10 分かち合い

 その後――《ビギニング》の七周年大会は、シンガポール陣営の勝利で締めくくられることになった。

《パルテノン》の王者にしてギガント東京本部のエース選手も、《ビギニング》の絶対王者に敗れ去ることになったのだ。


 これにて日本対シンガポールの対抗戦は終結し、日本陣営は三勝八敗という結果に相成った。日本陣営で勝利できたのは、瓜子とユーリと横嶋選手の三名のみであったのだ。


「で、そのうちの二人は外様なんだから、《パルテノン》の面目は丸つぶれだよねぇ」


 そんな風に言いたてたのは、横嶋選手である。

 場所は、日本陣営の選手が宿泊しているホテルのレストランだ。試合会場を後にした選手一同はそのレストランを貸し切って、打ち上げを楽しんでいるさなかであった。


 ただし、会場にはいくぶん殺伐とした空気がたちこめている。それもやはり、対抗戦の結果を踏まえてのことだろう。なおかつ、ダメージの深い選手やメンタルに支障を生じた選手は、この催しを欠席していた。


「そりゃあ負けちゃったらこんな集まりも楽しめないし、たいていの人間は頭にダメージをもらってヤケ酒もできないからねぇ。その分は、わたしたちが楽しむしかないんじゃない?」


「押忍。……でも、そういう話はあまり大きな声でしないほうがいいんじゃないっすか?」


「わたしは傲岸不遜のキャラで売ってるから、どうってことないさぁ。悔しかったら試合で勝てって話だしねぇ」


 瓜子としてはそれに巻き込まれたくない気持ちでいっぱいであったが、幸いなことに会場は賑わっていたので横嶋選手の暴言が余所に届いた様子もなかった。


 会場には、三十名ていどの人間がひしめいている。選手に欠席した人間は多くとも、セコンド陣の過半数は出席しているのだ。なおかつ、すべての人間が殺伐としているわけではなく、中には陽気にお酒を楽しんでいる人々も見受けられた。


(そりゃあ、試合は結果がすべてって言うけど……それを乗り越えないと、明日はないわけだもんな)


 瓜子はMMAの試合においてサキにしか敗北していないが、キックの時代には何度かの敗戦を経験している。負けて悔しいからと言って落ち込んでいるばかりでは何も始まらないということを、経験則で知っているつもりであった。


 しかしまた、無理に元気に振る舞う必要はないし、負けた当日ぐらいは落ち込んだってしかたないだろう。誰もが今日の敗戦をバネにして奮起することを願うしかなかった。


「……でさ、あなたたちは今日の勝利で、《ビギニング》と正式契約を結ぶことになるのかなぁ?」


 と、横嶋選手が内心の知れない笑顔を近づけながら、そんな風に問うてきた。

 同じテーブルには、ユーリと愛音と蝉川日和も陣取っている。ユーリはきょとんとした顔で瓜子のほうを振り返ってきたので、瓜子が答えることになった。


「契約の細かい内容に関しては、守秘義務があるんすよ。横嶋選手だって、それは同様なんじゃないんすか?」


「別に、必死になって隠すような話じゃないでしょう? あなたたちが有望な選手だと見込まれてたら、そのていどのことで契約を切られたりはしないさぁ」


 そんな風に言いながら、横嶋選手はいっそう顔を近づけてきた。


「じゃ、わたしのほうから教えてあげよっか。わたしはね、六月大会のオファーも受けてるんだよぉ。まあ、いまだに開催国も教えてもらってないけど、それで結果を出せたら正式契約の話をもらえるはずなんだよねぇ」


 であれば、瓜子やユーリと同じ条件である。

 それで瓜子が思わず返事をしそうになると、怖い顔をした愛音が口を出してきた。


「それが真実であるという証拠はないのです。そして、たとえそちらが守秘義務を破っても、こちらがおつきあいする必要はないのです」


「もう、愛音ちゃんは瓜子ちゃんより堅苦しいんだなぁ。そんなんじゃ、彼氏もできないよぉ?」


「愛音はユーリ様を目指して、邁進しているさなかであるのです! 恋のお相手など、脳内のバーチャル彼氏さんで十分なのです!」


「バーチャル彼氏って何さぁ? もう、プレスマンって変なコばっかりだなぁ」


 横嶋選手はくすくすと笑いながら、グラスの中身を煽った。彼女も頭部にしこたまダメージを受けているので、ソフトドリンクであるはずだ。


 瓜子はいまだに左脇腹が疼いているし、左頬にはカットバンを貼っている。あとは髪の毛に隠されているが、バックスピンキックをくらった右のこめかみも青黒く変色していた。

 しかし、瓜子などは穏便なほうである。乱打戦の末に勝利したユーリや横嶋選手などは顔のあちこちを赤く腫らして、カットバンだらけであったのだ。とりわけユーリはもともとが真っ白な美貌であるために、痛々しいことこの上なかった。


