アトミック・ガールズ!

EDA

1st Bout ~No Fight, No Life~

ACT.1 地上最弱のプリティファイター

01 記念すべき敗戦

 会場には、真冬のさなかとも思えぬ熱気が満ちみちていた。

 時は一月の第三日曜日、場所は格闘技専用のイベントホール恵比寿AHEADにおいてのことである。


 恵比寿AHEADの最大収容人数はおよそ千二百名。

 見渡す限り、立ち見席のわずかなスペースを除いては満席であるようだ。


(ふーん。話には聞いてたけど、ずいぶん盛況なんだな)


 関係者専用の入口から入館を果たした猪狩瓜子いかりうりこは、憮然とその会場の様子に視線を巡らせる。

 本日この恵比寿AHEADにおいて開催されているのは、女子選手のみを対象とした総合格闘技の興行、《アトミック・ガールズ》の試合であった。


 ブームの去った総合格闘技という競技の、さらにマイナーな女子部門のイベントであるわけだ。

 そうであるにも拘わらず、会場にはひとかたならぬ熱気と興奮が渦を巻いていた。


「遅い到着になってしまったので、次がユーリ選手の試合のようです。会場が盛り上がっているのはそのためなのでしょう」


 瓜子に同行していた女性が、冷徹きわまりない声でそのように評した。

 瓜子がこれからお世話になるスターゲイトという会社の、千駄ヶ谷という女性社員だ。


 アップにまとめた黒髪と縁なし眼鏡、それに紺色のレディススーツがとてもよく似合っている。すらりと背が高く、年齢は三十路に届くかどうかという頃合いで、漫画に出てくる切れ者の社長秘書みたいな風貌の持ち主である。


「ユーリ選手にはそれだけの力があるのです。私たちも、気持ちを引き締めてこれからの仕事に取り組むべきでしょう」


 そのように言われたが、瓜子には「はあ」としか答えようがなかった。

 瓜子はまだ、己の置かれた環境というものに適応しきれていなかったのだ。


 瓜子は十八歳の高校三年生であったが、いちおうはプロライセンスを保有するキックボクシングの選手であった。

 そんな自分が、自分とは関係のない試合会場でバックステージパスをぶら下げて、無人の四角いリングを見下ろしている。どうしてこんなことになってしまったんだろう、というのが正直な心情だった。


 そのとき、会場内の照明が一段階暗くなった。

 リングの中央に白いスポットが当てられて、観客たちはいっそうの歓声をほとばしらせる。

 やがてその歓声に応じるようにして光の中心に進み出てきたのは、昭和の手品師みたいにかしこまった燕尾服を着たリングアナウンサーであった。


『これより本日のセミファイナルを開始いたします!』


 歓声に、口笛と拍手が追加される。

 観客たちのボルテージがぐんぐん上がっていくのが、瓜子にも肌で感じられた。


『青コーナーより、ジーナ・ラフ選手の入場です!』


 歓声に、カントリー調の入場曲がかぶさった。

 北側の入場口にスポットが当てられる。

 やがてそこから現れたのは、ウエスタンハットをかぶった白人女性であった。


 瓜子の位置からは小さくしか見えないが、横手のスクリーンにはその姿が大きく映し出されている。星条旗カラーのタンクトップとボクシング用のトランクス、それにデニムのベストを羽織った、いかにも北米出身といった風貌の女子選手だ。


 日本における試合ということで、ちょっとチープなぐらいにアメリカ的なファッションを打ち出しているのだろう。

 しかし、ウエスタンハットの陰からうかがえるその青い瞳には、これ以上ないぐらいの気迫があふれかえっていた。


 そんなジーナ・ラフ選手がセコンドの白人男性とともにリングに上がり、右の拳を突き上げる。

 その拳に装着されているのは、指先の露出したオープンフィンガーグローブである。

 総合格闘技、あるいはMMAと呼ばれるこの競技においては打撃技ばかりでなく投げ技や関節技などが認められているため、たいていはこのオープンフィンガーグローブの着用が義務づけられているのだ。


