3 上書きされる世界
階段を上がれば、そこは異世界でしたその二。
そんな思いで心が満たされていく。さめざめと。あるいは、ひしひしと。
「うわぁーうわあぁぁー!」
ひとりで感動しているのは、やはりカナカの奴だ。
「ようこそ。天空都市ホルスへ」
先頭に立つリオが振り返り、金色に煌く遊園地のような風景を背負いながら言った。昨日訪れたアイテルは赤煉瓦の屋根に白塗りの家屋、それぞれの花窓で画一化された街並みだったが、この街はいい意味で無作為、奔放な感じがした。
「ホルス……それがこの街の名前なのか?」
「そう。金星アフロディーテ大陸メティス平原昇ル基点、天空都市ホルス。アイテルの南を基点とする異界金星第二位の街よ」
「――リオマッジョーレみたいッ!」
俺とリオの会話などそっちのけで、カナカのテンションが際限なく跳ね上がってしまっている様子。それが何だと問いかける前に彼女は携帯端末を取り出し、カチャカチャと何かを打ち込み始めた。こんなところまで電波が届くのかという心配は他所に、目的のものを探し当てたのか、画面を突きつけて来る。
「はい。見て」
映し出されているのは、海外のどこぞの街の風景だった。
「これがリオマッジョーレね」
丘の山間と海岸に沿って、黄色や赤色などの色彩豊かな建物が密集している小さな町の風景写真。
「あ。これは俺も見たことあるな」
「でしょー」
何故カナカが自慢げなのかは分からないが、イタリア共和国リグーリア州ラ・スペツィア県にある基礎自治体であると共に、その辺りの集落は世界遺産に登録されていることが説明にあった。
携帯端末をカナカに返し、改めて、訪れた街並みを見た。なるほど、確かに酷似している。より正確に言うと、現実世界のリオマッジョーレの街並みが更にデフォルメされたかのような印象を受ける。原色で色付けされた家屋が段々畑よろしく様々な高さで立ち並んでいて、街灯らしき明かりによって金色の光を醸し出している。一歩間違えば、ギンギラと悪趣味の歓楽街を連想してしまいそうだが、格調高い歴史さえも感じさせるのが不思議だった。
「ホルスは異界金星の中でも最も古い歴史が残るところなの」
「へぇ……」
まるで興味ない上の空のような返事になってしまったが、やはりこの世界に圧倒されているためだ。そんなことでリオが気を悪くしたりしたら申し訳ないなと思いつつも、アイテル同様、ホルスの街並みにも魅せられてしまっている。
「世界が乱れるとき、ラファイエト・ウィルドアークの名を持つ英雄が現れ、それを平定する――っていう伝説がね。過去から語り継がれている街よ」
「都合のいい英雄さんもいらっしゃるんだな……そういう設定なのか?」
そんなありがちな英雄伝説に対して、軽い口調で聞いてみただけなのだが、一瞬――ほんの一瞬だけ、リオは不可解な表情を浮かべた。
(なんだよ)
古くから語り継がれるという街の伝説――の設定――を馬鹿にしたのがそんなにも悪かったのだろうか。いや、今一瞬見せた彼女の表情は怒るというよりも、理解できないというほうが際立っていたように見えた。
「そう……そういう設定なのよ」
「変なこと言ったなら謝るけど」
「いいえ、ソウタくんは悪くないわ。ちょっと、私が忘れていただけ」
「ふむ?」
何を忘れていたのかは語る気がないらしく、アイテルのときと同じように「付いてきて」と歩き出すリオ。昨日よりも時間が幾分早いせいか、空はまだ夕暮れには至っていない。
アイテルとは異なり、ホルスは斜面に造られた街なのか、傾斜のきつい坂道や階段がそこかしこに存在していた。例えば、日本の長崎県なんかは傾斜地にびっしりと建物が建っていて、坂道の多い街だと有名だけれど、こんな感じなのだろうか。
「足腰鍛えられそうだな」
「ソウタもおじいちゃんになる前には、こーゆーとこに住んだほうがいいんじゃない?」
「どういう意味だよそれ」
あはは、と笑いながら、カナカ。
そんなやり取りは気にも留めず、リオはさくさく先へ先へと歩を進めていく。イタリアの街に酷似したホルスにテンション上がりっぱなしのカナカに気を取られていると、あっという間に見失ってしまいそうだ。
「かわいいーディアンドルみたいー」
坂道が影響しているせいか、アイテルほどではなかったが、このホルスもなかなかに人通りが多い。そんな中、カナカが街ゆく女性たちを見て、溜め息と共に感想を漏らす。後から何かと聞くと、オーストリアなどで見られる民族衣装の名称だという答えが返ってきた。レースで飾られたシャツの上にエプロンドレス。確かに可愛い。
「なあ、リオ」
「何かしら、ソウタくん」
通りを歩いていて、ふと気付いたことがあり、リオの背中に問い掛ける。
「異界金星には、車とかチャリとかないのか?」
「ないわね」
「遠出するとき、不便だな。異界金星の人も旅行ぐらいするだろ」
「魔法が横行する世界で旅行だなんて、ナンセンスだと思わないかしら」
「えぇと……」
「未来の青いタヌキ型ロボットの道具で瞬間移動が当たり前になった世界はどうなるか、想像したことない?」
「風光明媚な観光地と、寂れたド田舎が等価値になる……?」
「――となるとまではいわないけれど。世界の裕福も貧困も平等に拡散してしまうでしょうね。あらゆる意味で、その距離はぐっと近くなるわ。そして、その気になれば、世界の裏側にでも日帰り旅行が可能になったなら、次に人は何を考えると思う?」
そんなの、その世界の住人ではない自分に分かるわけがない。とは思いつつも、乏しい想像力を振り絞って全力で考えたものの、時間切れがやってきたのか、再びリオが口を開く。
「不便をあえて享受しようという人が現れるのよ。旅行の話ならば、時間が掛かる旅路をよしとし、楽しもうっていう価値観と共にね」
「そんなもんか」
「そうしないと、世界が滅びるから」
「……は?」
一瞬で話が飛躍し、頭の中が疑問符で埋め尽くされる。でも、続きはもうないらしく、リオは歩調を強めた。
リオの別荘に繋がる階段があったエリアから、ふたつの曲がり角と三つの坂道を経た辺りで、またも彼女が何の変哲もない民家の中へ入っていく。ショッキングピンク色の壁と屋根の、物凄い趣味の民家を何の変哲もないというのには、議論の余地があるのかもしれないが、ここでは捨て置くとしよう。
昨日ほどは躊躇いもなく民家に入ると、内部の造りは似たようなもので、やはり地下への階段が備わっていた。既にリオは階段の中腹に差し掛かっている。
「ここも、革新派なんとか組織【ルシフェル】のアジトなのか?」
「ここもというより、ここしかないのだけれどね」
「……ん?」
首を傾げている間にも階段が終わり、昨日と同じ薄暗い空間が続く。そして、昨日と同じ鉄扉。その前には、昨日と同じシルバーブロンドの青年――
「お帰りなさいませ、リオ姫様」
「ご苦労様」
同じ、やり取り。
「あれ、えっと……」
「昨日と同じ人、だよね?」
カナカとふたり、首を傾げる。アイテルのとある民家から降りた地下室と全く同じ造りであることまでは看過できても、無礼者呼ばわりされた男性まで同じとはどういうことだろうか。
「あ、瞬間移動?」
「違うわ、ソウタくん。この地下アジトへ至る階段が空間的に歪んでいて、世界各地の無人民家から同じこの場所に至るように作られているのよ」
「ほほう……」
「なんだ、無礼者が。また姫様の手を煩わせているのか?」
「いや。またって、なんだよ」
不意に向けられる敵意。不可解な理由で手を煩わされているのは、あくまで俺たちのほうだ。これはもう、むっとするどころの話ではない。
