ACT.2 Groundwork

01 始動

《アトミック・ガールズ》の九月大会で、ユーリは完全復活を果たすことができた。

 香田選手という確かな実力を持つ選手を相手に、初回のラウンドで無傷の一本勝ちをおさめてみせたのだから、文句のつけようのない結果であろう。


 唯一の気がかりは、試合を終えると同時に意識を失ってしまった点であるが――試合の翌日に行われた定期健診でも、まったく問題は見られなかった。瓜子が口を出すまでもなく、山科医院における定期健診というのは精密検査と呼ぶに相応しい内容であったのだが、それでもいっさい異常は見受けられないという診断であった。


「どの数値も、すべて平常の範囲内だね。あえて言うなら、この体脂肪率でまったく悪い影響が出ていないというのが不思議なところだけれども……それは、入院前からそうだったという話だしねぇ」


 山科院長はのんびりとした笑顔で、そう言っていた。ユーリは以前から試合後に精密検査を受ける機会が多かったので、そういうデータもきちんと取り寄せた上で吟味してくれているのだ。


「減量に関しても、身体に大きな負担はかかっていないようだね。ただし、落とす体重が増えれば増えるほど身体への負担も増していくはずだから、平常体重が増えすぎないように気をつけてね」


「はいぃ。これより肥え太ってしまったら、他の業務にも支障が出てしまいますのでぇ」


 と、山科医院における診察も和やかに終了した。

 試合の翌日はモデルの仕事もお休みをいただいているし、コーチ陣から稽古をつつしむように言い渡されていたため、午後の時間はまるまるオフである。瓜子とユーリは自宅のマンションでのんびりくつろぎ、おたがいの心を満たすことに相成った。


 そして、翌日からは副業と稽古の再開であるが――この日から、瓜子の生活は小さからぬ変化を迎えることになった。ついに《アクセル・ジャパン》の開催がひと月後に迫ったため、それに向けて準備を始めることになったのだ。


 肝要なのは、ただ一点。試合の開始時間についてである。

《アクセル・ジャパン》は日本で開催されるが、十四時間ばかりの時差がある北米においてもリアルタイムで放映される。そちらの放映時間に合わせて、興行の開演が午前九時に設定されているのだった。


 瓜子の出番はメインカードの第三試合であるため、試合の開始は正午に近くなってからであろうが、試合前のメディカルチェックやルールミーティングなどは開演の前に行われるのである。出場選手に通達された集合時間は午前六時であったので、午前の五時前にはマンションを出発しなければならないわけであった。


「いっそのこと、試合の前日は会場の近所のホテルに前乗りするべきかもな。しかしそれでも五時半ぐらいには起きる必要があるだろうし、それから数時間でベストの動きができるように調整しなけりゃならんわけだ。体内時計の調整に失敗したら、本来の実力を発揮できねえからな。人生の大一番と思って、何とか踏ん張ってくれや」


 立松はそのように言っていたし、瓜子も《アクセル・ジャパン》に挑むと決めたからには全力で取り組む所存であった。


 それにしても、これはなかなか難儀な話であろう。仮に起床時間を午前五時半に設定して、七時間の睡眠時間を確保するとなると、午後の十時半には就寝しなければならないわけである。そうして就寝の時間を二時間ばかりも前倒しにしながら、午前中にベストの動きができるように調整しなければならないわけであった。


 そこで最初のネックとなるのは、やはり副業の業務である。しかしそちらも前々から千駄ヶ谷に事情を通達していたので、最大限に便宜をはかってもらうことができた。


「かえすがえすも、それがユーリ選手の復帰試合の後であることは幸いでした。その時期であれば、モデル活動を制限しても問題はないでしょう」


 そのように語る千駄ヶ谷は、あくまで瓜子とユーリをセットで考えていた。ユーリ単独の撮影でも、瓜子は必ず同行するようにと申しつけられていたのである。


「猪狩さんが不在では、ユーリ選手の気力が著しく減退する恐れもありましょう。それでは健康面にも不安が生じますし……被写体としてのクオリティにも影響が出ないとは限りません」


