ACT.2 アイドルファイターの多忙な一日

01 朝日のダイニングキッチン

「朝だぞー。起きろー、牛と瓜ー」


 かったるそうな、若い女の声。

 母親のものではない。姉のものでもない。とても耳に心地好い、低くてハスキーな女性の声だ。


 しかし、まだまだ眠り足りない。何より布団が気持ちよすぎる。ここから這いだして冷たい外気に身をさらすなど、そんな理不尽な話はない! と、瓜子は半分以上も寝ぼけた頭でそのように結論づけた。


「往生際がわりいなー。おめーらは朝から仕事なんだろ? とっとと起きねーと遅刻すんぞ」


 ばさっと毛布がはぎ取られる。

 瓜子は反射的に身をちぢめようとした。

 が───


(あれ……?)


 思ったよりも寒くない。

 身体の半分以上が、まだ冷気から守られている。

 そして、身動きすることがまったくできない。


「……何だおめーら、一晩の間にずいぶん仲良くなったみたいだな」


 すっとぼけた声で、サキが言う。

 そう、これはサキの声だ。布団をはぎ取ったのも、きっとサキだ。中学生の頃から憧れていたサキと、昨晩初めて言葉を交わし、あまつさえ同じ屋根の下で眠ることになったのだ。


 意識が覚醒するとともに、記憶も鮮明によみがえってくる。

 瓜子は昨晩、ユーリのベッドで、ユーリと眠ることになった。

 だから、瓜子を冷気から守っているこの熱源の正体も、きっとユーリだ。


 瓜子はおそるおそるまぶたを開けて、視線を右の方向に向け───

 それから、「うわぁっ!」と叫び声をあげることになった。

 赤子のようにあどけないユーリの寝顔が、瓜子の顔の真横に鎮座ましましていたのだ。


 そして、そればかりではない。ユーリは百六十七センチという長身と長い手足をぞんぶんに活用し、瓜子の身体をしっかりと抱きすくめてしまっていたのだった。


 とても温かい。

 そしてやわらかい。


 特に瓜子の右の二の腕を包みこむ巨大な物体などは、とても人間の肉体の一部だとは思えないほどの柔軟性と重量感を兼ね備えていた。


「ちょ……ちょっと、ユーリ選手、ナニをしてるんすか!」


 最大級の至近距離で瓜子がわめくと、ユーリは「うにゃあ」と非難がましく鳴き声をあげた。


 その少し垂れ気味の目が、とろんと瓜子の顔を見て───

 次の瞬間、恐怖に凍りつく。


「ふぎゃあああぁぁぁっ!」


 ものすごい力でベッドの下に突き落とされた。

 そうして三人で過ごした最初の夜は、ユーリの悲鳴をファンファーレとして華々しく明けたのだった。

 

               ◇


「ううう。気持ち悪い。気持ち悪いったら、気持ち悪い! きっと今日は仏滅だぁ! 天中殺の三隣亡だぁ!」


「……意味がわかってて言ってるんすか?」


 勝手に抱きつかれて、勝手に気持ち悪がられて、あげくの果てにベッドの下へと突き落とされることになった、瓜子のほうこそ最悪な朝だ。


 さして広くもないダイニングのつつましいテーブルに案内された瓜子は、サキが持ってきてくれたミネラルウォーターをがぶがぶとやけくそ気味にあおることで、胸中のむかつきを抑えこむことにした。

 同じようにテーブルにつっぷしながら、ユーリはまだぶちぶちとぼやいている。


「まったくさぁ。ユーリは人にさわられると鳥肌が立っちゃうって言ったでしょー? 見てよコレ! 可愛いおなかにまでびっしりと!」


「見せなくていいっす。……ユーリ選手って、ほんとに全身ふよふよなんすね」


「筋肉だってば! 良質の筋肉はやらかいもんでしょ? ユーリの体脂肪率は驚異の九パーセントなんだからね!」


 嘘をつけ、その胸もとにぶらさがっているモノだけで九パーセントなんて軽く超えていそうじゃないか……と瓜子は思ったが、口にするのはやめておいた。何となく、あまりに低俗な物言いになってしまいそうだったので。


