02 開会
すべての下準備を終えたならば無事に開場の時間となり、その三十分後には開会セレモニーである。
瓜子がそれを控え室のモニターで見守るというのは実にひさびさの話であったし、隣にユーリが控えているというのは前代未聞であったかもしれない。かつて灰原選手が言っていた通り、プレスマン道場の門下生が《アトミック・ガールズ》にひとりも出場しないというのは、数年ぶりのことなのかもしれなかった。
それでもパラス=アテナの面々は頭を振り絞って魅力的なマッチメイクを考案し、千六百名ばかりを収容できる『ミュゼ有明』もおおよそ満席であるという。シンガポール遠征の関係でサキや愛音まで欠場させることになってしまった瓜子としては、実にありがたく、そして心強いと思える話であった。
そんな本日の興行を支える選手たちが、ひとりずつ花道に姿を現していく。
まずはプレマッチに出場する四名のアマチュア選手で、そのひとりは一月大会で勝利をあげたドッグ・ジムの新人選手である。ジャグアルの浅香選手は住まいが遠いためか、残念ながら今回は出場が見送られていた。
そして本選の第一試合はドッグ・ジムの道場主たる犬飼京菜の登場で、対戦相手はこれまで《フィスト》で実績を積んでいた強豪選手――しかも所属は、ジルベルト柔術アカデミー調布支部であった。
第二試合はフライ級の中堅同士の一戦で、その片方の加藤選手は古きの時代にオリビア選手と対戦して、あっさり敗退している。その後はあまり消息を聞く機会もなかったが、着実に実力をのばしているという話であった。
第三試合はストロー級で、こちらも中堅同士の一戦となる。ただその片方は、中堅の筆頭格である奥村選手だ。こちらもひさしく名前を聞いていなかったが、《フィスト》や《NEXT》で勝利を重ねて、《アトミック・ガールズ》に凱旋した格好であった。
第四試合はアトム級のトップファイター、前園選手である。去年の十一月大会で金井選手を下してトップファイターの座を守った前園選手は、中堅選手を相手にした調整試合であった。
第五試合は、白木選手と武中選手。これはどちらも、トップファイターである山垣選手に敗れた者同士の対戦だ。有望株と称されながらちょっとのび悩んでいる者同士という、そういう類いのサバイバルマッチであった。
灰原選手が地味と称していたのは、ここまでであろう。第一試合は一番槍として派手な内容になっていたが、それ以外は中堅選手がらみの試合であるのだ。
しかし、すべての試合をトップファイターだけで組んでいたならば、中堅選手や新人選手の成長の場が失われてしまう。ここ数回はかなりトップファイターを起用していたので、プレスマン道場の所属選手が参戦できない今回を狙って、あえて中堅選手を大放出したのではないかと思われた。
しかしまた、中堅選手ばかりを起用していると、集客に不安が生じるものであろう。そこで、後半戦にトップファイターがらみの派手な試合を詰め込んだわけである。
その先鋒戦となる第六試合は、灰原選手のキックマッチであった。
相手は瓜子が去年の九月にエキシビションマッチで対戦した、《トップ・ワン》のランカー三位となる選手である。瓜子にKO負けを喫したその選手が、公式マッチでリベンジを果たすべく乗り込んできたわけであった。
第七試合は小柴選手の登場で、こちらも《フィスト》を主戦場にしていた強豪選手となる。今回は《フィスト》から二名のアトム級のトップファイターが参戦して、犬飼京菜と小柴選手が相手取ることになったのだ。こちらは仙台に住まっており、アマチュアの時代から確かな戦績を築いているとのことであった。
第八試合は、マリア選手と時任選手の一戦である。
オリビア選手に勝利して、多賀崎選手に敗れた時任選手に、今度はマリア選手がぶつけられることになったのだ。マリア選手は直近で多賀崎選手に勝利しているので、試練となるのは時任選手のほうであろうが――ただし、ディフェンス能力に定評のある時任選手に、かなりクセのあるファイトスタイルのマリア選手という組み合わせであるため、どのような勝負になるのか興味をそそられるマッチメイクであった。
第九試合は、ジジ選手とオリビア選手の一戦だ。
これはもう、誰もが興味をかきたてられるだろう。ともにフライ級から階級を上げた両名が、バンタム級で初の対戦となったのだ。数々の日本人選手を苦しめてきた名うてのストライカー同士でもあるため、激戦が予想されてやまなかった。
そして第十試合のメインイベントは、魅々香選手と多賀崎選手のタイトルマッチである。