 それはあまりに大仰な物言いであるように思えなくもなかったが、瓜子も単身でユーリを撮影の仕事に向かわせるのは心配でならなかったので、千駄ヶ谷の配慮はありがたい限りであった。


 ただし、モデル活動は限界いっぱいまで制限できても、音楽活動はそうもいかない。『トライ・アングル』は、これから三ヶ月連続で新曲のリリースとワンマンライブという日程が詰まっているのだ。それらの業務だけは、決して二の次にすることはできなかった。


 しかしまあ、九月のライブは一週間後の話であるし、十月のライブは《アクセル・ジャパン》の開催日より後となるので、尽力するべきは十月にリリースされる新曲にまつわる業務である。新曲のレコーディングもジャケット撮影もミュージックビデオの作製も、すべて《アクセル・ジャパン》の前に仕上げなければならないわけであった。


「そっちの業務も、みんな午後の早い時間に詰め込んでもらえましたからね。自分の都合で『トライ・アングル』のスケジュールを組んでいただくなんて、恐れ多いばかりですけど……」


「でもでもうり坊ちゃんがいなかったら、ユーリばかりでなくメンバーみなさまの士気がダダ下がりだろうからねぇ。こればかりは、致し方ないのでぃす」


 そんなやりとりを経て、瓜子は生活の改変に取り組むことになったわけであった。


                  ◇


 その皮切りとなる、九月の第三火曜日――《アトミック・ガールズ》九月大会の二日後である。

 なるべく早寝を心がけた瓜子は、午前の六時に起床した。

 これぐらいの早起きは、普段から日常茶飯事である。まずは無理なく身体を慣らして、ひと月後にベストコンディションを目指す所存であった。


 ユーリと二人で眠い目をこすりながら朝食をとり、午前の六時半にはマンションを出る。すると、約束通りに隣の部屋からもメイが現れた。


「おはようございます。メイさんは、朝からお元気そうっすね」


「うん。少し眠いけど、問題ない」


 メイも《アクセル・ジャパン》に出場するのだから、もちろん体内時計の調整に取り組んでいるのだ。なおかつ、副業を抱えていないメイはさらに大きく生活時間をずらす計画を立てていた。


「僕、午後九時、就寝して、午前四時、起床するつもり。瓜子たち、以前の予定のまま?」


「はい。そこまで極端に生活時間をずらすのは負担が大きそうなので、ほどほどの早起きでコンディションを整える方向を目指します」


「うん。重要なのは、試合の時間、ベストの動き、目指すことだから。午前中の稽古、重要だと思う」


 そういったわけで、瓜子たちはこんな早くから道場を目指しているわけである。

 ただし、通常であれば道場のオープンは午前十時だ。それでも瓜子たちは立松やジョンに無理をさせることなく稽古を積むことができる裏事情を備え持っていた。


 道場に到着すると、そこには裏事情の主たちが待ちかまえている。

 卯月選手、レム・プレスマン、リューク・プレスマン、ビビアナ・アルバ――そして、篠江会長に早見選手――これこそ、本家チーム・プレスマンの面々であった。


 ずっと日本に滞在していたリューク氏とビビアナを除くメンバーは昨晩北米から到着して、そのままあちらの生活時間で動いているという話であるので、早朝とは思えないような活力をみなぎらせている。それにやっぱりこれだけのメンバーが一堂に会するというのは、なかなかの迫力であった。


「よう、やっとおでましか。こっちはすっかり、ウォームアップも完了したところだぞ」


 まずは篠江会長が、厳つい顔に不敵な笑みをたたえてそのように告げてくる。その目は真っ先に、ユーリの姿をとらえた。


「その前に、まずは再会の挨拶か。生身で挨拶をするのは、これが初めてだもんな」


「はいぃ。その節は多大なご迷惑をおかけしてしまいまして……」


 ユーリがフレアハットを外して純白の頭を下げると、篠江会長は苦笑しながら手を振った。


「謝罪の言葉は、もう腹いっぱいだよ。画面で見るよりいっそう元気そうで、何よりだ」


 ユーリは退院してすぐ、道場のノートパソコンのビデオ通話で、篠江会長に挨拶をしていたのだ。北米でユーリの面倒を見てくれていたのは篠江会長であったのだから、それが当然の話であろう。あちらでユーリが入院していた際、もっとも大きな苦労を背負っていたのは篠江会長であるはずであった。


