4 泡沫の記憶
私、神楽坂リオが現地人である桜庭夫妻の協力を得て、従者の折笠ミカゲと共に地球に降り立ったのは、昨年四月のこと。
それについては、堅物の相模アシェンとは対照的に従者としては奔放すぎて、常にアイテル元老院の長老たちが眉を顰めているようなミカゲタンの多大な助力のおかげもあるだろう。彼が現地の写真集なる書物を集めてきてくれたことによって、少なくとも見た目に関しては、地球の日本国に違和感なく溶け込むことも出来た。
女性の裸の写真が混ざっていたことに関しては、本人の名誉のためにも触れないでおこう。
私とミカゲタンの『地球留学』にはいくつか目的があって、その中で一番大きなものであり、かつ公的な発表はアセンション対象候補に挙げられる現地、地球の理解を深めることだった。
とはいえ、理解を深めるも何も、私を含め、王家の人間全員アセンションには反対していたし、庶民の間で広がり続けるアセンション支持へのフェイクであったことは内緒の話だけれど。
根強くのさばり続ける革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】なんて胡散臭い連中が流布するアセンション構想には、お父様も元老院もずっと頭を痛めおられていたし、王宮内は常に張り詰めた空気が充満していた。
私個人はその一面に辟易としていたし、そういう意味では、息抜きとしての目的も非常に強かったといえる。
地球の日本国へ降り立った私たちだったが、何を思ったかミカゲタンの奴は桜庭夫妻のご子息が通う詠憐高校への編入を決意。どうせあの阿呆のことだから女性現地人とお近付きになりたい目的も織り込んであるのだろうと特に反対もしなかったけれど、後になって本人の口からそれしか考えていなかったことを聞き、一週間は口を利かなかった。
しかし編入早々、私のために集めた写真集を学校で散らかしてしまって、そんな計画は頓挫したというのだからお腹を抱えて笑うしかない。日本国の現代新語――?――とやらでは、「ザマァ」というのだそうだ。
さて、『地球留学』開始から三、四ヶ月程度は何事もなく緩やかに時が流れた。
その間、王宮内における様々なしがらみに頭を悩まされることもなく、下心丸見えの平身低頭で擦り寄ってくる貴族連中の相手をさせられることもなく、生まれて初めてと言っても過言ではないぐらい、心休まる日々だった。
地球規模で見ても日本という国は平和で、治安のよい場所だったということもあったのだろう。桜庭夫妻の休日には遠方の観光地まで案内を頂き、異界金星では軽視されがちな物質文明の極まった雅を思う存分、堪能させてもらった。
そうそう。
留学前からミカゲタンの両親に散々聞かされていた私鉄駅前のケーキ屋「御影パティスリータンドレス」のチーズケーキを食すという願いも叶った。とろけるようでいて、濃厚な味わい。さすが、その店のチーズケーキが好き過ぎて、自分たちの息子の名前に店名を当てるほどの親地球派の情報に違いなし。
実はミカゲタンの「ミカゲ」という名前は短く略されているもので、本当は「ミカゲパティスリータンドレス」だ。フルネームで呼ぶと、「折笠ミカゲパティスリータンドレス」だ。これはアイテル王宮内でもあまり知られていない。
なので、私はミカゲタンと親しみを込めて呼んであげていたのだけれど。
まぁ、本人が喜んでくれていたかどうかは別だけれど。
これは日本現代新語でいうところの「キラキラネーム」に当てはまるのだろうか。
そして、うだるような暑さが続く去年九月。
ミカゲタンから地球の、日本の、高校生活というものを再三聞かされ、そのどこかに興味を持ってしまったらしい私も詠憐高校へ編入してみることにした。多分、自分と同年代の地球人を間近で見てみたくなったというのが一番の動機だろう。
しかし、すぐに思い知った。絶望に捕らわれた。
私、神楽坂リオという人間は「友人」というものの作り方を全く心得ていなかったのだ――
九月の下旬。
