06 ガトリング・ラッシュとナックムエ

 大歓声の中、英語のアナウンスによって選手紹介がされた。

 どれだけ回数を重ねても、やっぱり瓜子にはその内容を聞き取ることができない。ただ、《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の名を聞き逃すことはなかった。日本のタイトルを軽んじていない《ビギニング》において、そちらの両団体の二冠王であるというのは重要なブランドであるはずなのだ。それはまた、《アトミック・ガールズ》の看板を背負っているつもりである瓜子にとっても、大きな誇りであった。


 いっぽうレッカー選手のほうも、一度だけ『チャンプ!』という言葉が使われたようである。おそらくは、ムエタイ部門の元王者であるという肩書きが紹介されたのだろう。なおかつ彼女はタイトルマッチに敗れることなく、MMAに転向するために王座を返上したのだという話であった。


 それらのアナウンスを終えて、瓜子とレッカー選手はレフェリーのもとまで進み出る。

 近くで見ても、レッカー選手はやはり穏やかな表情だ。だけどやっぱり柔和な面持ちでありながら内心のまったく読めない、どこか動物めいた無表情であった。


 レフェリーは英語で簡単にルール説明をして、グローブタッチをうながしてくる。

 瓜子が両手を差し出すと、レッカー選手はいっぺん合掌をしてから握った拳をタッチさせてきた。


 瓜子は相手の姿を見据えたまま、フェンス際まで引き下がる。

 たちまち、立松が大歓声に負けない大声を投げかけてきた。


「落ち着いていけよ! でも、縮こまるな! 自分から動いて、リズムを作れ! 相手に気持ちよく蹴らせるな!」


 瓜子はぐっと右腕を上げて、立松の言葉に応えた。

 そして――やまない大歓声の中、試合開始のブザーが鳴らされる。


 立松の指示に従って、瓜子は最初からギアを上げて前進した。

 いっぽうレッカー選手は、ゆったりと進み出てくる。ムエタイの選手は一ラウンド目を様子見に費やすことも多く、レッカー選手は少なからずその風習を引きずっているのだという話であった。


「ただし、相手がアクティブに仕掛けてきたら遠慮なく応じてくる。決して気を抜いているわけではないので、用心するように。……だそうだわよ」


 かつてユニオンMMAの稽古場では、グヴェンドリン選手のそんな助言を鞠山選手が通訳してくれていた。

 ともあれ、瓜子は序盤から積極的に仕掛けていく作戦である。肝要なのは、自分のテンポとリズムで試合を進めることであった。


 瓜子は早い段階からアウトサイドに回り込み、大回りでレッカー選手に接近していく。

 レッカー選手はゆったりとステップを踏みつつ、瓜子に正対しようと向きなおってきた。迎撃の右ミドルは――まだ出ない。


(やっぱり、様子見の癖がしみついてるんだ)


 もちろん瓜子が真っ直ぐ突っ込んでいったならば、すぐさま強烈な右ミドルが飛ばされたことだろう。それを避けるための、大回りであったのだ。

 身長差は十センチであるし、リーチとコンパスの差はそれ以上だろう。その射程距離の差を埋めるべく瓜子は機敏に動き、そして自分から蹴りを放った。


 様子見ではなく、渾身の右ローである。

 その勢いに反応して、レッカー選手は左足を高く持ち上げた。MMAのチェックではなく、キックやムエタイのカットだ。ローの衝撃を最大限に緩和させるための措置であった。


 そうして高く持ち上げられた左足の膝側面を狙って、瓜子は右ローを叩きつける。

 MMAでこれほど力の入ったローを出す機会は、あまりない。蹴る側も片足の時間が長くなり、次のアクションに遅延が生じるためだ。

 ただしレッカー選手は自らテイクダウンを狙ってくることはないし、仕掛けてくるとしたら首相撲ぐらいだ。なおかつあちらもそれほど高く足を持ち上げていたら、次のアクションが遅れるはずであった。そこまで見越しての、渾身の右ローである。


(まあ、レッカー選手がチェックを選んでたら、首相撲か打撃のカウンターを狙われたかもしれないけど……その場合は、足にダメージを溜められるだろうからな)


 硬い骨を持つ瓜子の渾身の右ローは、チェックだけでは防ぎきれない破壊力を有しているのだ。

 こうして完全にカットされたならば、ダメージはほとんど無効化されてしまうだろうが――ただし、瓜子の骨の硬さだけは伝わったことだろう。そうして今後もローを警戒させるための、これは重要な布石であった。


