1 異界金星の物語

 ジェイドスカイとは、先週発売されたばかりの新作、ファンタジー調ロールプレイングゲームのことだ。

 開発、発売元は国内老舗かつ最大手と評されるメーカー、フレイムソフト。テレビゲームに関心がない層でも、発売されているいくつかのタイトルは挙げられるぐらいの知名度はある。俺がゲームにのめり込んだきっかけというのは間違いなく父親だろうが、そのことについて、まさに関心がない層である母親がどう思っているかは定かではない。

 ともあれ、そんな父親は「昔のフレイムソフトはチャレンジ精神に溢れ、職人気質のゲームが多かったのに、今は会社が大きくなり過ぎて大作主義に陥ってつまらん」と言って憚らない。そういう話を聞くたび、そんなのは今の時代の俺には関係のないことだし、ゲームが面白ければいいじゃないかと聞き流している。父親はよくいる、メジャーになり大勢に認識された途端、昔のほうが良かったと懐古、または批判に回る面倒くさいタイプのファンだった。

 世間のニーズがそうだったのか、作り手側、業界のブームだったのかは分からないけれど、ここ数年、近未来的、退廃的なテイストのゲームがたくさん発売されて食傷気味だった中、久しぶりにドが付くほどのハイファンタジーなゲームが発売されると知って、個人的には待ってましたといわんばかりだった。

 それがジェイドスカイという名のタイトル。

 美しい翡翠の森のざわめき、抜けるような蒼い空の世界。ファンタジーの代名詞ドラゴンをはじめ、数多の魔物が闊歩し、妖精さえもが空を舞う、そんな幻想世界での冒険譚。

 今思い返せば、目の前にワゴン車が迫った瞬間、色々と過ぎったものの中には、まだジェイドスカイをクリアしていないことに対する未練も何割か占めていたと断言してもいい。嘆かわしい話だと、母親辺りは卒倒しそうだけれど。

 そんな、誰もがきっと一度は夢見る光景が、俺の走馬灯にまで現れた美しい景色が、目と鼻の先、肌に感じるところに広がっている――と言ったところで、誰が信じてくれるのやら。

 いや、誰も信じてくれなくていい。

 ただただ、叫びたい。

「家の階段上がったらそこは異世界でした。なんてアホかァァァッ!」

 なので、叫んでみた。

 流れで一緒に付いて来たカナカは目を輝かせながら、わいわいはしゃいでいる。

「さぁ、付いてきて。こっちよ」

 そして、あまりの超展開にどうやって俺の家に侵入したのか、あるいは、どうして俺の家に侵入したのかという追求をし損ねた超絶美少女転校生は、まるで既知の街であるかのような振る舞いで、夕暮れのファンタジーの中へと進んでいく。

「待てよ! 神楽坂さん!」

「あ、待ってよー。ソウタ!」

 一度だけ、自分の家に繋がる階段を振り返った。

 そこは建物と建物の間にある街の裏路地のような場所で、まるで地下鉄の駅への入り口のように存在していたが、階段の下にはしっかりと玄関が丸見えなのがまたより一層の違和感を突き付けて来る。

(どういう構造になってんだコレ……)

 街の地下にうちの家の一階がある。なんて到底受け入れられない。

 うちの家の二階がファンタジーな街になった。なんてのも到底受け入れられない。

 大通りに出て、改めて、その街並みに感嘆の溜め息が出る。アーチを描く赤煉瓦の屋根で統一された白塗りの家が立ち並び、その全てに例外なく花窓があって華やかさを演出している。緩やかにカーブを描く石畳の坂道は赤煉瓦の隙間から覗く時計塔に続いているようだった。

 訳が分からなくて呆ける俺を尻目に、カナカがいの一番に叫んだ。

「うわぁうわぁぁぁー、すごいね。ソウタ! ベルンの旧市街みたいッ!」

「べるん?」

 カナカが「知らないのー?」と口を尖らせてくる。そういうときはいつも「行ったことないくせに」に返すことにしている。

「一九八〇年代に世界遺産登録されたスイスの首都ベルンだよ。世界遺産の中でも珍しい市街地丸ごと世界遺産なんだよ」

「知らんよ……」

 いや、スイスの首都ぐらいは存じているが。

 知る人は知っているのだが、黛カナカは極度の世界遺産マニアである。

 死ぬまでに世界遺産を全部回ると豪語しているが、いつか、世界遺産は年に二十件、三十件ずつ増加しているとも聞かされた。冷静に考えると、その増加ペースを上回る費用面や時間面での負担が必要になるわけで、単純に今から心配もするが、有り体に言って、それは彼女の夢なのだ。付き合わされる羽目になるであろう未来の旦那には今から同情するしかない。俺は嫌だ。何故なら飛行機に乗るのが怖いから。

(いやいや、結婚したいわけじゃないけどな)

 余談だけど、ゲームはあまりしないカナカがジェイドスカイを購入したのは、世界遺産などを髣髴とさせる美麗なグラフィックに惹かれたからだと思っている。

 そんな世界の中を神楽坂リオが歩いて行ったのは、右手の大通りだった。

「神楽坂さん!」

 見てくれは違えど、街は街だ。自分たちと同じ人間が行き交う街だった。民族衣装のような長衣を身に纏って、買い物篭をぶら下げている女性が良く目に付く。夕暮れ時の食材探しというところか。ぱっと見、日本人、アジア人には見えない。どちらかといえば、街並みから連想できる西洋系の人種。

 車なども見当たらず、石畳の街路はそんな風にして縦横無尽に行き交う人で賑わっていて、ブロンド黒ブレザーの後ろ姿に追いつくのは至難の業だった。何度も人にぶつかりそうになりながら、その度に頭を下げて、距離は一向に縮まらない。

(日本語、通じてる……?)

 そんなことを考えながら、大通りのカーブが直線に変わり、時計塔への道が一直線に開けたかと思うと、神楽坂リオはある一軒家の前で立ち止まり、おもむろに扉を開けてはその中に入っていった。

「お、おい!」

 彼女が消えた一軒家の前に立つ。扉は開けっ放し。中を覗くと、日本家屋のような上がり框はなく、玄関と思しき薄暗い場所に神楽坂リオが突っ立っていた。

「何してるの、入って」

「入って、って……」

 躊躇う。

 ここがどこかも分からない得体の知れない街の、何の変哲もない民家。警戒するなというほうが無理な話だ。カナカと顔を見合わせながら足踏みしていると、痺れを切らした神楽坂リオが身を乗り出してきて、

「早く」

 やや苛立たしげに小さく呟きながら、俺の手を引っ掴む。そして、民家に引き込もうとした。あまりに不躾な彼女にカナカが抗議の声を上げるが、意に介す様子もない。引き摺られるように民家に入る。

 内部はいかにも古民家といった様子で、玄関と思しき空間を跨ぐと、古ぼけた暖炉の前にソファを供えた板張りのリビングが現れた。そして、若干浮いて見える地下への階段。ここから見える限り、家主らしき人物はいない。

「地下よ」

 手は握られたまま、彼女は階段に足を掛けた。

「いやいや、ちょっと待てってば。家の人はいないのかよ」

「ここは無人宅。地上はね」

「地上は?」

 意味深な言い方にカナカは素っ頓狂な声を上げ、俺は眉を潜める。

「アジトなの。ここは」

「アジトって、何の」

 その響きに胸躍るものがないわけでもなかったが、でも、それはあくまで日常的な中での話だ。こんな最中では、嫌な予感しかしない。

「――革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】」

「じ、じげん……?」

 超絶美少女転校生にも、それから牧歌的なファンタジー世界にも。そのどちらにも似つかわしくない堅苦しい言葉が飛び出した。

「それから。私のことは、リオでいいわ」

「は?」

「神楽坂さん、なんて止めて頂戴」

 その瞬間、カナカがふしゅーという不気味な吐息を見せ、薄暗い空間を更に暗く染める。

 彼女、神楽坂――リオに連れられるまま地下へと下りると、じめっとした空間でありながら松明が立て掛けられた通路が続くも、すぐに壁面いっぱいの鉄扉に行く手を阻まれる。

 その鉄扉の前には、白色に近いシルバーブロンドの青年が待ち構えていた。僅かな光に照らされた全体的な印象は細く、やや面長のイケメンだった。カナカが色めき立つ溜め息を放ったので、何故だか面白くない。

