05 メインカード
メインカードの第一試合は、男子ライトヘビー級の一戦である。
瓜子の出番はその次となるが、今回も入場口まで移動するのは第一試合が終わったのちという指示を受けていたので、控え室にて最後のウォームアップに取り掛かる。
とはいえ、身体はもう十分に温まっていた。第一試合は秒殺で終わる可能性もあるので、ウォームアップはこの段階で終えていなければならないのだ。あとはその熱を逃がさないように努めるばかりであった。
ここで無駄に動いては疲労を溜めるだけであるので、軽く身体を動かしながらモニターの様子を拝見する。ケージでは、筋骨隆々たるライトヘビー級の選手たちがその巨体をぶつけあっていた。
《ビギニング》陣営はロシアの選手、《パルテノン》陣営は日本の選手である。外国人選手が隆盛をきわめている重量級において、《パルテノン》では日本人選手が王座を守っていたのだ。しかもこの選手は《NEXT》の王座をも保持する二冠王であるとのことであった。
いっぽう《ビギニング》のほうも現役王者であり、しかも彼は大晦日の日本大会でウズベキスタンのヘビー級王者を下した選手であった。つまりこちらは《ビギニング》のヘビー級およびライトヘビー級の王座を保持する、これまた二冠王であったのだ。二冠王同士の対戦というのは、国内外を問わず稀な一戦であるはずであった。
「うーん。見た目の体格では負けてねーけど、やっぱ骨格の違いは如何ともしがてーなー」
ユーリ側のセコンドであるためまだ余裕たっぷりのサキが、そのように評した。
確かにぱっと見には同程度の体格に見えるのだが、より逞しく見えるのは《ビギニング》陣営の選手であった。《ビギニング》の選手は無駄肉を削ぎ落とした上で、《パルテノン》の選手はほどほどに脂肪を残した上で、同じぐらいの質量を保っているようであった。
「よくよく考えりゃ、ロシアのでかぶつはヘビー級でもチャンピオンなんだからなー。ライトヘビーでは、がっつり絞る必要があるってわけだ」
「ウン。《パルテノン》のセンシュは、もっとシボってミドルキュウにしてもいいぐらいのカンじだねー。ニカンオウだから、ジツリョクはタシかなんだけどさー」
「それでも、揉まれる環境が違ってるだろーよ。日本国内じゃあ、でかぶつの対戦相手もそうそう見つからねーだろうしなー」
サキとジョンのやりとりからも察せられる通り、苦境に立たされているのは日本人選手のほうであった。どちらもライトヘビー級とは思えない身のこなしで、なかなかテクニカルな試合を見せているようであるのだが――ここぞという場面では日本人選手が力負けして、そのたびに大きく体力を削られている様子であった。
そうして、二ラウンド目の中盤を過ぎた頃――ロシアの選手のボディブローによって、日本の選手が崩れ落ちた。
先刻の横嶋選手はそこから逆転勝利をもぎとったが、今回は馬乗りからのパウンドであえなく試合終了である。ロシアの選手が昂った様子もなくうっそりと右腕を上げると、客席からは歓声がわきたった。
「なんか、オルガ選手を思い出しちゃうにゃあ。オルガ選手も、元気に頑張ってるかしらん」
「オルガだったら、またロシアの大会で優勝してただわね。その前にはヨーロッパの興行にも出場してただわし、着実にキャリアを重ねてるだわよ」
と、瓜子のかたわらでウォームアップを見守っていた鞠山選手がそのように答えた。
「これだけ勝ち星を稼いだら、いつ《アクセル・ファイト》の地方大会にスカウトされてもおかしくないんだわよ。あんたとトキちゃんの名勝負がオルガの評価を見直す契機にもなりそうなところだわね」
オルガ選手は《アトミック・ガールズ》でも数々の勝利をあげていたが、ユーリと小笠原選手には敗北しているのだ。そして、ユーリと小笠原選手の名声が高まれば、それに敗北したことも悪い評価にはならない、という話であるようであった。
「それは楽しみなところですねぇ。……でも今は、オルガ選手に思いを馳せている場合ではありませんでしたっ!」
と、ユーリは跳ねるような足取りで瓜子に近づいてきた。
その白い面には、透き通った微笑がたたえられている。第二試合の瓜子は、ついに出陣の時間であるのだ。
「頑張ってね、うり坊ちゃん。……そのかわゆいお顔になるべく傷がつかないように、ユーリはお祈りしているのです」
「はは。試合に勝てれば、顔なんてどうでもいいっすけどね」
「うみゅ。試合をする本人は、そう思うのが当然だからねぇ。だからユーリが、うり坊ちゃんのぶんまでお祈りしておくのです」
ユーリもまた、いつその美貌を失ってもしかたないという覚悟でもって、試合に臨んでいるのである。
そして、今さらそのような話を持ちだしたのは、瓜子が前回の試合で大流血をした影響なのだろうと思われた。
