07 怪物の復活

 入場口の裏手に押しかけた女子選手の一行とともに、瓜子は半ば駆け足で控え室に舞い戻ることになった。

 そうしてみんなでモニターを取り囲むと、ちょうどユーリがケージに上がったところである。その顔には、幸福そうな笑みが浮かべられたままであった。


「さー! ここまでやってやったんだから、きっちり勝ってもらわないとねー! 何せ今日は、赤コーナー陣営の全勝なんだからさ! これでピンク頭だけ負けたら、カッコつかないっしょ!」


 灰原選手はそのように騒いでいたが、瓜子は厳粛なる気持ちでユーリの姿を見守るばかりであった。

 他の人々も、おおよそは息を詰めてモニターを注視している。そんな中、リングアナウンサーの声が高らかに響きわたった。


『本日のメインイベント、第十試合! バンタム級、六十一キロ以下契約! 五分三ラウンドを開始いたします!』


 会場は、もちろん凄まじい歓声に包まれている。

 それらの歓声をあびながら、ユーリは純白に光り輝いていた。


『青コーナー。百五十六センチ。六十・九キログラム。柔術道場ジャグアル所属……香田、真央!』


 首から上だけは幼くて可愛らしい容姿の香田選手は、どこか恐縮しているような面持ちで頭を下げた。その背後のフェンスの向こうに見えるのは、兵藤アケミを始めとするセコンド陣だ。その中には、関西勢のよしみで雅も含まれていた。


『赤コーナー。百六十七センチ。六十一キログラム。新宿プレスマン道場所属……ユーリ・ピーチ=ストーム!』


 怒号のごとき歓声が、これまで以上の勢いで渦を巻いた。

 ユーリは同じ笑顔のまま両手を振りつつ、くるりとターンを切る。その動きの流麗さと力強さも、普段通りのユーリであった。


 レフェリーに招かれて、両者はケージの中央に進み出る。

 十一センチの身長差というのは、やはり顕著だ。ユーリがこれほど背丈の低い相手と相対したのは、エキシビションで対戦した鞠山選手ぐらいのはずであった。

 ただし背丈が低い分、香田選手は恐ろしく逞しい体型をしている。もともと彼女は無差別級に参戦していたし、四キロや五キロはリカバリーしているのだろう。可愛らしい童顔とは不釣り合いなぐらい、首も手足も胴体もどっしりとしており、岩のような筋肉が盛り上がっていた。


 だが――いまやユーリも、バンタム級に相応しい体格である。筋肉が筋肉に見えない特異体質は相変わらずであるものの、平常体重は六十五キロであるのだ。今回は一キロだけ肉を落とし、三キロ分はドライアウトで絞ってリカバリーした状態であった。


 真横からのアングルになると、やはり胸や尻の大きさが際立ってしまう。ピンクとホワイトのカラーリングであるハーフトップとショートスパッツの試合衣装も、この特異なプロポーションに合わせた特注品であるのだ。おまけに腰はくっきりとくびれているものだから、信じがたいほどの肉感的な曲線美が完成されていた。


 だが――やはり昨年までのユーリとは、まったく異なるシルエットである。

 もっとも際立っているのは、背中と太腿だ。横から見ると、ユーリの背中は欧米人のように分厚かった。優美なラインはそのままに、いっそうの肉感が増しているのである。

 そして太腿も、ひと回り大きくなっている。それがまた、肥大化したヒップと相まって超絶的な脚線美を作りあげているのだ。


(それで……これが全部、筋肉だっていうんだもんなぁ)


 体組成計で計測した結果、ユーリの体脂肪率は昨年と同じく八パーセントのままであった。女性としてはいささか危険なぐらい、ユーリは脂肪が少ないのだ。このように優美で色香とフェロモンの塊であるような姿をしていながら、ユーリは香田選手以上に筋肉の塊であったのだった。


