02 開会

 その後は滞りなく、試合前の準備が進められていった。

 ルールミーティングにメディカルチェック、マットの確認にバンテージのチェックと、瓜子たちにとってはお馴染みの下準備である。日本大会でもそれは同様であったのだから、シンガポールに場所を移しても内容が変わる道理はなかった。


 さすがに代表のスチット氏も多忙であるのか、本日は姿を見せることもなかった。ただユーリのメディカルチェックの際に、日本でもお世話になった医療スタッフが目を光らせていたばかりである。


「何せ今日は、《ビギニング》の七周年記念大会だってんだからな。スチットさんも、普段以上に大忙しなんだろう」


 立松は、そんな風に言っていた。

 その記念すべき七周年大会で、スチット氏はシンガポールと日本の対抗戦というものを企画したのだ。それだけスチット氏が、日本という国に思い入れを抱いている証拠であるはずであった。


(スチットさんは、日本とタイのハーフなんだもんな。それで、MMAとムエタイに興味を持つことになったのかな)


《ビギニング》には、ムエタイ部門というものも存在する。日によっては、同じ興行でMMAとムエタイの試合をお披露目しているのだそうだ。そして本日瓜子が対戦するレッカー選手は、かつてムエタイ部門で王者となった人物であったのだった。


 そちらのムエタイ部門では本場タイの選手も数多く集めているというので、レベルの高さは疑うまでもない。《ビギニング》がファイトマネーを惜しまない方針であるというのなら、強豪選手をいくらでも集めることができるはずだ。とりわけムエタイの選手というのは、貧しい生活から脱しようというハングリー精神に満ちあふれているはずであった。


(そこのところが、日本人選手と違うんだろうな)


 日本で一攫千金を狙うならば、もっと異なる世界に進むことだろう。日本の格闘技業界で一攫千金をつかむというのは、きわめて狭き門であるのだ。

 ただ、ハングリー精神というのは貧困だけから生じるものではないはずだ。

 ユーリなどは、心の底から飢えている。言葉にすると、「ベル様みたいに強くかわゆいファイターになりたい!」という、きわめて牧歌的な内容になってしまうのだが――しかしそれは、恐ろしいまでの情念に満ちた渇望であるはずであった。だからこそ、ユーリはあのようににこにこと笑いながら過酷な稽古に取り組むことがかなうのだ。


 瓜子はそんなユーリを見習いたいと痛切に思い、懸命に追いかけてきた。

 そして今、ユーリとともにシンガポールの地に立っている。瓜子は四年という歳月をかけて、ようやくこの場所に到達したのだった。


「おめーは何を気張ったツラをしてんだよ。初の海外で、よーやく人並みの緊張感ってもんが生まれたのかー?」


 と、サキが遠慮なく瓜子の頭を小突いてきた。

 物思いから覚めた瓜子は、「いえ」と笑ってみせる。


「緊張は、してないつもりっすよ。最近はけっこう試合のたんびに、色々と考えちゃうんすよね」


「ほー。イノシシが頭を悩ませたって、出足が鈍るだけだろーよ」


 すると、ユーリのそばに侍っていた愛音が眉を吊り上げつつサキをにらみつけた。


「サキセンパイは、こちらのチームの一員であられるのです! 猪狩センパイではなく、ユーリ様を気づかうべきであるのです!」


「うるせーなー。お望みとあらば、そこの肉牛を小突き回してやろーか?」


「誰もそんな暴虐な真似は望んでいないのです! ユーリ様が最高の精神状態で試合に臨めるように、死力を尽くしておもてなしするのです!」


 サキと愛音のやりあいに苦笑を浮かべたのは、立松であった。


「どっちにつっこむか、迷うところだな。蝉川みたいに大人しくしてるのが、一番賢いように思うんだがな」


「い、いえ。あたしはお邪魔にならないように、小さくなってるだけッス」


 そのように語る蝉川日和は、瓜子のかたわらで落ち着きなく身を揺すっている。すべての下準備が終わってしまったが、瓜子たちの出番まではまだ何時間も残されているため、なすべきこともないのである。


 バンテージのチェックまで済ませているので、すでに着替えも完了している。瓜子とユーリは今回も《アトミック・ガールズ》の試合衣装であったが、相談の上、ウェアはプレスマン道場のものに改めていた。入場の間だけでも、セコンド陣と同じ装いに身を包もうという話になったのだ。みんなと同じオレンジ色のウェアを着込んだユーリは、もちろんご満悦の表情であった。