「それに……やっぱり色気も倍増してやがるな。卯月の焼けぼっくいに火がついちまいそうだ」


「いえ。俺のユーリさんに対する思いは過去から現在に至るまで何の変化もしていませんので、その表現は不適切であるかと思います」


 頑健な肉体でお地蔵様のような面持ちをした卯月選手が、平坦な声でそのように口をはさんだ。

 瓜子が卯月選手と再会するのは一月以来であるが、ユーリにとっては去年の十一月以来だ。それでまた、ユーリはぺこぺこ頭を下げることになった。


「卯月選手も、おひさしぶりでございますぅ。転院やら何やらでさんざんご迷惑をおかけしたのに、すっかりおわびが遅れてしまって……」


「いえ。俺は自分の思惑に従って行動しただけですので、ユーリさんが頭を下げる必要はありません」


「でもでも、卯月選手のお気遣いがなかったら、ユーリは今ごろ灰と化していたでしょうし……」


「そんな行く末を回避できて、心より嬉しく思っています。これから一ヶ月間、どうぞよろしくお願いいたします」


 卯月選手も《アクセル・ジャパン》に出場するため、またプレスマン道場で最後の調整に取り組むことになったのである。それでプレスマン道場は、このような早朝から関係者限定でオープンしているわけであった。


 ちなみに早見選手は出場しないが、卯月選手のスパーリングパートナーとして同行したらしい。それ以外にも数名、トレーナーや練習相手と思しき外国人の方々が集っていた。


「ユーリ・サン、ウリコ・サン、ヒサしぶりです。おゲンキ、ナニよりです」


 と、たどたどしい日本語でレム・プレスマンも発言する。もしゃもしゃの金髪で、赤鬼のごとき赤ら顔で、どっしりとしたあんこ型の巨体で、マフィアのボスのような迫力で――ただ、笑い皺の刻まれた目もとにだけ無邪気そうな情感のにじむ、プレスマン道場の真の支配者である。肩書きの上では名誉顧問に過ぎないが、篠江会長も立松もジョンも卯月選手も、すべてレム・プレスマンを慕って集まった精鋭であるのだった。


 こうして並べてみると、やはりリューク氏との貫禄の差は歴然である。しかしまあ、父と息子であればそれが当然なのだろう。リューク氏もそれなりの貫禄であるが、年齢は卯月選手と大差ないはずであるのだ。


「それで……そちら、メイ・サンです。おアいできて、コーエイです」


 レム・プレスマンに青い目を向けられたメイは、引き締まった面持ちで一礼した。メイだけは、レム・プレスマンと初対面であるのだ。


「メイさんも、素晴らしいファイターですよ。これから一ヶ月、楽しい時間になりそうですね」


 父親よりも遥かに日本語が達者なリューク氏が、そのように声をあげた。


「まあ挨拶はこれぐらいにして、ユーリさんたちも準備をどうぞ。こちらは先に、稽古を始めていますので」


「はぁい。どうぞよろしくお願いいたしますですぅ」


 平身低頭のユーリとともに、瓜子とメイも更衣室を目指す。

 そちらで純白の裸身をさらしながら、ユーリは「ふいー」と息をついた。


「にゃんだか申し訳なさのあまり、げっそりやつれてしまった心地だわん。数百グラムぐらい、スリムになれたかしらん?」


「こうして拝見する限り、その気配は皆無っすね。でもまあ篠江会長たちも笑顔で出迎えてくれたんですから、そこまで気にする必要はないっすよ。どんな苦労も、ユーリさんの元気な姿を見れば吹き飛んじゃうでしょうしね」