 それが如何なる怪力を発揮するかは、稽古の場で示されている。

 あとは、試合の場でそれを証明するだけであった。


 レフェリーにうながされて、両名はグローブをタッチさせる。

 そうしてユーリは跳ねるような足取りでフェンス際に舞い戻り――そして、天を仰いで大きく息をついた。


『ラウンドワン!』のアナウンスとともに、試合開始のブザーが鳴らされる。

 大歓声の中、ユーリは正面に向きなおった。


 その顔からは、幸福そうな笑みが消え――瓜子が思わず息を呑むほどの、静謐な表情がたたえられた。

 なんだかまるで、弥勒菩薩のような――神々しいまでの静かな表情である。瓜子がユーリのそんな表情を見るのは、これが初めてのことであった。


 ユーリはふわりと両手を上げて、クラウチングのファイティングポーズを取る。

 そして、ケージの中央に進み出ると――その足取りは、いつも通りのぴょこぴょことしたステップであった。


 いっぽう香田選手はユーリよりも深く頭を沈めて、じりじりと前進してくる。

 ただでさえ身長で負けているのに、ユーリの蹴りを恐れている気配もない。小さな戦車を思わせる、力感にあふれた姿だ。


 ユーリは、間合いの外で足を止める。

 ユーリは手足が長いので、攻撃の射程差は身長差以上であるのだ。まずはそれを活かして、相手を近づけさせないのが最初の戦略であった。


 ただし、香田選手は踏み込みが鋭い。今は慎重に振る舞っているが、いざ攻撃に出る際には軽量級の選手を思わせる俊敏さであるのだ。


 まずはどちらが先に手を出すのかと、控え室には緊張の気配がたちこめる。

 動いたのは――香田選手である。香田選手はしっかり頭部をガードしながら、ユーリのアウトサイドに踏み込んだ。


 ユーリはすかさず、インサイドに飛び跳ねる。

 おそらくユーリは、左目を閉ざしているのだろう。相手が死角に踏み込もうとしたときは、問答無用で距離を取るか角度を変えるように言いつけられているのだ。


 ユーリが素早く身を引いたために、香田選手も手を出さずに引き下がる。

 そして今度は、インサイドに踏み込もうとした。


 ユーリは、左のインローを射出する。

 スピード重視の、軽い蹴りだ。それで左足を蹴られた香田選手はバランスを崩しかけたが、勢いを止めずに右フックを繰り出した。


 頭部をガードしたユーリの左腕に、香田選手の右拳がヒットする。

 ユーリがバックステップを踏むと、香田選手はさらに突進した。彼女の一番の持ち味は、この突進力であるのだ。


 すると――ユーリが、左ジャブを射出した。

 ジョンに鍛えられた、鋭い左ジャブだ。その左拳が、香田選手の鼻先をぱしんと叩いた。


 しかし、香田選手の突進は止まらない。

 そして、ユーリもそこで止まらなかった。ジャブを続けて二回放ち、そのまま右ストレートに繋げたのだ。


 ユーリはスタンド状態において、臨機応変に振る舞うのが大の苦手である。

 よってこれも、相手の動きと関わりなく発動されたコンビネーションであるのだろう。

 身長差が甚だしいために、最後の右ストレートは打ちおろしになっている。

 その右拳が、香田選手のガードをこじあけるようにして、顔面に叩き込まれた。


 それでも倒れない香田選手は、大したものである。太い首が、ユーリの攻撃の破壊力に耐えたのだろう。

 しかし、ユーリのコンビネーションはまだ終わっていなかった。

 右ストレートから、さらに左ボディにまで繋げられたのだ。


 相手が小柄であるために、レバーではなく右胸の脇あたりにユーリの左拳がめりこむ。

 肋骨で守られた、急所ならぬ位置だ。

 しかしそれでも、ユーリの怪力が正しいフォームによって増幅された、ハンマーのごとき一撃である。さしもの香田選手も苦しげに身を折って、後方に逃げようとした。


 だが――ユーリのコンビネーションは、まだ終わっていなかった。

 真っ白で肉感的な右足が、おもいきり振り上げられたのである。


 香田選手は後退していたが、ユーリの長い足の射程圏外までは到達していなかった。

 ユーリの右足の先端が、香田選手の左肩にヒットする。ユーリが放ったのはミドルの軌道であったが、ただでさえ小柄な香田選手が前屈みであったため、ミドルハイの打点になったのだ。


