07 決着
レッカー選手が動きを止めたため、両者の間合いが大きく開けられた。
ここぞとばかりに、瓜子は酸素を補充する。まだ試合が始まってから一分少々であったが、瓜子はそれなり以上にスタミナを使っているのだ。この後のプランを遂行するためにも、スタミナ配分は二の次にできなかった。
ひと筋の鼻血を垂らしたレッカー選手は不動のまま、鳥類のように感情の感じられない目で瓜子の姿を見据えている。
その時間が五秒以上も経過すると、レフェリーが「ファイト!」とうながしてきた。
レッカー選手はこれまで通り、ゆったりとしたステップで前進してくる。
瓜子もまた、ギアを上げたままそのアウトサイドに回り込もうとした。
その瞬間――思わぬ衝撃が、瓜子の右腕に走り抜けた。
レッカー選手がふいに鋭いステップインとともにスイッチをして、左のミドルを叩き込んできたのだ。
瓜子は息を呑みながら、後退した。
その鼻先を、鋭い疾風が走り抜けていく。レッカー選手が右のハイで追撃してきたのだ。それもまた、目で追うことが難しいほどの鋭い攻撃であった。
(これが……レッカー選手の蹴り技か)
自分はレッカー選手ほど鋭い攻撃は出せない――この二週間で、グヴェンドリン選手は何度となくそんな言葉を繰り返していた。瓜子はそれが謙遜でなかったことを、ついに体感することになった。
瓜子は決して、油断していたわけではない。しかし、最初の左ミドルもその次の右ハイも、まったく反応できなかった。左ミドルをブロックできたのは最初からガードを固めていたためであり、右ハイを回避できたのはたまたま後退していたからに過ぎなかった。
(蹴りのスピードもすごいけど、それよりも踏み込みだ。いつスイッチしたのか、あたしにはまったくわからなかった)
レッカー選手はずっとゆったり動いていたので、その緩急の差で余計に目が追いつかなかったのだろう。しかしそれを差し引いても、ぞっとするような踏み込みの鋭さであった。
(しかも、遠慮なくハイまで出してきた。あれだけ間合いが開いてたらテイクダウンは取られないっていう自信があるんだ)
瓜子は呼吸を整えながらステップを踏んで、大きく開いた間合いをキープした。
左ミドルをブロックした右腕は、じんじんと疼いている。もしかしたら、この一発でミミズ腫れになっているかもしれない。それぐらい、強烈な蹴りであった。
(レッカー選手の蹴りの鋭さは、こっちの想定以上だ。それでもプラン通りに進めるなら……もう一段階、ギアを上げるしかない)
今のところ、セコンド陣からの指示はない。
ならば、最初のプランを遂行せよということだ。瓜子はセコンド陣を信じて、最大限にギアを上げた。
これまで以上に俊敏に、これまで以上に大きくステップを踏む。
それでレッカー選手のアウトサイドに回り込んだ瓜子は、もう何度目になるかもわからない右ローを繰り出した。今回も、カーフキックだ。
その瓜子の蹴り足が、空を切る。
そして瓜子は、目の前に迫るレッカー選手の蹴り足を見た。レッカー選手は左の前蹴りを射出することで、瓜子の右ローを回避したのだ。
瓜子のローが当たる距離なのだから、もちろん向こうの蹴りも射程圏内だ。
しかし瓜子は、相手の反撃をくらわない角度とタイミングでローを出したはずであった。それでどうして自分の顔面に前蹴りが飛ばされているのか、まったく理解できなかった。
それでも瓜子は首をひねって、なんとかその前蹴りを回避する。
瓜子の左頬に、ちりっと摩擦の感触が生じた。レッカー選手の蹴り足が、瓜子の皮膚一枚を削いでいったのだ。
問題は、ここからである。
瓜子はまた蹴り足を前におろして、タックルのフェイントをかけるつもりでいた。しかし蹴りをすかされてしまったため、身体の軸が流れてしまったのだ。このまま蹴り足を下ろしたならば、レッカー選手に半分背中を見せる危険なポジションになってしまうはずであった。
(それなら――!)
