インターバル
凱旋
三月の第二火曜日――《ビギニング》の七周年大会を勝利で飾ったプレスマン陣営の一行は、無事に日本に帰国することができた。
また、同じ飛行機には同じ大会に出場した選手たちの過半数が搭乗している。おおよその陣営は同じホテルに宿泊し、チェックアウトの時間も同一であったのだから、それが自然な話であろう。こちらと便が異なるのは、チェックアウトの後にまだシンガポールの観光だか何だかを楽しんでいる面々だけなのだろうと思われた。
しかしまあ、同じ飛行機であっても席は別々であるし、そもそも気安く口をきける人間などは数えるぐらいしかいない。それで瓜子たちは往路の飛行機と同じく身をつつしんでしめやかに帰国を果たしたのだった。
しかしそんな静かな道行きも、空港からの特急電車で新宿駅に到着するまでのことである。そちらの改札口を出ると、そこにはよくよく見知った人々が集団で待ちかまえていたのだった。
「うり坊、おかえりー! 二週間も会えなかったから、さびしかったよー!」
と、瓜子に抱きついてきたのは、いつでも直情的な灰原選手であった。
その他に顔をそろえているのは、多賀崎選手、小笠原選手、小柴選手、オリビア選手、高橋選手、武中選手――さらには、牧瀬理央までもが端のほうにひっそりと控えてきた。
「なんでおめーまでいるんだよ? 大事な仕事をほっぽりだしてきたのか?」
サキが荒っぽく頭を小突くと、理央は心から嬉しそうに微笑んだ。そしてその感じやすい目に、涙をにじませてしまっている。
「理央っちも出迎えたいっていうから、お招きしてあげたんだよー! 帰り道は、サキが送ってあげなよね!」
瓜子に抱きついたまま、灰原選手がそのように言いたてた。
サキは「ちっ」と舌打ちをしつつ、今度は理央の頭を荒っぽくかき回す。それでは理央も、新たな嬉し涙をにじませるばかりであった。
「それにしても、まさか総出で出迎えとはな。いちおうこの後は道場に顔を出すって言っておいたろう?」
立松が苦笑まじりの声をあげると、多賀崎選手が「ええ」と答えた。
「でもやっぱり、道場でじっとしていられなかったんですよ。空港まで駆けつけなかっただけ、まだ自制はできてると思ってください」
「うん、まあ、もちろん文句をつけるつもりはないよ。こいつらは、それだけのことをやってのけてくれたからな」
立松に優しい眼差しを向けられると、瓜子まで目の奥が熱くなってしまった。
そんな瓜子のかたわらでは、ユーリが表情の選択に困っている様子でまごまごとしている。そして、そんなユーリには小笠原選手が笑いかけてくれた。
「桃園、猪狩、お疲れさん。日本と《アトミック・ガールズ》の看板をきっちり守ってくれたね。二人とも、物凄い試合だったよ」
「いえいえ、キョーシュクのイタリですぅ。……まさか小笠原選手は、お出迎えのためだけに駆けつけてくださったのですかぁ?」
「いや。せっかくだから、東京本部で仕事を作ってもらったのさ。どうせ週末には小柴のセコンドにつく予定だったから、数日ばかりの前乗りってことだね」
小笠原選手は屈託なく笑いながら、ユーリの手もとに手をのばした。
「ここじゃあ迷惑になるから、道場に向かおうか。荷物をお運びいたしますよ」
「と、とんでもないですぅ。小笠原選手にそのような役目を押しつけたら、天罰が下ってしまいますのでぇ」
ユーリはわたわたと慌てながら、キャリーケースを背後に隠した。
小笠原選手は楽しそうに笑いながら、鞠山選手のほうを振り返る。
「花さんも、お疲れ様。あの大歓声の中でも、花さんが猪狩に飛ばす声はマイクに拾われてたよ」
「ふふん。万単位の観客でも、わたいの美声をかき消すことは不可能なんだわよ」
鞠山選手はにまにまと笑い、ジョンは相変わらずの柔和な笑顔、蝉川日和は無邪気な笑顔、愛音は感無量の面持ちだ。もちろん瓜子も灰原選手に抱きつかれながら、胸の中はいっぱいであった。
「じゃ、行くか。念のために聞いておくけど、祝勝会の準備なんざしてないだろうな?」
