06 激励

「どーよ! あたしも初回で仕留めてみせたよー! うり坊より派手なKOだったっしょー?」


 控え室に凱旋した灰原選手は、満面の笑みでそのように自慢していた。

 よくよく考えると、灰原選手はこれで黄金世代のトップファイターに三連勝であるのだ。しかも、すべての試合が一ラウンドKO勝利でダメージらしいダメージも負っていないのだから、呆れる話であった。


(あたしはまだ山垣選手と対戦してないし、鞠山選手なんかはこの二年ぐらい黄金世代の三人と再戦する機会がなかったもんな。ある意味、一番堅実に実力を示してるのって、灰原選手なんじゃないかな)


 しかしまた、瓜子と鞠山選手はそんな灰原選手やイリア選手に勝利しているため、世間的には格上と見なされている。これも対戦の組み合わせの妙というものであった。


 ともあれ――灰原選手が戻ってきたということは、ユーリが出陣する時間である。

 それを見送るために瓜子が立ち上がると、サキがずいっと顔を近づけてきた。


「瓜。おめーもイレズミ女に興味津々か?」


「え? それって、ジジ選手のことっすか? それはまあ、ウェイトを上げたジジ選手がどんな試合を見せるのかは気になりますけど……しかも相手は、高橋選手ですしね」


「ほうかい。そんなら、モニターにかじりついてろや」


 サキのそんな言葉が、瓜子に思考を強いてきた。

 この時間、試合の観戦の他に為すべき事柄が存在するだろうか?

 あるとすれば――答えは、ひとつしか存在しなかった。


「あの、立松コーチ、自分も入場の直前までご一緒させてもらってもいいですか?」


 ユーリを廊下に送り出そうとしていた立松は、「あん?」と片方の眉を上げた。


「そりゃあもちろんかまわねえが、桃園さんの集中が乱れるようだったら、控え室に引っ込んでもらうぞ」


「えーっ! うり坊ちゃんも一緒に来てくれるのぉ? そんなの、申し訳ないよぅ」


 などと言いながら、ユーリはご褒美を前にしたゴールデンリトリバーさながらの面持ちになっている。ここで瓜子が前言を撤回したらどれほどしょげてしまうかと心配になるほどであった。


 そうしてサキの回りくどい誘導に従って、瓜子はユーリ陣営とともに控え室を出る。それに気づいた人々も、冷やかしの声をあげることなく温かい目で見守ってくれた。


 入場口の裏手は、すでに無人である。ユーリは心から幸福そうな面持ちでジョンの構えたミットを蹴り始め、サキは扉の内側にスタンバイした。


「試合模様は、あたしが適当に解説してやんよ。あたしもあのイレズミ女は気にならなくもねーからなー」


「ああ。あいつもまた、桃園さんと同じ階級に乗り込んできたわけだしな。しかしまあ、今は目前の試合だ」


 そのように語る立松とともに、瓜子もユーリのウォームアップを見守った。

 とりあえず現時点では飢餓感に見舞われていないようなので、瓜子はほっとする。試合直前にプロテインドリンクやらカロリーバーやらを大量に摂取することになったら試合にも影響が出てしまうだろうし、そもそもそんな状態でケージに送り込むのは心配でならなかった。


 しかしそんな瓜子たちの心配を跳ね返すように、ユーリは輝くような生命力をほとばしらせている。

 動くたびにきらめく純白の髪も、うっすらと汗を浮かべた白い肌も、美しいばかりだ。何よりその瞳の輝きが、瓜子の心を深く満たしてくれた。


 そんな中、サキの試合実況が開始される。

 まあ、そこまで細かい内容を語る手間はかけなかったが――とりあえず、初回のラウンドは何事もなく進行しているようであった。


「おたがい、手の内を探ってる感じだなー。イレズミ女も、ずいぶん落ち着いたもんだ」


 かつてのジジ選手は、とにかく荒々しい乱打戦で相手を叩き潰すスタイルであったのだ。ユーリとの試合から、もっと繊細に試合を組み立てるようにスタイルチェンジしたようであったが――《アトミック・ガールズ》では、それで連敗を喫したわけであった。