 ただし、外様たる鞠山選手だけは独自の格好だ。あまり見覚えのない小洒落たジャージの姿で、魔法少女の衣装を思い出させるパステルイエローとホワイトのツートーンカラーであった。


「アトミックの会場だとみんな公式のウェアだから、なんだか新鮮ッスよね」


 瓜子の視線に気づいた蝉川日和が鞠山選手のほうを見やりながら、そんな風に言いたてる。それから彼女は、「あれ?」と小首を傾げた。


「それ、天覇ZEROのジャージじゃないんスね。なんかわちゃわちゃ英語が並んでるッスけど、あたしバカだから読めねーッス」


「英語じゃなくて、ドイツ語だわよ。『Walpurgisnacht』だわね」


「え? 聞きとれねーッス。ゔぁるぷる……なんスか?」


「『ヴァルプルギスナハト』。日本語に訳すと『ヴァルプルギスの夜』だわね。わたいの華麗なる音楽活動のユニット名なんだわよ。これは最新の物販グッズだわね」


 そう言って、鞠山選手はずんぐりとした身体をぐいっとのけぞらせた。物販グッズであるのなら、この小洒落たデザインも納得である。


「ほへー。そんなユニット名があったんですねぇ。てっきり鞠山選手は音楽活動のほうでも『まじかる☆まりりん』なのかと思ってましたぁ」


 ユーリが感心したような声をあげると、鞠山選手は得意そうに「ふふん」と鼻を鳴らした。


「ソロ活動の名義が『まじかる☆まりりん』で、バンド形態なら『ヴァルプルギスの夜』だわよ。そのうち『ベイビー・アピール』よりも凶悪なダークサイドのユニットも立ち上げる予定なんだわよ」


「すごいですねぇ。やっぱりユーリなんて、足もとにも及ばないですよぉ」


 ユーリがあまりに無邪気なものだから、鞠山選手も皮肉や毒舌を吐くことなく得意げな顔をしていた。

 そんな中、立松が「やれやれ」と苦笑する。


「余裕たっぷりで、けっこうなこったな。そろそろプレリミの開会式が始まる頃合いだが……まあ、メインの開始は三時間後だから、まだまだ血圧を上げるには早いか」


「もうそんな時間なんだわね。……そういえば、オッズの結果はどうなったんだわよ?」


 鞠山選手の呼びかけに、ジョンが携帯端末をチェックした。


「ウン。コンカイは、けっこうセってるねー。ユーリのほうはアイカわらずだけど、ウリコは1.89、レッカーは2.14だってよー」


「つまり、前回のミンユー選手より、今回のレッカー選手のほうが手ごわいって評価なわけだな。倒し甲斐があって、けっこうなこった」


「それでもうり坊のほうが、オッズが低いわけだわね。ムエタイの元王者を相手に、大したもんだわよ」


「そいつはきっと、これまでの豪快な勝ちっぷりが影響してるんだろうな。前回なんざ、あれだけ守りの固いミンユー選手を一ラウンドで下したんだからよ」


「うり坊の勇躍に、立松コーチはご満悦だわね。……それにしても、《ビギニング》のマッチメイクは容赦ないだわね。うり坊とピンク頭に期待をかけつつ、その底力を見定めやろうって魂胆がムンムンなんだわよ」


 にんまりと笑いながら、鞠山選手はそう言った。


「うり坊が《アクセル・ジャパン》で対戦したグヴェンドリンはオフェンシブなオールラウンダー、大晦日のミンユーはディフェンシブなオールラウンダー、そして今回のレッカーは立ち技に特化した生粋のストライカー……まったくタイプの違うファイターをまんべんなくぶつけられてるんだわよ」


「では、ユーリ様に対しては如何なのです?」


「《アクセル・ジャパン》のパットは《アクセル・ファイト》の所属だから除外して、前回のエイミーと今回のジェニーだわね。ピンク頭と対戦の経験があって緻密に作戦を立てることができる小器用なエイミーに、頑丈さに特化したジェニーで、これもなかなかに両極端なんだわよ。ぶきっちょなピンク頭がこういう面々を攻略できるかどうか、試されてる感が満載だわね」


「それに、北米のピット・ブル女を除外する必要もねーだろ。アレが猪突猛進のラフファイターだったから、違うタイプを準備されたんじゃねーか?」


「ああ、それもそうだわね。《ビギニング》にもイキのいいラフファイターは不自由してないだろうだわけど、誰を出したってパット・アップルビーの下位互換にしかならないから、ぶつける甲斐もないんだわよ」


