神楽坂リオの世界召喚塔
しび
プロローグ 神楽坂リオという女
視界は、真っ暗だった。
それはまぁ、自分が目を閉じていたからに他ならないのだが、それにしたって最後の記憶が昨夜ベッドに潜り込んだものでないのが気にかかった。背中に感じる感触がまた微妙に異なるのも違和感に拍車を掛ける。これはベッドパッドと敷布団ではなく、リビングのソファのような……
「ソウタ……ソウタァッ! 目を開けてよ、ねぇッ! ねぇってばッ!」
そして、傍では、聞き覚えのある声の女子がわんわんと喚き散らしていた。
そのせいで気がついたと言っても過言ではないぐらいの大声で。というか、右腕に取り縋られているようで、同時にぽたぽたと熱い雫が右手の甲に降り掛かっている。それはもう際限なく。
ソウタは無論、俺の名前だ。
が、しかし、
(そういえば、俺……?)
まず、はっきりと思い出したのが、放課後だったということ。
今日の授業がつつがなく終わり、部活動組に別れを告げて、校門をくぐり、下校中だったこと。
そして、それから――
「んん……」
かさかさに乾いた唇がようやく動いてくれた。声が漏れる。
それだけで女子の泣き声が止み、辺りにさっと緊張が走ったことが分かる。
帰り道の歩道。そこに乗り上げてきた白いワゴン車。それを見て、加速した思考と躍動した身体。だけど、それらを以ってしても間に合わずに、俺は――
「ああッ!」
目をカッと見開くと同時、上半身を跳ね上げる。幸いにして痛みを返すような箇所もなく、どこもかしこもスムーズに動いてはくれた。
そうだ、突然突っ込んできたワゴン車に正面から轢かれたんだ。
蘇ってきたその恐怖に叫びだしそうになったところ、まだ霞んで見える視界に映ったのは、涙と鼻水と、なんだかそのようなもので顔をぐしゃぐしゃにしている幼馴染みの顔だった。
「……なんて顔してんだ。カナカ」
「ソウ、タ……?」
美人というほど際立った顔ではないけれど、丸みを帯びた幼い顔立ちはどちらかといえば可愛らしい部類に入り、クラス内に留まらず、学校内でも隠れファンは多いというが――そんな少女が目を真っ赤に、顔中かぴかぴにしていたら、さて何人の男子が引いていくことやら。
おかげで、叫びだしそうになるところを寸前で堪えることが出来たけど。
「お医者様も心配することないって仰っていたので、大袈裟に考えることはないと思っていたけれど。心配させてくれるわね」
リビングのソファという最初に感じた感触は実に正しく、幼馴染みのかぴかぴ顔に吹き出しそうになりながらも、ここが自宅のリビングであることを確認したのだが、俺が寝かされていた、そしてカナカが噛り付いていたソファから少し離れた部屋の隅、窓際で腕を組みながら、ぱたぱたと苛立たしげに足踏みしているもうひとりの少女がいた。
(え、えぇと……)
幼馴染みのカナカとは違い、そう、馴染みがない。
夏休みが明け、二学期になってうちの学校の、隣のクラスに転校して来た――
「ちょっと、神楽坂リオ! アンタ、言い方ってものがあるじゃないのよッ!」
突き出した人差し指を振り回し、先程までと変わらぬ声量でカナカが叫ぶ。
神楽坂リオ。
確か、そんな名前だった。並みの男子――つまりは俺のこと――なら気圧されてしまうぐらいの超絶美人で、高嶺の花過ぎて、脳裏に名前を焼き付けておくことさえ無礼に思えた。
(……ような気もする)
駄目だ。
事故の衝撃か、後遺症か。なんだか思考が上手くまとまらない。
記憶の混乱を誤魔化すように、全身を眺め回してみるが負傷したと思しき箇所は見当たらず、拳を強く握って徐々に弛緩させてみたり、首や肩をごりごり回してみても、特に異常は見られない。無用に混乱を深める。
自分でいうのもなんだけれど、車との接触事故を以ってして無傷とはどうなのだろう。突進してくる鋼鉄の塊を跳ね返せるだけの強度が自分にあるとは思えないし、そもそも搬送されて気付いた先が病院ではなく、自宅のリビングというのも腑に落ちない。
昨今、不要なまでに救急車出動要請が相次いでいるとニュースで聞いたけれど、まさかその絡みで出動拒否されてしまったのだろうか。誰の目にも明らかな交通事故のはずなのに。
そして。
何故、特に深い交流のない超絶美少女転校生がまるで旧知の仲のように俺の家にいるのか――
「そうか、分かったぞッ!」
「ソ、ソウタ……?」
「これは夢なんだな、そうだろ!」
刹那。
ぶわっと、カナカの瞳に涙が溢れ、
「わーん! やっぱりソウタがおかしいよーッ!」
感極まって飛び込んできた彼女の頭がみぞおちに直撃し――俺は再び意識を失うこととなった。
翌日。十月二十五日。
その放課後。
「じゃーなー、ソウタ! また事故んなよー!」
「お、おう」
同じクラスの爽やかイケメン、サッカー部の副キャプテン石井君が白い歯を輝かせながら朗らかに言い放ち、グラウンドに消えていく。その背中を見送りながら靴を履き変え、学校の正門に向かう並木道をとぼとぼと歩くが、なおも拭い切れない違和感を言葉に出来ずにいた。
(こんなモン、なのか?)
