act.2 Big innings 7th anniversary event

01 入場

 三月の第二日曜日――《ビギニング》本国大会の、当日である。

 プレスマン陣営の一行は、無事にその日を迎えることができた。ユニオンMMAにおいて二週間の最終調整に取り組み、前日計量も問題なくパスして、試合の本番に臨むことがかなったのである。


 前日計量は、《ビギニング》の運営陣が準備した撮影スタジオで執り行うことになった。《ビギニング》ではお客を招いての公開計量は実施されず、その代わりに計量の模様を動画配信しているのだ。


 そして、名のある選手だけはその後に別のスタジオでインタビューを受けるのだが――このたびは、瓜子とユーリもそちらに招集されることに相成った。

 大晦日の日本大会では、瓜子たちがそんな依頼を受けることもなかった。日本ではスルーされてシンガポールで厚遇されるというのはいささか奇妙な心地であったが、これはおそらく《ビギニング》の枠の中での格や知名度というものが優先されているのだろう。瓜子もユーリもいまだ一勝を上げただけの身に過ぎないが、それでも《ビギニング》におけるトップファイターであると認められたのだろうと思われた。


 こちらの模様も動画で全世界に配信されるため、インタビューは通訳を介した英語で行われる。とはいえ、このような動画を視聴するのは《ビギニング》の試合に関心のある人々に限られるのであろうが――《ビギニング》の試合もペイパービュー方式の配信であるため、アジアのさまざまな区域のみならず、北米でも視聴が可能であるのだった。


(だからメイさんも、リアルタイムで試合を視聴できるってわけだな)


 そしてもちろん計量やインタビューの動画も、メイが見逃すことはないだろう。瓜子は試合の際よりも緊張しながら、インタビューに答えることになってしまった。


 そんな下準備を経て、試合の当日である。

 試合の会場までは、リムジンバスで送迎される手はずになっていた。日本陣営はのきなみ同じホテルに宿泊していたので、全員が同じ扱いだ。そして、日本からは十一名もの選手が招かれていたため、セコンド陣も含めれば四十名以上もの人数になる。巨大なリムジンバスが、それでほとんど定員いっぱいになってしまっていた。


 瓜子たちが面識を得たのは、ギガント東京本部とギガント鹿児島の面々のみとなる。その他にも、ギガントジムは日本のあちこちに支部があるとの話であったが――ただその数は、二ケタに満たないとのことであった。


「そもそもギガントジムってのは、《パルテノン》で活躍した選手が会長になって立ち上げてるんだよ。鹿児島だとか山口だとかってのは、引退した選手が故郷に帰ってジムをおったてたわけだな」


 立松からは、そんな説明を受けていた。つまりは山岡氏も、そういう経緯でギガント鹿児島を設立させることになったのだ。聞くところによると、山岡氏は《パルテノン》の元ライトヘビー級王者であり、ブラジリアン柔術が日本に伝来した過渡期の前後に活躍していたのだという話であった。


 なおかつ《パルテノン》の興行は、ギガントジムの選手だけで開催されているわけではない。《アトミック・ガールズ》と同じように、流派や系列を問わずにさまざまな場所から選手を募っているのだ。よって、現役王者の半数ぐらいは外様の選手であり、このリムジンバスにもフィスト・ジムや天覇館の選手なども乗車していたのだった。


 それでもやっぱり、瓜子が面識を持っている人間はいない。そもそも瓜子は女子選手としか交流を広げていなかったし、そちらの両名とは大晦日の段階で顔をあわせていたのだ。あとは同じように、大晦日の大会で見かけた顔がいくつかまじっているぐらいであった。


(まあ、その中であたしが個人的に会話したのは、ヘビー級のお人だけだしな)


 そして、ウズベキスタンの出身であったその彼は大晦日の試合で負けてしまったため、今回は来場していない。大晦日の大会では六名の日本陣営が敗北し、その半数には出場権が与えられなかったのだった。


