03 薩摩の女傑と静かなる虎
開会セレモニーを終えたならば、プレリミナルカードの開幕である。
瓜子とユーリは段階的にウォームアップを開始して、そちらの試合は横目で拝見させていただく。とりあえず、横嶋選手と巾木選手の試合をしっかり拝見できれば、それで十分であった。
本日も、さまざまな階級で試合が組まれている。これは日本陣営とシンガポール陣営、ひいては《パルテノン》陣営と《ビギニング》陣営の対抗戦であるのだ。このたびも、各階級の王者かそれに匹敵するぐらいの選手が集められていた。
巾木選手は第三試合、横嶋選手は第六試合であったため、最初の二試合はちらちらと拝見させていただいたが――残念ながら、日本陣営の二連敗だ。前回は勝利を収めた日本人選手も、今回が初出場となる日本人選手も、それぞれKOと一本負けを喫してしまった。
「やっぱりアウェイは、分が悪いのかな。……よし。ウォームアップはいったん休憩して、巾木さんの試合を拝見させていただこう」
やはり合同稽古でともに汗を流したためか、立松も巾木選手らの去就を気にかけているようであった。
今回は、日本陣営が青コーナーである。巾木選手はいつも通りの勇ましい面持ちで入場して、赤コーナーからはヌール選手が懐かしき姿を現した。
「ああ、そうそう。ヌール選手って、こういうお顔だったねぇ。ほんのちょっぴりだけどベル様っぽい雰囲気を感じるので、ユーリは好いたらしく思っておりましたわん」
「ああ、自分もそんな風に感じてましたよ。強いし、性格もよさそうでしたしね」
ヌール選手はマレー系で、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをしている。どこか幼げな雰囲気で、いつも静謐な表情であり――そのゆったりとしたたたずまいが、ベリーニャ選手を彷彿とさせるのだった。
「このヌールって選手はフライ級なのに、バンタム級の鬼沢さんに圧勝したんだもんな。沙羅選手とも、五分に近い内容だったし……巾木さんは、正念場だろう」
立松のつぶやきを聞きながら、瓜子はモニターを注視した。
英語で選手紹介のアナウンスがされた後、両選手はケージの中央で向かい合う。巾木選手は百六十センチ、ヌール選手は百六十一センチという身長で、体格は――巾木選手のほうがまさっているようであった。
「ヌールはそれほどリカバリーでウェイトを戻してないようだわね。ほとんど数値通りの体格に見えるんだわよ」
「そうですねぇ。そういうところも、ベル様に似ておられるようですぅ」
巾木選手は骨格も頑健であるために、ヌール選手よりも半回りは大きく見える。通常の外国人選手との対戦とは、まるきり反対の構図であった。
ただ――やはり勇猛そのものの巾木選手に対して、ヌール選手は静謐な面持ちだ。その野生の鹿めいたたたずまいが、ベリーニャ選手を思い出させるのだった。
大歓声の中、試合開始のブザーが鳴らされる。
巾木選手は勢いよく前進して、それを迎え撃つヌール選手はアップライトですり足だ。その手の先は、胸の高さでゆったりと構えられていた。
「ふん。まずは、こーきたか」
サキも熱心に、モニターを見やっているようである。
ヌール選手は瓜子たちが知る限りでも二種のスタイルを有していたが、まずは古式ゆかしい柔術家のようなスタイルを見せていた。前蹴りや関節蹴りで距離を取りつつ、ここぞというタイミングでタックルを仕掛けるというスタイルだ。
巾木選手はその牽制の蹴りをくらわないようにアウトサイドに回りつつ、これまでよりは控えめな勢いでフックを振り回す。この二週間の最終調整で、ヌール選手に真っ直ぐ突っ込むのは危険であるということが再認識されたのだ。
なおかつ、フックばかりではなく、時おりアッパーも織り交ぜる。これもまた、ヌール選手のタックルを牽制するための動きだ。巾木選手の打撃はリズムが不規則であるため、ヌール選手でもそう簡単に近づけないはずであった。
