04 出稽古

 フードコートで朝食を済ませたのち、三十分ほど食休みをしてから、プレスマン道場の一行はいざユニオンMMAなるジムを目指すことになった。


 出発時間の午前十時十五分になると、どこからともなく《ビギニング》の女性スタッフが出現して、案内をしてくれる。ジムの場所はホテルから徒歩十五分ということであった。


 瓜子とユーリの着替えやタオルやドリンクボトルが詰められたボストンバッグは、ジョンが運んでくれている。グローブや防具やミットなどは向かう先にそろっているという話であったので、誰もが軽装だ。そして一行は、ようやくシンガポールの街並みをのんびり拝見することがかなったのだった。


 ホテルの近辺は近代的というか西洋的であったが、五分ほど歩くとじょじょに趣が変わってくる。高層ビルの影を遠景にしながら、どこかエスニックな街並みであるのだ。ただし、瓜子が思い描くアジアンな様相ではなく、さまざまな文化が入り乱れているように感じられた。


(シンガポールも、多文化国家だって話だもんな)


 しかしそれよりも重要であったのは、やはり気候のほうであった。本日も気温は三十度近くまで上がっているようで、Tシャツ一枚の姿でも汗ばむぐらいの陽気であったのだ。

 ただやっぱり、日本に比べると湿度は低いようである。そのおかげで日本の初夏よりもよほど過ごしやすいように感じられたが、湿度が低ければ低いで咽喉などへの影響を警戒しなければならなかった。


「こちらが、ユニオンMMAです」


 女性スタッフが足を止めたのは、賑やかなチャイナストリートを抜けた先であった。

 露店などが出されていた雑多な道の最果てに、きわめて近代的な建物が鎮座ましましている。瓜子たちが宿泊しているホテルと同様に全面がガラス張りで、玄関先の雰囲気もホテルやファッションビルさながらである。ただそのガラスの扉には、『MIXD MARTIAL ARTS』の英文字がプリントされていた。


 扉をくぐると、受付カウンターに女性のスタッフが座している。これもまた、格闘技ジムとは思えない趣だ。こちらの女性スタッフが英語で用件を伝えると、にこやかな笑顔で右手の側を指し示された。


「ギガントMMAの方々は、すでに稽古を始めておられるようです。まずはジムの会長にご挨拶をしましょう」


 通路の壁際には、待ち合い用の座席が設えられている。瀟洒なソファや円卓に、日中から灯されている間接照明など、何から何まで清潔かつ機能的な雰囲気だ。そしてやっぱり、格闘技のジムらしい気配は皆無であった。


 その途中で、柔術衣を纏った男性のポスターなどが張られており、ようやくジムらしい片鱗がうかがえる。

 そして、その先の扉をくぐると――印象が、一変した。扉を入ってすぐのところに、巨大なケージが待ちかまえていたのである。


 試合で使用されるケージよりは小ぶりであるようだが、それでも黒いフェンスに囲まれた、まぎれもなくケージだ。その八角形の舞台では、数名の男子選手が取っ組み合って寝技の稽古に励んでいた。


 そこを素通りして歩を進めると、今度は広大なるスペースが広がっている。二ケタに及ぶサンドバッグが吊るされて、柱には分厚いクッションが巻かれた、立ち技を稽古するためのエリアだ。そちらは壁の一面がガラス張りで、自然光がたっぷりと取り入れられていた。


 そのスペースでは、たくさんの人々が身体を動かしている。マットに座ってストレッチに励む者や、サンドバッグを叩く者、軽いスパーに励む者など、さまざまである。かなりの人数であったが、まだまだスペースにはゆとりがあった。


 女性スタッフは迷う素振りもなく、奥の壁際に近づいていく。そちらでは二人の男性が語らっており、その片方に見覚えがあった。


「ああ、お待ちしていましたよ。今日からよろしくお願いします」


 引き締まった体格で、なかなか渋みがかった男前の人物――ギガント鹿児島の会長、山岡氏である。大晦日の《ビギニング》日本大会にて、瓜子たちは彼と面識を得ていた。


 女性スタッフがもう片方の男性に英語で語りかけると、「コンニチハ」という挨拶と笑顔が向けられてくる。プレスマン道場の陣営は、それぞれの流儀に従って挨拶を返すことになった。こちらが、ユニオンMMAの会長であるという話であった。