「うん! あたしは今日でもかまわなかったけど、いちおー週末には試合だからねー! せっかくだから、あたしらと合同の祝勝会にしちゃおうって話に落ち着いたよー!」
「だったら、幸いだ。こっちも今日ぐらいは、ゆっくりしてもらわないとな。……おい。道場に行っても、挨拶だけだぞ? 絶対に稽古には参加させないからな?」
立松ににらみつけられたユーリは「はいぃ」といっそう縮こまってしまう。昨日もシンガポールで一日オフであったため、ユーリは今日から稽古を再開させていただけないかと打診して、すげなく却下されていたのだった。
(八時間のフライトの後でも稽古したいってんだから……あたしなんか、まだまだだなぁ)
そんな感慨を噛みしめながら、瓜子は幸福な心地でプレスマン道場に向かうことになった。
その行き道でも、口々にねぎらいと賞賛の言葉があびせかけられる。灰原選手ぐらい昂揚しているのは小柴選手と武中選手ぐらいであったが、それ以外の人々も心から嬉しそうな笑顔を届けてくれた。
「猪狩さんも桃園さんも、本当に凄かったです! 苦戦と言えば苦戦でしたけど、最後はさすがの激勝でしたね!」
「ほ、本当です! 相手選手は、お二人以上のダメージでしたし!」
「ユーリの相手は、びっくりするぐらいタフでしたねー。ユーリの攻撃をまともにくらって前進を止めないなんて、信じられないですよー」
「あのレッカーってのは、とんでもない蹴り技を持ってたね。ま、最後は猪狩も同じぐらいとんでもなかったけどさ」
「ああ、あのバックスピンキックは神がかってたなぁ。桃園も、まさかあそこでタックルに切り替えるとはね」
「ああ、あれはかわせない。桃園って百回に一回ぐらい、ああいう寒気のするようなタックルを見せるよな」
「あはは! それをここぞってタイミングで決めるんだから、憎たらしいよねー!」
そんな熱っぽい言葉と笑顔に囲まれていると、瓜子はまた涙腺を刺激されてしまいそうだった。
そして道場に到着したならば、それが数十人単位にふくれあがったのである。
「桃園さん! 猪狩! お疲れ様! みんな、首を長くして待ってたぞ!」
真っ先にそんな言葉を届けてきたのは、立松たちの留守を預かっていた柳原であった。
そして、稽古に励んでいたたくさんの人々が一斉に動きを止めて、瓜子たちを取り囲んでくる。今はレギュラークラスの稽古時間であったため、おおよそは馴染みの深い門下生ばかりであった。
「よう、お疲れさん。今回も、なんとか勝ちを拾ったな」
と、並み居る門下生をかきわけて接近してきたサイトーが、瓜子の肩を小突いてきた。
「あのムエタイ野郎は、なんなんだよ? 見てるこっちのカラダが疼いちまったぜ。大人しくムエタイに励んでりゃあ、あんな痛い目を見ることもなかったろうにな」
「押忍。レッカー選手は、本当に強かったです。……サイトー選手も、お疲れ様でした」
「こっちは、どうってことねえよ。ヤナは疲労困憊だろうけどな」
にやりと笑うサイトーは、いつも通りの猛々しさだ。その変わらぬ姿もまた、瓜子の胸を深く満たしてくれた。
「とりあえず、奥の連中にも挨拶をさせてくれや。……そら、こいつは二人からの土産だ。減量中の人間は、試合が終わるまで我慢しとけよ」
立松が土産の詰まった紙袋を差し出すと、門下生たちははしゃいだ声を張り上げた。
まあ、クッキーやチョコレートでそれほど喜ぶ人間はいないだろう。彼らはひとえに、瓜子とユーリの凱旋を喜んでくれているのだ。個人主義の集団である彼らがこれほどまでに結束する機会は、そうそう存在しないのだった。
「うわー、マーライオンのお菓子なんて、お約束すぎるっしょ! まさか、あたしらまでこんなチープなお土産じゃないだろうねー?」
灰原選手が陽気に声を張り上げると、鞠山選手が遠慮なくそのヒップを引っぱたいた。
「餞別も渡してないくせに、文句をつけるんじゃないだわよ。あんただけは、お土産を没収だわね」
「なんだよー! オマケでシンガポールまでひっついてったくせに、偉そうにしないでよねー!」
