08 怒涛の日々
その後もシンガポールにおける最終調整は、順調に進められていった。
数日もすれば、初夏を思わせる気候にも身体が馴染んでくる。ホテルや食事にも何ら不満は生じないし、ジムに出向けば有意義きわまりない稽古に没頭できるのだ。そして周囲は頼もしきセコンド陣に固められているのだから、瓜子とユーリにとっては幸福なばかりの日々であった。
もちろん数々の女子選手たちと会えない寂しさはつのるばかりであるが、二週間ていどであればホームシックに見舞われることもない。
それにこちらには、ユニオンMMAとギガントジムの女子選手たちが控えているのである。古なじみの人々とは比較のしようもないが、こと合同稽古に関してはまったく不足のない顔ぶれであった。
ただ、シンガポール陣営の三名とは日を重ねるごとに交流が深まっていったものの、ギガントジムの両名とはいっこうに距離が縮まらなかった。べつだん不仲なわけではなく、あくまで稽古相手という距離感が守られたのだ。それはひとえに、ギガントジムの両名の側が望んだ結果であるはずであった。
「チーム・プレスマンだかないだか知らんじゃっどん、余所ん人間と馴れあう理由はなか」
巾木選手などは、はっきりとそう言い放っていた。
いっぽう横嶋選手はいつもにこにこと笑っていたが、巾木選手以上に壁を感じる。それもやっぱり瓜子たちを嫌っているというよりも、対抗意識に近いものであるようであった。
「あいつはとにかく、自分が主役じゃねーと気がすまねーんだろ。アホみてーに知名度を上げたおめーらなんざ、目の上のタンコブなんだろーよ」
サキはそのように寸評していたし、瓜子もそれに近い印象を横嶋選手から受けていた。
しかし瓜子は、それでまったくかまわないと考えている。巾木選手にせよ横嶋選手にせよ、プレスマン陣営との合同稽古に対してはきわめて意欲的であったのだ。こちらとしてもまず集中するべきは試合に向けた稽古であり、個人的な交流は楽しめる範囲で楽しめれば十分であった。
それにまた、シンガポール陣営だけでも、個人的な交流には事欠かなかった。稽古を開始して二日目からは、ユニオンMMAの男子選手や女子のアマチュア選手などもわらわらと接近してきたのである。
初日の夜にも語られていた通り、シンガポールにおいても大晦日の試合が放映されていたため、瓜子とユーリの存在は格闘技の関係者の中で語り草にされていた。そしてさらには『トライ・アングル』の活動も付随して、いっそう人々の好奇心をかきたてたようであった。
瓜子とユーリがサインを求められたのも、一度や二度のことではない。とりわけアマチュアの女子選手たちは、むしろ瓜子に熱い眼差しを向けてきたのである。瓜子としては釈然としなかったが、ユーリは嬉しそうな顔をしていた。
「やっぱり女子人気は、うり坊ちゃんにかないませんわん。まあ、うり坊ちゃんはこんなにかわゆいんだから、当然の話だよねぇ」
「う、うるさいっすよ。『トライ・アングル』のまわりをちょろちょろしてるだけの自分がサインを求められるなんて、世の中まちがってます」
しかしまた、そういう人々も大晦日の試合を観た上で、瓜子にいっそうの興味を抱いてくれたのである。であれば、瓜子としてもあまりじゃけんにすることはできなかった。
ともあれ――時にはそんな交流を楽しみながら、瓜子たちは有意義な稽古に没頭することができた。
瓜子にとってもっとも有益であったスパーリングパートナーは、やはりグヴェンドリン選手だ。彼女は同じ階級であるし、瓜子が対戦するレッカー選手とも対戦の経験がある。誰よりもレッカー選手の強さを知っているのは彼女であったし、もっとも体格が近いのも彼女であったのだ。これほど理想的なスパーリングパートナーは、そうそう存在しないはずであった。
あとはサキや愛音なども、グヴェンドリン選手を真似て仮想レッカー選手を演じてくれた。サキたちはいささかパワー不足であったが、そのぶん敏捷性に秀でていたし、それにやっぱり背丈もレッカー選手に近かったのだ。瓜子の立ち技の稽古は、そちらの三名を軸に進められていくことになった。
それと同時に、瓜子は巾木選手の面倒も見ている。ヌール選手のフットワーク対策としては、瓜子とサキと愛音の三名がもっとも有用であったのだ。なおかつ、巾木選手もレッカー選手に近い体格であり、パンチの技術と突進力に関しては申し分のない実力であったので、瓜子としても得るものは大きかった。
いっぽうユーリは、エイミー選手とランズ選手、蝉川日和とギガント鹿児島の男性トレーナーを軸に立ち技の稽古が進められていた。ユーリの対戦相手であるジェニー選手の役を演じるのに最適であったのが、その四名であったのだ。ジェニー選手は突進力を売りにするパンチャーであったので、蝉川日和も十分にお役に立てたのだった。
