03 ブレックファースト
翌朝――シンガポールで迎える、初めての朝である。
携帯端末の目覚ましアラームで起床した瓜子は、現状の把握にしばらくの時間がかかってしまった。
まず瓜子の身は、温かくてやわらかくて力強い存在に五体を絡め取られている。鼻腔を満たす甘い香りでその正体はすぐに知れたが、まずはどうして自分がユーリと同じベッドで眠っているのかを思い出さなくてはならなかった。
(そっか。シンガポールのホテルで、ユーリさんと同じ部屋なんだ)
なおかつ片方のベッドがクイーンサイズで、他に余人の目がなかったため、瓜子とユーリは同じベッドで眠ることになった。それで、おおよその現状は把握できた。
(でも何だか、ちょっと寝足りない気分だな……たった一時間でも、時差の影響なのかな)
初日の本日はゆっくり動く予定であったため、目覚ましアラームの設定は九時になっていた。なおかつ昨晩も午後の十一時過ぎには就寝したはずであるのだが――それだけの眠りをむさぼりながら、瓜子はわずかながらに寝不足の気分であった。
(時差というより、気候の違いや長時間のフライトがこたえてるのかな。だけどまあ……ちょっと早起きしたぐらいの感覚だから、問題ないか)
ということで、瓜子は自分よりも寝起きの悪い相棒の始末をつけることにした。
「ユーリさん、朝ですよ。美味しい朝ごはんと楽しい稽古が待ってますよ」
「うみゅう……」と寝ぼけた声をあげながら、ユーリはさらなる怪力で瓜子の身を締めあげてくる。そののちに、いかにも渋々といった様子でゆっくりとまぶたが持ち上げられた。
「わぁい、うり坊ちゃんだぁ……ユーリは夢の続きでも見ているのかしらん……?」
「まごうことなき現実ですよ。さあさあ、美味しい朝ごはんに向かいましょう」
「うにゅう……それは魅惑的なお誘いでありますけれど……うり坊ちゃんの温もりは、美味しい朝ごはんよりもさらに魅惑的であるのです……」
うっとりとまぶたを閉ざしたユーリは、「くう……」と安らかな寝息をこぼした。
「だから、二度寝しないでくださいってば。こういうくだり、いい加減に飽きませんか?」
そんな言葉を吐きながら、ユーリの温もりと安らかな寝顔に心を満たされてしまう瓜子であった。
そうして十五分ほどをかけて朝の支度を済ませた瓜子とユーリは、隣室の扉をノックする。そこから顔を出したジョンは、いつも通りの柔和な笑顔であった。
「フタリとも、おはよー。もうチョウショクでかまわないかなー?」
「押忍。よければ、お願いします」
「リョウカイだよー。サキたちにもコエをかけてもらえるかなー?」
部屋を出たジョンは愛音たちの部屋に向かい、瓜子はサキたちの部屋のドアをノックする。すると、セミロングの髪を寝ぐせでぐしゃぐしゃにしたサキが寝起きの顔を覗かせた。しかも、タンクトップで腰から下は下着ひとつという、あられもない格好である。
「わっ。サキさん、なんて格好をしてるんすか。男性陣もいるんだから、そんなはしたない姿で出てきちゃ駄目っすよ」
「うるせーなー。エロい格好で荒稼ぎしてる女に言われたかねーよ」
「エロくありません! いいから、何か着てくださいってば」
サキは大あくびをしてから部屋に引っ込み、だぶだぶのスウェットパンツをはいて再登場した。しかし頭は大爆発したままであり、足先にひっかけたのはくたびれた雪駄だ。
「サキセンパイ、そのお姿は何なのです? それでは道場の品格が疑われてしまうのです!」
こちらは朝から元気いっぱいの愛音が、さっそく文句をつけてくる。
しかしサキは「うるせーなー」と眠たげに繰り返すばかりであった。
「サキさんはずいぶん眠そうっすね。昨日は夜ふかしだったんすか?」
「あー……カエル女が、ごちゃごちゃうるさくってよ」
その鞠山選手は、すでに姿を消しているとのことである。立松が携帯端末で連絡を取ってみると、ホテルの設備を見て回ったのちにラウンジでお茶を楽しんでいるとのことであった。
「グッドモーニングだわよ。わたいはもうブレックファーストを済ませてるから、そっちもちゃきちゃき片付けるだわよ」