「ウリコ、ガンバってねー。ウリコだったら、ゼッタイにカてるよー」
「ま、ウン十万の経費が無駄にならねーように、踏ん張れや」
「猪狩センパイの健闘と勝利を祈っているのです」
ユーリのセコンドたる三名も、そんな言葉で瓜子を激励してくれた。
瓜子がそれに「押忍」と応じたタイミングで、控え室のドアがノックされる。案内のスタッフがやってきたのだ。
瓜子はユーリと拳をタッチさせ、無言で笑顔を交わしてからきびすを返した。
控え室を出た瓜子は、立松、鞠山選手、蝉川日和を引き連れて、運営スタッフの行き交う通路を踏み越える。途中でライトヘビー級の陣営と行き交ったが、ダメージを重ねたその選手は両側から大きな身体を支えられており、瓜子たちはセコンド陣と会釈を交わすのみであった。
ここまでで、対抗戦の戦績は一勝六敗――
実に無念な結果であるが、瓜子はひたすら勝利を目指すのみである。たとえ日本陣営が全勝していても全敗していても、瓜子の熱情に変わるところはなかった。
「間もなく入場です。そちらでお待ちください」
入場口に到着した瓜子は、その場でステップを踏んで暖気に努める。
すると、立松が気合のみなぎった顔で笑いかけてきた。
「やることは全部やってきた。あとは、自分の力を信じろ。お前さんなら、誰にだって勝てる」
「ふふん。大怪獣ジュニアには引き分けただわけど、まああんな規格外の存在は世界にだってそうそういないだわね。苦しくなったら、ジュニアの凛々しい顔でも思い出すだわよ」
「と、とにかく頑張ってください! あたしも全力で、サポートするッスから!」
瓜子は精一杯の思いを込めて、「押忍」と応じた。
すると、インカムで指示を受けたスタッフが「どうぞ」と扉を開く。
扉の隙間から大歓声が響きわたり、そこに切迫感に満ちた『ワンド・ペイジ』の演奏がかすかに入り混じっていた。
そのイントロが終了して、山寺博人のしゃがれた歌声が響きわたったタイミングで、瓜子は入場口をくぐる。
左右からは炭酸ガスのスモークを吹きつけられて、頭上からはさまざまな色合いをしたスポットの光をぶつけられる。
それらをかいくぐって、瓜子は歓声と熱気の渦巻く花道に踏み入った。
大晦日の日本大会に引き続き、開会セレモニーからほんの数十分でまた花道を歩いているのが奇妙な心地だ。
しかしべつだん、集中を乱されるほどの話ではない。瓜子の心はいつも通り、ほどよく躍動しながら、ほどよく張り詰めていた。
(あたしの神経の太さも、なかなか大したもんなのかな)
これが初めての海外の試合であるという気負いも、瓜子には存在しない。五体を包み込む熱気も歓声もまばゆいスポットも、瓜子にとっては馴染み深いばかりであった。
まあ、万単位の歓声を浴びるというのは、この近年で初めて体験したわけであるが――《アクセル・ジャパン》が開催された十月からの五ヶ月間で三度目となるのだから、今さら怯む理由もない。そしてこのシンガポールの地においても、瓜子にはおおよそ好意的な熱情がぶつけられていたのだった。
花道を踏み越えた瓜子はオレンジ色のウェアを脱いで、蝉川日和に受け渡す。
そちらのほうこそ子供のように頬を火照らせていたので、瓜子はつい笑ってしまった。
この大歓声では言葉を交わすことも難しいので、瓜子はセコンド陣と無言で拳をタッチさせる。今さらながら、そこに鞠山選手が含まれているのが愉快な心地であった。
顔に薄くワセリンを塗られて、マウスピースの有無と、手足や試合衣装に異常がないかを確認される。そういった手順も、やはり日本と変わるところはない。
瓜子は大きく息をついてから、ステップを上がってケージに乗り込んだ。
ケージには、リングアナウンサーとカメラクルーが待ち受けている。日本人とはわずかに面立ちが異なっているように感じなくもないが、やっぱりそれも些細な差異だ。異国の雰囲気を感じるほどではなかった。
そうして『ワンド・ペイジ』の『Rush』がフェードアウトして、今度は笛や太鼓の音楽が鳴り響く。
これは――ムエタイの選手がワイクルーという試合前の舞踏を披露する際に流される音楽であった。
瓜子はマットの上で小さくステップを踏みながら、赤コーナー側の花道を進むレカー選手の姿を見守る。
レッカー選手はすでにハーフトップとキックトランクスという試合衣装で、頭にはモンコンという闘いのお守りを巻いていた。
(ふうん……何もかも、ムエタイ流なんだな)
瓜子もかつて《G・フォース》の舞台で、ムエタイの選手の試合を何度か拝見している。そして瓜子の旧友たるリンも、古式ゆかしいムエタイの風習を守っていたのだった。
レッカー選手は花道を進みながら、時おり腕を組み合わせたり、通路に片方の膝をついたりしている。きっとケージ上ではすぐに試合が始められてしまうため、この入場の時間にワイクルーを踊っているのだ。