 ジーナ・ラフ選手はウエスタンハットとデニムのベストをセコンドに手渡すと、マットの上で膝の屈伸を始めた。

 鼻が大きくて下顎のがっしりとした厳つい顔立ちをしており、その表情は鋭く引き締まっている。


 その間に、リングアナウンサーがまた進み出た。


『赤コーナーより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の入場です!』


 とたんに、歓声が爆発する。

 まさしく爆発としか言いようのない、それは歓呼の嵐であった。


 シャッフル調の陽気な電子音が鳴り響く。

 しかしその音色も歓声にかき消されてしまう。

「ユーリ!」のコールがあちこちから上がり、入場口に再びスポットが当てられる。


 演出用の白い炭酸ガスが噴出され、それをかきわけるようにしてユーリ・ピーチ=ストーム選手が登場した。

 赤や青の照明が狂ったように乱舞する。

 もともとはロック系のライブハウスであったという恵比寿AHEADは、演出の華やかさを売りにしているのだ。


 それらの光に彩られながら入場するユーリ・ピーチ=ストーム選手の姿が、またスクリーンにクローズアップされていた。


 背中の半ばまで届くような、ウェーブがかった栗色の髪。

 ぬけるように白い肌。

 とろんと眠たげに細められた、やや垂れ気味の目。

 すっと筋の通った細い鼻。

 肉感的なピンク色の唇。

 なめらかなラインを描いた卵型の顔。

 その身に纏っているのは、ピンク色のボアがついたロングコートのような入場衣装だ。


 そこらのモデルやタレントが裸足で逃げ出すような、きわめて愛くるしい容貌である。

 やや幼げな感じもするのに、色気とフェロモンがあふれかえっている。

 そんな彼女が跳ねるような足取りで、時には赤いグローブに包まれた手で投げキッスなどを繰り返しながら、光と歓声に包まれた花道を闊歩している。


(……本当に、たいした人気だな)


 瓜子が溜息をついている間に、ユーリ選手はぴょんぴょんとリングへの短い階段を駆け上がっていく。

 そして彼女はトップロープに手をかけると、意外な身軽さでその上をひらりと跳びこえた。


 そうして彼女がその身に纏っていた入場衣装を脱ぎ捨てると、倍する勢いで歓声が轟く。

 彼女は愛くるしい容姿ばかりでなく、卓越したプロポーションをも有しているのだ。


 試合衣装はピンクと白を基調にしたハーフトップとショートスパッツであり、胸もとと腰回りを除くすべての肢体が惜しげもなく人目にさらされてしまっている。

 左胸にプリントされている『P☆B』の文字は、彼女とスポンサー契約を交わしている有名なファッションブランドのロゴマークだ。


 格闘技選手の試合衣装としては珍しくもない露出具合いであるが、何せその内側の肢体の艶めかしさが尋常でない。胸や臀部は途方もなく大きくて、そのくせウエストはきゅっとしまっており、その優美なラインで描かれた脚線美などは同性でもうっとりと見とれてしまいそうなほどであった。


 ユーリ選手がグローブに包まれた右拳を差し上げると、それに応えるように歓声がうねりをあげる。

 確かに、途方もなく華のある選手である。

 大体が、その恵まれすぎたルックスからして格闘技の選手としては規格外であるし、何も知らない人間が見たらラウンドガールがリングの上ではしゃいでいるようにしか見えないだろう。


 また実際、彼女は副業でラウンドガールの仕事をこなしたりもしていた。

 ラウンドガールばかりでなく、ファッション誌やグラビア誌のモデル業にテレビ出演などのタレント業までこなす、彼女は名うてのアイドルファイターなのである。


『本日のセミファイナル、ミドル級、五十六キロ以下契約、五分二ラウンドを開始いたします!』


 そんなユーリ選手のもたらした熱狂がわずかばかりに勢いを弱めたところを見計らって、リングアナウンサーがマイクを振りかざす。


『青コーナー。百六十四センチ。五十五・八キログラム。ゴードンMMAジム所属。元WAKFフェザー級王者……ジーナ・ラフ!』


 それなりの歓声に、それなりの拍手。

 ジーナ・ラフ選手は、厳しい表情のまま軽く右手を上げてそれに応える。


 WAKFというのは、瓜子もよく知る世界有数のキックボクシングの団体であった。

 ジーナ=ラフ選手の肉体には、その肩書きに相応しいだけの筋肉が張り詰めている。特にその大腿筋の発達具合いといったら、男子選手にも劣らないほどである。


 褐色の髪を頭のてっぺんで引っ詰めて、青い瞳を強く光らせている。その面には、入場時よりもさらに激しく闘争心がみなぎっていた。


 そしてリングアナウンサーが、さらなる美声を張り上げる。


『赤コーナー。百六十七センチ。五十五・六キログラム。フリー……ユーリ・ピーチ=ストーム!』


 溜めに溜めまくっていた歓声が、ここぞとばかりに解放された。

 ユーリ選手は、緊張感もへったくれもない笑顔でそれに応える。


 つくづくファイターらしからぬ娘さんである。

 ただ可愛らしいとか美人であるとかいう前に、色気があふれすぎているのだ。


 数値の上ではユーリ選手のほうが長身であるが、体格は明らかにジーナ・ラフ選手が上回っている。東洋人と西洋人ではまず骨格の出来からして異なるし、そもそもジーナ・ラフ選手の鍛えぬかれた身体とユーリ選手のふよふよとやわらかそうな身体では比較にもならなかった。