《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の王者同士の一戦であるのだから、盛り上がらないわけがない。瓜子にとっても、もっとも見逃せない一戦であった。
「うーむ。こうして開会セレモニーを拝見していると、どうしてもカラダがウズいちゃうねぇ」
と、ユーリは瓜子のかたわらでもじもじと身を揺すっている。
もちろん瓜子も気持ちはひとつであったので、「そうっすね」と応じるしかなかった。
開会の挨拶を果たすのは、魅々香選手である。
ユーリに負けないぐらい可愛らしい声をした魅々香選手は、気の毒なぐらい緊張しながらその大役を果たしていた。彼女がその役を担うのは、昨年の十一月大会から二度目のこととなる。他の階級の王者の試合数が少ないため、魅々香選手がメインイベントを務める機会が増えてしまうのだろうと思われた。
(次回の五月大会も、あたしとユーリさんはせいぜいエキシビションだもんな。それで、その後は……って、そんなことを考えるのは、まだ早いや)
瓜子とユーリは《ビギニング》の六月大会に出場する契約を交わしているが、まだ対戦相手も開催国も明かされていない。それは週明けにでも伝えられるという連絡が、プレスマン道場に届けられていた。
そこで確かな結果を示せば、いよいよ《ビギニング》から専属契約を持ちかけられることになるのだろう。
しかしすべては、六月の試合をやり遂げてからだ。今から思い悩んでいても、何も益はないはずであった。
「たっだいまー! しばらくは、のんびり試合観戦だねー!」
開会セレモニーから戻ってきた灰原選手が、さっそく瓜子に抱きついてくる。やはり本日は、多賀崎選手のお邪魔をしないという方針であるようであった。
(もしかしたら、そのためにあたしを呼んだのかな)
しかしまあ、それで多賀崎選手の集中が保たれるのであれば、瓜子としても不服はない。あとはユーリが羨望の思いをこらえるのみであった。
前半の試合に出場する選手たちはそれぞれのスケジュールに合わせてウォームアップに取り組み、後半の出番である選手たちはモニターを取り囲む。ただし、小柴選手と対戦する《フィスト》の選手はこちらの輪に加わらず、セコンド陣とともに少し離れた場所からモニターの様子をうかがっていた。
プレマッチの第一試合は、見知らぬアトム級のアマチュア選手たちだ。双方ともに序盤から積極的に動いて、結果はアームロックにより赤コーナー陣営の一本勝ちであった。
第二試合は、ドッグ・ジムの新人選手が登場する。本日も彼女はのほほんとした面持ちで試合に臨み、長い手足を上手く使って相手を寄せつけず、最後は三ヶ月蹴りでKO勝利をものにしていた。
「おー! デビューから二戦連続KOなんて、なかなかやるじゃん! さすがはわんころの一派だねー!」
「ええ。とにかく試合運びが落ち着いてるし、ここぞという場面の攻撃が鋭いっすね。犬飼さんとの過酷なスパーが身になってるんでしょう」
ただ残念ながらドッグ・ジムの面々は赤コーナー陣営であるため、お祝いの言葉をかけることもままならない。それは、祝勝会の時間を待つしかなかった。
そして立て続けに、犬飼京菜の登場だ。
本日も、彼女はひときわ小さな身体に気合をみなぎらせていた。
「さー、子分が勝ったんだから、こいつも負けてられないよねー! ま、相手はジルベルト柔術だし、立ち技だったら圧勝かなー?」
「どうでしょうね。ジルベルトの門下生だったら、立ち技の指導にも不足はないはずっすよ」
ジルベルト柔術の道場にはMMA部門も存在するため、出稽古をせずとも十分な指導を受けられるのだ。前回、ドッグ・ジムの新人選手と対戦したジルベルト柔術道場のアマチュア選手も、ベリーニャ選手と似たところのあるステップワークをお披露目していたのだった。
(それで今度はプロのトップファイターが、犬飼さんと対戦なんだもんな。あっちにしてみれば、ちょっとしたリベンジマッチなのかな)
しかし何にせよ、試合をするのは個人である。《フィスト》で活躍するジルベルト柔術道場のトップファイターがどれほどの力量であるのか、瓜子も刮目して見守る所存であった。
そうして、試合が開始され――犬飼京菜が、ロケットスタートを見せた。
全力疾走で、相手のもとに突進する。相手は深く腰を沈めつつ、いざとなったら左右に跳躍して回避しようという構えであった。
そんな相手に対して、犬飼京菜も深く身を沈める。
超低空タックルか、水面蹴りか、あるいは胴回し回転蹴りか――その体勢からでも、まだいくつもの選択肢が残された。
(でもやっぱり、柔術ルーツの相手にいきなりタックルは仕掛けないだろう)
そして、胴回し回転蹴りは回避されやすく、マットに倒れ込んだならば上を取られる危険が高い。もっとも堅実なのは、相手の足を薙ぎ払う水面蹴りではないかと思われた。
果たして――犬飼京菜は前屈の姿勢でマットに両手をつき、右足を旋回させる。マットすれすれの高さで相手の足を薙ぎ払う、水面蹴りだ。
相手も十分に予測していたらしく、前足を持ち上げてその水面蹴りを回避する。犬飼京菜が遠い間合いから水面蹴りを放ったため、前足を浮かせるだけでやりすごすことがかなったのだ。
ファーストアタックは、空振りであった。
そして相手は、ゆとりをもって対処できている。これだけ間合いが詰まってしまうと、極端に打たれ弱い犬飼京菜には危険なポジションであった。
浮かせた左足を下ろしつつ、相手は右フックのモーションに入っている。
犬飼京菜が身を起こしたならば、すぐさま打撃戦を仕掛けようという算段だ。
しかし犬飼京菜は、身を起こさなかった。
マットについていた手を浮かすなり、そのまま相手の足もとにつかみかかったのだ。
犬飼京菜の短くて細い腕が、相手の膝裏を抱え込む。
犬飼京菜はそのまま相手の身体をフェンスに押し込むと、その衝突の反動を利用して、身をのけぞらせた。相手の膝裏を抱え込んだ状態での、スープレックスである。
空中で身を丸めた相手は、背中からマットに叩きつけられる。
その上にのしかかった犬飼京菜は、子犬のような敏捷さでマウントポジションを奪取した。
そうして振るわれたのは、肘打ちの乱打である。犬飼京菜は腰から上を躍動させて、左右のエルボーを相手の身に叩きつけた。
相手選手はしっかり頭部をガードしているが、その前腕がへし折れてしまうのではないかというぐらいの勢いである。
なおかつ、これだけ激しく動いているというのに、相手がどれだけブリッジをしても、犬飼京菜の体勢は崩れない。彼女は限界まで腰をひねり、その小さな身体で可能な限りの勢いをつけて、左右のエルボーを乱打した。
相手選手は狂ったように身をよじり、ついに背中を向けてしまう。
すると犬飼京菜は、エルボーと同じ勢いで右腕を相手選手の咽喉もとにくぐらせた。
そうしてチョークスリーパーの形を取り、小さな身体をいっそう小さくぎゅっと丸め込む。それと同時に、相手選手はマットをタップしていた。
『一ラウンド、四十三秒! チョークスリーパーにより、犬飼京菜選手の一本勝ちです!』
犬飼京菜は何事もなかったかのように立ち上がり、ぶすっとした顔でレフェリーに右腕を持ち上げられた。
相手選手はマットに突っ伏したまま、立ち上がれずにいる。その左右の前腕は、あちこちが青黒く変色してしまっていた。
「わーっ! 柔術の相手にグラウンド戦を仕掛けて一本勝ちなんて、小憎たらしいねー! どうしてこう、こいつってひねくれてるんだろうねー!」
「いや。相手が柔術の選手だったからこそ、いきなりのタックルが有効だったんじゃないっすか? 向こうもきっと、打撃のディフェンスを磨いてきたんでしょうからね。奇をてらったんじゃなく、勝つための作戦だったんだと思います」
そんな風に答えながら、瓜子がユーリのほうを振り返ると――ユーリは目もとの涙をぬぐいながら、照れ臭そうに「てへへ」と笑った。
「あれ……ユーリさんが犬飼さんの試合で泣いちゃうのは、ちょっとひさびさっすね」
「うみゅ。でもでも、以前とはまったく違う気持ちだよぉ。昔はイヌカイちゃんの試合を見てると、胸が痛かったぐらいなのだけれども……今は、心がほわほわしているのです」
ユーリの言葉はあまりに抽象的であったが、瓜子も何となく理解できるような気がした。すべての情念をぶつけるような犬飼京菜の試合は、以前からユーリや瓜子の気持ちを揺さぶってならなかったのだが――おそらくは、その情念の質が変化しているのだ。
昔の犬飼京菜は、父親を死に追いやった世界に復讐をしてやろうという憎悪にまみれていた。
しかし今は、父親から受け継いだ力を正しく世界に示そうとしているような――そんな気迫であるのだ。
犬飼京菜が獰猛で荒々しいことに変わりはない。しかし、心のもっとも奥深くに据えられた思いが変化したのではないかと、そんな風に思えてならないのだ。
まあ、すべては瓜子の思い込みに過ぎないのかもしれないが――ともあれ、瓜子は憂いなく犬飼京菜の勝利を祝福することがかなったのだった。
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