教室内の話題のほとんどを占めていた夏休みにこんなことがあった報告会もそろそろ下火で、それでも輪に溶け込めない私は、放課後は図書室で過ごすことが多くなった。無為にとまでは言わないが、日本の歴史カテゴリの棚から無作為に本を取って、読み漁る毎日。「友人の作り方」みたいな手引き書でもあれば真っ先に飛び付いただろうが、少なくともこの学校の図書館にそういったハウツー本の類は見当たらなかった。
「これは……まいったわね……」
ついつい小声で呟いてしまう。慌てて周りを見渡すが、幸いにも他に生徒はいないようだ。詠憐高校では勉学とスポーツを天秤に掛けた場合、どちらかといえば後者のほうに力を入れているようで、その影響かどうかは定かではないが、図書室のような施設に生徒がいることはあまりない。受付でさえも無人であることが多い。
「危ない。よくない傾向だわ」
異界金星の王女たる者が弱音やネガティブの類を口にしてしまうなど、下々の者に対して示しが付かないだろう。
独りでいることには慣れている――つもりだった。
どれだけ周りに従者や侍女がいようが、貴族が擦り寄ってこようが、それはけして友人などと呼べる間柄ではなかったし、それはそれで良かった。ミカゲタンやアシェンのようなお節介な従者、気軽にお茶に付き合ってくれる侍女もいたので、殊更問題だとも思わなかったのだろう。
だが、自分が知らない人たちの中で、自分を知らない人たちの中で、集団生活を独りで送るというのは、存外厳しいものがあった。最初の数日間は物珍しさも手伝ってか相手から話し掛けてくれることが多かったけれど、そんな転校生の初見ブースト期間も既に過ぎ去った。
これはここに来て初めて気付いたことだけれど、これまで私の周りに人が絶えなかったのは、私がアイテル王女という肩書きを持っていたからだ。無愛想にしていようが不機嫌にしていようが、益のある人間だと思われていたからだ。
ところが、ここではどうだ。異界金星の存在なんて大っぴらにするわけもないし、信じてもらえるものでないと理解している。そんな異世界の王女であるということは、当然だが誰も知らない。
ここで、この学校で、私にあるのは、神楽坂リオという名前だけ。
そして王女というラベルが剥がれた私は、きっとつまらない存在だったのだろう。流行りの何かを語れるわけでもない。強烈な趣味があるわけでもない。好きな男子について噂話出来るわけでもない。スポーツが大得意というわけでもない。勉強は――まぁ、今日までの授業を振り返る限り、容易そうではあったけれど。
何もかもを取り払った素の神楽坂リオは大変つまらない人間だった。
ただ、それだけのことだ。
「つまらない、か……これは、どうしたものかしらね」
図書室の中央備え付けのテーブルに両肘を付き、組んだ手の上に顎を乗せる。
いっそのこと、ミカゲタンに人付き合いのなんたるかをレクチャーしてもらおうか。ダメだ。王女ともあろう者が従者に頼るなど。いや、違う。ミカゲタンだけはダメだ。何か、とてつもない間違った方向の知識を教えられそうな気がする。
では、他に頼れるとなると、桜庭夫妻か。しかし、どちらも良い人過ぎて相談などしようものなら、大袈裟に心配される懸念がある。
と、そこまで思ったとき、背後の本棚からバサリバサリと、複数の本が落下する音が響いた。
「――誰ッ!」
誰もいないと思っていたのに、誰かいた?
弱音の独り言を聞かれた?
狼狽する心はおくびにも出さず、なるべく平淡に本棚を見つめていると、しばらくして申し訳なさそうにひとりの男子生徒がその向こうから姿を現した。
「えっと、ごめん……」
後頭部を掻きながら謝罪の言葉を口にするその男子生徒は、この校内における私の活動範囲外の人間であるのは明らかだった。
派手に髪を立てたり上げたりしているわけでもなく、黒髪で普通。体格も中肉中背といった感じで、普通。詠憐高校のブレザーを小奇麗に着こなす様から、真面目というか誠実な印象は受けた。
ただ、その人懐っこそうな丸顔はどこかで――
「誰なのかしら、貴方は」
「ああっと、俺は二年四組の桜庭ソウタって言うんだ。神楽坂さん、だよな? 五組に転校してきたっていう……」
「そうだけれど」
隣のクラスの男子では知らないのも無理はない。自分のクラス、二年五組ですらどうにも出来ていないのに隣のクラスへ目を向けている余裕はない。
(ん、桜庭……?)
