04 アサシン・スネーク
巾木選手がヌール選手に敗北したのちも、プレリミナルカードは粛々と進行されていったが――それにつれて、じわじわと不穏な空気が高まってきた。
巾木選手が敗れた時点で日本陣営は三連敗となったわけだが、その次の第四試合も、さらには第五試合においても、日本陣営が敗れ去ってしまったのである。
「あーあ。不安が的中しちまったな」
ユーリのウォームアップを手伝いながら、サキはそんな風に言い捨てた。
この対抗戦では日本陣営が惨敗するのではないかと、サキはかつてそんな不吉な予言をしていたのだ。それは、ホームである日本大会でも五勝六敗という内容であったので、アウェイであるシンガポール大会ではいっそうの苦戦を強いられるのではないかという内容であった。
スチット氏はアジア全体の格闘技業界を盛り上げようと奮起しているため、《パルテノン》を噛ませ犬にするとは思えない。そもそもそのような真似をするまでもなく、《ビギニング》の運営は順風満帆なのである。そして何より、瓜子はスチット氏の人間性というものを信頼していた。
しかし、肝心の日本人選手たちがスチット氏の期待に応えられるかどうかはわからない――というのが、サキの身も蓋もない寸評であったのである。今のところは、その寸評の通りに試合が進んでしまっているようであった。
「で、メインカードでは《ビギニング》の絶対王者と《アクセル・ファイト》の元王者なんつー二強が控えてやがるんだからな。二敗がほとんど確定してる中で五連敗ってのは、致命的だろ」
「何にせよ、対抗戦の結果まで俺たちが心配する必要はない。こっちは自分らの試合に集中するだけだ」
立松は厳しい面持ちで、そんな風に言っていた。
そんな中で開始された、プレリミナルカードの最終試合――横嶋選手の出番である。
瓜子はウォームアップで得た熱を逃がさないように軽く身体を動かしながら、その試合を見守った。そして、試合の序盤からいきなり驚かされることになった。この試合はグラップラー対決と銘打たれていたが、そうとは思えないほど熾烈な打撃戦が展開されたのである。
「ふん。だけどまあ、相手は打撃技がお粗末なわりに、スタンドでもかなりアグレッシブなスタイルだって話だったんだ。そういう意味では、情報の通りだな」
ギガントジムのトレーナー陣と交流を深めていた立松は、そんな風に評していた。
「だから横嶋さんも、けっこう立ち技のスパーに時間を割いてたろ? 今のところは、ギガント陣営の思惑通りなんじゃねえかな」
「確かに、優勢なのはひねくれ娘のほうだわね」
それは瓜子も、自分の目で確かめることができていた。熾烈な打撃戦と言っても、攻撃を成功させているのはおおよそ横嶋選手のほうであったのだ。
横嶋選手は立ち技においても寝技においても、思わぬタイミングで攻撃を繰り出して、相手の虚を突く手管に長けている。そんなファイトスタイルから、『アサシン・スネーク』なる異名を授かっているという話であったのだ。本日もそのスタイルで、序盤の主導権を握ることができていた。
相手は確かに打撃技の技術が今ひとつであるようで、横嶋選手の手腕に翻弄されてしまっている。自分の攻撃はすべてすかされて、その合間に何発もの攻撃をくらうことになったのだ。試合開始から三分も経過すると、相手選手は目尻から血を流し、右目の下を青黒く腫らしてしまっていた。
しかし――この選手は打撃技の技術が甘い代わりに、打たれ強さに定評があった。そうして粘りに粘ってからグラウンド戦に引きずり込んで逆転勝利を収めるというのが、彼女のスタイルであったのだ。
だが、横嶋選手もグラップラーであるため、打撃戦で相手を削ることができれば、グラウンド戦でも不利になることはない。そんな見込みで、打撃技も組み技も寝技もまんべんなく磨いてきたのだという話であった。
しかし、相手選手はどれだけの攻撃をくらおうとも、まったく怯もうとしなかった。
そうして横嶋選手がスタミナの温存をはかるべく攻撃の手をゆるめると、がむしゃらに突進して乱打戦を仕掛けてきたのである。
いかに粘り強いと言っても、それは瓜子たちの想定を上回るしぶとさであった。
そして横嶋選手も何とか応戦しつつも、何発かいい攻撃をもらってしまい――おたがいにダメージを残したまま、第一ラウンドを終えることになったのだった。