 首尾よく右ローをヒットさせた瓜子は、反撃をくらわない内に距離を取る。

 レッカー選手は無表情のまま、何事もなかったかのようにゆったりと追いかけてきた。


(まだそっちには蹴らせないぞ)


 瓜子はギアを上げたまま、またアウトサイドに回り始めた。

 スタミナを使ってでも、序盤からペースを握るのだ。それが、立松たちの考案した作戦であった。


 ムエタイの選手というものは、試合の始まりから終わりまでなかなか調子を崩さない。あまりがむしゃらになることがない代わりに、最後まで同じテンポで戦うことができるのだ。そうして判定勝負が多くなるのも、ムエタイのひとつの特徴であった。


 彼女もMMAのキャリアを二年積んでいるが、まだまだムエタイのキャリアのほうが長い。前半からかき回されたほうが、ペースを乱す可能性は高いだろうという見込みであった。


 そして、瓜子にとっての攻撃の要は、ローだ。

 ミドルやハイでは腕でガードされたのちに、すぐさま反撃される恐れがある。また、リーチで劣る瓜子がパンチの間合いにまで踏み込むのは、首相撲でつかまる危険が高い。そこで選ばれたのが、ローを軸にした攻撃であった。


 ローも射程は短いので、あちらも真っ直ぐのパンチであれば返すことができるだろう。

 しかし、ローのカットで足を持ち上げればアクションは遅れるし、それならば瓜子でも回避できる見込みが高い。瓜子とて、五年の歳月をキックのトレーニングに捧げた身であった。


(ここ最近で、蹴りを軸にした試合も経験できたしな)


 瓜子はキックのエキシビションマッチを行うことで、蹴り技を軸にしたスタイルを考案することになったのだ。それは分厚いボクシンググローブによって拳の硬さとパンチスピードが損なわれる影響から考案された苦肉の策であったが、瓜子にとっては得難い経験であった。


 そうして瓜子はレッカー選手に蹴りを出すゆとりを与えないぐらいのスピードでアウトサイドに回り込み、二度目の右ローを繰り出した。

 次の右ローは、ふくらはぎの下部を狙ったカーフキックである。レッカー選手がまた高く左足を持ち上げたため、瓜子の蹴り足は足首のあたりにヒットした。


 足首は硬いので、蹴った瓜子のほうも痛い。

 しかしそれ以上に、レッカー選手は痛かったことだろう。くどいようだが、瓜子の骨は硬いのだ。


 先刻と同じように、瓜子は素早く後退する。

 レッカー選手は、やはり無表情に追ってきた。

 どれだけのダメージを与えられたかは、まったくわからない。これがムエタイ戦士、ナックムエの怖さであった。


 そして瓜子との間合いが開くと、レッカー選手は軽く左ジャブを振ってきた。

 牽制――というよりも、リズムを測っているような動きである。いよいよあちらも、本格的な反撃を考え始めたようであった。


(でも、もう一発だ)


 瓜子の課題は、序盤で三種のローを撃ち込むことであった。

 通常の右ローに、カーフキック、そして最後は――ジョン直伝の、オランダ流のローであった。


 それなりのスタミナを使ってアウトサイドに踏み込んだ瓜子は、渾身の力でそのローを叩きつける。

 オランダ流のローというのは、斜め下方に振り下ろす蹴りである。通常のローは足を浮かせれば大部分の衝撃を逃がすことができるが、この蹴りはより深い角度で打ち下ろすため、足を浮かせてもかなりのダメージを与えられる利点があった。


 ただし、瓜子はただでさえ足が短いため、オランダ流のローはいっそう挙動が大きくなってしまう。よって、これまでは数えるぐらいしか使う機会もなかったが――このレッカー選手はテイクダウンを狙ってくることもないので、あえて作戦に組み込もうという話に落ち着いたのである。


 そんな瓜子の右ローが、レッカー選手の左足にヒットした。

 またもや大きく足が持ち上げられたので、当たった部位はふくらはぎの上部あたりだ。それでも、これまで以上の衝撃が骨身に響いたはずであった。


 そして――瓜子のもとには、右ストレートが飛ばされてくる。

 レッカー選手は足を下ろしきる前に、腰から上の挙動だけで右ストレートを放ってきたのだ。瓜子は大きく身をのけぞらせることで、なんとか回避することができた。


 そうして瓜子は、いくぶんたたらを踏みつつ後退する。

 レッカー選手は――やはり、ゆったりとした前進だ。血の気の多い選手であれば一気呵成に攻めたててきてもおかしくない場面であったが、やはりレッカー選手はそういうタイプではなかった。


 それでもレッカー選手はかなりアクティブなファイトスタイルであると伝え聞いているが、今は瓜子の機動力がまさっているのだろう。それでこそ、惜しみなくスタミナを使った甲斐があったというものであった。