 ユーリはシルクのパジャマの上に暖かそうなガウンをだらしなくひっかけて、瓜子と同じぐらい不機嫌そうな顔をしていた。

 頭は寝ぐせでぐしゃぐしゃで、もちろんまだ化粧などまったくしていない。しかし、ぶすっとした顔でテーブルに肘をついているだけなのに、えらく絵になる姿である。


 アイドル級というか現役アイドルの美少女であるし、スタイルは超絶的であるし、どんなにユーリを嫌う人間でも、常人にはない華やかさやオーラがある、という事実だけは否めないだろう。

 こんな娘がプロのファイターとして活動を続けているというのも奇異なる話だが、何にせよ、そこに実力がともなっていないというのは誰にとっても不幸な話であると思われてならなかった。


「……朝からぎゃあぎゃあうるせーなー。飼育係にでもなった気分だぜ」


 と、サキがぺたぺたとキッチンのほうから歩いてくる。

 こちらは上下ともに真っ黒のスウェットで、何というか、朝からとても男前だ。

 その手が朝食を載せたトレイをかかげていることに気づき、瓜子は慌てて腰を浮かせかけた。


「あ、サキ選手、すみません! 起こしていただいた上に朝食まで準備していただいて……自分も手伝います!」


「いいから座っとけって。食材の調達と朝食の世話ってのも、アタシにとっては家賃の代わりなんだからよ。……そんなことより、家に帰ってまで選手呼ばわりってのはいかがなもんかね?」


「あはは。サキたんもツッコミ遅い! うわあ、お魚だあ!」


 サキの手によってテーブルに並べはじめられたのは、とても純然たる和食のメニューだった。


 大和芋のたっぷりとかかったブリの蒸し焼きと、やさしい色合いをしただし巻き卵、長ネギとジャガイモの味噌汁、オクラとカツオブシの和え物、納豆、焼き海苔、白米、キュウリの浅漬、ちょんとショウガの乗った冷奴……量は普通だが、品数が多い。何だか旅館の朝食みたいなメニューだ。


「しばらく試合もねーからな。夜はひさびさに哺乳類の肉でも食うか」


「やったぁ! サキたん、愛してるぅ!」


「そうか。朝からうざってー野郎だな。……ん、どーした、瓜?」


「いえ、あの、サキ選手……いや、サキさんは、その、とても家庭的な方なんすね?」


 怒られるかな、と思ったが、真っ赤な髪をした迫力満点の先輩選手は、けげんそうに小首を傾げただけだった。


「こんなん、ふつーだろ。なんも難しいことはしてねーや。試合後だからロクにカロリー計算もしてねーし、ふつーの朝飯をふつーに作っただけだよ」


「いや、これを普通に作れるなら、やっぱりすごいと思います。ふだんは自分でカロリー計算までしてるんすか?」


「ふん。アタシは規定の五十二キロに一キロか二キロは足りてねーから、計算なんて必要ねーんだけどな。どっかの無駄にでかい牛は油断すっと際限なく巨大化していくから、試合前は面倒なんだよ」


「失礼な! ユーリだって試合の直後なんだから五十六キロ前後をキープしてるはずだよ!」


「嘘つけよ。リカバリーで五十八ぐらいには戻ってんだろ。で、それが六十、七十と巨大化し続けるわけだな」


「七十キロもあったらグラビアのお仕事ができなくなっちゃうでしょ! 六十キロは───まあ、オーバーする時期がなくもないかもしれない可能性は否めなくもないかもしれないけどぉ」


 ユーリの戯言はさておいて、サキが平常から規定体重を下回っているというのは意外であった。

 だけどまあ、サキはきわめてすらりと引き締まった体格をしているので、言われてみれば納得である。


「そうだったんすね。自分の平常は五十三、四キロなんで、サキさんがそれより軽いっていうのは少し意外でした」


「へー、おめーはアタシより重いのか。おめーもずいぶん細っこく見えっから、きっと骨の中身がみっちり詰まってるんだろうな」


「そうっすね。どこまで医学的な根拠があるかはわかりませんけど、以前に骨密度の測定をしてもらったとき、なかなか尋常でない数値だねって笑われたことがあります」


「あー、おめーのパンチは硬くて痛そうだもんなー」


 そんなサキの何気ない言葉が、瓜子にはたいそう嬉しかった。

 しかし、その後に続いた言葉によって、思わずハッと息を呑んでしまう。


「そーいえば、《G・フォース》のフライ級もリミットは五十二キロだったもんな。おめーがアトミックに参戦してたら、アタシもあの石みてーなパンチの相手をさせられることになってたってわけだ」


 すべての皿を並べ終えて、ようやくサキも席に着く。

 その切れ長の目が、いぶかしそうに瓜子を見た。


「何だよ、何か言いたげな目つきだな。食えねーもんがあったらそこの牛が何でも片付けてくれるぞ?」


「いえ、そうじゃなくって……実は自分も近い内に総合のトレーニングを始めて、《アトミック・ガールズ》に参戦するつもりでいるんです」


「あん?」とサキは目を細める。


「だけど、おめーが通ってる品川MAってのは、伝統やら格式やらを何より重んじてるんじゃなかったっけか? キック以外の試合に出るなんて許されねーだろうし、そもそも総合の技術を学べる環境でもねーだろうがよ?」


「ええ。ですから自分は、移籍をする予定だったんです。……その、みなさんと同じ新宿プレスマン道場に……」


 瓜子がそのように言いかけたとき、じっと二人のやりとりを見守っていたユーリがお行儀悪くガタガタと椅子を鳴らし始めた。


「ねえねえ、そんなのどーでもいーから、早くいただきますしよっ! ユーリはおなかがぺこぺこちゃんだよっ!」


 瓜子は大いに気分を害されたが、せっかくの朝食を冷まさせてしまっては申し訳ないので「いただきます」を三人で唱和することにした。

 サキの手料理をサキとともに食する。これもまた、昨日までは想像することもできなかった体験である。


 それに、両親は十日も前に北海道へと発っていたので、朝食を誰かとともにするというのもそれ以来のことであった。

 ダイニングの小窓からは、ほの白い朝日がやわらかく差し込んできている。空気は冷たいが、床に置かれたファンヒーターのおかげで辛いことはない。

 まだこの部屋を訪れて半日も経過していないのに、瓜子はずいぶんとくつろいだ気持ちを得ることができた。


「……だけどさぁ、うり坊ちゃんは立ち技にしか興味なかったんじゃないのぉ? 昨日の夜、そんなようなことを言ってたじゃん。ベル様の存在も知らなかったし」


 と、笑顔でブリの大和蒸しを頬張りながら、今度はユーリが尋ねてくる。

 口の中身を呑み込んでから、瓜子はそちらに向きなおった。


「日本で放映されてる大会だったら、総合だろうとキックだろうと分けへだてなくチェックしてましたけどね、《スラッシュ》なんてのはアメリカのローカルプロモーションでしょう? さすがにそんなマイナーな大会までは放映されてないっすよ。……ていうか、自分の今後についてなんて、ユーリさんにはどうでもいいんじゃなかったんすか?」


「うん、どーでもいーんだけどさぁ。でも、キックボクシングでチャンピオンを目指すんじゃなかったにょ?」


「キックをやめるつもりはありません。でも、自分の目標はあくまでもサキさんでしたから……本当は、最初から総合の選手を目指したかったんです。だけど両親にものすごい勢いで反対されてたもんで、高校を卒業するまではガマンしようって決めてたんすよ」


 ユーリよりもむしろサキのほうを気にしながら、瓜子はそのように答えてみせた。


「それに加えて、入門当時からお世話になってたコーチが品川MAを解雇されることになって、何というか、あのジムへの未練も完全になくなっちゃったんです。それで、プレスマンのサイトー選手には以前から可愛がってもらえてたんで、移籍するならプレスマンしかないなって……」


「うふふん? アコガレのサキたんもいることだしねぇ?」


 ユーリにまぜっかえされて、瓜子はじろりと険悪な視線を飛ばす。

 いっぽうサキは、まだいくぶんけげんそうな顔をしていた。


「まあ、移籍したいってんなら好きにすればいいけどよ。品Mとプレスマンじゃあ、方針が真逆だぜ? 品Mは格式を守る場所、プレスマンは格式をぶち破る場所だ。アタシやらサイトーやらを見てりゃあ、それはわかるだろ?」


「はい。わかってるつもりです」


 精一杯の気持ちを込めて、瓜子はうなずいてみせる。

 そのかたわらで、ユーリは「ふみゅみゅ」とおかしな声をあげていた。


「ねえねえサキたん、ユーリだけ仲間外れなにょ? ユーリももうこれで半年間はプレスマンに通い続けているのですけども……」


「おめーは未完成品だから参考にならねー。昨日のざまで完成品だってんなら完全に失敗作だから、よけい参考にならねー」


「ううう。きびしいお言葉……愛のムチが痛うございます……」


「べつだん愛情をこめてるつもりもねーからな。……で? おめーはいつからこっちに移るんだ?」


 真正面からサキに問われて、瓜子はちょっと口ごもってしまう。


「いや、正式な日取りはまだちょっと……何せ生活が激変しちゃうので、それが落ち着くまでは身動き取れないんすよね。正直言って、スターゲイトのバイト代だけで本当に生活できるかどうかもわからないですし……」


「ふーん? だったら別に、無理して移籍だの総合デビューだの七面倒くせーことは考えなくていいんじゃねーのか?」


「え?」


「迷ったり悩んだりするていどのことだったら、別に好きこのんでしんどい思いする必要ねーじゃん。だいたいおめーは《G・フォース》でベルトを狙ってる真っ最中なんだろ?」


「はい。それはもちろん、ランキング一位になれたところですし……」


「そんなタイミングで、同時に総合デビューも目指すってのか?」


「は、はい。何かマズいっすかね?」


「マズいことはねーけどよ。なーんか迷走のニオイがプンプンすんなー」


 瓜子は、思わず押し黙ってしまった。

 心の奥底にしまいこんでおいた不安や疑問がムクムクと頭をもたげてきてしまい、瓜子の胸を重苦しくさせる。

 サキに指摘されるまでもない。瓜子は迷走の真っ只中だったのだ。


「やっぱり……そうなんすかね? いきなり親もとから離れて暮らすことになって、とにかく頑張らなきゃって気合いを入れてるんすけど……自分、おかしいっすか?」


「おかしかねーけど、そーゆー暑苦しいやつに限ってコロッと引退しちまったりすることが多いからよー。またそのパターンかなとか思っただけだ」


「そ、そんなことは、絶対にありません!」


 反射的に、瓜子は大声を出してしまった。

 サキの言い様が、あまりに心外だったから───では、ない。心中の不安を鋭く言い当てられたような心地になってしまったからだ。

 自分はこの先、選手活動を続けていけるのだろうか……という根源的な不安を、である。


「そんなムキになるこたねーよ。おめーの人生なんだから、おめーの好きにしろ。いちいち他人の言うことなんざに目くじら立てんな」


「にゃっはっは。サキたんはデフォルトが罵倒口調なんだから、なれるまでには時間が必要なんだよぉ」


 腹立たしいぐらいお気楽な口調で言ってから、ユーリは慌てて茶碗の中身を口にかきこみ始めた。


「いかんいかん! もうこんな時間じゃないか! うり坊ちゃんも一緒に行くんでしょ? のんびりしてたら身支度する時間がなくなっちゃうよ!」


「朝っぱらから慌ただしいこったな。今日はそんなに商売繁盛なのか、牛?」


「うん! 今日は朝からグラビア撮影で、お昼から夕方まではバラエティの収録! だけど夜はフリーだから、いつもの時間には道場に行けるよん。……でね、めげずに何度でもツッコませていただくけど、ユーリは牛じゃないんだよ?」


「聞こえねー。……そんじゃあアタシは、一足先にトレーナーの連中と遊んでっかな。ほんとはこっちも仕事だったのによ、こんなザマになっちまったせいで、絶対に来んなって親方に怒鳴られちまった」


 と、包帯に包まれた額をハシの尻でつつく。


「……サキさんは、ふだん何の仕事をされてるんすか?」


 気を取りなおして瓜子は聞いたが、「鳶」の一言で片付けられてしまった。

 似合いすぎていて、瓜子も二の句が継げなくなってしまう。


「あーあ、みんなお仕事で大変だねー。ユーリたちも、いちおうプロの選手なのにね?」


「ふん。ボクサーだって、日本チャンプぐらいじゃ食っていけねーんだ。総合やキックで食ってくなんて、それ以上にシビアな話なんだろーぜ」


「そうなんだろうけど、でも、憧れるなあ! 試合とトレーニングと体調管理だけの人生! 格闘技だけにどっぷりつかれたら、ユーリは死ぬほど幸せだあ」


「ほうかい。アタシは今ぐらいのほうが、メリハリがあって飽きねーけどな」


 瓜子は、おとなしく口をつぐんでいた。

 不本意ながら、その一件に関してはユーリのほうに共感できてしまったので、口を開く気になれなかったのである。

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