蹴り足を下ろした瓜子は、それを軸にして左方向に旋回した。予定外の、バックハンドブローである。きっと命中はしないだろうが、レッカー選手が後退すれば体勢を整える時間が生まれるはずであった。
そうして瓜子が旋回させた左腕に、重い衝撃が走り抜ける。
瓜子は心底から、ぞっとした。レッカー選手はあえてバックハンドブローをブロックして、間合いの内に留まったのだ。
瓜子は可能な限り首をねじっているが、間合いが詰まっているためにレッカー選手の上半身しか見えていない。
そして――思わぬ箇所に、思わぬ衝撃が爆発した。
場所は、背中寄りの左脇腹である。
それはまるで、金属バットで殴打されたような衝撃であった。
それに通常は、そんな背中寄りの場所に痛撃をくらことはない。ありえるとしたら、グラウンド戦でうつ伏せになった際、パウンドや膝蹴りをくらうぐらいだろう。スタンド状態では、まずありえない場所である。瓜子がバックハンドブローをブロックされたために、そんな現象が生じたのだった。
(これは……たぶん、膝蹴りだ)
角度的に、右拳の攻撃ではありえない。おそらくレッカー選手は、右の膝蹴りを瓜子の左脇腹に叩きつけてきたのだ。
生涯で初めての衝撃をくらった瓜子は、たたらを踏んで逃げ惑う。
かろうじて肋骨の存在する箇所であったが、内臓をシェイクされたような心地であった。それも、これまでくらったことのない箇所であったため、内臓たちも仰天しているかのようであった。
(レバーの付近じゃなくて、助かった。でも……)
この攻防は、まだ終わっていない。瓜子はほとんどレッカー選手に背中を向ける格好で逃げ惑っているのだ。レッカー選手がどんな追撃の姿勢を取っているのかと想像すると、背筋がぞっとした。
(そこそこ距離は開いたはずだから、きっと蹴りだろう。ハイでもミドルでも、絶対にガードするんだ!)
瓜子はマットを踏みしめて、レッカー選手のほうに向きなおった。
それと同時に身を屈めて、頭と腹をいっぺんにガードする。
予想通り、レッカー選手は目の前に迫っていた。
鳥類を思わせる眼差しが、瓜子の姿をじっと見据えている。
そして、衝撃が走り抜けたのは――瓜子の左足の、ふくらはぎの内側であった。
レッカー選手が選択したのはハイでもミドルでもなく、ステップインしての左ローであったのだ。
瓜子はかかとすら上げていなかったのに、その衝撃で左足を流されてしまう。
そして、ガードを固めた瓜子の顔面に新たな蹴り足が飛ばされてきた。
今度は、右のハイである。
瓜子はガードを固めているものの、すでに体勢を崩されている。身体の軸が乱れたことで、腕のガードもゆるみかけていた。
そんな瓜子の左の前腕に、レッカー選手の強烈な右ハイが炸裂する。
文字通り、瓜子は吹き飛ばされることになった。
ガードがゆるんでいたために、頭にも多少の衝撃をもらっている。
それでも瓜子は倒れ込まないように、何とか体勢を整えようとしたが――その左肩が、フェンスと衝突した。いつの間にか、瓜子はフェンス際まで追い込まれていたのだ。
(まずい――!)
瓜子はとにかく、サイドに逃げようとした。
しかしその前に、レッカー選手の蹴り足が飛来する。それは、ボディを狙った前蹴りであった。
瓜子はとっさに腕を下ろして、その前蹴りをガードする。
しかし、右ハイをガードしたばかりの前腕と膝蹴りでシェイクされたボディの内側に、重い衝撃が走り抜けた。
「二分経過! 足を使って、フェンス際から逃げるだわよ!」
遠くのほうから、鞠山選手の声が聞こえてくる。
第一ラウンドは、まだ二分しか経っていないのだ。その事実に、瓜子は目が眩んでしまいそうだった。
もとより瓜子は、序盤からスタミナを使っていた。そこで脇腹に膝蹴りをくらい、その後も想定外の動きを強いられて、存分にスタミナを削られてしまったのである。
しかも、瓜子の窮地は終わっていない。
瓜子はフェンスに背中をつけた状態で、レッカー選手に追い込まれているのだ。蹴り足を戻したレッカー選手は、感情の欠落した黒い目で瓜子の姿をじっと注視していた。
瓜子の攻撃が届く間合いではない。
しかし、レッカー選手であればどのような攻撃でも当てられるだろう。十センチの身長差を活かした、絶妙なる間合いの取り方であった。
瓜子はぜいぜいと息をつきながら、右の側に逃げようとする。
その進行方向から、拳が飛ばされた。しなる革鞭のような左フックだ。瓜子は何とかガードしたが、逃げることはできなかった。
(左に逃げたら、絶対に蹴りを飛ばされる。いっそ前進して、組みつくか?)