 しかし、そんな満身創痍の姿で寄り集まっていると、いっそうの達成感がつのっていく。瓜子たちはそれだけの強敵を下したからこそ、これだけの喜びを噛みしめることがかなったのだ。そして本日この思いを共有できるのは、プレスマン陣営とギガント東京本部の面々のみであったのだった。


(でも、ギガントは男子選手のほうが負けちゃったから、素直に喜んでるのは横嶋選手だけなのかな)


 メインイベントで敗北してしまった男子選手は打ち上げを欠席しており、東京本部の会長もいつの間にか姿を消している。立場上、開会の場には立ちあったが、きっと敗北した男子選手に付き添っているのだろう。プレスマン道場で言えばエース選手の早見選手が大一番で負けたような状況であるのだから、会長としてはそれが当然の措置であるはずであった。


「あんたたちは、まだ同じ顔ぶれで寄り集まってるんだわよ? こういう場でぐらい、なけなしの社交性を発揮するんだわよ」


 と、聞き覚えのある濁声が接近してくる。瓜子が振り返ると、リゾートチックなワンピースに着替えた鞠山選手が優雅にカクテルグラスを傾けていた。


「あのサキでさえ、ギガントのコーチ陣と情報交換に勤しんでるんだわよ? あんたたちも、少しは愛想を振りまくんだわよ」


「はあ。自分もユーリさんも、まだちょっと身体がしんどいんすよね。立松コーチにも、大人しくしてろって言いつけられてるんすけど……」


「プレスマンは、意外に過保護なんだわね。そのぶんは、わたいが愛の鞭を振るってやるだわよ」


 そんな風に言いながら、鞠山選手は眠たげな目で横嶋選手をねめつけた。


「あんたはあんたで珍しく、外部の人間にべったりだわね。おぼこ娘の集団から、何か情報をかすめ取ろうって算段なんだわよ?」


「やだなぁ。二週間も同じ場所で稽古した仲じゃないですかぁ。これだって、立派な交流でしょう?」


 横嶋選手が表面的な笑顔で応じると、鞠山選手は「ふん」と鼻を鳴らした。


「一方的に情報をかすめ取ることを交流とは呼ばないんだわよ。いったいどういう目的で、うり坊たちにすり寄ってるんだわよ?」


「わたしは『トライ・アングル』のファンだって言ったじゃないですかぁ? ただ瓜子ちゃんたちと仲良くしたいだけですよぉ」


 そんな風に応じつつ、横嶋選手は空のグラスを手に立ち上がった。


「でもちょうどドリンクが尽きたから、一時離脱しようかなぁ。それじゃあ、また後でねぇ」


 瓜子たちが返事をする間もなく、横嶋選手は立ち去っていった。

 それで生まれた空席に、鞠山選手がどかりと座り込む。


「まったく、油断のならない小娘だわね。あんたたち、あいつの口車に乗せられて、守秘義務を破ってないだわね?」


「はいなのです。猪狩センパイが危ういところであったので、愛音がきっちりフォローしたのです」


「ふふん。この中では、愛音が一番頼りになるだわね。ほめてつかわすだわよ」


 鞠山選手が肉厚な手の平で頭を撫でると、愛音はかしこまった面持ちで「恐縮なのです」と一礼した。もともと鞠山選手は愛音を可愛がっていたが、このシンガポール遠征でますます親睦が深まったようである。


「えーと……今度は鞠山選手が腰を落ち着けるんすか?」


「うん? 何か文句でもあるんだわよ?」


「いえいえ。でも、自分たちに内輪で固まるなって仰ってたから……」


「あんなのは、この場に割り込む口実に過ぎないんだわよ。あんたたちは大きな仕事を果たしたんだから、祝勝会を好きに楽しむ権利があるんだわよ」


 それはありがたい申し出であったが、瓜子としては今ひとつ腑に落ちない部分が残された。


「それじゃあもしかして、横嶋選手を追い払うのが目的だったんすか?」


「それ以外に、割り込む理由はないんだわよ。どうもあいつはうり坊たちのファイトマネーの金額を探ろうと虎視眈々だから、口どめの念押しに来たんだわよ」


「ファイトマネーの金額っすか? そんなもんを聞きほじって、何になるんでしょう?」


「それはもちろん、自分のギャラアップの交渉のためだわね。そんな真似をされたら、運営陣にもあんたたちが守秘義務を破ったことが露呈するんだわよ。そんなことで運営陣の信用を失わないように、きっちり用心するんだわよ?」