(残りの三人は、ファイトマネーを減額されちゃったのかな。……まあ、あたしやユーリさんと同じような契約で参戦してるのかどうかはわからないけど)


 少なくとも、出場選手の全員が瓜子たちほど高額のファイトマネーをいただいているわけではない。ファイトマネーの額に関しては秘密保持の契約があったため確かなことはわからないのだが、それは雰囲気で察することができた。《アクセル・ジャパン》の結果に基づいてスカウトを受けた瓜子とユーリには、破格のファイトマネーが準備されたようであったのだった。


(まあ、ファイトマネーの額にこだわるつもりはないけど……それだけ期待されてるなら、その期待に応えないとな)


 その期待をかけてくれているスチット氏があれだけ善良な人柄であったため、瓜子も素直に熱情を燃やすことができた。そして瓜子以外の面々も、それぞれの熱情を抱えながらリムジンバスに揺られているはずであった。


 そんなリムジンバスは、やがて本日の会場に到着する。

 本日の会場はシンガポール国立競技場の一画に存在する、屋内スタジアムである。収容人数は一万二千名であり、入場チケットはソールドアウトに近い売れ行きであるとのことであった。


「お待ちしておりました。それでは、控え室にご案内いたします」


 駐車場に待ちかまえていたスタッフの案内によって、四十名以上にも及ぶ関係者が行進していく。これほどの大人数で会場に乗り込むのは初めての体験であったため、瓜子は何だか団体競技の選手にでもなったような心地であった。


 現在は午後の二時前であったが、本日も空は青く晴れわたり、気温は三十度に達している。しかしこの気温や空気の乾き具合にも、この二週間ですっかり慣れていた。

 気温が気温なので、おおよその人間はTシャツの姿だ。ただしユーリは日焼け対策で、プレスマン道場のオレンジ色のウェアを羽織っている。そしてキャップのつばの陰では、白い面が試合への期待に輝いていた。


 瓜子もユーリも、コンディションは万全である。

 数十万円という経費をかけて二週間前から前乗りした甲斐は、十分にあっただろう。滞在費が支給される三日間では、この気候の違いに慣れる猶予もなかっただろうし――何より瓜子たちは、ユニオンMMAでまたとなく有意義な稽古を積むことがかなったのだった。


(まあ、日本でも有意義な稽古は詰めるけど……やっぱり、対戦相手の情報を収集できて、シンガポールのみなさんにスパーリングパートナーをお願いできたのが大きかったよな)


 そのおかげで、瓜子もユーリもしっかり戦略を練ることができた。それが実を結ぶかどうかは試合の時間を待つしかないものの、名前と身長と戦績のデータしかなかった頃とは比較にもならないはずであった。


「控え室の割り振りはこちらに掲示されておりますので、それに従ってご入室をお願いいたします」


 のっぽのジョンが人垣の頭ごしに掲示板を確認して、瓜子たちににっこり笑いかけてきた。


「ヒカエシツは、フタリでヒトつだねー。ユーリとウリコは、テマエからニバンメだってよー」


「わぁい。ユーリの祈りが天に通じたのですぅ」


 ユーリは子供のようにはしゃいでいたが、二名ひと組で控え室が与えられるならば、同門で同室になるのが自然の摂理というものであろう。しかしもちろん、瓜子も純然たる喜びを噛みしめることができた。


 よって、控え室に入室したならば、気の置けない八名で過ごすことができる。鞠山選手はひとり外様であったものの、この春で丸三年のおつきあいであるし、この二週間でさらに信頼関係を深められたはずであった。


