04 小さな秘密と大きな秘密

「はぁい、ここがユーリのマンションでございまぁす」


 まったくもって覇気のないユーリの声を聞きながら、瓜子は思わず「うわあ……」と感嘆の声をあげてしまう。


 三鷹の駅から徒歩で十五分。閑静な住宅街のど真ん中に位置する、五階建てのマンションである。

「高級」の冠をつけるには一歩およばないが、とにかく大きくて外観も小洒落ている。オートロックにカードキー、監視カメラにガラス張りのエントランスという近代的な造作も、下町育ちの瓜子にはただただ目新しいばかりだった。


「えーっとね、うり坊ちゃん、入る前にひとつだけ言っておきたいことがあるんだけどぉ……」


 ガラス扉の前でユーリがそのように言いかけると、後方にたたずんでいたサキがまたその大きなおしりを蹴りあげた。


「家の前でぐちゃぐちゃ喋んな。つもる話はくつろいでからにしよーぜ、牛」


「痛いなぁ! ぽんぽん気軽に蹴らないでよっ! ……それに、牛じゃないからね!」


「あ、サキ選手も寄っていかれるんすか?」


 喜びを隠しきれずに瓜子が尋ねると、サキは言葉少なく「まあな」と答えた。


 東京は恵比寿の試合会場から三鷹のこのマンションまで、電車でおよそ二十分、その間にスターゲイトと瓜子にまつわる話はすべて説明し終えている。


 年季の入ったスカジャンに、だぶだぶのカーゴパンツという軽装で、額に包帯を巻いたサキ。

 ジャージの上にベンチコートを着て、トランクケースをひきずった瓜子。

 そして、もふもふのボアコートにぴちぴちのデニム、ふわふわのニットキャップに大きな黒縁眼鏡という格好で、巨大なボストンとサキのリュックまでかついだユーリの三人、という組み合わせである。


 救急病院に立ち寄ることになったサキに付き添ったため、すでに時刻は0時を回ってしまっている。額の生え際に負ったサキの裂傷は、七針も縫うほどの深手であったのだ。


 何にせよ、立ち話に興じるべき時節でもない。三人は、一月の寒空の下から薄暗くて人気のないエントランスへと入館を果たした。


「……事業に失敗した両親が、故郷の北海道に都落ち、か。まったく気の毒な話だけどよー、それで住む場所の世話までやいてくれるなんて、スターゲイトってのはずいぶん親切な会社なんだなー」


 エントランスをずかずかと横断しながら、サキがつぶやく。

 そのシャープな横顔を見つめながら、瓜子は「そうっすね」とうなずいてみせた。


「本当は、オフィス内でのちょっとしたアルバイトの予定だったんすよ。だけど実家が突然そういうことになったもんで、泣く泣くお断りの電話をいれたんです。そうしたら、社長さんだか専務さんだかが自分の境遇にひどく同情してくださって……それで千駄ヶ谷さんに、住む部屋とフルタイムで働ける仕事を割り振ってやってくれって掛け合ってくれたんです」


「へーえ。だけどおめーはまだ高校生なんだろ? 学校のほうはどうするんだよ?」


「卒業のための出席日数は足りてたんで、このまま三月まで休学する予定です。学校のほうもむやみに退学者を出したくなかったのか、しぶしぶOKを出してくれました。……で、春まで何事もなかったら、四月からは契約社員として雇ってくれるっていうお話をスターゲイトからはいただいてます」


「ふーん。ラッキーだったねぇ。ユーリにとってはアンラッキーだったけどぉ」


「おめーと一緒に暮らすことがラッキーとは思えねーけどなー。この牛の首に鈴をつけるのは大変だぜー?」


 サキの言葉に、瓜子は深々と溜息をつく。


「そうっすよね……仕事だけじゃなく住む場所まで世話していただけたんだから、本当は感謝しなくちゃいけないとこなんですけど……」


「……ちょっと、うり坊ちゃん?」


「だけど、悪いことばっかりじゃなかったです。その……こうしてサキ選手と言葉を交わすきっかけにもなりましたし」


 自分で自分の台詞に赤面しつつ、瓜子は慌ててサキを仰ぎ見る。


「あの! 千駄ヶ谷さんの言ったことは、本当に気にしないでくださいね? 自分はそんなこと、サキ選手に打ち明けるつもりはなかったんです。年齢だってたった三歳しか変わらないのに、憧れだの何だのって……そんなのカッコ悪いっすから、できれば知られたくはなかったっすよ」