インターバルの間、より深刻な気配であったのは横嶋選手のほうである。外見的には相手選手のほうがひどい有り様であったが、内部に重いダメージを抱えているのは横嶋選手のほうであるように思えた。とりわけボディブローがきいてしまっているらしく、彼女らしい不敵な表情を見せることもできなくなっていた。
そうして不穏なムードの中、第二ラウンドが開始されて――相手選手が、再び乱打戦を仕掛けてきた。
横嶋選手は組み合いに持ち込もうと試みたが、相手はそれを突き放して、荒っぽいフックの乱打を見せる。技術のほうは今ひとつでも、日本人選手よりは体格に恵まれているシンガポールの強豪選手だ。最軽量のアトム級でも、その例からもれることはなかった。
そうして横嶋選手は反撃することもままならず、力なく後退して――そこに、レバーブローをクリーンヒットされてしまった。
横嶋選手は弱々しく身を折って、マットにくずおれてしまう。そこに相手選手がのしかかり、ついにグラウンド戦に移行した。
そして――下から三角締めを仕掛けた横嶋選手が、逆転勝利を収めたのである。
タップを奪った後も、横嶋選手は腹を抱えて立ち上がることができなかった。それだけ甚大なダメージを負いながら、最後に意地を見せたのだ。瓜子は心から感服しながら、モニターの横嶋選手に拍手を送ることになった。
「最後の三角締めは、お見事だったねぇ。やっぱり横嶋選手は、寝技がお上手だにゃあ」
大好きな寝技で勝負が決まって、ユーリもご満悦の表情である。
モニターからは、歓声と拍手が響きわたっている。シンガポール陣営の選手が負けても、ブーイングを飛ばすようなお国柄ではないらしい。プレリミナルカードの最終試合で、瓜子たちはようやくその事実を知ることができたわけであった。
そうしてプレリミナルカードは日本陣営の一勝五敗という形で終了して、時間調節のために三十分間のインターバルとなり――ついに、メインカードの開会セレモニーが開始されることになった。
瓜子とユーリは控え室を出て、立松とジョンに付き添われながら入場口の裏手を目指す。そこにはすでに、三名の男子選手がスタンバイしていた。
サキに「二敗はほぼ確定」と断じられていた二名の選手は、ひときわ緊張と昂揚をあらわにしている。《ビギニング》の男子ライト級の絶対王者と対戦するのは《パルテノン》の現役王者であるため、メインカードたるその試合は団体の威信をかけた一戦になるはずであった。
なおかつそれは、ギガント東京本部の所属選手でもある。東京本部の会長もその選手もユニオンMMAでさんざん顔をあわせていたが、今は声をかけるのがはばかられるぐらいの張り詰めた空気をかもし出していた。
(サキさんは、選手の格だけであんな風に決めつけるような人じゃない。きっと《ビギニング》の絶対王者っていうのが、それぐらい凄い選手なんだろうな)
しかしそれでも、何が起きるかわからないのが試合というものである。ユーリとて、これまでに絶対不利と言われていた試合をいくつもひっくり返してきた身であった。
(あたしもそれは、同じことのはずだけど……いつからこんな風に、自分のほうが有利だなんて見なされるようになったんだろうな)
《アトミック・ガールズ》においては瓜子が王者であるのだから、挑戦者に挑まれるという構図になるのは致し方がない。しかし瓜子は《アクセル・ジャパン》でも《ビギニング》でも、常に有利であるというオッズが弾き出されていたのだった。
(ま、そんな余所の評価は、関係ないけどさ)
有利と見なされようと不利と見なされようと、こちらは死力を振り絞るのみである。
きっと赤コーナー陣営の入場口では、《ビギニング》の絶対王者や《アクセル・ファイト》の元王者が同じような気概を抱いていることだろう。有利と言われて慢心するような人間が、そのような座にまで辿り着けるとは思えなかった。
(絶対に有利だなんて言われたら、逆にプレッシャーになるはずだ。……まあ、それもあたしには関係ないけど)
瓜子は二ヶ月前に山垣選手と対戦した際、絶対に有利だと称されていた。世界クラスの相手を下してきた瓜子が、今さら下り調子の日本人選手に負けるわけがない――と、そんな声が飛び交っていたようであるのだ。
しかし瓜子は慢心することなく、山垣選手との試合に臨んだ。そしてそれでもなお、大流血の憂き目にあったのだ。油断や慢心などしていたら、マットに沈んでいたのは瓜子のほうであったはずであった。