あえて表現すると、そういうことだ。
それはクラスメイトの反応にしてもそうだし、暴走ワゴン車と接触した割りに全く無傷の自分の身体、それから事故の後処理に至るまで。
『詠憐高校二年四組の生徒が交通事故に遭った』
その事実は昨晩のうちに学校関係者の間を駆け巡ったようだが、ただ、それだけだった。本当にそれだけだったかどうかは定かではないが、少なくともこちらからはそうにしか見えなかった。
断っておくが、腫れ物のような扱いを受けたいわけではない。
断っておくが、生還を果たした英雄的扱いを受けたいわけではない。
――けど、あまりにも軽すぎやしないか。
それが当事者である俺、桜庭ソウタの率直な感想だった。
交通事故という奴は日本のみならず、世界中でほぼ毎日、押し並べて俯瞰してみれば、不幸なことに星の数ほど起こっているのだろうけれど、こと自分自身や周りを見渡してみれば稀有なことであったし、何より俺にとって初めての経験――もちろん二度目以降の経験は不要――だから、比較の上で語ってるわけではないのだけれど。
今し方のイケメンサッカー部だけではなく、それはもう一日中だ。登校時から放課後まで、クラスメイトも、そして先生にいたっても、とにかく軽い。言葉そのものは異なれど、「事故? 鈍くさいなーオマエ。気をつけろよ」と最後に(笑)を付与されるような感じ。
そういった諸々の違和感を口にした瞬間、やっぱり特別扱いを以って構ってほしいのかと言われそうなので、個人的なもやもやを抱えつつ、ようやく放課後。
(はぁ……まぁ、いいか)
それ自体、どうにもならないことだし、ましてや、どうにか欲しいわけでもないし。ならば、昨日のようなことにはならないよう、細心の注意を払って家に帰り着き、今日こそ邪神カーディスを倒してゲームクリアを遂行するまで。
と、吐き出されていく生徒の姿も既に疎らになりつつある正門に差し掛かったとき――
「ソータッ!」
ばちんっ、と。
荒々しい平手が俺の背中に直撃する。息が詰まってむせ返る。ひとしきり咳き込んだ後、恨みがましく後ろを振り返ると、両手を挙げて無抵抗のサインを表現するカナカが立っていた。
「ご、ごめん。そんな強くしたつもり、ないんだけど……」
「お前……いつになったら自分が馬鹿力って、自覚してくれるんだ?」
「あー、また言った! 怪力だなんてひっどーい!」
「そこまでは言ってねぇだろ」
思ってはいるけれど。と、心の中だけで付け加えて、俺は歩き出す。足音と気配でカナカが後に続くのが分かった。
「部活は?」
何を隠そうこの幼馴染み。似合わないことに料理研究部に所属している。
女子とは思えないその力や抜群の運動神経を生かして、どこぞの運動部に所属したほうがきっと我が校のためになると常日頃から思っているのだが、かわいいお嫁さんになるための修行と、これまた似合わないことを豪語して憚らない。
「今日は休ませてもらったー」
「なんで」
「だって、ソウタがまた轢かれないか心配だし?」
まただ。
この幼馴染み――黛カナカでさえもか。
いや、なるほど。再び交通事故に遭わないよう、気を遣って帰路付き合って貰えるのは嬉しい。本当に嬉しいことだ。
確かに十六年間付き添ったこの身体。昨日放課後以前と以後で取り立てて変化はない。暴走ワゴン車に正面から突っ込まれて怖い思いをしたなどと訴えたところで誰も信じてくれないだろう。
だけど、幼馴染みでさえもそういう態度になるのかと、まるで自分の信じていた感覚が世界から切り離されたような不快感に包まれる。
「……どうしたの、ソウタ?」
後ろに付いていたカナカがいつの間にか並んで歩いていて、小難しい顔をして覗き込まれていた。
「ん、なんつーか。軽いんだよな」
「軽い?」
カナカになら言ってもいい気がした。
そう思うと途端に気が楽になって、あれだけ憚れていた言葉がするりと喉を通過していく。
「ああ、嘘っぽい。みんな」
そして、自分も。