「ふーん? アタシにはよくわかんねーな。ま、何にも気にしてねーから、おめーも気にすんな」


 面倒くさそうに言い捨てて、サキはぷらぷらと右手を振る。

 かったるそうなのはいつものことなのだろうが、いくぶん目がうつろなのは、血が足りていないせいなのかもしれない。


《アトミックガールズ》ライト級チャンピオンの、サキ。

 瓜子が初めてその勇姿を目にしたのはおよそ四年前、中学二年生の頃だった。


 当時のサキは、十七歳。《アトミック・ガールズ》においては十八歳に達さないとプロデビューはできない規定であったため、サキはアマチュア選手として前座のプレマッチに出場していたのだ。

 なおかつ、プレマッチというのは技術も未熟であるアマチュア選手たちの腕試しの場であったわけだが───そんな中で、サキはプロ選手のお株を奪うようなKO勝利を連発して、デビュー前から話題を呼んでいたのだった。


 その圧倒的な強さに、瓜子は魅了されてしまった。

 姉の影響で小学生の頃から格闘技の番組は欠かさず観ていたのだが、サキほど瓜子の心を震わせる選手は他に存在しなかった。

 それで瓜子は、のびない身長が原因でレギュラーを外されてしまったバスケ部を辞め、中学二年の終わりから品川MAジムに通い始めたのである。


《G・フォース》のプロ資格は十六歳であったため、高校一年の終わりにはプロデビューすることができた。それから二年で、フライ級のランキング一位になることもできた。デビュー二年でチャンピオンベルトを巻くことになったサキには一歩およばないが、それでも瓜子なりには健闘できたと思う。


 そんな矢先に訪れた、実家の破局であったのだ。

 北海道に引っ越さなくてはならないなんて、いったいどれだけの時間をロスすることになるのか。やはりランキング一位の座はいったん返上するべきなのか。生涯で指折りの苦悶を味わわされ───それが、スターゲイトのおかげであっさり解決することになった。


 まだまだ暗中模索であることに変わりはないが、それでも東京に居残ることはできたのだ。今後の行く末に対する不安感とサキに出会えた高揚感に胸中をかき回されつつ、とにかく背筋だけはのばしておこう、と瓜子は静かに決意していた。


「にしても、アタシなんぞに憧れるなんて酔狂なこった。……その心情が、吉と出るか凶と出るかだな……」


 と、エレベーターを待つ間にそんなつぶやきが聞こえてきて、瓜子は「え?」と振り返る。

 が、サキの口よりも先にエレベーターの扉が開いてしまったため、その先を聞くことはできなかった。


 真っ先に乗りこんだユーリが最上階のボタンを押しつつ、相変わらず元気のない目を瓜子に向けてくる。


「ユーリの部屋は、505号室ね。……ね、うり坊ちゃん、最終確認させていただくけど、ほんとにユーリと一緒に暮らすのぉ? 見ず知らずの相手といきなり同棲生活なんて、そんなのイヤじゃない?」


「イヤも何も、自分はもう宿なしっすから。実家は先週から売りに出されて、昨日まではずっとカプセルホテルで暮らしてたんです。そのお金も、スターゲイトがたてかえてくれたんすけど」


「ああそう。……パパやママと北海道に行っちゃえば良かったのにぃ」


 ユーリは小声でぼやいたが、もちろん瓜子は聞き逃さなかった。


「自分だって、意気消沈してる両親の支えにはなってやりたいっすけどね。北海道なんかに引越したら、《G・フォース》の興行にも参加できなくなっちゃうじゃないっすか! せっかくランキング一位になって、王座に手が届くところまで来たっていう矢先に……それを、あきらめろって言うんすか?」


「言わないよぉ。言わないから、夜はお静かに」


 瓜子より十五センチほども高い位置で、ユーリはけだるげに吐息をついた。


 瓜子の身長は百五十二センチ、サキは百六十二センチ、ユーリは百六十七センチ。一番女性らしい色気にあふれていて一番落ち着きのないユーリが一番の長身であるというのが、何だか奇妙な感じだ。

 エレベーターを出て、505号室を目指しながら、瓜子はそんなユーリの悄然とした横顔をねめつける。


「……それから、同棲じゃなくて同居です。気色の悪い言い間違いはやめてください」


「ええ? 遅いツッコミ! なんか、うり坊ちゃんと会話すんのって疲れるなぁ」


「それはお互い様だと思います」


「……それをグダグダと聞かされるアタシの身にもなってみろ」


 まったくもって非生産的な会話をくりひろげつつ、一同はほどなく505号室に到着した。

 ユーリは扉にカードキーを通し、「ただいまぁ」と玄関口の照明をつける。

 そこに脱ぎ散らかされた靴の数に、瓜子はぎょっと身を引いた。


「な、何すか、これ? 中に誰かいるんすか?」


「えー? いないよぉ。いるわけないじゃん。こわいこと言わないでぇ」


「だ、だけど、この靴の数は尋常じゃないっすよ?」


 瓜子の胸に、じわじわと不審の念がひろがっていく。


 ロングのウエスタンブーツに、ショートのムートンブーツ、それに可愛らしいエスニックなサンダルなどは、当然ユーリの持ち物なのだろう。

 しかし、そこにまじって転がっているスニーカーやデッキシューズのほうが問題だった。明らかに、サイズの異なるものがまじっているのである。


 女もののスニーカーもある。だから余計に違いもハッキリしてしまう。五、六足はある運動靴の半数は瓜子と同じぐらいのサイズで、残りの半数はそれよりも三、四センチは大きいようだった。


「ユーリ選手。……もしかしたらと思ってたっすけど、あなたはスターゲイトから借り受けてる部屋で、勝手に男と暮らしてるんすか?」


「な、なに言っちゃってんのぉ、うり坊ちゃん! そんなことあるはずないじゃん! イヤだなぁ。あははははー……」


「目が泳いでるっすよ。だから自分がお邪魔だったんすね」


 嫌悪感を隠せぬ声で言い、瓜子は閉ざされたばかりのドアに手をかける。


「これならカプセルホテルのほうがマシです。ストーカー対策なんて必要ないって、自分から千駄ヶ谷さんに伝えておいてあげますよ」


「ままま待ってよ! 誤解だってば、うり坊ちゃん!」


「そーそー。サイズが違うのは、全部アタシの靴なんだからよ」


 と、何でもないように言って、サキが小さいほうのデッキシューズを拾い上げた。


「見てみな。こいつがアタシの靴。こっちの馬鹿でけー野郎用のスニーカーが、牛の靴だ。ほら、ブーツとおんなじサイズだろ? 牛は二十六センチだったっけか?」


「うわぁ、ばかぁ、バラさないでよ、サキたん!」


「バラすも何も、一目瞭然だろーが。いちおうおめーも格闘家の端くれなんだから、足がでかくて損なことはねーぞ。……ま、身長のわりに馬鹿でけー足だってことは否定できねーけど」


「うわぁん! ユーリのかわゆいイメージがぁ!」


 サキはうるさげに肩をすくめ、瓜子はおずおずと口をはさむ。


「あの……サキ選手のお言葉を疑うわけじゃないっすけど、それならどうしてサキ選手の靴がこんなに何足も置いてあるんすか?」


「そりゃあ、こん中に入ってみればわかる」


 冷たいフローリングの廊下に足を踏み入れ、一番手前にあった部屋へと導かれる。


 四畳半の和室だ。

 畳の上には煎餅布団。積み重ねられた格闘技専門誌の山。大きな目覚まし時計。古びたコンポとスピーカー。戸棚におしこめられたCDのケース。DVDのケース。昔なつかしのビデオテープのケース。