そんな風にわめきつつ、灰原選手もまだまだ浮かれた面持ちだ。もちろん女子選手の一行には個別に土産を準備しているので、それは後でのお楽しみであった。
そうして瓜子たちは熱い視線と歓声に囲まれながら、奥側のトレーニングルームへと歩を進める。
そちらでは、主にMMAの選手が自由稽古に取り組んでおり――そして、鬼沢選手や男子選手に稽古をつけている来栖舞の姿があった。
「なんや、ようやくお帰りかい。こんままおいひとりがしごかるーとかて思うとったわ」
汗だくの鬼沢選手が、にっと笑いかけてくる。プライベートでつきあいのない彼女は、出迎えではなく稽古を選んだのだ。もちろんその熱心さは、瓜子にとっても好ましい限りであった。
「そっちん二人は、お疲れさん。他ん連中は、稽古やろ? さっさと着替えな、汗ば流す時間ものうなるばい」
「ちょっとは余韻にひたらせてよー! あんただって、うり坊たちの試合にはギョーテンしてたくせにさー!」
灰原選手が元気に言い返すと、鬼沢選手は「ははん」とごつい顎をしゃくった。
「やけん、稽古するっちゃろ? もたもたしとったら、一生そいつらに追いつけんけんね」
「君は立派だよ、いつき。……ただ、わたしにもひと言だけ挨拶をさせてもらいたい」
と、来栖舞が静かな足取りで瓜子たちに近づいてきた。
その精悍な表情に変わりはない。ただその瞳には、他の人々に負けない熱情が渦巻いていた。
「桃園くん、猪狩くん。どちらも、素晴らしい試合だった。君たちは、まぎれもなく日本の女子選手の代表だ。どうかこれからも、その強さで他の選手たちを導いてほしい」
「押忍。自分なんて、まだまだ至らないところだらけですけど、死力を尽くして頑張ります」
瓜子はそのように答えて、ユーリはぺこぺこと頭を下げる。
そんな二人の姿を見比べつつ、来栖舞は「うん」と口もとをほころばせた。
「祝勝会は、《アトミック・ガールズ》の三月大会と合同という話だったね。わたしも美香のセコンドとして来場するので、末席に控えさせていただく。詳しい話は、またそのときに」
それだけ言って、来栖舞は稽古の場に戻っていった。
その逞しい後ろ姿を見送りながら、多賀崎選手が「さて」と声をあげる。
「それじゃああたしらも、稽古を始めるか。何せ試合まで、一週間を切ってるんだからね」
「えー? もう調整期間なんだから、そんなはりきることないじゃん!」
「遊んでたいなら、ご自由に。泣きを見るのは、本人だからね」
多賀崎選手がきびすを返すと、灰原選手は「ちぇーっ!」と頬をふくらませつつ、瓜子に向きなおってきた。
「うり坊たちは、もう帰っちゃうんでしょー? まだまだおしゃべりしたりないなー!」
「ええ。できれば自分たちも、稽古を見学させてほしいところっすね。……ユーリさんは、どうっすか?」
「うみゅ。みなさんが稽古するお姿を拝見していたら、羨ましくって悶死しそうなところでありますけれど……でもでも、これで真っ直ぐ帰ってしまうのも心残りの極致ですにゃあ」
ユーリはふにゃんと微笑みながら、そう言った。
立松は「まったく」と苦笑する。
「本当に、お前さんたちにつける薬はねえな。まあ、それであんな結果を残してたら、文句も言えねえか」
「ウン。ユーリとウリコはこんなにネッシンだから、こんなにツヨくなれたんだもんねー」
どうやら立松やジョンたちも、つきあいで居残る覚悟のようである。
二週間もの遠征を終えて、八時間ものフライトに耐えた直後であるというのに、まったくお世話をかけるばかりであったが――それでもやっぱり瓜子たちとしては、この熱気を振り切ってマンションに帰る気持ちにはなれなかったのだった。
かくして、まだ試合の傷も癒えていない瓜子とユーリは道場の片隅にちょこんと座り込み、その場に満ちた熱気にひたりながら、シンガポール遠征の余韻を噛みしめることに相成ったのだった。
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