よって瓜子は、今も最大限に気を引き締めている。
オッズの結果など関係なく、本日の対戦相手であるレッカー選手の恐ろしさは、ユニオンMMAでさんざん思い知らされることになったのだ。それだけで、慢心することなどできるわけもなかった。
そうしてまずは、男子ライトヘビー級の選手が扉の向こうに消えていく。ライトヘビー級は、日本大会では試合を組まれなかった階級だ。今回はヘビー級の試合が取りやめられた代わりに、こちらの試合が組まれていた。そして《パルテノン》陣営も《ビギニング》も、現王者であるとのことである。
瓜子の出番は、その次だ。
ふたつ後ろに控えているユーリに笑顔を送ってから、瓜子は花道に足を踏み出した。
扉から一歩足を踏み出すなり、左右から真っ白な炭酸ガスをふきかけられる。
それをかいくぐって前進すると、大歓声が降り注いできた。
一万二千名という規模の会場は初体験であったため、これまでとは異なる圧力が押し寄せてくる。
三万名規模の会場に一万二千名ていどのお客が収まるのと、一万二千名規模の会場が満席になるのでは、やはり趣が異なるようである。空席の目立った『ティップボール・アリーナ』よりも、むしろ歓声の密度が濃密であるように感じられた。
そしてかすかに、「うりぼー!」という声も聞こえてくる。
シンガポールにまでそのような呼称が定着しているのか、あるいは日本人のお客が参じているのか――そういえば、この大会の観戦が組み込まれた観光ツアーが組まれていると、そんな噂も耳にしていた。
何にせよ、歓声を向けられるだけでありがたい限りである。
まあ、瓜子はブーイングでもまったくかまわないのだが――大勢の人々が応援してくれる喜びに変わりはなかった。
そうして瓜子が花道を歩いている間に、レッカー選手の名も呼ばれる。
そちらの歓声も、同等の圧力を持っていた。《ビギニング》で活躍するレッカー選手も、やはり相応の人気を集めているのだ。瓜子としては、むしろ喜ばしいぐらいの話であった。
そうして男子フライ級の入場では、やはり《ビギニング》陣営のほうで歓声が爆発する。《アクセル・ファイト》の元王者である彼は北米だか南米だかの生まれであるはずだが、やはりその絶対的な強さでもって人気を博しているようであった。
そしてその次にユーリが入場すると――それに負けないぐらいの歓声がうねりをあげた。
これはもう、ユーリの美貌と、その強さと、『トライ・アングル』における活躍が影響しているのだろう。ここはいわば敵地であるはずなのに、そうとは思えないような大歓声であった。
そして、対戦相手であるジェニー選手の入場でもそれなりの歓声が鳴り響き、男子ライト級の日本人選手ではいくぶん圧力が減じられ、《ビギニング》の絶対王者の入場ではまた歓声が再燃した。
日本人選手にブーイングが送られることこそなかったが、やはり歓声に人気の度合いが反映されている。そして瓜子は、シンガポールの地でもMMAがこれほどの人気を博しているという事実を深く再認識するに至ったのだった。
(これが、スチットさんたちが頑張ってきた結果なんだろう)
MMAの歴史が浅いシンガポールでは、メジャー団体が《ビギニング》一本に集約されている。それで、日本では細かく分散してしまう熱狂がひとつにまとめあげられているという面もあるのであろうが――しかし何にせよ、日本でこれだけの集客が見込めるのは《JUFリターンズ》のみである。
なおかつ《JUFリターンズ》は年に一度のお祭り騒ぎという風情であるが、《ビギニング》は大小とりまぜて月に複数の興行を行っているのだ。七周年大会である本日はひときわ大規模な興行なのであろうが、それでもやっぱり大した話であるはずであった。
ケージでは、再びスチット氏が英語で語っている。
ペイバービューでライブ中継されるのはここからであるので、また設立七周年に対する思いのたけを語っているのだろう。瓜子がこっそり盗み見てみると、スチット氏は心から嬉しそうに、そして力強く笑っていた。
そうして開会セレモニーは、大いなる熱狂の中で幕を下ろし――ついに、メインカードの試合が開始されたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます