08 対比

 一ラウンド、二分四十二秒、バックスピンキックによりKO勝利――それがのちのち知らされた、瓜子の試合結果であった。


 瓜子がフェンス際に追い込まれた時点で二分に達していたので、それから四十二秒しか経過していなかったのだ。スローモーションのように緩慢で濃密な時間を過ごしていた瓜子には、まったく信じ難い話であった。


 ともあれ――瓜子は勝利することができたのだ。

 本当に、薄氷の勝利である。集中力の限界突破を迎えるのがあと一秒でも遅ければ――あるいは、最後のバックスピンキックが急所のみぞおちを外れていたならば、マットに沈んでいたのは瓜子のほうであった。


 脳震盪を起こしていた瓜子はリングドクターに簡単な診察を受けてから、また立松に肩を貸されながら勝利者インタビューを受けることになった。

 その間も、客席は怒号のような歓声に包まれている。レッカー選手は立ち上がることもできず、担架で搬送されてしまった。


『ムエタイとMMAの戦績を合わせても、あのレッカー・ラックディーをKOで下したのはあなたが初めてです。《ビギニング》に、新たな歴史を刻みましたね。今のお気持ちは、如何ですか?』


 通訳の女性によってそんな質問が投げかけられたが、まだ頭がはっきりしていない瓜子にはまともに答えることができなかった。


『レッカー選手は、本当に強かったです。一秒でもタイミングがずれていたら、自分が負けていたと思います。もっともっと稽古を積んで、もっともっと強くなりたいと思いました』


『あなたは謙虚で、そして貪欲ですね。今後の飛躍にも期待しています。……以上、ウリコ・イカリでした』


 通訳の女性が告げる前から、客席には歓声がうねりをあげている。大部分はシンガポールの住人のはずであるので、英語で語られた段階でアナウンスの内容を理解できるのだ。腕を上げる体力も残されていない瓜子は、揺れる頭を下げるばかりであった。


 そうして花道は、立松と蝉川日和に左右から抱えられつつ踏み越える。もっと毅然と凱旋したいところであったが、こればかりはどうしようもなかった。


「今日は本当に、ヒヤヒヤさせられたぜ。結果的には一ラウンドKOだったが、こんなに追い込まれたのは弥生子ちゃんとやりあって以来なんじゃねえか?」


 やがて入場口の扉をくぐると、立松がしみじみとした様子でそのように告げてきた。

 瓜子はその逞しい腕にぐったりと体重を預けつつ、「押忍……」と答える。


「自分はいつでも、ぎりぎりの勝負っすけど……今日は本当に、ぎりぎりのぎりぎりでした……まあ、弥生子さんとの試合では、こんなぎりぎりの状態を何回も乗り越えることになりましたけど……」