(だからあっちは、あたしのスタミナの残り具合もじっくり見定めようとしてるんだろうな)


 三発のローをくらったレッカー選手は、まったく挙動が変わらない。その目はひたすら真っ直ぐに、瓜子の姿を見据えていた。

 不気味な、ダチョウか何かの鳥類を思わせる眼差しである。レッカー選手は気迫をみなぎらせていたが、その気配すらもが静謐であった。


「一分経過だわよ!」


 と――鞠山選手の声が、瓜子の耳に突き刺さってきた。

 大歓声の坩堝であるのに、なんとよく響く声なのだろう。もとより鞠山選手の声というのは周波数が高いのにざらざらとしていて、鼓膜をひっかかれるような心地であるのだ。その特性を活かして、時間経過を伝える役割を担ってくれたのかもしれなかった。


 ともあれ、一分が経過したのだ。

 相応にスタミナは使ったが、作戦通りに三種のローを撃ち込むことができた。ここまでは、こちらの思惑通りであった。


(さあ、ここからが本番だぞ)


 これだけで攻略できるほど、レッカー選手が甘い選手であるわけがない。どれだけ優勢に試合を進めても、最後の瞬間まで油断することはできなかった。


「プランAを続行だわよ! 作戦通り、かき回すんだわよ!」


 と、鞠山選手がそのように告げてくる。

 相手を落ち着かせるなと、瓜子の尻を叩いているのだ。もちろんそれは、チーフセコンドである立松の言葉の代弁であるはずであった。


 瓜子はひとつ呼吸を整えてから、あらためてアウトサイドに回り込む。

 レッカー選手は、また左ジャブを振っていた。それが、今度こそ蹴りを出そうという予備動作に思えてならない。もとよりレッカー選手も、本来は蹴り技で試合を組み立てるスタイルであるのだ。


 瓜子は大きく動きながら、四度目の右ローを放つ。

 再びの、カーフキックである。レッカー選手が大きく足を持ち上げたので、また足首にヒットした。


 その蹴り足を前に下ろして、瓜子はレッカー選手の浮いた左足に手をのばす。

 たちまち長い両腕がのびてきて、瓜子の肩を突き放してきた。


 瓜子の前進は止められて、反動を利用したレッカー選手は後方に跳びすさる。

 これまでのレッカー選手には見られなかった、大きな挙動だ。

 その間隙を逃さず、瓜子も大きく踏み込んだ。そうして繰り出したのは、奥足となっていた左からのカーフキックである。


 レッカー選手は迷うことなく、また左足を持ち上げる。

 組み技を狙われることよりも、ダメージが溜まることを憂慮したのだろう。それはそれで、まったくかまいはしなかった。


 瓜子の蹴り足が、今度は内側から足首のあたりにヒットする。

 そして瓜子はまた蹴り足をそのまま下ろして、左のストレートに繋げた。この近年で体得した、空手流の追い突きである。


 瓜子の拳はガードの隙間をかいくぐり、レッカー選手の鼻っ柱にクリーンヒットした。

 レッカー選手はテイクダウンの仕掛けも恐れずにカーフキックを防御したが、それで瓜子がまた足もとを狙ってきたら突き放そうと思考したはずだ。その隙を突いてパンチを当てるというのが、こちらの眼目であった。


 レッカー選手はムエタイの実力者だが、これはMMAだ。

 打撃と組み技のスキルを組み合わせれば、瓜子は立ち技でも主導権を握れる――それが立松たちの戦略であり、瓜子に対する信頼であった。


(確かに、コーチたちの言う通りなんだろう)


 ここまでは、瓜子ばかりが攻撃をヒットさせている。それもすべては、レッカー選手が組み技に意識を置いているがゆえであるのだ。これがキックやムエタイの試合であったならば、レッカー選手もこうまで受け身に回っていないはずであった。


(これはMMAの試合で、あたしはMMAファイターだ。あたしはMMAの技術で、あなたに勝つ)


 瓜子は欲をかかずに、すぐさま引き下がった。

 今はダメージを与えるよりも、リズムをつかむ時間帯であるのだ。瓜子はこの後もさまざまな攻撃を織り交ぜて、レッカー選手のリズムを突き崩す所存であった。


 左ストレートをクリーンヒットされたレッカー選手は、足を止めてその場に立ち尽くす。

 その平たい鼻から、すうっとひと筋の血が垂れた。

 しかし――瓜子を見据えるレッカー選手の黒い目は、相変わらず鳥類のように如何なる感情も浮かべていなかった。

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