ラウンジでノートパソコンを操作していた鞠山選手は、本日もリゾートチックなファッションでメイクもヘアセットもばっちりであった。
朝食は、昨日と同じくフードコートである。さすが《ビギニング》が斡旋するホテルだけあって、そちらは油や炭水化物を控えたヘルシーなメニューにも事欠かなかった。
しかしまた、今日からはジムでしっかり汗を流す予定であるので、それに必要なカロリーを摂取しなければならない。瓜子とユーリは全粒粉のバゲットに好みの具材を選べるサンドイッチで腹を満たすことになった。
「サキさんは寝不足みたいっすけど、鞠山選手はお元気そうっすね?」
「午前二時には切り上げたから、睡眠時間は足りてるんだわよ。サキはひさびさに頭を使ったから、疲労が取れないんだわよ?」
「うるせーなー。カエル女のいびきがゲコゲコうるさかっただけだよ」
「高貴なわたいがいびきをかく道理はないんだわよ。……昨日はうり坊たちの試合をシミュレーションして、あれこれ楽しんでたんだわよ」
「へえ」と反応したのは、立松である。
「相手の試合映像もないのに、どんなシミュレーションができるってんだい? 参考までに、聞かせていただきたいもんだな」
「試合映像はなくても、相手の体格や戦歴はつまびらかにされてるんだわよ。そこから選手像をイメージして、うり坊やピンク頭とぶつけてみたわけだわね」
「ほうほう。それで、その結果は?」
「うり坊は四勝二敗、ピンク頭は五勝一敗だわね。まずまずの戦績なんだわよ」
鞠山選手はフードコートで注文したカモミールティーをすすりながら、そう言った。
「まずうり坊が対戦するレッカー・ラックディーは、名うてのストライカーだわね。しかも、ムエタイ部門で戴冠の経験もある実力者なんだわよ。タイの血が入ってる割には体格にも恵まれてるし、うり坊にとってはなかなかに厄介な相手だわね」
「ああ。猪狩もこれまではキックの技術でアドバンテージを取れたが、今回ばかりはそういうわけにもいかねえだろうな。むしろ、組み技や寝技はこっちに分があるんじゃないかと見てるぐらいなんだが……鞠山さんの意見はどうだい?」
「相手はMMAに転向して二年だわから、よっぽど寝技に重点を置いてない限り、うり坊が後れを取る恐れはないだわね。なおかつ、MMAでもこれだけのKO率を叩き出しているということは、今でも立ち技の稽古に重点を置いてる公算が高いんだわよ。……ただし、そういう選手はえてして寝技を回避するために組み技の防御を磨くものだわから、体格で劣るうり坊が組み技でどこまでプレッシャーを与えられるかが鍵になるだわね」
くりんと睫毛がそっくり返った眠たげな目で、鞠山選手は瓜子に流し目を送ってきた。
「実際にテイクダウンを取れるかどうかじゃなく、うり坊の組み技は厄介だというプレッシャーを与えられるかどうかだわよ。中途半端に組み技を仕掛けたら、相手を波に乗せる危険があるだわね。まあそのあたりは、詩織のイメージが重なってるだわよ」
「ああ、山垣選手も組み技を防御することで、波に乗るタイプですもんね。ただ、キックの経験もないラフファイターの山垣選手とムエタイで結果を残した今回の相手じゃ、やっぱり勝手が違いますよね」
「そこも大きな焦点なんだわよ。立松コーチも言っていた通り、あんたはこれまでキックの技術で大きなアドバンテージを持ってたんだわよ。国内であんたほどキックの技術を磨いた選手は少ないだわし、それは海外の強豪選手に通用するレベルにまで達してたんだわよ、でも今回の相手はムエタイの選手としてあんた以上の実績を残しているわけだわから、その上をいかれる危険が高いだわね。だからこそ、組み技のプレッシャーが胆になるんだわよ」
「寝技で仕留める必要はねえが、そのプレッシャーを活かしてスタンドでの主導権を握るって寸法だな。そこのところは、俺たちと見解が一致してるようだ」