「無理して喋るな。ていうか、話しかけたのは俺のほうか。悪かったな。今はとにかく、安静にしておけ」


「ふふん。脳震盪のせいで、うり坊は子供みたいに無防備なお顔だわね。これじゃあ立松コーチも父性本能をかきたてられてしかたないだわよ」


「やかましいぞ!」とわめいてから、立松はまたしみじみと言った。


「でも、猪狩が勝てたのはみんなのおかげだ。鞠山さんも蝉川も、お疲れさん」


「あ、あたしは何もしてないッスよー。でも、あんな物凄い試合をかぶりつきで観られて、感動ッス!」


 直情的な蝉川日和こそ、子供のように頬を火照らせている。

 そうして控え室に到着すると、今度はユーリたちが取り囲んできた。


「うり坊ちゃん、お疲れさま! さあさあ、ゆっくりおやすみになられて! お水はいる? タオルは? 氷嚢は?」


「あはは……ユーリさんは、自分の試合に集中してくださいよ……」


 瓜子が心のままに笑いかけると、ユーリも雪の精霊のように微笑んだ。


「あんな試合を見せられたら、ユーリは天にものぼるような心地なのです。今日は最後の一瞬に、すべてのきらめきが凝縮されてたねぇ」


「前半の展開があっての結果っすけどね……あ、どうもすみません」


 瓜子の身は、立松と蝉川日和の手によってマットにそっと横たえられる。

 しかしすぐさま嘔吐感に似た感覚に見舞われて、瓜子は「うえ」とおかしな声をあげてしまった。


「すみません……横になると、気持ち悪いっす……座らせてもらってもいいっすか……?」


「なに? 吐き気がするのか? 脳出血してるんじゃないだろうな?」


 立松が切迫した顔を近づけてきたので、瓜子は「いえ……」と無理やり笑ってみせる。


「頭じゃなくって、脇腹が……たぶん、膝蹴りのせいです……今でも内臓がずれてるような心地なんすよね……」


「あー、ムエタイ女の膝蹴りをまともにくらってたもんなー。考えなしにくるくる回るからだよ、タコ」


 そんな風に言いながら、サキが手を貸して上体を起こしてくれた。

 脇腹への圧迫が消え去って、嫌な感覚も遠ざかっていく。頭の中身の揺れ具合も、今ではおおよそ収まっていた。


「おい、本当に大丈夫か? あの竜巻みたいなバックスピンキックを頭にくらってるんだからな。救急病院の手配をしてもらうか?」


「いえ、本当に大丈夫っすよ……問題がありそうだったらすぐに申告するんで、それまではここにいさせてください……」


 この後には、ユーリの試合が控えているのだ。それを見届けないまま、会場を後にすることはできなかった。


「ウリコ、くれぐれもムリしないでねー? ……さ、ユーリはウォームアップのしめくくりだよー」


 ジョンの優しい呼びかけに、ユーリは「はい」と素直にうなずく。それから、蝉川日和のほうに向きなおった。


「セミカワちゃん。よかったら、うり坊ちゃんを支えてあげてくれる?」


「あ、はい! あ、あたしなんかでよかったら!」


 赤い顔をした蝉川日和が瓜子の身に寄り添うと、ユーリは「ありがとう」と微笑んだ。それもまた、精霊のように透明な微笑みだ。


 モニターでは、すでに第三試合のアナウンスが開始されている。そちらは《アクセル・ファイト》の元王者が登場する、男子フライ級の一戦であった。


 ユーリの陣営はウォームアップを開始して、瓜子の陣営は瓜子を取り囲む。そして、瓜子の左脇腹に氷嚢をあてようとした鞠山選手が「ふふん」と鼻を鳴らした。


「いよいよ脇腹が青黒く変色してきただわね。水着の撮影にはファンデがたっぷり必要になるんだわよ」


「撮影の仕事なんて、しばらくないっすよ……あ、冷たくて気持ちいいっす」


「腕も真っ赤に腫れてるな。ミドルの一発や二発で、なんて破壊力だよ」


 立松がぼやきながら、瓜子の両腕を氷嚢でマッサージしていく。確かに前腕には、レッカー選手の蹴りの痕がまざまざと残されていた。


 レッカー選手は、それだけの強敵であったのだ。そんなレッカー選手に勝利できたという喜びが、今さらながらにじわじわとわきたってきた。


「レッカー選手は、本当に強かったっすよ……あんな選手と試合ができて、心から光栄です……あのレッカー選手でも王座に届かなかったなんて、《ビギニング》はすごいっすね……」


「そんなレッカーを一ラウンドで下したうり坊も、立派なトップコンテンンダーだわよ。……だけどまあ、試合時間は関係ないだわね。むしろ強敵のほうが早い段階でうり坊を追い詰めるから、ちびっこ怪獣タイムの発動が促進されそうなところだわよ」


 そんな風に言ってから、鞠山選手は睫毛のそっくり返った眠たげな目を細めた。


「でも……今日は何だか、いつもと趣が違ってただわね。普段はもっとこう、スタミナの残存量に左右されてた印象だっただわけど……今日はKO負けのピンチで、いきなり発動されたような雰囲気だったんだわよ。もしかして……ちびっこ怪獣タイムを任意で発動できるようになったんだわよ?」


「いえいえ……このままじゃ負けるって気合を入れたら、あのおかしな感覚に没入できただけです……追い込まれたことに変わりはないっすよ……」


「それでも、変化は変化だわね。まったく小生意気なちびっこ怪獣だわよ」


 鞠山選手はにんまりと笑いながら、瓜子の脇腹を氷嚢でまさぐった。

 しかし、嘔吐感を誘発することのない、優しい力加減である。瓜子の身を包む虚脱感も、それでずいぶん慰められることになった。


 そしてモニターからは、大歓声が響きわたる。

 瓜子がぼんやり視線を巡らせると、チョークスリーパーを解除した《アクセル・ファイト》の元王者が弾丸のような勢いでケージを一周して、フェンスに飛び蹴りをぶちかまし、一回転して着地して、決めのポーズを作るところであった。