ムエタイにおけるワイクルーとは、親や師匠などに感謝を捧げつつ、神に勝利を祈るための儀式である。タイの国技であり、長きの歴史を持つムエタイという競技は、日本における相撲のようにさまざまな儀式が存在するのだった。
そうして長きの時間をかけて花道を踏み越えたレッカー選手は、セコンドのひとりに向かって頭を垂れつつ合掌する。そのセコンドの男性もひとつ合掌してから、恭しい手つきでレッカー選手の頭からモンコンを取り外した。
あとはお決まりの手順に従ってボディチェックを受けて、ゆったりとした足取りでケージインする。
その間も、客席にはずっと歓声がわきたっていた。開会セレモニーでも知れていたことであるが、ムエタイ部門でもMMA部門でも目覚ましい結果を残してきたレッカー選手は、《ビギニング》の人気選手であるのだ。
タイの血が入っているというレッカー選手は黒髪に黒い瞳で、かなりくっきりとした褐色の肌をしている。彼女はタイとシンガポールの両方に住居を持っており、トレーニングの内容によって行き来しているのだという話であった。
身長は百六十二センチで、すらりとした体格をしている。同じ背丈であるグヴェンドリン選手もかなり均整の取れた体格であるが、それよりもやや細身で手足が長いように感じられた。
いくぶん平べったい面立ちで、そこに穏やかな表情がたたえられている。優しげな――というよりは、余計な感情を排したポーカーフェイスであるように見える。それもまた、瓜子が知るムエタイの選手と同一であった。
(リンも普段はにこにこしてて可愛いけど、試合になるとこういう顔になるんだよな)
ムエタイはタイにおいて国技であると同時に、賭博の対象でもある。今やMMAも北米やシンガポールにおいては同様の存在であるが、それよりも明確に「賭博のために試合をする」というシステムであるのだ。それが日本の相撲との大きな差であった。
観客の数多くは、自分が金を賭けた選手が勝つようにという思いで声援や罵声を浴びせるのである。その過酷な環境もまた、選手の心をタフに鍛えるのだろうと思われた。
なおかつ、試合中に苦しげな顔を見せたならば、判定の結果に響いてしまうかもしれない。それを回避するために、ムエタイの選手は表情を押し殺すのが常態なのである。どれだけダメージを受けても顔色ひとつ変えないというのが、瓜子の知るムエタイの選手の恐ろしさであった。
レッカー選手は、そんなムエタイ戦士の気配を色濃く残している。
彼女はすでに二十五歳だが、二十三歳まではムエタイの選手であり、本場タイで活躍すると同時に、この《ビギニング》のムエタイ部門で王者となったのだ。その身には、ムエタイ戦士――タイ語で言うところの『ナックムエ』としての力と誇りが刻みつけられているはずであった。
(それが、レッカー選手の最大のストロングポイントで……同時に、ウイークポイントなんだ)
立松たちは、そのように判じていた。
瓜子としても、異論はない。グヴェンドリン選手たちが語るレッカー選手は、歴戦のムエタイ戦士そのもののイメージであったのだった。
ムエタイの怖さを少なからず知っている瓜子は、ぞくぞくと背筋が粟立ってしまう。
本場ムエタイで活躍していた選手を、国内のキック王者にもなれなかった瓜子が相手取るのだ。そのキャリアだけを比較したならば、雲泥の差があるはずであった。
(でも……これは、MMAだ)
瓜子はいまだに二十二歳の若年であるが、中学二年生の頃からキックを始めて、MMAは――これで四年のキャリアとなる。ユーリと出会ってからの日々が、瓜子にとってはまるまるMMAのキャリアになるのだ。
そんな瓜子と出会った頃、ユーリのMMAのキャリアは二年と少しであった。トレーニングを始めてからは二年強、デビュー戦からは一年強というキャリアである。
よって、ユーリのキャリア四年目というのは――《カノン A.G》の騒乱のさなかであった。《カノン A.G》の二度目にして最後の興行がユーリにとってはデビュー三周年、トレーニングを始めてからは丸四年の節目であったのだ。
(つまりユーリさんはその間に、来栖さんやジジ選手をすでに倒してたわけだ)
世間的には、来栖舞やジジ選手よりもこのレッカー選手のほうが格上であると見なされるのだろう。今や《ビギニング》は、それだけの実績を積んだ団体であるのだ。その《ビギニング》でトップファイターと認められたレッカー選手は、日本におけるどの選手よりも格上であるとされるはずであった。
しかし、そのような格式は関係ない。
瓜子はただ、稽古を始めてから四年足らずで来栖舞やジジ選手を打ち倒したユーリの強さを見習おうと、そんな思いを燃やしているのみであった。
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