 その衝撃で、香田選手は大きくぐらついた。

 するとユーリは、静謐な表情で前進した。

 こんな顔をしたユーリに詰め寄られるというのは、いったいどんな心地であるのだろう。ユーリを応援している瓜子でさえ、思わず背筋を粟立たせてしまった。


 しかし香田選手も、並大抵の相手ではない。ユーリが攻撃のモーションを見せるより早く、香田選手は体勢を整えて、自らも前進した。

 その両腕が、ユーリの両脇にのばされる。テイクダウンを狙った、胴タックルだ。


 一瞬遅れて、ユーリは右膝を振り上げる。

 だけどやっぱり、ユーリは立ち技における反応が鈍い。その膝蹴りは勢いに乗る前に距離を潰されて、香田選手の腹を浅く叩くのみであった。


 そうして片足となったために、ユーリはあえなくバランスを崩してしまう。

 香田選手は足を掛ける必要もなく、そのままユーリをマットに押し倒した。


「あちゃー! でもまあ、グラウンドだったら、ピンク頭の庭だよね!」


 ひさかたぶりに、灰原選手が声を張り上げた。ここまで、誰もが息を詰めていたのだ。

 灰原選手の言う通り、グラウンドにおいてはユーリの反応速度が跳ねあがる。まんまとテイクダウンを取られてしまったが、その両足はしっかりと香田選手の太い胴体をからめ取っていた。下でも決して不利なだけではない、フルガードのポジションだ。


 そのとき――メイが「あ……」と声をもらした。

 いったい何があったのかと、瓜子は思わず身を乗り出してしまう。


 ユーリがマットに背中をつけて、香田選手がその上に覆いかぶさっている。ただそれだけの光景だ。香田選手は柔術茶帯の腕であるが、ユーリであれば互角以上の勝負を望めるだろう。


 そこで、カメラのアングルが反対の側に切り替わり――そこで瓜子は、メイのつぶやきの正体を知った。

 ユーリは相手の胴体を足で捕獲するばかりでなく、左腕を相手の首に巻きつけていたのだ。


 相手の首を後頭部の側から抱え込んだ、フロントチョークの形である。

 相手のタックルに対するカウンターとしては、定番の技であったが――ユーリがいつ相手の首を捕らえていたのか、瓜子はまったく認識できていなかった。


 ユーリはわずかに腰を切り、頭と背中の上部をマットから浮かせる。そうして左腕をさらに深く巻きつけ、今度は首を支点にしておもいきり身をのけぞらせると――香田選手は、すぐさま両手でユーリの身をタップした。


 レフェリーが手をかけるより早く、ユーリは技を解除する。

 香田選手は力なくマットに転がり、ユーリもぱたりと手足をおろして大の字の姿になった。


『一ラウンド、一分四十六秒! フロントチョークにより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の一本勝ちです!』


 控え室が、歓声に包まれた。

 だが――瓜子は、モニターから目を離せなかった。


 大の字で寝そべったまま、ユーリがぴくりとも動かないのである。

 その目はまぶたに閉ざされて、赤ん坊の寝顔のように安らかな表情であったが――それは、宇留間選手の腕をへし折って血の海に沈んだときと、同一の表情であった。


 瓜子の心臓が、嫌な感じに高まっていく。

 モニターでは、レフェリーがいぶかしそうにユーリの肩を揺すっていた。


 それでもユーリは、動こうとしない。

 そうして瓜子が、パイプ椅子から腰を浮かせたとき――ユーリのまぶたが、ぱちりと開かれた。


 ユーリはぴょこんと半身を起こし、寝起きの子供みたいにきょろきょろと周囲を見回す。マットに膝をついたレフェリーが何事か話しかけると、ユーリはこくこくとうなずきながら、何事もなかったかのように立ち上がった。