「……そういえば、うり坊に頭を踏みにじられてから、もう丸三年が経ったんだわね」


 まるで瓜子の内心を見透かしたかのように、鞠山選手がそんな言葉を口にした。


「押忍。鞠山選手と試合をしたのは二月の浜松で、初めてご挨拶をしたのは四月の大阪でしたよね。なんだか、すごく懐かしいです」


「ふん。思い出すと、こめかみが疼きそうだわよ」


 三年前の二月の試合において、瓜子はハイキックで勝利を収めたのである。

 鞠山選手は左のこめかみを撫でさすりながら、もういっぺん「ふん」と鼻を鳴らした。


「あの頃のうり坊は、まだ未成年だっただわね? 思えば、遠くにきたものだわよ」


「あはは。鞠山選手でも、そんな感慨にふけったりするんすね」


「どういう意味だわよ。……まさかあの頃は、わたいの頭を踏みにじった不届き者のセコンドをするためにシンガポールまで出向くことになるとは想像もしてなかったんだわよ」


 そう言って、鞠山選手はばっちりメイクを施した顔でにんまりと笑った。


「次の三年後には、どんな感慨にふけってるやらだわね。……さあさあ、ちゃきちゃき準備をするんだわよ。荷物を片付けたら、試合場に移動するんだわよ」


「うるせーなー。よそもんが仕切るんじゃねーよ」


 そんな風に言いながら、サキも荷物の片付けに取り組んでいた。ウォームアップに必要なキックミットなどは、ユニオンMMAから借り受けることができたのだ。


 立松とジョン、サキと鞠山選手、愛音と蝉川日和――この二週間の苦楽をともにしたチームメイトである。みんなもとから懇意にさせてもらっていた顔ぶれであるが、これだけ長きの時間をともにすれば、いっそうの慕わしさが生まれて然りであった。


(まあ、ユーリさんだけはいつでも一緒だけどさ)


 しかし、副業の仕事に出向くことなく、ひたすら稽古に打ち込むというのは、実にひさびさのことだ。二人がそんな生活にひたれるのは、いつもユーリが深手を負って副業の業務を休んでいる期間のみであった。


「よし、行くか」


 立松の号令で、一行は試合場を目指した。

 一万二千名を収容できる会場であるので、客席は広大だ。その倍以上を収容できる『ティップボール・アリーナ』とは比べるべくもないものの、この広大な客席が観客で埋め尽くされるのか思うと感慨深かった。


 客席はすり鉢状で、大きくは三段階に分けられている。様式としては、三階建てということになるのだろう。そして、中央の平地の部分には黒いケージが設置され、その周囲にはパイプ椅子が並べられていた。


 スピーカーからは、マイクチェックの声が鳴らされている。ケージの周囲では出場選手やスタッフなどがあちこちに輪を作り、撮影用のスタッフが丸めたケーブルを肩にかけて走り回っており――日本と変わらない試合直前の光景が、そこに現出していた。


「いやあ、ついに本番ですね」


 と、気さくな声が投げかけられる。

 振り返ると、ギガント鹿児島の面々が立ち並んでいた。声をあげたのは、もちろん会長の山岡氏だ。


「日本大会は前哨戦、今日が本当の本番です。おたがい、最高の結果を目指しましょう」


「ああ。この二週間は、世話になったよ。今日は合同で、祝勝会だな」


「はい。美味しいお酒を飲めるように、頑張りましょう」


 すると、仏頂面をさらしていた巾木選手がずいっと進み出てきた。


「おはんら、日本の恥をさらすんじゃなかど?」


「押忍。おたがい、頑張りましょう」


 巾木選手が握手の類いを嫌っていることはこの二週間でわきまえていたので、瓜子は言葉だけを返した。

 巾木選手の仏頂面に変わりはなかったが――ただし、初めて出会った頃や二週間前までとは、いくぶん目つきが異なっている。瓜子は立ち技で、ユーリは寝技で、さんざんスパーを重ねることになったのだ。そうしておおよそは巾木選手が痛い目を見る役割であったため、彼女も少しは瓜子たちの評価を見直してくれたはずであった。


 だけどやっぱり、そんな真情を素直にこぼすタイプではない。

 しかし瓜子には、それで十分であった。巾木選手の力強い眼差しだけで、瓜子は大きく激励されたような心地であったのだった。

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