もう一度、まじまじと男子生徒の顔を見る。桜庭ソウタと名乗った彼は不審に眉を顰めたが気にしない。
(あ……そういうことね。桜庭夫妻のご子息か。彼が)
桜庭家は父方の曽祖父の代に異界金星から地球に移住したと聞いていた。つまり、桜庭コウ――彼の父親の名だ――は移民三世で、彼は四世となる。
四月に地球に降り立ち、今日まで桜庭夫妻の世話になりながら、私が彼の顔すら知らなかったのは、異界金星の存在無しに紹介するのが困難だったからだろう。桜庭コウは息子にそういった事実を伝えていないと言っていた。
「聞いてはいけないような呟きが聞こえたから、出るに出れなくなってさ……ごめん。聞くつもりはなかったんだけれど」
「別に、いい」
「――で、つまらないって、何が?」
聞くつもりはなかったと言いつつ、聞いたことに関してはしっかり突っ込んでくるのだなと、牽制の意を込めて睨む。すると、桜庭ソウタは肩を竦めて、「もう聞きません」と小さく呟いた。
それが私と桜庭ソウタの初めての会話だった。
それから、特に約束していたわけではないのだけれど、私とソウタくんは度々放課後の図書室で顔を合わせることになった。
私のほうは言うに及ばずだが、彼は幼馴染みの部活の終わりを待つという理由で、時間潰しに図書室にやってきていた。その幼馴染み――黛カナカという彼と同じクラス、二年四組の女子生徒――が所属する料理研究部の調理実習が週に二、三回あって、どうにも毒見役をやらされているといった風な説明だった。
最初こそ、会釈をする程度だったけれど、中央のテーブルに向かい合って座り、雑談に興じるようになったのは何回目のことだろうか。少なくとも九月が終わり、十月には入っていたと思う。
彼は地球において多くの市民権を得ているテレビゲームが大好きらしい。
図書室に来て本を読んでいるのかと思えば、図書室の隅の目立たない席で携帯ゲーム機で遊んでいたのだそうだ。日の浅い私でさえ校則違反だと分かる代物だし、そのことを指摘すると「カタイ奴」と言われた。
「――カタイも何もないと思うんですが」
「ああ、いや、ゴメン。日頃思ってることが、つい」
「どういう意味かしら」
椅子を蹴って立ち上がる。少し感情が表に出てしまうだなんて、自分でも少し珍しいと思いながら。
ソウタくんは件の携帯ゲーム機をこっそり自分の鞄にしまい込み、両手を挙げて降参の意を示す。
「悪い悪い。いや、その、ゲーム機のことじゃなくってさ。神楽坂さんって、カタイというかですね。なんだか、どっかのお姫様みたいな口調じゃない?」
ぎくりとした。
アイテル王家のことも、異界金星のことも彼は知らないはずなのに。何かしら何処かかしら、溢れ出て、隠し切れない自分の気品というものがばれてしまったのかと、似合わない冗談まで脳裏を過ぎった。
けど、
「近寄り難い雰囲気というか、オーラというか。まぁ、神楽坂さん転校してきたときも凄い美少女がやってきたって噂だったしなー」
「そんなこと……」
何故だろうか。
その先は聞きたくないし、聞いてはならないような気がして、
「いや、俺だってこないだのことがなければ、きっと近寄り難い存在――」
「やめて」
咄嗟に口を付いた三文字。それは、今まで私が生きてきた中で一番強い感情を込めた言葉だった。文字通り、魔力が篭もっていたかもしれない。その証拠に正面に座るソウタくんが初対面のとき以上に狼狽していた。
「やめて、ください」
言い直して、前髪で表情を隠すように俯き、再度椅子に腰掛ける。
「神楽坂さん……?」
誓って、泣いていたわけではない。王族が庶民に泣かされるなんてことがあってはならない。でも、そんな風に言われてしまうのが酷く悲しくて、平静を保っていられなくなった。
それは、誰にも言われたくなかったのか。それとも、ソウタくんに言われたくなかったのか――
どちらなのかは、終ぞ分からなかったけれど。
そんなちょっとした諍いの後、何処かの螺子が緩んだのか、それとも豪快に吹っ飛んでしまったのか、私はソウタくんに色々と相談をするようになった。有り体に言えば、初対面のときから抱えていた悩み。