 あらためて、レフェリーはユーリの右腕を上げる。

 客席は、さらなる歓声に包まれて――瓜子はがっくりと、パイプ椅子にもたれることになった。


(なんだよ、もう……あんまり心配させないでよ)


 モニター上のユーリは、幸せそうに微笑んでいる。

 子供のように、無邪気な笑顔だ。試合中の静謐な表情も、すっかり消えてなくなっていた。


「よし、それじゃあ閉会式だね。あらためて、桃園をお祝いしてやろう」


「ふーんだ! あたしらだって勝ったんだから、おたがいさまだけどねー!」


 女子選手の一行はやいやい騒ぎながら、控え室を出ていく。

 そんな中、赤星弥生子が身を屈めて瓜子に囁きかけてきた。


「今のは一瞬、胆が冷えたね。猪狩さんは、大丈夫かな?」


「え? ああ……弥生子さんも、気づかれたんですね」


「うん。試合が終わった瞬間、宇留間選手との一戦が脳裏によぎってしまったよ。試合内容には何もおかしなことはなかったから、きっと心配する必要はないのだろうけれど……」


「はい。明日も山科医院で定期健診なんで、念入りに診てもらいます」


「そうだね」と、赤星弥生子はやわらかく微笑んだ。


「それじゃあ、猪狩さんも向かうといい。桃園さんも、首を長くして待ってるよ」


 瓜子も「押忍」と笑顔を返して、朋友たちを追いかけた。

 入場口の裏手に到着したならば、ユーリの勝利者インタビューが終わるのを待って、花道へと足を踏み出す。客席には、まだ大変な歓声が渦巻いていた。


 小笠原選手たちは、続々とケージに上がっていく。

 それを横目に、瓜子は入り口の横手に控えていたサキに声をかけた。


「あの、サキさん。ユーリさんは大丈夫でしたか?」


「ああ。とりあえず、プロテインやら何やらは必要ねーとよ」


「そうっすか」と、瓜子はもういっぺん胸を撫でおろした。

 そうしてケージに上がっていくと、ユーリを取り囲んでいた人々がさっと道をあけてくれる。その気遣いに気恥ずかしさを覚えつつ、瓜子はユーリのもとを目指した。


「ユーリさん、おめでとうございます。身体のほうは、大丈夫っすか?」


 ユーリは果てしなき無邪気さで、「うん!」とうなずいた。


「実は、試合が終わると同時におねんねしてしまったのだけれどね。おなかは適度にぺこぺこなぐらいだし、ユーリは絶好調ですわん」


「え? それじゃあ、意識を失ってたってことですか? ちっとも大丈夫じゃないじゃないですか!」


「うみゅ。幸せのあまり、卒倒してしまったのかしらん。楽しい試合の記憶も夢だったのかと思って、ユーリも心配になってしまったのだけれども……どうやらこれも、夢ではないみたいだねぇ」


 と、ユーリの笑顔が精霊のように透き通ったものに変じた。

 瓜子は胸を詰まらせながら、「もう」とその髪を引っ張ってみせる。


「自分だって、心配したんすよ。明日は入念に検査してもらいますからね」


「うん。うり坊ちゃんが見守ってくれるなら、どんなねちっこい検査でも耐えてみせるのです」


 やっぱりユーリは、いつも通りのユーリであった。

 瓜子の中に残されていた最後の不安も、それでようやく溶けていく。それにつれて、これまで抑圧されていた喜びの思いが胸の中にわきかえってきた。


 ユーリは文句のつけようのない勝利で、復帰試合を飾ることができたのだ。

 高橋選手と互角の勝負を演じていた香田選手に、初回でノーダメージの一本勝ちである。ユーリの勝利を信じていた瓜子にとっても、これは期待以上の結果であった。


 そんなユーリの勝利を祝福する歓声が、会場中に吹き荒れている。

 懇意にしている女子選手たちも、犬飼京菜という例外を除けば、みんな笑顔だ。 

 それらの思いに呼応して、瓜子はようやく喜びの涙を流すことになったのだった。

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