03 不本意なるシェア
「猪狩さんは《G・フォース》において、フライ級のランキング第一位の座を保持されているそうですよ」
千駄ヶ谷女史がそのように説明すると、ユーリは「へえ」と目を丸くした。
「ランキング一位ってことは、チャンピオンの次に強いってことですよねぇ? こんなにちっちゃくてこんなにかわゆらしいのに、すごいなぁ。それにきっと、ユーリより年上ではないですよねぇ?」
「はい。猪狩さんはユーリ選手より一歳年少の十八歳で、この春に高校を卒業するご予定です。……現在は、我が社のアルバイト職員として研修中という身の上ですね」
「あ、ユーリとひとつしか変わらないんですかぁ」
笑いをふくんだユーリの目が、まじまじと瓜子を見つめてくる。
そんな目で見られるのは慣れっこだ。瓜子は童顔の上、身長が百五十二センチしかないのである。
髪は邪魔にならぬようショートにしており、ジャージ姿でベンチコートを片手に抱えている。傍目には、部活帰りの高校生か、あるいは中学生にしか見えないことだろう。リングの上でなければキックのプロ選手だなどとはとうてい信じてもらうことのできない、そういった部分はユーリとご同様の瓜子であるのだ。
「だけど、キックのプロ選手がスターゲイトで働くんですかぁ? ユーリみたいなマネージメント契約ではなく?」
「アルバイト職員です。より正確に言うならば、契約社員となるための雇用期間中といったところでありましょうか」
別におかしな話ではないだろう。格闘技ブームが終焉した昨今、ファイトマネーだけで生活できるような女子選手は皆無に等しいのだから。
ちなみに株式会社スターゲイトとは、アスリートのマネージメント業務やスポーツに関わる企業のコンサルティング業務などを一手に請け負う、ちょっと風変わりな会社なのである。
かくいうユーリもスターゲイトに所属しているわけだが、立場としてはクライアント、つまりは依頼人に相当する。
試合などの選手活動のみならず、雑誌記事のインタビューやテレビ・ラジオの出演交渉等、個人の手にはあまりがちな広報活動および営業活動の管理業務をスターゲイトが取り仕切る代わりに、ユーリからしかるべき報酬を得るのだ。
まあ要するにタレントと所属事務所みたいな関係か、と瓜子はそのていどの理解で済ませている。
「……そして、本日から彼女はユーリ選手のマネージメントを補佐する業務に従事することになりますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「にゅ? それはどーゆー意味でしょう? 補佐ってことは、荒本さんの下につくってことですかぁ?」
「いえ。荒本は我が社を退社いたしました」
千駄ヶ谷女史は、変わらぬ口調であっさりとそう言った。
ユーリは、ぽかんと口を開けてしまう。
「退社? ……退社って、どーゆー意味ですかぁ?」
「退社とは、会社を退くという意味です。年明け早々に荒本は辞表を提出し、翌週にはそれが受理されました。明日からは有給休暇の消化期間となりますため、本日の午後七時をもって荒本のスターゲイトにおける勤務は終了となります」
千駄ヶ谷女史の言葉を聞くうちに、ユーリの顔からは見る見る血の気が下がっていった。
荒本とは、この二年間ユーリの担当をつとめていたスターゲイトのベテラン社員なのである。
ユーリのプロデビューにまつわるドキュメント番組の制作や、『P☆B』こと『ピーチ☆ブロッサム』とのスポンサー契約においても辣腕を発揮して、アイドルファイター「ユーリ・ピーチ=ストーム」の進むべき道を切り開いた立役者───と、瓜子は聞いている。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ! 荒本さんが退社? どうして急に? 今日まで二年間、ユーリと荒本さんは死に物狂いで頑張ってきて……てゆーか、今日だって試合前までずっとそばにいてくれたのに! ユーリ、なんにも聞いてないですよぉ!」
ユーリは大声でわめきながら、手に持ったままだったボストンバッグを大あわてでまさぐり始めた。
そこから取り出されたのは、メタリックピンクの携帯端末である。
『お掛けになった番号は、お客様のご都合によりお取り次ぎできません』……という無機質なアナウンスが、瓜子のほうにまで聞こえてきた。
ユーリは、その場にへなへなとしゃがみこんでしまう。
「どうしてぇ……? ひどいよぉ……ユーリに何にも言わないでいなくなっちゃうなんてぇ……」
「本人の意向により、事後承諾の形になってしまったことは深くおわびを申し上げます。ですが、業務の内容に関しましては後任の担当者としてこの私が滞りなく引き継いでおりますので、その点におきましてはご心配なさりませんよう」
「そーゆー問題じゃありません! こんなの、あまりにひどいじゃないですかぁ!」
「はい。ですが、ユーリ選手と荒本の関係を考えればこういう形を取るのがベターなのではないかと、私も荒本からの提案に同意することにいたしました」
「ユーリと荒本さんの関係ってぇ? ユーリたちには何も後ろめたいことなんてなかったですよぉ?」
「それはそうなのでしょう。しかし、ごく健全なクライアントと一社員の関係でもなかったはずです。……昨年末に、貴女がたの間でそういう不測の事態が生じてしまったのでしょう?」
千駄ヶ谷女史の冷徹な声に、ユーリはギクリと身体をこわばらせる。
「ええ、まあ……それは確かに、ちょっと、その……プロポーズ? みたいなことは、されちゃったりもしましたけどぉ……」
「……まがりなりにもクライアントとそのような関係に陥るというのは、スターゲイトの一員として許されざることです」
「そのような関係って! ユーリと荒本さんはそんなんじゃないですよぉ!」
「わかっています。それは荒本の一方的な感情だったのでしょう。……何にせよ、貴女は強力なパートナーを、我々は有能な同僚を失ってしまいました。今後は今まで以上に関係を密にして、この苦境を乗りこえていかなくてはなりません」
ちっとも感情のこもっていない口調で、千駄ヶ谷女史はそう言った。
そして、ここからがいよいよ本題なのである。
瓜子としては、溜息を呑み下すぐらいしかやることがない。
「つきましては、この猪狩さんをユーリ選手のマンションに住まわせていただきたく思っているのですけれども、ご了承をいただけますでしょうか?」
「……ユーリのマンションに? あそこ、空室なんてありましたっけぇ?」
「ありません。……私の言葉が不適切でした。この猪狩さんを、ユーリ選手の住むマンションの同じ部屋にルームメイトとして住まわせていただきたく思っているのですけれども、ご了承をいただけますでしょうか?」
「ええ? 何ですかそれぇ! ダメダメ! 絶対、ダメですってぇ!」
ユーリはぴょんっと跳ね起きるや、首と手の先をぶんぶん振り回すことによって拒絶の意を表明した。
その長い髪がゆれるたんびに甘い花のような香りがふわりとひろがり、瓜子はますますげんなりとしてしまう。
「荒本は、自分が去った後のことを非常に心配しておりました。ユーリ選手のもとにはストーカーやパパラッチなどの出現が絶えないので、私も懸念は抱いていたのです。……かといって、クライアントと担当者がべったりと行動をともにする、というのは我が社のスタンダードなスタイルではありませんし、私にはそのような時間を捻出することもできません。そこで、ボディガードと言っては言い過ぎですが、この猪狩さんをそばに置くことでそういった輩への牽制になるのではと思い、こうしてご提案させていただいた次第なのです」
「ひ、必要ないですよぉ! とにかくダメです! お気持ちだけでけっこうですから、そんな素っ頓狂な提案はひっこめてください! お願いしますぅ」
両手を合わせて懇願するユーリに、千駄ヶ谷女史は数ミリだけ首を傾げた。
「何故でしょう? ユーリ選手は以前、2LDKの部屋に独り住まいでは不経済だしスペースも持て余してしまうと仰って、ルームシェアする相手を捜し求めていたように記憶しているのですが」
「そ、それは去年のお話ですぅ。あの頃は友達も何にもいなかったから、ちょっとさびしかっただけですよぉ」
「それでは今は『お友達』もできて、さびしくなくなったということですね。それは大変、喜ばしいことです」
縁なし眼鏡の奥からじっと見つめられ、ユーリは「はうう」と頭を抱えこむ。
「しかし、ユーリ選手のように特異な御方には、それ相応の自衛策が必要なのだと思われます。もちろんプライバシーは尊重させていただきますが、最低限、当社の管理する広報活動に従事する際はこの猪狩さんを付添人として同伴させていただこうかと思います。……猪狩さんは我が社の社員ですが、同時にプロの格闘技選手でもあることですし、きっと話も合うことでしょう」
「あのぉ……ユーリに拒否権はないんですかあ? まがりなりにもクライアントに対して、ずいぶん一方的な処置だと思うんですけどぉ……」
「はい。しかしお忘れでしょうか? あのマンションは我が社が我が社の名義で借り受けたものであり、それをユーリ選手に間貸ししている状態にあるのです。ユーリ選手がどうしてもご実家のお世話にはなりたくないと主張されたために為された、異例の緊急措置であったと私は記憶しておりますけれども」
「はうう……その通りでございましゅ」
「もしもご都合が悪ければ、ユーリ選手にはご実家にお戻りいただいて、あの部屋をこの猪狩さんに譲っていただけますでしょうか? 猪狩さんもご両親が北海道に引っ越されてしまったために、取り急ぎ住む部屋を見つける必要があるのです。……ユーリ選手のご実家は茨城なのですから、それでも選手活動を継続することは可能でありましょう」
「イヤです! それだけは死んでもイヤ!」
びっくりするほどの大声で言い、ユーリはまたへなへなと冷たい床にひれふした。
「おおせの通りにいたしますぅ……ですから何とぞ、寛大なご処置を……」
「おかしな御方ですわね。お頼みしているのはこちらの方ですのに」
千駄ヶ谷女史はユーリの後頭部を無感動に眺めながら、スマートに縁なし眼鏡の位置を正す。
これにて試合終了のようだった。
ユーリが女史の提案をくつがえしてくれると期待していたわけでもないが……瓜子としては、やっぱり溜息をこらえるしか道がない。
よりにもよって『地上最弱のプリティファイター』などと揶揄される格闘家もどきのグラビアアイドルと同居する羽目になろうなどとは、数日前までは夢にも思わなかったことだ。
しかしこの話を断るならば、両親とともに北海道へと移り住み、一人暮らしのための資金を稼いでからもう一度東京に戻ってくるという、それぐらいしか瓜子がファイターとしての生活を継続するすべはなかった。
だから瓜子は、さんざん思い悩みながらも千駄ヶ谷からの提案を呑むことにしたのだ。
ユーリにも、さんざん思い悩んでいただくしかないだろう。
「荒本の件に関しましても、おわびを申し上げる立場なのはこちらの方です。ユーリ選手に多大なご迷惑をかけ不愉快な思いをさせてしまったことを、荒本に代わり深く謝罪させていただきます」
「いえ……不愉快だなんて、そんなことは……」
「ただしそれとは別の話で、貴女は非常に影響力のある選手なのです。貴女のスキャンダルは女子格闘技界そのもののスキャンダルにまで発展するのだという自覚を持ち、節度ある行動を重ねてお願いいたします」
「それはもう……重々承知しておりますですぅ……」
「では、猪狩さんのことはおまかせいたしますね。もちろん研修生に不相応な案件に関しては私が直接に采配をふるいますし、住居費のほうもお二人で折半という形にさせていただきますので、ご心配なく。……ああ、サキ選手、お疲れ様でした」
千駄ヶ谷女史の言葉に、ユーリがようやく面を上げる。
同じ方向に目を向けた瓜子は、ユーリと同じぐらい愕然としてしまった。
「サ、サキたん! 流血ドバドバじゃん! 大丈夫!?」
「あー……全然問題ねー。ちっとバッティングをくらっちまったわ」
低くて、とてもハスキーな声。
新宿プレスマン道場のホープにして《アトミック・ガールズ》のライト級チャンピオンたるサキ選手が、そこには立っていた。
いや───より正確に言うならば、サキ選手はセコンドの若者に肩を借り、半分ひきずられるような格好でこちらに向かってくるところだった。
真っ赤に染めた、短い髪。
感情の読みにくい、切れ長の目。
高い鼻梁と、薄い唇。
革鞭のように引き締まった、しなやかな長身。
「新宿プレスマン道場」と刺繍のほどこされた黒い着流しのような入場衣装も、その下に着込んだ和柄のタンクトップやキックトランクスも、口の端にくわえた禁煙用パイポも、瓜子の知る通りのサキ選手の姿である。
しかしそれにつけ加えて、サキ選手は額にタオルを巻きつけていた。
頭から流血しているのだ。
タオルなどは元の色がわからなくなるほどの出血量で、そこから噴きこぼれた鮮血が顔の右半分を真っ赤に染めてしまっている。
瓜子は、一気に心をかき乱されてしまった。
「全然問題なくないよぉ! うわぁ、痛そぉ……サキたん、負けちゃったのぉ?」
ユーリが気の毒そうにつぶやいた瞬間、飛翔する燕のタトゥーが刻まれたサキのしなやかな左脚が、したたかに後輩の尻を蹴りあげた。
「あんな三下にアタシが負けるかよ。ドクターストップをかけられる前に、きっちりKOしてみせたろうが。おめーは先輩様の大事な試合を観てやがらなかったのか?」
「だ、だってぇ、控え室では何だか意地悪そうな先輩選手に邪魔されちゃったし、その後は千さんに呼びだされちゃったからぁ……うひゃあ、やめてぇ!」
「逃げんな、牛」
「牛じゃないもん!」
ユーリは慌てて立ち上がり、KOの山を築きあげてきたサキ選手の蹴りから逃げまどう。
その背を突き飛ばすようにして、瓜子はほとんど無意識のうちにサキ選手の眼前へとまろびでてしまった。
「サキ選手! だ、大丈夫ですか? そんな風に暴れたら駄目っすよ!」
「あん? 誰だ、おめー?」
切れ長の目が、瓜子を見る。
サキ選手の目が、瓜子の姿を。
瓜子は、体内の血液が沸騰していくのを感じた。
「じ、自分は品川MAの猪狩という者です! あの……タ、タイトル防衛に成功されたそうで、その、お、おめでとうございます!」
何を言っているのだと自分で呆れながら、瓜子は深々と頭を下げる。
心の準備はしていたはずなのに、動悸が止まらない。
サキ選手は、瓜子にとって特別な選手なのだ。
「品川MA? ……猪狩って、《G・フォース》でフライ級の猪狩かよ?」
「じ、自分のことをご存知なんすか?」
「おめーがフライ級第一位の猪狩ならな。ふーん。試合んときとはずいぶん雰囲気が違うんだなー」
瓜子は、天にも昇る気持ちだった。
が、そこに背後から冷水をあびせかけられてしまう。
「ああ……なるほど。猪狩さん、貴女がキックボクサーを志したのは、サキ選手に憧れてのことだと仰っていましたね。すっかり失念しておりました」
言うまでもなく、それは千駄ヶ谷女史の声であった。
瓜子は、再び錯乱する。
「さきほどからずっと不機嫌そうな顔をされていたのは、そういうわけですか。サキ選手の試合を観戦したかったのならば、一言そう仰ってくだされば良かったのに」
「や、やめてくださいよ、千駄ヶ谷さん! それは絶対に、誰にも秘密だって……」
「そうでしたね。微笑ましさのあまり、うっかり口がすべってしまいました。今の発言は、全面的に撤回させていただきます」
撤回したって、もう遅い。
瓜子は羞恥のあまり消え入りそうになりながら、おそるおそるサキ選手のほうに目を向ける。
サキ選手は止まらぬ流血を手の甲でぬぐいながら、ひどくけげんそうな顔をしていた。
「ほんで? 控え室の前で、何をぎゃーすかやってんだよ? アタシには全然話が見えねーんだけど?」
「……ユーリにだって、全然見えないよぉ」
蹴られたおしりを痛そうにさすりながら、ユーリはさも悲しげな声をあげる。
ともあれ───瓜子たちは、こうして邂逅を果たしてしまったのだった。
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