 そして、壁に貼られたカンフー映画の特大ポスターと、「新宿プレスマン道場」と刺繍された純白の着流し。


 確認するまでもない。

 そこは、サキのプライヴェートルームだった。


「男じゃなくて、アタシが棲みついてたんだよ」


 開いた口のふさがらない瓜子を横目に、サキはぼりぼりと頭をかく。


「もう半年ぐらいになんのかな? 牛がうちの道場に出没するようになってからだ」


「ちょうど半年ぐらいだね! たしか真夏の時期だったから!」


「ど……どうしてっすか?」


 瓜子の発した疑問の声に、サキとユーリは顔を見合わせる。


「どうしてだっけ? ……とりあえず、金がなかったからだなー」


「極貧だったよねぇ! ユーリも似たようなもんだったけど、とりあえず住む場所だけはスターゲイトさんのおかげで何とかなってたから、こっそりサキたんにお部屋を提供することにしてあげたのぉ」


「家賃は、時間外のトレーニングな」


「そうそう。おかげ様でこんなに強くなりましたぁ! ……まあ、まだ試合の結果には残せてないけどぉ」


「おめーは戦略がアホすぎんだよ。今日の試合がその集大成だな」


「あうう。言わないでぇ」


 ユーリはよよよと壁にもたれかかり、サキはその足を蹴っ飛ばす。

 そんな二人の仲睦まじい姿を、瓜子はじとっとにらみつけた。


「……ずいぶん仲がいいんすね。バリバリ硬派のサキ選手と、その正反対のユーリ選手なんで、何だかものすごく意外っす」


「アタシは別に硬派じゃねーよ。堅苦しい真似は性に合わねーんだ」


「ユーリはやらかいよぉ。筋肉も関節もふにゃふにゃだよぉ」


「……意外っす。とりあえず、自分の出る幕はないみたいっすね」


 そう言って、瓜子はまたきびすを返そうとした。


「待てよ。どこに行く気だ? えーと……瓜、だっけか?」


 サキの言葉に、瓜子は怒った顔のまま頬を赤くする。


「出ていきます。ここに自分の居場所はないみたいっすから」


「出てくったって、ここに住めってのは会社の命令なんだろ? 出ていくんなら、アタシが出ていくよ」


「ええ? そんなことはさせられないっすよ!」


「そうだよ! サキたんは出てっちゃダメ!」


「ダメっつっても、さすがに三人で住むには手狭だろうがよ。アタシがここに居座る正当な理由なんざ一ミリもねーんだから、アタシが出ていくのがスジだ」


 その言葉で、瓜子ははたと思い至った。


「あのですね、そもそもどうしてスターゲイトに話を通さずに同居生活を始めちゃったんすか? サキ選手は新宿プレスマン道場の同門なんすから、事情を話せば何の問題も起きなかったはずでしょう?」


「んー? アタシは稼ぎが不安定な上に、身もともしっかりしてるとは言えねーからな。あの荒本とかいう堅物のおっさんが相手じゃあ、断られるのが目に見えてたんだよ。……で、その後釜があの眼鏡女じゃなおさらだ」


「そうなんですか。それは世知辛い話っすね……」


「ま、半年間も楽をさせてもらったんだから文句はねーよ。今後の牛の面倒は、おめーにまかせるわ」


 そう言って今度はサキのほうが身をひるがえそうとすると、ユーリが飛び上がってそれを制止した。


「ダメだってば! 《アトミック・ガールズ》のライト級チャンピオンがホームレスなんて、それこそスキャンダルになっちゃうよぉ!」


「誰がホームレスだ。……会社の資材置き場にでも、こっそり忍びこむわ。寒い季節もぼちぼち終わりだしなー」


「それをホームレスっていうんだよ! ……わかった、それじゃあこうしよう! サキたんの荷物は全部ユーリの部屋に移動してぇ、うり坊ちゃんにこの和室を使ってもらうの! それならサキたんのことが千さんにバレることもないし、うり坊ちゃんだって使命をまっとうできるっしょ?」