「よしなさい。彼は私の客人と言ったはずですよ、アシェン」
なおも食って掛かろうとするブロンドを手を挙げて制し、毅然とリオが言い放った。アシェンと呼ばれた男は一歩下がって頭を下げる。そこまで素直にやられると、心の中で振り上げていた拳をのろのろと下げるしかなかった。
アシェンが開けた鉄扉をくぐって、地下アジトの奥へと向かう。昨日みたいに身を引いて一礼してくれる人には遭遇することもなく、同じ部屋に辿り着いた。
「座って」
と言われる前にカナカは座ってたし、俺も座りかけていた。別にそれについて咎めることもなく、リオは話を始める。
「さて。昨日はソウタくんの大活躍によって、アイテルエリアの灼熱のピラーが地底に投げ込まれたわけだけれど――」
「……あたしも頑張ったのにー」
ぼそっと、カナカ。
しかし、リオは気づいてない様子で話を続ける。
「今日はこのホルスエリアにある暴風のピラーをお願いするわ」
「また郊外にあるのかよ」
「そうらしいわね」
「そうらしい、って、お前……」
歯切れの悪い物言いに嫌な予感を覚えた。が、よもやそんなことはないだろうと即座に否定する心も生まれた。でも、現実とは酷なもので嫌な予感そのままでしかなかった。
「残念なことに私は暴風のピラーの在り処をしっかりと把握していないの」
「いやいや、ちょっと待てよ!」
思わず声を荒げてしまったが、リオはあくまでフラットな表情で何かしらと言いたげに見返してくる。
「把握してないって、じゃあどうすればいいんだよッ!」
そこで、リオが深々と溜め息を吐く理由が分からない。有り体に言って、呆れ顔だ。その表情をしてもいいのはこっちのはずなのに、何でそっちがそんなやれやれ顔をするんだ。
「ソウタくん、貴方は昨日言ったわ」
「は?」
「ゲーマーをなめるな、と」
「お、おお……?」
正直なところ、正確な記憶はあまり残っていないが、街の近辺に生息する凶悪なモンスターに憤りを感じ、もしかしたらそういうことを口走ったかもしれない。
「だからなんだよ?」
「口を開けて待つだけの受け身体制で、一から十までナビゲートしてくれるNPCがいて、道筋辿るだけのゆとりゲームなんてどこが楽しいのかしら?」
「おい、ゆとり言うなッ!」
「仮にそんな意識でいたのなら、私はゲーマーを名乗るなんて片腹痛いと言いたいわけ」
「お前って、本当に……」
憤りは感じるが、それを言い表す的確な言葉が咄嗟に出てこなかった。
なんなんだろう。
本当に、なんなんだろう。
親父曰く、昔のコンピュータゲームはもっと難しかったんだそうだ。それでも人は立ちはだかる困難に頭を使い、謎を解くのに夢中になった。今は価値観も、そして娯楽自体も多様化してしまい、その結果、難しい謎にぶち当たった瞬間、諦められて次へ行かれてしまうことのほうが多くなってしまった。ゲームも謎も簡略化の一途を辿り始めた。
そう、確かにリオの言う通りかもしれない。昔は砂漠に打ち捨てられた指輪をひとつ見つける気の遠くなるような作業さえあった――あくまで、想像――のに、今では様々な角度からのヒントが用意されていて、あまつさえ、オートパイロットで発見してしまう奇跡のようなゲームが氾濫しているのだと。
(なるほどな)
そりゃあ、ぬるいことしか知らない奴にゲーマーを名乗られたくはないだろう。だが、もしそうだとしたら、リオはいくつなんだって話だ。
そして、なによりも、
「異世界が俺の家を侵食してるって事情がなければ、素直に受け入れられたかもな!」
「あら、そうだったかしら」
リオは手の平を口に当てて、わざとらしく咳払いをする。
「まぁ、私としてもノーヒントで荒野に放り出すほど冷血ではないつもりよ。お供をつけるわ。その彼が暴風のピラーの在り処を知っているから」
「お供?」
「よくあるじゃない。誰某を目的地まで護衛、誘導せよ――みたいなミッションが」
「護衛して辿り着く先に暴風のピラーってわけか」
肯定だと、頷くリオ。
「そういうことなら、まぁ……」
いいか――と喉元まで出掛かっていたところ、リオの合図で部屋に入ってきた人物を見てしまって飲み込む。
「お呼びですか、姫様」
入り口の扉の前にいた無礼者の青年アシェンだった。
「アシェン。ソウタくんと共に例の調査の件、お願いするわ」
次の瞬間、あからさまに嫌な顔をされた。言葉にされなくても分かった。敬愛する主とはいえ、その命令は飲めないという顔だった。
「露骨に嫌な顔されたねー」
「ああ、むき出しだったな」
最後はリオの言うことだし仕方がないというていでアシェンは承諾し、先にアジトを出て行った。【ルシフェル】のアジトを出て、彼に指定された南出口を目指し、原色の街を下へ下へと向かう。
「どうせ外のモンスターはまた勝てないようなのがうろうろしてるんでしょ? 護衛も何もないよねぇ」
「そうなんだよなぁ……」
アジトを出てからのカナカの言葉はまさしく俺が思っていることばかりだった。
懸念事項はふたつ。
ひとつ目は、あのアシェンという男。風格や佇まいから考えると、異界金星二日目の自分たちよりも十分に腕の立つ人物に見える。そんな人物に対して、護衛なんぞ必要なのかということ。
ふたつ目は、ゲームのセオリーとしての話。護衛対象の人物がパーティインしている期間中、ストーリーライン上の重要性から護衛対象が死亡、もしくは、それに近い状態へと陥ったとき、いくら主人公たちが元気でピンピンしていたとしても、容赦なくゲームオーバーにされるシチュエーションが多い。
つまり、ある意味、蘇生魔法等による救済が望める主人公よりも厄介な急所がひとつ増えることになる。
「うーむ……」
「まぁ、アシェンさん強そうだったし、逆に守ってもらえるかもね!」
あっけらかんと、カナカ。
確かにNPCがパーティインするのは、進行上のお助けキャラである場合も多い。そうであったら逆に楽なのだけれど、リオの奴は「お供をつける」と言った。それは少なくとも守られるほうに使う言葉ではないだろうとは思うのだが――
と、色々頭の中がこんがらがりながら坂道を下る。ある角を曲がったところで、前方の異変に気付いたのは、カナカのほうだった。
「なんだろ。あの人だかり」
「どれどれ?」
向かう先は複数のテントが軒先並べる路上の市場のような場所だった。この夕暮れ時に人が多いのは道理だろうが、しかし、平和な喧騒という風景には程遠く、怒号などが飛び交う修羅場のような様相を醸し出していた。
「【ルシフェル】は出て行けーッ!」
「アセンション反対ーッ!」
あまりに多くの声が飛び交っていて逆に聞こえづらいのだが、リオが身を置く【ルシフェル】という組織に反対する者たちのデモに見えた。そっと近付いて、定期的に宙を舞っては石畳の上に散らばるチラシを一枚拾い上げる。
その内容曰く、アセンションとは、自身の手に負えなくなった責任を他に押し付ける恥ずべき行為のみならず、世界のあるべき理を破壊してしまう忌諱すべき事象。それを推進する革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】は即時解散、事象の放棄を要求する旨が強く強く書かれていた。
「アセンション……?」
思わずカナカと顔を見合わせるが、あまり馴染みのない言葉だった。
再び携帯端末を取り出したカナカが検索画面を呼び出し、「アセンション」と入力。僅かなラグを以って、検索結果の候補がずらずらと表示される。
アセンション(ascension)上昇、即位を表す英単語――