「しかし海外の試合では、ずっと勝ち星を積み上げてきたみたいだしな。ハンサム・ブロイが、きっちり鍛えてやってるんだろう」


 ユーリのもとに視線を固定しつつ、立松はそんな風に語っていた。

 戦況が変わったのは、第二ラウンド――おたがいにギアを上げて、手数が多くなったようである。そこで優勢を取ったのは、ジジ選手であった。


「やっぱ、基本のパワーが違うわな。でかぶつ女も踏ん張ってるが、ちっとばっかり苦しそうだ」


 しかしまた、高橋選手も卓越した立ち技の技術でしのいでいるのだろう。それに、リーチでは高橋選手がまさっているはずであった。


「たしか、でかぶつ女のほうが七センチばかりでかいんだっけか。そのリーチ差で、なんとか命拾いしてる感が否めねーな。真正面からぶつかると、パワー差は歴然だ」


 高橋選手は上の階級から、ジジ選手は下の階級から、それぞれバンタム級に転向した身となる。であれば本来、高橋選手のほうがパワーでまさりそうなものだが――そこはやっぱり、骨格や筋肉の質の違いなどで差が出てしまうのだろうと思われた。


「お、イレズミ女の右フックでダウンだ。グラウンドには……いかねえな。でかぶつ女も元気そうだから、こりゃフラッシュダウンだ」


 そんな風に言ってから、サキが「おっ」と感心したような声をあげた。


「でかぶつ女のタックルで、イレズミ女が尻もちをついたぞ。すぐに立ったからポイントはつかねーだろうが、これで流れが変わるかもな」


 流れが変わるというよりも、ダウンを取ったジジ選手が優勢を保持できず、五分の状態に戻されてしまったらしい。高橋選手の組み技に警戒して、手数を抑えたようだ。


「しかしまあ、このラウンドのポイントはイレズミ女のもんだしな。逆に、イレズミ女の冷静さが目につくぜ」


「ついにあいつも、セコンドの声が聞こえるようになったんだろうな。ハンサム・ブロイってのは、もともと北米のスタイルを研究し尽くしてるんだからよ。本来は、堅実すぎるぐらい堅実なはずだ」


 と、サキの言葉に反応するのは、立松ばかりである。

 ユーリは一心にウォームアップに取り組み、瓜子は一心にそのさまを見守った。


 そして、最終ラウンド――高橋選手はテイクダウンのフェイントを織り交ぜながら、なんとか五分の戦況を保っているようである。生粋のストライカーである高橋選手も、天覇館とプレスマン道場の双方で、組み技や寝技にも磨きをかけているのだ。


「だけど、イレズミ女のディフェンスもかてーな。本当に、北米のファイターさながらだぜ」


 そうして、着々と時間は過ぎていき――最終ラウンドの中盤に差し掛かったところで、サキが再び「おっ」と声をあげた。


「イレズミ女が、ラッシュを仕掛けやがったぞ」


「なに? 高橋さんじゃなく、あっちが先に動いたか」


「ああ。でかぶつ女は出鼻をくじかれた格好だなー。こいつはちょいと、やべーかもしれねーぞ」


 もとよりジジ選手の突進力と破壊力は、脅威的だ。どれだけ堅実なファイトスタイルを身につけようとも、本来の資質が減退するいわれはなかった。


「お、ダウンだ。……イレズミ女がな」


「なに? もっときっちり解説しろよ」


「立松っつぁんこそ、熱くなってんじゃねーか。……でかぶつ女もダウン寸前だったけど、カウンターで右フックをくらわせたんだよ。そのまま上を取って、グラウンド戦だ」


 その後はさしたる変化もないまま、一分ぐらいの時間が過ぎる。もう試合時間は、ほとんど残されていないはずであった。


「ようやくイレズミ女がエスケープしたけど、どっちもへろへろだな。このまま終われば、このラウンドはでかぶつ女のもんだけど……それで勝てるかは運頼みだなー」


 一ラウンド目は甲乙つけがたく、二ラウンド目はジジ選手、三ラウンド目は高橋選手が優勢ということになるのだ。これは先刻の、マリア選手と沖選手の一戦にも通ずる展開であった。