「こちらの会長さんは、日本語も挨拶ていどなんですよ。そちらさんは、英語のやりとりに問題はありませんか?」


 女性スタッフではなく、山岡氏がそのように告げてくる。

 立松は頭をかきながら、「ああ」と応じた。


「俺は挨拶に毛が生えたていどのスキルしかねえけど、ジョンと鞠山さんはぺらぺらだ。それを頼りに乗り越えようと考えてるよ」


「鞠山さん? ……ああ、天覇ZEROの鞠山選手ですか。鞠山選手が、どうしてこちらに?」


「助っ人のトレーナーだ。当日は、セコンドにもついてもらうつもりだよ」


「それは心強いですね。これが噂の、日本版チーム・プレスマンというやつですか」


 山岡氏は、屈託のない笑みを浮かべた。

 そして《ビギニング》の女性スタッフも、ゆったりとした笑顔を向けてくる。


「会長からのお言葉をお伝えいたしますね。……三月の大会にはこちらの男子選手も出場しますし、女子選手の何名かは来月にバンコクでの大会を控えていますので、トレーナーなどは手が埋まっていますけれど、その他の選手は協力を惜しみません。トレーニング機器も自由に使ってかまいませんので、おたがい最高の結果を目指しましょう。……とのことです」


「ありがとうございます。心から感謝していますよ。……おい、ジョン。きっちり通訳してくれよな」


「ウン。おまかせあれだねー」


 ジョンはオランダ出身だが、英語もきわめて堪能であるのだ。そんなジョンが英語で挨拶を返すと、会長たる男性はいっそうにこやかに微笑んだ。


「それじゃあ、まずはキガえだねー。コウイシツは、あっちだってよー」


「では、わたしはこれで失礼いたします。何かありましたら、いつでもご連絡をお願いいたします」


 瓜子たちは更衣室に向かい、女性スタッフは立ち去っていく。そして、山岡氏はこちらについてきた。


「僕もこれから、門下生のところに戻るところだったんですよ。ちょうどいいので、ご案内しますね」


「おう、助かるよ。そっちはいつ到着したんだい?」


「金曜日だから、三日前ですね。ようやくこっちの暑さになれてきたところです」


 山岡氏というのは初対面の印象通り、きわめて気さくな人柄であるようであった。

 男性陣を廊下に残し、女性陣は更衣室に足を踏み入れる。セコンドとしてやってきた四名も、もちろんスパーの相手をしてくれるので着替えが必要であるのだ。こちらは女性専用の更衣室であったが、シャワーユニットもどっさり設置されており、実に立派な造りであった。


「いよいよ稽古の開始だねぇ。わくわくしちゃうねぇ」


 ユーリは子供のようにはしゃぎながら、日焼け対策のカーディガンやロングスパッツとともにTシャツとショートパンツを脱ぎ捨てていく。そうして白い裸身に纏ったのは、ウェイトアップにともない新調した長袖のラッシュガードとロングスパッツであった。瓜子は相変わらずの、競技用のTシャツとハーフパンツだ。


 サキと蝉川日和は瓜子と、愛音と鞠山選手はユーリと似たタイプのトレーニングウェアである。鞠山選手がメイクをしたまま稽古に臨むのは珍しい話であったが、綺麗にウェーブしたアッシュブロンドの髪は惜しみなく頭の天辺でまとめられていた。


(まあ、今日は選手じゃなくトレーナーとして稽古に参加するんだもんな。鞠山選手なりに、何か線引きがされてるってことか)


 そんな風に考えながら、瓜子はタオルとドリンクボトルを引っ張り出したのち、脱いだ衣服とボストンバッグをロッカーに押し込む。そうして更衣室を出てみると、男性陣は楽しげに談笑していた。


「おや、お早い。……いやあ、やっぱりお二人は華がありますね。さすがは無敵のアイドルペアです」


「そういう物言いに腹を立てる娘っ子もまじってるから、噛みつかれないように用心してくれ。……で、さっそくそちらのお人らと合流させてもらえるのかい?」


「ええ。とりわけシンガポールの面々が、お二人の到着を心待ちにしていたようですからね」


 そのように語る山岡氏の案内で、瓜子たちはいざ稽古の場へと向かうことにした。

 たくさんのサンドバッグが吊られたスペースを踏み越えると、その向こう側に新たな扉が出現する。その扉をくぐると、今度は壁にまでクッション材が張り巡らされた、おそらくは組み技や寝技のためのスペースであった。


 ただし、棚にはグローブや防具の準備もあり、それらを使って立ち技の稽古に励んでいる人間もいる。かたや、柔術衣の姿で寝技の稽古を積んでいる人間も見受けられるし――これぞ、さまざまな競技を取り込んだMMAの稽古場に相応しい様相であった。


 このスペースだけで、ちょっとした体育館のような規模である。

 そしてその最果ての壁際で、日本語と英語の声が飛び交っていた。


「そら、足もとがお留守だぞ! 足関ん用心を忘るっなってゆちょっじゃろうが!」


「力で返すな! 頭を使え! いつもの偉そうな御託はどうした?」


 瓜子に聞き取れるのは、日本語のみだ。そして、立松に劣らず荒っぽい指導であるようであった。

 その足もとで、四名の女子選手が取っ組み合っている。その姿に、瓜子は思わず目を奪われてしまった。


 巾木選手と横嶋選手が、それぞれシンガポールの選手を相手取っているのだ。

 そして、巾木選手の上にのしかかっているのはかつてユーリと二度対戦したエイミー選手であり、横嶋選手がくんずほぐれつしているのはかつて瓜子が対戦したグヴェンドリン選手であったのだった。


 苦戦しているのは、日本人選手のほうである。それもそのはずで、シンガポールの陣営はそれぞれ階級がひとつ上であるのだ。ただでさえ骨格の頑健さが違っているのに体重差までプラスされたら、苦戦を強いられて然りであった。


 しかしどちらも、一方的にやられているわけではない。巾木選手は下から懸命にポジションを返そうと奮起しているし、横嶋選手はガードポジションから関節技を仕掛けようとしきりに手足を動かしている。シンガポール陣営が、手ごわい日本陣営を何とか体格差で抑え込んでいるという図にも見えなくはなかった。


「よし、そこまで! 一分のインターバル!」


 男性のひとりが声をあげると、四名の女子選手はそれぞれマットに寝転がった。

 そして、山岡氏が声をかけようとした瞬間、シンガポール陣営の両名ががばりと身を起こす。そしてその両方が汗を散らしながら、瓜子とユーリのもとに突進してきたのだった。


「********! *********!」


 早口の英語で、グヴェンドリン選手が何かをまくしたてる。

 いっぽうエイミー選手はぜいぜいと息をつきながら、ユーリの姿をにらみ据えた。


「グヴェンドリンは、ウリコのトウチャクをマってたってイってるよー。あと、オオミソカのシアイもスゴかったってさー」


 ジョンがそのように、通訳してくれた。

 グヴェンドリン選手もエイミー選手に劣らず、おっかない顔をしていたが――ただその目には、とても真っ直ぐな光が灯されている。それで瓜子は、笑顔を返すことにした。


「ありがとうございます。……えーと、カタコトの英語をしゃべるのは気恥ずかしいんで、通訳していただけますか?」


「うん。でも、もうウリコのキモちはツタわったんじゃないかなー」


 瓜子がグヴェンドリン選手のほうに向きなおると、彼女は汗だくの顔で笑ってくれていた。

 いっぽう、エイミー選手は――無言のままに、ぐっと右手を突き出している。ユーリがおそるおそる右手を差し出すと、その白い指先が頑丈そうな指先に包まれた。


 エイミー選手は、まるで怒っているかのような形相である。

 ただその黒い瞳には、やっぱり純然たる喜びの光が灯されているようであった。


「ふん。まるで、エサに飛びつっ犬んごたっね」


「あはは。試合を通じて、友情でも生まれたんですかねぇ」


 マットの上に身を起こした巾木選手と横嶋選手は、そんな風に言いたてていた。

 瓜子たちは、この面々とともに試合までの時間を過ごすのだ。いまだにまったく気心の知れない相手ばかりであったが――しかし瓜子は、日本の道場でたくさんの女子選手を迎えたときと同じような心強さを抱くことがかなったのだった。

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