 そう言って、鞠山選手は大きな口をいっそうにまにまと吊り上げた。


「ま、これが期待をかけられた新参選手の宿命だわね。うり坊は、アトミックでも同じ試練をぶつけられてるんだわよ」


「ああ、トリッキーなイリア選手の後に、正統派のラニ選手をぶつけられたときのお話っすか? それも、懐かしいっすね」


 そしてそれは、メイ=ナイトメアという黒船の防波堤になれるかどうかの試金石であった――と、鞠山選手はそのように見なしていたのだ。


「まあ、今のうり坊はただの新参選手じゃなく、日本を代表するトップファイターだわね。それが世界で通用するかどうかの、通過儀礼なんだわよ」


「いっぽう桃園さんのお相手は、王座の門番なんて呼ばれてるらしいしな。確かにスチットさんは、本腰を入れてこいつらの底力を測ろうとしてるんだろうよ」


 立松がそのように答えたとき、ついにモニターから歓声がわきたった。プレリミナルカードの開会セレモニーが開始されたのだ。

 八名全員でモニターを取り囲み、その模様を検分する。シンガポールの客席の盛り上がりは、日本の会場にも負けていなかった。


 今回も日本大会と同じように、プレリミナルカードは六試合、メインカードは五試合という配分だ。巾木選手と横嶋選手を含む十二名の選手がケージの周囲に立ち並ぶと、ケージの中央にスチット氏が姿を現した。


 スチット氏はカジュアルなジャケットに開襟のシャツという格好で、やわらかな笑みをたたえている。そして、英語で長々と語り始めた。


「《ビギニング》の設立七周年を迎えた喜びのたけを語ってるだわね。シンガポールで初めてのMMA団体を政府の補助金を受けられるぐらいの組織に育てあげたんだわから、まったく大したもんだわよ」


 鞠山選手もスチット氏には一目置いているようで、そんな寸評をこぼしていた。

 それから、「ふむだわよ」と眠たげな目をいっそう細める。


「これは興味深いだわね。うり坊たちにとっては、朗報なんだわよ」


「え? スチットさんは、なんて仰ったんすか?」


「設立七周年を記念して、ついに動画配信サービスを開始するんだわよ。北米の大手配信サービス企業とパートナーシップ契約を結んで、今後は全世界で過去の試合も見放題になるんだわよ」


 そう言って、鞠山選手はにんまり微笑んだ。


「今後は対戦相手の研究もし放題だわし、うり坊たちの勇姿も全世界に配信されるわけだわね。しかも、独自で運営するんじゃなく大手配信サービス企業との提携っていうのがでかいんだわよ」


「えーと……それは、独自で運営するのと何が違うんすか?」


「独自の運営じゃあ、けっきょく格闘技に興味のある人間しかサービスに加入しないんだわよ。でも、今回提携する配信サービス企業はすでに加入者数が億の単位なんだわよ。それだけの規模だったら、これまで格闘技に興味のなかった人間を引きずり込める可能性も格段に飛躍するはずだわよ。……やっぱりこのスチット代表は、なかなかのやり手だわね」


「ああ。もしかしたら独自で運営したほうが利益はあがるのかもしれねえが、それよりも格闘技の認知度を上げることを優先してるんだろうな」


 立松も感服しきった面持ちで、そう言った。


「まったく、大したお人だな。あと何か、面白そうな話はあるかい?」


「あとは、海外進出にもいっそうの力を入れていくつもりだと宣言してるだわね。……そういえば、六月のブッキングはまだ確定してないんだわよ?」


「ああ。出場そのものは確約されてるのに、まだ日取りや会場なんかは未定なんだよ。まあ、会場なんかはとっくに押さえてるはずだから、外部に情報がもれないように隠してるのかもな」


「海外進出の強化ってもんを今日お披露目したわけだわから、その可能性が高いだわね。となると、日本でもシンガポールでもない可能性が濃厚なんだわよ。次こそ、時差や気候の違いに悩まされるかもしれないだわね」


 鞠山選手はそんな風に言っていたが、そんな話を思い悩むのは今日の試合をやりとげたのちのことである。

 しかし何にせよ、《ビギニング》はまだまだ飛躍しようという熱情にあふれかえっており――それは出場選手である瓜子にも、熱情のおすそわけをしてくれたようであった。

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