ヌール選手はアウトサイドを取られないように角度を修正しつつ、時おり関節蹴りを放つ。
しかし巾木選手も、機敏にステップを踏んでそれを回避する。瓜子やサキや愛音とスパーを重ねた甲斐あって、巾木選手も十分に対応できていた。
(ただ……スパーだと、関節蹴りを当てられないからな。こればっかりは、本番でどうにかしてもらうしかない)
関節蹴りは膝を正面から蹴る危険な攻撃であるため、防具をつけていてもスパーでは禁止されることが多いのだ。この二週間でも、足の裏を軽くタッチさせるていどの加減でスパーが行われていた。
しかしもちろんヌール選手は、本気で膝を蹴り抜こうとしている。あくまで牽制の攻撃であるが、まともにくらえば一発で膝靭帯を痛めかねない危険な攻撃であるのだ。MMAにおいても関節蹴りは禁止するべきではないかと、いまだに議論がやまないという噂であった。
巾木選手は上手く回避しているが、しかし自分も間合いに踏み込むことができない。よくよく見ると、ヌール選手は目や手の動きでしきりに組み技のフェイントもかけているようであった。
「あんまり考えすぎると、相手のペースになっちまうかもしれねえな。巾木さんの持ち味は、あくまで突進力とラッシュのはずだ」
「ふふん。でも、見た目ほど単細胞ではないようだわね」
鞠山選手が言う通り、巾木選手はそれほど頭に血をのぼらせやすいタイプではなかった。言動は荒々しいが、決して感情的になっているわけではなく――そういう部分は、鬼沢選手に似ているように思えた。
よって、なかなか攻撃を当てられないまま試合が進んでも、フラストレーションを溜めている様子はない。その目をいっそうぎらぎらと燃やしながら、ヌール選手が隙を見せる瞬間を待ち構えているように見えた。
すると――すり足であったヌール選手が、ふいに軽やかなステップに変じた。
そうして一気に巾木選手の懐に飛び込んだかと思うと、左ジャブを命中させる。
いきなり、第二のスタイルに切り替えたのだ。それは、ステップワークを駆使してパンチを当てていくというスタイルであった。
左ジャブを当てられた巾木選手は左のショートフックを返したが、それはバックステップでかわされてしまう。
そしてヌール選手は関節蹴りで巾木選手の前進を止めたのち、自ら前進して再びの左ジャブをヒットさせた。
軽い攻撃であるが、狙いは的確だ。
シンガポール陣営たるヌール選手の優勢に、客席は大いに盛り上がっている。
しかし巾木選手はそこでも感情に走ることなく、ぐっと頭を屈めて左右のフックを射出した。
再びのバックステップでそれをかわしたヌール選手はアウトサイドに回ろうとしたが、それよりも早く巾木選手の右フックが振るわれる。ヌール選手は、初めて腕でブロックすることになった。
「よし、ここからだな」
ヌール選手はまた下がったが、巾木選手は同じ距離だけ前進している。
そして今度は、右フックをヒットさせた。
ヌール選手も腕でガードしていたが、かなり深い当たりだ。そしてすぐさま、逆の腕に左フックをくらうことになった。
一発当てると、巾木選手は強いのだ。まるで相手と見えないロープで繋がれたかのように一定の間合いを保持して、次々と攻撃をヒットできるのである。サキは最後まで逃げきっていたが、瓜子や愛音は後半の一週間でそこそこ痛い目を見ることになっていた。
ヌール選手はしっかりガードを固めつつ、なんとか逃げようと足を使う。
しかし巾木選手はぴったりとはりついて、離れない。そして、左右のフックとアッパーでヌール選手を追い詰めていった。
このラッシュも、巾木選手ならではの攻撃である。彼女のフックは軌道やリズムが不規則で、反撃するのがきわめて難しいのだ。そして、テイクダウンを得意とするヌール選手への対策として、アッパーを数多く織り交ぜていた。
どちらかというとスピード重視の攻撃であるため、一発あたりの破壊力は控えめだ。しかし、数を重ねることで、着実にダメージを与えられるはずであった。