「これは、何か違うね」
「英単語の意味じゃピンと来ないな」
検索結果のリストを下へ送ると、アセンションとは、次元の上昇、三次元世界から五次元世界へ移行、物質世界から意識世界への昇華などなど、なんだか宗教じみた事柄が数多く登場してきた。
「これだろ」
「次元上昇……確か、そう言ってたよねー」
革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】だと。
リオはそう言っていたはずだ。
「次元上昇って、何のことだろ」
カナカが首を傾げるのも無理はなかった。無作為に選んだページを広げてみたが、やれ個人の意識変革がどうだの、やれ地球の環境問題がどうだの、やっぱり意味がよく分からない。
肉体という枷を外し、物質世界の束縛を断ち切って、精神世界への移行を果たす――それって、ある枠組みの中で意識は混じり合い、または交じり合い、個は個として成立しなくてよくなるということだろうか。
「……さっぱり分からん」
「だよねー」
肩を竦めてカナカが携帯端末をしまい込むと同時、一際強い悲鳴と共に市場のデモ隊が大きく左右に割れた。何事かと視線を投げる。そこには街の風景に溶け込まない、明らかな違和感を漂わせる不気味な黒マントに白仮面が複数名いて、デモ隊の何人かを突き飛ばしたところだった。
どうやらデモ隊はただシュプレヒコールを行っていたわけではなく、【ルシフェル】の構成員と思しきあの黒マントたちを取り囲んでいたらしい。
「な、なんか、日本じゃあまり見かけない光景だね……」
「確かに」
カナカの声が若干震えている。おそらくは、自分もだ。こんなの、情勢の不安定な世界のどこかの国をテレビという枠を通して観る、無責任極まりないけれど、フィクションと同列程度のものだった。
(革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】……)
黒マントを見ながら、思う。
(はっきりさせたほうがいいのか? これ)
何かを問えば、二言目には『設定』という言葉を返されていたが、アイテル王家の姫様であるリオが創造したというこの異界金星の中で、彼女が身を置く組織の不都合な一面を俺たちに見せるのは何か意味のあることなのか。
なおも加熱して止まらない群衆を尻目に、黒マントたちはそれらを押し退け、俺たちのほうへ近付いてくる。いや、俺たちはあの地下アジトからここまで下ってきたわけだから、彼らが俺たちに目を付けたのではないのだろうけれど。
それでも、黒いマント集団の先頭が俺とカナカの前でその足を止めた。白仮面から唯一覗く充血した瞳がぎろりと俺たちを見下ろす。
「な、なんだよ……」
俺たちはただ通りかかっただけ。デモを遠巻きに見てただけで、参加の意思などなかった。カナカを前に出さないようにしながら、頭の中で意味のない言い訳がぐるぐると回る。
「お前、視えているのか……?」
腹に響く重低音。唸り声のようだった。
「は?」
「まだ、視えているのかと聞いている」
何が、と問う前に――
その問い掛けが昨日にもあったことを思い出す。口にしたのは、リオだったが。
「哀れな道化師よな。真の意味を知らされず、言われるがままに事を成すだけ。いや、哀れなのは、そんな道化師に縋るしかない我らか……」
「何の話だよ、オッサン」
実際、仮面の下がオッサンなのかどうか知らないが、声だけで判別した結果、
「貴様ッ!」
すぐ後ろに控えていた別の黒マントが声を張り上げ、拳を振り上げた。
殴られる――そう思った瞬間、文字通りの白刃が視界の外から割り込んできて、拳を振り上げた黒マントの眼前で静止した。
「あ……」
背後のカナカが安堵の溜め息を漏らす。白刃を追っていくと、そこには青のブレストプレートで武装したアシェンが厳しい顔付きで黒マント集団をねめつけていた。
「それ以上はよしてもらおう。彼らは姫様の客人。丁重に扱え」
「リオ姫の腰巾着か……」
腰巾着と揶揄されてもアシェンは涼しい顔色を何ひとつ変えることなく、白刃を更に突き出す。踏鞴を踏み、尻餅を付きそうになった黒マントが、他の黒マントたちに支えられて、彼らはその後、一言も発することなく脇を通り過ぎていった。
その不気味な後ろ姿が完全に消え去り、市場の人々が散会を始めたところで、アシェンは大きな溜め息を吐き、剣を腰の鞘に収める。
「いつまで経っても現れないからどうしたものかと思えば、くだらんことに巻き込まれていたとはな」
「知らねーよ。つーか、アンタの仲間だろアレ」
「あのような志のない連中と一緒くたにされるとは甚だ心外だ」
組織の中でも派閥のようなものがあるのか。アシェンは俺たちに向けるものとはまた別の、並ならぬ嫌悪感を以って吐き捨てる。
「……まぁ、でも助かった。ありがとう」
「別に。姫様の意向に従ったまでのことだ。礼を言われる覚えはない」
「アンタって、リオに死ねって言われたら死にそうだよな」
それは会話の流れの中での冗談のつもりだったのだが、
「当然だ。俺にとっては姫様が何よりも優先される事象であるし、姫様以外の人間など本当にどうでもいい」
アシェンはにこりともせず、無愛想に言い放つ。
そして、彼は踵を返し、本来俺とカナカが向かうべき場所であったはずの街の出口へ歩き出した。慌ててそれを追う。その背中を見ながら、カナカがこっそりと耳打ちをしてくる。
「なんか、今日は簡単そうだね」
「ああ。この分だと、護衛の必要もないだろうしな」
リオはあんな風に言ったけれど、アシェンの立ち振る舞いを見て、改めてそう思った。アイツも人が悪い。自分を慕ってくれている部下を必要以上に持ち上げることが憚れたから、便宜上「お供をつける」と言っただけなのだろう。たかが、同い年の同窓生相手にそこまで気を遣うこともないと思うのだが。
やがてホルスの市壁と市門が見えて、その向こうはかなりの割合で岩肌が目立つ荒涼とした絶壁地帯。蒼い海に突き出した半島における断崖絶壁が続く絶景ポイントだった。
「ふわぁぁぁー……」
まぁ、目を輝かせたカナカがいちいち感動してるのはいいとして。
日本ならばガードレールが設けられていてもおかしくはない断崖の上で、先行するアシェンが振り返ってくる。
「滑りやすいから気をつけろ。絶壁沿いに半刻ほど進むと、海岸に降りる傾斜が見える。降りた先にある潮騒の洞窟が目的地だ。まずは傾斜まで行がぉ――ッ!」
いや、本当に我が目を疑った。
滑りやすいと忠告した本人が説明途中で、足を滑らせて海に転落していくなど、まるでコントのようで。
しかも、あのクールなキャラが。
なんといえばいいのか。そこで俺の視界はめきめきと畳まれて、しまいにはブラックアウトしてしまった。アシェンが転落死してしまったのだろう。それが意味するところは、ミッション・フェイルド――つまり、護衛失敗ということだった。
「――おお、勇者よ。死なせてしまうとは情けないー」
例によって、酷く棒読みのそれと共にむにゅっと鼻を摘まれて、気付いたその場所はやっぱりリオがいる地下アジトの一室。リオは若干呆れ顔で椅子に腰掛けており、一歩下がったところで被害者のアシェンが腕組みをして突っ立っている。それはもう不機嫌そうに。
「ソウタくん」
「……なんだよ」
「私はお供をつけると言ったわ。護衛、誘導をしてとも言ったわ」
「……ああ、そうだな」
「なのに、何なのかしらこの失態」
「それはこっちの台詞だァァァァァァァァッ!」
上から目線でリオに嫌味を言われるのは納得出来ないし、勝手に足を滑らせて絶壁を転がり落ちるなんてお茶目をかましたクールなイケメンがドヤ顔で仁王立ちしているのも不可解だ。いや、不愉快だ。ふざけるな。
「こっちの台詞といわれてもね。護衛ミッションを引き受けた以上、あらゆる事態を想定しておくのがプロというものではなくて?」
「俺は能動的にミッションを引き受けたわけじゃないし、そもそもがプロじゃねぇ! 街を出た瞬間、絶壁を転がり落ちるような阿呆な事態まで想定しろってぇのか!」
横で、同じようにスタート地点に戻されてきたカナカが拍手している。多分、俺の怒涛の突っ込みに対してだと思うのだが、あまり嬉しくない。
「ソウタくん、貴方は昨日言ったわ」
その言葉の出だしは、つい先程聞いたものと全く同じで、
「は?」
「ゲーマーをなめるな、と」
帰結の言葉も全く同じだった。
「――モンスターによる惨殺、崖からの転落死、街で蹴躓いて脳挫傷、反対勢力による暗殺などなど、あらゆる場面を想定しておくべきではなくて?」
「どんだけ危険が蔓延してるんだよ! 街中のセーフティエリアまで面倒見切れるか! それにゲーマーはプロって意味じゃねぇよッ!」
「あら、そうなの?」
リオの奴、本気で勘違いしているのだろうか。そこの齟齬を正しておかないと、ゲーマーという言葉を盾に際限なく無理難題を押し付けられそうだった。
「だいたい、この異界金星が古典的ロールプレイングゲームの再現というなら、海や崖は進入禁止のオブジェクトにしておくべきだろ!」
古今東西、全てのゲームをやったなんて豪語は出来ないけれど、崖から転落して即死するロールプレイングゲームはあまり聞いたことがない。これがアクションゲームならば、地形による即死トラップも文法としてアリなのだろうけれど、ロールプレイングゲームでそれを、しかも何の脈絡もなく行うのは、ひどくお門違いではないか。
「む……確かにそれはそうね」
と、今度は意外にも素直に同意を示すリオ。時々、彼女の行動原理が分からなくなってくる。
「異界金星2の開発には是非生かさせてもらうわ」
「そんな続編、俺はやらないからな」
翻せば、今のこれは直す気ないという宣言でもあるのだろうが。
「ああ、丁度いいや。リオ――」
「何かしら」
「異界金星って、本当に『設定』なのか? ゲームなのか?」
ピクリ、と。
平淡だった彼女の表情が僅かに動いた――かもしれない。
違和感はそこかしこにある。高度なAIで片付けられない街の人にしてもそうだし、不穏な動きを見せる【ルシフェル】やそれを排斥しようとする人々のイベントもそう。作り込まれている、作り込まれ過ぎているそれらを目の当たりにして思ったのは、遊び要素というのを通り越して、無駄ばかりということだった。度が過ぎている。まるで現実世界のように度が過ぎ過ぎている――
「ソウタくん」
リオの瞳は逡巡に揺れ、何かを口にしようとし、その度に飲み込む。そんな奇妙な沈黙が続いて、最後にそれを破ったのは、アシェンだった。
「――もう行くぞ。早くしなければ、日が暮れる前に潮騒の洞窟へ辿り着くことが出来ない」
そうして、部屋を出て行く彼の背中を見ながら。
問い詰められて返答に窮する主の胸中を察知し、強制的に話を打ち切ろうとしたということになるわけだが、そんな事態まで想定してアルゴリズムを組むものなのだろうか。リオならやりかねないと思う一方で、普通ならば到底ありえないとも思う。
(アシェンはNPCじゃないって考えるほうが自然か……?)
俺やカナカやリオも、登場人物のひとりとして取り込まれている現状を思えば、不自然な話ではない。
どちらにしても、途中で遮られてリオとじっくり話す機会を失してしまった――
――ように思えたのだが。
「お前ッ! いい加減にしろよッ!」
「それはこちらの台詞だ、無礼者。貴様は姫様から賜ったミッションひとつ、マトモにこなせんのか」
「弱いくせに先頭走っていって、モンスターに踏まれて死んでる奴に威張られたくないね!」
あれから――最初の転落死から――
懲りずにまた足を滑らせた転落死のみならず、モンスターによる焼殺、刺殺、斬殺、運が悪いとしか言いようがない落石直撃の圧死などが原因で、そろそろ両手の指では足りなくなるほどの回数、リオの部屋とホルスの街付近を往復させられた。
そう、紛うことなきアシェンのせいだ。
「はッ! 自身の実力のなさを棚に上げて俺を批判するか。まずは与えられた仕事を全うにこなしてからにして欲しいものだな」
「はあああああッ?」
なんだコイツ。なんなんだコイツ。
いや、なるほど。
幾度となくミッション・フェイルドになっているのは、請けた仕事を満足にこなせない自分に非があるのだろう。この際、ミッションを引き受けなければならなかった経緯には目を瞑る。瞑ったとして、だ。護衛対象が後先考えずに突っ走った結果がまさにこれなのだが、その護衛対象に偉ぶられるのはどういうことだ。
まぁ、万事がこの調子なので、リオと対面しても先の話題をじっくり話す機会がないことには変わりがなかったか。
「貴様の全力とは所詮その程度のものか。デカイ口を叩く前に全身全霊を以って、俺を護衛してみせろッ!」
「うわぁ……」
カナカが呻き声にも似た小さな呟きを残す。ドン引きの証だ。また、カナカだけでなく、椅子に座ってけして平淡な表情を崩すこともなかったリオでさえ、頭を抱えている様子だった。
「はぁ……」
あまつさえ、呆れた溜め息。
「なんだ。俺たちが右往左往しているのを見て、楽しんでいるのかと思った」
「誤解しているようだけれど、ソウタくん。別に私はプレイヤーを困らせたいわけじゃないわ」
嘘吐け。とは、心の中だけに留める。もう少しで口を突いて出そうだった。ちょっと、危なかった。だけど、その心の中まで読んだかのように彼女は話を続ける。
「本当よ。自分が作ったゲームをクリアされるのを見て悔しがるクリエイターは二流だわ。クリアの過程を楽しむプレイヤーを見て喜びを見出すのが一流というものじゃないかしら」
「神楽坂リオがそれ言っちゃうんだ……」
「ああ、言ってることは立派だと思うんだけどな……」
最初の街の周辺にレベル四十の敵を配置したりしなければ。
「それに、こうもしょっちゅう戻ってこられると、私としても困るのよね。ウザイから」
その一言は俺たちへというよりは、アシェンに向けられたもののようで、ピシリ、と仁王立ちのアシェンの表情にひびが入った。俺がどれだけ責めても顔色ひとつ変わらなかった厚顔が、主のウザイの一言であっさり崩れ去る様は見ていて面白い。
また、そんなプレッシャーに耐え切れなくなったのか、大袈裟なまでにアシェンが咳払いをして、
「……と、とにかく行くぞ。八回目のリトライだな。早く潮騒の洞窟に辿り着きたいものだ」
「しっかり数えてんじゃねぇよ」
まだ懲りていないのか、護衛対象が先導するように部屋を出て行く。その構図からしておかしいことに今ようやく気付いた。カナカを促し、共に部屋を出る。
地上へと臨む地下通路を歩きながら、これまでの失敗ポイントを頭に浮かべる。次はどうするべきか判然としないままでは、また同じことを繰り返す――つまり、またここに戻ってくるだけだろう。
ならば、どうすべきか――
幸い、このホルス周辺のモンスターはアイテル周辺とは異なり、俺とカナカでもなんとか太刀打ちできるほどの強さだった。それについては、昨日俺が巨大蜂を押し潰して、ラッキーなレベルアップを繰り返したせいもあるのだろう。少なくとも昨日のアイテルと今日のホルスは前後関係が逆なんじゃないのかという思いもあるが、それについてはリオを責め立ててももう仕方がない。もう済んだことという意味で。あるいは、言っても聞かないという意味で。