友人というものについてだ。
九月の終わりに彼と知り合って以降、機会があれば、遠くからでも彼のことを観察していたのだけれど、非常に友人の多いタイプに見えた。合同授業で見かけたときや廊下ですれ違ったとき、基本的に特定の同じ人物だけと一緒にいるなんて場面は見たことがなかった。
ただ、そんな中でも小柄で可愛らしい女子生徒と一緒にいる割合は多かったように思う。彼女がソウタくんの幼馴染み、黛カナカだったのだろう。
とはいえ、分かってはいた。
元来、何もしなくても好かれるタイプの人間というのはどこにでもいるもので、ソウタくんもそんな人間であったがため、友人が出来ないという私の悩みに対し、抜本的な解決方法を導き出すのは難しいのではないのかということを。
案の定、彼は「そんなこといわれてもなー。作るって決心して作らないといけないもんか?」というように首を捻っていた。
でも、それで良かったのだ。
相談という名目にかこつけて、ソウタくんとお話が出来れば、それで。
ソウタくんはただ幼馴染みの部活動を待っている間の暇潰しだったのだろうけれど、私には週に何回か来るこの時間が何よりも大切に思えるようになっていた。
しかし――
十月も半分が過ぎ去ろうという頃、私にとってはそんなかけがえのない空間である図書室で小火騒ぎが発生した。幸い床が少し焼けた程度で書籍等に被害はなかったが、そもそも火の気のなさそうな図書室で何故そんな不審火が出たのか、警察も分かっていないようだった。
その影響で図書室は閉鎖され、私は放課後の行き場を失った。
放課後、頻繁に出入りしていた私やソウタくんが疑われもしたが、それ以上に自分の憩いの場を、ソウタくんとの楽しい時間を誰かに奪われたショックは、自分が考えていた以上に大きなものだった。
おそらく私はそのせいでどうにかしていたのだと思う。
少し考えを巡らせてみれば、分かりそうなものだった。
少し想像を働かせてみれば、気付きそうなものだった。
革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】の存在に。
そして、やってきた運命の日。
十月二十四日――
(いきなり尋ねたら迷惑かしら……)
ソウタくんがどこに住んでいるのかは知らなかったけれど、桜庭夫妻が学校近くで精肉店を営んでいることを知っていた。放課後にはコロッケやからあげが飛ぶように売れるらしい。ぼろい商売だろうと、桜庭コウが悪い笑みを浮かべていたのが印象的だ。
本当は学校で直接ソウタくんから聞ければよかったのだけれど、私のよろしくないところは一向に改善せず、校内の図書室以外で、ソウタくんの前以外で自分を出せることはなかった。
車が行き交う二車線の国道をぼんやり眺め、信号が変わったので横断歩道に足を踏み入れる。
既に桜庭夫妻が経営する『さくら屋』の黄色いテントが左手に見えていて、その時点でもまだ迷いらしいものがあった。
頭の中では、誰も聞いていない言い訳が延々とループ中。
(勉強を教えてもらう名目で、とかどうかしら)
いや、ダメだろう。
悪いけれど、私は教える側の立場だ。
言うのであれば、「お宅の息子さんに勉強を教えるから、息子さんがいる自宅を教えて」だ。
「なんなのかしらね。家庭教師の押し売りみたい……」
こういう場合、素直に、ストレートに行くにはどうすべきか。
逆の立場で、ソウタくんだったらどう言うのだろうか。
いや、ソウタくんの口から両親に私の存在が伝わっているということはないだろうか。そうすれば、話は早いかもしれない――
そんなことを考えている間にも、一歩一歩『さくら屋』が近付いてきている。国道を渡り切った辺りから、歩幅が狭くなる。いっそ、このまま通り過ぎてしまうか――意気地のない自分がめきめきと心の中で育ってきて。
「――ッ!」
歩行者の前方不注意なんて言葉で片付けられたら末代まで呪ってやろう。
そんな風に歩道を暴走する白いワゴン車が、気付いたときには、もういたのだ。
避けきれない、ぶつかる――ッ!
