02 ご対面

「……それでは控え室に参りましょうか」


 ユーリ選手の見事な負けっぷりを見届けるなり、千駄ヶ谷女史は無感動に言い捨ててきびすを返した。

「はあ」とうなずき、瓜子もそれに追従する。


 そこは人影もまばらな立ち見席の一画であり、あたりにはまだ歓声とブーイングが吹き荒れていた。

 花道のほうを振り返ると、ジーナ・ラフ選手は意気揚々と、ユーリ選手はしょんぼりと肩を落とし、それぞれの帰路をたどっている。


「……ご感想は如何ですか?」


 歩きながら、女史はそのように問うてきた。


「そうっすね。この恵比寿AHEADはうちの興行でもたまに使わせてもらってますけど、満席なんてそうそうありません。毎回こんな客入りなんだったら羨ましい限りです」


「そうですか。……しかし《アトミック・ガールズ》は他団体よりも宣伝費に予算を割いておりますし、海外選手の招聘にも力を入れておりますので、これぐらいの規模の会場は満席にしないと経営が立ち行かないのでしょう。利益の大半は物販商品の売り上げや放送局との契約料などから得ているというのが現状なのだと推測されます」


「はあ、そういうもんですか」


「はい。それでも女子選手の試合のみで毎回この規模の会場を満席にできている格闘技イベントは、いまやこの日本において《アトミック・ガールズ》の他に存在しないのだろうとも思いますが」


 それはそうだろう。華やかりし格闘技ブームの頃とは時代が違うのだ。

 しかし、それでも会場は沸いていた。

 そんな熱気や高揚感が、今の瓜子にはひどく遠い。


(まさか、初めて生で観戦する《アトミック・ガールズ》の試合があんなインチキファイターの試合になるなんてなあ……)


 今さらながら、我が身の境遇に溜息をつきたくなってしまう。


『それではこれより本日のメインイベント、ライト級のタイトルマッチを開始いたします!』


 リングアナウンサーの宣言に、瓜子はハッと振り返る。

 ライト級のタイトルマッチ───『サムライキック』の異名を持つライト級の王者、サキ選手が登場するのだ。

 知らずうちに、鼓動が高まってきてしまう。


「どうされました、猪狩さん?」


「……いえ、何でもありません」


 めいっぱいに後ろ髪を引かれつつ、瓜子は速足で千駄ヶ谷女史を追いかけた。

 頭半分ほど高い位置から、女史は沈着な眼差しを向けてくる。


「ところで、私がさきほど尋ねたのはこの興行の印象ではなく、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の印象であったのですが」


「あ、そうだったんすか。すみません。……だけど、《アトミック・ガールズ》の試合は毎回スポーツチャンネルで拝見してますし、そもそもあの選手は有名人っすから、今さら印象は変わらないっすよ」


「その印象を、おうかがいしたいのです。貴女の目にユーリ選手はどのように映っているのでしょう?」


 瓜子は、言葉に詰まってしまった。


 地上最弱のプリティファイター。

 格闘家もどきのグラビアアイドル。

 人気に実力がともなわない、話題先行の客寄せパンダ。

 何をどんな風に言いつくろっても、否定的な見解にならざるを得ない。


「ええ、まあ……人気はありますよね」


「それは世間の評価であり、貴女の意見ではありませんね。私が尋ねているのは、貴女自身の印象です」


「……良い印象はないっすよ。だけど、きちんと顔を合わせるのはこれが初めてなんすから、実際のところはよくわかりません」


 もとより腹芸などできる性質でない瓜子は、正直な感想を述べることにした。

 千駄ヶ谷女史は無表情のまま、ひとつうなずく。


「とても誠実な回答です。まだお若い貴女にこのような業務を託すのは少し不安でもあったのですが、これなら心配はなさそうですね」


 そうなのか。

 だったらもっと悪い回答をして見放されてしまったほうが、楽になれたかもしれない───そんな風に考えかけて、瓜子は慌てて首を振る。

 瓜子の身に訪れたのは、僥倖なのだ。不幸中の幸いなのだ。これを不運と見なしてしまっては、瓜子はまったく立ちゆかなくなってしまう。


 ユーリ・ピーチ=ストーム。

 本名、桃園由宇莉ももぞのゆうり

 年齢、十九歳。

 所属、フリー。

 練習場所、新宿プレスマン道場。

 女子総合格闘技の興行、《アトミック・ガールズ》を主戦場に活動を続けるプロファイター。

 副業は、グラビアアイドル、モデル、タレント。

 戦績は、一勝十敗一引き分け。


 このユーリ・ピーチ=ストームこそが、今後の瓜子の人生を左右する運命の担い手なのである。

 それが嫌ならば、荷物をまとめて両親のもとに帰るしかない。


 瓜子は気持ちを引き締めなおしつつ、千駄ヶ谷女史に続いて関係者専用の扉をくぐった。

 鉄骨やコンクリがむきだしになった、薄暗くて細長い通路である。これからメインイベントを迎えようとしているところであるのだから、今はそこにも人通りはほとんどない。


 しばらく歩くと、控え室の扉が見えてきた。

 この恵比寿AHEADに個人用の控え室は存在しないので、そこはユーリ選手をふくむ赤コーナー陣営の選手たち全員に割り振られた控え室だった。


「大体なあ、手前の存在は最初っから目障りだったんだよ!」


 ノックをしかけた千駄ヶ谷女史の手が、ぴたりと空中で停止する。

 控え室の内側から、女性の上ずったわめき声が響きわたってきたのである。


「ブヨブヨとみっともねえ身体しやがって! 手前みたいな女がいるから女子格闘技はなめられるんだ! 男に色気をふりまきてえんだったら、どこか別の場所でやれってんだよ!」


「ひっどーい! こう見えても、ユーリのボディは全身筋肉のカタマリなんですよぉ? 毎日きちんとお稽古してるんですからぁ」


 鼻にかかった、甘ったるい声。

 確認するまでもない。ユーリ選手の声だ。


「あっ! サキたんの試合が始まっちゃう! とりあえずそこを通してくださいよぉ。サキたんの試合を応援してあげないと、あとで蹴っ飛ばされちゃうんですからぁ」


「うるせえよ! サキ、サキって犬ころみたいになつきやがって! プレスマンの正式な門下生でもねえくせに、そういうところも目障りなんだよ!」


「ええ? たしかに所属はフリーですけどぉ、毎月きちんと月謝はお支払いしてますよぉ? 道場のみなさんも、とってもよくしてくれてますしぃ」


「へえ? だったら手前は、そこで何人の男に股を開いたんだよ?」


 ユーリ選手を責めたてる声に、陰湿な笑いの響きが混じりこむ。

 しかし、それに応じるユーリ選手の声は、びっくりするぐらい溌剌としていた。


「開きません! ユーリは清らかな乙女なんですから! ……さぁ、とにかくそこを通してくださぁい」


「通さねえよ、アバズレ女! ……名門プレスマン道場も地に落ちたもんだなあ? こんなインチキ女に軒先を貸したあげく、おまけにそいつは驚異の連敗記録を更新中ときたもんだ。どんなに他の選手が頑張っても、手前が汚した看板の泥は落ちねえんだよ!」


「……ユーリが負けっぱなしなのは事実ですから弁解はしませんけどぉ、道場のみなさんを馬鹿にするのはやめてくださぁい」


「うるせえ! 口ごたえするんじゃねえよ!」


 のらりくらりとしたユーリ選手の声にいっそうの激情をかきたてられたのか、女の声が雷鳴のようにひび割れた。

 そのタイミングで、千駄ヶ谷女史が扉を叩く。


「失礼いたします。ユーリ・ピーチ=ストーム選手はいらっしゃいますか?」


 返事も待たずに扉を開くと、一触即発としか言い様のない情景が瓜子たちの前に展開された。


 大柄で土佐犬のような面がまえをした女子選手が、ユーリ選手の右肩をつかみ、バンテージに包まれた右拳を振り上げている。それを背後から、セコンドと思しき男たちが必死に食い止めている。

 その厳つい容貌には見覚えがあった。《アトミック・ガールズ》の無差別級を担う三強の一角、《西の猛牛》こと兵藤選手だ。


 それを取り囲む他の選手やトレーナーたちは、いずれもにやにやと人の悪い笑みを浮かべているか、あるいは素知らぬ顔をしていた。


「あ、千さんじゃないですかぁ。おひさしぶりですぅ。千さんが控え室に来てくれるなんて珍しいですねぇ?」


 緊迫感のない声で言い、ユーリ選手が兵藤選手の指先をもぎ離す。

 兵藤選手は「くそっ!」とわめきながら、罪もないパイプ椅子を蹴り飛ばした。


「おひさしぶりです、ユーリ選手。少々お時間を頂戴したいのですがよろしいでしょうか?」


「はいはい、もちろんですよん。それでは失礼いたしますねぇ」


 あくまでも朗らかに言いながら、ユーリ選手は足もとに落ちていた大きなボストンバッグを拾いあげ、こちらのほうに小走りで寄ってきた。

 そうして後ろ手で扉を閉め、「ふう」と息をつく。


「ああ痛かった。まったく、ユーリちゃんの珠のお肌に気安く触らないでいただきたいにゃあ」


 そんなことをぼやきながら、ユーリ選手は首にひっかけていたピンク色のタオルで、わしづかみにされていた右肩をぬぐいはじめた。

 いささか神経質に見えなくもない仕草である。


「……大丈夫ですか、ユーリ選手? セコンドの方々はどうされたのでしょう?」


「あ、プレスマンの人たちはみんなサキたんの試合を観に行っちゃいましたぁ。控え室でひとりぼっちになると、いっつもこうなんですよねぇ」


 ライト級王者のサキ選手もまた、新宿プレスマン道場の門下生であるのだ。

 しかし、このユーリ選手も外様とはいえ門下生のひとりであることに違いはないのだから、それをほっぽりだしてセコンドの全員がそばを離れてしまうというのは少々お寒い話であったのだが───それでもユーリ選手はあっけらかんとした顔で笑っていた。


(あんなぶざまな試合をしておいて、よくも呑気に笑っていられるもんだ)


 そんなことを考えながら、瓜子は初めて真正面から相対するユーリ・ピーチ=ストームという存在を入念に観察させていただいた。


 イメージよりも、背が高い。もちろん百六十七センチという数値は承知の上だが、やたらと子供っぽい表情をした人物であるので、少し意外に思えてしまう。

 それに彼女はまだ試合衣装のままであったため、その超絶的なスタイルも嫌というほど見せつけられることになった。


 途方もないサイズを有した胸とおしりに、くびれた腰が艶かしい。腕や足にもぞんぶんに肉がついているが、彼女を肥満とそしることは誰にもできなかっただろう。どこもかしこもやわらかそうで、おまけに驚くほど色が白い。至極絶妙なバランスで保たれた、それは肉感の極みともいうべき完成されたプロポーションであった。


 あらためて、プロのファイターなどには見えない。

 瓜子だってあんまり他人のことは言えないのだが、それでもこの娘よりはマシだろうと思う。

 とにかくその内からあふれでる色気やフェロモンの圧力が尋常でないのだ。


 それにまた、ファイター特有の張り詰めた感じというか、気迫や闘争心といったものが微塵も感じられない。

 肩をすぼめて、ちょっと内股で、猫科の動物みたいに小首を傾げたその姿は、彼女が普段やっているグラビア撮影のワンシーンみたいに可愛らしく、そこにそうして立っているだけで薄暗い廊下に光がさしたかのようであった。


 その端正な顔にはそれを際立たせるようなメイクが、バンテージの巻かれた指先にはピンクを基調とした複雑なネイルアートがほどこされている。

 負傷などはないのだろう。白い面が少し上気しているだけで、元気いっぱいの様子である。


 その表情もたたずまいも、何だかふわふわとしていてつかみどころがない。それが瓜子の、初めて間近に見るユーリ・ピーチ=ストームに対する正直な第一印象だった。


「で、今日はいったいどうしたんですかぁ? ……そちらのかわゆい子ちゃんは、いったいどなた様?」


 と、いつも眠たげに見えるとろんとした瞳が、瓜子のほうに向けられる。


「こちらは品川MAジム所属の、猪狩瓜子さんです。《G・フォース》を中心に活動されているそうなので、ユーリ選手も何度か顔をあわせているはずですね」


 そう、何度か顔はあわせているはずだった。

《G・フォース》というのは《G・ワールド》というキックボクシング団体の女子部門であり、ユーリ選手はそちらでもラウンドガールとしての職務を果たしていたのである。


 しかし瓜子は試合中そのようなものに関心は払っていなかったし、それはユーリ選手のほうとて同様だろう。きちんと顔をあわせるのは、正真正銘これが初めてであるはずだった。


「はあ。イカリウリコちゃんですかぁ。何だかよくわからないけど、こんばんはですぅ」


 そう言って、ユーリ選手はにこりと微笑んだ。

 それは何だかずいぶんと無邪気かつ無防備な笑顔であり、何とはなしに瓜子を驚かせた。


 地上最弱のプリティファイター。

 格闘家もどきのグラビアアイドル。

 テレビ局とのコネクションでデビューを果たした、話題先行・実力皆無の問題児。


 そんな悪名にまみれたユーリ・ピーチ=ストームは、試合で惨敗した直後であるにも関わらず、まるで天使のようににこにこと幸福そうに笑っていた。

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