ということで、一見強者のように見えたアシェンだったが、本気で足手まとい以外の何物でもなく、共に行動するメリットが完全に消滅している。
「そういうことか……」
ある種の閃きを得た俺は足早に数歩先を行くアシェンに追いつき、おもむろに指を真っ直ぐ伸ばした手刀を奴の首筋に叩き付けてやった。
「がっ」
「ちょ、ちょっとソータッ!」
アシェンの小さな悲鳴と、カナカの抗議の声が同時に上がる。しかしながら、残念なことにアシェンは恨みがましい表情で振り返ってくるだけで、俺が期待している結果にはならなかった。
「……おかしいな?」
「おかしいのは、貴様の頭だ。無礼者が」
首を擦りながら、アシェン。
しかし、俺は構わずその上から、二撃目、三撃目と手刀を叩き付けた。それでもなんともならなかったので、カナカの手から例の木刀を引っ手繰り、振りかぶって叩き付ける。
ぼぐっ、と若干嫌な音がして、そこでようやくアシェンはこちらが期待した通り――膝を折って、その場に倒れこんだ。
「ソウタ……」
カナカがなんとも言えない表情をしている。部屋からそう遠く離れていないというのに、脳裏のリオが深々と溜め息を放つのが分かった。
「いやもう目的地は潮騒の洞窟ってところだと分かってるしさ。連れて行かないほうがいいかなって……」
「それは、そうだけどさ……いやね、うーん」
言いたいことは分かる。人道に反するというのだろう。でも、カナカが真っ向から言えない辺り、彼女も同じことを思っていたはずだ。そうである以上は責められる謂れはない。断じて、ないぞ。
「首トンで気絶させるなんて、漫画の中だけの話だからね? 本当にやったら危ないんだよ」
「え、そうなのか……」
廊下に倒れているアシェンに近付くカナカ。呼吸等を確認しつつ窘められる。
と思いきや、
「うん。じゃあ行こっか」
やけに晴れ晴れとした表情で言われた。カナカの奴、割り切りやがった。
「なんだよ。やっぱり、このほうがいいってカナカも思ってたんだろ」
「まぁ、ねー。だってせっかくのすんごい絶景の中にいるのに、この人死ぬたび戻されるんだもの。あたしだってそりゃ思うところあるよー」
なるほど。カナカらしい。分かりやすい。
リオがこの護衛ミッションに何の意味を持たせようとしていたのか、あるいは、意味なんて最初からなかったのか、もうそんなことはどうでもよくなっていて、度々アシェンが漏らしていた潮騒の洞窟という場所が分かった時点で、どうにか外す術を考えるべきだったのだ。
アシェンは廊下に転がしたまま、アジトを出る。見事なまでの夕焼けに包まれて、赤く染まるホルスの街。意図せぬ理由で歩き慣れた道を下り、市壁の外へ。
「ふわぁぁぁー!」
より一層、歓声を上げるカナカ。
海に突き出した半島の断崖絶壁の上、太陽が水平線の向こうに沈もうとしている景色のせいだ。これは、真紅に染まる眼下の海だけでも驚嘆に値すると思う。
「すごいな……」
「んんっ、この夕焼けを見せるためにアシェンさんが死んでたとしたらちょっと感謝するね!」
「いや、それとこれとは話が別だ」
断じて別だ。
「今日ね。学校でね。金星のこと調べたんだけどさー」
「調べたって、いつ?」
「お昼休みに。図書室で」
「いや待て」
しれっと、理解に苦しむことを言った。
「図書室は小火騒ぎ以降、閉鎖されてるはずだよな?」
「忍び込んじゃった。誰にも見つからなかったよ」
あはははっ、と。快活に笑い飛ばすカナカ。
たまに、こちらがびっくりするぐらい大胆かつアクティブになる奴だ。
「まぁ、いいけどよ。で、なんか面白いことあったのか」
「知ってた? 金星って公転周期が二百二十四日で、自転周期が遅くって逆行の二百四十三日なんだって。つまり、金星の一日は一年より長いの!」
「へぇ……」
どうだとばかりに胸を張るカナカだが、今ひとつピンとこない。呻くように生返事を返す。一年という周期を日本に当て嵌めて、春夏秋冬、季節が一巡りすることと仮定すれば、その間に太陽が南中するのは一回しかないということなのだろうか。確かにそう考えると面白い――というか、考えられない不思議現象だ。
「そして、公転の周期と合わせると、金星の一日は地球の約百十七日に相当するとか。これはもうすごいことだよ」
「金星人大変そうだな……」
何がすごいのかはともかく。
金星人が実在して、地球人と同じスペックであるとするなら、一日の中で百十七回も寝ることになるのだろうけど、なんだかそうなった場合は「一日」なんて単位は定着しないものだろうか。しないものだろうな。
「とはいえ、それはリアルな金星のお話だし、ここは神楽坂リオが生み出した異界金星なんだから、厳密には違うんだろうね。昨日今日見てる限り、時間の感覚もあたしたちの地球と連動してるみたいだしさー」
「そうだな。天空都市が金星のどこぞの大陸上空を基点に周ってるってリオが言ってたし、地球環境に合わせたりしてるのかもな」
そんなやり取りをしながら、岸壁沿いに進む。
道中、モンスターに襲われることもなく、やがては海岸に下りる険しい岩肌の坂道が現れた。アシェンと行動していたときの最高到達点がここだった。本当に街から幾許もない距離だ。足を滑らせないよう、カナカと手を取り合いながら慎重に坂を下る。ゴミひとつ見当たらない、プライベートビーチのような白い砂浜に降り立ったとき、どっと汗が出た。
「アシェンなら、最低五回は滑りそうだな」
「あはははっ!」
そして、その男が口にしていた潮騒の洞窟とやらは――すぐに分かった。
砂浜を更に半島の先端方面へ進むと、絶壁に海水が流れ込む天然の洞穴を発見したのだ。そして、そこから昨日の銀の丘でも見たあの光が漏れ出ている。
「暴風のピラーの光か!」
「意外にあっさりだったねー」
確かにこの八回目のリトライに限っていえば、拍子抜けするぐらいにあっさりだが。気絶させてこなければ、あと何回、これを繰り返さなければならなかったのだろうと想像するに恐ろしい。
それでも最後に危険が潜んでいるパターンも考えられなくもない。先走りそうなカナカを制止し、恐る恐る洞窟の中を覗き込む。
「ふむ……」
流れ込む海水が浅瀬のようになっていて、くるぶしぐらいまでは埋まるけれど、それぐらいはどうということはない。問題のピラーは洞窟の外からも伺えるほどすぐ傍に浮かんでいて、やっぱりその真下には例の大穴が開いていた。海水もそこに流れ込んでいるようだ。洞窟自体は深くもなさそうで、それ以外に取り立てて怪しく感じるところもない。
「本当に楽勝だったみたいだな」
海水を蹴りながらピラーに近付く。ピラーを見るのはこれが初めてのカナカは不思議そうな顔をしていた。
「やるからな、リオ」
この状況をモニターしてるはずの脳裏に問う。
少し間があって、
『……どうぞ』
と、短く返答があった。
そして、俺がその暴風のピラーに触れた瞬間――
「やれやれ、ようやくか。手間取りすぎた」
男の声。
どこかで聞き覚えのあるそれは、俺とカナカの背後からだった。岩壁に手をついて、肩で激しく息を切らせている。
「だが、二本目には間に合ったか」
振り返ると、そこには俺と同じ学生服の男。
「――ったく。本当にリオと【アル・イスカンダリア】の手の平だな。お前」
「アイドル先輩……ッ!」
その先輩こと、折笠ミカゲだった。
あまりに突然のことで、それ以上の言葉が出ない。神楽坂リオが創った魔法の世界――異界金星の中に自分たち以外の詠高生徒がどうしているのか。別にここは閉ざされた場所でもなんでもなくて、入り口さえ見つけてしまえば誰でも来れる場所だったのか。
「驚くのも無理はねぇがな――まずは、そのピラーから手を離せ。お前はリオに騙されている」
「だまさ……えっ?」
散々迷惑は掛けられているが、騙されているというのはどういうことだ。確かに中には騙されたと思うような出来事もあったが、それ自体は、アイドル先輩が鬼気迫る表情で語るほど、悪質なものではなかった。
「いいか。お前がリオからどんな風な説明を受けたかは知らないが、異界金星は偽りでもフィクションでもない、お前たちの世界から見てリアルに存在する魔法の異世界。俺もリオもれっきとした異界金星出身の宇宙人だ」
「えっ……」
「異界金星には【アル・イスカンダリア】という――お前たちの世界で例えるなら、VR技術を用いた知育システムが盛んに使用されていてな。この異界金星は【アル・イスカンダリア】のカーディナルユニット、えぇと、基幹システムを流用し、お前たちの地球、お前たちの住む街の上に展開された実際の風景で。あー、そういう意味では、ここはリアルではないんだが」
そこかしこに在った違和感から薄々そうじゃないのかと考えていたことがやはり正であった――というよりも先に、
「……キャラ間違ってないか。アイドル先輩」
「どういう意味だッ!」
ほら見てみろ。後ろでカナカが遠い目をして暴風のピラーを見上げているじゃないか。小難しい話になると、すぐに思考停止状態に陥るんだから。
「えぇと、異界金星は本当に実在する異世界で、【アル・イスカンダリア】っていう異世界の知育システムを利用したリオが俺たちの街の上に異界金星の風景を再現した――ということで、いいんですかね?」
おとぎ話のような魔法の異世界が存在していたなんていうのは大スクープだろうが、今の自分たちが置かれた状況だけで考えれば、リオが開発したとしていたゲームの世界は、実は実在する異世界を再現していたのでしたなんてのは、突き詰めればどちらでもいいことだ。むしろ、これまでを見てる限り、そっちのほうがしっくりと腑に落ちる。
別に大した話じゃない。ここまでは。
大した話で、ここで終わらないから、アイドル先輩はあんなにも慌てているのだろうが。
「お前、リオからそのピラーについてはどう聞いている?」
「え? 彼女が誤って展開した異界金星を元に戻すために沈める必要があるって。全部で三本」
「なるほど、な……」
ぎしり、と。アイドル先輩の奥歯がはっきり軋む。
「いいか、よく聞け。それは世界を元に戻すモノじゃあない。それは、そのピラーは世界で世界を上書きするためのモノ――世界召喚塔の鍵だ」
「世界で、世界を上書き……?」
どこの世界が、どこの世界を上書きしてしまうのかは――ここまでの話を総合すれば、想像は難くない。
でも、そんな、まさか――
「桜庭ソウタ。お前は神楽坂リオに騙されている。目を覚ませ」
「――さっきから聞いていれば、随分と失礼なのね? ミカゲタン」
ぞっとするような少女の声がして。
ちゃぷん、と。水面を揺らすローファー。洞窟の中、暴風のピラーの傍に突如として現れた神楽坂リオは、ただただ冷徹な瞳でアイドル先輩を睨み付けていた。
「ようやくお出ましかい」
少し考えてみれば分かることだった。
俺の視線――だと思う――を介して、逐次、状況を把握しているような奴が自分批判をされて黙っているはずがない。それでもアイドル先輩はどこかから全速力で走ってきた後のような様相を醸し出していたが、リオは瞬間移動であの部屋からまさに転移してきたという感じだ。
そして、本当にアイドル先輩がリオと同郷、異界金星出身だというなら、聞かれているのは承知の上だった違いない。ふたりは旧知の仲ではあったが、リオに言わせれば、アイドル先輩はしつこくつきまとうストーカー。
(だとしたら……やばいんじゃないのか)
何もかも分かった上で、アイドル先輩は煽って、リオをおびき寄せたと考えられなくもない。
しかし、そんな俺の心配を他所にピラーの横から動かないリオは憮然と言い放つ。
「別荘に勝手に侵入して、私の世界に潜り込んでは私を貶めるような物言い……ゴキブリのような行動力と振る舞いには感動すら覚えるけれど、看過は出来ないわね」
憮然と言うよりも、もはや辛辣であった。その物言いに俺自身、思うところがなかったといえば嘘になるが、それよりもアイドル先輩のほうが口をあんぐりと開けて、表情から察するに相当のショックを受けていた。
「お、お前ね……仮にも一国の姫ともあろうお方が人をお台所の超生物に喩えるじゃねぇよ、全く。それがアシェンの奴の教育の賜物か?」
「――もうすぐ関係なくなるのよ。王族とか貴族とか庶民とか、そんなものは」
「リオ?」
彼女は今まで感情を表に出さず、あくまでも平淡に静かに物事を語ることが多かった。しかし、今は違う。平淡に静かにではなく、氷の激情を以って一言ごとに周囲の温度を下げていく。そんな心胆を寒からしめる印象だった。
「滑稽よね。アセンション――次元上昇とは物理的な束縛を排除し、全てを平等に昇華せしめる禁断の現象だというのに、既知の問題が完全に解決される魔法のようだと思われている。事が成された後、世界にどんな変革がもたらされるのか見物だわ」
一呼吸置いて、いいえ、と首を横に振る彼女。
そして、続ける。
「見物なのは、アセンションを待ち望む連中の表情がこんなはずじゃなかったと絶望に染まる瞬間ね。世界がどう変わるかなんて、私には然したる問題じゃない」
「やけくそもいい加減にしろよ。温室育ちが」
更に際限なく冷え込んでいく空気に毒されたのか、アイドル先輩までが口調を荒げ始めた。会話に割り込めなくなってきて、実際彼女を頼ってもこの場を取り成す術は持ってないだろうけれど――手持ち無沙汰にカナカを見る。
(うん、やっぱり)
先程から、一ミリたりとも姿勢が変わっていない。
リオは暴風のピラーに手を掛けながら、息を吸い込む。
「やけくそとは何かしら。物事が思い通りに運ばなくて、どうにでもなれという自棄を強調する言い方だと把握しているけれど、そういう意味では、今現在進行形で物事が思い通りに進んでいないことなんてないわ――いいえ、全てが思い通りにいくなんてことは絶対にないので、想定の範囲内で動いているわ。どうにでもなれとも思っていない。だからこれはやけくそなんてものじゃないの」
「その言い草がやけくそだっつってんだッ!」
アイドル先輩が叫んだ瞬間――
洞窟の入り口で、その先輩の背後で白刃が閃いた。彼の首の高さに合わせた横薙ぎ。それだけで容赦なく殺しに掛かっていると分かってしまうような一閃が。
「うわっと」
しかし、目敏くその気配を察知していたアイドル先輩は身を屈めるだけでそれを回避し、その剣閃を繰り出した相手を後ろ蹴りにして、地面と水平に飛び、間合いの外へ脱する。態勢を立て直した彼は苦々しく呟いた。
「久しぶりだってのに随分じゃないか。アシェン」
「姫様のお志に仇成すゴキブリになど、そんな感傷は持ち合わせんな」
「やっぱお前かよ!」
そう。現れたのは、リオ姫様お付きの無礼者アシェン。地下アジトに転がしたままだった奴だ。もう回復してきたのかというよりも、あの先走りおっちょこちょいがどうしてここまで無事に辿り着けたのかという疑問が先立つ。
(まさか、わざとかよアイツ……)
酷い連中だ。
ここには嘘が多すぎる。リオが、アシェンが、アイドル先輩が、そしてはたまた世界そのものが、俺とカナカを酷く嘲笑っているような錯覚を、目眩を覚える。
「小芝居にしても、もう少し上手くやればよかったのにな」
「なに……?」
「この世界で死が発生するたび、世界はそのときの形を、それまでの記憶を保ったまま巻き戻されるため、【アル・イスカンダリア】の基幹に微妙な歪みが生じる。その歪みを追い掛けて俺はここまで進入することが出来た――つまり今、俺がここに立っているのは、お前のおかげでもある」
「ち――ッ!」
「お前はお前でリオの傍を極力離れるわけにはいかなかったのだろうから、リオの意に沿うような形で考えた苦肉の策がそれだったのだろうが……まぁ、お転婆には苦労するねぇ」
残念だったな、と。
まるで悪役のようにアイドル先輩が唇の端を吊り上げると、静かなる怒りに身を任せたアシェンが再び剣を手にアイドル先輩に斬り掛かる。ふたりの立ち合いが始まって、それでもその場から動こうとしない女子がふたり。カナカはともかく、リオが静かなままなのはどうしてか気になって。
「おい、リオ……」
呼び掛けると、緩慢な動作で首だけを動かし、「なに?」と仕草だけで問い掛けて来る。
「アイドル先輩が言ってること、本当なのか?」
「……ソウタくんは、ミカゲタンが言うことを信じるの?」
後から考えて気付いたことだが、その問い掛けは失敗だったようだ。
こんな訳の分からない状況下、少しぐらいの交流はあったはずの隣のクラスの超絶美少女を信じるのか、昇降口で写真集をぶちまけて不名誉な仇名で呼ばれるひとつ上の先輩を信じるのか。
アイドル先輩の言うことを全て鵜呑みにしたわけじゃないけれど――受け取り側のリオには、微妙に偏ったニュアンスがそこには含まれていたようだ。
「そう……」
返答に窮していると、勝手に納得したようにリオが頷く。
何が「そう」だと言うのだ。
「ソウタくん。私は貴方を騙しているつもりはない。ここでいう『騙す』というのは、嘘を吐いて真実でないことをソウタくんに刷り込んで、その果てに私が何らかの利益を得るといった意味だと考えて欲しい」
「……それは、何の予防線だ?」
「利益の定義にもよるけれど。少なくともこれは私の本当に望む結果ではない」
私利私欲のためではないけれど、嘘は吐いていますという風にも取れる。いや、むしろ、そうにしか聞こえないのだが。
「ねぇ、ソウタくん。貴方は学校の図書室での出来事、覚えてる?」
「図書室? 半月ほど前に小火があったことか」
それがどうかしたのだろうか。こともあろうに図書室という火付きの良さそうな場所で小火があった。幸いすぐに消し止められ、大きな騒ぎにはならなかった事件。たったそれだけというには軽いかもしれないが、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、リオの表情は明らかに不満を示していた。
「ソウタくん。私は――」
ぐっと、息を飲み込む彼女。
その瞳が何か躊躇いを見せるように逡巡して、
「貴方のことが……好きです。夜も眠れないぐらい、大好きです」
その口から飛び出した言葉は到底理解し難いものだった。視界の隅に映っていたカナカがびくりと肩を震わせたように見えた。
「え、と……ああ、う……?」
そして、俺はといえば。
情けないことに、欠片ほども想定していなかった突然の告白に身を堅くするだけで、上手く言葉が出て来なかった。聞こえ間違いか。それとも妄想か、白昼夢か。喘ぎ声のようなよく分からないものが喉を突いてただ飛び出すだけ。
女の子に、それも学校で一番話題の子に真っ向から好きと言われて、そのとき人は、男はどう答えればいいのだろう。そんなふんわりとした模範的回答を求めて頭の中が空回りを始めるが、そもそもがその告白に対し、自分がどうしたいのか分からないという状況にようやく追いつく。
リオはリオでそれなりに緊張していたのか、やや紅潮させた頬のまま浅い呼吸を何度か繰り返す。その仕草は、少なくとも嘘であったり、からかったりしているものではないと思えた。
「返事は、いらないわ。勝手でごめんなさい。これを言っておかないと、信じてもらえないと思ったから」
「どういう、ことだよ」
「ううん。信じてもらえたとしても、ソウタくんには許してもらえないかも。でも、それは仕方ないことなの。別に構わない」
「だから、どういうことだよ。勝手に話を進めるなよ」
「ミカゲタンが言ったことは概ね本当よ。この――」
そこで、リオは暴風のピラーを握る手に力を入れる。
「灼熱、暴風、激震の三本のピラーは世界召喚塔の鍵。これが三本とも大地に沈むことにより、世界の上書きは完了する。貴方たちの地球は――異界金星へのアセンションという形で精神世界へ移行を始めるのよ」
「意味が、分からんぞ」
「理解しなくてもいい。ソウタくんの家の階段から、または私の別荘の階段から、その上に展開されている異界金星がそのまま降りてくるの。世界の変革が始まる」
「ちゃんと説明しろッ!」
その、次の、瞬間。
俺の叫びに呼応するかのように、目尻に涙を溜めたリオが感情を露わに初めて叫ぶ。
「仕方が、ないじゃない。事故の後から目覚めないソウタくんを救うには、もうこれしか方法がなかったんだもの――ッ!」
その叫びが到底理解できないものであったことは言うまでもなく。
「俺が、目覚めない……?」
「覚えてる? ソウタくん。貴方の主観時間では、今は事故の翌々日――十月二十六日なのだろうけれど。いいえ、私がそうさせたのだけれど、本当の今日は翌年三月十日。半年もの間、貴方は昏睡状態が続いてるんだから!」
「え――」
遥か遠方からいきなり懐へと潜り込んできたようなその言葉は、思考を停止させるには十分な威力を有していて。口を突いたのは、浅い、溜め息のような一言。
涙ぐむリオを前に、何とか言葉を搾り出す。
「ちょっと待て……ちょっと、待て! じゃ、じゃあ、あの現実世界は……今日や、昨日の学校は……?」
「記憶の継ぎ目……とでも言えばいいかしら。【アル・イスカンダリア】が事故に遭遇したけれど、大したことなかったという並行世界をシミュレートしているだけのもの。有り体に言えば、現実世界なんかここにはない。あそこから全てが虚構なのよッ!」
「お、ま、え……どういう……」
足元が崩れていく錯覚に襲われて、思わず膝を落とす。ちゃぷんと、洞窟に流れ込む浅瀬が嘘ばかりと言われた中でもっともらしい音を立てた。なんだか知らないけれど、乾いた笑いが、かさかさに乾いた唇から漏れる。
現実世界がない。確固たるものがない。
それは、どうしてか。それは、自分が事故に遭ったから。
やっぱり、交通事故に遭っていたから。
そして、それからずっと目覚めていない。
「なんで、異界金星での上書きが、俺を救うことになる……?」
「次元上昇は物質世界の束縛を断ち切って、精神世界への移行を意味する。そこでは、人は肉体に縛られず、精神――心だけで生きてゆける永遠の存在になれるの」
「永遠の存在、って、お前」
それは、世界の理そのものを変える行為だ。
それは、今ある世界を破壊することにも成り得る。
でも、リオは世界を上書きして、精神世界へ移行するなんて暴挙に出た。
それは、どうしてか。それは、俺が目覚めないから。
「ははっ……信じてもらうためにって、言ったけどさ……」
どうして、彼女は俺に拘るのか。
それは、俺のことが好きだから――?