「まあ、同じ情報を共有していれば同じ結論に達するのが道理だわね。さしあたって警戒するべきは、やっぱりムエタイの技術なんだわよ。具体的には、首相撲と肘打ちだわね。中途半端な組み技は首相撲の餌食だわし、ムエタイあがりの選手はとにかく肘打ちが巧みなんだわよ。詩織相手に肘打ちで大流血したうり坊は、そこが不安要素だわね。仮想対戦の二敗は、どっちも首相撲からの肘打ちおよび膝蹴りによる流血ドクターストップとKO負けだったんだわよ」
「ああ。流血のドクターストップで終わった試合もいくつかあるって話だったな。その内容までは突き止められなかったが、肘のカットってのは一番可能性が高いだろう」
立松も、すっかり熱が入ってしまっている。そして立ち技の話題が多いためか、蝉川日和も興味深げに瞳をきらめかせていた。
「あたしも肘ありのルールは未体験なんスよねー。やっぱ肘って言ったら、ムエタイッスか?」
「そりゃあそうだわよ。ジャパニーズMMAもつい近年まで肘打ちを禁止してただわし、《アトミック・ガールズ》はとりわけ導入が遅かったんだわよ。キックの経験が豊富なうり坊にとっても、唯一の穴だわね」
「唯一は言い過ぎっすけど、まだまだ未熟なのは認めます。首相撲には、そこそこ自信がありますけど……でも、ムエタイ仕込みの首相撲は、強烈っすよね」
そもそもコーチのジョンもムエタイをルーツにしているし、さらに瓜子にはリンというタイ生まれの友人が存在するため、ムエタイの怖さは骨身にしみいっていた。日本のキックとてムエタイを手本にして発展してきた競技であるが、肘打ちだけは禁止にしている団体が多いため特殊技能に相当するのである。
「リーチで負けてるうり坊は懐に飛び込む必要があるだわけど、接近戦では首相撲と肘打ちの危険がつきまとうんだわよ。それを打破するための、組み技のプレッシャーだわね。そこでチョロいと思われたら、相手をつけあがらせるいっぽうなんだわよ」
「押忍。これまでも組み技の稽古には重点を置いてましたし、最終調整でも手は抜きません。ご指導よろしくお願いします」
「ふん。このカエル女は寝技特化で、組み技は並だけどなー」
「それでも猪狩より小柄な鞠山さんは、いい手本になってくれるだろう。長身の相手を転ばすコツってもんをわきまえてるだろうからな」
すると、黙って話を聞いていた愛音が身を乗り出した。
「それで、ユーリ様のほうは如何なのです? ユーリ様が敗北するというシミュレーションには、納得がいかないのです!」
「うるせーなー。ごっこ遊びの結果に、カリカリしてんじゃねーよ。……けっきょくは、この肉牛の大暴れが通用するかどうかって話だ」
ようやく目が覚めてきた様子のサキが、頭の寝ぐせを撫でつけながらそう言った。
「肉牛が相手取るジェニー・クエクってのは、判定勝負ばっかだって話だったろ? ほんで、二つ名は『プレスマシーン』だ。試合映像なんざ見なくても、頑丈さが売りだってことは察しがつくだろーぜ」
「そのあたりのことは、現地の関係者からの情報が頼みだわね。ピンク頭のしっちゃかめっちゃかな打撃技が通用するかが、肝なんだわよ」
そう言って、鞠山選手はずんぐりとした肩をすくめた。
「ただし、相手も人類の端くれだったら、ピンク頭の攻撃がまるで効かないなんて可能性は皆無なんだわよ。警戒すべきは、相手がどんなカウンター技を持ってるかだわね。それが組み技だったら、悩む必要もないだわけど……相手がピンク頭の荒くれコンビネーションを受け止めながら打撃のカウンターを出せるような頑丈さと技術を持っていたら、なかなかに厄介なんだわよ」
「ああ。エイミー選手だって、その選手と対戦の経験があるわけだからな。協力的な姿勢を願いたいもんだ」
そんな風に言ってから、立松はにやりと不敵に笑った。
「ただし、余所の人間ばかりを当てにはできねえからな。そんな協力がなくっても、俺たちがお前さんがたを勝たせてやる。最後の最後まで気を抜かずに、稽古をやりとげろよ?」
瓜子の「押忍」という声に、ユーリの「おーっす!」という元気な声がかぶせられる。あらためて、ユーリはセコンド陣の頼もしさを噛みしめている様子である。そして瓜子も、気持ちはひとつであったのだった。
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