「やっぱり、圧勝だっただわね。これで対抗戦は、シンガポール陣営の七勝二敗だわよ」


「それじゃあ次が、日本陣営の三勝目だな」


 力強く笑いながら、立松はユーリのほうを振り返った。

 ユーリはぴょこぴょことした足取りでこちらに近づき、瓜子の正面にぺたりと座り込む。その色の淡い瞳は、透き通った眼差しをたたえたままだった。


「それではユーリも、間もなく出陣なのです。くたびれちゃったら、おねんねしてもいいからね?」


「大丈夫っすよ。だいぶ元気が戻ってきました。……頑張ってくださいね、ユーリさん。ユーリさんなら、絶対に勝てます」


「うん」とユーリはやわらかく微笑み、グローブに包まれた手で瓜子の手をそっと握ってきた。


「ユーリは、死力を振り絞るのです。……あと、できればおねんねしないように頑張るのです」


「今日もスチットさんが医療スタッフを準備してくれたから、桃園さんは試合に集中しな。ジョン、サキ、邑崎、頼んだぞ」


「ウン。マカされたよー」


「へん。試合の結果までは請け負えねーけどなー」


「ユーリ様の勝利は、天に約束されているのです! 愛音が保証するのです!」


 そんな頼もしい声に包まれながら、純白のユーリは控え室を出ていった。

 瓜子が思わず脱力すると、それを支えてくれていた蝉川日和が「わっ」と慌てた声をあげる。


「あ、すみません。重かったっすか?」


「い、いえいえ! ただこう、なんていうか……い、猪狩さんとべったりひっつくのは、照れ臭いッス!」


「照れ臭くても、しっかり支えてやれ。……前はメイさんが、その役目を引き受けてくれてたんだからよ」


 立松の言葉で、瓜子の心の片隅に常駐しているメイの面影が急浮上した。


(メイさんだったら、自分がどれだけピンチだったかもはっきりわかっちゃうでしょうね……メイさんをガッカリさせないように、もっともっと頑張りますよ)


 そうして瓜子は、なんだか泣きたいような心地でモニターを見守り――そこに、歓声が爆発した。青コーナー陣営のユーリが入場を開始したのだ。

 ユーリは『Re:Boot』のインストゥルメンタルバージョンを入場曲にしているが、それがかき消されるほどの大歓声だ。その中で進軍するユーリは、相変わらずの無邪気さと美しさであった。


 跳ねるようにステップを踏んで、ひらひらと手を振り、時には投げキッスのサービスを見せる。そのたびに、スピーカーが割れそうなぐらいの歓声がわきたった。

 さらにボディチェックのためにオレンジ色のウェアを脱ぎ捨てると、いっそうの歓声がうねりをあげる。白とピンクのハーフトップおよびショートスパッツに包まれたユーリの肢体は、作り物のように純白で優美で色香にあふれかえっていた。


 そうしてユーリがケージインしたならば、赤コーナーからジェニー選手が入場する。

 ジェニーというのは欧米っぽい名前であるが、彼女は生粋のシンガポール人だ。もちろんシンガポールは移民大国であろうから何をもって生粋とするかは難しいところだが、とにかく出身はシンガポールとされており、この地ではもっとも比率の高い中華系の容姿をしていた。


 身長は百六十四センチで、ユーリよりも三センチ低い。そのぶん体格はがっしりとしており、さらにかなりのウェイトをリカバリーしているものと思われた。

 ボディチェックのためにウェアを脱ぐと、その肉厚な身体があらわにされる。手足は短めで首と腰の太い、どっしりとした体格だ。『プレスマシーン』という異名に相応しい、力強い姿であった。


 そんなジェニー選手もケージに上がると、大歓声の中で選手紹介のアナウンスが開始される。

 ユーリの紹介でも、『アトミック・ガールズ』の名前がはっきりと聞き取れた。ユーリは《アトミック・ガールズ》のバンタム級王者として、その場に立っているのである。


 ジェニー選手はもともと細い目をさらに細めながら、ユーリの美麗なる姿をじっと見据えている。

 レッカー選手ほどではないが、内心の知れない無表情だ。ただその頑強な肉体からは、気迫の炎がめらめらとたちのぼっているような風情であった。


『プレスマシーン』――またの名を、『王座の門番』である。

 彼女は頑丈さに特化しており、打撃技も組み技も寝技もまんべんなく鍛えている代わりにこれといった決め手を持っておらず、勝った試合も負けた試合もすべて判定勝負という話であった。そんな地味なファイトスタイルでありながら、《ビギニング》で王者となった二名の選手にしか敗北していないというキャリアであったのだ。


 かつて『アクセル・ロード』に参戦したシンガポール陣営のバンタム級の選手、エイミー選手もランズ選手もイーハン選手もロレッタ選手もルォシー選手も、このジェニー選手に敗北している。ジェニー選手は名実ともに、《ビギニング》バンタム級のナンバースリーという実力であるはずであった。


 それに対して、ユーリは――判定までもつれこんだ試合が、二つしか存在しない。ベリーニャ選手に敗北した試合と、ブラジルのノーマ選手とグラップリング・マッチで引き分けた二試合のみである。あとは、勝った試合も負けた試合も必ずKOか一本であり――そして、三年以上も前にベリーニャ選手に負けて以来、無敗の記録を保持していたのだった。


 ジェニー選手が無類のしぶとさで、判定勝利をもぎ取るのか。

 あるいはユーリが無類の破壊力で、ジェニー選手の頑丈さを突き崩すのか。

 これは、そういう勝負になるはずであった。

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