「お帰りなさいませ、リオ姫様」

「ご苦労様です」

「リオ……姫さまぁッ?」

 俺とカナカが同時に声を荒げるも、リオは意にも介さず素面で挨拶を交わす。男性が怪訝な顔付きで俺のほうを睨んできた。

「無礼者が。こちらは、金星イシュタル大陸ラクシュミ高原昇ル基点、天空都市アイテルを治める王家のご息女、リオ様であらせられるぞ!」

「――そういうなのよ。気にしないで」

 男が言い終わるや否や、リオが間髪入れずに言い放つ。

 更に、

「彼は私の客人ですから」

 なおも言葉を重ねようとする彼を制すると、鉄扉を開けるように促した。しぶしぶという表現がぴったりな、緩慢な動作で押し開けていく男性。扉が完全に開くと男性を押し退けるような形でリオが中に入っていった。敬愛する女性にぞんざいな扱いを受けた男性の気持ちを考えると居た堪れなくなり、ぴたりと引っ付くように後を追う。

 扉の奥も変わらず、薄暗い通路で等間隔に松明が設けられており、蟻の巣を髣髴させるような脇道がたくさんあったが、リオは目もくれず一直線に奥へと向かう。時折すれ違う人たちもいたが、みな一様にして通路の端に寄って道を譲り、敬意を示すように頭を下げていた。

「これも……?」

「そうよ」

 短く肯定したリオは通路の最後、正面にあった扉を自ら押し開き、するりと滑り込むように中に入る。部屋の中は非常にこじんまりとしていて、八畳程度のフローリングに六人掛けのテーブルがひとつ、部屋の中央に鎮座しているだけだった。

「どうぞ」

 向かって左側の中央の椅子に腰を下ろすリオ。促されるまま、その向かいに腰掛ける俺とカナカ。

「さて。細かいことは抜きでいくわね。ソウタくん、貴方に依頼したいミッションがあるの」

「えぇと……その、細かいのを省略されると、全く分からないんだけどな」

「そうだよ。ここは何処で、貴方は何者なの?」

 省略されなくても全てを理解するのは至難であろうことぐらいは想像に難くなかったが。

「私としては、もう少しおごそかに展開するつもりだったのだけれど――」

「おごそかに展開?」

「つまり、世界をね。まさかソウタくんの家を占拠してしまう形で広げてしまうなんてね」

「そ……そうだよ! 俺の家、どうなったんだよ!」

 次々に降り掛かる不可思議な光景に少し前のことをすっかり忘れてしまっていた自分を恥じる。元々の発端であるところ、最初の奇怪な事象について、あれは何も解決していなかったではないか。

「そうね……入り口の彼も言ってたけど。ここは、金星なの」

「金星って……あの金星か?」

 ついつい、天井――その向こうの空に向かって人差し指を立てる。金星といわれて思い浮かぶものは、宇宙に浮かぶ天体しかない。

 突拍子もなく聞こえるが、リオはいとも容易く頷いた。

「そうよ。太陽系第二惑星、地球の姉妹惑星とも呼ばれている金星」

「そんなのおかしいじゃない! 金星に人が住んでるなんて聞いたこともない!」

 カナカのもっともな意見に頷きつつ、

「エイリアンやナントカ星人ならともかく、街並みや住んでる人を見ただけでも俺たちと同じだったし、俄かには信じられないな」

「……信じられないのも無理はないかしらね。さっきの男が、金星イシュタル大陸ラクシュミ高原をと言ったのを覚えてるかしら?」

「あ、ああ」

 日本の古都、京都の市内は碁盤の目に例えられることが多く、住所表記は通りと通りの交差した地点から、北へ行くことを「上ル」としたり、南へ行くことを「下ル」としたりすると聞いたことがある。でも、「昇ル」とはさすがに聞いたことがなかったし、口にこそしなかったものの、空でも飛ぶのかよとこっそり思った。

 だが、次にリオの口から飛び出た言葉はそれそのもの。

「続けて、基点、天空都市アイテルとも言ったわね。その名の通り、金星イシュタル大陸のラクシュミと呼ばれる高原の上空を基点とし、金星上空を周回する都市なの。ここは」

「あの、リオ、さん?」

 ぎろりと。

 心持ち身を乗り出してきたリオが物凄い目で睨み付けて来た。

「リ、リオ」

 言い直すと、彼女は姿勢を戻してすまし顔に戻り、「質問ならどうぞ」と促してくる。

「金星とか、天空都市とか、煩雑すぎて全く付いていけてないんだけど」

「右に同じく……」

 表情からは上手く汲み取れなかったが、ぎしっと椅子をひと鳴きさせるリオの仕草は、まるで「なんだそんなつまらないこと?」とでも言わんばかりだった。

 それでも、もう少し分かりやすく噛み砕いてくれることをリオに期待したのに、

「何故金星の上空という環境なのかというと、気圧や温度が地球と同等、かつ、太陽エネルギーが豊富という素敵な場所だからよ。ただし、本来そこは酸化硫黄の雲から降る硫酸の雨とプラズマの雲海に支配されていて、惑星全体を覆っている。だから、私たちは、意図的に空間に歪みを加えて位相をずらすことにより、それらを避けながら、地球環境に最も近い部分だけを享受できる場所――地表から遥か上空、熱圏と成層圏の狭間、中間圏と呼ばれるこのメソスフィア内に都市を築いた。ソウタくんの地球から見れば、異世界――異界金星とでも呼ぶべき世界にね」

 事もあろうか、畳み掛けるように小難しい単語を並べ立てた上で、更にもうひとつ、異世界という驚愕の事実を上乗せする意地の悪さを見せ付けた。隣に座っているカナカは既に頭から煙を噴き上げていて、見るも無残に乾いた笑いを浮かべている。かわいそうに。

「つ、つまり、ここは金星で、その上空にある都市で、丸ごと並行世界で、リオは王家のお姫様で、えぇと……この地下室は【ルシフェル】って組織の地下アジトっていうことで、いいのか、な?」

 腑に落ちないことだらけだが、でも、それならば、金星に人間が住んでいて、相応の文明も存在している理由もゲームをはじめとするエンターテイメント的文法にて無理矢理でも納得できる。できることにしておく。

「――ええ、そういうね」

「は?」

「最初に言ったでしょう。だって」

「いや、言ったけどさ」

「これは、ゲームなのよ。ソウタくん」

 今度ははっきりと溜め息を以って、また椅子を軋ませるリオ。

「……察しの悪い人ね。これは異界金星という世界を舞台にした冒険ファンタジーなの。仮想現実なの」

「えぇと?」

「いわば、テレビゲームに代表される古典的ロールプレイングゲームの再現。貴方が主人公であるところの勇者で、私は寸志だけ押し付けて危険に満ちた旅に出させようとする無慈悲な王様」

 ここに至るまで、何度だろう。

 何度、自分の認識と根本たる考え方を改めなければならなかったか。

 最終的に辿り着いたところ。それは、ここはゲームの世界であるということ。だったらこれは自分の得意分野であるフィールドと再認識し、やられっ放しの現状から攻勢に転じてもいいのではないか。

 そう思えば、驚くほどに気が楽になり、

「……なんだ、このクソゲーは」

 緩み切った口元から、俺自身、びっくりするほど大きな声量の言葉が漏れた。

「なんですって」

 どういった意図で、どういった手法でこれを用意したのかは定かでないが、平淡だったリオが眉根を潜ませるぐらいのことは当然だと思う。

 だが、しかし。

「クソゲーって言ったんだ! クソみたいなゲームってことだ!」

「そんなことぐらいは知っているわ」

「なんだこのプレイヤー置いてきぼりのザルな導入部分は! 聞いてもいない世界設定だけ延々ばら撒きやがってッ!」

「いえ、説明を省かれると分からないと言ったわ。ソウタくん」

「う。そ、そうか……」

 あれ、おかしいな。もう守勢に回ってる。

「違うぞ! そんな話をしてるんじゃないッ!」

「じゃあどんな話だと言うの」

「作り手の自己満足でしかないような設定をぽんぽん並べ立てたところで、誰も付いて来れないだろ! ちょっとは考えろよ。始まって間もないスタート地点に立たされたプレイヤーに対して、役に立つかもどうか分からない設定の数々……これが本当のゲームだったら、俺はコントローラー投げてるねッ!」

「だから、私は細かいところは省くと言ったはずだわ。求めたのは、ソウタくん。貴方のほう」

「くぅ……!」

 違う、違うんだ。落ち着け、俺。なんなんだ、神楽坂リオ。

 別に俺は彼女と仲違いしたい訳ではないんだ。むしろ今日、こんな訳の分からない状況とはいえ、学校でも話題の超絶美少女転校生とお近付きになれたことは素直に嬉しいと思う。思ってるはずなんだ。

 でも、この転校生。意図してかどうかはともかく、ピンポイントに俺が看過出来ない部分をぞんざいに扱いやがる。ゲーマーとしての血が騒ぐ。

「――それに私のほうも心外だわ。これが本当のゲームだったら? 貴方、まさかこの期に及んで、これがゲームではないと思っているの?」

「い、いや、それは……」

「ソウタくん。貴方はこう考えているのかしら? 異界金星は実在していて、自分はそこに迷い込んだと」

 異世界の入り口で塗り潰された家の二階。

 そこから続く、カナカが猛烈に感激した中世欧州の街並み。

 行き交う、息遣いのある、まるで生きた人々。

 それらはみな、金星の天空都市、位相のずれた異世界、異界金星に存在する――という冒険ファンタジーのゲームの中である――

「……ダメだ、分からん。ゲームでも実在する異世界でも変わらん気がする」

 現実の中高生が異世界に迷い込むファンタジー小説は大好物だ。どちらにしたって、この状況はあまりに酷似しているといえよう。

「愚かね。そんな突拍子もない設定の異世界が存在するはずないでしょう」

「そんな突拍子もない設定のゲーム世界を考えたのは誰なんだろな」

 俺が言った尻から、椅子をがたりと蹴り付けて立ち上がり、見る見るうちに顔を赤くするリオの姿があった。どうやら自身の失言に気付いたらしい。ようやく一矢報いた気分。

「じゃあ、ゲームだとしてもいいけどね。どうやって俺の家の二階にこんなリアリティ溢れるゲーム世界を築いたんだ?」

 VR(バーチャルリアリティ)――仮想現実という言葉は昔からよく使われている。だが、それを直に体験したことがない俺でも、今この場に再現されている世界は凌駕しているといっても過言ではないだろう。結局、異世界だろうとゲーム世界だろうと大差はなくて、最終的に疑問はそこに帰結するのだ。

「それは……」

 乱された襟元を正しながら、咳払いをするリオ。

「それは?」

「――私の魔法よ」

 小声ではあったものの、淀みのない彼女の声を聞いた瞬間。

 やっぱりというかなんというか、自分の中でも良く分からないものが弾け飛んだ。

「異世界は否定するけど、魔法は実在するってか! 意味わかんねーよッ!」

「異世界と魔法をワンセットにする考えのほうが分からないわ」

 それこそもはや確認不要の不文律という奴ではないのか。異世界と魔法をセットにすることがそれほど的外れだとは思わないが。

「それともソウタくん。貴方はこう考えているのかしら? 魔法なんて存在するわけがなくて、貴方の家の二階には基礎構築から丹念に仕上げられた中世をモチーフにしたテーマパークのような何かが建設された――と。しかも今日半日で」

 半日というのは、今朝学校に登校した後から帰宅するまでの間を指しているのだろう。あまりにも短い非現実的な工期で建設され、物理な法則や空間を完全に無視したテーマパーク――魔法という可能性を排除した場合、そんな風にまとめられてしまう訳だけれど、

(馬鹿な……)

 だって、それこそ魔法という奴ではないか。

 いや、そうか。魔法か。

「分かった。俺の負けでいい。これは魔法。うん、魔法だ。わぁスゲー」

 そもそも勝ち負けの問題ではなかった気もするけれど、ちょっとそろそろ頭のほうが痛くなってきた。おかしくなってきたといっても過言ではないだろう。まだ隣で煙を噴き上げているカナカを正気に戻させ、お暇しようと立ち上がったところ、

「待って。どこへ行こうというの?」

「え、いや。楽しませてもらったので、そろそろ帰ろうかと。ジェイドスカイ、クリアするつもりだったしさ」

「私、貴方にお願いしたいミッションがあるってお話したつもりだけど」

「ミッションをお願いしたいというだけのじゃないんだ」

「ソウタくん。私は本気なの」

「ぶふっ!」

 突然むせ返った俺に、怪訝な視線のリオ。

 やたら冗長な世界観を聞いた後に設定だといわれ――

 ファンタジー異世界かと思えば、ゲームの世界だといわれ――

 どうやったのかと問うと、最後には魔法の一言。

 そこから真顔で本気と言われ、むせ返る俺を不満げに見る彼女の表情までの一連の流れ。この心境を察して頂ける人がいると実に幸いである。

「勇者役の俺が世界を救いに旅立つとか、そんな話なのか?」

 息も絶え絶えに尋ねると、彼女もまた神妙に戻って頷き、

「そう、そんな話なの」

「……まじで?」

「ええ。ゲーム好きのソウタくんを思って準備してきたのだけれど」

「え、それだけ……?」

 私としたことがついうっかり。などと真顔で言われたところで、彼女には悪いが全然可愛くまとまっていない。素材が美人なだけに余計に残念さが際立つ。むしろ、見る人が見れば、嫌味にすら取れる。

 というか、俺。

 自分がゲーム好きであることを、いつリオに言ったのだろうか?

「というわけで、大人しく巻き込まれて頂けると幸いよ。ミッションがクリアされないと、ソウタくんの家の侵食を解除することもままならないから」

「――アンタなぁッ!」

 階上に展開された異世界を見やりながら、彼女はこう言った。

 ご両親がいらっしゃったら大騒ぎになるところだった。と。

 つまり、こういうことなのか。

「なんつー迷惑な……」

 思わず声にして漏らしてしまったが、本音以外の何物でもない。とりあえず分かったことはリオが用意するミッションをクリアしないと家が元に戻らないということ。早くも辟易としながら、まだ明後日に旅立ったままのカナカの肩を揺すり、今度こそ正気に戻させる。

「……ねぇ。ソウタくんには今、いるの?」

「なにが」

「いえ、なんでもないわ」

 なんでもなくはないだろうという表情で首を振る彼女に、俺は首を傾げるばかりだった。



「――結局どうなったの?」

 革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】の地下アジトを後にし、リオの背中を追って走り抜けた街路を元の場所まで戻る。てくてくと後ろを付いてくるカナカがなおも釈然としない詰問口調だったが、俺だって首を傾げたい気分だ。

「彼女が言うミッションをクリアしないと、俺の家がずっとあのままらしい」

「なんッ、て、迷惑なッ!」

 その憤りには激しく同意する。ちょっと可愛いからって、許されないことは許されないのだ。世間的には、許される範囲が少し広がるかもしれないけれど、基本的に許されることが増えるわけではないのだ。

「で、その神楽坂リオはどこに?」

「別行動。彼女には彼女の仕事があるらしい。そういう『設定』なんだとさ」

「えっと、意味が分かんないんだけど……」

「あと。テレパシーとやらで、俺の脳裏に語り掛けてくることは出来るみたい」

「むー!」

 テレパシーと言った瞬間、またカナカがぶすっと頬を膨らませる。

「な、なんだよ」

「それって、ソウタと神楽坂リオが内緒話できるってこと?」

「お、おう……そうなる、よな……」

 改めて言われてみるとそうだ。そう考えると、なんだか気恥ずかしい感じがしてきた。美少女とふたりきりの内緒のホットラインなんてけしからんにも程がある。

 気恥ずかしさを紛らわすように改めて街を眺めてみた。

 天空都市アイテル――リオが語った異界金星の街。

 先から少し時間が経っていることもあり、夕暮れから藍色の闇へ変わりつつある赤煉瓦の街並み。やや少なくなった行き交う人々を見ても、ここがリオの言うようにゲーム世界の中だなんて到底思えない。

 リアリティがあるといえば、なんだか陳腐にも聞こえるけれど、無視できない確かな質感がそこに存在するというか。一言で言えば、ゲームらしくない。のだが。

(だって、あのとき会話してたもんな。俺)