そんな中、横嶋選手だけは立ち技のサーキットに加わろうとしなかった。彼女の対戦相手は名うてのグラップラーであり、立ち技の技術はほどほどであるようであったが――それで、ストライカーたる瓜子たちや体格で大きくまさるシンガポール陣営を相手取ると調子が狂うと言い張って、ずっと同門の女性トレーナーとスパーリングに励んでいたのだった。
その代わりに、彼女はさまざまな相手と組み技および寝技の稽古に取り組んでいた。主たるは、ユーリと鞠山選手とシンガポール陣営の三名だ。体格で劣る彼女は誰が相手でも苦戦を強いられることが多かったが、しかしやっぱり寝技の技術に関してはユーリや鞠山選手が賞賛するほどのレベルに達していた。
「あの娘っ子は、人の裏をかくスキルが際立ってるだわね。大晦日の試合でも、そのスキルは存分に発揮されてただわけど……実際に手を合わせると、想像以上だっただわよ。このわたいでも、なかなか気を抜くことはできないだわね」
鞠山選手は稽古の合間にメイクのお直しをしながら、そんな風に語っていた。
ユーリもユーリで、横嶋選手と寝技のスパーに取り組むのは楽しくてならないようである。そしてユーリも体格差を活かしてポジションキープに徹するようなタイプではなかったため、横嶋選手にとっても良きスパーリングパートナーになっているはずであった。
そしてユーリは、巾木選手の陣営からも寝技のスパーをお願いされていた。巾木選手の対戦相手であるヌール選手は柔術をベースにしているため、ストライカーである巾木選手には寝技から逃げる稽古が必要であったのだ。そちらの稽古では、シンガポール陣営の三名にもお呼びがかけられていた。
いっぽう、瓜子の組み技と寝技についてであるが――ここではずいぶんと、コーチ陣を悩ませることになった。瓜子の組み技と寝技がレッカー選手に通用するかどうか、なかなか見込みが立たなかったのである。
レッカー選手は組み技のディフェンスを成功させることで波に乗るタイプであるという話であったので、中途半端に組み技を仕掛けるのは控えるべきである。しかし、それと同時にストライカーとしては瓜子以上の実績を有しているため、立ち技だけで勝負するのも危険な話であるのだ。
「勝負をかけたしのぎ合いの場面では、お前さんだって立派に渡り合えるだろうさ。問題は、そこに行き着くまでのプロセスだ。組み技と寝技を織り交ぜるか、あくまで立ち技に焦点を絞るか……どっちがより相手を削ることになるか、そこを見極めなきゃならん」
立松は、そんな風に語っていた。
しかしまあ、試合はもう目前であるのだ。今から新しい技術を身につけることはできないし、組み技と寝技に関しても持っている武器で戦うしかない。そしてそれが通用するかどうかは、実戦の場でしか確認できないはずであった。
「前回のミンユー選手との試合でも、一発のパウンドで流れを変えたからな。実際に使うかどうかは別として、やっぱり組み技や寝技も作戦のひとつに組み込んでおくべきだろう」
最終的にはそんな話に落ち着いて、組み技と寝技の稽古が進められることになった。
そこでもっとも力になってくれたのは、やはりグヴェンドリン選手だ。かえすがえすも、体格の近いスパーリングパートナーというのはありがたい存在なのである。そしてオールラウンダーたる彼女も、腰の重さではレッカー選手に引けを取らないはずであった。
「ただし、自分とレッカーでは覚悟が違っている。自分はテイクダウンを取られても逆転させる自信があるけれど、寝技に自信のないレッカーは全身全霊でテイクダウンの防御を稽古しているということだ。そういう意味では、レッカーのほうがディフェンス能力が高いとも言えるだろう。……だそうだわよ」
そんな風に通訳してくれたのは、鞠山選手である。組み技の稽古では、鞠山選手も立松と一緒になって指導してくれたのだ。
鞠山選手自身は、組み技に重きを置いていない。鞠山選手こそ絶大な力を持つグラップラーであるため、タックルが失敗して自分が下のポジションになってもかまわないというスタンスで、大胆かつ荒々しいタックルぐらいしか使うことがないのだ。
しかし鞠山選手は、テイクダウンにまつわるさまざまな知識を備え持っていた。鞠山選手は頭でしっかり理解した上で、自分に緻密なテイクダウンの技術は不要であると見なしたのだ。よって、他者を指導するぶんには何の不足もない知識を持ち合わせていたのだった。
あとは、サキや愛音にもスパーリングパートナーをお願いすることになった。名うてのアウトファイターたるサキたちからテイクダウンを奪うのは大変な苦労であるため、それも瓜子の糧になったのだ。それにやっぱりサキたちもレッカー選手と同程度の背丈であるというのが、きわめて有用であったのだった。
それらのスパーを重ねていく内に、立松はどんどん気合をみなぎらせていった。過酷な稽古に励む瓜子の姿が、立松に何らかの天啓を与えたようである。