 鞠山選手のそんな言葉に「ほへー」と声をあげたのは、蝉川日和であった。


「だからあの人は、《ビギニング》との契約についてあれこれ聞きほじってたんスかー。なーんか裏があるんだろうと思ってたッスけど、大した話じゃなくてよかったッスよー」


「十分に、大した話なんだわよ。まったく、危機感が欠落してるだわね」


 鞠山選手はずんぐりとした肩をすくめつつ、大きな口でカクテルグラスを優雅にすすった。そんな鞠山選手の姿を眺めながら、蝉川日和はにぱっと笑う。


「何にせよ、よその選手がいると落ち着かないんで、ほっとしたッスよー。鞠山さん、ありがとうございます」


「ふふん? 物怖じ知らずのあんたにしては、ずいぶん殊勝な物言いだわね」


「だってあたしってアタマが足りてないから、ついつい失礼な口を叩いちゃうじゃないッスか? 普段と違ってアウェイみたいな環境ッスから、これでも気をつかってるんスよー」


「あんたもあんたで、いちおう頭をつかってるんだわね。ほめてつかわすだわよ」


 そのように言いながら、鞠山選手は蝉川日和の頭を撫でたりはしない。蝉川日和がそういうスキンシップを苦手にしていることをわきまえているので、きちんと臨機応変に対応しているのだ。それが鞠山選手の懐の深さというものであった。


(まあ、あたしはべつだん、横嶋選手を苦手にしてるわけじゃないけど……)


 しかし、身内だけで喜びの思いを噛みしめられるのならば、それに越したことはない。蝉川日和の言う通り、今日は気心の知れない人間ばかりであったし、同じ思いを分かち合えるのは横嶋選手ぐらいであったのだった。


「……あんたたちは、浮かれている様子もないだわね。今はしんみり喜びを噛みしめてるんだわよ?」


「そうですねぇ」と答えたのは、ずっと静かにしていたユーリであった。


「まわりには落ち込んでらっしゃる方々もたくさんおられるようなので、あんまりはしゃいだら申し訳ないかなぁと思いまして……やっぱり何か、普段とは雰囲気が違いますもんねぇ」


「ふん。馬鹿騒ぎは、日本に帰ってからのお楽しみだわね。どこかの低能ウサ公を筆頭に、手ぐすね引いて待ちかまえてるだわよ」


「ああ、灰原選手はうり坊ちゃんのKO勝利にキョーキランブしているでしょうねぇ」


 と、ユーリは無邪気に微笑みながら、瓜子に向きなおってくる。

 その温かな笑顔に満たされながら、瓜子も笑顔を返してみせた。


「多賀崎選手や小笠原選手は、ユーリさんの一本勝ちに胸を震わせてるはずですよ。日本に帰るのが待ち遠しいっすね」


「どうせ明後日の朝には、嫌でも機上の人なんだわよ。その前に、明日はめいっぱい観光を楽しむんだわよ」


「観光は、特に興味ないんすけど……でも、みなさんにお土産を買わないといけないっすからね」


 瓜子がそのように答えたとき、鞠山選手が獲物を見つけたカエルのような風情でにんまり微笑んだ。


「その前に、今日の祝勝会もまだまだこれからだわね。少しは賑やかになりそうなところだわよ」


 瓜子は小首を傾げつつ、鞠山選手の視線を追って背後を振り返った。

 こちらに近づいてきたのは、ギガント鹿児島の会長たる山岡氏だ。そして、彼が引き連れているのは――グヴェンドリン選手にエイミー選手にランズ選手の三名であった。


「どうもどうも。お二人の勝利を祝うために、ユニオンMMAの祝勝会を抜けてきたそうですよ」


 山岡氏は端整な顔に朗らかな笑みをたたえつつ、そのように告げてきた。

「ふふん」と応じたのは、鞠山選手である。


「そのユニオンMMAの男子選手に負けた人間も、この場にいるはずだわね。そっちで波風は立たないんだわよ?」


「試合が終わればノーサイドですし、そもそも彼女たちが試合をしたわけではありませんからね。それに、我々だってさんざん彼女たちのお世話になったんですから、追い返すことはできないでしょう」


 そう言って、山岡氏はいっそう朗らかに微笑んだ。


「わたしは部屋に戻って、巾木のやつを引っ張ってきます。それまでは、お相手をお願いしますね」


 そうして山岡氏が立ち去ると、グヴェンドリン選手がもじもじとしながら英語で何かを告げてきた。


「居ても立っても居られなくて、ついつい駆けつけたそうだわよ。うり坊の篭絡リストも、ついにインターナショナル版に発展しただわね」


「あはは。エイミー選手やランズ選手は、ユーリさんのために駆けつけてくださったんでしょうけどね」


 瓜子の言葉に、ユーリは「うにゃあ」と自分の頭を引っかき回した。

 そんなユーリの姿を、エイミー選手とランズ選手は一心に見つめている。どちらもあまり感情をあらわにするタイプではないが、その眼差しの熱っぽさはグヴェンドリン選手にも負けていなかった。


 そうして瓜子たちは、帰国する前にまたたくさんの相手と喜びを分かち合い――シンガポールの新たな思い出を積み重ねることになったのだった。

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