しかし、迂闊に近づけば首相撲の餌食である。今の瓜子の体力で首相撲を挑むのは、あまりに危険であった。レッカー選手は蹴り技と同じぐらい、首相撲およびそこから繰り出される肘打ちと膝蹴りを得意にしているのだ。
(でも、考えてる時間はない。とにかく、ここから逃げないと――)
そのように思案する瓜子の鼻先に、左ジャブが当てられた。
ガードは固めていたのに、その隙間にねじこまれてしまったのだ。瓜子の目の奥に白い火花が散って、思考がさらに乱された。
そしてその後は、軽い左ジャブをぽんぽんと腕に当ててくる。
いかにも、リズムを作っている動きである。如何なる攻撃で瓜子に重いダメージを与えるか、瓜子の反応で見定めようという気配がひしひしと伝わってきた。
(プランは、完全に崩された。でも……)
序盤は、瓜子のペースであったのだ。
瓜子の右ローは、何発もヒットしていた。そして足へのダメージというものは、試合中には決して回復しないはずであった。
(自分を信じろ! あたしの攻撃は、無駄じゃなかったはずだ!)
瓜子は背中でフェンスで押し返し、可能な範囲で左足を踏み込む。
そして、右足を振り上げた。
全力の、カーフキックである。
果たして――レッカー選手は左ジャブの連発を停止して、左足を大きく持ち上げた。
やはりレッカー選手も、左足にはいくばくかのダメージが溜まっているのだ。彼女はムエタイ戦士の強靭さで、それを押し隠していたのだった。
マットから浮いたレッカー選手の左足に、瓜子はカーフキックを叩きつけた。
そうして蹴り足はマットに下ろして、両手でレッカー選手を突き飛ばす。
左足を浮かせたレッカー選手は転倒をこらえるために、右足一本で後方に跳びすさる。それでスペースを得た瓜子は、フェンス際から脱出した。
その瞬間――瓜子の背筋に、これまで以上の悪寒が走り抜ける。
何かが、瓜子に危急を伝えたのだ。
瓜子は懸命に、レッカー選手のアウトサイドに回り込もうとしている。
この間合いと角度であれば、もう右の攻撃は届かない。左の蹴りも、不可能だろう。あとは大きく身体を開きながら左拳を飛ばすぐらいであるが、そんな攻撃ならば今の瓜子でも簡単に回避できるはずだ。
(いや……)
瓜子の思考と感覚が、稲妻のように閃いて交錯する。
思考は、グヴェンドリン選手の言葉である。
感覚は、瓜子が見て取ったレッカー選手の体重移動の微細な変化であった。
「それで、ワスれたコロにパンチのレンダやバックスピンキックなんかもダしてくるのが、トクにヤッカイらしいねー」
稽古の初日、グヴェンドリン選手のそんな言葉をジョンが通訳してくれたのだ。
左足をマットについたレッカー選手はそれを軸にして、今まさにバックスピンキックを繰り出そうとしていたのだった。
そして――瓜子がそれを知覚すると同時に、暴風のごとき蹴り足が頭部に飛ばされてきた。
左足にダメージを負っているはずなのに、なんという勢いであろうか。瓜子はもはや、その攻撃を回避できる体勢でもタイミングでもなかった。
(でも……あきらめてたまるか!)