「……牛の部屋に、そんなスペースあったっけか?」


 扉を閉めて、冷たい廊下をさらに進軍する。


 今度は六帖の洋室だ。

 ふかふかの羽毛布団に、巨大なベッド。淡いピンクのカーペットに積み上げられたぬいぐるみの山。ファッション系専門誌の山。クローゼットにも収まりきらない、色とりどりの衣服の山。二人掛けのソファの上でも、ぬいぐるみと衣服と雑誌が覇権を争っている。


 白い鏡台には、おびただしい質量の化粧品。

 加湿の機能も備えた、巨大な空気清浄機。

 壁の一面を支配した巨大なラックには、ファッション誌の他に男性誌やらマンガ雑誌やらが無秩序に並べられている。どうやらこれまでにユーリのグラビアが掲載された雑誌のコレクションであるらしい。


 そのラックの中身を除けば、白とピンクを基調にした、なんとも少女チックな様相だった。

 それはともかくとして、これ以上のモノを置くゆとりなどは微塵もない。


「無理だな」

「無理だねぇ」

「無理っすね」


「……………」

「……………」

「……………あのー、この際、リビングでも何でもいいっすよ。ここって2LDKなんすよね?」


 疲れた顔で瓜子が言うと、ユーリとサキはいっそう悩ましげに顔を見合わせた。


 リビングも、六帖ていどの広さだった。

 調度と呼べるのは、巨大だが旧式のテレビと、ビデオやDVDのデッキのみだ。


 ただし、床一面に古びた青のマットが敷かれてしまっている。

 部屋の隅には、ダンベルとバーベル。ベンチプレス用の金具がついたシートに、パンチングミットとキックミット。ヘッドガードやボディプロテクターといった防具一式に、オープンフィンガーグローブとボクシンググローブ。きわめつけは、年季の入ったエアロバイク。


 新宿プレスマン道場が改修工事を行った際に、いらなくなった備品を拝借してきたもの……であるらしい。


「ここでサキたんに、時間外トレーニングをしてもらってるのぉ」


 照れくさそうに身体をくねらせながら、ユーリが言う。

 瓜子は、全身全霊で溜息をつかせていただいた。


「……じゃ、そーゆーことで……」


「待って! 早まらないで! 千さんにバレたら、ほんとにサキたんが追い出されちゃう! あの人は、自分の許せないものは視界に入らないように気をつけながらも、いったん目に入っちゃったら見すごせないタイプだと思うの!」


「何すか、その的を射てるんだかどうなんだかよくわからない人物評は」


 猫っ毛の頭をかき回しながら、瓜子は口をへの字にする。

 しかし確かに、瓜子が出ていっても根本的な解決にはならないだろう。自分の行動がサキを窮地に追いやってしまうなんて、そんなことには耐えられるはずもなかった。


「……わかりました。もう何がどうでもかまわないっすよ。自分の手荷物なんてあのトランクひとつだけなんですから、どうにかしてこの部屋に住まわせていただきます」


「うん? おめーだってスターゲイトの人間なんだろ? アタシのことを上司に報告しなくていいのかよ?」


「そんな告げ口みたいな真似、できるわけないじゃないっすか。……それによく考えたら、サキ選手と寝起きをともにすることができるなんて、そんな光栄な話はないっすから」


 そのように言いながら、また頬のあたりに熱を感じてしまう。

 サキは「ふーん」とユーリのほうに向きなおった。


「おめーがそんな風に言ってくれるなら、アタシには文句のつけようもねーけどさ。……家主の牛も、それでオッケーか?」


「うん……まあ……最終的にはそうするしかないと思うけどぉ……」


 と───ふいにユーリは長い腕をのばして、サキのほっそりとした身体を抱きすくめにかかった。


「だけど、サキたんはユーリのもんだからね! アコガレだか何だか知らないけど、新参者はでかい顔をしないことっ!」


 サキは無言で、裏拳を放つ。

 おでこの真ん中を撃ち抜かれて、ユーリは「うにゃあっ!」と、のけぞった。


「ぶ、ぶった! 商売道具のお顔を、ぶった!」


「豚がどうした? 牛じゃなかったのか? ……それじゃあそのあたりで手打ちにしよーぜ。アホみてーに流血したせいで、ちっとばかり眠くなってきたわ」


 確かにいくぶん鋭さを失いつつある眼差しで、サキが瓜子を見つめてくる。


「おめーが堅苦しい人間じゃなくて助かったよ。色々面倒をかけることもあるかもしれねーけど、ま、今後はよろしくやってくれ」


「は、はい! こちらこそ、よろしくお願いいたします!」


 瓜子は深々と頭を下げてみせた。

 赤くなったおでこをなでながら、ユーリは不満そうに唇をとがらせている。


「それじゃあユーリも、うり坊ちゃんと暮らす覚悟を固めるけどさぁ、ほんとに千さんには秘密だよ? このベル様の肖像に誓約してよねっ!」


「ベル様?」


 眉をひそめてユーリを振り返ると、彼女は巨大なテレビの方向に腕を差しのべていた。

 そのテレビの上に浅黒い肌をした外国人女性のポスターが張りつけられていたことには、もちろん瓜子も最初から気がついていた。

 けっこうな美人だが、その身に纏っているのは柔道着とよく似た漆黒の柔術衣だった。


「……誰っすか、これ?」


「ベル様だよ! ベリーニャ・ジルベルト! ジルベルト柔術の若きクイーン! 女子総合格闘技界の女神! うり坊ちゃん、知らないの?」


「知らないっす。ジルベルト柔術って、あの格闘技ブームの火付け役になったブラジルの流派っすよね? へーえ、あそこに女子選手なんていたんすか」


 さしたる感慨もかきたてられず、瓜子はそのように答えてみせた。


「それに、《アトミック・ガールズ》の試合は毎回テレビで観戦させていただいてますけど、こんな選手は出場してないっすよね?」


「してないねぇ。ベル様はアメリカの《スラッシュ》と専属契約してるから、残念ながらここ数年は来日すらしてないにょ」


「それなら知らないっす。自分の専門はあくまでもキックですから。……それに、こういう小綺麗な顔をした選手は人気先行なイメージがあって、あんま好きになれないっす」


 瓜子はあっさりと言い、ユーリは「ふんぬー!」と両腕を振り上げる。

 そんな瓜子たちを見守りながら、サキは「ねみー」と繰り返した。


               ◇


 そして、就寝である。

 何やかんやと大騒ぎした結果、けっきょく瓜子はユーリと枕をともにすることになってしまった。


「ううう。狭苦しいよぉ。人肌のぬくもりが気持ち悪いよぉ」


「うるさいっすよ。狭苦しいのはおたがいさまなんですから、ガマンしてください」


 いかに大きめのベッドとはいえ、シングルはシングルである。たがいに背を向けても狭苦しいことに変わりはなく、薄暗がりの中でずっとユーリは不満げな声をあげていた。


 しかし、サキの煎餅布団ではよけいに窮屈だし、ユーリも瓜子もたがいに相手がサキと同衾することを許せなかったのだから、いたしかたがない。


「うり坊ちゃん、せまいってば! 背中が当たるから、もっとそっちに行って!」


「これ以上は無理っすよ! ベッドから落ちちゃいます!」


「……落ちればいいのに」


 何だかずいぶんな言い草だ。

 もちろん寝具の準備もなしに瓜子をこの部屋に放り込んだのは千駄ヶ谷の采配であったが、それは荒本なる人物の退社を秘匿せねばならないゆえであったのだから、ユーリの責任でない代わりに瓜子の責任でもないはずだった。


「あのですね、自分だって女とひっついて寝る趣味はないっすけど、真冬なんだし、まあいいじゃないっすか。ゆたんぽの代わりだと思ってあきらめましょうよ」


「やだよ。うり坊ちゃんはゆたんぽじゃなくてヒトだもん。……ユーリはね、人間にさわるのが苦手なんだから。試合やスパーリング以外だと、ぞわぞわ鳥肌が立っちゃうの!」


「……自分が女だからっすか?」


 痛烈な皮肉をこめて瓜子が言うと、ユーリはぶるっと丸っこい背中を震わせた。


「女は、イヤ。……男は、もっとイヤ」


「え?」


「ユーリ、人間恐怖症なの。いや、嫌悪症かな? 怖いんじゃなくて、気持ち悪いだけだし。ほんでもって、さわりさえしなければ何ともないわけだから、接触嫌悪症とでも言えばいいのかにゃ」


「接触……嫌悪症?」


「うん。だから、荒本さんのことは大好きだったし感謝もしてたけど、プロポーズなんてされてもねぇ。……断る以外に道はなかったんだよぉ」


 瓜子は思わず、背後のユーリを振り返ってしまった。

 背中ばかりでなく、ウェーブがかった髪までもが小刻みに震えている。


「……ユーリ選手は、そういう趣味の人だったんすか?」


「そういう趣味って? 同性愛者? 女もイヤって言ってんじゃん。人間は好きだけど、さわったりさわられたりってのは、男も女も関係なく吐き気がするぐらい嫌いだよん。試合中やお稽古中だったら、全然問題ないんだけどさぁ。……そういえば、今日は控え室でおかしな先輩選手に肩をさわられちゃって、最悪だったにゃあ」


「…………」


 本気で言っているのだろうか?

 こんな色気の塊みたいな娘が、接触嫌悪症?

 いや───


「……だけどさっき、サキ選手に抱きついて裏拳をくらわされてたじゃないっすか。あれは吐き気をガマンしてたんすか?」


「ああ、サキたんはねぇ……なんか、いつのまにやら平気になってたんだよぉ。半年間も一緒に暮らして、夜な夜な時間外トレーニングでも取っ組み合ってたから、さすがに免疫がついちゃったのかにゃ」


「…………」


「何にせよ、ユーリにとってサキたんは特別な存在なの。だから、うり坊ちゃんにはあげないよ!」


「……サキ選手は、モノじゃないっすよ」


 やっぱり本気か冗談かもわからない。

 瓜子は何だか落ち着かない気分を抱えこみながらも、布団をひっかぶって眠ることにした。


 時刻はすでに日付が変わってしまっているし、今日はもう疲れ果ててしまった。考えるのも悩むのも、すべては明日に持ち越しだ。


「ユーリのマネージメントに関わるんだったら、そこんところも把握しといてよね。試合やスパー以外で他人とふれあうようなお仕事は、男でも女でも絶対にNG! おかしな仕事をとってきたら、全力疾走で逃げてやるから……」


 しつこく喋り続けながら、ユーリの声も眠そうだ。


「……あーあ、荒本さんさえいてくれたら、こんなことにはならなかったのにぃ……荒本さん、やっぱりユーリのことが嫌いになっちゃったのかなぁ……」


「……嫌いになったぐらいだったら、わざわざ会社を辞めたりまではしないんじゃないっすかね」


 しょうことなしに瓜子が答えると、「そうなのかなぁ……」とユーリは悲しそうにつぶやいた。


「そーゆーの、ユーリにはやっぱりよくわかんないや……荒本さんだって、ユーリの体質のことは誰よりわかってたはずなのになぁ……」


 だったら、それでも気持ちを抑えきれないぐらい、ユーリの存在を欲してしまったということなのだろう。

 しかし瓜子にだって、そこまで異性を欲する気持ちというのは、まだよくわからない。


「まあ今さらうじうじ思い悩んだって、荒本さんは帰ってこないもんねぇ……明日も朝からお仕事なんだから、とっとと寝ちゃおう……おやすみ、うり坊ちゃん」


「……そのうり坊って呼び方、やめてもらえないっすか?」


 瓜子が言うと、ユーリは「ぷふっ」とふき出した。


「ツッコミが遅いってば。もう修正は不可能ですぅ。……やっぱりうり坊ちゃんと会話するのは……めんどいやぁ……」


 語尾が、寝息へと変化していく。

 瓜子は最後にもうひとつ溜息をついてから、安らかな睡魔が訪れることを願ってまぶたを閉ざした。

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