 リオの背中を追いかけている最中、ぶつかった街の人に謝って、向こうもそれなりの反応を示してくれたのだ。笑いながら「気をつけてね」とか「そんな急いでどこへ行くの」とか。これがゲームの中でいう、いわゆる街の人――NPC(ノンプレイヤーキャラクター)なのだとしたら、ものすごい無駄な作り込み様といえる。

「……タッ! ソウタってばッ!」

「ん、おお。ごめん。どうした」

「どうしたじゃないよー。ぼーっとして。神楽坂リオが言うミッションってなんなのって聞いてるのにー」

「悪りぃ悪りぃ」

 アイテルの街並み、そして、背後の裏路地にある自分の家への階段を一瞥――それから、深呼吸をして背筋を伸ばす。

「この街の郊外にさ。銀の丘って呼ばれるところがあるらしくって。そこに設置されてる灼熱のピラーを地面に差し込んで来い、だってさ」

「ぴらー?」

「大きな杭のようなものだと思うけど」

「ふーん。よく分かんないお仕事だねぇ」

 だいたい、そんな簡単そうなのだったら、本人か、街の人にでも行かせればいいのに。というカナカの疑問は至極もっともで、カナカが煙を噴き上げている状態から復活してくる前に俺もリオにそう尋ねたのだ。

 しかし、リオからの返事もまた至極もっともで、ゲーム世界の住人がそんなことするわけないじゃないと一蹴された。

 それはまぁその通りだ。ぐうの音もでない。

「んで、それをするための軍資金として――」

 アジトを去り際、リオから手渡された麻袋をポケットから取り出す。大きさこそ手の平に乗るほどのものだが、ずっしりとした重たい感触はあった。彼女が「寸志だけ押し付けて危険に満ちた旅に出させようとする無慈悲な王様」をちゃんと演じた証拠でもある。

「百二十リオ受け取った」

「リオ?」

「アイテルの街で使えるお金らしい」

 ぱちぱちと、カナカが大きな目を何度か瞬かせる。もうその時点で言いたいことが何となく分かった。

「……あの、ここって、神楽坂リオが創ったゲームの世界なんだよね」

「ああ」

「自分の名前を通貨単位にしちゃうって、なんだか――」

「言ってやるなよ」

 痛々しい奴って思うのだろう。俺だってそう思う。だから許してやってくれ。そういう設定なんだ、きっと。本当、設定って言葉は便利だ。それだけで全てが許されそうな気がする。

「とりあえずさ。そのピラーとやらをどうにかすればいいんだね。早く行って終わらせよー」

 と、カナカは勢い勇んで街の時計塔のほうへ、つまり地下アジトのほうへ再び歩き出した。

「待て待て」

 前のめりに身を乗り出し、カナカの襟首を捕まえる。

「そっちは街の中心だ。郊外へ行くには、こっち」

 そう言って真逆――俺の家への階段を背にした状態で大通りの左を指差す。赤煉瓦の家屋は変わらず続いているが、時計塔の代わりに隙間から見えるのは緑溢れる小高い丘だった。

「ははっ、ごめんごめん。じゃあ行こう!」

 襟首を掴んでるこっちが引き摺られるように歩き出す。人通りは既に目立たなくなっていて、代わりに民家の明かりに照らされた花窓が一層鮮やかに目に映った。花窓の設置はアイテルの都市条例か何かで義務付けられていて、飾りは住民の趣味や好みに任されている――そういう設定なのだろうと思いながら歩いていると、赤煉瓦の民家が途切れ、白塗りの市壁が現れる。門兵らしき人物はおらず、門は開け放たれたままだった。

「おおー!」

 門と市壁の向こうは緑のなだらかな丘陵となっていて、街路から続く石畳の道がずっと向こうまで続いていた。カナカが感嘆したのは、その光景だろう。確かに風光明媚。カナカが喜びそうなものだ。

「ゲームなら……やっぱりモンスターとか現れるのか?」

「え、そうなの?」

 リオはこれが古典的ロールプレイングゲームの再現と言った。

 ならば、この辺で古典的な雑魚モンスターであるスライムやらゴブリンやらが襲い掛かってきても不思議ではあるまい。そういえば、お金は受け取ったが、何も買い物しないまま出てきてしまった。

「装備品は、詠高の学生服だけか」

 防具は初期装備もいいところ。武器はなし。いわゆる、素手。

「うん。燃えて来た!」

「いやぁ。あたしはなんだか逆に下がってきたけどー……」

 石畳の上を歩いて、ふたり丘陵を突き進む。地を這うような風が下草を弄って、心地よい音色を奏でている。その景色は相変わらず極上のものであった。

 これから夜になろう時間に街を離れようだなんて、現実的にもゲーム的にもセオリーを外した行動といえるが、それに関しておかしいと思わなかったのは、やはり俺たちがどこか舐めて掛かっていた面もあったのだと思う。

 アイテルの街からそう離れていない場所で、シギャアアアアァァァ――と、身の毛もよだつ咆哮と共に、俺とカナカの背後に現れたのは、人の背丈の何倍もある巨体。

「は?」

 影ですっぽりと覆われてから、俺はゆっくりと頭上を見上げた。

 真紅の鱗に覆われ、トカゲの親分ような頭。凶悪に突き出した二本の角。口蓋には燃え盛るマグマを溜め込んでいる。言うまでもない。モンスターの中のモンスター。いや、キング・オブ・モンスター。

「ド、ドドド、ドラゴンンンンンンンンンンンンンンッ!」

「いやああああああああああああぁぁッ!」

 その叫び声の大きさに反して。

 俺とカナカはいともあっさりぷちぷちと、真紅のドラゴンに踏み潰されて意識を失った。



「――おお、勇者よ。死んでしまうとは情けないー」

 酷く棒読みのそれと共にむにゅっと鼻を摘まれて、気付いたその場所はリオがいる地下アジトのあの一室だった。しかもテーブルの上に寝かされていたというこの無造作感。俺が身体を起こすと、隣でカナカも起き上がる。

「死んだら王様の前で復活して、嫌味を言われるのが通例でしょう?」

 起き上がったときからありありと不服を醸し出していた俺の表情に気付いてか、椅子に腰掛けて足を組んだままの姿勢のリオが肩を竦める。

「俺が言いたいのはそこじゃない」

「あら。じゃあ何かしら」

「あのドラゴンはなんだ!」

「何だと言われても……レッドドラゴンよ」

「モンスターの名前を聞いてんじゃねええええええええッ!」

 またか。またなのか、この女。

 俺にクソゲーと言わせたいがためにわざとやっているとさえ思えてきた。

「うん。ソウタ。とりあえず机降りよ?」

 別に自ら望んで机の上に寝ていたわけじゃないのだが。

 くいくいとブレザーの裾を引っ張られてたので、カナカに従い、机を降り、椅子に腰掛ける。最初、ここへ来たときと同じように薄暗い部屋で向かい合うような格好となった。

「で、あのドラゴンは何だ」

「だから、レッドドラゴンよ。モンスターレベル五十の。レベル一の雑魚勇者であるソウタくんがまかり間違っても勝利するなんてありえないわね」

「ふ――」

「ふ?」

「ふざけんなッ! どこの世界にレベル一でドラゴンと戦わせようだなんてゲームがあるんだ!」

「今まさに。ここに」

 手の平でぽふぽふと机の天板を叩くリオ。無論、机がと言っているわけではないだろう。彼女が創造した世界――この異界金星のことを指している。

「それにね、ソウタくん。貴方が言ったことがそもそもの間違いなの」

「どういうことだ」

「考えてみて――モンスターたちの総大将である魔王は勇者の存在を恐れるのに、何故その尖兵として軍団最下層のモンスターを遣わすのかしら。あまりにも愚かしい布陣としか言いようがないわ。レベル一の雑魚勇者でもなんとか太刀打ちの出来るモンスターと戦ううち、勇者は経験を積み、力をつけていくことになる。その結果は明白。軍団は下から壊滅させられて、様々な世界で魔王が討ち取られてきたのよ」

「なるほどな。確実に勇者を仕留めようと思うなら、ラスボス本人が出向くか、最低でも幹部クラスを遣わすべきだと、俺も思うよ」

 確かにその点に関しては、俺も異論ない。ゲームとしてのセオリーの話ではなく、戦略として正しい方向性という意味では、全く以ってリオが語る通りだ。なんとなく分かってきた。彼女が優先させたいのは、ゲームとしてのセオリーではないのだろうと。

 でも――

「分かって頂けたようでなによりだわ。人間と比較して絶対的な力を所有しているが故、生まれる隙に付け入られているの。彼らはそろそろ学習するべきなのよね。自然界の猛獣でさえ目の前の獲物を狩るのに全力を尽くすということを」

「――そんなの、ゲームにならんだろうが! いいんだよ、最初の敵はスライムかゴブリンで! オーソドックスな感じでッ!」

 その瞬間、鈍器でぶん殴られたかの如く、ショックで大きく頭を傾がせるリオ。

「こ、これが惑星地球の日本国でガラパゴス化してしまった島国ロールプレイングゲームに飼い慣らされた人々の残念なところなのね……」

 身構える。いや、身構えざるを得ない。貶めるために惑星まで持ち出してくるとは思わなかったが。

「ソウタくん。ゴブリンとは、亜人種なのよ。総じて、人間より優れた身体能力を持つ亜人が人間と同じ武器や道具を操るのよ。弱いわけがないじゃない」

「お、おう……」

「スライムにいたっては、決まった形を持たない流動的な軟体生物。物理的な攻撃は通り辛く、生物に纏わり付いて窒息死させるなんてお手の物――この二種族がビギナー向けとされるのは、個人的に看過出来ないわね」

 昔、アメリカのB級SFホラー映画にあったのご存知? なんてどうでもいい知識の上積みをしてくるリオ。

「つまるとこ、あたしたちにゲームクリアさせたくないみたいに聞こえるねー」

 机の上に両肘を置き頬杖突きながら、カナカがぼやく。

 空想上でリアリティに拘ったところで、面倒臭いことにしかならないのはちょっと考えれば分かることなのに。

「あのレッドドラゴンは遭遇率の低いレアなモンスターだったのか?」

「いえ。そうね……確かにアイテル周辺には、レベル四十以下のモンスターは存在しないわけだけれど――」

 レアなのかの質問の返答にはなっていなかったが、言うこと欠いて、あのレッドドラゴンは雑魚から数えたほうが早いらしい。なんて酷い場所だ。

「しかし、私は逃走行為を全くの無意味だとは考えていない。逃げることで得られるものもあると思うの。昨今では、戦闘を放棄し、逃げると得られるものは何もないゲームが多いけれど、この異界金星では、敵と遭遇して逃げるだけでも経験値を入手できるのよ」

「ほほう。じゃあ序盤はひたすら逃げ回って経験値を溜めろと?」

「そうよ。飲み込みが早くて助かるわ。自分は勇者である、主人公である、世界で特別なただひとりの存在である、といったプライドはえてして不要。全ては、挫折から生まれる反骨精神。数々の強敵を前に逃走するしかない無力な己と現実に打ちのめされ、地べたを這いずり回り、泥水をすすってもなお、世界を救うという気骨がゲームのみならず、現実世界でも必要なのではなくて?」

 やっぱりこの女、俺にクソゲーと叫ばせたくて、わざとやっているような気がしてきた。

 言っていることは高尚だろう。間違っているとも思わない。でも、リオは単純なことを失念している。本来であれば、そんなゲーム付き合ってやる必要もないのだ。ゲームというものは楽しいからプレイするのであって、苦行の積み重ねでしかないものを誰が遊ぶというのだ。

 ――自宅が元に戻らないという逼迫した理由を除いては。

「くっ……!」

 口にする前から話の展開のオチが読めて、机を叩いて立ち上がる。平淡な表情で見つめてくるリオを一瞥し、椅子を蹴るようにして部屋を後にした。後ろから、カナカが小走りに追いかけてくる。

「くっそ、リオの奴……」

 アジトの地下通路をどすどす歩き、無人宅を出たところで思わず叫ぶ。

「見てろ! ゲーマーなめんなよッ!」

『それは楽しみだわ』

「うおっ」

 叫んだ瞬間にリオの声がして、思わずその場から飛び退く。しかし背後には軽く息を弾ませているカナカがいるだけで、リオの姿はどこにもない。そうか、これがテレパシーという奴か。

「おい、リオ。武器屋はどこだ」

『ソウタくんの家に繋がってる裏路地の真正面よ』

「そうか。ついでに聞くが、灼熱のピラーとやらがある銀の丘まではどれくらいあるんだ」

『距離的な話? 足自慢の陸上選手ならものの数分じゃないかしら』

「現地に着けば、すぐにそれが灼熱のピラーだと分かる代物か? 探したりしなくていいものか?」

『小さな森に囲まれた小高い丘に銀色の小さな塔が建っているわ。入るとすぐに琥珀色の光の杭がある。それが灼熱のピラーよ』

「何するものか知らんが、無用心すぎやしないかそれ……」

『一見、放置されているように見えるものは、それで大丈夫だからという根拠があってそうされているのよ』

「左様ですか」

 ふと気が付くと、カナカが胡乱な目でこちらを見ていた。確か、あの声は俺の頭の中だけに届くという話だったから、変な目で見られても道理だった。

「と、とりあえず武器屋に行くぞ!」

 カナカの手を引っ張って、誤魔化すように街路を下る。夜の帳は色を強めていた。人通りも更に少なくなり、すれ違う人も遠目には表情が読めないほど。花窓から漏れる微かな部屋明かりを頼りに街路の最初の位置まで戻ると、確かに剣と盾を重ね合わせたいかにも武器屋らしい看板が目に付いた。入り口の扉もフルオープンで、煌々と明かりが街路にまで伝わっている。

「うわぁー。雰囲気あるねー」

 そこはカナカに同意だ。

 店に入ると、まず目に付いたのが正面カウンター沿いにずらりと並ぶ大小様々な剣や刀と呼ばれる刃物たち。そして、左右の壁沿いには、マネキンのような木人に着せられた金属鎧の数々。カウンターの中では、ガタイの良い髭面が腕組みして仁王立ちしているし、左手の鎧の前では街の男ふたりが雑談に興じながら商品を物色していた。

「いらっしゃい」

 髭面の店主が眉根ひとつ動かすことなく張りの良い声を上げる。多少の戸惑いの間は俺たちが街では見慣れない学生服姿だったからだろうか。談笑しているふたりはちらりとこちらを一瞥しただけで、また会話に戻っていく。つくづくゲームらしくない。

「ソウタ、何買うの?」

「お前の好きなもの選べ。つっても、予算は百二十リオしかないからな」

「え、えぇー。いきなりそんなの言われても困るんだけど……」

 と言いつつもまんざらではない様子で、まずは防具を眺めに走るカナカ。鉄で出来ている物はそれだけで予算オーバーしているから、せいぜい胸をガードするレザー製のブレストアーマー辺りが関の山だろう。隅にディスプレイされている白いあれなんか可愛いとか言いそうなものだ。

 というか、

「ドラゴンキラー、百五十万リオ。エクスカリバー、一千万リオ……なんぞこれ」

 髭面店主のすぐ横のカウンターに陳列されている大層豪勢な剣にそんな値札が付与されていた。手持ちからすれば、目玉が飛び出るような値段もさることながら、そのネーミングにも違和感を抱く。

『そのドラゴンキラーがあれば、外のレッドドラゴン如き一撃よ』

 と、またも脳裏にリオが乱入してきた。

「それはそうなのかもしれないが……なんで最初の街にいかにも最強っぽい武器が売ってるんだよ」

『どんな街の武器屋にも掘り出し物のひとつやふたつあっても良いものだと思わないかしら。ゲーム上、スタート地点だからって、貧弱な商品しか置いてないのは店主の商売人としての能力を疑うわね。そんな店は繁盛しないって断言できるわ』

「……まぁ、正論だな。でも、これ買うためにモンスター倒してお金貯めてたら、いつの間にか強くなって必要なくなるオチじゃないかこれ」

『あら、どうかしら。いいのよ別に。窃盗も立派なロールプレイのひとつだわ』

「はぁぁぁぁぁぁぁッ?」

 よりにもよって、ゲームマスターのような存在である美少女女子高生が人の道に外れたことを堂々と言ってのけることに面食らう。店主もふたり組の客も、そしてカナカも何事かと視線を寄越した。なんでもないという意味を込めて、全方位に首を横に振って見せる。

『――それともソウタくんは虫も殺さぬ聖人君子ぶりを最後まで見せてくれるのかしら。それはそれで楽しみだけど』

「そんな完全無欠じゃなくてルールに則って遊ぶだけだろ。何もおかしいことはないよ」

『それでも立派なことだと思うわ。まぁ……伝説に語り継がれるような武器が売ってるからって、それがしね』

「どういう意味だよ」

『伝説の剣と呼ばれるには、それなりの所以があるのよ。例えば、過去の英雄が使っていたというのがその際たるものだとは思うけれど――英雄が使用していたものがたまたま青銅の剣だったとして、何かしらを成し遂げた場合、その偉業と一纏めにされて剣も英雄が使用していた剣として語り継がれていくわよね。その青銅の剣が』

「詐欺だろそれは」

 どうしようもなく、ありありと溜め息を吐くリオ。

『違うわ。伝説の剣は伝説の英雄が使用していたから伝説の剣なの。ソウタくんにはこのロマンが理解できないのかしら』

「……その理屈でいくと、実は素手で戦うと物凄く強い武闘派がいて、ドラゴンを仕留める時に青銅製の剣を用いたら、それがドラゴンキラーと呼ばれるようになるよな。ただの青銅の剣が」

『材質的にドラゴンの硬い鱗を貫けるかどうかの疑問はあるけれど、その通りね』

「ン百万も出して、ただの青銅製だったら暴れるぞ俺はッ!」

「――なんだァ、小僧。俺の店の商品にケチ付けるのか?」

 突如として割り込んできたのは、カウンターの中の髭面店主だった。ここに至り、店主が聞いていたという想定で俺の発言だけをピックアップして並べてみると、確かにケチを付けているようにしか聞こえないだろう。

 そういう意味では、髭面店主も割り込んだというわけではなく、ぶつぶつと不名誉な独り言を繰り返す俺に話しかけてきただけなのだけれど。

「ソウタソウター」

 そこに天の助けとも思える声。ナイスだ、カナカ。

 冷や汗交じりの愛想笑いを浮かべて店主に頭を下げ、入り口近くにいたカナカの横に並ぶ。彼女がこれこれと指差して主張するのは、やっぱり隅にディスプレイされていた白いレザーブレストアーマーだった。

「かわいいよね、これ」

 付与されている厚紙の値札には、五十リオの走り書き。予算範囲内に十分収まる金額だ。

「武器はどうするんだ?」

「……武器? うーん」

 防具はすぐ選べても、武器に関しては目移りしているようだった。

 ドラゴンキラーだの、エクスカリバーだの、そういった固有名詞を持つ怪しげな高級品はさておき、店内には様々な武器種が所狭しと並べ立てられていて、剣と一口にいっても片手持ちのものもあれば両手持ちのものもあるし、片手タイプだけでも、直刃のロングソードや刺突に優れたレイピア、曲刀のシミターなど数多く存在する。

 その他、いかにも重そうなハンマーや鉄トゲが凶悪なフレイル、弓矢やブーメランといった遠隔武器まで取り揃えられており、戸惑いの一助となっているのだろう。

「あ」

 そこで、ふと脳裏に過ぎったのは、昨年度の県大会で竹刀を振り回しているカナカの姿だった。小学校中学校と剣道を習っていた彼女はそれを知っていた友人に頼み込まれて、剣道部の大会の助っ人として参加したのだ。全く無名の女子高生、期待の新星現るなど、当時は学内外で大いに持て囃されていたものの、本人は全く意に介さず、今は料理研究部。何度でも言うが、才能の無駄遣いと揶揄されても仕方がない。

「そうだな、これにすっか」

 さすがに俺も女子に実際の刃物を持たせるのは気が引けたので、両手持ちの剣のカテゴリの中から三尺七寸程度――つまり、竹刀と同じぐらいの長さを持つ木刀に目を付けた。彼女に言わせれば、持った感触も使い勝手も異なるのだろうが、そこは慣れてもらうしかあるまい。

 白い値札には、レザーアーマーと同じ、五十リオの走り書き。これならふたつ合わせてもお釣りが来る。

「すみません。これを……」

 木刀とレザーアーマーを持って、再び髭面店主のカウンターの前に立つ。一瞬は「あぁん?」という表情をされたが、いちおうは金を払う気のある客として認識してくれたのか、若干表情を軟化させた。

「ふたつ合わせて、百リオだ。あるのか?」

 店内に陳列されている品々からすれば、最安値の組み合わせであろうことは間違いないが見くびらないで欲しい。俺には、リオから受け取った百二十リオが――

「あれ?」

 ポケットに突っ込んでいた麻袋を取り出した瞬間に激しい違和感。

(軽いな?)

 先の感触と比べてあまりにも。

 麻袋の口を開け、じゃらじゃらとカウンターの上に硬貨を放り出す。傷だらけの木製カウンターの上に転がったのは、十リオ硬貨が全部六枚。しめて、六十リオ。

『――あ。全滅したから所持金の半分頂いたわよ?』

 瞬間、脳裏に滑り込む無慈悲な女の声。

「オマエェェェェェェェッ!」

 モンスターに負けて全滅したら所持金の半分を失う。というルールをメジャーにせしめたのは、どのタイトルだったか。

「くそぉ……始めたばかりでこの仕打ちはないだろ、リオの奴ッ!」

 あまりの惨めさに、カウンターの前で膝を折る俺。

 そこで、店主が意外なことを口にした。

「ンだァお前、ビギナーかよ。ああ、もういい。この六十リオでいいからそれ持って行きな」

「……え。い、いいのか?」

「ああ。出世払いだ。忘れんなよ」

「ありがとう。助かるッ!」

 カウンターの上に散らかした硬貨を集めて髭面店主に押し付ける。彼の憐憫の表情が頭から離れない。出世払いといわれたが、しばらくはこの店に来れないなと思いつつ、木刀とレザーアーマーを抱え込む。まだこの期に及んでも、物珍しそうに武具を眺めているカナカを引き剥がし、足早に店を後にしようとしたとき、

「聞いたか。リオ姫様の話」

 俺たちより先に店にいて、半ば冷やかしのように店内で世間話に興じてる男の片割れの言葉が耳に留まった。

(リオ姫様……って、リオだよな)

「ああ、聞いた。最近この街の賛成過激派組織に入り浸ってるって噂だろ」

「アセンションは非人道的だって、ずっと反対されていたのにな。どうなされたのだろう」

 男たちの話のリオに関わる話はそれだけで終わった。

 この街の賛成過激派というのは、十中八九、革新派次元上昇推進組織【ルシフェル】のことだろうが、しかし――

(賛成……過激派って、なんだよおい)

 それにゲーム中のイベントの話だよな? それ。



「よしッ!」

 今一度、フィールドに立つ。

 すっかり暗くなってしまった丘陵を見渡し、それから忘れないうちにと、件の木刀とレザーアーマーをカナカに押し付けた。

「え、これどうすんの?」

「お前が着てろ」

 まぁ、その程度の武器防具を身に付けたところで、もしまたドラゴンに出くわしたりしたら焼け石に水だろうが。とは、心の中だけに留めておく。

「ええっ、ソウタはどうすんのさ?」

「走る。ちょっとでも軽いほうがいいし」

「えええぇぇっ! そりゃ、ソウタが足速いのは知ってるけどさ!」

 そう。何を隠そう、足にはちょっとした自信がある。

 持久力の問題で長距離走は非常に残念だが、短距離走ならば、中学校までは常に学年トップだった。まぁ、それも高校という様々な人材が集まってくる中では埋没してしまったわけだけれど。

 帰宅部なんてしてないで陸上やればいいのに。と、ことある毎にカナカは言うわけだが、そのときは料理研究部所属の剣道少女を強調してそっくりそのまま返すことにしている。

「全力で走るから最後まで気に掛けてやれないと思う。だから、最後はそいつで自分の身を守ってくれ」

「う……わ、わかった……」

 木刀を地面に置き、慣れぬ手つきでもたもたとレザーアーマーを身に付けるカナカ。その横で俺は屈伸運動を始める。どうせ戦ったところで勝てないのなら、最初から逃げに徹して、灼熱のピラーを大地に叩き込んでやるほうが手っ取り早い。リオに現地の特徴とそこまでの距離を聞いたのはそのためだ。