瓜子は全身全霊で、目の前に迫る蹴り足をにらみ据えた。
すべての血液が逆流したかのように、体内が沸騰している。まるで、心臓が暴走したかのようであった。
それにつれて、世界が彩度を増していく。
具現化した疾風のように霞んでいたレッカー選手の蹴り足が、じょじょに人間としての形を成していき――最後には、そのかかとに刻まれた皺や角質まで見て取れるようになっていた。
あの不可思議な感覚、集中力の限界突破とでも言うべき現象が、突如として瓜子の身に降りてきたのだ。
まるで、瓜子の思いに呼応するように――まるで瓜子の命令に従うように、見える世界が一変した。あれだけ鋭かったレッカー選手のバックスピンキックが、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
しかし、どれだけゆっくり見えたところで、もはやその攻撃をかわせるような段階ではない。瓜子自身も同じ速度でしか動けないのだから、どれほど緻密に知覚できようとも回避できないものは回避できないのだ。
それならば、少しでもダメージをやわらげるしかない。
頭を相手の攻撃と同じ方向に振って、衝撃を逃がすのだ。
もはやそれも間に合わないほど、レッカー選手の蹴り足は肉迫してしまっているが――何もしなければ、こめかみを撃ち抜かれて失神するだけの話であった。
瓜子はマウスピースを食いしばり、左の方向に首をねじっていく。
レッカー選手の蹴り足は、すでに瓜子のこめかみに触れようとしていた。
(やっぱり、駄目だ。頭を振るだけじゃ、間に合わない)
これはもう、全身で動いて衝撃を逃がすしかないだろう。
瓜子がそのように思考すると同時に、瓜子の左足がマットから離れた。
(ああ、うん……それがベストかな)
肉体に一瞬遅れて、瓜子の思考が理解する。
瓜子は首をねじりつつ、胴体にもそれを追いかけさせて――そして、右足を軸に、左足を後方に振り上げた。
その過程で、レッカー選手の蹴り足が瓜子のこめかみに到達する。
かなり危険な、深い当たりだ。瓜子がどのようにあがこうとも、意識を飛ばされる危険は最後までつきまとった。
(でも……なんだろう。なんだか、少し……揺らぎを感じる)
これまでにくらったレッカー選手の攻撃に比べて、この攻撃はわずかに軸がぶれているように感じられた。バックスピンハイキックという大技であれば、それも当然なのかもしれないが――しかしこれは、彼女の得意技であるはずであった。
(もしかして……あたしのローのダメージのせいなのかな)
瓜子のローを何発もくらった左足で、レッカー選手はマットを踏みしめているのである。彼女はムエタイ戦士の強靭さでそれを押し隠していたが、オランダ流のローに数発のカーフキックをくらっていれば、どれだけ綺麗にカットしていてもダメージは蓄積されているはずであった。
しかし何にせよ、瓜子にとってこれは一縷の希望である。
これならば、かろうじて意識までは奪われないかもしれない。脳震盪を起こしても、倒れさえしなければKO負けとはならないはずであった。
しかしそれは、瓜子のみが立っていた場合である。
よって瓜子はこのアクションで、レッカー選手に瓜子以上のダメージを与える必要があり――そのために、こうして左足を振り上げているのだった。
(この間合いだったら、当たるはずなんだけど……あたし、短足だからなぁ)
そのように思案した瓜子の頭が、頼りなく揺れた。
ついに、攻撃の衝撃が頭蓋骨の内部を揺さぶってきたのだ。
その感覚までもが、スローモーションのようにゆっくりと感じられる。こめかみに痛覚が弾け散り、その衝撃がじわじわと頭蓋骨を通過して、脳を揺さぶろうとしているのだ。たびたびこの不可思議な領域に足を踏み込んできた瓜子でも、これは初めての感覚であった。
(絶対に、眠るなよ。それより先に、こっちの攻撃を当てるんだ)
瓜子が選択したのはレッカー選手と逆の足による、左のバックスピンキックであった。