「にゅはー。うり坊ちゃんの優しきお言葉が、ユーリのココロをめろめろに溶かしていくのですぅ」


 ユーリは色香のあふるる肢体をくねらせながら、瓜子の二の腕をつついてきた。


「そうして申し訳なさが遠のいていくと、ユーリの浅ましき本性がむくむくと頭をもたげてきちゃうにゃあ。今日からまた、卯月選手とエツラクに満ちたスパーリングに取り組めるのだものねぇ」


「うん。ユーリ、羨ましい。もっと体格が近かったら、僕もお願いしたかった」


「ええ。自分たちは、ユーリさんより十キロ以上も軽いっすもんね」


「むにゃー! スマート自慢は禁止なのです!」


 そうして更衣室で騒いでいる間に、ユーリはどんどん元気になっていった。

 やがて稽古場に戻ってみると、卯月選手たちはさっそくグラップリング・スパーに励んでいる。そして瓜子たちのもとには、リューク氏とビビアナが近づいてきた。


「とりあえず、ぼくたちがみなさんのコーチをする役目を承りました。トレーニングの内容によって修市さんと交代しますので、ご了承ください」


 修市とは、篠江会長のファーストネームである。もちろんお世話をかけるばかりである瓜子たちに、文句をつける理由や資格は存在しなかった。


(でもまあ本来なら、篠江会長が最優先であたしたちの面倒を見るべきなんだろうしな)


 瓜子たち三名の女子選手と篠江会長および早見選手は新宿プレスマン道場の所属、そしてリューク氏とビビアナは卯月選手個人のトレーナーであるレム・プレスマンの一派であるのだ。たとえ根っこは繋がっていても、名目上は異なるチームであるのだった。


「あの、まったく今さらの話なんですけど……レムさんや卯月選手は、どこのジムにも所属しないまま独自に活動してるんすよね?」


 ウォームアップの合間に瓜子が問いかけると、リューク氏は「ええ」と笑顔でうなずいた。


「現在は、三つのジムを転々としながら稽古を積んでいますね。修市さんたちが北米の拠点にしているフロリダのMMAマキシマムというジムも、その内のひとつです」


「なるほど。北米では、そういうスタイルで活動している選手も珍しくないんすか?」


「普通であれば自分のジムを立ち上げるでしょうから、どちらかといえば珍しい部類なのでしょうね。父も卯月さんも、根無し草の生活が合っているようです」


 そんな風に言ってから、リューク氏はいっそうにこやかに微笑んだ。


「ちなみに父のチームは、チーム・プレスマンと呼ばれているのですが……日本では、瓜子さんたちがそう呼ばれていたそうですね」


「あ、はい。最近はあまり聞かなくなりましたけど、出稽古で女子選手が集まり出した当初はそんな風に呼ばれていました」


「同じ姓を持つぼくも、何だか誇らしい気持ちです。父も、ガールズ・チーム・プレスマンの面々に会えるのを楽しみにしていますよ」


「あはは。女子選手のみなさんも、無理のない範囲で午前中の稽古につきあってくれると言ってくれました。今日も十時前後ぐらいに、何人か来てくれるはずです」


「ええ。瓜子さんたちにとっては、それらの方々との合同トレーニングが大きな力になっているのでしょうからね。まさしくチームメイトの名に相応しい絆を育んでこられたのでしょう」


 そんな笑顔でそんな言葉を聞かされたら、瓜子の胸も温かくなるばかりである。

 そうして心とともに身体も温まると、早見選手とのスパーを切り上げた卯月選手が真っ直ぐこちらに向かってきた。


「ウォームアップは完了しましたか? ユーリさん、よければスパーをお願いします」


「あれ? それはこちらの基本稽古が済んでからという話ではありませんでしたか?」


 リューク氏がきょとんとした顔で言葉を返すと、卯月選手お地蔵様めいた無表情のまま「ええ」とうなずいた。


「ただ俺もずっとユーリさんとのスパーを楽しみにしていたので、とにかく一度手合わせをしないと稽古に集中できそうにないのです。レムさんには了解を得ましたので、どうかよろしくお願いします」