「いや、無理だよ……」
リオを信じるとか、信じないとかではなく。
俺自身の理解、処理できる範疇を軽く飛び越えてしまっている。
俺のことを好きと言ってくれた女の子は、俺のために世界を壊そうとしているなんて、そんなの、どうやって受け止めればいいんだろう。
「――がッ!」
どん、という激突音と共に、アイドル先輩の小さな呻きが聞こえた。
「鈍ったな。もとより素手の貴様がこの俺をどうにか出来るわけないだろう」
振り返ると、手足に生々しい刀傷を負い、先輩が岸壁に叩き付けられたところだった。それを負わせたアシェンが露払いのように長剣を一振りし、吐き捨てる。そして、俺とリオのほうへ向き直る。剣を正眼に、俺のほうへ切っ先を向けて。
「姫様はお前のために修羅の道を歩む決意をなされた。自覚しろ、桜庭ソウタ。そして、覚悟を決めろ」
「アシェン。急には無理よ。それは、人の精神を凌駕することだわ」
たしなめるように、リオ。
「へっ……どちらにしろ、ソウタの手でなければ、ピラーを沈めることは出来ないだろ。異界金星の住人は、そういう風には造られていないのだから」
よろよろと起き上がってきたアイドル先輩が途切れ途切れに負け惜しみのようなことを言う。だが、それに関して、リオは一笑に伏した。
「あら、ミカゲタン。貴方は知らないのかしら。確かに世界召喚塔の鍵であるこのピラーは、異界金星の者には触ることさえ出来ないようになっているけれどね」
触れることさえ出来ないようになっている――
ならば、何故。リオはずっとピラーを握ったままでいられるのか。その答えを想像するにアイドル先輩の表情が驚愕に染まる。
「何事も例外というものは存在するのよ。私たち異界金星の王家は運命に縛られない者だから――」
その頃には、とっくにいつものリオに戻っていて。いつものというのは、無愛想であるものなのか。不遜であるものなのか。的確な言葉は浮かばなかったけれど、とにかくいつもの彼女に戻っていて。
そのいつものの上にある種、自嘲のような笑みが浮かび、
「この話を聞いたソウタくんがもうやれないというのなら、別に私がやったって構わないのよ?」
その腕を突き下ろす。
暴風のピラーはその真下、海水が流れ込む黒い大穴へあっさり落下していった。
――それからどこをどう辿って家に帰ったのかは分からない。もしくは、異界金星から戻されたところが自宅のリビングだったのかもしれない。そんなことさえも覚えておらず、気付けば、窓枠に切り取られた空は白み始めている。
俺の主観時間でいえば、十月二十七日早朝。
リオが教えてくれた本来の日付では、三月十一日になるのだろうか。それともよくある泡沫の夢のように、仮に今すぐ目覚めることが出来たら三月十日のままなのだろうか。
いずれにしても、三月上旬の朝といえば、まだまだ肌寒い時期だろうにそれさえも感じない。嘘っぽい。本当に何もかもが嘘っぽい。当然だ。だって、ここは自分の世界ではないのだから。
(本当の俺って、どこかの病院で眠ったままなのかな……)
おそらく、そういうことなのだろう。
異界金星に関わり合いになる直前、主観時間でいうところの十月二十四日。事故に遭ったあとに目覚めたのが自宅のこのリビング。このソファの上。
そこでは、カナカがソファの傍で泣いていて、何の脈絡もなくリオが窓の近くに突っ立っていて――
「んー……」
何の脈絡もなく。
というのは、それまでリオと喋ったこともなく、関わりあったこともなかったからという意味で使ってみたのだけれど、実を言うと、それも少しだけ自信がなくなっていた。事故の直前か――それとも、それより更に遡るのか、いつかどこかで彼女と会話をすることがあったような気がしてならないのだ。
もし自分に欠落した記憶があった場合、リオが表現した『記憶の継ぎ目』とやらの影響ではないだろうか。
となると、何もかもが信じられなくなってくる。
「虚構、か」
空気を掴むように軽く指を折り曲げて、意識を集中させてみた。それだけで赤い塊である【
【
なんだか、その辺は本当にゲームっぽい。
「ソータ……?」
突然、消え去りそうな声で名前を呼ばれ、その場に飛び上がる。ぎしりと、ソファが鳴いた。玄関から顔を覗かせていたのは、カナカだった。
「うわ、びっくりした……つか、お前」
壁時計を見やる。短針は五と六の境を彷徨っている。
これもまた記憶が飛んでいて、ほぼ無為に過ごしていた自分が言うのもなんだけれど、こんなに朝早くから尋ねてくるのは、いくら彼女でも珍しい。
「ピンポン鳴らしたんだけどね。出てこなかったし」
「え、そうなのか?」
寝てはいなかったけれど、記憶がないのを考えると、まぁカナカが鳴らしたチャイムには気付いていなかったのだろう。
「うん。でも、家にはいるだろうと思って覗いちゃった。ごめんね」
「いや、いい。心配かけた」
「ううん」
玄関に立たせておくのもなんなので、入って来いと促す。小さく頷き、靴を脱ぎ始める彼女を見て、ふと気付く。
(カナカは……本物なのか?)
例えば、一昨日。「また事故るなよ」と軽く言ってくれたサッカー部の爽やかイケメン石井君。あれは偽者――【アル・イスカンダリア】の再現の賜物だろう。その他の――クラスメイトをその他でひと括りにしてしまうのは忍びないが――クラスメイトや先生はどうだ。アイドル先輩は本物だろうが、しかし、それ以外が本当に確信が持てない。
このカナカでさえもだ――
「どうしたの? 難しい顔して」
「いや、えっと……」
ソファに腰掛けている俺の真正面に立ち、カナカは不思議そうな顔をして見下ろしてくる。よく見ると、厚手の白いカーディガンに朱色のフレアスカート。彼女の私服だった。
(あれ、今日は学校じゃないのか。土曜? 日曜?)
もう、そんなことだって分からない自分が分からない。
「難しい顔、なるか……なるよね。元気出せなんて、言えないね……」
「ああ……よく分からない。うん、何もかも分からないと言ったほうが正しい」
自分自身が思っている限りではあるが、少なくとも悲壮なのは似合わないキャラクターだと自覚しているし、努めて明るくしようとか思ったりするのだが、やっぱり心の中で歯車が上手く噛み合っていないような違和感を覚え、消沈する。
「お前こそ、元気出せよ。なんでお前がそんな暗い顔してんだ」
あまり深くは考えず、軽く言ったつもりだった。
でも、
「暗い顔、なるよ! ソウタが事故から目覚めていないなんてッ!」
途端に両手で顔を覆い、泣き出すカナカ。
「なんなの、神楽坂リオ! あの子、都合のいいこと言って! ソウタを騙してばっかでさ!」
「あー、まぁ。それは、そうだな……」
なだめようとして伸ばした手を勢いよく払われる。カナカの泣き顔なんて久しぶりだなぁと思い、その直後、この世界で目覚めたときのことが脳裏を過ぎる。記憶の齟齬についても恨めしく思った。それがなければ、本当に久しぶりだったと思うから。
「ソウタ、ちゃんと思い出して! 神楽坂リオに騙されないで! ソウタのお父さんとお母さんだって、海外出張になんか行ってない! そんなお仕事じゃないでしょ!」
「は……?」
一瞬だけ、カナカの言うことが本気で分からなかった。
「『さくら屋』精肉店! ソウタのお父さんとお母さんが作るコロッケとっても美味しいじゃん! 詠高生徒に大人気じゃんか――ッ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます