act.3 《アトミック・ガールズ》三月大会

01 入場

 シンガポールから帰国して五日後の、三月の第三日曜日――

 その日が、《アトミック・ガールズ》三月大会の当日であった。


 その一週間前にシンガポールで大役を果たした瓜子とユーリは、もちろん二人そろって欠場である。

 しかしもちろん、会場に出向かないわけがない。このたびの興行でも懇意にしている面々が数多く出場するし、試合の後には合同で祝勝会が開かれるのだ。《ビギニング》の試合でよほどの深手を負わない限りは来場すると、瓜子たちは前々から約束を交わしていた。


 ただし、当初の瓜子たちは観客としてチケットを購入する予定であったのだが――そこで、思わぬ提案をされることに相成った。灰原選手やオリビア選手のセコンドについてもらえないかと打診されたのである。


「なんせ今回は、キックマッチだからさー! 経験者のうり坊だったら、セコンドにもってこいじゃん! 今回はマコっちゃんがミミーとタイトルマッチだから、うちのジムもちょっとばっかり人手不足なんだよー!」


「ワタシはもともとプレスマンのみなさんにセコンドをお願いしようと思っていたので、ユーリにもお願いできませんかー?」


 そんなありがたい言葉をいただいて、瓜子たちは間近から朋友たちの戦いを見守ることがかなったのだった。

 そしてさらには、愛音と蝉川日和もその流れに巻き込まれることになった。愛音はジョンやユーリともどもオリビア選手、蝉川日和は鞠山選手や小笠原選手ともども小柴選手のセコンドだ。そうしてプレスマン道場の関係者は誰も選手として出場しないまま、五名ものメンバーが来場することになったわけであった。


「せっかくだったら、サキたんや立松コーチもご一緒できたらよかったのにねぇ。まあ、祝勝会だけでもご一緒できれば、不満はないのですけれども」


「ええ。お二人には、ゆっくりお酒を楽しんでいただきましょう」


 ということで、本日も瓜子とユーリは控え室に乗り込むことになった。

 幸いなことに、灰原選手もオリビア選手も青コーナー陣営である。灰原選手は外様であるキックの選手を迎え撃つ立場であるが、同門の多賀崎選手が挑戦者として魅々香選手のタイトルに挑む立場であったため、まとめて青コーナー陣営に割り振られたのだ。


 いっぽうオリビア選手は、大変な正念場である。

 なんと本日の対戦相手は、かつての五十六キロ以下級の絶対王者たるジジ選手であったのだ。《アトミック・ガールズ》には珍しい、外国人選手同士による一戦であった。


「階級を上げて二戦目でジジ選手って、なかなかの試練っすよね。でもオリビア選手だったら、絶対に力負けはしないっすよ」


「あははー。ジジだって、階級を上げて三戦目ですからねー。フライ級では対戦するチャンスがなかったから、ワタシは嬉しいぐらいですよー」


 と、何事にも動じないオリビア選手はにこやかに笑っていた。両名は、ともにフライ級から階級を上げた立場であったのだ。そしてその時代はおたがいに日本人選手を脅かす立場であったため、対戦の機会がなかったわけであった。


(で、今は二人とも日本に滞在してるから、交通費の心配をすることなく、こんな贅沢なマッチメイクを組めるってわけか)


 なおかつ、オリビア選手もジジ選手も年末年始はそれぞれ長期の里帰りをしていた。そうしておたがいに一月大会を欠場して、このたび初の対戦を迎えることになったのである。バンタム級はトップファイターしか存在しないため、どうしたって過酷な戦いになってしまうわけだが、それにしてもなかなか異色のマッチメイクであった。


「ジジはキョウテキだけど、オリビアだったらカてるよー。ボクたちも、ゼンリョクでサポートするからねー」


 チーフセコンドたるジョンは、にこにこと笑いながらそう言った。オリビア選手も出稽古の期間は長いが、プレスマン道場の関係者にセコンドをお願いするのは初めてのことだ。これも《ビギニング》の影響でプレスマン道場の門下生がひとりも出場できなかった副産物のようなものであった。


 ただし、ジョンもユーリも愛音もつい先週までシンガポールに出向いていた身であったので、その期間にオリビア選手の稽古を受け持っていたのは柳原である。通常であれば柳原がチーフセコンドを受け持つところであったが、本日はどうしても所用があって夕方まで身動きが取れず、祝勝会にしか参加できないとの話であった。


(それに、オリビア選手は一月の終わりまで左足の怪我をひきずってたし、ちょっと厳しい試合なんだろうな)


 瓜子がそのように考えたのは、ジョンの激励に「ゼッタイに」の言葉が抜けていたためであった。ジョンはいつでも前向きであるが、決して底抜けに楽観的なわけではないのだ。それがそういう言葉のちょっとしたニュアンスにあらわれるのだろうと察せられた。


 しかし何にせよ、選手は死力を振り絞るしかない。オリビア選手はメイの試合を見届けるために一時帰国をして、気力も充実しているはずだ。瓜子は灰原選手のお世話に励みながら、オリビア選手の奮闘を見届ける所存であった。


「それにしても、今日は馴染みの薄い方々が山盛りだねぇ」


 と、ユーリがぼしょぼしょ耳打ちしてきた。オリビア選手と灰原選手と多賀崎選手を除くと、他に馴染みが深いのは武中選手と時任選手ぐらいであったのだ。


「基本的に、実力のある選手は赤コーナー陣営にまとめられますからね。武中選手が青コーナーになったのは、対戦相手の白木選手が武魂会だから小柴選手の陣営とまとめられたんでしょう。それで、時任選手は……この階級ではマリア選手のほうが実績は上だと見なされたんでしょうね」


「うみゅ。愛しの弥生子殿と離ればなれになってしまい、うり坊ちゃんもジクジたる思いでありましょうにゃあ」


「だから、いちいちすねないでくださいってば」


「すねてないですぅ」


 と、ユーリがふくよかな唇をとがらせたところで、灰原選手が笑いかけてきた。


「あんたたち、いちゃつくのは試合が終わってからにしてよねー! 今日はそれぞれ、別の人間の下僕なんだからさ!」


「余所のお人にセコンドをお願いしたあげく、失礼な口を叩くんじゃねえよ。しかも相手は、今や世界級のファイター様だぞ?」


 四ッ谷ライオットのサブトレーナーが、苦笑を浮かべつつ灰原選手の頭を小突いた。本日は彼がチーフセコンドで、若手の門下生が雑用係、外様の瓜子がサブセコンドに任命されていた。


「俺もキックの出身だけど、実績は猪狩さんのほうが上だからさ。どうか的確なアドバイスをお願いするよ」


「いえいえ。自分なんてもうエキシビションぐらいでしかキックの試合をしてませんでしたからね。サブセコンドなんて、恐れ多いぐらいです」


「いやいや。つい先週だって、ムエタイ王者を一ラウンドKOしてたじゃねえか。まあ、あれもあくまでMMAだったけど……それにしたって、大したもんだよ。あのレッカーって選手は、本場のタイでも実績を上げてたからなぁ」


「キックの試合だったら、自分に勝ち目はありませんでしたよ。レッカー選手だったら、タイでも王者を目指せるんじゃないですかね」


 すると、灰原選手が「むー!」とおかしな声をあげながら、瓜子に抱きついてきた。


「どーでもいーけど、主役のあたしをそっちのけにしないでよ! あと、うり坊をナンパするつもりなら、あたしが黙ってないからね!」


「いちいち失礼なこと抜かすな、馬鹿。猪狩さんみたいに可愛いお人が、俺なんざを相手にするかよ」


「だから、いちいち好感度を上げようとすんなー!」


 四ッ谷ライオットは四ッ谷ライオットで、実に賑やかな人間関係が構築されているようである。瓜子はよそ様の家庭団欒を拝見しているような、とても微笑ましい心地であったのだが――ユーリはじっとりと、羨ましげな目つきになってしまっていた。それもひとえに、灰原選手のスキンシップが過剰であるためである。


 いっぽう多賀崎選手は他なるトレーナー陣に囲まれて、この時間を静かに過ごしている。魅々香選手と対戦する多賀崎選手は、一年ぶりのリベンジマッチであり――そして、《アトミック・ガールズ》においては初めてのタイトルマッチであったのだった。


(多賀崎選手は《フィスト》の王者だけど、思い入れが強いのは《アトミック・ガールズ》のほうだろうからな)


 しかしそれは、魅々香選手も同様であろう。長きにわたってナンバーツーの座に甘んじてきた魅々香選手は、昨年ついに《アトミック・ガールズ》のチャンピオンベルトを巻くことがかなったのだ。すでにベテランの域である魅々香選手だからこそ、それを手放してなるものかという意欲に燃えているはずであった。


 しかも両者は、いずれ《フィスト》の舞台でもタイトルマッチを行う予定になっている。それでどちらかが二冠王となるのか、あるいはおたがいのベルトだけは死守するのか、はたまたおたがいのベルトを入れ替えることになるのか――運営陣も、ずいぶん苛烈な花道を準備したものであった。


「でもさー、今日はちょっと地味めの試合が多くない? うり坊たちが出られない分、もっとトップファイターで固めまくるべきだと思うんだけどなー」


 と、瓜子に抱きついたまま、灰原選手がそんな言葉を囁きかけてきた。その地味と評された試合に出場する選手が周囲にどっさりと控えているため、さしもの灰原選手も気を使っているのだろう。しかし瓜子は、「いえ」と答えてみせた。


「若手や中堅を育てないと、未来がないっすからね。自分はむしろ、運営陣の覚悟を感じたぐらいっすよ」


「ふーん? そーゆーもんなのかなー?」


「はい。実際に、チケットはほとんど完売したって話ですからね。若手や中堅の選手にしっかり出番を与えながら、それだけ魅力的なマッチメイクができたってことです。それって、理想的じゃないっすか?」


「ふふん。マコっちゃんはタイトルマッチで、あたしはキックの公式マッチだしねー。それだけでも、観に来る価値は十分以上っしょ」


 そう言って、灰原選手は雄々しく微笑んだ。


「ま、傍目には地味でも、本人たちにとってはみーんな正念場だしねー。お客にあくびをさせないように、せいぜい頑張ってもらおっか」


「ええ。きっとみんな、凄い試合を見せてくれますよ」


 瓜子としては、そこに参加できないのが残念なぐらいである。

 しかし瓜子はつい先週、《ビギニング》でレッカー選手を相手取ったばかりであるのだ。それで本日の参戦まで願うのは、強欲に過ぎるのだろうと思われた。


「それじゃあそろそろ、シアイジョウにムかおうかー」


 そんなジョンのひと言で、オリビア選手の陣営が腰を上げる。すると、四ッ谷ライオットの陣営が同調し、武中選手や時任選手の陣営も同調し――将棋倒しのように、すべての陣営が腰を上げることになった。


 そうして試合場に到着すると、そちらでもさまざまな陣営が輪を作っている。

 その中からこちらに近づいてきたのは、赤星道場の面々であった。


「猪狩さん、桃園さん。遅ればせながら、先週の試合はお疲れ様でした」


 まずは道場主たる赤星弥生子が、凛々しき面持ちでそのように告げてくる。ユーリはすねるのをこらえている面持ちで、「どうもいたみいりますですぅ」と頭を下げた。

 瓜子もお祝いの電話をいただいていたが、実際に対面するのは一月大会以来だ。ユーリをあまりすねさせないようにと思いつつ、口もとがほころぶのを止めることはできなかった。


「どうもありがとうございます。そちらも《レッド・キング》の試合、お疲れ様でした。あんな頑丈そうな男子選手をKOできるなんて、弥生子さんはさすがっすね」


「急所を打てば、男も女もないからね。……それにしても、猪狩さんがわざわざ試合映像を観てくれるとは思わなかったよ」


「ついに我が家もパソコンを導入したんですから、それは拝見いたしますよ。《レッド・キング》には、それだけの価値がありますからね」


《レッド・キング》は瓜子たちがシンガポールに出立した二月の最終日曜日に開催されたのだ。それで瓜子たちは帰国したのち、《レッド・キング》の公式サイトで有料の試合映像をストリーミング視聴させていただいたわけであった。


「マリア選手も出場してたので、びっくりしました。あれから三週間しか空いてませんけど、コンディションは問題ないんすか?」


「はい! あの日もほとんどノーダメージでしたからね!」


 マリア選手はそちらの大会で、素性のよくわからない女子選手とキックマッチに臨んでいたのだ。確かにアウトスタイルの名手たるマリア選手はおおよその攻撃をガードしていたが、多少のダメージと肉体疲労は抱えているはずであった。


 そんなマリア選手の左右には、赤鬼の父娘が控えている。そこで豪快に声をあげたのは、もちろん父親のほうであった。


「それにしても、二人は本当に凄い試合をやってのけたな! 相手の強さがひしひしと感じられた分、二人の凄さが実感できたよ!」


「ありがとうございます。レッカー選手もジェニー選手も、本当に強敵でしたからね」


「まったくだな! まあ、師範の無敗の記録に泥をつけた二人には、そう簡単に負けてもらっちゃ困るけどよ!」


 そんな風に言いながら、大江山軍造はいっそう豪快に笑い声を張り上げた。


「うちのハルキも無事に勝ったが、派手さで二人に負けたって奮起してたぜ! お二人さんもここまで来ると、女子選手だけじゃなく日本人選手の先導役だな! これからも勝ちまくって、男どもの尻も叩いてくれや!」


「そんな言葉をかけられずとも、二人は自然に振る舞うだけで数多くの選手を導く存在になるだろう。……私も、心から期待しているよ」


 赤星弥生子のありがたい言葉に、瓜子はいっそう胸を満たされる心地である。

 そうして瓜子が心からの笑顔を返すと、隣のユーリはますます口をとがらせてしまうのだった。

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