「はいはぁい。ユーリのほうこそ、ありがたい限りですぅ」


 ユーリは尻尾を振りたてるゴールデンリトリバーさながらである。

 いっぽう卯月選手に心を寄せているというビビアナは、果てしなき仏頂面だ。日本語が理解できずとも、おおよその状況は理解できるのだろう。そんな両名の姿を見比べつつ、さしものリューク氏も苦笑を浮かべた。


「父がオーケーを出したのなら、しかたありませんね。でも、ユーリさんがこんな早朝から稽古に取り組むのは初めてであるそうですので、くれぐれも無理をさせないようにお気をつけください」


 そうして、ユーリと卯月選手のグラップリング・スパーが開始された。

 瓜子がそのさまを目の当たりにするのは、二年以上ぶりであろう。それだけの時を経て、両名のスパーはいっそうの力強さと優美さを増していた。


 ユーリは早朝とも思えない身のこなしであるし、ウェイトアップによって力感が増している。それをしっかり受け止めつつ、決して体重やパワーで押し潰そうとしない卯月選手は、ダンスパートナーさながらだ。たとえ男子選手であろうとも、そのような真似のできる人間は決して多くないはずであった。


「……桃園は本当に、去年のダメージを引きずってないみたいだな」


 と、いつの間にか瓜子の隣に忍び寄っていた早見選手が、そのように語りかけてきた。

 早見選手はプレスマン道場のエースであるが、生活のほとんどを北米で過ごしているため、瓜子とは挨拶ていどの間柄となる。面長の引き締まった顔立ちで、黒髪を短く切りそろえた早見選手は、鋭い眼差しでユーリたちのスパーを見守っていた。


「ウェイトが上がったのに、動きはむしろキレてるみたいだし……北米で面倒を見てやったときなんかは、ずいぶんコンディションが悪そうだったしな。今だったら、あのふざけたお面野郎でも正面からぶっ倒せるだろうよ」


「押忍。おかげさまで、一昨日の試合も問題なく勝つことができました」


「ああ。できれば今の状態で、《アクセル・ファイト》にチャレンジさせてやりたかったな」


 早見選手がずいぶん親身になってくれているため、瓜子は何だか胸が詰まってしまった。

 すると、早見選手はいくぶん眉をひそめながら、低めた声で囁きかけてくる。


「ところで……お前はあいつのマネージャーみたいなもんなんだよな?」


「はい? ええまあ、あくまでタレントとしてのユーリさんのマネージャー補佐ですけど……」


「だったら……お前のコネで、今週末のライブのチケットとかどうにかできるのか?」


 瓜子がまじまじと見返してしまうと、早見選手は引き締まった頬に血の気をのぼらせた。


「俺じゃなくて、俺の彼女があいつのバンドのフリークになっちまったんだよ。でも、チケットは速攻で売り切れになっちまって……なんとかできねえかって泣きつかれたんだ」


「そ、そうっすか。上の人に聞いてみないと、何とも言えませんけど……もしOKをもらえたら、何人分っすかね?」


「……ライブ会場に、女ひとりで行かせられねえだろ。俺の彼女は、日本語だってカタコトなんだからな」


 瓜子は笑って、「承知しました」と答えてみせる。

 そのとき、どよめきがあげられた。瓜子が慌てて振り返ると、下の体勢からアームロックを極めていたユーリが技を解除したところである。呆れたことに、ユーリは卯月選手からタップを奪ってしまったようであった。


「やられました。ユーリさんは、本当に地力を上げていますね」


「とんでもないですぅ。卯月選手が本気を出していたら、腕を取られる前にエスケープできてましたよねぇ?」


「これは俺にとってテクニックを磨くためのスパーであるのですから、力ずくで逃げていたら意味がありません。では、もう一本お願いいたします」


 そんな言葉を交わしたのち、両者はスパーを再開させた。

 もちろん卯月選手はパワーの行使を控えてのスパーであるのだから、実力通りの結果ではないのだろうが――しかしかつてのスパーでは、ユーリがタップを奪うことなど一度としてなかったのだ。


 ユーリは、確実に進化している。

 早見選手との会話で温かくなっていた瓜子の心には、新たな熱と喜びが宿されることに相成ったのだった。

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