「おー」

「なに?」

「いや。なんでも」

 少し見とれた。垂れと袴こそなかったものの、木刀とレザーアーマーのセットはかつての剣道少女を髣髴とさせてくれる。

「あ……そういや、別に無理してカナカが走って付いて来ることないのか」

「は?」

「いや、安全な街中で待っててもいいんじゃないかって」

「何言ってるの、あたしも行くからねッ!」

 ようやくレザーアーマーを身に付け終えたカナカが烈火の如く声を張り上げる。素早く降参の意である両手を挙げる俺。モンスターに遭遇して負けたところでリオの前に戻されるだけなのだから、別に構わないっちゃあ構わないのだが、気分的にはよくないよねというだけのお話。

「さぁ――」

 石畳の街路が続く先、夜の闇に包まれた小高い丘を見据える。

「行くぞ!」

「うんッ!」

 地面を蹴り付け、走り出す。石畳をかなり速めのテンポで規則正しく叩く足音が、唯一カナカが付いて来ていることを証明してくれている。モンスターらしき姿はまだない。時折、暗闇に包まれた視界の端の下草が揺れたりすることもあるが、柔らかな向かい風のせいなのか、はたまた自分たち以外の生命のせいかまでは判別つかない。

「だっ……」

「だ?」

 思わず漏らしてしまった俺の一言に、息を弾ませながら、カナカ。

「だっせえぇぇ! もう息あがってるぞ俺ッ!」

 いくら持久力に自信がなかったとはいえ、これはあんまりだ。昔の、中学生ぐらいの自分に顔向け出来ない程に体力が落ちてしまっている。

「あははっ! 帰宅部で運動してないからだよー。明日から陸上部入る?」

「料理研究部なら考えてもいいな!」

 というか、文科系で運動はあんまりしてなさそうなカナカが体力面でさほど衰えていないように見えるのが忌々しい。

 冗談言えるならまだいけるね。と言われた直後、背後から石畳を叩き割らんばかりの大きな足音が迫り来るのに気付いた。

「ソータ――ッ!」

「なんだ!」

「来てるッ!」

 後から思えば、何がと問うまでもなかったが、その質問でさえ最後まで言うことができなかった。

 肩越しに振り返った瞬間、視界を埋め尽くしていたのは、大きな鉤爪を備えた赤い鱗の丸太のような腕。ゲームである以上、表現として正しくないのかもしれないが、先に俺たちをゲームオーバーにさせた同種のレッドドラゴンだった。

「このッ!」

 鉤爪が石畳ごと、地面を抉るより前に横っ飛びで回避。レッドドラゴンと街路を挟み、俺は右へ、カナカは左へ。多少体勢は崩したものの、素早く駆け出せる状態にあった俺たちは互いの顔を見て頷き、まぬけにも爪を地面に食い込ませてもがいているレッドドラゴンを尻目に再び走り出す。

「おいおい、人間の底力ってすごいな!」

「だよね、あたしもそれ思ってたところ!」

 街を出てすぐに息切れしそうになってたはずなのに、分かりやすい危機が目の前に現れるや否やの全力疾走。科学的に言えば、アドレナリンの分泌がどうのとかいう話になるのだろうけれど、そんなのはどうでもいいぐらいに身体が軽い。羽根が生えたように草原を駆け抜ける。

 そのときは既に遥か後方となっていたが――ふがふが呻いていたレッドドラゴンがようやく爪を引き抜いたようで、追走を開始する。だが、時既に遅し。もうすぐ目の前で街路は森――と呼ぶには少し寂しい感じの――雑木林に突っ込んでおり、その隙間からは、リオが言っていた塔と思しき人工物の陰影が見えた。

「あそこを抜ければ!」

「危ないッ!」

 伏せてというカナカの叫びに応じ、咄嗟に前かがみに頭を下げる。ぶんっ、と勢いよくカナカが木刀を振り回し、続けて、耳の奥がむず痒くなるような打撃音が夜空に響き渡った。

「おおぉ……」

 獣の悲鳴が聞こえて、草原に犬のような影が転がる。二、三回バウンドして、四足で着地。まさかこの場において、あの影がただの犬ということはあるまい。最低でも狼か、人狼と呼ばれるウェアウルフの類か。いずれにしても、巨体で機動性に欠けるあのレッドドラゴンよりも遥かに厄介な相手だ。

「やっぱ、クソゲーじゃねぇかッ!」

「ソウタ、足が止まってる! 走って!」

 そういうカナカは木刀を正眼に構え、草原で身を低く屈めて今にも飛び掛らんとしている獣に向き合っていた。

「ここは私に任せて先に行けとか言うんじゃないんだろうな! それは男の役目だぞ!」

「言うつもりだけど、男も女も関係ないし!」

 死ねば、リオの前に戻されるだけだし、そんな真剣になるほどのことでもない。たかだかゲームの中の出来事。けれど、そう思う一方、どこかでこの状況に対して高揚感すら抱いていた。

 それは、カナカにしても同様のことだったらしい。こんな暗がりの草原の中、汗を滲ませながらも笑っている。

「――ったく! 死ぬなよ!」

「神楽坂リオの顔、平手打ちしとく!」

「人の話聞けってッ!」

 草むらから飛び掛って来た獣をカナカが叩き落とすのを見て、森へと転がり込む。あれでもたもたしていると、今度は振り切ったレッドドラゴンに追いつかれてしまうから、さっさと切り上げてどこかに避難して欲しいところだ。

 森の中は石畳の街路が途切れており、丘ゆえに緩やかな傾斜に加えて、所々木の根っこが顔を覗かせていたりして、コンディションは最悪だった。

 というか、

「登りは想定してなかったくそッ!」

 目的地の銀の丘と呼ばれる場所からすれば、容易に想像付いたはずなのに己の浅はかさを恥じ入る。木々が増えたことで、むせ返るような緑の匂いが増す。いよいよ本格的に足が引き攣って来た。前に進もうとする意思と上半身とは裏腹に、下半身が徐々に遅れを見せ始めている。

「――ッ!」

 偶然、空気を求めて顎を上げたときに見えたそれと、鼓膜に届いた不快で耳障りな羽音はどちらが先だったろうか。

 人間の拳大ほどもある複数の球体――頭部、胸部、腹部の三つが連結し、透明の翅が細かく振動して宙に浮かせている。頭の左右にある複眼と、その間にある単眼、更には巨大な触覚さえも、全てが俺を捕捉しているように蠢いていた。

「ははっ、こりゃキッツイわ」

 ゲーム的に表現するのならば、キラービーやジャイアントビーとでも呼ばれるのだろう。

 空想上のトカゲ親分や、犬や狼などの獣ならまだしも、昆虫の類は本当に見た目が厳しい。リアルを追求しすぎるとゲームがつまらなくなることは往々にしてあるが、これはこれで大概だ。視覚的な嫌悪感が半端なく、うぞぞと背筋を駆け上がってくる悪寒に抗し切れずにいると、ホバリングを解除した蜂はふわりと一段高く浮き上がり、刹那、尻から短剣ほどもある針を突き出して、直滑降に襲い掛かってきた。

「うおおお、いきなりかよッ!」

 頭を低くして、脇の草むらに飛び込む。頭上スレスレを滑空していった蜂は反転し、獲物を見定めるように再びホバリング。睨み合うような愚かなことはせず、即座に猛ダッシュ。

(ここまで来たんだからぜってー逃げ切るッ!)

 ここで成し遂げないと、身を挺して道を作ってくれたカナカが浮かばれない。

 いや、死んでないけれど。

「見えたッ!」

 丘の向こう、先端に近い部分だけが見えていた塔が、今や学校の校舎と同じ三階建ての大きさであること、一階部分にアーチ状のエントランスがあることまで視認出来るところまで来ていた。リオが言っていた琥珀色の光とやらも銀の塔をライトアップするように漏れ出ている。

 しばらく付かず離れずで後ろに張り付いていた羽音が突然大きくなった。真夏の夜、耳元を飛び回られる蚊の不快感など比ではない、遥かに上回る恐怖感が覆い被さろうとする。

「あ」

 次の瞬間、下草の隙間から浮き出た木の根に足を取られ、一瞬の浮遊感。ホームベースに突っ込むクロスプレーよろしく、顔と上半身で地面を滑る。そして、それが不幸中の幸いとなり、再び目標を見失って頭上を通過していく蜂。

「くそっ」

 唾棄しながら、それでもこの好機を逃さなかった。蜂が静止し、旋回してくるまでの僅かな間に立ち上がった俺はまた走り出す。俺を見失って低空に留まっていた蜂の上を跳び越して、一気に駆け抜けてやる――

「げぅ」

 けして小さくはない昆虫の真上を飛び越えようと勇んだまでは良かったが、両足の状態が完全に復帰していないことに加え、また違う木の根に足を引っ掛けてしまい、重力を断ち切れず、ふわりと中途半端に浮かび上がってしまった。

 その結果。

 ぶじゅり、と。

 非常に生々しい音が木々の間をすり抜けていく。

「うぅ……あぁぁ……」

 着地も無様に、また上半身から滑った。ただし、今度は胸の辺りにぬるりとしたえも言われぬ奇妙な感触があった。それが潤滑油となり昇り傾斜ながら、一度目のヘッドスライディングよりも距離を若干延ばすことになったなんて情報はどうでもいいだろうか。

「うぅ……リオ……」

『大金星じゃない、ソウタくん。一気にレベルアップよ』

 意外にも呼びかけに応えてくれたリオ。

 急がなければならない状況であるのは重々理解しているが、どうにも起き上がる気になれない。

 胸の下には、ぺしゃんこになって体液を撒き散らした蜂がいるはずだから。

「オマエ、ここまでリアルにする必要ってないだろ……」

 そう呻いた直後、

「――うるせえええええええッ!」

 俺の耳の奥でけたたましいほどのファンファーレが鳴り響く。

『ソウタはレベルが上がった。力が三ポイント上がった。体力が二ポイント上がった。賢さは上がらなかった』

「恣意的だなおい!」

 ああ、そうさ。学校の勉強なんざ、平均点以下もいいところだ。転校生のクセによく知ってる。登場人物の王様とゲームマスターを兼任しているような奴が、システムメッセージまで担当しているとは、よほど予算が無いのだな。

 やけっぱちに両手を地面について身体を起こす。地面にはべっとりと形容し難い色の体液と潰した蜂の死骸が広がっていたが、幸いにも服には付着しない仕様らしい。そこは非常に助かった。蜂には、ちょっとかわいそうなことをしたと思っていると、煩いファンファーレの終了と共に蜂の死骸も消滅する。

「モンスターは……倒せば、当然か」

 あらぬ感傷を振り切り、再び走り出す。目的地はもうすぐそこだ。蜂以外のモンスターも見当たらない。丘の上に辿り着いたときにはほうほうの体で、思わずそこに座り込んでしまった。

「あぁー……つっかれた……」

 来た道を振り返るが、木々が鬱蒼としているだけでそれを揺らす者も現れる気配はない。ドラゴンも獣も追いかけてこないところを見ると、カナカはまだ森の入り口で戦闘中かもしれない。だとしたら、倒すことは出来なくても、実経験を元に敵の攻撃を見事に捌いているというところか。もしそうだとしたら、両手持ちの木刀を選んだ俺の判断は的確だったということだけれど。

「あんまり待たせるのもな」

 動くことを拒否する身体に鞭打ち、琥珀の光が溢れる塔へ進む。坂道の途中からアーチ状の入り口が見えていたが、一階部分は東西南北全ての方向にその入り口が設けられており、筒抜けとなっていた。

 光が溢れているのは、そのフロアの中央部分から。そこには、井戸のような竪穴が設けられており、申し訳程度の金属製の手すりが周りを取り囲んでいる。竪穴自体は暗く、底は窺い知れない。

 そして、肝心の光の発信源――灼熱のピラーとやらは、俺の腕ほどの大きさもある無装飾の白い杭で、竪穴の真上、胸の高さ辺りに超然と浮かんでいた。

「リオ。この穴にピラーを投入すればいいんだな?」

 リオのミッションはこの灼熱のピラーを地面に差し込んで来いというものだった。地面に差し込めというのは、ものの例えであり、この現場を見た今では竪穴の中に放り込めということなのだと理解する。

『ええ、その通りよ。それで世界召喚塔の扉が開く』

「じゃあ、やるぞ」

 恐る恐るピラーに手を伸ばし、掴む。これだけの光を発しているにも関わらず、熱は一切感じない。むしろ、ひんやりと冷たい。だけど、それを持った手から光が伝染するかのように、何かが俺の中に流れ込んでくる、そんな錯覚があった。

 手に力を込め、宙に浮いているそれを竪穴の中に放り込んでやろうとした瞬間、脳裏のリオが大きく息を呑んだ――気がした。

「どうした?」

『……なにが?』

「ゲームマスターは邪魔しないよな」

『見くびらないで欲しいわ』

 問い掛けにリオは惚けてみせたが、それはミッションがクリアされそうで悔しいというよりも、依頼したはずの彼女が「本当にやるの?」という不思議なニュアンスにも解釈できた。

 とはいえ、これを成さなければ、俺の家は元に戻らないらしいし、カナカの――しているはずの――奮闘も水泡と化す。

 改めて、ピラーを握る手に力を込めた瞬間、

『ソウタくん、後ろッ!』

 おそらくは、中立のはずの彼女の声に耳を疑いながらも振り返る。そのときには俺自身も気配を感じていて、直感的に上だと察知していた。森の手前で遭遇したあの獣だった。気配を殺し、今まさに上段から凶悪な爪を振り下ろそうとしている瞬間。それを見て、視界が狭くなり、思考が沸騰したまでは覚えている。

 コイツがここに居るってことは、下のカナカを押し退けてきたってことだ。

 死んだら復活するだけの話かもしれないが、リオとカナカの無用な闘争の種の蒔いてしまったってことだ。

「邪魔するな、って――」

 半歩、身体を横にずらす。じゅっと焼けるような痛みが走って、獣の爪が右頬を掠めた。

 ピラーから手を離し、拳を握り締める。

「言ってるだろうがぁぁぁッ!」

 爪による攻撃をかわしたことにより、無防備な体制で深く潜り込んで来た獣の肢体。伸び切ったその右腕を掻い潜り、顔面に叩き付ける。さながらクロスカウンターのような一撃。

 高揚していたその瞬間は変だと思わなかったが、俺の右拳はピラーの光が乗り移ったように光り輝いていて、瞬時に獣の頭部を燃え上がらせた。もんどり打って転がっていく獣を尻目にピラーを引っ掴み、竪穴に放り込む。

 それはここまでの苦労を考えれば、あまりにもあっさりとしすぎていて。拍子抜けにも似た思いに駆られ、仰向けに身を投げ出した。

「終わったぞおおおおおおーッ!」

『お疲れ様、ソウタくん』

 復活した獣が襲い掛かってくることも考えられたが、ミッションは達成したはずだ。むしろ、殺されたほうが帰り道のショートカットにもなる。幸いにも所持金はゼロ。失うものなど何もない。ざまあみろ。

「ゲームマスターはイチプレイヤーに肩入れしていいものなのか?」

『……何のことかしら』

「何のことかって――いや、まぁいいわ」

 言いかけたが、言葉を飲み込む。

 最後の最後で助けてくれたのは確かだが、毅然としたリオの口調から察するに、触れないで頂きたい事項のようだ。よく分からないけれど、そういうことにしておこう。

『にしても、たいしたものね。ソウタくんには魔法使いの素養がありそうとは分かっていたのだけれど』

「ほう。ゲームのシステムがそう判断したのか?」

『ええ。でも、レベルアップしても賢さが上がらないものだからどうしたものかと思っていたら、魔法剣ならぬ魔法拳とはね。【フラムマ】の魔法を拳に纏わせるという力技でカバーするなんて、私は思いもしなかったわ』

「我ながら、世界を狙える右だったな」

 褒められてる気がしないのも、もういい。リオはいちおう感心しているみたいだし、目を瞑ろう。

『――ともかく。これで、ひとつ目クリア。素直におめでとうと言わせて貰うわね』

「は……?」

 彼女は今、なんと言った。

『ひとつ目クリア。ピラーは全部で三本あってね』

 うんぬんかんぬん――

 頭の中でリオの講釈が続いていたが、俺の脳は理解を拒否していた。

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