『両者、前へ』


 インカムマイクをつけたレフェリーが、両者をリングの中央に招き寄せる。

 その顔は、何となく修行僧のように禁欲的な面持ちになってしまっていた。


『……肘打ちは禁止。頭突きは禁止。髪や着衣をつかむのは禁止。グラウンド状態における頭部・顔面へのキックや膝蹴りは禁止。注意二回で減点、悪質な反則は即時で失格負けとなるので、両者、クリーンなファイトを心がけるように』


 ルールミーティングなどは事前に徹底して行われているだろうし、そもそもジーナ・ラフ選手は日本語など解さないだろう。これは観客や、のちにスポーツ専門チャンネルで試合の中継を見る視聴者のためのパフォーマンスだ。


 身振りもまじえてルール確認の口上を述べ終えたレフェリーが、最後にポンと自分の両手を合わせる。

 握手せよ、との合図である。


 ユーリ選手は、にこやかな表情で両手を差し出した。

 ジーナ・ラフ選手は、それを黙殺して青コーナーに引き下がった。

「ちぇっ」というようにピンク色の唇をとがらせて、ユーリ選手も赤コーナーに下がる。


 その間も歓声はいっこうに鳴り止まず、リング下では報道陣がカメラのフラッシュを瞬かせていた。

 ユーリ選手は「いぇーい」とそちらにピースサインを送り、ジーナ・ラフ選手はただひたすらに青い目を燃やしている。


 そんな中、試合開始のゴングが鳴った。

 鳴ると同時に、ユーリ選手がコーナーを飛び出した。

 おおっ、と千二百人からの観客がどよめく。


「てやあっ!」


 気合一閃、渾身のハイキックが虚空を引き裂いた。

 その愛くるしい外見からは想像もつかないような、美しいフォームである。


 ただし、試合開始直後に渾身のハイキックなどを放っても、まずもって当たることはない。

 ジーナ・ラフ選手は上体を屈めてその攻撃をやりすごすと、素早くユーリ選手の懐にもぐりこみ、綺麗にくびれたウエストのど真ん中に左のボディアッパーを叩きつけた。


「おふっ」と空気のもれるような声をもらし、ユーリ選手は上体を折り曲げる。

 そのこめかみに、ジーナ・ラフ選手の右の裏拳が飛ぶ。


「うぴゃっ」と奇妙な声をあげて、ユーリ選手は前のめりに崩れ落ちた。

 ああっ……と観客が失望の声を合唱させる。


 ジーナ・ラフ選手はユーリ選手の丸まった背中にまたがるや、その白い喉咽もとに右腕をこじいれはじめた。

 同時に、両足がユーリ選手の胴体に巻きついていく。


「うぐぐぐ……」とユーリ選手も必死に耐えたが、やがて丸まっていた身体は真っ直ぐにのばされて、ごろりと仰向けにひっくり返されてしまった。


 おんぶお化けのように取りついたジーナ・ラフ選手は、背後からぐいぐいとユーリ選手の首を絞めあげていく。ユーリ選手はじたばたともがいたが、大きな胸が揺れるばかりで拘束はまったくゆるむ気配もない。


 そうしてジーナ・ラフ選手がさらに右腕を引き絞り、ユーリ選手の目がふっとうつろに焦点をぼかすと───レフェリーが腕を振り、両者の身体を引きはがしにかかった。


 試合終了のゴングが乱打され、ユーリ選手の身体はべしゃりとマットに放り出される。


『一ラウンド、三十五秒、チョークスリーパーによるレフェリーストップで、ジーナ・ラフ選手の勝利です!』


 無情なアナウンスが場内に響きわたり、レフェリーが『ウィナー!』とジーナ・ラフ選手の右腕を持ち上げる。

 ジーナ・ラフ選手はようやく緊張の解けた表情で肩をすくめ、おざなりの拍手がおざなりに健闘をたたえた。


 ジーナ・ラフ選手は悪くない。彼女は彼女のやるべきことをやりとげただけだ。

 しかし会場内には、拍手や歓声に倍する勢いで脱力気味の嘆息があふれかえっていた。


 そんな中、ようやく半身を起こしたユーリ選手はぺたりとマットにしゃがみこんだまま、ふくよかな唇をかみしめて、勝利者を見上げている。

 その顔は、まるでアメ玉を取り上げられた幼な子のような表情を浮かべており、黒目がちの大きな瞳も完全に涙目になってしまっていた。


 これまでの通算戦績は、十一戦で一勝九敗一引き分け。

 本日の試合は、十二戦目。

 およそ一年ほど前にプロデビューを果たした地上最弱のプリティファイターことユーリ・ピーチ=ストーム選手の、これが記念すべき十敗目の試合と相成ったのだった。

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