魔法だけ得るなんて……」

「ダメージは発生しなくても十分有効な手段だよな」

 それまでは一方的だったリオが明確な何かを噛み殺しつつ、ゆっくりと立ち上がってくる。その際、右手首に撒いていた腕時計を一瞥する仕草が妙に気になった。溜め息混じりに目を細めて、何度か見直したりするからだった。

「時間? 何か気になることでもあるのか?」

「いいえ。地球時間十八時三十一分――昨日、暴風のピラーを落としたのが確か二十八分だったので、丸二十四時間経過したなと思っただけ」

 それについては、本当にそれだけのようでそれ以上の発展はなかった。

「じゃあ、名実共に互角になったところで、そろそろ決着を付けましょうか」

「手持ち魔法を明かしたぐらいじゃ自分の有意性は揺るがないって考えてた辺り、賞賛するしかないわ」

 苦笑する。食えない奴だ。

 緩い雰囲気といわれれば、確実に否定できないような中で世界の命運を賭ける最終決戦というのは、第三者からしてみると片腹痛い状況だっただろうが、俺とリオにとっては大真面目。

「ハハハ……」

「何か、可笑しいかしら」

「いや――」

 改めて、思う。

「まぁ、楽しかったなって。ありがとう、リオ。俺のためにここまで」

「べっ、別に……ソウタくんのためだけじゃないから」

 若干、声を引き攣らせながら、リオ。

「でも、勝負は別の話。俺は勝つぞ」

「奇遇ね。私も負ける気はないわ」

 剣などに代表される武器による戦闘と違い、魔法使い同士の戦いはじゃんけんにも似た化かし合いに近いのだろうなと、そんなことを考えながらリオに向き合う。

 そうして。

 あるいは、そんな風にして。

 余計なことを考えていたから反応しきれなかったのか、相手が迅速過ぎたため、そうでなくても反応しきれていなかったか――いずれにしても、俺もリオも突如この部屋に侵入してきた第三者への対処が遅れた。

「なん――ッ!」

 一瞬の判断の遅れが災禍を招く。

 背後から忍び寄られた存在により羽交い絞めにされるリオ。

「なんだ、お前ら!」

 と叫ぶ俺も背後から別の誰かに両腕を取られ、瞬く間に動きを封じらてしまった。

 突然の出来事に混乱を来たしつつも、左右を見れば、何処かで見覚えのある黒マントたち。リオを押さえ付けている連中もまた黒マントたちだった。

「【ルシフェル】……ッ!」

 革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】――天空都市ホルスの市場で見かけた連中と全く同じ格好ということに、脳内の情報が繋がるまでそう時間は掛からなかった。最接近を許し、羽交い絞めにされるまでその気配に気付けなかったなんて、我ながらどうかしている。

「――本当に何をやっておられるのやら」

 しわがれた声だった。

 だが、狡猾さと老獪さを感じさせる男の声だった。

 元々リオの背後にあったもう一方の通路から、最後の気配が部屋に侵入を果たす。

「今か今かと待ち望んでいたのですが」

 白髪の、白髭の、燕尾服の、初老を越えた辺りの――

「服部……さん?」

 学校の近く、神楽坂家四番目の別荘で見た執事だった。

「お嬢様、失望いたしましたぞ。貴女ほどの使い手が昨日今日魔法を覚えたばかりの土人相手に何をやっておられるのですかな」

 年齢のためか、少し曲がった姿勢を精一杯伸ばすように居住まいを正し、発せられた言葉はなんだか理解に苦しむものだった。

 が、

「――あら。ようやく貴方が分かり易い本性を見せてくれたと、私は嬉しい気持ちで満たされているわよ?」

 拘束されながら吐き出されたリオの言葉もまたとっても理解に苦しむものだった。

「まぁ、もっと早くに曝け出してもらいたかったのだけれどね」

「ホルスでは、お嬢様はわざと隙を作ろうとなされていたようですが、アシェン殿の警戒が尋常ではありませんでしたな」

「バレていたのかしら。確かに事ある毎に部屋に戻ってこられては、たまったものではなかったわね」

「驚くほどに用心深い。優秀な方ですよ」

「しかし、最悪ね。ソウタくんとのデュエットが最高潮を迎えようというこのタイミングはあまりに無粋よ」

「いや待て。アンタら、いったい何の話をしてるんだ……?」

 それはまるで決定的な証拠を掴むために、互いに腹の探り合いを行っていた者の会話ではないか。まるでも何も、そのものではないか。

「何のことはないわ、ソウタくん。神楽坂家の執事である服部は革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】を構成する幹部のひとりで、今日まで私と狐と狸の化かし合いを続けてたってだけの話。そして――」

 一拍。

 その『間』に意味はあったのか。

「ソウタくんと黛カナカさん。私を狙って、結果、ふたりをこんな目に遭わせた計画犯よ」

「なん――っ!」

 その、瞬間。

 視界に炭酸が詰め込まれ、瞬間沸騰したような錯覚に陥った。思考回路も焼き切られる。純粋な怒りだったのだろう。ただし、これまで生きてきた中で感じたこともないような激しいものだった。

 複数の黒マントによって、しっかりと押さえ込まれているのも忘れ、激しく身じろぎする。肩が外れてしまいそうな勢いで、みしみしと骨が鳴いた。

「お前……お前がッ! お前が、カナカをッ!」

 このジジイ、絞めて殺してやる。

 いいや、手が使えないなら噛み殺してやる。

 視界が限りなく赤に染まる。果てしなく、際限なく染まり続ける。

「いやはや、黛カナカ――あのお嬢さんは素晴らしい運動神経の持ち主ですな。是非【ルシフェル】に迎え入れたい人材ですよ」

 それが今回は裏目に出てしまったようですがね。と、事も何気に涼しい顔のまま言い放ち、ねっとりとした足取りで俺の傍をすり抜け、リオに歩み寄る老体。黒マントたちに羽交い絞めにさせたまま、皺が刻まれた手で彼女の顎を持ち上げる。

「茶番はもう結構。事態がここに及んだ今となっては、お嬢様と桜庭ソウタ様のやりとりも空しいものでしかありません。激震のピラー、あれを落として頂き、速やかにアセンションを発動させましょうぞ」

「服部? 貴方、アセンションがどういうものか完全に理解しているのかしら」

「勿論ですとも。人々の心は肉体という物質から解放され、ひとつの大いなる意思の下、完全たる融合を果たし、死に怯えることもなくなる永遠の楽園の始まり――何を躊躇うことがありましょうか」

「私が言うのもなんだけれど、貴方たちは本当に狂っているわね」

「同じ穴の狢でございましょう?」

 リオは一層表情を不快に歪め、首を動かして服部の手を振り払う。

「私はソウタくんを助けたいだけ。それを下賎な連中に利用されるぐらいなら、今ここで舌を噛み切ってやるわ」

「過程など瑣末なこと。どちらにしても同じでしょうに」

 じゃじゃ馬には付き合ってられない。と吐き捨てた服部は燕尾服の内側から刃渡り二十センチ程度の短刀を取り出し、その刃を動けないリオの喉元に突き付けた。

 ピラーの光を受けて不躾に輝く鈍色が、少なくとも玩具でないことを表している。

「なに、を……」

 呟くと同時、服部の視線は俺のほうへと向けられていた。

「我々としても荒事は避けたいところなのですが。桜庭ソウタ様。激震のピラー、お願い出来ますかな?」

「ソウタ、君……」

 既に切っ先の幾許かが白い柔肌に食い込んでいるのではないか――そう思わせるぐらい、苦しげなリオの声が響く。

(いや、待てよ)

 戦いを始める前に、リオは言っていたではないか。

 死ねば、例の地下アジトに転送されると。それはまだ【アル・イスカンダリア】が有効であるということだ。だったら、彼女の急所に刃物を突き付ける服部の行動は滑稽でしかない。

「……たとえ、私の持つ短刀がお嬢様の喉を斬り裂いたとしても、遠方のアジト地下室で蘇るだけなどと思われているのならば、残念ですが、浅はかとしか言いようがありませんな」

「んだとッ!」

 あまりに図星過ぎて、みっともなく声が裏返る。

「桜庭ソウタ様をはじめ、他の者の安全が際限なく保証されていたのは、この世界の創造主であるお嬢様と【アル・イスカンダリア】のアシストがあったからこそ。創造主が死ねば、世界は終わり、唯一無二の魂は無へと還ることになる。それだけでございます」

「リオ、お前……」

 私を殺すつもりで、全力で来い。と言ったぞ。その女。

 それは、有り体に言えば、死んでもゲームのようにセーブポイントに戻されるという事象がある前提での話だ。なのに、ラスボスたる彼女は創造主で、蘇る術など用意されていなかったなんて。

「お前ッ! あのまま戦いが続いてたらどうするつもりだったんだッ!」

「フフ……私はいつだって本気よ、ソウタくん。それに、何を勘違いしているのかしら、ソウタくん」

「はぁ?」

「服部も言ったわね。魔法を覚えたての赤ん坊がこの私に勝てると思ったのかしら」

「テメ……ッ! そういう問題じゃないだろッ!」

 リオは額に玉の汗を大量に浮かべ、先と比べて明らかに衰弱を始めていた。

(執事の野郎、本当にッ!)

 もう一度、もがく。しかし、一歩も動けない。

 生涯、感じたことのない激しい怒りはこうして何度も何度も上塗りされていくのに、黒マントたちを上回る力は更新されない。非力で、無力なものだった。

「さて、桜庭ソウタ様。如何されますかな」

「今すぐこの黒マントたちを引き剥がして、お前の喉元に噛み付いてやりたい」

「それは結構。しかし、実行できるだけの実力を貴方様はお持ちでない」

「うっせぇ! どうしてお前たちはそんな頑なにまでアセンションを求めるんだよッ!」

 革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】――

 それが集団として、組織として、世界の理を変貌させるアセンションを求める宗教じみた団体であることは理解していたが、それを信奉する連中の意図はいまいち読み切れずにいた。それは自分が信心薄いとよく言われる日本人だからだろうか。

「それを話せば、快くピラーを落として頂けるのですかな?」

 答えられない。確かに無意味な問い掛けだ。

「では、それに対する詳細な回答は控えておきます。【ルシフェル】の多くは理不尽を強いられた者たちの集まり。さりとて、同情を買おうとしているわけではありませんからな。自身が望むものの意味ぐらいは弁えているつもりですよ。今、ここで重要なのは――」

 短刀を握る服部の手が動く。それだけで、リオの口から浅い痛苦が漏れる。

「離せッ!」

 服部が視線だけで合図をすると、俺の肩と腕を押さえ込んでいた黒マントが後ろに引き下がる。楽になった両腕が急激な痺れを伴い始めた。

「分かっておられると思いますが、妙な動きをされましたら――」

「しねぇよ!」

 我ながら聞き分け良すぎだろう、とは思った。

 しかし、執事の言うことは本当だ。魔法のひとつでも使おうとすれば、すぐ傍の黒マントに再び押さえ込まれるだろうし、執事に突っ掛かろうものなら、あの短刀がリオの喉を裂くほうが絶対に速い。

 踵を返し、リオと服部に背を向け、激震のピラーと向き合う。

(カナカ……)

 理由はどうであれ、俺の決意は水泡に帰し、カナカとの約束は反故になる。

 それでも、カナカが確実に助かる道であれば、自分自身への慰めにはなるだろうか。そのことで許されなければ、別の後悔が待っているかもしれないが、アセンションの末にやってくる精神世界とやらは永遠らしいし、いつかは許してもらえる日も来るだろう。

 右手を伸ばし、激震のピラーを掴む。これだけの明るい光を放っているのに熱くもなく、むしろひんやりと冷たい。リオは異界金星の象る代物だと語ったが、本当にあっさりとしたもので、その感覚は灼熱のピラーのときから全く変わらず。

 深呼吸。

 そして、腕を振り下ろす。

 激震のピラーが大穴に飲み込まれる最後の一瞬。

 脳裏の空隙に刷り込まれる声。

『ありがとう。ソウタくん』

 それは、リオからのテレパシー。

 ピラーが大穴の底に消えていくのを見送りながら、その嬉々とした声音により直感で悟った。

 具体的に、何が、どうとまでは分からなかったが。

 俺は、最後までリオに騙されたらしかった。



「ハァーッ、ハッハッハッハッハッハ――ッ!」

 激震のピラーの影も形も見えなくなって。

 それまでは物騒なことを口にしつつも、物腰の低い姿勢を貫き通した執事が、突如人が変わったように高らかな哄笑を上げた。奴にしてみれば、勝鬨という奴だったのかもしれないが。

「とうとう……とうとう来るのだ! アセンションが、五次元世界がッ!」

 服部は既にリオの傍から離れていた。黒マントたちも同様だ。諸手を広げ、訪れるであろう新たな世界を歓迎している。

 リオは自身の喉を手の平で押さえながら、その場に座り込んでいた。

 アセンションが始まると、どういうことが起こるのか。知る由もない俺はそんな彼らをただ見つめているだけ。

 歓声の中、俺とリオだけの静寂が続き。

 一分。二分。やがて、誰にも回収出来ない様な微妙な空気が漂い始め――

「……何故、だ」

 夢から現実へ強制的に引き戻されたような、苦渋にまみれた服部の呟き。

「何故……何も、起こらん? アセンションはどうした……?」

 黒マントたちにも俄かに動揺が広がり始める。

 俺は――その瞬間、どうしていただろう。

 あとから思い出しても、どういう顔をして、どういう思いで【ルシフェル】たちを眺めていたのか、さっぱり思い出せないけれど、これだけは言えた。これだけは考えていた。

 あの女、何かやりやがった――と。

 そして、それを裏付けるように。ふらりと立ち上がったリオが含み笑いを始める。最初は本当に小さく。やがて、堪え切れなくなり口から漏れて。最後には肩を揺らし、王女とは思えぬ大笑いに。

 その間、俺も、服部も、黒マントたちも、彼女の一挙一動を見守るように、身じろぎひとつしなかった。

 出来なかった、というほうが正しいか。

「あっはっはっは! はぁーあーぅ……お腹痛いわ。ごめんなさい、堪えるの必死」

「どういうことですかな、お嬢様」

「さほど手間が掛からないゲート開通にあれだけの時間を要していたのは、何故か。考えられないのかしら。だから、貴方たちは何もかも片手落ちなのよ」

 目尻に浮かぶ涙を拭うようにして、リオ。

 言葉を続ける。

「ピラーには、いくつものセキュリティコードが仕掛けられているの。異界金星の者がピラーに触れられないのもその内のひとつだけれど。もうひとつ大きなものを言えば、ひとつのピラーを沈めた後、次のピラーは地球時間で二十四時間以内に沈めなければならない。三つのピラーは合計四十八時間以内に沈めなければならない――というルールがあってね」

「なん、じゃと……」

「世界召喚塔の鍵という物騒なものである以上、至極当然の措置だと考えて欲しいわ。実はソウタくんと戦っている最中に、暴風のピラー落下から二十四時間が経過してしまっていたのよね」

 つまり、もうその時点で無効、残念でした。と。

 リオは自分の手の平に残る血痕を見下ろしながら、平淡に、しかしどこか勝ち誇ったように呟いた。俺は戦いの最中、リオがしきりに時間を確認していたことを思い出す。

「お前、だからあのとき時間を……二十四時間経ったらどうなるんだよ?」

「別にどうもしないわ。アイテルエリアの灼熱のピラー、ホルスエリアの暴風のピラーが再び浮上してくる。今、ソウタくんが激震のピラーを落としたから、それが最初の一本目になるだけ」

「お前って、本当に……」

 リオの淡々とした説明を聞いて、俺は苦笑程度で済んだけれど――それだけでは済まないのが服部始め、【ルシフェル】の面々だった。

「おの、れ……おのれ、おのれェェェェェェッ!」

 特に落胆の激しかったその執事は好々爺の仮面を完全に剥ぎ取り激昂する。

「もうよいわ! こうなれば、力尽くで落とさせるまでよ!」

「力尽く、ね……」

「ここに居る者だけが全てと思うな! まだ外には、大勢待機しておるぞ! それこそ小僧と小娘だけでは相手にならんほどのなッ!」

「――へぇ、それは楽しみだな?」

 その男の軽い声は、俺の背後――服部や【ルシフェル】が現れた横穴からだった。手近の黒マントたちを容易く屠りながらこの空間に侵入してくる詠高ブレザーを見て、思わず気が抜けた。安堵してしまった。

 同時に気恥ずかしくも思った。ミカゲタン先輩の姿に安心してしまった自分を。

「ピナーナ宮殿周辺に潜んでいたお仲間なら、とりあえず俺で始末してしまったが、他にも大勢いるっていうのかい」

「なんっ……」

 愛用の剣を肩に担ぎ、人懐っこい笑みを浮かべながら領域を侵してくるミカゲタン先輩に気圧され、【ルシフェル】の何人かは俺がやってきたほうの横穴から逃げ出そうとしたが、そんな彼らもすぐに足を止めることになる。

「姫様への数々の無礼、その身を以って贖えよ。貴様ら」

 それとは対照的に、怒りを押し殺した低い声音のアシェンが仁王立ちしていたからだ。爽やかイケメンが台無し、百年の恋も一瞬で冷め上がるであろう鬼の形相だった。

「ひ、ひぃぃっ!」

 ミカゲタン先輩とアシェンによる大粛清が行われようという中、俺は右手に【フラムマ】を宿しながら歩調を強める。すなわち、事の発端となった全ての元凶である老体へと。

「お前だけは――」

 そう、カナカの未来を奪ったお前だけは。

「絶対にッ!」

 肩が外れたかと思った。拳が砕けたかと思った。

 人は無意識のうちに自分の身体を壊してしまわないよう力をセーブしていると聞くが、たった一発、振り抜いた拳だけで全身が軋みを上げる鈍痛に見舞われたのは、このときばかりはタガが外れてしまっていたのだろう。

 無論、日頃の運動不足が祟っていることも考えられるが、もんどりうって転がっている老体との間にリオが割り込んでくるのを自分のことではないように、どこか俯瞰的視点から、なんとなくそんなことを考えていた。



「――最後のあれは、どういう意味だよ」

 ミカゲタン先輩とアシェンによって積み上げられた【ルシフェル】構成員たちを遠目に見ながら、傍に座ってるリオに問い掛けてみた。

「なにが?」

「ありがとう――って」

 まずいことでも聞いてしまったようで、ぷいっとリオは視線を背ける。でも、話は続いた。

「言葉通りの意味よ。あの時点で既にアセンション発動条件はリセットされていたとはいえ、それを知らないソウタくんが激震のピラーを落とす選択肢を取ってくれたのは、私にとってもまだチャンスはあるかしらねってこと」

「チャンス……?」

「もう、ソウタくん。私を失望させるようなことは止めてくれるかしら」

「えぇと、何か怒られてるのか俺」

「ええ。現象的に見てもきっぱりと私は怒っているわね」

「なんか、スマン……」

「悪いとも思ってないくせに」

 口調はいつも通り、そんな調子ではあったけれど、再びこちらに視線を戻した彼女の表情はむしろ憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。

「さて、もう終わりにしましょう。ソウタくんの希望通り、【アル・イスカンダリア】を停止させるわ」

「ああ」

 そこで再びジト目に戻るリオ。

「信じて、いいのよね? ソウタくん。貴方と、黛カナカさんを――」

「もちろん」

「そう。それならふたりが復帰した暁には、今度はちゃんとしたゲーム世界にご案内するわ」

「……最初の敵は、スライムかゴブリンだからな?」

「善処はするわ」

 すっ、と。リオが右手を差し出してきた。それが握手を求められていることに刹那の時を要し、慌ててその手を握り返す。

「おやすみなさい。お早いお目覚めを――」

 まるでその手から吸い上げられるかのように、俺の意識は急速に拡散していった。

 そして、世界は閉じられる。

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