刹那、
「神楽坂さんッ!」
気付けば、どこにいるときでも追い求めるようになっていた男の子の声が後ろから聞こえて。
衝撃と共に身体が横へ吹き飛ばされる。
立て続けに、どんっどんっと嫌な音が響き――
「……うぅ」
最初に横へ飛ばされたときに歩道の脇の壁で後頭部をぶつけたようだった。ふらふらとはっきりしない頭、明滅する視界にありながらも身体を起こす。
歩道を暴走してきた白いワゴン車は傍の電信柱に正面から激突し、国道に出る前で大破していた。
「あれ、私……助かった……?」
ぶつけた後頭部は激しく痛むが、それ以外に痛みを返してくる箇所はない。両手も、両足も、何の問題もなく脳からの信号を受け入れてくれる。
では、あの衝突音はいったい――
「え」
そこで、私は見てしまった。
白いワゴン車の脇、血溜まりに沈む詠憐高校のブレザーを。
けたたましく鳴り響くサイレンの中、『さくら屋』から出てきた桜庭夫妻の蒼白に染まった表情を。
結論から言えば、図書室の不審火も、歩道を突っ込んできたワゴン車も、全ては革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】構成員の仕業だった。
アセンション対象候補地の視察に行くとしておきながら、いつまで経っても結果を出さない私に業を煮やしたのか。それとも私を人質にアイテル王家への交渉材料にしようとしたのか。はたまたアセンションを強行しようとしたのか――下劣な愚民の考えなど知る由もないが、ミカゲタンの調査からそのことが分かった。
私を庇ったソウタくんは病院のベッドでもう何日も目覚めていない。
更に気掛かりだったのは、最愛の息子を傷付けられ、抗議に出た桜庭夫妻が【ルシフェル】に拘束されてしまい、安否不明の状態であることだった。
私は、私が意図していなかったこととはいえ、世話になった桜庭家を巻き込み、最悪の形で裏切った。
異界金星の魔法医療技術を以ってすれば、瀕死の人間の命を繋ぎ止めることも可能な場合はある。
だが、それは暗示ともいうべき精神汚染の類で、精神的に無防備でないと効果がない。催眠状態の意識が狭窄としている状況では、外部からの刺激には滅法強くなるため、効果が出ないのだ。
快方に向かわないソウタくんの容態に、進展しない桜庭夫妻の監禁問題。
業を煮やす――という言葉がこの場合において正しいのか分からないけれど、私は異界金星の知育システム【アル・イスカンダリア】を用いて、ソウタくんの意識を救い上げることを考えた。
その結果、最終的にもたらされるものは、惑星地球の次元上昇――アセンションの発動。
お父様をはじめ、色んな人を裏切って、私は【ルシフェル】に身をやつした。
ミカゲタンには激しく反対され、喧嘩別れとなった。そのこと自体は辛かったけれど、異界金星で待機していたアシェンは何もいわず、私に付いて来てくれることになった。意外だったけれど、本当に心強かった。
アセンションを発動させるキーとなる異界金星内の三つのピラーは、王家の者を除き、異界金星の住人には触れることさえ許されない。そのように遺伝子に刻まれ、管理されている。だから、いくら【ルシフェル】やそれに感化された人々が騒ごうとも、彼らではアセンションを発動させること叶わないのだ。
ピラーに触れることの出来る王女が【ルシフェル】に鞍替えしたことにより、組織内はより一層活気付いたようだが、そんなことはどうでもいい。
彼らと同調し、同じ場所に身を置くなど、最初は怖気と吐き気が止まらなかったし、まさに反吐が出る思いだったが、一週間もすれば慣れた。いや、慣らした。飼い慣らせば、強い原動力に成り得る。
まずは、どこかに捕らわれたままの桜庭夫妻の安否。
それから、あんなことを企てた計画犯及び、実行犯の特定。制裁。
そして、ソウタくんをあんな風に追い詰めた汚らわしい連中を、いつか自分が追い詰める日を夢見て。
私は、瞳を閉じ、耳を塞ぐ――
「――お嬢様。お客様が参られました」
部屋の扉のノックと共に、服部の声。
窓際の椅子の上でいつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。目を開けて、霞む視界で問う。
「……誰かしら?」
「桜庭ソウタ様です」
分かってはいたが、一応聞いてみた。この【アル・イスカンダリア】上で服部が「お客様」と表現する者はそう多くない。
時計を見やる。朝の九時だった。
「いいわ。通して」
「かしこまりました」
扉の向こうの服部の気配が遠ざかる。