「よし。あとは組みつきさえ警戒すれば――」
立松がそのように言いかけたとき、巾木選手の右拳がヌール選手のこめかみにヒットした。
そして――それと同時に、ヌール選手の右拳が巾木選手の下顎にヒットした。
おたがいの右フックが、同じタイミングでヒットしたのだ。
それで力なく後ずさったのは、巾木選手のほうである。
ヌール選手の攻撃も軽めであるように見えたが、当たった場所が悪かったのだろう。それに、前進していたのは巾木選手のほうであったので、カウンターの威力も加算されたはずだ。巾木選手は、明らかに脳震盪を起こしかけている足取りであった。
それでも巾木選手は踏み止まり、迫力に満ちた右フックを射出する。
ダッキングでそれをかわしたヌール選手は、そのまま身を屈めて巾木選手に組みつこうとする。
巾木選手は、すかさず膝蹴りを繰り出したが――それより早く、ヌール選手の右フックがその下顎を撃ち抜いた。組みつきのモーションは、フェイントであったのだ。
二度にわたって下顎に右フックをクリーンヒットされた巾木選手は、がっくりと膝をついてしまう。
寝技巧者であるヌール選手は、すぐさまグラウンド戦に持ち込むかと思われたが――何故だか、そのまま引き下がってしまった。
レフェリーも一瞬だけいぶかしげな表情を垣間見せつつ、巾木選手に『スタンド!』と呼びかける。
巾木選手は、力なく立ち上がり――そしてそのまま、横倒しになった。今度こそ、完全に脳震盪を起こしてしまったのだ。
そのさまを見て、レフェリーは両腕を頭上で交差させる。
試合終了のホーンが鳴らされて、こちらの控え室にはあちこちから嘆息がこぼされた。
「これは、ヌールをほめるしかないだわね。あの薩摩娘の読みにくい乱打を読みきって、的確なカウンターを撃ち込んだんだわよ」
「ふん。手前も一発くらってたけどなー。いざとなったら相打ち覚悟で反撃できる根性も持ち合わせてたってわけだ」
「当たるとわかってりゃあ耐えられる攻撃もあるからな。いっぽう巾木さんは、思わぬ反撃をくらってダメージが深かった。そのせいで、最後の対処もミスっちまったな」
「うーん……ショウもいいウゴきだったけど、ジリキにサがあったのかなー。ヌールはまだ、ヨリョクをノコしてるカンじだねー」
ジョンの言う通り、ヌール選手は静謐な表情のままであった。こめかみにくらった右フックのダメージも、さして残されていないようだ。
いっぽう巾木選手はマットに寝かされたまま、何かわめいている。脳震盪を起こしても、意識ははっきりしているのだろう。闘志はまったく減じていないのに身体が言うことをきかないというのは、もっとも口惜しい話であるはずであった。
二週間の稽古をともにした巾木選手が敗れてしまい、瓜子も口惜しい限りである。
しかし、短い試合時間の中に、両選手の持ち味が凝縮されていた。巾木選手も十分に強かったが、ヌール選手はそれ以上の強さであったのだ。
「あれに勝った沙羅選手は、大したもんだ。というよりも……ヌール選手も、あれからまた強くなったんだろうな」
立松は、そのように評していた。
『アクセル・ロード』からは、すでに一年以上の歳月が流れているのだ。その間に、日本陣営の選手たちも確実に地力を上げているのだから、シンガポール陣営の選手もそれは同様であるはずであった。
(でも……やっぱり、悔しいな)
瓜子がそのように考えていると、立松が「よし」と身を起こした。
「それじゃあ、ウォームアップの再開だ。集中を切るなよ、猪狩」
瓜子は「押忍」と応じて立ち上がった。
この悔しさも、自分の力にかえるしかない。敗れてしまった巾木選手にとっても、それを見届けた瓜子たちにとっても、それがただひとつの真理であったのだった。
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