ただし軌道は、ハイではなくミドルである。この身長差でハイに当てるのは難しいと、感覚と思考で意見の一致を見たのだ。そうして瓜子は左方向に身体をねじりながら左足を振り上げて、バックスピンキックを射出したのだった。
レッカー選手の蹴り足に押される格好で、瓜子の肉体はいっそう勢いよく旋回する。まあ瓜子自身はスローモーションのようにしか知覚できないが、レッカー選手に負けない勢いであることは察知できた。
ただ、視界がどんどん歪んでいく。
脳震盪が進行しているのだ。
それでも瓜子は奥歯を噛みしめて、最後の攻撃に集中した。このバックスピンキックをかわされたら、もはや瓜子に勝機はなかった。
そうして瓜子の身体は、のろのろと旋回していき――ついに、ねじった首の先にレッカー選手の姿をとらえた。
レッカー選手は、すでに蹴り足を下ろそうとしている。
バックスピンキックを完遂させて、瓜子に正対している角度だ。
その目は、鳥類のように感情を感じさせない。
目の前で旋回している瓜子の姿を知覚しているのかしていないのか、それすら判然としなかった。
瓜子は左膝を軽く曲げて、軌道を修正する。
そうして、レッカー選手の蹴り足が完全にマットを踏みしめた瞬間――瓜子の蹴り足が、レッカー選手のもとに到達した。
狙った部位はみぞおちで、ヒットさせた部位はかかとである。
瓜子の左かかとが、レッカー選手の鍛え抜かれた腹の中に、ずぶりとめりこんだ。
レッカー選手は、ボディも存分に鍛えていることだろう。さらにムエタイ戦士というものは、きわめてダメージに強いのだ。
しかし人間には、耐えられないダメージというものが存在する。どれだけ肉体を鍛えようとも、どれだけの精神力を持っていようとも、急所へのダメージには耐えられないのだ。
みぞおちも、その急所のひとつであった。
筋肉のつかないみぞおちは、全人類にとっての急所なのである。
その急所たるみぞおちに、瓜子はバックスピンキックをめりこませた。
蹴りの衝撃に押される格好で、レッカー選手はゆっくりと身を折っていく。
その黒い目に、初めて感情らしいものが覗いた。
驚愕――あるいは、驚嘆の色である。
その後に、レッカー選手の表情が崩れていく。
レッカー選手はゆっくりと口を開いて、マウスピースを吐き出した。
そうして身体をくの字にしながら、のろのろとマットに倒れ込み――その膝がマットについたところで、瓜子の身を覆っていた不可思議な感覚が消失した。
とたんに、景色がぐにゃりと歪む。
瓜子は瓜子で、脳震盪を起こしているのだ。瓜子はいきなり荒波に放り込まれたような心地で、たたらを踏んだ。
(倒れるな! 倒れたら、たぶんダブルノックアウトだ!)
そのように考える瓜子の鼻先に、マットが急接近してくる。瓜子はすでに、倒れているさなかであったのだ。
瓜子はほとんど本能で、マットに右フックをくらわせた。
その反動で身を起こし、千鳥足で前進する。目指すは、黒いフェンスであった。
途中でまた倒れかかったので、今度は左の手の平でマットを押し返し、さらに前進する。
そしていきなり、右肩に衝撃が走り抜けた。遠近感も狂っていたので、想定よりも早くフェンスに到達したのだ。
瓜子はフェンスにしがみつき、頭がぐわんぐわんと揺れる感覚に耐えながら身をよじり、フェンスに背中をつけてもたれかかった。
膝は、がくがくと震えている。
しかし何とか、立っていることはできた。
そして、レッカー選手は両膝をついた状態で腹部を抱え込んでおり――そしてそのまま、ぐにゃりと突っ伏した。
レフェリーは瓜子とレッカー選手の姿を見比べてから、両腕を頭上で交差させる。
試合終了のブザーが鳴り響き、大歓声が爆発した。
耳鳴りがひどいので、英語のアナウンスはいっそう聞き取れない。
ただ――向かいのフェンスでは立松が歓喜の形相でエプロンサイドを叩いており、蝉川日和は両腕を振り上げており、鞠山選手はにんまりと笑っていた。
それで瓜子は安堵の息をつきながら、マットにへたりこむことがかなったのだった。
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