窓の外、霞が掛かったように灰色の景色を眺めた。アセンション発動まで、残り一本。どちらにしてももう潮時だろう。最初から隠し通せるとは思っていなかったが、ここいらが限界か。
(批難かしら、罵倒かしら――あまり嬉しいものではなさそうね)
部屋の隅のドレッサーに駆け寄り、身だしなみを確認する。朝から気になる男の子が家に遊びに来てくれた。そんなうれしはずかしシチュエーションだというのに、この鬱屈とした気分はどういうことか。
鏡の中の私が苦笑する。そして、波が引くように平淡に戻る。
この半年間、平静に戻る術だけは上達した気がする。
気持ちを落ち着けるには十分な時間が過ぎて、服部がもうひとりの足音を連れて戻ってきた。そして、再びノック。促すと扉が開き、学生服姿のソウタくんが姿を見せた。自宅には戻ってもらったはずだが、一睡もしていないのだろうか。
服部は扉の外で一礼をし、閉めて立ち去っていった。
「おはよう。ソウタくん」
「おはよう。リオ」
一拍。彼から口を開くことはなさそうだったので、白々しく話題を振る。
「どうしたのかしら。激震のピラーへの開通は夕刻になると思うけど」
「なぁ、リオ」
「なに」
「お前は、本当に……」
言いよどむ彼。
言い難そうに、あるいは慎重に言葉を選んでいる様子だった。
「ソウタくん」
「あ、ああ」
「私は――アセンションを発動させる。世界を壊すわよ」
「……なんで、だよ。どうしてだよ。なんで、俺のために、本当にそれだけのために、そこまでしてくれるのか?」
「そうよ」
「そんなの、おかしいって! 俺ひとりのために世界を壊すとか、そんなの、俺はその後どうすればいいんだよッ!」
「――じゃあ、貴方がいなくなった世界で私はどうすればいいの?」
「それ、は……でも」
こんなときになんだけれど。
本当にこんなときになんなんだろうけれど。
思わず唇の端が吊り上ってしまった。彼から見ると、皮肉な笑みに見えたかもしれない。でも、私は嬉しかったのだ。嬉しくてそんな笑みになってしまった。
「ソウタくんがそういう人で良かった」
「え」
「自分のために躊躇いもなく世界を壊すなんて言う人でなくて良かったって意味よ。いえ、もしそうだったとしても否定はしないけれど」
それを自分勝手と一笑に伏すことは簡単だけれど、そんなの誰にも分からない。私にだって分からない。
でも、だからこそ。
私とソウタくんは手を取り合って、本当の意味で協力出来るはずなのだ。
「ソウタくん――」
深呼吸。真実を告げるために覚悟を決める。
「今は、ここにいるのかしら?」
「ここに、いる? 何が?」
「黛カナカさん」
顔を顰める彼。それはまぁ、そうだろうと思う。
「いるって、変な言い方だな。見れば分かるだろに」
「生憎と、分からないから聞いているの」
「意味が分からん……いないだろ。朝早くに俺ん家訪ねて来て、疲れてたみたいだから今は寝てるよ」
「そう……私、以前に聞いたことがあったわね。視えてるの、って」
「ん? ああ」
「【アル・イスカンダリア】を起動した際、私が、私の意志でシステム内部に取り込んだのは、執事の服部と従者のアシェン、そして、意識不明だったソウタくんだけ。あとはまぁ、招かれざる客として後から入ってきたミカゲタンのようなのがぞろぞろいるけれど――その三名だけよ。どういう意味か、分かるかしら?」
「いや、分からんが……カナカは例外だったって言いたいのか?」
「そう、例外。いえ、例外中の例外。私が指定したソウタくんの意識の傍を漂っていたのかしらね。【アル・イスカンダリア】はイレギュラーとして、黛カナカさんの意識も取り込んだようだったわ」
「待て……リオ。お前、何を言おうとしている?」
もう、気付いたのだろう。
ソウタくんの声がかつてないほどに震えて、見ていられないほどに表情が青褪めていく。果たして、耐えられるだろうか。少しだけ、決意が揺らぐ――けど、ソウタくんはそんな弱い人間ではないはずだ。信じる。
「黛カナカさん――私は、彼女と一言も言葉を交わしたことがない。彼女の姿を一度も見たことがない。この【アル・イスカンダリア】内部においては、ソウタくん以外、誰にも確認出来ないはずだわ」
「……ッ!」
「思い出して。あの十月二十四日、悪夢の事故の日。本当に車に撥ねられたのは誰だったのかを――私を庇ってくれたソウタくんを、誰が庇ったのかを」
力を失くし、膝を落とす彼。
ちゃんと思い出してくれただろうか――
「病院で生死の境を彷徨っているのは、ソウタくんじゃない。ソウタくんを庇った黛カナカさんなのよ」
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