「おっと、おたがいへろへろで乱打戦の再開だ。こりゃー当たったもん勝ちだなー」


 そんな言葉を最後に、試合終了のブザーが鳴らされた。

 サキは「やれやれ」と首を回す。


「けっきょく、タイムアップだ。ま、最後まで退屈することはなかったなー」


「ああ。お前さんの雑な解説でも、ジジ選手の地力が伝わってきたよ。あいつが勢いまかせじゃないスタイルをきっちり身につけたんなら、昔よりいっそう厄介だろう」


 そうして、そののちに発表された判定の結果は――2対1のスプリットで、ジジ選手の勝利であった。

 黙々と身体を動かしていたユーリは、「ふいー」と息をつく。


「高橋選手、負けちゃいましたかぁ。残念でしたねぇ」


「なんだ、きっちり聞いてやがったのかよ。相の手のひとつもはいらねーから、ミットを蹴りながら寝てるのかと思ってたぜ」


「にゅはは。ユーリはうり坊ちゃんの眼差しを死守するために、ウォームアップに集中していたのでぃす」


 そう言って、ユーリはにこりと微笑んだ。

 すると――廊下の向こうから、たくさんの人影が近づいてくる。それは、懇意にしている女子選手の一行であった。

 愛音にメイに蝉川日和、灰原選手に多賀崎選手、鞠山選手にオリビア選手、小笠原選手に小柴選手、赤星弥生子に犬飼京菜、マリア選手に大江山すみれ――本日出場した八名に、セコンド役であった五名まですべて居揃っている。


「ど、どうしました? こちらで騒がれると困るのですが……」


 スタッフの若者が困惑して声をあげると、鞠山選手がすました面持ちで「おかまいなくだわよ」と応じた。


「ただの見送りだから、騒ぐ理由はないんだわよ。あんたたちも、肝に銘じるだわよ」


「はいなのです! 決してご迷惑はおかけしないのです!」


「その声量を控えるべしと言ってるんだわよ」


 愛音は慌てて口をつぐみ、一心にユーリを見つめた。

 ユーリは困ったように、「にゃはは」と笑う。


「こんな総出で見送られたら、ユーリは恐縮してしまうのですぅ。どうぞみなさん、控え室でおくつろぎいただきたいのですぅ」


「でもやっぱり、こいつは記念の一戦だからさ」

「ああ。こんなのは今回限りだから、気にしなさんな」

「ふふーん。うり坊とのスイートな時間を邪魔されて、内心迷惑がってるんじゃないのー?」

「と、とにかく頑張ってくださいね、桃園さん。いつも通りの力を出せれば、きっと結果がついてくるはずです」

「うんうん。ユーリだったら、絶対に勝てますよー」

「そうッスよ。桃園さんは、化け物みたいに強いんスから」

「はい。わたしもユーリさんが勝つって信じてます」

「プレッシャーをかけるわけではありませんけれど、ユーリさんが香田さんに負ける図というのは想像つきませんね」


 たくさんの人々が、そんな言葉でユーリを激励してくれた。

 そして無言の人々は、優しい眼差しでユーリを見つめている。メイや赤星弥生子は、そちらの陣営だ。

 そしてユーリが「にゅはー」と自分の頭をかき回したとき、ジジ選手の陣営が凱旋してきた。


 さすがのジジ選手も、ぎょっとしたように立ちすくむ。その顔はこれまでの激闘を証明するかのように、あちこち内出血していた。


「……ユーリ・モモゾノ。******。***。********」


 と、ジジ選手はフランス語と思しき言語で何かを語り、傷だらけの顔で不敵に笑った。

 そして、グローブを外してバンテージだけが巻かれた右拳が、ユーリのほうに差し出される。ユーリはたいそう恐縮しながら、グローブの拳をちょんと触れさせた。


「ユーリ選手の健闘を祈ると言っています。また、わたしも同じ心境です」


 マテュー氏が穏やかな笑顔でそのように告げて、自らもユーリのグローブに拳をあてて、ジジ選手とともに人垣をすりぬけていった。

 その後は、女子選手の一行もひとりずつユーリのグローブに拳を当てていく。ユーリの接触嫌悪症を知る人々は、ごくひかえめなタッチであったが――瓜子は何だか、胸が詰まってやまなかった。


「みなさん、ありがとうございます……ユーリは、頑張ってきます」


 ユーリは雪の精霊のごとき微笑みをたたえて、ぺこりと一礼した。

 それから、もじもじと身をくねらせつつ、瓜子のほうを振り返ってくる。瓜子はセコンド陣の側に控えていたので、グータッチの輪に加わっていなかったのだ。


「頑張ってください、ユーリさん。この後は、モニターで見守りますからね」


 瓜子が右拳を差し出すと、ユーリは無垢なる笑顔を取り戻して「うん」と拳で触れてきた。

 そして、扉の向こうからユーリの名を呼ぶアナウンスが響きわたり――ついに、ユーリの復帰試合が開始されたのだった。

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