「……なあ、グヴェンドリンさん。これまでも、数々のレスラーやグラップラーがレッカー選手にやられてきたんだよな?」
立松がそのように問いかけると、それを通訳した鞠山選手が「そうだわね」と応じた。
「レスラーもグラップラーも、ストライカーもオールラウンダーも、まんべんなくレッカーに敗北してるだわね。だからこそ、レッカーはキャリア二年で王座に挑戦できたんだわよ」
レッカー選手は去年の秋口、《ビギニング》の現王者と対戦していたのだ。しかし、現王者は凄腕のオールラウンダーであるため、何度もテイクダウンを取られて判定負けを喫したのだという話であった。
「で、その現王者ってのは、ストライカー寄りのオールラウンダーなんだよな?」
「そうだわね。それがどうかしたんだわよ?」
「いや。やっぱりMMAってのは、すべての技術が重要ってことだ。頭ではわかってるつもりなのに、ついついその本質ってもんを忘れがちになっちまうんだよな」
そう言って、立松は不敵に笑った。
「立ち技一本で勝ちを狙うなんざ、最初から論外だったんだ。おい、猪狩。これから試合の日まで、組み技と寝技の稽古もみっちり積んでもらうぞ」
「押忍。組み技のプレッシャーがあってこそ、立ち技で主導権を握れるって話でしたもんね」
「それだけじゃねえ。立ち技のプレッシャーがあってこそ、組み技でも主導権を握れるんだよ。お前さんは、その両方から相手を追い詰めるんだ。元ムエタイ王者なんて御託は、関係ねえ。お前さんの立ち技だったら、ムエタイの王者とも互角に渡り合えるはずだ。……これはムエタイじゃなく、MMAなんだからな」
どうやら立松は、何か突破口が見えたようである。
それはすなわち、瓜子にとっての突破口であるということだ。これこそが、チームで戦う意義というものであったのだった。
「そっちは何だか盛り上がってるみたいだねぇ。ようやくレッカーの穴を見つけられたのかなぁ?」
と、インターバルの時間には、横嶋選手からそんな言葉を投げかけられることになった。手を合わせる機会はすっかりなくなってしまったが、こういう時間にはやたらと瓜子に絡んでくるのだ。
「押忍。コーチのおかげで、基本の戦略が完成しました。そちらは、如何ですか?」
「そんなもんは、対戦相手が決まってからすぐに組み立てたからねぇ。今はひたすら、おさらいの時間だよぉ。……最終調整って、そういうもんじゃないのぉ?」
《パルテノン》は前々から《ビギニング》と提携していたため、ジム間の交流も盛んなのである。それで対戦相手の情報も、難なく収集できるようであった。
「それより、今回もわたしたちはプレリミのほうに組み込まれちゃったからさぁ。わたしたちの試合も放映してもらえるように、なるべく早めに試合を切り上げてもらえないかなぁ?」
「押忍。善処します」
瓜子がそのように答えると、横嶋選手は「ふうん」と皮肉っぽく笑った。
「瓜子ちゃんって純情熱血のタイプに見えるのに、こういう話はさらっと受け流せるんだねぇ。なんかちょっと、意外かもぉ」
「そうっすか? まあ……けっこう周囲に、素直じゃない人たちが多いですからね」
瓜子が真っ先に思い浮かべたのは雅であり、そこに沙羅選手や犬飼京菜、さらには青田ナナの面影が重ねられる。それらの面々はまったくタイプが異なっていたものの、こと本心を見せないという一点に関しては引けを取らなかったのだった。
(それに……弥生子さんだって出会った頃は、誰よりも固く心を閉ざしてたもんな)
瓜子がそのように考えていると、横嶋選手は「へーえ」と自分の膝に頬杖をついた。
「なんか、見透かされてるみたいで、やな感じだなぁ。わたしは見透かす側の人間のつもりなんだよねぇ」
「あはは。自分なんかは見たまんまの人間なんで、見透かす甲斐もなさそうっすね」
そのとき、立松からインターバルの終了が告げられてきた。
瓜子は横嶋選手に頭を下げてから、立松たちのもとに舞い戻る。すると、鞠山選手がにまにまと笑いながら語りかけてきた。
「ずいぶん話が弾んでたみたいだわね。あのひねくれ娘も、篭絡したんだわよ?」
「いえいえ、ちょっとおしゃべりしてただけっすよ。横嶋選手も、悪い人じゃなさそうですしね」
「そうやって、数多くの乙女たちを蹂躙してきたんだわね。ピンク頭の陰に隠れて、恐ろしいもんだわよ」
「だから、そんなんじゃありませんってば」
瓜子はただ、同じ目標のために邁進する相手を敬愛しているだけである。
日本の女子選手の代表として、《ビギニング》の舞台で結果を残す――横嶋選手がどのような人柄でも、その思いだけは瓜子と同一であるはずであった。
そうして二週間の調整期間は、あっという間に過ぎ去っていき――
瓜子たちは、ついに試合の当日を迎えることに相成ったのだった。
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