いや、俺に関しては、ぽいどころの話ではない。車に当たられてすり傷ひとつないなんて、まるで嘘だ。嘘の極みだ。
「みんな、ソウタに気を遣わせないよう、いつも通り振舞ってるだけだよー」
「そうだろうか……」
カナカにそう言われると――そんな気がしないでもない。
けど。
「む」
校門をくぐり、通学路となる緩やかな坂道を下りきると、二車線の国道に出る。車の交通量がそれなりに多い国道を横断すれば、すぐそこが自宅。ドアトゥドアで十分と掛からない。詠憐高校――通称、詠高を選んだのは、自宅から近いというありがちな理由も半分ぐらいは占める。
昨日、ワゴン車と接触したのは、国道を横断してすぐの場所。つまりは、もう目の前。ハンドル操作を誤ったという見識だったそうだが、左折しようとどれだけ急いでたのかって話だ。
「……ッ!」
意識なんて、これっぽっちもしてなかったのに。
いざこの交差点を臨むと、少しばかり鼓動が跳ね上がった。信号待ち。車が行き交う国道の向こうを見ていると、えもいわれぬ不安に足が竦んでしまう。身震いもした。秋から冬へと向かう最中とはいえ、今日はそんなに寒いわけでもない。
歩道から突き出した電柱に立てかけられた花束は昨日以前からあったものか。
それとも、まさか、俺のためか――
「ソウタ」
もしかしたら震えていたかもしれない汗ばんだ手に暖かい感触が重なる。
気付くと、カナカに手を握られていて。つまり手を繋いだ状態にあって、びっくりして振り解こうとしたけれど、カナカの握力はそんな程度で払えるほどやわではなかった。
「なにー。照れてるの?」
「ばッ! て、照れてなんか! おおお前はいいのかよッ!」
何がー? と分かったような分かっていないような顔で、のほほんと呟くカナカ。これを誰かに見られたらからかわれたり、冷やかされたりするだろうって言いたかったのだが、別に彼女はそんなことお構いなしと言わんばかりだった。
「行くよー、信号変わる」
交差点に侵入した歩行者は俺たち以外になく、数多の車が見守る中、両手を大きく振って横断していくカナカ。つられて繋がれた俺の手もカナカの動きに追従する。その動きがまるで小学生の遠足を髣髴とさせるようで、運転手たちにどう見られているのか考えるとちょっと恥ずかしい。
(いや、これはちょっとどころじゃねーわ……)
余計なことを気を回しているうち国道の横断歩道を渡りきり、正面から追突された場所も通り過ぎる。前からも、国道側の後ろからも、さしあたって車が来ないことを確認してほっと一息。
「ほーら、今日は何もなかった」
手を離して、にぱっと笑うカナカ。
「本当に、お前って……」
あっけらかんとして、それでいて、男前というかなんというか。
こちらがそんなことで感心している間に、彼女の興味は道を挟んで向かいにある店に移っていた。
「ソウタ、コロッケ食べる? コロッケ」
彼女が指差すのは、これまた馴染みの精肉店。軒先の黄色いテントには『さくら屋』の白い文字が浮かぶ。ガラス張りのショーケースにはもちろん鮮肉が並んでいるが、帰り道の生徒を狙い撃ちにした持ち帰り用のコロッケやからあげなども置いている。
詠高の生徒に人気なのは言うまでもなく、カナカも大ファンだった。信じられないことに部活の帰りに毎日買い食いしてる。彼女が運動部だというならまだしも、文科系の、しかも料理研究部だ。それでいて、家に帰ってからしっかり夕食を食べているらしい。なのに、あの小柄で華奢な体格。カナカの体内はブラックホールでも渦巻いているのかと思う。
「や。今日はいいわ」
「えー。オジサンとオバサンも心配してると思うのにー」
かもしれないが、なんだかそんな気分でもない。
さくら屋から三軒隣、白い二階建ての一軒屋。そこが俺の家だ。ちなみに、カナカの家はここから更に五分ほど住宅地を入っていったマンション三階の一室になる。
「……ふう。大冒険だったぜ」
「なーに言ってんだか」
茶化すようにカナカが笑ったが、俺はあながち冗談でもない気分だった。
胸の高さほどの鈍色の門を押し開ける。父親の趣味で決定した石畳のアプローチの上を歩き、玄関の鍵を取り出そうとしたところで、後ろにぴったり付いてるカナカに気付いた。
「……どうしたよ」
「え、どうせオジサンもオバサンもいないんでしょ。お邪魔して帰ろうかと」
うちの母親の「カナちゃんならいつでも大歓迎よー。ソウタの相手してあげてね。むしろお嫁に来てねー」など、洒落にさえなってない言葉が脳裏を過ぎる。
「いいけど。俺、今日は『ジェイドスカイ』やるぞ?」
「いいよ。ソウタがゲームしてるの見るの楽しいし」
「いいよって、お前も買ってたじゃねぇか。クリアしちまうぞ」
嗜む程度にしかテレビゲームをプレイしない彼女は、聞くにまだ序盤もいいところだった。俺が今日こそ倒そうと意気込む邪神カーディスとは、展開から察するにシナリオのラスボスと思われる存在である。
このままカナカがうちに居座ったら、壮大なるネタバレになってしまうのだが、そんなことも意に介さず、彼女は既に通学用の黒い革靴を脱ぐ準備まで始めていた。
(本人は良くても、俺は遠慮するんだけどなぁ……)
人の楽しみを奪ってはならない。いちゲーマーとしての矜持である。
カナカが帰宅してから、夜にプレイするかと自分に折り合いをつけ、手にしていた鍵を玄関のドアに差し込み、捻る。いつもなら若干の抵抗を以ってカタンと鳴るはずのそれが、すかっと全く手応えのないものだった。
「あれ」
「どうしたの?」
「……鍵が掛かってない、のか?」
まさか今朝出るとき、閉め忘れたのだろうか。嫌な悪寒が背筋を駆け上がり、すりガラスの入った木製の扉を力いっぱい開いて――
「おかえりなさい。遅かったわね、ソウタくん」
と。
ご丁寧に靴を脱ぎ、上がり框で仁王立ちしている超絶美少女がいた。日本人離れしたブロンドに近い栗色の長い髪に、太陽の光を知らないような白い肌で、赤いリボンタイと黒を基調としたブレザーの詠憐高校女子制服を着用している奴なんて、この世にひとりしかいない。
「あー! 神楽坂リオ! アンタ、人ん家でなにしてんのッ!」
カナカのその口ぶりはまるで自分んちみたいだな。と心の中で思いつつ。
「神楽坂、さん? いったい、俺んちで何を……?」
「まったく。ソウタくんのご両親が不在で良かったわ。確か……ご両親揃ってお仕事で海外に出ていらっしゃるのよね?」
もはや、超絶美少女が俺の家を訪ねてきて舞い上がるような場面でもなかった。
状況から察するに、神楽坂リオがうちの家の鍵を開けて上がり込んだのは間違いないだろう。物色していた風ではないが、少なくとも家には誰もいないであろうことを知っていた口ぶり。
両親が不在――そう、海外出張――であることなんて、彼女はもとより、誰にも喋ったことがなかったはずだ。
なのに、何故。
「ご両親がいらっしゃったら大騒ぎになるところだったわ」
そして、彼女は自身の背後を肩越しに顎でしゃくり示す。上がり框の向こう、右はリビングやキッチンに続く廊下。左は二階へと続く階段。
「え」
思わず息を漏らす。
二階への階段は、あった。
変な言い方だとは思うが、あった。より正確に、途中まであった。
中ほどから消失してしまっているのだ。もやもやとした白い光に包まれて、その向こうには色とりどりの賑やかな世界が広がっていた。
「いやいや……どういうことだよ」
脳が見たままのものの処理を拒否したみたいだ。
家の二階部分が消滅して、牧歌的おとぎ話のような光景に置き換わっている――とでもいえばいいのか。家の階段がまるで世界名作劇場への入り口のようになってしまっていた。
「さて。どうしたものかしらね。これ」
そんな異常な光景を前にしても。
神楽坂リオはいつも通りと思われる、平淡な口調で呟いた。
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